★★ 邪馬台国は【葛城】である【4】 ★★
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邪馬台国は葛城である。
葛城に住んでいたヒミコが判明したからである。
10代崇神天皇がいつごろの人物なのか。
これで邪馬台国論争は終了する。
崇神陵=行燈山古墳=布留1式=4世紀初頭から前半。
2015久住編年でもこれが最有力。
そして卑弥呼擁立の時代=庄内0式(2世紀末)まで文化断絶がない。
という事は崇神から卑弥呼の時代までを普通に遡れるのだ。
にもかかわらず古代史家、考古学者の誰一人ヒミコを探そうとしない。
ヒミコは記紀に登場しないという固定観念があるからであろう。
わしは探した。 ほらヒミコもトヨもいた。
I崇神(310年頃 318年没)
H開化
G孝元
F孝霊
トヨ津 E孝安 D孝昭
トヨ津 (250年頃)C懿徳
ヒメ踏鞴 B安寧
ヒメ踏鞴 A綏靖
ヒメ踏鞴 (200年頃) @神武
神武から6代孝安まで宮は葛城である。
また神武から孝安まで不自然な事に正后はいても「妃」がいない。
彼らは複数の妃を持つ大王ではなかったからである。
つまり魏志に書かれた女王国とは神武〜孝安時代の事であり、 それは葛城王朝であった。 帯方郡
韓四千里
四方可四
千方可千
里四千里
三千里狗邪韓 ※7000
(渡海千里) ※8000
対馬
馬(方四百余里) ※8800余
(渡海千里) ※9800余
壱岐
岐(方三百里) ※10400余
(渡海千里) ※11400余
末盧(五百)伊都(百)博多駅前陥没地点 ※12000余 和邇氏の東大寺山古墳から卑弥呼直結の中平銘刀が出た。
和邇氏の系図
事代主
┣━━━━━━━┓
クシヒガタ(鴨王) ヒメ踏鞴━━神武
┣━━━━━━┓
建飯勝 ヌナソコナカツ媛━━ 安寧
┃ ┃
建甕尻 息石耳 ※ヒメ踏鞴(248年没)
┃ ┃
豊御気主 トヨ津
┃ ┃
大御気主 孝昭
┃ ┃
阿田賀田須 天足彦国押人命
┃
和邇日子押人命 中大兄皇子の歌
「香具山は 畝傍ををしと 耳梨と 相争ひき 神代より かくにあるらし 古(いにしへ)も 然(しか)にあれこそ うつせみも 妻をあらそふらしき」
原文「高山波雲根火雄男志等耳梨與相諍競伎神代従如此尓有良之古昔母然尓有許曽虚蝉毛嬬乎相挌良思吉」
ミミとは何なんだろう。 神武は7世紀に出来た称号で天皇とされている。
しかし神武の時代には天皇なんて呼び名はない。
神武は大王ではないし王でもない。
当時の王とは鴨王ことクシヒガタ、神武の義理兄だ。
では神武とは何だったのか。
正解は俘囚長だ。
https://www.progoo.com/bbs/data/himehultukenn/img/40_tn_61c33f808a.png
なぜ部落解放運動の拠点である水平社博物館の隣が神武社なのか。
マスコミ、学者や文化人、誰も怖がって突っ込めないだろ。
俘囚長以外に答えはない。
俘囚長とは権力者である。
かつての移配俘囚を束ねた長州の俘囚長・安倍氏の末裔が今の総理大臣だし。 安本美典さんがなぜ用明天皇から20人の平均在位しか採っていないのかが謎。
平均を採るのに20代は少ない。
わしは30代で採ってみた。
30代平均
31代用明天皇元年585年〜60代元正天皇没930年
930−585=345年
345÷30は11.5年
用明天皇から30代の平均在位は11.5年。
では用明天皇から神武まで遡る。
ただし神功皇后は確実な一代と見なし、31代遡る。
11.5×31=356.5
用明元年587年−356年=231年
30代として計算した神武元年は231年、つまり卑弥呼の時代。
卑弥呼とはヒメ踏鞴五十鈴媛しかいない。
わしの説は正しいのだ。 倭国王帥升はどこに住んだか。
帥升の連れた160人の生口。
生口は王都に必要な人たちですから王都の生口をすべて連れて行ったとは思えません。
ということは帥升のいた土地には2世紀からかなり大きな俘囚郷があったと推定されます。
つまり「王都の謂れと大きな俘囚郷が両方存在する地域」が帥升の住んだ都でしょう。
九州の差別問題は7世紀の位配俘囚や黒田藩が姫路から連れて来た皮工をルーツとするようなので、
2世紀に存在したとは思えません。
そもそも王権の謂れがありません。
王都の謂れと大きな俘囚郷が両方存在する地域、それはやはり葛城。
土蜘蛛を思わせる国栖(くず くにす)に関わるであろう地名の俘囚郷も現存します。 纏向古墳群とは誰の墓なのか。
私は崇神の母系の物部ではないかと思ってます。
当時は母親の実家で子供を育てたわけですから、崇神の住んだ纏向は母親のイカガノシコメが住んでいた所でしょう。
つまり物部の土地である。
また大阪交野(かたの)に箸墓の縮小サイズである雷塚古墳(森古墳群)があります。
この雷塚古墳は箸墓と同時期か少し後と言われています。
箸墓は260〜280年くらいでしょう。
つまり雷塚古墳は崇神時代より少し前です。
ところでこの森古墳群、前期古墳にしては珍しく被葬者をほぼ特定できます。
交野の語源になった肩野物部集団です。
被葬者として推定できるのは彼らしかいません、一択です。
つまり崇神の前に【物部が前方後円墳を造っていた】という事になります。
しかも彼らは箸墓とも強い関りがあることになります。
というわけで纏向古墳群は瀬戸内海洋集団・物部の墓である。
ここに卑弥呼はいないという事です。 耳成山口神社。
天神社と呼ばれていたのに、祀られているのは高皇産霊と大山祇。
どういうことなんだろう。 >>9
神武が御所市の柏原宮
綏靖が同じく御所市の高丘宮
ならばヒメ踏鞴は「姫の宮」こと長柄神社ではないかと思ってる。
ttps://goo.gl/yzNUGD
(直リンできないので先頭にhを入れてね)
祭神はシタテルヒメ、ヒメ踏鞴と同じ鴨族であり、
神武ヒメ踏鞴夫妻より2世代前の人物である。
このシタテルヒメ、鴨族の中ではヒメ踏鞴よりも重要視される人物である。
古事記では高姫、下を照らす高い所にいる、ずばりアマテラスである。
わしはこの長柄神社は鴨族の姫たちの宮であったと推測する。
また当地の名柄遺跡は、全国で唯一、銅鐸と鏡が同時に出た遺跡である。
名柄遺跡の時期は弥生中期、鴨族が出雲から移住してきたと推定される時期である。 >>10
天孫、天神などという概念は7世紀に出来たもの。
高天原(御所市高天)に住んでいたのは大物主系の出雲族。
銅鐸族だ。
4世紀初頭に崇神がクーデターを起こし、それ以降、出雲系が国津神にされたのであろう。 >>15
モグラみたいにちょろちょろ出てくるなボケ >>1 さん乙どす^^
>>12
名柄の銅鐸はがいえんつきちゅーしきやったか?
それやったらたしかに出雲のおおなむちが畿内に侵入してきたころやなー
ミラーのほうはどんなの出たんですか? 神武の柏原宮、綏靖の高丘宮、ヒメ踏鞴の姫の宮の位置
https://goo.gl/iwrUC6 奈良盆地〜紀伊半島にかけて、元々は木の国だったんじゃないかな。検証が必要。
木結び、高皇産霊。
縄文系の人々とBC1000年頃日本海に渡来した水稲をもたらした人々との交わり。
BC5世紀頃には畿内に稲作が伝わっている。倭人の渡来より前の話。 草薙の剣。
草を薙ぎ倒した剣。
くさときは語源は同じ。植物。
イザナギが、木の国の勢力、カグツチ、何故かホアカリ系としてアマテラスに繋げられた勢力を倒した剣。
イザナギが、邪馬台国に負けた時奪われた剣。 ヤマトは大阪湾にいた倭人が、奈良の地を指した言葉。
山の向こう側、山外、ヤマト。
奈良盆地に住んでいた先住民は奈良盆地のことを木、キと呼んでいたのかもしれない。
ヤマトの本来の意味を隠した理由。 1世紀初頭、木の国の勢力は、丹後半島に元々いた勢力と手を組み、丹後半島のオロチ、本来のスサノオを倒し、スサノオの名を騙るようになる。
オオナムチが助けを求めた国、木の国。
次に助けを求めたのは、スサノオ、木の国から丹後半島に移った勢力。
支配層の名にミミがつく勢力。
オオナムチも奈良の地、木の国いた先住民と繋がっていた可能性があるな。
オオナムチは島根地方の王族、神庭の勢力を追い出す。 草薙の剣はかつて自分達を天岩戸の向こう側に追いやった剣。
他の勢力が持つのは危険だからね。
自分達で管理しているのかもしれない。 丹後半島のオロチ族は鉄器を作っていたが、主には玉を削る道具。 >>18
>>19
ひゃはー
えらい古いミラーなんやな?(日本最古かー
燕の人らが朝鮮半島でつくったやつでっしゃろ 倭人、イザナギ一派に「たけ」という言葉は、本来ない。
たけがつく人物は倭人ではない。
竹内宿禰、ヤマトタケルetc。
武はたけ。
武烈、たけの中心勢力を燃やして亡す(武烈本人はたけではない)
そして、武烈も殺されたんだろう。
継体は応神の縁者、イザナギ〜ニニギの系統。
以後天智まで母方をやま派とたけ派で争うのだ。
天武、たけの傍流の復活。
桓武、たけを棺に納める。天智系やま派の復活。 木の国は、姫の国。
殷が滅んだ時、逃れてきた人々。
BC1000年頃、日本列島に渡来し稲作を持ち込んだ人々。日本列島と同じ緯度、稲作が日本列島に定着する条件が合致した。
日本海側に渡来し、陶けんを使っていた人々。
BC500年位に畿内の内陸に辿り着き、姫の国、木の国を作る。
大山祇。食物神。
日本海沿岸部に止まったのが大海祇。
縄文系と交わりできたのが、木結び、高皇産霊。 倭人が勢力を拡大するまでは、奈良の地には、縄文系の国底立、高皇産霊の一族がいた。カグツチであり、何故かアマテラスに繋げられたホアカリ系。
この勢力が丹後半島の大海祇と手を結び、ヤマタノオロチ、本来のスサノオを追い出す。
ヤマタノオロチ一族は、倭人とほぼ同じ時期、弥生時代前期末に渡来し鉄の加工技術を持っていた集団。急速に丹後半島を支配下に置いたんだろうね。 すこし腑におちんのは姫は周の王さんの親戚じゃね?
殷との時系列が逆じゃね?(ちょっとめーまわってきた ここにマジレスつける人らはわえの目をまわすのじょーずや(妙に心地えー そして、弥生時代前期末大阪湾沿岸部に倭人が渡来。
今迄にない程規模の大きい渡来集団だったんだろうね。下戸遺伝子と関係の深い集団。
航海技術に長けた彼らは、各地の勢力に婿入りし急速に勢力を拡大する。
彼らは厳格な男系社会であり、それが勢力拡大に貢献したんだろうね。
銅鐸などの金属加工の技術、金属器を使った製板技術が必要な木棺、方形周溝墓、井戸の技術、灌漑技術を伴った水田、分銅の製作などが大阪湾周辺で一斉に認めるようになる。 ほあかりは燕てんじん(半島経由
あまてらすは呉越同舟(どっちでもえーが天孫くろしお(かいけつ >>34
殷以前から、始祖を姫とする国だらけだからな。 渡来人の直系以外、特に当時奈良の地にいた人々が姫の意味を理解していたとは思わないけどね。
同じ音の木と考えていた可能性が高い。 >>41
あーそーいうことか
YはぷろOぞくは姫だらけ?(ねます きのこたけのこ戦争のルーツが弥生時代にまで遡るとは 大山咋神
何故咋なのか?
倭国大乱の際、大山祇を咋ったのかもしれない。 ヤマトタケルは、ひょっとしたらたけ派とやま派の間の子なのかもしれない。
検証が必要だな。 白兎も興味深い。
時期的に前漢滅亡の頃だろう。
真水のあるところ琵琶湖近辺に来たと思われる。
伊勢遺跡、漢様式と思われるレンガが使われている。
兎は禹、姫と繋がる。
兎道の地、一時きの国と呼ばれていたこともある。
もう一つのキの国。 きのこの山はたけのこの里。
意味深い言葉だ。
きのこは姫の子、漢民族の末裔。渡来人の山。
里は出て行ったところの意。
たけのこ、先住民の末裔。
たけのこの里。先住民がかつて住んでいたところ。 YはぷろCとDはネマガリ竹を食べとった(熊も(またぎやん!
モウソウダケはまだない りくそんはコーエーでひょーか高かったんはスタッフにタケノコご飯好きな人いたからです(ぜったい しばらくじゆーになった(うーさーぎーおーいし(うさぎを食べる歌でないと気づいたのはこーこー3ねんせー(数えられた鰐は鮫やった(越の経由やな カムの国、タンの国、キの国、ワ(あわ)の国、中の国。 事代主
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クシヒガタ(鴨王) ヒメ踏鞴━━神武
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建飯勝 ヌナソコナカツ媛━━ 安寧
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建甕尻 息石耳 ※ヒメ踏鞴(248年没)
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豊御気主 トヨ津
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大御気主 孝昭
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阿田賀田須 天足彦国押人命
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和邇日子押人命
天足彦国押人命 は第5代孝昭天皇皇子で、第6代孝安天皇の同母兄、第7代孝霊天皇の外祖父である
と言われてる。
6代孝安天皇
和風諡号である「やまとたらしひこ-くにおしひと」のうち、「やまとたらしひこ」は後世に付加された美称、
「くにおしひと」の「ひと」は天熊人等と同様に神名の末尾に付く名称と見て、
孝安天皇の原像は「くにおしひと(国押人)」という名の古い国造りの神であると言われてる。
天足彦国押人命と孝安天皇は同一人物か。
そうならますます和邇氏が王族直系であった証拠になる。 官は伊支馬有り。次は弥馬升と曰う。次は弥馬獲支と曰う。次は奴佳鞮。
伊支馬は生駒かな、火の神。
弥馬獲支は、ミミわしじゃないかな。 阿波命神社(あわのみことじんじゃ)は、東京都神津島村長浜にある神社。式内社(名神大社)で、旧社格は府社。
祭神は阿波当ス @阿波 天安三年(八五九)に阿氣大神こと阿波当スは伊豆から駿河に移ったようだ。
静岡県沼津市に「大朝神社(おおあさじんじゃ)」という神社があるが
御祭神 大日孁命
天照大御神じゃなくて大日孁命である。
「神名帳考証」によると
阿波の大麻比古神が沼津まで行っている。 また同じく、阿佐多知比古神も沼津まで行っている。 @阿波 天照大御神を祭神とする神社は7世紀以前には遡れないはず。
伊勢神宮も7世紀以降に天照大御神になったはず。 >>66
だからか、「天石門別八倉比賣神社」の御祭神は「大日孁女命」
天照大神伝説の地は徳島市国府町「天石門別八倉比賣神社(あまのいわとわけやくらひめじんじゃ)」です。
御祭神は大日孁女命(おおひるめむちのみこと)こと天照大神です。
また、大宜都比売命(おおげつひめのみこと)が祀られているのが徳島の神山町にある上一宮大粟神社(かみいちのみやおおあわじんじゃ)です。
大宜都比売命の別名を天石門別八倉比売命(あまのいわとわけやくらひめのみこと)と言われています。
※「大宜都比売命」=「天石門別八倉比売命」=「大日孁女命」=「天照大神」 @阿波 阿波の地も姫系の地だからね。子を産み育て、その土地で暮らす。
和泉の井戸の神々も姫系の地。
倭人の男は海人、各地を転々とする。
イザナギは死んだ。邪馬台国側にイザナギの王統はない。
阿波の姫系の勢力は、ミミ族、ホアカリ系統を受け入れたんだな。そうしないと近親相姦になるからな。
阿波ビ(口に羊)
魏志倭人伝当時、既にミミ鷲。 王を失った倭人の男は瀬戸内海や各地でゲリラ戦だよ。
事代主も鰐に噛まれている。
本来のスサノオ、オロチ族の王を連れて、琵琶湖を北上し伊吹山の神の元で最後まで闘った倭人の男達もいただろう。 記紀は天武の時代に作られた。
その点を考慮しないといけない。
桓武以降の展開と照らし合わさないといけない。 蘇我氏が鳥の格好をして祭祀を行い、それを見ていた物部氏が笑う。
蘇我氏「鈴がなれば、もっと上手くできるんだけどね」
みたいなエピソードがあったな。
鳥、井戸の神々の真似事をしていたんだろう。
鈴鳴、スサノオと井戸の神々が祭祀を行っていた記憶があったんだろうな。 >>55
オシ/押、忍、、、、照る、光る、輝く等の意味らしい。
国押(忍)人、、、で国照人
天押(忍)人、、、で天照人/天光人
タラシは王号、帝号。(出雲系?) >>71
鳥(飛ぶモノ)を見る。、、、鳥見(トミ/トリミ。地名に残る)、、、富(トミ/トビ)家(葛城の登美家〜更に出雲の本宗家の富家)
要するにルーツを表し先祖を慰霊した? 鳥、井戸の遺跡はあちこちあるが、代表的なのは池上曽根遺跡だな。
井戸の神々は坐摩神社に纏められている。
他にもいるかもしれないが。 蘇我氏は真似事してたんだろう。
クナ国の。
明日香もそう。
サルタヒコのアショカのパクリ。
鳥もパクったんだろう。 東北にも、薬と結びついたニワトリ信仰があるのが面白い。
応神まで&天武〜桓武までの圧政から、東北に逃げ延びた人々もいたのかな。 >>67
大宜津媛、、、(ほぼ同じ音韻)、、、多岐(宜)津媛。別名を神屋楯媛。また、高津媛。 ●卑弥呼は熊襲が朝廷を僭称したものとする「偽僣説」
本居宣長は邪馬台国を畿内大和、卑弥呼を神功皇后に比定した上で、神功皇后を偽称するもう一人の卑弥呼がいたとした。
ニセの卑弥呼は九州南部にいた熊襲の女酋長であって、勝手に本物の卑弥呼(=神功皇后)の使いと偽って魏と通交したとした。
本居や鶴峰は卑弥呼・壱与のみならず倭の五王も熊襲による僭称としており、
これらの考えは古田武彦らの九州王朝説へと引き継がれている。 (wiki)
「本居や鶴峰は卑弥呼・壱与のみならず倭の五王も熊襲による僭称としており」というのは、
言い換えれば、
「大和朝廷および古代天皇は絶対朝貢などしてません」という事だ。
「日本の天皇が中国に朝貢した歴史などあってはならない(本居宣長)」がベースだ。
つまり、この「偽僣説」は世論誘導。
本居宣長1730年生れ
鶴峯戊申1788年生れ
那珂通世1851年生れ
この3人に接点はあったのか。あったのならまるで日本版フリーメーソンだ。
どちらにしてもこの熊襲が朝廷を僭称したものとする「偽僣説」という奇説、
那珂通世を最後に消える。
本居や鶴峯の時代まで重く重く辛い史実であった古代天皇の朝貢、
これが那珂通世の生存中に突然、羽を生えたように軽くなった。
日本が日清戦争に勝ったからである。
中国に対して精神性で圧倒的優位に立った。
今の日本人なんて中国に対して優越感しかない。
それにしても世論誘導であったこの奇説をマジで捉えた古田武彦(笑) 誰々は、いなかった
中華(系)、漢人・・・視点の話なんだろう >>82
鴨厨はフリーメイソンやイルミナティに興味あるのか? 奴佳鞮、中臣だろうな。
天孫降臨で伊都国に行ったり、邪馬台国側に付いたり。
徹底していたのは、井戸の神々を守ったこと。
中の国の臣。王が変われど、姫系(母→母→母の系統)の中の国の勢力を守ったんだろう。 >天孫降臨で伊都国に行ったり、邪馬台国側に付いたり。
デタラメいうな >>75
井光、、、倭宿根(天村雲命(大倭国初代大王/系譜が横領、改ざんされて神武)の御子)の妃。 「天牟久怒命」=「天村雲命」を祀る、日本唯一(またまた)の式内社 阿波國麻殖郡「天村雲神伊自波夜比賣神社」が、
阿波国旧麻植郡射立郷「村雲」に鎮座する。
この天村雲神の別名がなんと、「天五多底命 ( あめのいだてのみこと )」 なのである。
御祭神の天村雲命は、「 射立神 」とも呼ばれる。
「天村雲命は、別名「天五多底命(あめのいだてのみこと)」とも呼び、射立の神。鎮座地周囲は、湯立という字が残っているが、これは射立からの転訛。
もし、天村雲命=射立神だとすると、天村雲命=五十猛命とも考えられる。五十猛命は、素盞嗚尊の御子神であり、伊達神。」
全国3132座ある式内社で、「天村雲」を冠する日本唯一の神社なのである。 @阿波 >>49
タケノコの里。
竹/武/建/猛などを一族の通り名/尊名とした一族=天カゴヤマ/五十猛(徐福(高皇霊命/イザナギ/天照皇大御神/スサノオ、ホアカリ/ニギハヤヒ=ニニギ)が父親の徐猛(オシホネ/オシホミミ)の名を息子に名付けた)〜天村雲命の子孫(海部/尾張氏流のあまたの大族)ら >天村雲命の子孫(海部/尾張氏流のあまたの大族)
それ全部、忌部一族だから。 @阿波 海部氏はあれだな、応神と一緒に畿内入り、丹後半島の勢力を討ったんだな。
むしろ、邪馬台国派、たけミミ派と対立する側。 阿波は姫を出す側。
倭国大乱を引き起こし、日本列島を500年の戦乱の時代に引き込み、イザナギ、サルタヒコなど神々を殺し、畿内の民を虐待した張本人だな。 東大寺山古墳出土の鉄刀
「中平□□(年)五月丙午造作文(支)刀百練清剛上応星宿□□□□(下避不祥)」
「中平□年五月丙午の日、銘文を入れた刀を造った。よく鍛えられた刀であるから、天上では神の御意に叶い、下界では禍を避けることができる」
中平とは後漢の霊帝の年号で、184〜189年を指し、「倭國乱」(『魏志』倭人伝)「倭國大乱」(宋書)が終結した時期、2世紀の末である。
中平銘紀年刀は「倭國乱」終結後、後漢王朝から下賜されたものであると考えられている。
この鉄刀がいつどこで入手され、本古墳に副葬されたのかは分からない。
しかし、この地の人たちが中国の後漢と通交があったのではなかろうかと考えることができる。(wiki)
この地の人達とは和邇氏。
【和爾氏本拠】
和爾坐赤坂比古神社
奈良県天理市和爾町
祭神「阿田賀田須命」
和珥氏(和爾氏)の語義が、王族だという意味で「王氏」、
昔であれば「わう」という説を教えていただいた。
ならば和邇は王族の流れという事になる。
それもぞのはず和爾坐赤坂比古神社の祭神「阿田賀田須命」とは大物主。
鴨王ことクシヒガタの5世代後の人物。
崇神時代にクーデターを起こされオオタタネコにとって代わられる。
つまり2世紀末または3世紀初頭の卑弥呼とは鴨氏・和邇氏の系統にいたことになる。
トヨとは天トヨ津媛。
卑弥呼(ヒミコ)とはヒメ踏鞴五十鈴媛しかいないのだ。 国宝・中平銘鉄刀の流れとはこういう事だ。
ヒメ踏鞴(248年没)
┃
トヨ津
┃
孝昭天皇
┃
天足彦国押人命
┃
和邇日子押人命
┣━━━━━━━┓
彦国姥津命 姥津媛(開化天皇妃)
┏━━━━━━━━━━━━━╋━━━━━┳━━━━━━┓
伊富都久命 彦国葺命 小篠命 乙国葺命
┏━━━━━━┳━━━━━━━┫ 【丈部氏祖】 【吉田氏祖】
彦忍人命 建耶須禰命 大口納命 【飯高氏祖】
(武社国造) ┃ ┣━━━━━━━┳━━━━━━━┓
八千宿禰命 難波根子武振熊命 彦汝命 真侶古命
(吉備穴国造) 【和邇氏祖】 【葦占氏祖】 (額田国造)
【安那氏祖】 【春日氏祖】 【猪甘氏祖】
【真野氏祖】
【壬生氏祖】 記紀は天武、たけ系が作ったからな。
一番隠しているのは、クナトの神だな。
イザナギと書き換えられている。
倭人の神。 クナトの神以外は、
皆元は人。
鎮魂の為に神格化したもの。 仏教が入ってくるまでは、クナト信仰が強かったんだろうな。
仏教導入に拘った勢力は、クナト信仰、神道を排除したかったのかもしれない。 龍信仰:中国北部中部系、出雲族、本来のスサノオ・ヤマタノオロチ族など
太陽、鳥信仰:中国南部系統、倭人、
蛇、ミ:縄文系
かもしれない。 倭国大乱まで、龍も鳥も蛇も、ナガスネヒコも土蜘蛛もヤソタケルも皆共存し仲良くクニを作り平和に暮らしていたのにね。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています