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おまいらが今川氏真だったら桶狭間後にどうする?
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0031日本@名無史さん
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2019/10/13(日) 23:20:03.49
あっそ
0032日本@名無史さん
垢版 |
2019/10/22(火) 16:10:30.47
今川氏は今川記の「御所が絶えなば吉良が継ぎ、吉良が絶えなば今川が継ぐ」
という一節でかなりの名門と思われているが実はそれほどでもなかった
例えば乗輿の資格(朱塗りの輿にのれる)を幕府から今川義元が
ようやく認められたのは桶狭間の直前ですでに42歳
これは三管領家や御一家、御相伴衆の当主なら元服すると自動的に認められるもの
0033日本@名無史さん
垢版 |
2019/12/01(日) 17:00:56.38
108 126: 名無しさん@1周年 [] 2019/12/01(日) 16:23:37.25 ID:6X0uWr900 (1/3)
書店で「山川日本史」という本を立ち読みして呆れた一節を見つけた。
「(織田信長は)上京を企てて進撃してきた今川義元の大軍を桶狭間で破って・・」
と書かれていた。
昔は映画やドラマでこういう俗説が言われていたが、さすがに最近の教科書で、
こんなバカなことは書かれていないだろうと思ったら、最新の教科書でも未だに
こんなことを書いてるんだね。
監修者に東大とか京大の名誉教授などの肩書をつけた連中が名まえを連ねていて
この有様なんだから笑ってしまうわwww

今川義元の尾張侵入が上京目的でないことは次の理由からして明白だ。
1 この戦い当時(1560年)13代将軍の足利義輝が未だ健在だった。
  大軍を率いて上洛するということは将軍家に対する謀反の意思表示と
  同じだ。
  (後に信長が大軍を率いて上洛しているが、それは義輝が家臣の三好に
   謀反によって殺されて(1565年)、義輝の弟の義昭を正統を継ぐ将軍として
   擁立するという名目があったからできた)
2 義元は幼少時から師であった雪斎に連れられて京都の公家などとの交流も
  多く、将軍義輝とも面会しており、義輝に敬意を払っていた。
3 現実的な問題としても、今川義元は織田信秀の時代から何回も戦っていたが
  勝ち負けを繰り返していた。信秀の死後後を継いだ信長がうつけという評判で
  家臣の裏切りが相次いだとはいえ、信長との戦いでも簡単には勝てなかったのに
  一挙に尾張を通過して上洛などできるわけがない。
4 もともと織田方であった伊勢湾東岸の鳴海城と大高城が信長の父の信秀の死後
  今川方に寝返ってしまった。この両城は伊勢湾西岸にある津島(伊勢湾と木曽川
  長良川の水上交通をつなぐ交通の要衝で織田家にとって商人から上がる運上金が
  軍事力を支える基盤であった)にとって脅威となるので、これを取り戻すために
  信長は、両城を囲むように丸根砦・鷲津砦、善照寺砦・中嶋砦を築いて兵糧を
  絶つ作戦に出ていた。その結果、起きたのが桶狭間の戦いである。
  現実に記録にもハッキリ書かれているとおり、義元は真っ先に1万5千の兵力の
  うち、1万をもってこれらの砦を粉砕して鳴海城と大高城に兵糧を運び入れている。
  (その役割を担ったのが初陣の松平元康、のちの徳川家康でこの両城の囲みを
   解き放つことが主目的であったことは記録からも明白)
5 義元は鳴海城と大高城を取り囲んでいた砦をすべて粉砕して味方の軍勢の救出にも
  成功して、しかも、信長の軍勢は姿を見せていないという報告を受けて、作戦は
  すべて成功裏に終了したと判断して、桶狭間山で昼飯をとることに決めた。
  これが義元の敗因である。義元が最初から信長を討つことを目的にしていたので
  あれば、信長と雖も1万5千の大軍を相手に(信長の指揮下の兵は2千)、勝利を
  納めることは難しかっただろう。
0034日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/21(火) 14:17:54.46
京都で蹴鞠大会を開いて優勝を目指す
0035日本@名無史さん
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2020/01/21(火) 14:28:40.87
弔い合戦をしなかったから家康に見限られて滅んだって言われてるけどそれはマジなん?
まぁ家康に見限られなくても武田と織田に攻められたら打つ手なしっぽいが…
0037日本@名無史さん
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2020/08/21(金) 00:56:37.68
家康処刑
0038日本@名無史さん
垢版 |
2020/08/21(金) 18:50:59.04
家康には手が出せない。そもそも国境沿いで織田と防戦してる家康を呼び寄せるなんて不可能やし。
かといって北条への支援も断れない。
…詰んで…る?
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