★★ 邪馬台国は【葛城】である【4】 ★★
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邪馬台国は葛城である。
葛城に住んでいたヒミコが判明したからである。
10代崇神天皇がいつごろの人物なのか。
これで邪馬台国論争は終了する。
崇神陵=行燈山古墳=布留1式=4世紀初頭から前半。
2015久住編年でもこれが最有力。
そして卑弥呼擁立の時代=庄内0式(2世紀末)まで文化断絶がない。
という事は崇神から卑弥呼の時代までを普通に遡れるのだ。
にもかかわらず古代史家、考古学者の誰一人ヒミコを探そうとしない。
ヒミコは記紀に登場しないという固定観念があるからであろう。
わしは探した。 ほらヒミコもトヨもいた。
I崇神(310年頃 318年没)
H開化
G孝元
F孝霊
トヨ津 E孝安 D孝昭
トヨ津 (250年頃)C懿徳
ヒメ踏鞴 B安寧
ヒメ踏鞴 A綏靖
ヒメ踏鞴 (200年頃) @神武
神武から6代孝安まで宮は葛城である。
また神武から孝安まで不自然な事に正后はいても「妃」がいない。
彼らは複数の妃を持つ大王ではなかったからである。
つまり魏志に書かれた女王国とは神武〜孝安時代の事であり、 それは葛城王朝であった。 それは神武が卑弥呼と同年代という過程が証明されてからにしよう。 卑弥呼以前にも倭国あり。男王の治世が70〜80年。 博多湾沿岸の倭国王とされる帥升から、卑弥呼まで、中国の記事は一貫しており、畿内へ遷都したという記事はない。 >>852
先代旧事本記の物部や鴨の系図は崇神から神武まで6世代。
そのほか中臣や三上の系図でも同じく。
記紀は時代を意図的の古くしようとして9世代などと言ってるがこれは信用できない。
あと崇神時代=布留1期から古墳時代の始まる庄内0期まで約120年。
1世代間20年でちょうど説明がつく。
つまり神武とヒミコは同じ時代。 >>854
>博多湾沿岸の倭国王とされる帥升から
博多には王権のいわれがない。
生口160人も連れ出したような大きくてなおかつ太古から続く俘囚郷もない。
それがあるのは葛城だけ。
あきらめろ。 祓詞
掛けまくも畏き 伊邪那岐大神 筑紫の日向の橘の小戸の阿波岐原に御禊祓へ給ひし時に生り坐せる祓戸の大神等 諸諸の禍事 罪 穢有らむをば祓へ給ひ清め給へと白す事を 聞こし食せと恐み恐みも白す
博多湾沿岸は倭国の神代の王都 そりゃあ葛城には連れ出さなくても生口一万人くらいはいたんじゃないの?w >>826
いや、卑弥呼(モモソ姫)は大物主(物部の大神)に嫁入りしたんだから物部の墓制でもおかしくないよ >>859
モモソ媛は4世紀初頭から前半の崇神時代の人物。
2世紀末に即位した卑弥呼なわけない。
時代が100年は違う。 >>859
>大物主(物部の大神)
違う。
モモソ媛と結婚した大物主は阿田賀田須
先代旧事本紀では彼の妻の名だけが書かれてない。
朝廷に気兼ねしたのでろう。
崇神が最後の大物主・阿田賀田須をお殺せあそばされたからだ。
事代主
┣━━━━━━━┓
天日方奇日方(鴨王) ヒメ踏鞴━━神武
┣━━━━━━┓
建飯勝 渟名底仲媛━━ 安寧
┃ ┃
建甕尻 息石耳 ※ヒメ踏鞴(248年没)
┃ ┃
豊御気主 トヨ津
┃ ┃
大御気主 孝昭
┃ ┃
阿田賀田須 天足彦国押人命
┃
和邇日子押人命 ◎ここまでわかった日本書紀◎
2世紀末
倭国大乱と卑弥呼の即位
吉備・畿内同盟(百済、任那系)
考古学的証拠:墓、土器、特殊器台
文献的証拠:吉備に拠点を持つ孝霊天皇の娘モモソ姫が畿内の王大物主と政略結婚→大物主が死にモモソ姫が女王に
vs
山陰・北陸同盟(高句麗、新羅系)
考古学証拠:四隅突出墓の分布
文献的証拠:(3世紀後半だが)崇神代の記述 イツツヒコ「我の他に王はなし」
3世紀後半
台与の治世
吉備・畿内同盟
魏が弱体化し権威のバックを失い同盟が乱れ、崇神は大王位を失う
崇神、娘を宇佐の大王アマテラスの元に嫁入りさせる(トヨスキイリ姫=豊国の城に入った姫)
もう一人の娘を越の王大国魂に嫁入りさせようとするが失敗(ヌナキイリ姫=ヌナ川(越国のヒスイを産出する川)の城に入った姫)
(当然目的は山陰・北陸同盟の分断のため)
宇佐の大王アマテラスが死に嫁のトヨスキイリ姫が女王に 神=王 の読み替え
崇神6年、宮中で天照大神と倭大国魂神の二神を祭っていたが
二神の神威の強さを恐れ、宮の外で祀ることにし
天照大神をトヨスキイリ姫に託し、
倭大国魂神をヌナキイリ姫に託した
↓
宮中で同盟国の王達を集めて会議をしていたが
プライドの高い各地の王達の意見を崇神がまとめきれず、会議が決裂してしまった
そこで崇神は各地の王に自分の娘を嫁入りさせて関係強化を図った 葛城の葛は国栖、黒潮の民が分派しながら広がったんやろね。
国栖人、熊襲、隼人は其れと違うのか。
高野山で若き日の空海を守護した狩場明神と白と黒の犬と言うのも其れを暗示してそう。
今も宮中で国栖奏と隼人舞を献ってるのは、葛城氏系統と朝廷の関係を表してると思う。 ウソブいている在日南方ブタチーノがいるなあ…
さっそく屠殺しないと。 >>867
で、黒潮の民が渡来定着した事を証明する証拠遺跡と、
その生活痕たる南方系生活土器と南方系住居と石刃の南方系耕作用農具と
中粒種のイネは?
で、黒潮の民が渡来定着したとウソブいているサギサギ考古学者の氏名と所属団体は?
. >>867
面白い。
葛城の宮滝遺跡から南九州の市来式土器が出ている。
恐らく朱を採りに来ていたのであろう。
また神武が日向だが神武の義理兄で鴨王こと天日方奇日方は、
別名が阿田都久志尼命、
この人物から5世代後が阿田賀田須。
そして隼人の反乱後に、隼人が畿内に強制移住させられるが、
彼らの一部が住んだのが五條市阿田。
阿田とは今も宮崎県日南市に吾田という地名もあるように南九州に多い。
また天日方奇日方の妻は日向賀牟度美良姫(ひむかのかむとみらひめ)。
葛城の奥は熊野、南九州は熊襲。
クマは神の転訛だとしたら神の野、神の祖を意味するのかもしれない。
なんだか分らんが葛城と南九州は縁が深そうだ。 どこまでいっても、葛城にいたのは九州からの移民でしょ。 >>871
阿田、吾田、興味深い。
南九州、琉球、まで縁が有りそう。城をグスクと言うのは琉球だけなのか。
葛、国栖、くず。
葛城…グスクが転訛して漢字をはめただけのような気がする。 ぐすく、葛城、葛氏ならくず氏、国栖氏かもな。
かつらぎ、いららぎ、ゆらぎ、大和言葉は豊富やし「すめらぎ」なんて…。
古代史なんか想像(妄想)するロマンなかったら面白味ないわ。 葛城はもとかづらき。
今かつらぎというは訛れるなり。
イバラギではなくイバラキと一緒。 >>871
熊野にほど近い高野山の狩場明神と白と黒の犬、、、。
隼人と言えば、僥倖の先頭や都の角に立って警備?する吠声(はいせい)が有名やしね、 熊は、籠った奥まったという意味だろう。
クマ、コモ、クモ、カモ皆同じ。
水源のある山の奥に住んでいた人々。
葛城〜御所〜葛辺りは、殷系の水稲の民と、熊即ち山に棲む縄文系がいた所だろう。
尾張出雲によるヤマト征伐後に、九州南部投馬国系の神武の勢力が合流したんだろう。
元々のヤマトの勢力の姫達を乗っ取ったんだろうな。
兵士は男ばかりだからな。
男は纒向行き、奴隷行き。 >>878
で、殷系の水稲の民が渡来定着した事を証明する証拠遺跡と、
その生活痕たる三足や耳の付いた中国系生活土器と土壁の中国系住居と
石刃の中国系耕作用農具と中粒種のイネと龍信仰は?
で、殷系の水稲の民が渡来定着したとウソブいているサギサギ考古学者の
氏名と所属団体は?
. 「クマ、コモ、クモ、カモ」にコマ…狛犬…宮の角に立って吠声を発する隼人。
なんか繋がるね。
乗っ取ったとして、古来(ふるき)と新来、今来の再合流のような気がする。 海幸彦系の隼人と山幸彦系の神武の勢力は分けて考える必要がある。
海幸彦系隼人は山幸彦系神武の勢力に武力で支配されたんだろう。
色々伝承があるが例えば、
潮嶽神社
ヒコホホデミノミコト(山幸)に追われたホデリノミコト(海幸)がこの地にたどり着き、居を構えたと伝えらています。
神話、海幸彦、山幸彦では山幸彦の影に隠れ、山幸彦ほど有名ではありませんが、海幸彦は隼人(南九州に居住する氏族)の祖といわれております。
隼人の祖は海幸彦。
海幸彦と山幸彦は対立していた。
海幸彦は内陸へ追いやられたとある。 丸木を絶妙に舟に造り上げる丸ノミ石器…古くから海人は道具を開発する職能集団やったんやろ。
其の技術力を持って内陸、山地に入れば山を掘削し土に籠もって稀少鉱石を採取出来る、朱の原料の丹生なども容易く手に入れたと思う。 彦火火出見を祭るのは筑紫日向にある伊都の高祖宮だよ。
筑紫倭国の宗家は彦火火出見とその末裔の神武。
そうすると、邪馬台(筑紫倭)の南にあった宮崎都万の王がホデリだよね。
つじつまが合うじゃん。 >>883
薩摩半島の先端にも
ぽつんと甕棺墓出てるからねぇ。不思議だねぇ。 >>884
中心部(伊都国)は卑弥呼に置き換わっても、周辺部には旧来勢力が追いやられた状態で残るものだよ。 >>878
で、殷系の水稲の民が渡来定着した集団を証明する証拠遺跡と、
その生活痕たる三足や耳の付いた中国系生活土器と土壁の中国系住居と
石刃の中国系耕作用農具と中粒種のイネと龍信仰は?
で、殷系の水稲の民が渡来定着したとウソブいているサギサギ考古学者の
氏名と所属団体は?
さっさと言えよおまえ! 卑弥呼以死 大作冢 徑百餘歩 徇葬者奴婢百餘人
(卑弥呼以って死す。冢を大きく作る。径百余歩。徇葬者は奴婢百余人)
徑百餘歩の塚の周りに埋めたとは書いてない。
少し離れてても構わない。
王権の謂れがあり、徑百餘歩の御神域があり、奴婢が埋められた謂れのある場所がある。
高天原(御所市高天)だ。
鴨(神)族の聖地・高鴨神社の御神域は徑百餘歩。
少し離れた高天彦神社には土蜘蛛を埋めた謂れのある土蜘蛛塚や蜘蛛窟がある。
邪馬台国の女王・卑弥呼が住んだのはここだ。 >>889
>邪馬台国の女王・卑弥呼が住んだのはここだ。
民衆が住んだ遺跡は? @阿波 >>878
で、殷系の水稲の民が渡来定着した事を証明する証拠遺跡と、
その生活痕たる三足や耳の付いた中国系生活土器と土壁の中国系住居と
石刃の中国系耕作用農具と中粒種のイネと龍信仰は?
で、殷系の水稲の民が渡来定着したとウソブいているサギサギ考古学者の
氏名と所属団体は?
今すぐ言えよおまえ! 高鴨神社…代々宮司を務める鈴鹿家の始祖は天児屋根命、役小角の後裔でもあるとか、、、。天岩戸は葛城、国栖、土蜘蛛の拠点だったのかも。
天、奄、阿波、出雲も山陰の地名じゃなくクモ、クマを出立するのが本意で、南九州(奄美)から対馬(妻籠/つしまのカミ、クマ)を経て日本海側から東上した派と、五島列島から阿波を経て東上した派が其々、葛城山で集結したのと違うの。
アマとアワ、マとワは転訛したのかも
「一言主神社の縁起」にこんなのが。
雄略天皇が葛城山(かつらぎさん)で狩をしている時、向こう側から天皇と同じ姿の一行が現れました。
天皇が「お前は何者だ」と問いかけたところ、「私は悪事(まがごと)も善事(よごと)も一言で言い放つ神である」と申されました。
天皇はひれ伏し、その後、共に狩を楽しんだといいます。
このとき、天皇を一言でおさめたことから、一言だけ願いを叶えてくださるという一言主の信仰が始まったと言われています。
なんか妄想(空想)が広がる。 >>890
>民衆が住んだ遺跡は? @阿波
水源を支配したのは神。
民衆など住むわけがない。 >>892
天皇が「お前は何者だ」と問いかけたところ、「私は悪事(まがごと)も善事(よごと)も一言で言い放つ神である」と申されました。
この数年前、雄略がまだ大泊瀬皇子であった時に眉輪王の変が起きる。
そしてこの地の豪族・葛城円大臣(葛城 襲津彦の孫)が雄略に焼殺される。
土地も娘も差し出すと懇願する葛城円を雄略は焼き殺した。
これらは事実であり、極楽寺ヒビキ遺跡として近年発見される。
普通、火事では火を消そうとするから柱に水が掛かって全焼といえども根元は残ったりするものだが、
この極楽寺ヒビキ遺跡は土まで焼けている。火を消そうとした痕跡が全くない。
燃えるがままに見ていたという恐ろしい遺跡だ。ここで葛城円が焼き殺された。
雄略天皇が葛城で出会った一言主神はこの事件をもちろん知っている。
したがって「吾は悪事も一言、善事も一言、言い離つ神」とは、
意訳すれば「おまえのとんでもない悪事を知ってるぞ、言ってやろうか」という恫喝であろう。
それに対してはさすがの雄略も怯んだ。
しかしながら一言主が土佐に流されたという続日本紀の記述も土佐一宮が存在することからも事実であろう。
これは「今回は流刑だけで済ましたがそれ以上言い続けるとどうなるか分っているな?」という雄略側からの逆恫喝かもしれない。
この少しあと、葛城から出てきたのがあの蘇我だ。
蘇我のバックボーンには葛城の凄まじい怨念があったのは言うまでもないであろう。 >>893
>水源を支配したのは神。
民衆など住むわけがない。
その国邑には神しかいないのかね? よくわからん @阿波 >>894
一言主神社は常陸國へも…海の佐伯、山の佐伯、土蜘蛛がまつろわぬ者、さえぎる者と揶揄されたのは常陸國やったか。
高鴨神社の宮司が役小角の縁者で、其の佐伯の民、土蜘蛛を束ねた佐伯氏のひとつ佐伯直氏が空海の生家で紀和四国の山岳で、、、。
時代的な背景はよく知らんが同族の繋がりや伝承は有ったんやろね。 >>892
で、殷系の水稲の民が渡来定着した事を証明する証拠遺跡と、
その生活痕たる三足や耳の付いた中国系生活土器と土壁の中国系住居と
石刃の中国系耕作用農具と中粒種のイネと龍信仰は?
で、殷系の水稲の民が渡来定着したとウソブいているサギサギ考古学者の
氏名と所属団体は?
早く言えよおまえ! >>895
>その国邑には神しかいないのかね?
高天原(御所市高天)の麓には中西遺跡という、弥生期では日本最大級の水田跡がある。 ヽ|/
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|  ̄ ̄ ̄ | >>898
>高天原(御所市高天)の麓には中西遺跡という、弥生期では日本最大級の水田跡がある。
水田跡は「卑弥呼の民衆が住んだ遺跡」ではない。 @阿波 >>901
>時代が違うだろ。
卑弥呼は関係ない。
卑弥呼に関係する「卑弥呼の民衆が住んだ遺跡」は? @阿波 >>892
で、殷系の水稲の民が渡来定着した事を証明する証拠遺跡と、
その生活痕たる三足や耳の付いた中国系生活土器と土壁の中国系住居と
石刃の中国系耕作用農具と中粒種のイネと龍信仰は?
で、殷系の水稲の民が渡来定着したとウソブいているサギサギ考古学者の
氏名と所属団体は?
さっさと言えよおまえ! >>900
>水田跡は「卑弥呼の民衆が住んだ遺跡」ではない。
日本最大の水田跡が民衆のものでなければ何なんだ。 >>904
>日本最大の水田跡が民衆のものでなければ何なんだ。
その民衆の水田跡は弥生時代前期末から中期初頭の大洪水で埋まった水田跡。
「卑弥呼の民衆が住んだ 弥生末期集落遺跡群」は? @阿波 >>906
西日本一帯の弥生時代前期末から中期初頭の大洪水によって、
弥生時代前期末から中期初頭に多くの消滅した集落遺跡はその為。 @阿波 >>906
中平銘鉄刀など考古資料や文献から葛城に住んだヒミコは特定できる。
したがって卑弥呼の民衆が住んだ 弥生末期集落遺跡群がなければいけないという意味が分からない。
源平合戦の考古学的痕跡はないから「源平合戦はなかった」にはならないだろ。
弥生末期集落遺跡群はあれど考古資料や文献から阿波に住んだヒミコを特定できない君は少し黙ろうか。 中西遺跡
http://sitereports.nabunken.go.jp/ja/21580
「弥生時代後期〜古墳時代後期の遺構面。同期の建物跡、ピット、土坑など。」
これで我慢しておけ。
アワアワアワアワうるさい奴だ。 >>910
>これで我慢しておけ。
アワアワアワアワうるさい奴だ。
まさか「卑弥呼の民衆が住んだ 弥生末期集落遺跡群」が中西遺跡だけってことはないよね?
あまりにも卑弥呼女王が惨めだろ。 @阿波 弥生時代末期に全国に集落があるのに、唐突に中西遺跡が邪馬台国と言い出すとは、恐れ入った。 >>912
そう言いなさんな。 九州説も似たり寄ったりでしょ? @阿波 九州説は、弥生王墓が根拠だよ。
集落はあって当たり前。 其れにしても、古代の阿波は重大な拠点やったと思う。
国産みの、天の橋からこをろこをろ…つうのの伊邪那岐命の橋の片側は阿波に掛けられてた事を示してるんやろ。
其の橋の真下の島の名前をあわじとしたのも…阿波路…国産みの前から阿波に橋の基礎が在った証しやと思う。 >>911
氷山の一角という言葉をご存知か?
発掘できるのは発掘許可が降りた場合だけ。
しかも道路が通るとか大きな建物ができるなどの場合しか無理。
纏向だって炭鉱離職者団地の建設の際に発見された。
葛城は大半が田畑で発展が望めない。。
いろんなものがみつかるとしてもこれからの話。 発掘は届出制で、埋蔵文化財包蔵地内での大規模開発行為であれば、むしろ調査をしっかり行うように指導される
逆に、今発掘しなければならないという理由が明確ではない場合は、重要な遺跡であっても軽々しく掘ることはできない >.>912
>唐突に中西遺跡が邪馬台国と言い出すとは、恐れ入った
そんなことは言ってない良く読め。
民衆とか言い出すから中西あたりではないかといったまで。
ヒミコの住んだ宮はおそらく長柄神社、通称「姫の宮」。
名柄遺跡は弥生Xだったはず。
全国で唯一、銅鐸と鏡が一緒に出た。
鴨族らしく水源地に建つ。
祭神はシタテル姫。古事記では高姫。
この人はヒメ(踏鞴)=ヒミコより重要視されている。
下を照らすほど高いところにいる、つまりアマテラスだ。 >>921
だから「埋蔵文化財包蔵地内での大規模開発行為」がほとんど田畑の葛城では行われないと言ってるわけだが。 >>919
>発掘できるのは発掘許可が降りた場合だけ。
それはどこも同じ。 阿波は発掘が遅れている地域。 それでも特異な遺跡がわんさか。 @阿波 >>922
>ヒミコの住んだ宮はおそらく長柄神社、通称「姫の宮」。
だから、ヒミコの住んだ宮はいいから「卑弥呼の民衆が住んだ 弥生末期集落遺跡群」は?
民衆あっての卑弥呼女王だろ?
ヒミコの住んだ宮探しもいいけど、それよりも民衆が暮らした集落探しが先決事項。 @阿波 自凝島は、字の如く自ら固まってできた島。
淀川河口の中州だろう。
八十島祭。
天皇の国土支配権の裏付けを企図する祭祀と書かれてある。なぜ大阪で行うのか?
後鳥羽院の八十島祭にしたがった津守経国の歌。
○天の下のどけかるべし。難波潟、田蓑たみのの島に御祓しつれば 津守経国
八十島は、田蓑島のほかに中之島、福島、曽根洲、柴島くにじまなどの地名に残る。
○おしてるや 難波の崎よ 出で立ちて 我が国見れば
淡島あはしま 自凝島おのころじま 檳榔あぢまさの 島も見ゆ 放さけつ島見ゆ 仁徳天皇
難波の崎からオノコロ島、淡路島見えるとある。
古代の人々は国生み神話は、大阪湾の話であるのを当たり前のように理解していた。 >>892
で、殷系の水稲の民が渡来定着した事を証明する証拠遺跡と、
その生活痕たる三足や耳の付いた中国系生活土器と土壁の中国系住居と
石刃の中国系耕作用農具と中粒種のイネと龍信仰は?
で、殷系の水稲の民が渡来定着したとウソブいているサギサギ考古学者の
氏名と所属団体は?
今すぐ言えよおまえ! >>925
弥生末期集落遺跡群」は?
nakanisi >>925
まさか「卑弥呼の民衆が住んだ 弥生末期集落遺跡群」が「nakanisi 」だけってことはないよね?
あまりにも卑弥呼女王が惨めだろ。 @阿波 >>929
>だけってことはないよね?
だけってことはないだろうね、見つかってないだけで。 九州は四国畿内へと東征する以前の一大拠点やったんやろな。
部族的にも本州の人間が見て一部を除いて琉球、薩摩、熊本辺りの人の顔は別種には見えんのやが。
もっと古い時代は南西諸島、琉球辺りが都やったような気がする。
分派、再合流を繰り返しながら そだねー
東征しただけで
東遷はしないよねー
鉄器ゼロだからムダ毛処理できないし
毛人の一員になるわけはないよねー
そだねー 畿内で再々再合流したとか違うの。特に頭に、あ、の付く場所は当時の人たちの重要なところやったと思う、奄、阿蘇、阿波、安房、、、天かける…とか天の浮橋とか其れらを尺取り虫みたいに渡っていったんやろな。 >>892
で、殷系の水稲の民が渡来定着した事を証明する証拠遺跡と、
その生活痕たる三足や耳の付いた中国系生活土器と土壁の中国系住居と
石刃の中国系耕作用農具と中粒種のイネと龍信仰は?
で、殷系の水稲の民が渡来定着したとウソブいているサギサギ考古学者の
氏名と所属団体は?
早く言えよおまえ! 南九州から移動してくる部族たちは阿波と言うか四国全域に広がってそうやな。
四国の南側の超大型の集落は相当な長い期間に住み着いてたとか、その間に四国中をくまなく探索するなかで丹生や阿波に群生する麻を見つけたん違うんかな。
阿波から紀伊半島へ、そして大和奈良へと(熊襲から隼人、そして国栖人へと)時間をかけ衝突と融合を繰り返したんやと思う。 >>939
>四国中をくまなく探索するなかで丹生や阿波に群生する麻を見つけたん違うんかな。
それもあるだろうが、阿波の地下資源(緑色片岩・紅簾片岩・辰砂・蛇紋岩etc.)が大きい。
それと吉野川などの大河、その背後の深い森林、黒潮流れる温暖な気候、豊かな海etc. @阿波 その中でいち早く大和に到達したのが葛城氏の国栖人なんやろな。
天の浮橋、あまのうきはし、、、。
あま…「あ」と「あ」の間、うきはし…「うき」「憂き」「はし」…「ならはし」「慣わし」、、、。
大和言葉はマジで含蓄が深い。面白すぎる。 >>892
で、殷系の水稲の民が渡来定着した事を証明する証拠遺跡と、
その生活痕たる三足や耳の付いた中国系生活土器と土壁の中国系住居と
石刃の中国系耕作用農具と中粒種のイネと龍信仰は?
で、殷系の水稲の民が渡来定着したとウソブいているサギサギ考古学者の
氏名と所属団体は?
さっさと言えよおまえ! ・帥升に連れられた生口160人
・卑弥呼の死で奴婢100余人を殉葬
これ同じ地域の奴婢(生口)でしょう。
2世紀前半の「其国の男王」と帥升の時代が同じ、ひょっとして男王と帥升は同一人物か。
王都と奴婢郷が存在し、そして殉葬された奴婢の痕跡が日本のどこかにあるか?
高天原(御所市高天)あるのだ。
何度も行ってるのに今まで気づかなかった、殉葬されたのは土蜘蛛だ。
明神大社・高天彦神社前の蜘蛛窟。
埋められたのは神武の時代。それはヒメ(踏鞴五十鈴)の時代である。 卑弥呼の死で奴婢100余人を殉葬
goo.gl/qPEYFv
殉葬された土蜘蛛 >>892
で、殷系の水稲の民が渡来定着した事を証明する証拠遺跡と、
その生活痕たる三足や耳の付いた中国系生活土器と土壁の中国系住居と
石刃の中国系耕作用農具と中粒種のイネと龍信仰は?
で、殷系の水稲の民が渡来定着したとウソブいているサギサギ考古学者の
氏名と所属団体は?
今すぐ言えよおまえ! 紀和に程近い藤井寺の、藤、もいにしえには、葛、くず、くづ、で葛井寺と書いてふじいでらと読ませたらしい、葛城、国栖人の勢力(もとは熊襲/隼人、と近いつうか分派した古来「ふるき」の人たち)の広がりが大きかった証しやろな。
そう考えると藤原氏渡来人説も後年にこじつける人らの飛ばしかもな。
渡来したとしても、むしろ、原、がつけられてるから葛の本拠地からの新来(あらき)部族の頭目やったんかも。
学者らは何が何でも大陸半島由来にしたかったんやろ。 レス数が950を超えています。1000を超えると書き込みができなくなります。