伊都国東遷スレ
レス数が1000を超えています。これ以上書き込みはできません。
ないので立てました。
<要点>
1、魏志にある邪馬台国は「ヤマト」であり、倭王権の基礎となった。
2、だたし、その女王、「ヒミコ(日巫女)」は伊都国の関係者
3、平原一号墓の巫女王は、東遷前の先代のものであり、銅鏡による太陽祭祀を主宰する「日巫女」の葟として、最もふさわしい。
<ポイント>
・記紀の伝承がおおむね歴史的事実であることが視野に入ってくる
・唐古、鍵と纏向の間にある文化的断絶(銅鐸祭祀断絶)を伊都国勢力の進入から説明できる
柳田康雄の考え方(仮説)に基本的に一致しています。
<参考 URL >
歴史秘話ヒストリア 「女王卑弥呼はどこから来た?」
https://www.nhk.or.jp/historia/backnumber/204.html
柳田康雄 「伊都国を掘る」2000年
https://www.nhk.or.jp/historia/backnumber/204.html
柳田康雄 「 弥生王権論 伊都国からヤマト国へ」 2016年
http://www.city.itoshima.lg.jp/m043/010/040/070/030/kankotosyo.html <畿内説のテンプレと決定的に違う点>
1、 畿内に於いても古墳時代初期は内行花文鏡が階層性の最上位であり、
その系譜は、糸島の三雲南小路王墓・平原王墓まで確実に遡り得ると考える点。
2、1の考古学的事実から、記紀の再評価を試みる点
3、魏志の旅程記事は.日本海ルートが最有力と認識
4、卑弥呼以死は、已に死す、の読みが正しいと考える点
(箸墓の年代のために文献の無理な曲解はしない)
5、金印は「漠委奴(いと)国王」と読むべき
・金印での三段読みは実例がない
・発音が変わる「倭」字を「委」字に減筆されていたとするのは不自然
・奴国の範囲である志賀島から出土した、という証拠自体が あ や し い
以上、短めのテンプレです。
粘着や非訪中傷、人格攻撃は禁止にてお願いします 【箸墓】
被葬者が女 : ○(1点) *モモソヒメ伝承から
有棺無槨 : ?
径百歩... : ○(1点) *前方部は後付けと考える
王墓である : ☆(3点) *古墳時代への画期を成す
鏡が出土 : ?
年代.... : ○(1点) *250年には少し厳しいか?
漢との交流 : ?
魏との交流 : ?
-----------------------------------------------------------
合計 6点 + α
【平原一号墓】
被葬者が女性 : ◎(2点)
有棺無槨 : ◎(2点)
径百歩... : △(0点) *一歩を30cmと解釈
王墓である : ◎(2点)
鏡が出土 : ☆(3点) *日本最大、最多
年代.... : △(0点) *柳田は、200年ごろと比定
漢との交流 : ◎(2点)
魏との交流 : △(0点)
-----------------------------------------------------------
合計 11点
すでに「発掘された」考古学事実から卑弥呼の墓の候補としては、冷静に見るとこんなところではないでしょうか。
箸墓は発掘できていませんが、私は主に文献的なところから、卑弥呼の墓として箸墓を考える立場です。 うーん、せっかく良いアイディアもでてきて、それを纏めたんですが、ちょっと早まったちゃったかな。 句読点の人とは、別ですから。
本スレはなんか水掛け論を永遠とやってる感じだし。
ここ数ヶ月である閃きがあったので、スレ立てしてみたのですが、、、
もちろんこのテンプレの延長線上のアイデアです。 日本で唯一太伯を祭る神社が鹿児島なんだから
伊都国=隼人だよ
南に逃げたんだよ >>6
>句読点の人とは、別ですから。
>ここ数ヶ月である閃きがあったので、スレ立てしてみたのですが、、、
あ、句読点の人だ >>9
伊都国は逃げる必要はないんですよ。
内行花文鏡を掲げて、堂々と畿内に進出したのでしょう。 >>1
>卑弥呼以死は、已に死す、の読みが正しいと考える点 <
これなんかでも読んだことあるが類例ありますんか? 以+動詞は意味合いとしては同時にと習ったよ?
ちなみに因果関係は必ずしもないらしい 同時に起きたのが檄なのか墓作りかは不明じゃが
なんとなく檄に10000ビットコイン あら、岡上さんお久しぶりです
ほぼ同じ説だけど、私はイヨまではまだ九州が本拠地と考えています
平原遺跡は瑪瑙管玉の朝鮮半島での出土年代が気になるし、柳田さんの"お母さん"の根拠も薄いと感じるので、年代は200年±50と幅広く考える必要があるかと
そうなると、本人の可能性も出てきます
那珂八幡が箸墓より古い可能性がある事がわかり、やはりまだこの時期に北部九州を畿内勢力が押さえていると考えるのは難しいと思います
しかし、東遷の時期は違えどほぼ考えは同じです
これからも宜しくお願いします >>21
岡上せんせーは直前登場の年号のこというてるんじゃなかろうか(たぶん >>22 さん
良レスありがとうございます。
そうですね。私も全く同感です。考古学の推定年代は、敬してこれを遠ざける、
というのが私のやり方です。出土物を見る限り、平原が卑弥呼墓であっても全然おかしくないともいますよ。というより、考古学的には最有力と思います。
>>23
そうですね、あくまで段落全体から把握しないと行けませんから、
正始8年に派遣された張政が到着した時、已に死んでいた。ということです。 >>25
問題は既にとできるかどーかじゃのー(類例あったら信じます >>これ、本スレで論破されてなかったか?
畿内説スレことですかね、どういう風に 藤堂明保や内藤湖南の説が論破されたんですかね。
それで一段落の文として理解が深まるなら読み替えていけない理由は何もないです。
>> 以 と 已 の読み替えを探していた方。
今権以死、託孤於諸葛恪 森君は以に因果関係あるっていうてはったなー
檄により卑弥呼さん死す(怖い話や あと、いつも同じ分を根拠にしても面白くないので、歴年の用例を調べていた際に
出てきた用例をもう一点追加。
以下の文でも、已 と 以 が混用されてますね。
(混用いう表現は後世の視点ですが。)
■前世仁者,不忍肉刑之慘酷,是以廢而不用。不用已來,歷年數百(鍾繇伝)
訳:前世において仁者は、肉刑の残酷に忍びなく、廃して用いなかった。
用いられなくなって以来、歴年すること数百である。 参考まで
http://www.asahi-net.or.jp/~yw8a-kndu/html/neko_3_himiko_satugai.htm >>28
ありがとー
じゃがどーにでもとれるんちゃうか? そもそも置き換えても意味が通じるだけでのーて置き換えねば意味が通じへん例でないと説得力ないなー あと上の「前世」は、漢代をさしてますね。
九州王さんの「世有」の読みに適合的です。 つうか247以前にひみこはん亡くなってたら箸墓もっと無理ちゃうの? >>30
もちいずすでにらいれきねんすうひゃく(かいけつ >>33
漢文はそういうところありますからね。文脈全体からしか決定できない。
↓ヤマト猫氏のHP。何度もあげますが、良い解読だと思いますよ。
http://www.asahi-net.or.jp/~yw8a-kndu/html/neko_3_himiko_satugai.htm >>37
まー年代的には1ぱーせんとくらいのかのーせーあるやろ(もののべのはかじゃが >>36
私は別に考古学的に 箸墓=卑弥呼墓 を立証しようというわけじゃないですから。
私が箸墓を卑弥呼墓と考えるのは、主には、記紀の記載と、三輪山近辺の神社の残り方です。
おかしな読みを強要して箸墓=卑弥呼墓をこじ付けはしません。
それに卑弥呼が248年に死んでなかったら、共立の時期から考えて、いくらなんでも長寿で長期政権に過ぎるでしょ。 いとこくの首都機能が遷っtいう考えはセンスいーと思いますがどーも箸墓絡めるのは勇み足のよーな気がします(ごめん >>41
三国志には共立の絶対年代ありませんよ(後世の推理や >>42 さん
箸墓を卑弥呼と考え流べきネタは手元にもう揃えてますので、なんとか勇み足と言われず済むように頑張ります。
というか、テンプレにあるようなことや以と已 の読み替えなんかは、私は単なる賛同者ですからね。
明日から仕事ですので、日本海ルート絡みでちょっと自分自身の書き込みできるように整理しておきます。 >>43
勿論そうですが、それでも一般に共立は180年から190年と考えられてますからね。
卑弥呼が248年以降に死んだと言いたいなら、その辺ともセットにして全体整合性を示してほしいですね。
そろそろ落ちます ありゃ、やってしまった。
トリップは以降、変更します。 こんなスレができたのですね。
>>1
>3、平原一号墓の巫女王は、東遷前の先代のものであり、銅鏡による太陽祭祀を主宰する「日巫女」の葟として、最もふさわしい。
卑弥呼の前に女王はいないので、平原遺跡が卑弥呼の墓ということで良いでしょうか? 平原遺跡は女王墓と考えるのが妥当でしょうから、
「魏志には記載のない女王がいた」か、「平原女王墓こそ卑弥呼の墓」か
二人通りでしょうね。
どちらも判断つきかねますが、後者の選択肢は魅力的ですね。 伊都国関係のスレはどこも盛り上がらない。
なぜなら鉄板すぎて隙がなく、完璧な説だから。
邪馬台国論争は平原遺跡が卑弥呼の墓ということで決着している。 女王国は北部九州でいいんだけど、邪馬台国とは何だったのかは解明したい 倭と書いてヤマトと読む(古事記)。
倭と邪馬台国は漢語と和語の違いかと。
どちらも九州北部のことを意味します。 >>61
「私は反論もできない無能です。」
自己紹介乙 平原は女王墓なのは、動かしようもない事実です。
財力、武力、そして宗教的権威、そして女性である証拠、これだけ考古学的な発掘物が揃っているのにまともに評価できないのは、畿内に拘りが強すぎるんでしょうね。
平原の遺物だけを見れば、それを卑弥呼の墓と断定してしまうのも十分わかりますよ。 ただ、考古学的事実のみで短絡的にそれを卑弥呼の墓と断定してしまうのはちょっと、、、ですね。
やっぱり全体整合性が一番大切ですから。旅程記事しかり、魏志に残る伊都国の位置付けしかり、
キチッと説明できないと考古学的事実から無造作に断定するだけの勇み足になる。 >>56
邪馬台国とは北部九州の呼び名でしょうね
投馬国が朝鮮半島南岸の呼び名
女王国とは伊都国を中心とした邪馬台国と投馬国全体のこと。 >>67
朝鮮半島南岸に5万戸は無理。
投馬国は宮崎県西都原の都万。 魏志には、邪馬台国は、女王の都する所ですからねぇ。
はやり伊都国と邪馬台国は、倭国内の別個の国と考えるのが常識的な所でしょう。
まぁ、ネタとしてそこは目を瞑ってあげてもいいですが(笑)
旅程のところで勝手に郡から数え直すやり方だけは黙認することはできません。
投馬国の比定地のところで、魏志の読みでは日本海ルート説がやっぱり一番無難なんですよ。
大国である投馬国を想像させる有力遺跡もありますしね。 結局、私から言わして貰えば、
「マキムクがあるから畿内に決定、旅程記事は比定には用いない(キリッ)」 とか、
「平原墓があるから糸島に決定、投馬国は韓国(キリッ)」とか、全く同じ穴のムジナという所ですね。 あと、句読点の人と私が同じに見える方は、
掛かりつけのお医者さんにまずは相談すされることをお勧めします(笑) 伊都国が都で邪馬台は今で言う幕府では?
征夷大将軍の夷は狗奴国。都より狗奴国に近い南に置く
ちょうど筑紫郡山門がある 「都」とは一説によると「先祖の墓のある場所」なんだけど、
これが女王之所都にホントに当てはまるのか まあ説というか、最古の漢字字典「説文解字」に載ってる意味なんだけどね
成立は100年頃なので魏晋代における漢字の意味を示しているわけだ。
「有先君之舊宗廟曰都」
http://www.zdic.net/z/26/sw/90FD.htm 倭国の代々の王墓は伊都国にあります。
倭国大乱の前の男王70〜80年は、三雲南小路遺跡のニニギら日向三代に比定できます。
伊都が先祖代々の墓のあるところという意味でも通じてしまう。 日程行程部分は別文献引用等が考えられ、それは連合国の説明で、邪馬台国と投馬国があり、邪馬台国が女王の都だ、とも解釈できるね
戸数を鑑みれば妥当と思う
3世紀前半に奴国より3倍以上もの人口がある国があるとは思えん >>78
>平原と墓制が違うでしょ
伊都国の王墓は平原遺跡もその前も、いずれも方形周溝墓 甕棺は伊都国ではなく、福岡平野の奴国の時代の古い墓制ですよ。
少なくとも平原遺跡の前後100年くらいは筑紫の王墓は方形周溝墓。
王墓以外だとずっと甕棺も使われていましたが。 倭国大乱前は天孫族の日向三代。
倭国大乱後は姫氏の卑弥呼政権。
いずれにしても倭国の都は伊都。 >>85
卑弥呼の前後も方形周溝墓の倭国政権が存続しているだろ。 >>89
>ただの伊都国王だろ
ただの伊都国王(阿波から派遣された筑紫忌部の王:一大率)だね。 @阿波 >>89
倭奴国の名前で金印をもらっているので、倭国を代表する倭王ですね。 >>92
倭奴国王は倭王ではない
伊都国と関係あるという証拠もない >>93
金印なので、広域の代表、倭王としての冊封。
そしてその時代の対応する遺跡は伊都国の王墓。
つまり後漢書の倭奴国は魏志の伊都国。
考古学も史学も無視する虚無史観はなんの意味もない。 >>93
お前の理解力がないのか、それともお前にとって都合が悪いから認めたくないのか、どちらだ? 遺跡という証拠があっても、証拠がないと言い張るわけか。
畿内説は卑怯な人間が多いのだな。 >>95
自分の強引な珍説に説得力が無いのを他人のせいにする無学小人だな
ちゃんと論拠が提示できないから皆に認めて貰えないんだ
自業自得と知れ
金印なのは国王印の当然の格式であって、倭国王だなんて理由にならない
倭奴国王は倭国王ではない
よく字面を見るんだな
中国が国号にこだわる国なのも覚えておけ >>97
具体名がなければ
証拠になるわけないだろう >>98
金印をよくみろと言いながら倭奴国王などと、得意気に捏造。
実物は委奴国だろうが。 >>97
そんなふうに
罵倒オンリーに堕ちたら敗北者 >>98
>金印なのは国王印の当然の格式であって、倭国王だなんて理由にならない
つまり倭国王ですね。 委奴国王を倭王に冊封したわけだよ。
他に勢力があろうとも、皇帝が王に権威を与える、それが冊封制度。 >>104
じゃ、なんで倭王のハンコ貰えてないの? >>105
金印が与えられていることが根拠でしょ。 >>98
>金印なのは国王印の当然の格式であって、倭国王だなんて理由にならない
金印は国王の格式だと言っているね。 >>112
だから委奴国王だって。
なんども書かせんなよ げきをなしこれをこくゆするもひみこもってしす
おおいに塚をつくる(ひみこのみやこは福岡県西部沿岸のおっづ1.2 しらふにて
かきくだしたり
せいかいを
ぶろぐうっぷを
はやまりにける(風疾一月到(by吉備桃太郎 金印を本物として考えると、そこにあるのは「委奴国」ですからね。
「委奴国」に下賜したと考えるのがまずは本筋ですね。
後漢書の「倭奴国」というのが前提に来るのがそもそもおかしい。
後漢書自体、文飾に拘って小細工を弄すことが多い書ですし、怪しいもんです。 単に異体字程度の認識で良いかと。
細かい字体の違いにこだわって著者の意図を読み違えるのはどうかと。 >>119
後漢書には奴国なんて出てこないんだよな
出てくるのは倭奴国だけ。 >>120
なにが言いたいのか良くわかりませんが、
金印に関しては、まずは「委奴国」有りきで考えないと。
細い字体といいますが、音韻が異なるのだから、
通用は普通はしませんね。 その時代の遺跡が伊都国にあるのは事実。
日本語は掛詞みたいに多少の音韻や意味のズレはむしろ楽しんで積極的に取り入れるしね。
中国人相手には奴国と倭奴国と伊都国をいろいろ言い換えて、政権交代などを隠して正統性をゴリ押ししたようにも思える。 伊都国は漢に冊封され、また各国の使者がいたから、滅ぼされなかったんだろう。
不幸中の幸いだな。
伊都国は1世紀半ば〜2世紀中頃にあった近畿圏を中心とした倭国の宮家だな。
神功皇后、応神で本来の倭国の再建が始まる。 >>128
「近畿圏を中心とした倭国」
近畿圏を中心とした国があった魏志当時あった根拠なし。
仮にあったとしてもそれを倭国とする根拠なし。
ましてや伊都国以外の九州北部が滅ぼされた根拠なし。
小学生の作文作文以下。 畿内説はまともに反論もできないのか。
なら、「近畿圏を中心とした倭国」は、単なる妄想でFAだな。 >>135
くなのはかばあるやん(ひこにゃんより4ほうをしんりゃくせり >>134
あえて3せいきの倭国を定義するなら対馬海峡日本海沿岸糸魚川以西
くなはひこにゃんきないいせ
後期はクナがおおひことそのむすことひこいますで切り取った 伊都国が遷都したなら倭国内やね?(出雲orたには
あるいは倭国外なら三次吉備あわ
ひょっとしたら大分熊本宮崎(可能性ひくいのー さがはよーわからん(よしのがりのひとらはえーひとらや^^ 倭国の盟主は筑紫
同盟国に肥国、豊国
属州として出雲、越
あとは無名の番外地 お早うございます。
畿内を倭国の中枢として見た場合、纏向はイリ王朝の日代宮跡遺跡としては、ほぼ合格点とおもいますが、魏志の時代まで遡り、それが邪馬台国と呼ばれたのかという点には、やはり少し疑問があると思いますね。
また、纏向とその前の唐子鍵では明確に断絶のあとがありますからね。ホケノは鉄器+銅鏡ですから、イリ王朝は唐子鍵の系譜でなく、平原の系譜と考えるのが順当です。
結局、記紀のイリ王朝の時代に魏と交流した痕跡があるかどうかが、邪馬台国の所在を決定するのだと思います。 じゃあ、イリ王朝で最も卑弥呼とその男弟に近いモデルを探してみると、やっぱり辿り着くのは、
モモソヒメとミマキイリヒコなんですよね。
結局そこの結論でいいのだと私は思います。ミマキイリヒコは、「ハツクニシラス」天皇であって、
このコンビ(ヒメミコ)が伊都に由来を持つのでしょう。
伊都国での記憶(天孫降臨から日向三代)とイリ王朝の間にある神武東征と欠史8代は、編纂時の挿入でしょうね。 私は別に確定の事実を主張しているわけではないんですよ。
仮定として置いてみて、矛盾が出るかどうをみているだけ。
平原から纏向イリ王朝に、継続的に発展している。
記紀の神武東征と欠史8代は後世の創作で、天孫降臨・日向三代から十一代ミマキイリヒコにつながる。
と仮定すれば、矛盾なく日本古代史が説明できるというだけです。 >>147
矛盾箇所を創作と仮定すれば、矛盾なく日本古代史が説明できるというだけです。は。 舶載・倣製でいろいろ議論のある三角は無視することにしても、
例えば、丹後半島にある大田南五号墳や大阪府高槻市の安満宮山古墳からでた
青龍年名の方格規矩鏡です。
これは魏志の時代に畿内との連絡を示していると考えるのが自然です。
しかも、それは瀬戸内ルートではなく、日本海ルートを示唆しています。 >>148
神武東征や欠史八代が、いろいろ怪しいのは、別に私が独自に言ってるわけでもなくて、
特段、恣意的な仮定では、ありません。
欠史八代なんかは噴飯もので、歴史にかけているから、ネーミングからしてそもそも歴史ではあり得ないですね。 私がいま、肯定的に考えている仮説は下記の通りです。
1.伊都国に巫女王による銅鏡を依り代にした太陽祭祀があった
2. 纏向は危機におけるイリ王朝日代宮
3. 記紀における神武東征と欠史八代は怪しいので無視する
これだけで矛盾なく、日本の古代史が綺麗に説明できます。
1.2.3 とも別に私独自の珍説というわけではなくて、最大公約数的な性質を持った仮定と思いますが。 3.が怪しいというのもどうかと。
初代天皇という肩書きを外してしまえば、筑紫日向から大和への幾次かの東征の一つとして矛盾はないでしょう。
崇神と年代が近く、実権をあまり持たなかっただけ。 1.2.3. はどれも相反的な仮定ではないのですから、全部肯定しちゃって構いません。
平原を肯定して、それを根拠に纏向を矮小化しようとしたり、
纏向を肯定して、それを根拠に平原を矮小化したりする必要はなにもないんですよ。 説明は、矛盾がなくて当たり前
矛盾した説明する人が論外 >152 さん
レス有難うございます。
イワレビコは、漢風諡号に、「天下」なる如何にも中国的な語彙が入っていますし、
イワレの地にあるメスリ山古墳からは、大きな鉄弓が出てきています。
私は特大の鉄弓をもったメスリ山古墳の主、イワレビコが初代天皇に繰り上げ登板させられたのだと思っています。 神武の橿原神宮は、言うまでもなく、ゴニョゴニョですしね。
あれは歴史ファンタジーの一種。 >>155
どうして漢風諡号に中国的な語彙が入らないと思うんだ >>157
ハツクニシラススメラミコト という一人の人物を、二つの漢風諡号で表したと言うことです。
そう考えると「馳天下」なんて方が、怪しいですね。
こんなん、別に私が特段主張しているものではなくで、wikiあたりにもかいてるんじゃないですか? おや、>>151 の三つの仮定のどれが無茶苦茶でしょうか?
それても別の点でしょうか??
具体的に指摘お願いします。 神武東征の虚構性は、別に私が独自に主張している内容ではありません 普段、記紀など信用ならん、考古学的事実のみが事実だと言わんばかりのこの板で、
神武東征の虚構性を指摘して、反発されるとは思いもしませんでしたね。 ねえねえ、
神武天皇の漢風諡号って、なんていうの?
教えて また、つまらない揚げ足取りですか。
お付き合いはしませんので、悪しからず。
>>151 の3つの仮定を肯定的に捉えると、伊都国東遷説となり、
それでほぼ綺麗に日本古代史が分かってしまうことについての反論なら
いくらでもお返事します。
もしくは、東遷の経緯としての日本海ルートについてでも良いですよ。 諡号ではなくて、称号ですか。訂正してお詫びします。
ま、ハツクニシラススメラミコトに中国風の味付けをしたのが、
始馭天下之天皇、ということです この程度の人が言っていたとしても、
>>151 の仮定をすべて肯定的に考えると、古代史に特段の謎がなくなることは変わりません。 >>171
この程度の人に、古代史に特段の謎がなくなると言われても、な >>170
内容はちゃんと読んでないのでなんとも言えないが、
>この程度の知識のひとが言ってる説かよ、ってこと
これは少し違う。
結果出す学者は無知な人が多い。信じられないレベルで呆れることが多い。
たまたま見た何かに疑問感じて、その疑問一点に絞って調べて論文書くやつがラッキーパンチで結果出していくのがほぼ全て。
人の論文を真面目に読んで知識が豊富な学者ほど、自分の論文を書く時間なくなって結果出していない。
ある有名な考古学者が一般人を対象にした公募コンテストの審査員をやったとき、素人がプロより真面目に様々な論文を読んでいて驚いていた、じゃなくて驚いていなかった。
プロがそうなんだから専門外の素人が過去に何度も大発見しているのも当然。
知識の穴を指摘し合うのは生産的じゃないよ。 のちの天皇家/物部王家は佐賀の吉野ヶ里か近隣に都していた。(佐賀、、、神の意味)
伊都はその出先機関、衛星国でお代官さまが治めていたと聞いた気がする。
その歴代当主らはホホデミを襲名していたとも。
神武天皇?の神名に、神倭磐余彦ホホデミの命ともされるのもそういった理由からか? >>171
〇〇のナゾが解けた!と言われれば具体的にわかるが
特段のナゾがなくなった!と漠然と言われても
なに言ってんだかワカラナイよ >>173
専門外の素人が過去に何度も大発見
って、具体的になんのこと? 東遷の理由は何?
幾内と北九州は並列してんじゃないの? >>151 の命題をよく見てください。
どれも肯定しておくのが、一番無難な回答になっているはずです。
伊都国東遷は、柳田先生の説であって私独自の説の要素なんて殆どありませんよ。
敢えていうなら、東遷当時の有力ルートとして、日本海ルートをとること、
投馬国をイズモ(於投馬)と考えることぐらいです。
それにしても、御覧魏志を重視する三木の著作や紀年鏡からルートたどる北條論文なんかが論拠にあります。 >>182
文献と考古学の整合性を考えると、3世紀前半までは東遷は難しいのでは?
この時代、北部九州とのかかわりは「鉄」の存在が必須になる。都には「鉄」が必然的に集まる事は当然なのだが…ここが弱すぎる。
卑弥呼までは厳しい、トヨも届くかどうか…この頃に畿内は北部九州と交流し始めたかもしれんが、押さえるほどの力があったとは思えない。 >>184
そうですね、ただ、平原のイト倭国から纏向のイリ王朝という流れ自体は
考古学的な事実として認めてしまって問題ないと思います。
つまりは、畿内が九州を抑える必要はないんです。有り体に言えば、九州が畿内を抑えたんですから。
あとはその時期ですね、私はすでに述べたようにモモソヒメとミマキイリヒコの関係が
魏志に現れていると思考えますので、その方向から柳田の想定する200年頃の平原巫女王の死後、
纏向で次代が立ったと思います。 >>185 さん
貴方のような方ですよ。
一度 >>151の内容をご自身でも考えて見てください。 >>186
>そうですね、ただ、平原のイト倭国から纏向のイリ王朝という流れ自体は
>考古学的な事実として認めてしまって問題ないと思います。
根拠は何かあるの?
柳田はダメでしょ
200年頃死んだ卑弥呼の母親女王って誰? おっと、訂正します。
X 纏向で次代が立ったと思います。
◯ 纏向を含む、狭義のヤマトの地で、次代が立ったと思います。 >>188 さん
>柳田はダメでしょ
という論拠が不明です。 >>192
200年頃死んだ卑弥呼の母親女王って誰? >>193
私は母親とは別に書いてませんし、柳田先生もそうではないでしょうか?
少なくとも私は、先代と書いていますよ。
太陽祭祀を司る巫女王(斎宮)には子供はいないのでは? >>195
そうならそれは私と柳田先生の差ですね。
ちょっと外にいってきます。
ではまた。
今度は日本ルートについて突っ込んで書いてみます。 言い張るばっかりで、突っ込まれると
それは他人の説だから〜みたいな逃げ
どーしよーもない >>174
>のちの天皇家/物部王家は佐賀の吉野ヶ里か近隣に都していた。(佐賀、、、神の意味)
>伊都はその出先機関、衛星国でお代官さまが治めていたと聞いた気がする。
>
>その歴代当主らはホホデミを襲名していたとも。
>神武天皇?の神名に、神倭磐余彦ホホデミの命ともされるのもそういった理由からか?
日向王家は彦火火出見の称号を継承していたのはその通り。
しかしその宮は佐賀ではなく、福岡の筑紫日向の高祖宮です。
かつての伊都国の日の出の方にそびえるクシフル山の麓にある高祖宮は、今でも祭神として彦火火出見を祭っています。
その目の前にあるのが、倭国女王卑弥呼の平原遺跡です。
伊都が倭国の王都です。 >>179
>東遷の理由は何?
>幾内と北九州は並列してんじゃないの?
並列って何が並列?
まあ、東征の理由なら、九州北部における倭国大乱前ですね。 >>184
>文献と考古学の整合性を考えると、3世紀前半までは東遷は難しいのでは?
ですよね。
卑弥呼の即位とともに天孫族が伊都を逃げ出して東征したなら、記紀との整合性もとれます。 >>188
柳田がアホなんでしょ。
平原遺跡は3世紀中頃。 >>205
東征?東遷したとの主張じゃないの?
東征の主体は?
卑弥呼はどうなるの?
北九州に残った勢力は何? >>210
ああ、岡上氏は東遷説でしたね。
でも東遷だと九州北部はその後どうなったのという疑問がありますよね。
神武らが東征したのなら、引き続き倭国の都が伊都で、そこに卑弥呼が即位したのでしょう。
この政権交代の説明が倭国大乱です。 墓制の変化から考えると、卑弥呼は大乱後の勝者グループでしょう
倭国大乱は北九州内(or半島南部or中部九州)での派遣争いでしょうね 糞島説によれば、九州は倭国乱をさかいに豚便所墓から糸島流汲取式横穴墓に変化してるからな お早う御座います。
まず、平原の巫女王と、箸墓のモモソヒメの関係。
これは、柳田先生は、「卑弥呼直系で直前の3世紀初頭に埋葬された倭国最高権威にある巫女王(伊都国を掘る 結論部)」と表現されていますね。
直系ということに、もし血縁関係という意味合いをつければ、それは母親ということです。
が、勿論、DNA関係にかけれるわけでもありませんので、その宗教的権威の直系ということでしょう。
つまりは、私の考えると「先代」ということで大過ないでしょう。 私が先代という言い方に拘るのは、伊勢での斎宮との連絡を見るからです。
>>151 の前提を全て肯定的に捉える視点から、魏志と記紀を再度点検してみると、
平原女王ーモモソヒメートヨーヤマトヒメ と伊都から伊勢まで一本に綺麗につながります。
日本史に特段の謎はないと、私が言って憚らないのは、このためです。
全て太陽祭祀を行う巫女王の系譜ですが、あくまで宗族であって、直系の血縁関係ではありません。 >>219 さん
お早うございます。
平原王墓こそ、卑弥呼とおっしゃりたんですよね。
まぁ魏志を重視すればそうだし、私もそこは考えるところはあります。
ただ柳田先生は、考古学的事実の検討の結果として、>>218のような主張をなされるのですから、
それは一旦は認めておくべきと思いますよ。 イトとヤマトが継続しているという点ですが、こちらについては、
テンプレにある柳田先生の「弥生王権論」を少し引用させていただきましょう。
特に畿内説をなんとなく取っているだけの方は、是非一度、伊都国歴史博物館に行って
現物を購入して読んで頂きたいですね。
短い論文ですが、柳田先生の古代史観がハッキリ示されています。 >>222
まだ、洗脳に気づいていないんだね。 @阿波 弥生王権論 より
5.遷都
弥生時代に限定すれば、「イト国」「ナ国」以上の政治権力、経済、文化的水準が高い遺跡群は何処にもない。銅鏡の分布からすれば、「イト国」が政治経済的中枢で、「ナ国」が経済、文化的中心地である。
近畿地方は、銅鐸による農耕祭祀、祖霊崇拝で明らかなように一般共同体から脱しておらず、首長霊崇拝に転化するのは、古墳時代になってからである。 >>224
倭国(阿波)の鮎喰川下流域集落遺跡群(矢野遺跡等) @阿波 続き
古墳時代の政治経済的中枢部は、三・四世紀が奈良県「ヤマト」であり、5世紀に大阪の「カワチ」「イズミ」に移る。
5世紀になっても大型鏡の踏み返し鏡をもつことから、「イト倭国」の伝統が継承されていることになる。 柳田氏って阿波の事、なんにも知らない人物? @阿波 続き 遷都の必然性
卑弥呼を共立した国・クニは、出現期の前方後円墳が築造される。そうであれば、寺澤薫(2000年)の纏向型前方後円墳の分布が参考になる。
(中略)出現期の前方後円墳を分析すれば、主体部の構造と埋葬品の構成が九州北部、古墳の外形が吉備を含む東瀬戸内地域と深く関わり、
近畿地方弥生文化の属性と関わりないことが明晰であろう。 遷都の必然性 (続き)
石野博信は、近畿は最終的に「ついに人々は弥生のカミを捨て新しいカミを迎えざるを得なくなった。
(中略)二世紀末に突如出現した都市・纏向の人々は、旧来のカミを否定し、新しいカミを迎える行為を積極的に実行したのである」
この文章は、銅鐸(近畿地方のカミ)を否定して、銅鏡(イト国のカミ)へ転換を余儀なくされたことを述べてあり、
本論の最後を飾るのにふさわしいものと私は考える ま、そういうことです。
畿内厨のみなさん、伊都厨のみなさん、お疲れ様でした。
(阿波の方も、一度ちゃんと柳田先生の著作を読まれてください。)
あと、岡上を罵倒するとか、息巻いてた方、反論せずに罵倒してどうするんです?
議論ができませんと行ってるようなものですよ(笑) 阿波さん
丹生神社 (明王寺) - 伊太祁曽神社 奥院 和歌山県和歌山市明王寺鎮座
丹生神社 (田辺市) - 和歌山県田辺市龍神村鎮座
丹生都比売神社 - 和歌山県伊都郡かつらぎ町上天野鎮座
丹生酒殿神社 - 和歌山県伊都郡かつらぎ町三谷鎮座
丹生官省符神社 - 和歌山県伊都郡九度山町慈尊院鎮座
丹生川上神社 - 奈良県吉野郡東吉野村鎮座
丹生川上神社上社 - 奈良県吉野郡下市町鎮座
丹生川上神社下社 - 奈良県吉野郡川上村鎮座
丹生神社 (宇陀市榛原) - 奈良県宇陀市榛原鎮座
丹生神社 (宇陀市菟田野) - 奈良県宇陀市菟田野鎮座 たしか宮崎市定が、ヤマトは吉野に入って森林資源をとる、
つまり、山の戸でヤマトだと行っていましたが、丹からも同じことが言えそうですね。
高霊さんのご高説でもありますね。 考古学者にすぎない柳田の古代史論持ってこられてもダメでしょ
倭人伝完全無視の卑弥呼先代存在論なんて無意味
何の根拠もない 都が伊都から纏向に変わったのであれば、中国の歴史書にそれなりの記述がありそうなものだが、ない。
そこが致命的だよ。
壹與も九州でいい。 >>232
どこにでもある神社がどうかしましたか? @阿波 >>237
むしろイトは、都であった要素しかないレベル >>232
倭人伝にある丹山は、「イト国」「ナ国」にはないの? @阿波 >>242
>>>241
>九州北部の丹は輸入品
平原遺跡の副葬品を見ると輸入品が多く、卑弥呼は輸入品が好きだったことがわかる。 >>234 さん
まぁそれが全てとは私も思いませんが、考古学からの一つの結論として、
平原の巫女王は卑弥呼の先代であるとする尊重する必要はあると思いますよ。
平原墓はたしかに卑弥呼の墓として非常に魅力的ですが、
伊都国説は、肝心の魏志の読みでまだ成立しないと思います。
九州王さんの「世有王(当時、王がいた)」の読みと「常治伊都国(伊都国で治めていた)」という読みは、
斬新と思いますが、問題はやっぱり投馬国の比定地です。 投馬国も邪馬台国もどこでもいいよ
卑弥呼がいたのは女王国 >>251
なら、どうして一女子の卑弥呼が共立されるんだ >>252
考古学からの「一つの」結論です。
少しミスリーディングな書き方になりましたね。
銅鏡を憑代として太陽を奉斎する日巫女が伊都と呼ばれた地域に葬られていた、ということは最大限尊重するべき事実です。
そこから逃げる畿内説論者はさっさと退場願いたいですね。
>>253
悪口だけですか?
>>254
魏略には、投馬国も邪馬台国も出てきませんしね。
卑弥呼が朝貢したタイミングでは、まだ伊都国にいたとすると面白いですが。。。 >>256 さん
すみません、もうちょっと分かり易くしてと助かります。
卑弥呼=平原被葬者としての立場からのご質問ですか? >>258
>倭人伝にある丹山は、「イト国」「ナ国」にはないの?
答え希望。 @阿波 >>258
誰の立場から見ても>>251は倭人伝と合わないんじゃないの? 阿波さん
正直いうと、丹には、あまんまり興味がないんですよ。
丹生神社がその痕跡かもしれない、というような通り一片の知識しかありません。 >>257
>考古学からの「一つの」結論です。
根拠を言ってみて >>260
巫女王はあくまで巫女王ですから。
実在の平原被葬者は、
1. 卑弥呼であるか、
2. もしくは、魏志に記載されなかった巫女王ということになるでしょうね。
柳田先生は考古学者の立ち位置ですから、躊躇なく 2. を選んだということでしょう。
私はといえば、別に1. も十分にあり得るのではと思っていますよ。
ですので、フリーの立場で野心的に魏志を読み解く九州王さんは密かに応援しています。 ただ、現状の伊都国説では、投馬国の読みは、大きな減点ですから、応援はしていますが、支持までは出来かねます。邪馬台国を比定するなら、投馬国をもっと合理的に説明できないと、、、
常治伊都国 の問題は、まぁ100歩ほど譲って、一つの仮説・読みとしてはあると思います
>>262 さん
せっかく長々と引用したので、その辺を読んで見てください。 >>259
かわっておこたえしましょー
ひすいもすいぎんも対馬海きょーや日本海航路で主に鉄と交換されてました
あまのつにもくなのつにも産出山がなくても交易品としてひすいも水銀もあふれていました(かいけつ いとこくや
とうせんせども
ならのにし(
かいけつ >>265
>せっかく長々と引用したので、その辺を読んで見てください。
ダメだよ、どこにも根拠ないでしょ
>魏志に記載されなかった巫女王
こんなものを根拠も無く言っちゃあ何でもありになっちまう ならははか
ひこねのおうが
ほうむらる
つまどいこんの
もののふのはか >>261
>正直いうと、丹には、あまんまり興味がないんですよ。
そりゃそうでしょうね。 「丹」云々が言えるのは「阿波」だけですから。
ただし、「丹」も倭国(阿波)のワンオブゼムですが。 @阿波 >>263
>柳田先生は考古学者の立ち位置ですから、躊躇なく 2. を選んだということでしょう。
根拠なく2.を選んだのなら、科学的思考の放棄だな。
学者の風上にも置けないやつだ。 >>273
卑弥呼の前に倭女王がいたら倭人伝と合わんだろう >>274
柳田先生は、「躊躇なく」選んだのであって、「根拠なく」選んだ訳じゃないでしょう。勝手に読み替えないで下さい(笑)
考古学者ですから、考古学的根拠にのみ依拠して判断を下した、そういうことです。 >>275
その場合、邪馬台国はどこになるんですか?
投馬国は宮崎で、邪馬台国は九州北部ですか?? >>277
>考古学者ですから、考古学的根拠にのみ依拠して判断を下した、そういうことです。
阿波を知らない考古学者は半人前。 @阿波 >>272
阿波さん
そういうだろーなーと思ってました。
>>279
確か、方格規矩鏡を検討して、平原のものは、青龍三年鏡より古い形式のものだ、というような根拠だったとおもいます。
すみません、寝落ちしますね。 吉岡 斉氏(よしおか・ひとし=九州大教授)1月14日、
肝神経内分泌腫瘍のため死去、64歳。
告別式の日取りなどは未定。喪主は弟、拓氏。
専門は科学史、科学社会学。2010年4月から14年3月まで九大副学長を務めたほか、
東京電力福島第1原子力発電所事故をめぐる政府の事故調査・検証委員会委員だった
https://www.nikkei.c...70230U8A110C1ACYZ00/ 1レス上も見えないんでしょうか?
平原は青龍3年(239年)より古い形式の方格規矩鏡なんだから、
248年没の卑弥呼の墓とするには難がある、ということです。
(あくまで柳田先生の判断です、いま手元に資料がないのでうろ覚えですが)
それではおやすみなさい。 >>287
詐欺師さん、あんたは何の根拠を聞かれて答えたの? >>287
>248年没の卑弥呼の墓とするには難がある、ということです。
柳田はそんなことは一言も言ってないよ
そもそも239年の鏡を造ってすぐに埋納するわけなかろ
いいかげんな奴だなあ まあネームバリュー拝借型他人の褌でサギ丸出しスレだから仕方がない ・・・
248年に死んだ人の墓に
239年より古い鏡があったらおかしいと
本気で言い張ってる人の脳を病理解剖したら
面白いかもしれん
・・面白くないかも知れん
私個人は、考古学的には、平原=卑弥呼墓説も十分魅力的に感じているのですが。
魏志に記載がないから卑弥呼の先代と見ることができない言われますが、
平原を卑弥呼の本人と見ても、魏志と矛盾があると思います。
(>>251 にて書いてある通りです。)
平原王墓が巫女王のものもであることは、考古学的に間違いないのですから
これを魏志とどう整合的に解釈していくか、ということです。
それでは今日も一日、仕事頑張りましょう >>293
>平原王墓が巫女王のものもであることは、考古学的に間違いないのですから
一刻も早く、柳田氏の呪縛から解き放されることを祈念いたします。 @阿波 >>280
投馬国には行っていないから、ちょうどいいのでは?
帯方郡から概ね南下だし。 >>294
>平原を卑弥呼の本人と見ても、魏志と矛盾があると思います。
どこが矛盾があると思ってるの? >>301
畿内厨は低脳だから答えられない、ほっとけ >>287
>平原は青龍3年(239年)より古い形式の方格規矩鏡なんだから、
>248年没の卑弥呼の墓とするには難がある、ということです。
順序的には、卑弥呼が生前使っていた鏡を服装した可能性の方が高いのでは?
新しい形式の鏡が出たらおかしいけど、少し古い程度ならむしろ可能性大だね。 伊都に王がいたと書いてあるだけで、それが誰とは書いてない。
倭にいた王なのだから、卑弥呼を指していたんだよ。
書き手としては、あの文書で卑弥呼以外にも王がいたなどと読まれてしまうことが想定外なんだろうな。 >>305
そうでしょうね、畿内に邪馬台国を持って行きたい人が卑弥呼以外にも王がいたなどと変な訳をしたんで、それに引きずられてしまって倭人伝の解釈がグチャグチャになってしまった。 >>301
>卑弥呼じゃないとすると誰なの?
倭国(阿波)から任命された筑紫忌部の長(一大率)。 @阿波 >>309
畿内説が誤訳を喧伝して回っていたのですね。 >>312
九州はどこぞのサティアンにいた宗教団体めいてるな >>312
江戸時代の人は伊都国の熊襲女酋長が倭王を騙って魏に入朝してたとか言ってたみたいだから、ちゃんと読めてたんでしょうね
明治以後の人の漢文読解力が低かったんじゃないかな。 要するに、魏から見た邪馬台国は伊都国なんでしょ。
で、そこにいたのが卑弥呼。 要するに、魏から見た伊都国は伊都国。 邪馬台国は邪馬台国。
卑弥呼がいたのはその邪馬台国。 なんでそんなにひねくれるの? @阿波 >>315
右左はともかく、魏志倭人伝は伊都が邪馬台国の都と書いてあるように読むべき。 だいたい、理由もなく都なんて字を中国人が使うわけないだろ。 >>318
>右左はともかく、魏志倭人伝は伊都が邪馬台国の都と書いてあるように読むべき。
その魏志倭人伝には、「其山有丹」 とも書いてあるよ? 伊都国に丹山ないでしょ。 @阿波 >>322
>九州の遺跡は丹だらけだぞ。
どこの九州産の丹なんだい? @阿波 平原の巫女王を卑弥呼本人とみるか、先代とみるか、魏志の読みに限っての得失を計算してはどうでしょうか?
強引な書き換えは・読み替えは、×として -2 ,以下、下記でどうでしょう。
× 文字の足し引き、書き換えは、一文字につき-2点
△ 苦しい読み -1. ◯ 普通の良み +1. ◎ 良い読み +2
対象は解釈が分かれそうなところや、説として差別化できる点に限って、やってみます。
1. 世有王 皆統屬女王國
2.南至投馬國 水行二十日
3.南至邪馬壹國 女王之所都 水行十日陸行一月
4.自女王國以北 其戸數道里可得略載
5.自古以來 其使詣中國 皆自稱大夫
6.自女王國以北 特置一大率檢察 諸國畏憚之 常治伊都國 於國中有如刺史
7.倭國亂相攻伐歴年 乃共立一女子為王
集計結果はやってみないと私も知りません(笑) 1. 世有王 皆統屬女王國
早速問題の読みが来ました。伊都国説では、世有(女)王と一文字補いますが、
魏志にて王の一文字でで女王を指すケースがり、畿内説の世世と一時を補ってなっていますし
ともに、減点は不要でしょう。
伊都国説 : ◎ 2点
世有(女)王、皆統屬女王國
魏の時代に女王がおり、周辺国は全て女王国に統属していた。
畿内説 : ◯ 1点
世(世)有王、皆統屬女王國
代々王がおり、周辺国は全て女王国に統属していた。 早速やってしまった。
1. 世有王 皆統屬女王國
早速問題の読みが来ました。伊都国説では、世有(女)王と一文字補いますが、
魏志にて王の一文字でで女王を指すケースがり、畿内説の世世と一時を補ってなっていますし
ともに、減点は不要でしょう。
伊都国説 : ◎ 2点
世有(女)王、皆統屬女王國
魏の時代に女王がおり、周辺国は全て女王国に統属していた。
畿内説 : ◯ 1点
世(世)有王、皆統屬女王國
代々王がおり、その王たちは全て女王国に統属していた。 2.南至投馬國 水行二十日
伊都国説 × × -4点
(自郡)南至投馬國 水行二十日
二文字追加で、-4点。
畿内説 × -2
東至投馬國 水行二十日
一文字書き換え、-2点
ま、ここはどっちにしても本文を触らないと解釈できないと思います。
私個人は、2文字追加はご法度と思いますので、当面畿内説です。 >>328
普通の九州説は私には全く興味ないからです。すみません。 3.南至邪馬壹國 女王之所都水行十日陸行一月
伊都国説 : -2点 、-1点 計 -3点
南至邪馬壹國、女王之所都 水行十日陸行一日
一日に書き換えで、-2点。
女王の都とあるのに、邪馬壹を伊都国と無理矢理解釈するのは、-1点。
畿内説 : -2点
東至邪馬壹國、女王之所都 水行十日陸行一日
東への読み替えは、意味合い的にはすでに減点済みなのでノーカウント。
瀬戸内海ルートなら読み替えが必要なので-2点。
(日本海ルートなら読み替えなしなので+1点) 4. 自女王國以北 其戸數道里可得略載
伊都国説:+2点
畿内説 :+1点
伊都国説なら、ぴったり読み込めるので1点追加。 東への読み替え減点に根拠なし。
瀬戸内海ルートの読み替えに根拠なし。 5.自古以來 其使詣中國 皆自稱大夫
伊都国説:+2点
畿内説:+1点
ここも九州北部の継続の視点がはっきりするので加点 >>334
そんな贔屓してると比較の意味がなくなりますよ。 >>317
要するに、魏から見た伊都国は伊都国。 邪馬壱国は邪馬壱国。
イヨちゃんがいたのはその邪馬壱国。 なんでそんなにひねくれるの? @武蔵(かいへんごようしゃ^^ 6.自女王國以北 特置一大率檢察 諸國畏憚之 常治伊都國 於國中有如刺史
伊都国説 : -1点
畿内説: :+1点
王が居ながらにして、わざわざ一大率が伊都国で検察するというのは、
ちょっと変な読みなので、 伊都国説は-1点。
さて、集計はどうなりましたかね??? 7.倭國亂相攻伐歴年 乃共立一女子為王
伊都国説:◎ +2
畿内説: △ -1
畿内説では、平原の女王が説明に苦しいので-1点
さて結果はどんなもんでしょうかね。 結果、伊都国説は、0点、畿内説は -1 点、日本海ルートなら、一文字書き換えせずに済むので+1点ですか。
思ったより差がでませんでしたが、伊都国説が意外に健闘した感じを受けました。 >>343
あんまりまともな意見をに言われても困りますが、アマゾンでもなんでも評価点をつけてるじゃないですか。
まあ、くだらない遊び、そんなもんですよ。
けど、点を付けてみて、伊都国説の読みが意外と頑張ってるのでビックリしました。 こうして得失を考えるのは面白いと思いますよ。
個人的な「岡上説」としては、共立された女王と248年に死んだ女王は別人と考えるのが面白いと思っています。
平原の巫女王が太陽祭祀を主催しているのですかから、卑弥呼は役職名のしての「日巫女」と解釈することができます。
基本、「良いとこどり」なのでこうした得失はも完璧に近くなるでしょうし。
仮説として立てていけない理由も何もないと思います。 >>349 さん
いつ、かは、二人の「日巫女」説に立てば、簡単です。
共立後、平原の埋葬があった200年から、魏への遣使のあった238年の間です。
なぜ、かは難しいですが、遷都後、歴史的経緯として江戸時代まで畿内は日本の中心だったのだから、
やはりその地理的な特性ではないでしょうか。 >>350
>共立後、平原の埋葬があった200年から、魏への遣使のあった238年の間です
根拠は何かありますか?なんで238年までなの?
>やはりその地理的な特性ではないでしょうか。
東遷前は日本の中心じゃないですね、意味不明です。
幾内は奈良時代まで湖の底だったという史実もありますね。 >>351 さん
レス有り難うございます。
卑弥呼が二人いるとすれば、遣使までに先代がなくなっていないと、魏志に記載がないのは余りに不自然です。
あとは、歴史の経緯として、畿内が中心になったのだから、九州北部から畿内への遷都があったことは疑えません。それならこの古代のタイミングが一番自然に思いますよ。 >>352
1人目の卑弥呼が死んで東遷した理由がまったく不明ですね
238年までに東遷したなら魏志に記事のない理由も不明です
魏使は幾内まで行ったのですか? 魏志との通行前なら、魏の側で交代があっても、わからない可能性が高くなる、ということです。かなり時代が降ってもっと接触が多かったはずの明史の明智光秀の件もあります。
一人が二人になった例が堂々と正史として残っているのです。その逆が起こり得ないことも否定できないとおもいます。
魏使は、畿内まできていません。これは、伊都国は郡使が常に駐する所とあり、実際の記事も「有・可」や「到・至」の使い分けがありますので、畿内説の立場でも認めておきたい所です。
畿内まで遣使が来ていないとする理由は、一つは伊都国にて一大卒があり、検量検数の点でも相応の機能を有していたであろうこと、一つは、倭国側の自国機密保持の観点、
最後の一つが魏使の側も九州北部からさらに都合2ヶ月となると負担が大きすぎることです。 誤 :その逆が起こり得ないことも否定できないとおもいます
正 :その逆が起こる可能性も否定できないとおもいます
これはひどい。訂正してお詫びいたします。
今日も一日頑張りましょう! 魏志、魏略編纂の際に、伊都国が首都だったころの記録と、
ヤマトへの東遷後の記録が混ざったのでしょう。
魏との交流前、公孫勢力の時代に東遷があったからこそ、
魏側では混乱した記述になっているとも考えられます。 だめですね
まったく理由になってない、何でもありの世界ですね >>334
>東への読み替え減点に根拠なし。
>瀬戸内海ルートの読み替えに根拠なし。
読み替えが必要なら減点対象に決まっている。 卑弥呼の先代女王も、東遷も、魏志倭人伝に全く有りうる余地がない。 ◆◆ レス投稿者の皆さんへ ◆◆
邪馬台国関連スレ 類似スレが乱立され、同一人物によるage連投によって
日本史板の上位スレが常時 邪馬台国類似スレで占められて不快を感じている方が
多くおられます。
周りの方の不快感払拭のために、できるだけ sage進行でお願いします。
自己顕示欲 公開オナニーを見せたいのは解りますが、
ウザいので、 やめてくれ
分ったか、 カス 上の点数でわかるだろ。
そのためにスコアをつけているんだから。 文字の読み替えが減点なのは、当たり前でしょう。
よく見ると、伊都国説は、 マイナス 8点 とプラス8点の合計8点で、
旅程関連の読み替えが大きなマイナスですが、光る読み多かったですね。
対する畿内説は、マイナス4点とプラス3点の合計-1点ですから、
どちらかといえば、加点をしたくなるような点がない退屈な読みで、
南→東の読み替えの減点が大きいという所でしたかね。
こと魏志との合致点ということでは、伊都国説にもかなり取るべき点はあるとおもいます。
畿内説は纏向偏重はそろそろやめにするべきと思います。
魏志との合致点から邪馬台国を探すという王道に早く戻って欲しいですね。
平原の考古学的事実と魏志をより深く読もうとする伊都国説からすれば
平原を矮小化して、ベニバナ(笑)とか 水の祭祀(笑) 桃による神仙思想(笑)とかいっても、それこそ鼻で笑われるのもわかる気がします。 訂正:マイナス 8点 とプラス8点の合計0点
さて、岡上説たる「二人の卑弥呼」ですが、何でもありでご法度との意見もありますが、
私はそう簡単に断ずることはできないと思います。
なぜなら、魏志にある卑弥呼の統治年数は、魏志をそのまま素直に読めば、霊帝末期の190年から248年と、
約60年と、超長期の政権となってしまうからです。
加えて卑弥呼共立の記事に続く「年已長大」の四文字を「すでに成人していた」という意味ととる最も光る読みを前提とすると、
上記の60年のということが更に特異な現象になってしまいます。当時の栄養状態や衛生観念など考えるとここまでの長寿を
そのままに信用するというのもあまりに無邪気と思います。
卑弥呼が二人いたとすれば、治世は、それぞれ30年程度で、これならぐっとあり得る範囲に近づきます。。 >>374
>さて、岡上説たる「二人の卑弥呼」ですが、何でもありでご法度との意見もありますが
昔からある説だろw
それに何でもありと言ったのはそこじゃないよ
それよりまず東遷の理由を説明しましょう
それなしにはこのスレの意味が無いでしょう >>374
湿地帯の奈良盆地へ東遷した理由は何? @阿波 >>377 さん
卑弥呼を複数人と考えるのは、ネットはある程度引っかかるのは知ってましたが、
昔から結構ある説なんですね、
では、どこを指して「なんでもあり」と言われたのでしょうか?
いまいちはっきりわかりません。
>>373 さん
そりゃ読み替えや字を随意に足したらダメでしょう。
逆にいえば、正当な理由があれば、減点にはならない、ともいえますが。
伊都国説、畿内説、それぞれもっともらしい理由をつけて読み替えしますからね。
一律的に「読み換えを減点」としたほうが、比較しやいという便宜上のためです。 >>374
湿地帯の奈良盆地へ東遷した理由は何?
避けてるようだね。 @阿波 >>374
おいおい岡上さん
あんたらしくもないな
台与は伊都で張政に面会した
だから卑弥呼はおろか台与の代まで
邪馬台国女王は伊都あるいは伊都近辺の北部九州にいた
ということであんたも異存はなかったはずだ 阿波さん 、377 さん
私が東遷の理由をうまく正当化できなかったとしても、現象としては、
(柳田先生によって)考古学的に推定されているということは、変わりませんよ。
ま、折角ですので東遷の原因の拙案を言いますと、それは、平たく言って、
日本海ルートによって、畿内を抑え、最終的に西日本全体、特に吉備を制圧するためです。吉備を制圧してしまえば、より効率的な瀬戸内海ルートがつかえることになりますからね。
岡山(吉備)は黥面土器などの出土状況からすると、東海地方と文化を同じくしています。つまり、私は、吉備は、倭国に敵対的であった狗奴国だったと考えています。
遷都までする必要があったことに関しては、当時はあくまで「共立」であるので、
共立の象徴として、祭祀の中心を畿内に持っていく必要があったのではないでしょうか? 東遷以前から、唐子鍵は、銅鐸祭祀で東海地方と綿密な連携がありましたので、
中央にある三輪の地が銅鏡祭祀に転向すれば、狗奴国としては、かなりの打撃ではなかったでしょうか。東遷での首都移行というのは、そのためのコストということです。 吉備と東海は全く違うだろ
吉備は楯築
東海は前方後方
土器を持ち出すなら
東海のS字がなんで吉備に出ない?
吉備と東海なんて全然関係ない
むしろあんたの言う銅鐸祭祀で
大和と東海のほうが密接に関係している
纒向の土器でもね
スレ立ててまで
こんなことを言いたかったのか?
飲みすぎた? >>382
ご苦労さんでした。 いろいろ考えたんだね。 でも泥縄で、なんか気の毒。 @阿波 >>381 さん
たしかに張政は、伊都国でトヨに檄をもって告諭したと言いました。
それは今も確かにそう思ってますよ。
(ただし、トヨはその後本拠であるヤマトに戻ったのでしょう。)
当時は旧来型の畿内説に心底辟易していたので、伊都国説を助ける意味でも
上の括弧までちゃんとお伝えしなかったかもしれませんね。 >>385
畿内で戦争中に
告諭されるために伊都まで出張することはありえませんね
北部九州で戦争中だったから
伊都で告諭されたんでしょう
これも当時のあなたが同意あるいは少なくとも反論はしませんでした 383 さん
手厳しいご意見、ありがとうございます。
ただ、倭国の文化である内向花文鏡が播磨から西、吉備にあまり流通していなかったことは、
福永も論文にて指摘している事実です。
私の上記の仮説は、吉備と東海が完全に一枚岩でなかったとしても通用すると思いますが。
東海と三輪の地が銅鐸祭祀にて一枚岩であったからこそ、日本海ルートで筑紫勢力が
三輪を抑えたと考えることができるのではないでしょうか? 386 さん
トヨは13歳ですから、三輪の地にいても、象徴的な意味しかありません。
私は、魏志の男弟=卑弥呼死後のドタバタで立とうした王=ミマキイリヒコという仮説で、
彼はトヨの父親に他なりませんから、彼が三輪の地にいれば、それで十分なのです。
当時しっかり反論しなかったことは、謝ります。
まぁもう2ちゃんでは、最近は伊都国説の方が優勢な感じですから、反論しておきます。 幾内と伊都と行ったり来たりしてたわけね
ますます東遷の理由がないね >>389 さん
畿内と伊都をいったり来たりできたのは、東遷というコストを払った結果です。
そしてその結果、イサセリヒコが西征して、吉備を鎮定することができたということとです。 >>388
彼は三輪にいたカモメ
娘はトヨタに就職したカモメ
トヨタの苦境に彼の息子か孫が駆け付けたカモメ 引越しするなら電化製品もっていくっしょ
引越しするなら鉄器もっていくっしょ
それがない
だからそういうこと 岡上よ >>1、
議論するのはええけど
sage進行でやってくれや
他のアホで一人、 類似スレばんばん乱立させて
ばんばん 板の上位にもってきて 24時間 邪馬台国スレばっかりや
たのむから
sage進行でやってくれ
お願いしたで >>387
>東海と三輪の地が銅鐸祭祀にて一枚岩であったからこそ、日本海ルートで筑紫勢力が
>三輪を抑えたと考えることができるのではないでしょうか?
日本海を押さえていた筑紫勢力こそ、伊都国で魏の使いを迎えた倭国だろ。
押さえられていた三輪など畿内の勢力は魏から認識されていなかったはず。 >>398
あのなあ ageる暇あったら 働けよ
両親 楽にさせたれや
わかるか? >>396
そうですね、ですので日本海ルートで鉄器も入って来てますね。
ヤマトの地(纏向)では遅れるようですが、ホケノからは出てますしね。
基本的に内向花文鏡+鉄器というのがイト倭国から東遷の証拠品となります。 どうやら大乱終了時か1人目の卑弥呼死亡後の違いだけみたいね
後は畿内説とまったく同じ >>398 さん
貴方とは話が合いそうな予感がします。
日本海ルートでの流入の起点となるのは、丹後 籠神社になります。
ここから福知山に出て加古川を下って瀬戸内海に出れば、播磨の地です。
加古川市では、西条52号墳の内向花文鏡が有名ですが、イト倭国の文化を受け入れてたと思われます。
この丹後から加古川沿いに瀬戸内海というのは、北條芳隆の「邪馬台国所在地論とそこへの道程」にて
指摘されているルートです。このルートは日本海ルート論者の小路田 泰直 も指摘しているようですね。
加古川のすぐ近くには明石海峡があり、すぐ北には、高地性集落の表山遺跡があります。
http://www.hyogo-koukohaku.jp/collection/p6krdf0000000way.html
ここからは、九州からきた小型鏡が出て来ていますので、この地を抑えられると、
吉備は近畿東海から切り離されて孤立する以外ないですね。
これらは全て私の説の肯定的な論拠となりえます。 >> 401, 402 さん
あなた方とも非常に有意義にお話が出来そうですね。
伊都国説と私のような伊都国東遷説は非常に立場が近いと思いますよ。
そもそも私も平原墓を卑弥呼本人のものと考えることには抵抗感があるわけではないんです。
ただ、記紀の日向の筑紫での記憶が考古学的根拠づけられるなら、ミマキイリヒコの辺りのイリ王朝の
故事もやっぱり正しい可能性が高いのではと思いますので、そういう意味での畿内説という立場ということなります。 >>404 さん
もちろん完全オリジナルの隠し玉もありますよ。書いてないだけです。
畿内説スレで随分妄想乙とか岡上無学とか言われましたので、
防御策として論文や他人の説を援用できるところはするようにしています。 畿内への日本海ルートいうんは敦賀彦根経由で東海方面への分岐せし支流にすぎません(3世紀彦根が四辺に与えた影響を各自勉強すること! 私は、宮津〜福知山〜加古川〜明石海峡のルートが吉備分断ための進出時のルート、
宮津〜福知山〜亀岡〜交野〜生駒〜桜井というのが、魏志倭人伝の時代の交易ルートと考えています。後者のルートは、各地の一宮を繋ぐルートですね。 >>400
>ヤマトの地(纏向)では遅れるようですが、ホケノからは出てますしね。
倭国(阿波)からの鉄器ですよ。 悪しからず。 @阿波 魏志の大夫・難升米、都市・牛利というのは、それぞれ日本海ルート上の記紀の人物、田島守と由碁理です。
由碁理は、籠神社の勘注系図によると、タケモロズミの別名であり、崇神期に出雲に派遣された人ですね。
これも日本海ルートを取るならある意味必然的に逢着するであろう推論になりますので、書いておきましょう。 反論する人もあまり出ませんから仕方ないところですかね。
今更畿内厨を相手に平原の価値から論争し直す気持ちも起きませんし、
飽きれば静かに消えますよ。 >>409
陸耳三笠を討ったあとのルートやな
ヒコイマスのまえはそこらへんは日本海すどおりや 滋賀県福井県の土器変遷研究してた人いたのー(名前でてこん 彦根には鉄の集積加工地があった
そして彦根敦賀のルートもあった
丹後には耳の陸軍王国があった
沼津に鉄がでた
沼津の墓の企画は箸墓に先んずる前方後【円】やった
くなの領域が浮かんできたな >>414
丹後風土記残欠ですか、マニアックですね。
籠神社の伝世鏡がタニワとイト倭国との繋がりを保証するのですから、
ヒコニイマスの前の時代、崇神期より前にすでに日本海ルートの上陸拠点になっていますね。 ちなみに吉備津は崇神紀にあらず(古代は古事記が正解 >>417
この=くな=国に組み込まれたのはすじんき以降やね(やっぱりひこいます 伊都国から派遣されし大倭かもよ
みみかざりしてたんやろ 「ミミ」なる名称を持つ人物が日本海側に出てくるところも、
日本海ルートの証左って言えなくもないです。
>>418 さん
吉備津彦の吉備鎮定は崇神の前の事績でしょうね。
モモソヒメ・ミマキイリヒコのペアの前に モモソヒメ・イサセイリヒコのペアの時代があったのではと思っています。 女王国は丹後で上陸できたが巻向へは到らず
男王クナは半島の鉄を日本海をどこをどーとおったがしらんが敦賀に水揚げおもに東国経営に消費せし
男王にとって巻向の墓はただのパフォーマンスアピール(かいけつ >>423
吉備津とおおひこは友達だったこともあるかも(すじんのまえ かわちひこと瀬戸内海がよーわからん(住吉が関係あるやなしや? >>428
確かに畿内厨のアホさ加減には歯が立たないだろうな。 アホはおまえや
いちいちあげんなカス
さげ でやれ
何回も言わすな >>431
運営の人でしたか(ごくろーさまです
できますのならデフォルトをsageにせー
面倒じゃろ えーと神武さんのルートですが河内湖進入敗退後いったん淡路に撤退しているよーにしか思えません(まー根拠はわえの直感
ということは淡路鉄工所はアマテラスがわでした(はなほじ
つーか今ラジオですさのおのみことやってるぞなもし くしなだひめかー
そしてやまたのおろちかい(らじお ありゃあげっとった(おぼえてたらさげます
つうかこのくだりは神武さんの大和進入時とおなじやな? >>435
端末がしょぼいのであります(
パソコン通信のじだいからつこてます(なんとかじりきでアンドロイドいれた 次回は
因幡の白兎かー
倭丹族とうじょうやね(わに 一宮は大事かもね。
古代においては宮というものは王族の住むところであり、行政府でもあった。
本殿と拝殿という構造も、職住近接の王宮の形を残したものなのだろう。 さげるのめんどいのー(さげれおじーちゃんかもせんせーとキャラにててにくめんからできるだけsageたろ いろいろ考えましたが、興味深い事実を発見しましたので、やっぱり公開することにします。
昨日、高齢厨さんが葛城スレでかなり近いところまで来ていましたので、もういっちゃいましょう。
発見したのは「事実」ですが、まずはその前に一つ「仮説」を紹介いたします。
それは、昨日言いましたモモソヒメのとの対になる「ヒコ」が、ミマキイリヒコの前は、
モモソヒメの弟、イサセリヒコであるということが関係します。
漢字で表すと、百襲媛は、百の数字が入っており、その弟の五十狭芹彦は、五十の数字が入っています。
続きます 五十狭芹彦が恐らくは崇神朝の前に瀬戸内海を鎮定したであろうこと、そしてその業績から吉備津彦と呼ばれていることは、昨日の話題でもありました。
百襲媛の墓と言われているのは、言うまでもなく箸墓ですが、丁度吉備の中心部を臨む地に、吉備での前方後円墳の
嚆矢とされる古墳があります。浦間茶臼山古墳です。
浦間茶臼山古墳は、その形状が、ぴったりと箸墓の1/2の相似形になっています。これは北條先生の論文で指摘されていて、比較的広く知られたことです。
私の仮説とは、イサセリヒコの墓は、浦間茶臼山古墳ではないか、ということです。
ここまでが、「仮説」です。
続く それでは、事実について解説します。
発見というのは、地理的な関係性になります。
https://maps.gsi.go.jp/#15/34.709762/134.066849/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
国土地理院地図から、浦間茶臼山古墳と、伊勢神宮内宮を結ぶだけです。 国土地理院の地図では、右上のツールの作図・ファイルから、2点間に直線を引くことができます。
そのツールを使って、浦間茶臼山と伊勢神宮内宮を結んでみてください。
それぞれ場所がわかりにくいで、結ぶのに時間がかかると思います。
浦間茶臼山
https://maps.gsi.go.jp/#16/34.709515/134.067128/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
伊勢神宮内宮
https://maps.gsi.go.jp/#16/34.454961/136.725218/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0 二点間に直線を引いたら、あとはその直線上や付近に何があるか確認してみてください。
どうせ箸墓があるんだろ、と思った貴方、正解です。
箸墓どころか、三輪山山頂付近を通過します。
ただ、それだけはありません。
この二点間の距離は、約250kmですが、異常に沢山の歴史的な神社や古墳がこの直線の1kmに収まっています。
並びます。1km以内どころか、直上にある遺跡も複数あります。一度ご自分で確認してみて下さい。
誰もやらないなら、あとで私が公表します。 >>450
そう見えるはわかりますが、一度ご自分で試して見てください。 >>451
そんなことに現を抜かすより、湿地帯の奈良盆地で弥生集落遺跡群でも見つけたほうが良い。
もともとポツポツしか無いから遺跡群としては見つからないだろうけど。 @阿波 >>454
阿波さん
試してみましたか?
試す価値もないとお考えでしょうか? 意味がないからしません。それより、湿地帯の奈良盆地で弥生集落遺跡群でも見つけたほうが良い。 @阿波 2ちゃんには、もう少し頭の柔らかい方がいるとおもいましたが。。。 人は見たい現実しか見ないと言いますが、まさしく格言の通りですね。
この二点間を結ぶ曲線上には、主な神社・遺構など下記を通ります。
以下、東から
0. 伊勢神宮内宮直上
1. 墨坂神社 直上
2. 三輪山山頂付近
3. 檜原神社 直上付近
4 ホケノ山古墳と箸墓 中間点付近
5. 大阪山口神社付近
6. 箸墓の石を取ったと考えられる芝山南付近
7. 伝応神天皇陵主体部直上
8. 伝仁徳天皇陵の北方付近
9. 明石海峡の中間地点
10. 浦間茶臼山古墳
です。だいたい1km以内ぐらいに収まっているかと思います。
一度の誤差でも1km先では17.4mの差になります。100km先なら1.74kmですかね。
先ほど言った通り、この直線の総延長は、だいたい250kmあります。 トヨが天照を祀ったという檜原神社の上を通っています。
さらには、墨坂神社と大阪山口神社の対応関係が注目されます。
ヤマトの地でミマキイリヒコが崇神朝の基礎を作った際に祭られた神社です。
日の出の方向の墨坂神社にはには赤盾を、日の入りの方向の大坂山口神社には黒盾を祀りました。 私が強く言いたいのは、上記は、単なる地理的な事実であるということです。
(当然、別に私が恣意的に配置したわけではない。)
単なる偶然と捨て置くことも簡単ですが、もし背後関係に人為的な何かがあるとすると、これは重大なことだと思います。
崇神期に記されてる事績と、この直線上の遺跡があまりにも都合よく配置されています。 昨日、高齢厨さんが、三輪と大坂山の関係性、檜原神社の対面に大坂山口神社があること言及されていましたが、この直線上によって、ヤマトの東西を祀る墨坂と大坂の対応性がよりはっきりと示されているともいます。
さらにこの直線の地理的特徴を示しておくなら、浦間茶臼山と墨坂神社の中間地点に、明石の瀬戸が来ているということです。
明石海峡の「あかし」とは、日の出の意味であり、墨坂神社に祭られた赤盾がまつられていることと、丁度対になっています。
ヤマトはカワチと対応すると連想しがちですが、この直線を見る限り、対応しているのは、ヤマトとセト が対応関係になっているのではないでしょうか。 分析しだすとまだまだ興味深い仮説をこの直線から引き出すことができますが、今日はここでやめておきます。
明日は金曜で仕事が忙しそうですが、次は、この直線が偶然で並んだわけでないことを証明したいと思います。
実は曲がりまりもこの「地理的事実」が偶然でないことをこの立証できたと自信がもてたので、
嘲笑や無視を顧みず書き込んでいる次第です。 遺跡神社は全国になるほどいっぱいあって
そのうち2つを恣意的に選んで線を引っぱる。
結局は、もともと目標となる遺跡があって
その上を線が通過する2つを選んでいるだけ。
なーんの根拠にもならない。 くだらなくても、地理的な事実です。
偶然で現出する可能性は極小と思います。
方向的な誤差が1%だとしても、3.6 度で、6.12kmも離れます。
ここでの誤差は1km以下のものがほとんど、といいうか、ほぼ直上を通過するものが
かなり多いです。極めて高照準で一列に並んでいます。 箸墓と1/2相似形の墳墓を直線で結んだんですよ。どこに私の恣意が入り込む余地があるんでしょうかね?
その上に崇神期の事績を表す遺跡が「偶然」に並ぶ確率はどれぐらいでしょうか???
もしそんな恣意を私がなしえたとしてら、まさしく天才ですね。
とにかく、一度国土地理院のHPでご自身で直線を引いてみてください。 任意の三点でも恣意的に並べるのは苦労すると思いますが、
この直線上は、代表的なものだけでも間に八地点あります。
あまり知名度のないところでも、初瀬の與喜天満神社や、関屋の三輪神社摂社、
反正天皇領なんかもほぼ直線上にあります。 >箸墓と1/2相似形の墳墓を直線で結んだ
箸墓の上を通るように前方後円墳2つを選んで結んでみた 偶然に、100を名前にもつモモソヒメの弟が、50を名前に持つイサセリヒコで、
偶然に、そのイサセリヒコは、瀬戸内を鎮定したとされており、
偶然に、モモソヒメの箸墓の1/2相似形の墓が吉備を臨む地にあり、
偶然に、その陵墓を直線を繋ぐと、延長線上に伊勢神宮内宮があり、
偶然に、偶然にその直線上には、崇神期でヤマトの事績の第一歩と祭られた墨坂神社と大坂山口神社があり、
更に偶然に、トヨが祀ったと言われる元伊勢の桧原神社が三輪山に向かっている。
少し確率的思考ができる人が2chにはいないでしょうか。 >>472 さん
では、その一方を箸墓の1/2相似形の墳墓を当ててみてください。
恣意的にできるんでしょ?? 日本に箸墓の1/2相似形の前方後円墳は、浦間茶臼山しか存在しないのです。
私が恣意的に選べる可能性は0%です。 >>477
わかりませんか?
崇神期の遺跡がなんらかの背景で一直線上にならんだ、ということです。
そこに人為があったと考えるのが自然ということです。 >>478
わかりませんか?
世界遺産の宗像大社
日本国宝金印の志賀島
一括日本国宝の平原女王墓
末蘆国王の桜馬場遺跡
邪馬台国期の遺跡がなんらかの背景で一直線上にならんだ、ということです。
そこに人為があったと考えるのが自然ということです。 茶化すだけの暇があるなら、浦間茶臼山と伊勢神宮内宮を繋げてみて欲しいです。 >>482
「偶然でない」とする以外ないとすると、そこに人為があったということです。
私が恣意的にこれら10地点以上を選べるとおもいますか?
私の恣意でないなら、それは古代人の意思が働いてたということです。
こんなもん、偶然に揃うわけないでしょ。 吉備と伊勢を結ぶくらいなら
伊勢遺跡と伊勢神宮を結ぶ方がまだマシ なんで直線なん?
弥生の人は男塾みたく直進行軍してたのか?w >>484
伊勢遺跡と伊勢神宮を繋げてそこに箸墓が入れば、私はあなたに降参しますよ
>>485
そうです。なんで直線上に並べたんでしょうか?
ヒントはもう並んでいる遺跡にある程度あります。
ちなみにこれぐらいの距離ならギリギリ目視できます。
これも高齢厨さんが大好きな明神山(香芝市(大坂)の北側)に登れば、
三輪山も明石海峡も晴れていれば確認できます。 >>486
伊勢遺跡と伊勢神宮を繋げてそこに箸墓が入らないから終了 ちなみに明神山は、この直線のすぐ北です。
送迎(ヒルメ)山とも呼ばれていた山です。 直線で結べば〜ってのは結構な数のバカが主張してるけど
誰一人として直線上に配置した方法を語らないという笑い話 >>487
だから伊勢遺跡と伊勢神宮と箸墓は全然、企画を一にしていないということです。
浦間茶臼山と箸墓と檜原神社と伊勢神宮と墨坂神社と(以下略)は、
同一の企画のもとに場所を選定されたということです。
全て記紀の崇神記につながりがあります。 >>490
ちょっと発展させて三角形とかあるよね
「だから何なの?」だけどw >>490
嬉しいレス有難うございます。
私は理由を見つけましたので別ですね。
そうじゃなければここまで大大的にやりません。 >>491
伊勢遺跡と伊勢神宮の建築方法は企画を一にしている
と畿内説の人が力説してたぞ数年前だが
箸墓と伊勢神宮に共通する企画って何なの? 三角形にも六芒星にもなりません。
オカルトではないですから。似ているけど違います。
単なる地理的な奇妙な一致に対する合理的な説明です。 現在の神社の位置が過去から全く動いていないと盲信する妄想脳 >>494
巫女による銅鏡を憑代にした太陽祭祀です。
けど、これだけではこれだけの遺構一列に並んだ直接の答えにはなりません。 >>496
そうです。一列に並べる方法を考えた結果、
その理由もわかりました。
>>497
神社だけを並べた訳ではないです。古墳も、動かない三輪山や明石海峡が並んでいますが。
また神社が動いたという論拠も特段示されていません。 >巫女による銅鏡を憑代にした太陽祭祀
神道は基本そうだから、それが理由ならあらゆる神社を結べばいいだけ
そして箸墓が
>巫女による銅鏡を憑代にした太陽祭祀
である根拠は?
三輪山祭祀の解釈になってくるけど、
説話だと夜の営みの話だよね 👀
Rock54: Caution(BBR-MD5:0be15ced7fbdb9fdb4d0ce1929c1b82f) 直線上に並ぶとかいいながら大抵は敷地をカスったら認定する自己満基準 伊勢なんて20年おきに本殿が動くのに、直線上とかちゃんちゃらおかしいよねw >>500
それは単なる暴論ですね。
元伊勢桧原神社と伊勢内宮が揃うことは、任意の神社を選んだ訳でないです。
元伊勢伝承のはじまりと、終わりの地。日本には当然この二社以外は存在しません。
箸墓に太陽信仰を見ることに関しては、テンプレの柳田先生の著作を読んでみてください。
三輪山山頂に祀られいるのは「日向御子」です。
山頂には、内行花文鏡が祀られる傾向があります。
(雪野山古墳、鶴山丸山古墳など) 距離感を無視してどうするんですか?
250kmの距離があるんですよ?直上にある方が異常です。
とにかく一度ご自分で国土地理院から(略) 吉備と伊勢を結んだ直線上に箸墓があるから邪馬台国! >>507
茶化すのはいくらでも結構ですが、直線上に示された一致は変わりません。
わりとマジレスすると、仮に邪馬台国と関係ないとしても、崇神期の遺物の構成として
これだけの一致を示すのですから、理由を考える価値はあります。
もちろん、私はモモソヒメ=卑弥呼=日巫女 説ですから、関係あると考えていますが。 >>509
正解ですが、それだけでは一直線には並びません。 >>511
ご自分で調べてみては?
夏至の方角で並ぶのか。 >516
>517
箸墓とその1/2相似形古墳を並べています。
日本にはその二つしかありません。
私が任意に選択できる余地はゼロです。 真面目に考えてみれば
魏志倭人伝は伊都が邪馬台国首都と示しているし
平原女王墓が卑弥呼墓
しょうがないから
伊都は重要だけどそこから卑弥呼は東遷したんだと逃げ道を見つけ出そうとしたが
それでもどうにもならない
で、真面目な議論は全部投げ捨てて
直線上に並んでるからやっぱり箸墓が卑弥呼だったんだ
という
まさに結論のための暴論を主張する
典型的な間違い説の姿 >>521
ぜんぜん真面目じゃないとこが笑いのツボなー >>521
また暴論ですねー
私は別に自身の地理的観察の結果の事実を報告しているだけにすぎません。
箸墓とその1/2相似形墳墓を並べると、直線上に元伊勢と伊勢、墨坂神社と大坂山口神社が並ぶという事実を言っているだけです。
この事実自体は、箸墓が300年代のもので、魏志と関係なくても成立するものです。
ただ、私はモモソヒメ=卑弥呼=日巫女 論者なので、そうであれば、全て綺麗に説明がつくというだけのことです。 まぁ、私が 「モモソヒメ=卑弥呼=日巫女」 論者でなければ、
こんな奇妙な地理的一致を見つけることもなかったでしょう。 それはもう、論ですらないな
あんたもう大恥かいているのだが、
それすらわからんのかw たんなる事実の指摘です。
誰しも国土地理院のHPで浦間茶臼山と(以下略)すれば、得られる結果です。
仮説でもないので、恥をかくにもかけませんね。 何度も言いますが、これは、別に私の仮説ではないんですよ。
単なる事実、観察の結果。
大神神社が二上山に向かっているという体験があり、箸墓と浦間の相似形の
関係に気づき、崇神期が史実を表している可能性が少しでも脳裏に入っていれば、
誰だって簡単に辿り着くことができたのです。 あのねぇ。
無学岡上が指摘したからといって、事実が変わることはないですよ。
箸墓とその1/2相似形古墳をつなげれば、崇神朝の太陽祭祀の痕跡が浮かび上がる。
それだけのことです。 >>535
スレタイ読めますか?
九州北部だろうが、畿内だろうが、そんなものは仮説にすぎません。 >>1岡上
>2、だたし、その女王、「ヒミコ(日巫女)」は伊都国の関係者
伊都国の関係者:根拠のない勝手な決めつけ 根拠を提示せよ
>3、平原一号墓の巫女王は、東遷前の先代のものであり、銅鏡による太陽祭祀を主宰する「日巫女」の葟として、最もふさわしい。
平原一号墓の巫女王:根拠のない勝手な決めつけ 根拠を提示せよ
> ・唐古、鍵と纏向の間にある文化的断絶(銅鐸祭祀断絶)を伊都国勢力の進入から説明できる
伊都国勢力の進入:根拠のない勝手な決めつけ 根拠を提示せよ @阿波 箸墓勢力は吉備勢力から干渉?侵略?吸収?やらがあると思うが、それらが北部九州に繋がらない。
那珂八幡と箸墓は微妙に規格が違うし。
北部九州と畿内は庄内期中頃から間接的に出雲や吉備経由で関係を持ち始め、3世紀後半に本格的に交流があったとは見ている。
しかし、巻向はもっと後だね。
東遷したというより、北部九州の分派が勢いを増した様にも見えます。出雲と吉備の関係を調べる必要がありそうですね。 内行花文鏡を祭っている古墳は、九州北部の銅鏡文化の影響下でしょ。 >>538だが、1行目訂正
巻向勢力に箸墓勢力が侵入してきた。 >>538
>北部九州と畿内は庄内期中頃から間接的に出雲や吉備経由で関係を持ち始め
その考えの欠陥:「出雲や吉備経由」とあるが、それ以前にその出雲や吉備は倭国(阿波)の属国であることが抜けている。 @阿波 今日まで、各地に伝承・痕跡を数多く残した阿波の「忌部一族」のように、畿内や九州から全国へ進出した「忌部一族」に代わるような部族は認められない。
古代、朝鮮半島まで進出できる航海術を持っていたのは、「阿波の忌部一族(海人族)」だけなのである。 @阿波 阿波をすべて筑紫に読み替えると正しい文章になるよ! >>544
「筑紫の忌部一族(海人族)」とか? 筑紫忌部ね。
忌部は読み替えないの? それとも読み替えられないの? @阿波 畿内説に不利だと纒向の考古学も無視か。
素晴らしい潔さだな。 >>554
考古学の検証がなかったら妄想で終わってしまう。
阿波は文献を考古学で裏付け補強している。 @阿波 >>548
あーなるほどなー(ありやな
ひこねに侵略されたんやな どこが?
畿無説はいつも鉄器ゼロ住居ゼロ中国からの学術出土ゼロだな 阿波さん
1) 魏志に置ける「卑弥呼」が、伊都国の関係者と考える根拠
銅鏡百枚という極端に多い枚数を下賜されていたいたので、これは倭国からのリクエストがあったと予想されます。
そうなると、魏朝交流前から倭国には銅鏡への特別な志向があったということです。
下賜された銅鏡百枚が神獣鏡か方格規矩鏡まで判別できませんが、魏との交流前に崇拝されていたと
すると、伊都国における内行花文鏡を当てる以外ないと思いますが。 2) 平原の被葬者を巫女王と推定する理由
これは、いわゆる三種の神器が出てきたからですね。
また耳璫がでてますから、女性と考えおくのが合理的でしょう。
同じく女性墓と三雲南小路2号墓と比べると、鏡が大型化し、鉄刀が入っています。
鏡を実用を超えるほどに大きくしたことは、祭祀化されたからでしょうし、
鉄刀が入ってきたことは、武力まで保持していたことを象徴するのでは?
つまりは巫女王ですね。 3)纏向に伊都国勢力が進入してきたとする根拠
纏向、まぁ桜井市一帯はもともとは銅鐸文化圏であって、それが銅鏡、なかんづく内向花文鏡に宗主替えするのですから、
伊都国勢力が進入してきたとして考えるのが一番合理的ですね。
ホケノは内向花文+鉄器ですから、纏向を制圧した伊都国勢力のものでしょうね。
大福と脇本遺跡からは銅鐸を鋳潰した痕跡も出てますし、ヤマトの古代人の手の平返しもなかなかのものです。 箸墓とその1/2 相似形墓の浦間を繋ぐ線が三輪山越しに伊勢神宮内宮につながる、
という点についての謎解きも書いておきます。
レイラインとの指摘がありましたが、やはり太陽運行をみていたのだと思います。
では、この直線の角度はといいますと、10月10日の日の出の方向に相当します。
この直線上の北側の明神山からな明石海峡も三輪山も目視できることはおつたえしたとおりです。
つまり「10月10日に、三輪山を遥拝する文化を共有していた」とするだけで、
この奇妙な現象を合理的に説明することができます。単なる偶然と考えるよりも、
その方に考えて見ることの方が、私には魅力的に感じますね。 ちなみに伊勢神宮の神嘗祭は、今でも10月17日。
どうも偶然にしては日付が近すぎる気もします。 ・九州伊都部分や東征部分は、
学問的に筋が通っている九州説者の議論を盗み見てまんま丸写し
・東征は東遷に姑息すり替え
・東遷の証明部分=自分で考えた部分は、
とたんにレイラインや日付けなど根拠にならないもので考察
パクリ部分とオリジナル部分の落差が大きすぎて可哀想 >>569 さん
レス有難う御座います。
丸写しも何も、一番合理的と思うところを採用しているだけです。
九州北部説には、相当な説得力があるかと思いますよ。
もちろん、畿内説側から縷々指摘される魏志の読みの矛盾点もあります。
上の方にもありますが、二律背反的なところでなければ、
九州説でも畿内説でも極力共に採用する、というのが私の考え方です。
レイラインの話は、興味深い事実を発見したから報告しているだけです。
別にこれを根拠に邪馬台国は畿内だ、とか言っているわけでは全くありません。 スレ主いわく
東遷の理由わかりません
レイラインの存在理由わかりません
議論のしようがないじゃん 私の考えを簡単に述べますと、邪馬台国の畿内説も九州説も共に単なる仮説にすぎません。
対して、伊都国の内行花文鏡がヤマトの地に東遷してきたことは、考古学事実と考えますし、
レイランの話は、地理的な事実ですので、報告したまでです。 >大福と脇本遺跡からは銅鐸を鋳潰した痕跡も出てます
銅鐸が埋納されたまま放棄されるのと、
鋳潰すのと、
その違いはなに? 東征=伊都倭国が辺境を支配下におくだけ
東征=伊都倭国が辺境を開発して王が遷都して来ないといけない
証明のハードルが全然違うぞ >>573
原初的なヤマト王権においてマツロワヌモノ として禁止されたのが銅鐸祭祀と考えています。
それまでの村落としての共同祭祀の象徴ですから、埋納してお茶を濁した地域と、
本拠のヤマトのように銅鏡などに鋳直しを迫られたところがあるのでしょう。 >>564岡上
>すると、伊都国における内行花文鏡を当てる以外ないと思いますが。
なんでいきなり、「内行花文鏡以外ない」となるのですか?
倭国(阿波)には、舶載内行花文鏡も三角縁神獣鏡も舶載画文帯神獣鏡も重圏文鏡も斜縁神獣鏡など他にもいろいろ有りますが?
短絡すぎですね。 @阿波 >>565岡上
>これは、いわゆる三種の神器が出てきたからですね。
それなら、倭国(阿波)にも出ていますよ。
>また耳璫がでてますから、女性と考えおくのが合理的でしょう。
それなら、倭国(阿波)にも出ていますよ。 @阿波 >>566岡上
>纏向、まぁ桜井市一帯はもともとは銅鐸文化圏であって、それが銅鏡、なかんづく内向花文鏡に宗主替えするのですから、
>伊都国勢力が進入してきたとして考えるのが一番合理的ですね。
それなら、倭国(阿波)が侵入したとも考えられますよ。 @阿波 >>568岡上
>ちなみに伊勢神宮の神嘗祭は
ちなみにその伊勢神宮の神嘗祭を執り行う宮司(度会氏)が忌部の末裔って知っていますか? @阿波 平原遺跡の鉄剣は、魏からもらった五尺の刀でしょう。
宝飾品だらけの中でポツンと武器が入っているのは、それなりの理由があったからでしょう。 >>582
>平原遺跡の鉄剣は、魏からもらった五尺の刀でしょう。
倭国(阿波)からも五尺の鉄剣でてますよ。 @阿波 >>583
阿波は、巻向の銅鐸土民が内行花文のエリート部隊に征服された点は認めるわけ? 土民かなあ?
方形周溝墓もあるし銅鐸だって広範囲に交流していたし
海外との交易を博多湾が独占していただけで
日本列島内も蛮族というほどではなかったのでは? >>585
方形周溝墓があるところは筑紫の文明が及んでいるところだ。
伊都国の王墓が方形周溝墓ばかりだからな。
海外との貿易と外交を博多湾が独占していたのなら、魏志倭人伝に出てくる邪馬台国は博多湾しかないだろ。
実際、平原遺跡は大陸からの富を独占していたかのような副葬品だ。 >>586
弥生集落のほとんどが方形周溝墓だと思うのですが、
そうじゃない弥生集落はありましたっけ?
じゃなければ、弥生時代の早い時期に
筑紫の方形周溝墓が一度は全国に広がったことになりますが。 四隅突出も方形墳じゃな
突出しとらんが、畿内とかの方形周溝墓も四隅だけ溝がなかったりして
意匠に共通するものを感じるぞい >>587
>弥生集落のほとんどが方形周溝墓だと思うのですが、
>そうじゃない弥生集落はありましたっけ?
倭国(阿波)の矢野遺跡などは違うと思いますよ。 @阿波 >>587
>弥生集落のほとんどが方形周溝墓だと思うのですが、
だけど、この質問でいいの? 「方形周溝墓」ってお墓の形態でしょ? 集落は環濠集落とかでは? @阿波
>>590
なるほど。
じゃあ弥生文化の基本要素ですね。
まあ、稲作が筑紫に上陸して広まっているから、矛盾はないのか。 >>589
いや、四隅突出とか円形周溝墓は弥生でも後期なわけで、
逆にもっと早い時代のものでないですかね?
何が言いたいかと言うと、
方形周溝墓が筑紫系統だとしても、彼らが初代の農耕伝播勢力でなければ、
そのさらに前から住んでいた農耕集落があるはずですよね。 それを言うなら前方後方墳も方墳が2つくっついただけだだな
稲作が普及していない場所に
稲作集団がやって来たなら
人数や文明レベルの差で楽に入植できただろうから
方形周溝墓がこれだけ全国にあるのなら彼らが一番最初期の開拓組なのだろう >>577. 阿波さん
考察しているのは、「魏朝交流前に倭国で重宝されていた鏡種」ですからね。
神獣鏡の類は有り得ないと思いますよ。
>舶載内行花文鏡も三角縁神獣鏡も舶載画文帯神獣鏡も重圏文鏡も斜縁神獣鏡
で、あなたの指摘した鏡のうち、神獣鏡を取り除くと内行花文鏡と重圏文鏡しかない。
重圏文鏡は、日光鏡の筑紫での粗悪量産品であるとわかっていますから、結局は、
魏朝交流前に倭国で重宝されていたとすると内行花文鏡しかないんですよ。 で、普及品を筑紫で作っていた日光鏡ですが、三雲南小路の2号墓から複数枚でていますが、
そのなかでも状態の良い8号鏡は、現在上海博物館にある「透光鑑(いわゆる魔鏡)」と同型ですね。
中国からまともに出てこない三角縁で魔鏡うんぬん取り沙汰されますが、実際現物との同型鏡が、
まったく世間の日があたりませんね。嘆かわしいことです。
話がそれましたが、阿波に伊都国ほどの内行花文鏡がでてくれば、そのメッカとしてみとめますよ(笑) 饒速日が畿内に降臨した時に天照からもらった十種の神宝の中の鏡が籠神社に伝世していて、前漢と後漢の内行花文鏡のペアですね。
天照の孫としての権威を表す鏡は太陽を象った内行花文鏡だったことがわかります。 >>598
そうですね。
鏡の祭祀は魏朝交流前に成立しており、それは内行花文鏡を憑代にした後世に神道となる太陽祭祀だった。畿内説・九州説の垣根は超えて、この辺は最低限の事実として前提とするべきところに来ているかと思いますがね。 >>599
それが断定できれば、苦労ありませんね。
平原から大量にでた方格鏡か、紀年鏡の存在する神獣鏡か。
私は紀年鏡を重視したいですが。 景初3年銘があるから中国鏡だ!
↓
日本でしか出土してないじゃん
↓
卑弥呼用の特注品だ!
↓
洛陽にあったのは内行花文鏡や方格規矩鏡なんだから
南方系の神獣鏡のしかも完全に新しい意匠の銅鏡百枚は間に合わないだろ
↓
呉に製作依頼したんだ!
↓
魏と戦争中の呉が魏の年号鏡を作るわけないじゃん
洛陽近郊で一枚出土した!
↓
骨董市で売られていた、しかも農民が畑で見つけた伝聞だけの一枚じゃん
<中国での学術出土ゼロ> 董卓によって廃墟と化した洛陽(191年〜)
魏が首都を戻したのが220年
魏が洛陽で生産再開した方格規矩鏡は出来が悪いことは
銅鏡専門家の間では常識
なにせ他国の考古学事実なので、日本の重鎮もどうにも覆せない
不都合な真実なわけだな
卑弥呼239年が洛陽の魏皇帝からもらう銅鏡は、
出来の良い後漢鏡(北部九州から大量に出土
もしくは
出来の悪い魏鏡(平原遺跡から大量に出土した方格規矩鏡 これはちょっと九州説に都合よくやり過ぎですね。私ならこうです。
景初3年銘があるから中国鏡だ!
↓
日本でしか出土してないじゃん
↓
卑弥呼用の特注品だ!
↓
洛陽にあったのは内行花文鏡や方格規矩鏡なんだから
南方系の神獣鏡のしかも完全に新しい意匠の銅鏡百枚は間に合わないだろ
それに魏と戦争中の呉が魏の年号鏡を作るわけないじゃん
↓
じゃあ、公孫勢力にてつくられたと考えるのはどうですか?
斜縁神獣鏡がつくられていた徐州とも、山東を通じて公孫勢力は交流していただろうし、これなら四年銘のものが出てくる理由もつきそうですが。 >>604
>公孫勢力にてつくられたと考えるのは
包囲壊滅して一族処刑中の混乱した占領都市
しかも赴任した太守が戦死したりしている
そんな場所に金印外交する大事な相手に贈る銅鏡百枚は作らせない
そちらの説が間違っているから
そのような非常識なことを唱えるわけだな 魏志倭人伝に書いてあるだろ
魏皇帝の制詔文に明記されている
難升米は洛陽まで行って魏皇帝と面会して、
銅鏡百枚などの贈物は
洛陽で装封されて
難升米に託された >>596岡上
>考察しているのは、「魏朝交流前に倭国で重宝されていた鏡種」ですからね。
「魏朝交流前」をどういう理由で考察しなければならないの? 魏朝時代の考察は? @阿波
岡上は北部九州説からチェリーピックしているだけだな
どうせパクるなら全部パクれよw >>605
>包囲壊滅して一族処刑中の混乱した占領都市
>しかも赴任した太守が戦死したりしている
>そんな場所に金印外交する大事な相手に贈る銅鏡百枚は作らせない
見て来たような事を書いてますが、憶測ですね。
公孫勢力が壊滅してから、遣使までタイミングが非常に良いですから、
全て帯方太守の手引きで仕組まれていたと思います。
倭国のリクエストも帯方で先に聞いていたんじゃないですかね?
青龍年銘の鏡がでてきていますから、公孫勢力が健在の段階から、
倭国との交流があり、鏡を入手していたことも疑えない事実と思います。 >>596岡上
>考察しているのは、「魏朝交流前に倭国で重宝されていた鏡種」ですからね。
「倭国で重宝されていた鏡種」が「内行花文鏡」と決め打ちする理由は? @阿波 >>609
見てきたんじゃなくて史実だ
訂正する
×包囲壊滅して一族処刑中の混乱した占領都市
〇包囲壊滅して男子全員が処刑中の混乱した占領都市
>>606
で決定的だがな >>607 阿波さん
銅鏡百枚というのは、突出した数字で、そこに魏朝交流前の日本文化が垣間見えるからですよ。
枚数がでる普及品の神獣鏡ばかりフォーカスされて、古墳時代前期にもっとも大事にされた
内行花文鏡が、世間一般ではまだまだ等閑視されている状況を考えると余計そうですね。 >>611
まさか楽浪・帯方郡全体の男子が皆殺しにあったわけでもないでしょうし。 >> 610 阿波さん
すでに書きましたが、日光鏡は弥生時代には、量産されるほどの需要がありましたから。
その最上位にあるのが、三雲南小路2号墓の日光鏡(魔鏡効果あり?)です。 >>613岡上
>銅鏡百枚というのは、突出した数字で、そこに魏朝交流前の日本文化が垣間見えるからですよ。
よく分かりませんね。「魏朝交流前」の考察理由が。 魏朝時代の考察は必要ないの? @阿波
私は一応畿内説なので、魏から下賜された鏡は帯方郡製の神獣鏡と考えています。
けれど、古墳時代の副葬状態から見て、神獣鏡は階層性の下の方で、
その最上位は、どうみても大型内行花文鏡ですからね。
この事実はもっと周知されるべきだと思います。一種の啓蒙活動です。 まぁ、内行花文鏡オンリーでは、どうにも邪馬台国論争に勝てませんね。
倭国の痕跡は阿波の足元にも及ばない。 @阿波 阿波は内行花文鏡がもらえなかったかわいそうな土地。 >>619
唐子鍵も纏向もそうでしょうね。
ま、結局は盛大に崇拝するようになっちゃうんですけど(笑) さて、今のうちに、レイラインの話を最後的なところまで、書いてしまいます。
実は、箸墓と浦間を繋ぐ直線が10月10日の日の出の方向と合致する、つまり10月10日に三輪山に遥拝する文化が共通にあったのではないか、という推論に対して、
「太陽暦もないのに、どうやって10月10日がわかるんだよ」
というツッコミを待っていたのですが、特に来ないので一人で反論します。 結局「歴がない時代に10月10日を特定するには、夏至か冬至からの経過日数を数える」
のが、一番簡単だと思います。10月10でしたら、冬至ではなく、夏至から数えるのが合理的です。
では、夏至から10月10日まで、何日か、というと、それは110日になります。
漢字で書くと、十と百日。
ここで思い出したいのが、モモソヒメの名前です。
ヤマト トトヒ モモソ ヒメ と、トトヒ と モモソ が対の関係になっています。
十と百です。
どうもうまく符丁が合いすぎていると思います。 つまり、こういうことです。
箸墓と1/2相似形墓である浦間茶臼山古墳を繋ぐと、伊勢内宮までが一本の線になり、
崇神朝の事績と所縁のある神社などがその直線上に並びます。
その直線は10月10日に、三輪山を遥拝することで、必然的に現出し、
その聖なる日、10月10日を特定するための知識(夏至から110日)が、「ヤマト トトヒ モモソヒメ」の
名前自体に示唆されています。
聖なることを「ひじり」といいますが、これは「日知り」の転化から来ているようですが、
まさしく、このような知識を持っていることが、「聖」だったのではないでしょうか。 このような形で事実が一本の線に繋がった時、怖いようで、嬉しいようでしたが、
もうこれ以上の発見もないだろうという気持ちにもなりました。
一見、オカルト以外の何物でもなく見えるでしょうが、一つ一つの事実は
私が手を加えることはできませんし、していません。
すでに何度か行っている通り、邪馬台国の所在論争には、特段関係のない話ですが、
崇神期の事績との一致点としては、興味深い事実になると思います。
わたしは普通の給与取得者ですし、家庭もありますので、これからもそのつもりです。
特段発表する場もないので、この場で書かせていただきました。 >>619
>阿波は内行花文鏡がもらえなかったかわいそうな土地。
無知な人? @阿波 伊勢は日ノ隈宮と東西でセットらしい。
ただ、古代人がそこまで厳密に方角を測定していたとは思えない。
魏志倭人伝の角度が、少なくとも左回りに30〜45度はねじれているように見える。 北九州の夏至の日の出が東から約30度ズレルのは自然現象 そういうことか。
魏の使いは夏頃に九州に渡ったのか。 妙に学問的な部分は北部九州説のパクリ
銅鏡議論で不利になって敗走
>>621以降がスレ主の実力部分 せんと、本拠地として機内が機能し始めた時期は、いつ頃と見てますか?
600年に大和に先駆けて九州から隋へ大使が派遣されてます。
その頃まで九州が独自に外交できる力があったと見れますが、その後はヤマトから。
その時期がはっきり畿内が中枢となった時期でしょうか? >>633
>600年に大和に先駆けて九州から隋へ大使が派遣されてます。
妄想
>その頃まで九州が独自に外交できる力があったと見れますが
妄想 >>636
隋書と記紀のその部分の違いを知らないようなので世見直しをお勧めします。
記紀には2回の派遣になっていますが
隋書ではその2回より前に九州勢力からと思われる派遣が1回多く記録されていますよ。
ここ大真面目に。 >>641
いや、ここはマジだって。
この部分の隋書と記紀の違いって有名だろ。 太宰府は600年代初頭には完成
7世紀初め頃から在った。 【白村江の戦いと倭国滅亡】
663年に白村江において行われた倭・百済と唐・新羅の決戦で倭国軍は大敗した。
自ら前線に赴いていた筑紫君薩夜麻が捕虜となり8年にわたり唐に抑留された。
筑紫には唐から郭務悰ら2000人の使節団が駐留したが、畿内大和ではなく筑紫を占領したのは、そこが倭国の首都だったからである。
668年、筑紫の使節団は帰国し、中大兄皇子は天智天皇として即位したが、その翌年には筑紫都督府が置かれ、同じ敗戦国の百済に置かれた熊津都督府と同様に唐の統治制度として機能し、倭国は独立国としての権限を喪失した。
旧唐書には倭国と日本国が分けて記載され、「日本は旧小国、倭国の地を併せたり」とある。
三国史記の新羅本紀には「670年、倭国が国号を日本と改めた」、新唐書にも670年に「日本と號す」とあるが、国内にはその記録がない。
671年に天智天皇が死亡、翌年にはその王子である大友皇子を殺した大海人皇子(天武天皇)が実権を握った(壬申の乱)。
天武天皇は対外的な国史としての日本書紀(漢文)を編纂させ、歴史上の天皇への漢風諡号の制定などを行った。
日本書紀の最大のトリックは、神武東征より後の筑紫倭国の歴史を抹消することであった。
日本書紀の編纂と並行して禁書令が出され、8世紀初頭に記紀以外の多くの古代の記録が失われた。
倭国の政治および文化を継承するために、筑紫から多くの文物、人物、建物、地名が平城京に移動された。
筑紫が679年に水縄断層系によるM7.1の筑紫大地震、畿内が684年に南海トラフ地震と推定されているM8.4の白鳳大地震により被災している。
筑紫は震災からの復興もままならなず没落したと考えられる。
701年の大宝律令で行政単位が評から国・郡に改称され、九州から関東までの中央集権国家としての畿内政権が誕生する。
この大倭の表記が大和とあらためられ、以前から筑紫倭国に対して近畿を示すために用いていた日本国が列島全体の統一王朝の国号となり、ヤマトは畿内の地名に変化した。
こうして筑紫倭国は滅亡し、その権益は唐に朝貢(遣唐使)を再開する畿内大和政権が継承した。 >>647
九州北部説でもここまで来ると基地っぽいな 流石に >>647 みたいなのはもういいだろう。
鸚鵡返しばかりのザラコクといい、責任持ってサッサと巣に引き戻せよ >>637
同じ国の話?
57年とか107年のじゃなくて 隋書の6〜7世紀の記事でさえ、国内外で相違がある。
隋書にある倭国は、後漢書にある倭国と同じだろ。
遷都または併合の話は旧唐書で初めて登場する。 第2番札所 徳島市 「金山神社・立岩神社」
「八尺(やあた)の鏡はこの地で作られた」
ご存知のように日本の皇室に代々伝わる『三種の神器』とは、『天叢雲の剣(草薙の剣)』、『八尺の鏡』、『八尺(やさか)にの勾玉』をいうが、その神器のひとつ『八尺の鏡』の製作地はこの神社であるという伝承がある。
その背景には、銅鐸や銅鏡の出土が多く「たたら跡」と見られる史跡もあるこの地区が「日本の治金技術発祥の地」ではないかという説がある。
見渡すと周辺にも「金谷」、「多々羅(古来、精錬所のことを『たたら』という)」、「八田(八尺)」という地名が残り、まさにこの「金山神社・立岩神社」の鎮座地自体も『多家良(たから)』という埋蔵金ミステリーそのまんまの名前。
この精錬伝承の中心となっているのが、『金山神社』と『立岩神社』の両神社である。金山神社は鍛冶の神である金山毘古(かなやまびこ)神を祀り、その境内の中に高さ7m幅4mの日本一の巨大陽石(と掲示されている)をご神体とする『立岩神社』が鎮座する。
この巨石は『天津麻羅(あまつまら)』を祭神とし、素朴に男性を象徴しているが特に通俗的な信仰はない。
古事記には「八尺の鏡は天の金山の鉄をとりて天津麻羅を求ぎて伊斯許理度売命(いしきりどめのみこと)に科せて鏡をつくらしめ」という記述があり、これがこの地が八尺の鏡製造地であることを裏付けている。
なお、ここより直線で13キロ西には神山町の『立岩神社』(第3番札所)があり、ここには高さ20m幅20mの女性器を象徴する巨石があり、古来より「天の岩戸」と称されている。 @阿波 >>658
アマツマラ
筑紫天孫族の恥さらしだな
阿波www 漢代から隋代まで、中国から見た倭国は一貫して九州北部の国。
勝手に日本の歴史家が大和朝廷と結び付けているだけ。 >>662
反論する価値もないってことだよ。
言わせんなよ、恥ずかしい どうも九州説の方は、すぐ九州王朝に飛びついてしまうみたいですね。
九州は古墳時代には前方後円墳体制に組み込まれているわけですから、
そこまで否定できると本気で考えているのでしょうか。
マァ平原墓を卑弥呼墓と見たり、箸墓を4世紀を見るぐらいまではまぁアリかなと思いますが、正直ネタとしても陳腐ですし賞味期限切れだと思いますね。 >>665
>畿内説は中国の史書と一致しないのですよ。
九州説も九州東遷説もでしょ。 @阿波 奈良も京都も沼の下。
大阪は淀川の氾濫原。
これで畿内説とか、ちゃんちゃら可笑しいわ。
埋め立てて開発が進んだ現在の京都や大阪と比較するなよ。 >>668
>これで畿内説とか、ちゃんちゃら可笑しいわ。
九州東遷説もでしょ。 @阿波 >>668
だから、畿内が沼の下なんだから、九州東遷説も沼に沈むと言ってるんですよ。 @阿波 魏志の時代に倭国の中心がどこにあったのかは議論の余地があるんでしょうが、
実際のところ、倭国の中心が伊都から大和に遷移したことを否定するのは厳しいんじゃないでしょうかね。
大和には前史を見出すべき遺跡はないし、伊都にも後史を見出すべき遺跡もありません。
平原王墓を2世紀中まで繰り下がるか、繰り下がらないか、
箸墓が3世紀まで遡るか、遡らないかで魏志の「邪馬台国」の比定地が変わるというだけの話です。 4世紀は筑紫は香椎宮の時代なので、高祖宮から香椎宮に移動しました、ですべて説明できる。 平原を248年になくなった女王の墓と考えてしまうと、魏志をアクロバティックに読まざるを得ない点も勿論、
青龍年銘の方格鏡や、東大寺山古墳の中平年銘の鉄刀、それに黒塚の黄幢と覚わしき鉄製品など、
いろいろ説明に窮するんじゃないでしょうかね。
当時の伊都国=邪馬台国が入手してから畿内に持ち込んだとも強弁できるのでしょうが、
あんまりスマートな解決方法とは思いませんね。 >>672 さん
九州王朝シンパの方とお見受けしました。
古墳時代には前方後円墳が九州にも受けられていることには、なんも思うところはないのですか?? 3世紀に邪馬台国が爆発的に領土を広げた結果として
各地にその有力者が散ってお宝を残したんだろ
無問題 景行天皇も仲哀天皇も4世紀だ。
4世紀は空白などではない。
景行天皇が仮に畿内からの侵略者なら、説明はできてしまう。 景行天皇の和風諡号は忍代別。
分家という意味だが、筑紫を征服して大帯日子(大いなる支配者)の名前もつけられている。 >>671岡上
>大和には前史を見出すべき遺跡はないし、伊都にも後史を見出すべき遺跡もありません。
倭国(阿波)には奈良遷都前の飛鳥時代の遺跡がありますが。
だから、畿内が沼の下なんだから、九州東遷説も沼に沈むと言ってるんですよ。 @阿波 内行花文鏡から伊都に記紀の神話の原型を見るのは大賛成ですが、
同様に、いやそれ以上に人代の歴史、大和王権も認めるべきと思いますが。。。
そう見るとイリ王朝の王都としての纏向とその地の箸墓の意義もわかりそうなものですが。 >>673
あなたは東遷論なんでしょ
東遷する時に手ぶらで移動するの? >>675
その各地に散った有力者とは、倭国(阿波)から進出した「忌部一族」なんですよ。 @阿波 >>679
意義を認めないわけではないが、邪馬台国と関係するという根拠がない。 >> 阿波さん
ネタにマジレスというのも無粋でしょうが、奈良盆地全体が沼地であったわけでもないでしょうに。 >>680
ですので、東遷した時には、一番大切なもの、大型の内行花文鏡を持って行ったのでしょ?
実際、たいそう丁重に扱われて大和から出ているじゃないですか?
古墳時代の伊都国から、大型の内向花文鏡が出て来ましたか??? 4世紀の筑紫の女王である神夏磯姫が持っていたと日本書紀にありますよ。 洗いざらいもっていった、ということは、「東遷」ですね。 >>683岡上
>奈良盆地全体が沼地であったわけでもないでしょうに。
平地のほとんどの所は沼地だったでしょうね。 @阿波 >>683岡上
>奈良盆地全体が沼地であったわけでもないでしょうに。
沼地でないのであれば、弥生集落遺跡が平地のあちこちに有ってしかるべき。 @阿波 平原王墓が248年に死んだ卑弥呼のものかどうか、ここはまだ議論の余地は多いあると思いますが、
伊都国の王権がその後に大和のイリ王朝に繋がっていることを否定して、九州王朝説を主張するのは流石にもう厳しいと思います。
畿内厨に馬鹿にされるだけですから、流石にそろそろあきたらめたら?という感じですね。 >>691岡上
>伊都国の王権がその後に大和のイリ王朝に繋がっていること
これが全くの「妄想」で、イリ王朝?なるものが大和にあった痕跡など微塵もなし。
あるというのであれば、その集落遺跡を示すべき。 @阿波 ヤマト王権が分家で、筑紫に平原の後継の女王がいた。
景行天皇がやって来て本家を乗っ取った。
これですべて説明できますけど。 >>694
まぁその説明ならまぁアリですよ。
東遷説ですから、私とは時期の違いがあるだけ。
私がオワコンと言っているのは、九州王朝説です。
>>阿波さん
纏向がイリ王朝の遺跡であるとずっと言っていますが。 九州説といっても、王家はしばしば入れ替わるのですよ。
九州北部は多くの勢力が入り乱れているわけですが、それは記紀にある筑紫の姿であり、魏志倭人伝にも一致します。 >>695岡上
>纏向がイリ王朝の遺跡であるとずっと言っていますが。
言うのであれば、その集落遺跡なり痕跡を示すべき。 でなければ、ただの「妄想」と言われても仕方がないですよ。 @阿波 >>664
畿内に於いてプレヤマトが前方後円墳体制を採用したのは間違いないが列島の四辺他地方にも前方後円墓制の流行に乗った勢力があった可能性を否定できませんなー
正否どちらも確定する根拠なしやろ?(まーお墓や土器金属器で何も決まらんいうことや
やっぱり軍事機密じゃね(ひらたくいうと実用武器要塞の特徴(あまり研究進んどらんよーじゃが >>700
つまり、古墳時代以降、九州も前方後円墳だが、それは「流行に乗った」だけということですね。
確かにその通りかもしれませんよ。
しかし、それなら内行花文鏡だって、単に九州からの流行に在来の畿内勢力が「乗っただけ」であって、
東遷的、もしくは東征的な事実なんて何ないという畿内自生説も十分成り立ちますね。
貴方の論理は、九州説も畿内自生説も同時に成り立たせる論理というになります。
その論理は邪馬台国の位置論争に何も寄与しない論理、つまり無意味ということです。 >>701
九州での前方後円墳って円墳や方墳と混在してるよな。 >>701
畿内は鉄が遅れすぎ。
畿内が盛り上がる時には鉄が一緒に増量。
九州もしくは、畿内より西側の鉄勢力が畿内に流入って考えるのが自然。 >>705
そうですね。
日本海ルートにて鉄器と銅鏡が入って来たんでしょうね。 >>706
陸路で近くまで鉄が来ていた、海路では波風が安全な瀬戸内海。
わざわざ日本海ルートを開拓するメリットがないような。
そして、その痕跡も聞いたことがない。 http://www.infokkkna.com/ironroad/2011htm/iron7/1103iron09.jpg
畿内だけ、時代遅れて鉄文化が発展。
福井は逆に古墳時j台初期に鉄が減る。
日本海ルートが盛んになったとは考えにくい。
同時に関東や能登の方面に急に鉄が増える。
畿内の大和朝廷となる勢力が急激に力を持ち、東へ遠征も行ったと考える。
その急激な鉄の増加や遠征するほどの勢力拡大は
日本海ルートでちびちび畿内が成長しての結果とは考えにくい。
まとまった勢力が短期間に入り込んだからこその発展と考えるのが自然。 https://m.youtube.com/watch?feature=share&v=rm4JaHmq0Kc
こんなんあったんですね。
柳田先生、相変わらず笑顔が素敵です。
磯田さんはちょっとハシャギ過ぎですね
途中、女王の出身地として、北九州、近畿、吉備の三択が出て来ますが、
近畿は論外なので、実質二択ですね。 >>707
逆ですよ、弥生時代に既存ルートとしてあったのが日本海ルート。
古墳時代に新たに開拓されたのが瀬戸内海ルート。
といっても、記紀を見る限り、イリ王朝は過渡期だったらしく、
まだまだ日本海ルートの方が主役ですね。 100〜250年で
畿内、吉備、出雲、淡路、能登、越、阿波、紀、濃尾、東海、関東
が、連合して 纏向時代の奈良に都を置いたんでしょうが?
つまり、伊都国が倭人伝の伊都なら
九州で卑弥呼の後がまの内乱してたんだからお呼びでないでしょうがwww
九州の古墳時代はこれより後だよ。 >>710
そのルートに力があれば、出土品で鉄がもっとでていたでしょうね。
ないです。
富山を見てもそれ以東を見てもないですね。
その節は無理があります。
まず、吉備の発展を考えれば瀬戸内海ルートがなかったと言えません。
四国ですら畿内より早くより鉄が増えています。
瀬戸内海を渡っていることは間違いありません。
関西より畿内より東に縄文時代からたくさんの集落はあったのに
鉄文化は大幅に遅れています。
日本海ルートがあったと考えるのには、どの角度でも無理がありますよ。
零細企業のような細々としたルートまで皆無とは言いませんが、日本の情勢を動かすようなものはなかったでしょう。 >>711
九州もそれに加えてやってください。
九州勢力仲間外れだったら、記紀に「私たちは九州から移り住んだ王族を中心にしてる」
と宣言するような物語は作らないでしょう。
神話も天皇も九州からって物語はそこに起源があるからとしか考えられません。
出雲も畿内も九州から東の大和朝廷より前に栄えた年はすべて九州発祥。
それらがまとまって畿内を日本の中心としたとしても
それのまとめ役として、発祥地九州の王族を頂点とした。
そんな流れだと思います。
記紀の物語を信用すれば、その動きこそ九州の勢力が音頭を取ったと見れます。 >>712
ていうか吉備や阿波なんて、出雲や越より後から栄えただろ。 【筑紫を中心とする倭国の交易路】
もともと日本海ルートが倭国の交易の主力だった。4世紀の仲哀天皇のときに関門海峡が開削され、5世紀の雄略天皇のときに風待ち港と澪標が整備され、瀬戸内ルートが整備された。なお、太平洋ルートは事実上存在しなかった模様。纒向は日本海ルートの末梢の辺境。
筑紫博多→出雲→丹後・若狭→能登・越→諏訪→甲斐・秩父
↓ ↓
↓ 近江三上祝→東濃→纏向
↓
宇佐→瀬戸内海→阿波・吉備→淡路島→摂津住吉
【九州北部勢力による倭国の拡大】
紀元前に、越のヒスイ勾玉を含む三種の神器が出現
→日本海沿岸の土器が博多湾へ流入
1世紀に銅矛などが拡散
2世紀に高地性集落が瀬戸内海を東征
→瀬戸内四国の土器が博多湾へ流入
2世紀末に銅戈が大阪湾上陸
→畿内から庄内式土器が博多湾へ流入
3世紀に大型内行花文鏡が畿内へ侵入
→畿内から布留式土器が博多湾へ流入 >>708
もともと最初に日本海ルートがあったんでしょ。 >>716
吉備の王朝といわれるようなものはそうだけど、鉄は
http://www.infokkkna.com/ironroad/2011htm/iron7/1103iron09.jpg
このとおり、古くから出土してその文化があったことがわかる。
>>718
それはないでしょう。
あっても鉄文化より古く、鉄文化の時には廃れていた。
そうなるでしょう。
四国にも畿内やそれより東よりはるか早く鉄が入ってますから。
日本海ルートが古くより強ければ、四国や山陰より日本海沿いにもっと東まで
鉄が早く広がっていて不思議ではないのに、そっちは時代遅れで鉄が届く。
もう、鉄の時代に日本海ルートはまともなものがなかったと考えて間違いないでしょう。 >>720 さん
日本海ルートが鉄文化の時には廃れていたって、妻木晩田も青谷はなかったことですか?せっかく貼り付けたので、>>709 のリンクでもみてくださいな。 >>721
すくなくとも、鉄が広がる時代に日本海ルートは機能していない。
ここは間違いないでしょう。
出雲の青銅武器大量破棄も、もし日本海ルートが鉄の広がる時代にあれば
緩やかな変化になり、いきなりの大量破棄はんてないでしょう。
鉄の勢力が急に押し寄せてきて、青銅との格差を見せつけられたからこその破棄でしょう。
日本海ルートは鉄が広がる時代には弱体化していた、もしくはそもそも大したものはない。
どちらかでしょう。 >>721
この動画の、元同志社大学教授辰巳和弘さん。
言ってることが願望ですよね。
宗教的なカリスマ性でと言っても、今も昔も武力の後ろ盾は必要でしょ。
その時点で卑弥呼の搭乗で大乱が収まったというエリアは九州。
その時代、石器で頑張ってた畿内は関係ない話ですよ。 >>722
「鉄が広がる時代」というのはいつのことを言っていますか?
古墳時代ならそうとは思いますが、弥生時代のことなら、ちょっとズレているように思います。
鉄器文明の広がり自体は日本海ルートによって、まずタニワに入って来ている。
そして、畿内と九州北部を直線的に結ぶ瀬戸内海ルートは、その後古墳時代に入って開通したということです。
鉄器の力によって瀬戸内ルートが興隆したことで、日本海ルート(出雲)が衰退していく。そういう図式と思います。 >>723
北九州・畿内・吉備の選択肢のうち、畿内は問題外でしょう。
センター試験などのマークシートの試験でも明らかな外れ選択肢ってあるでしょう。
そういう位置づけです(笑)。 >>724
鉄の広がりに日本海ルートが役に立ってない。
鉄が大陸から入ってきた時代に、日本海ルート優勢であったならば
出雲エリアのような北部九州から近い所の出遅れが辻褄あいません。
九州と出雲までのラインで大差があります。
日本海ルートが機能していたと考えにくいですね。
そして出雲と吉備では、初期で吉備方面が早い。
さらに四国愛媛ですら、日本海側より早く鉄が発展。
ないですね。
日本海ルート。
まともに文化を拡げる能力のあるルートは存在しなかった。
出土品がその証拠になってるので、これはどうしようもありませんよ。 >>714
九州起源説は古墳時代の統一建国の歴史じゃなくて神代。
紀元前1000年〜400年くらいまでに弥生渡来人は九州で栄えました。
その後、各地へ分散してゆきますが、弥生遺跡なんで記紀には理解不能でしょう。
記紀は銅鐸による国家形成初期も知らないで作られています。
だから神話なんです。 青森の水田耕作遺跡などがその九州移民の証です。 >> 726さん
>そして出雲と吉備では、初期で吉備方面が早い。
ここ、詳しくお願いします。 >>708
>畿内の大和朝廷となる勢力が急激に力を持ち、東へ遠征も行ったと考える。
その大和朝廷となる勢力・東へ遠征も行った勢力とは、阿波の忌部一族ですね。 @阿波 >>711
>畿内、吉備、出雲、淡路、能登、越、阿波、紀、濃尾、東海、関東
申し訳ないが、それ全部忌部一族の拓殖地。 @阿波 >>712
>まず、吉備の発展を考えれば瀬戸内海ルートがなかったと言えません。
卑弥呼の時代には、瀬戸内海ルートは確立されていません。
吉備の発展は、阿波→讃岐→吉備ルートなのです。 @阿波 >>725岡上
>北九州・畿内・吉備の選択肢のうち、畿内は問題外でしょう。
北九州・畿内・吉備も問題外でしょう。 @阿波 >>726
>そして出雲と吉備では、初期で吉備方面が早い。
当然ですね。 阿波→讃岐→吉備→出雲ルートなのですから。 @阿波 >>728
出土品で見てください。
弥生中期以前ではっきりと瀬戸内海、さらに四国が先に鉄が入っています。
日本海ルートがなかった。
または日本海ルートが文化を広めるほどの力がなかった。
そのどちらかで間違いないでしょう。 ずれますが、同志社大学と聞いただけで眉唾か?と思ってしまいます。
古代史、政治、軍事が趣味ですが、政治の面で極端なイデオロギーの大学派閥は
どうも歴史分野でも信用できない。
これは個人的な価値観ですが、まぁ反日左翼と言われるような勢力派閥は
考古学をやるに向いてない人たちではと思ってしまいます。
唯一の良心と言えた村田学長落選が悔やまられます。
http://static.nikkan-gendai.com/img/article/000/162/987/cfaa83c026d4c638d2681683d058cb3720150822125934956.jpg
ステキな髪の色ですね・・・・・。
個人的感想です。 >>735
>または日本海ルートが文化を広めるほどの力がなかった。
同意ですが、それにしても鉄鍛冶遺構が多数ある倭国(阿波)について寺沢薫氏は余りにも無知・不勉強ですね。 @阿波 >>724
>鉄器の力によって瀬戸内ルートが興隆したことで、日本海ルート(出雲)が衰退していく。そういう図式と思います。
瀬戸内ルートを開拓したのが鉄を持つ筑紫で、鉄を持たない出雲を凌駕したという仮説は成り立ちますか?
それなら出雲から筑紫への政権移行、出雲の国譲りが起きた理由を説明できます。 >>738
>瀬戸内ルートを開拓したのが鉄を持つ筑紫で、鉄を持たない出雲を凌駕したという仮説は成り立ちますか?
成り立ちません。 瀬戸内ルートを開拓したのは、鉄を持つ倭国(阿波)です。 @阿波 >>730
だから、阿波は奈良建国以前からの大和朝廷勢力の重鎮だから
247年に卑弥呼の後継争いや熊本と勢力争いして帯方郡に救援頼んだ
伊都 邪馬台国とは関係ないだろ?
古墳時代到来の時系列の250年だよ。
大和朝廷が建国で奈良に首都を置いた時の盟主が阿波なんだろ?
大和朝廷の建国の内情はいいけど 記紀じゃ、出雲の国譲りみたいな話だな。 >>738
「鉄を持たない出雲」って、前提がぜんぜんダメです。
出雲の国譲りで譲られた国とは、三輪山麓、ヤマトの地ですよ。
(出雲人形という時の出雲ですね) >>741
>247年に卑弥呼の後継争いや熊本と勢力争いして帯方郡に救援頼んだ
>伊都 邪馬台国とは関係ないだろ?
それ、全部倭国(阿波)国内の出来事ですよ。 熊本と勢力争いしたのは、卑弥呼よりずっと後のj事象です。 @阿波 >>742
そこをダメという時点で、ちゃんと事実を見ていないことがわかります。
http://www.infokkkna.com/ironroad/2011htm/iron7/1103iron09.jpg
鉄が九州と出雲で大差です。
出土品の事実無視では、歴史を語れませんよ。
国譲りの物語がどの時点のことかもわかっておらず、そこは基準にできまえせん。
九州勢力もしくはその分家が東に向かう段階で飲み込まれた。
もしくは、畿内にしっかり鉄の文化が入り、勢力が大きくなった後に出雲を飲み込んだ。
どちらかでしょう。 出雲の青銅の武器大量放棄は
「埋納された時期は紀元前後から紀元後の1世紀と推定されます。」
となっていますから、私の仮説
鉄器を主力とする勢力は、何度も何段階も九州から繰り返し新たな土地を目指し旅立った。
鉄の文化となった出雲も吉備も九州勢力からの分家のようなもの。
から考えると
かなり早い段階で、九州勢から飲み込まれており、畿内との国譲りは考えられませんね。
なんといっても、畿内は古墳時代まで日用品が石器という文明後進国ですから。
出雲が青銅器を捨てて下につく必要がありません。 >>746 さん
誰がどのレスなのかよくわかりませんが、
テンプレを見て貰えばわかる通り、私はイト倭国がそのままヤマト国になったという立場ですから。
日本海ルートから畿内に先に進出していた勢力が、畿内をイト倭国に譲った、というのが私の主張です。 >>745
「日本海ルートに鉄器がない」わけないでしょう。
https://ir.lib.hiroshima-u.ac.jp/files/public/1/14677/20141016121835844887/BA66949967_5_21_34_nojima.pdf
弥生時代中期の段階では,北部九州から山陰あるいは丹後半島への鉄の交易を想定す ることができる。(中略)
北部九州から山陰,丹後半島など遠隔地へ海上交易によってもたらされた 最初の鉄であった。 ふむふむ。
私は紀元前後の出雲の国譲りの直後に邇邇芸が伊都に降臨して、その後の男王70〜80年、倭国大乱、卑弥呼と考えています。 >>747
鉄の時代にまるで廃れた日本海ルートが、さらに古い時代に人の流れを支えたルートとしてあった。
その可能性はあるでしょうね。
ただ、記紀無視な話になります。
そして、不自然な説に頼らなくても、鉄の文化が徐々に東に流れる自然な移動が証拠付きであります。
畿内が力を持つ古墳時代に急激に畿内に鉄が増加。
日本海ルートが必要ありません。
どのルートとか考えなくても、畿内には石器文化の原住民もしくは流れてきた集団はいたでしょうけどね。 >>748
http://www.infokkkna.com/ironroad/2011htm/iron7/1103iron09.jpg
これが現実です。
例え鉄を運ぶ日本海ルートが生まれたとしても
大して意味のない時期です。
山陽エリアに遅れ、四国にも遅れての山陰エリア鉄文化です。
さらに、畿内から日本海に向けてのエリアである富山はさらに鉄文化後進エリア。
もう、このルートで畿内に鉄が伝わったと考えるのは無理があります。
残念ですが、日本海ルートは西日本全体に鉄の文明が広がる時期に
大きな影響を与えたようなルートではないことが間違いありません。
残念ですが。 >>751
>日本海ルートは西日本全体に鉄の文明が広がる時期に
大きな影響を与えたようなルートではないことが間違いありません。
同意ですが、それにしても鉄鍛冶遺構が多数ある倭国(阿波)について寺沢薫氏は余りにも無知・不勉強ですね。 @阿波 稲作の伝播のルートとしては日本海ルートも重要だったけれど、鉄器の時代には瀬戸内ルートが開拓されたと。
何れにしても主役は九州北部、筑紫ですけどね。 >>753
>何れにしても主役は九州北部、筑紫ですけどね。
九州北部は、倭国(阿波)への中継地ですけどね。 @阿波 >>753
>稲作の伝播のルートとしては日本海ルートも重要だったけれど、
>鉄器の時代(古墳時代)には瀬戸内ルートが開拓されたと。
>何れにしても主役は九州北部、筑紫ですけどね。
これなら100%同意ですね。 >>755岡上
>鉄器の時代(古墳時代)
鉄器の時代は倭国(阿波)では弥生時代ですよ。 @阿波 稲作の伝播とともに、北部九州では弥生前期末〜中期前葉には遼東半島から朝鮮半島西北部で生産された鋳造鉄製品が流入し、その破片を研磨加工した鉄器の使用がみられる。
中期後葉には朝鮮半島産の鉄素材を用いた鍛冶技術による鋳造鉄器の生産が始まる。
北部九州の鍛冶炉の定着と時期を置かず、徳島市矢野遺跡では規模・構造ともに北部九州に劣ることのないT類鍛冶炉による鉄器製作が確認される。
類似施設は徳島市名東遺跡・鳴門市光勝院寺内遺跡にも認められる。先進技術のいち早い導入は吉野川下流域の特徴である。 @阿波 倭人伝・記紀等の文献、考古学、地勢学、神社伝承 いずれの資料においても
倭国(邪馬台国)の中心は「阿波国」であることを明確に示しています。
阿波国が唯一 魏と交流していたことに加え、他国に無い最新式の鉄鍛冶工房(T類鍛冶炉)の存在が、阿波が倭国の女王国である明らかな証拠のひとつです。 @阿波 やりすぎ防犯パトロール、特定人物を尾行監視 2009年3月19日19時7分配信 ツカサネット新聞
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20090319-00000026-tsuka-soci
この記事で問題になった通称やりすぎ防パトは、創価学会と警察署が引き起こしていたようです
掻い摘んで説明すると
・創価学会は、町内会や老人会、PTA、商店会等の住民組織に関し、学会員が役員になるよう積極的に働きかける運動を
90年代末から開始し、結果、多くの住民組織で役員が学会員という状況が生まれた
・防犯パトロールの担い手は地域の住民と住民組織で、防犯活動に関する会議や協議会には、住民組織の代表に役員が出席する為
防犯活動や防パトに、創価学会が間接的に影響力を行使可能となった
・防パトは住民が行う為、住民が不審者や要注意人物にでっち上げられるトラブルが起きていたが
創価学会はその緩さに目をつけ、住民組織を握っている状況を利用し、嫌がらせ対象者を不審者や要注意人物にでっち上げ
防パトに尾行や監視、付き纏いをさせるようになった
・防パトは地元警察署との緊密な連携により行われる為、創価学会は警察署幹部を懐柔して取り込んでしまい
不審者にでっち上げた住民への嫌がらせに署幹部を経由して警察署を加担させるようになった
・主に当該警察署勤務と考えられる創価学会員警察官を動かし、恐らく非番の日に、職権自体ないにもかかわらず
私服警官を偽装させて管轄内を歩いて回らせ、防犯協力をお願いしますと住民に協力を求めて回り
防犯とは名ばかりの、単なる嫌がらせを住民らに行わせた(防犯協力と称し依頼して回っていた警察官らの正体は恐らく所轄勤務の学会員警察官)
※これに加えて防犯要員が同様のお願いをして回る
・こうして防犯パトロールを悪用し、住民を欺いて嫌がらせをさせつつ、創価学会自体も会員らを動員し、組織的な嫌がらせを連動して行った
つまり警察署に勤務する学会員警察官、警察署幹部、創価学会が通称やりすぎ防犯パトロールの黒幕
詳細は下記スレをご覧下さい
やりすぎ防犯パトロールは創価学会と警察署の仕業だった
https://rio2016.5ch.net/test/read.cgi/bouhan/1516500769/ >>760
>鉄器と銅鐸が共存?
>珍しい組み合わせ
阿波は実に不思議で面白いところなんですよ。
阿波を訪れた学者は「なんでこんな物が阿波に?」と不思議がって帰るそうです。 @阿波 「弥生時代後期」に古墳からではなく、「庄・蔵本集落遺跡」から中国鏡「異体字銘帯鏡片」(前漢代 紀元前206年〜紀元後8年)が出土しているのは、全国で阿波だけである。
「古墳の副葬品」ではなく、日々人々が暮らしている「集落遺跡」から「中国鏡」が出土するということは、この遺跡周辺(鮎喰川下流域)が古くから中国との交流があり、
また、前方後円墳発祥の地でもあり、倭国の盟主であったことが窺われる。 @阿波 >「古墳の副葬品」ではなく、
>日々人々が暮らしている「集落遺跡」から「中国鏡」が出土するということは、
お前賢いな!!!
福岡市博多区の仲島遺跡で蝙蝠鈕座の内行花文鏡が見つかった。
「破鏡にして副葬」されたわけでなく、
「集落遺跡」から「後漢末期の中国鏡」が状態良好な完鏡で出土したのだから、
ますます圧倒的に
福岡県こそが後漢末期の中国と交流していた中心地だったわけだな。 >>764
>「集落遺跡」から「後漢末期の中国鏡」が状態良好な完鏡で出土したのだから、
>ますます圧倒的に
>福岡県こそが後漢末期の中国と交流していた中心地だったわけだな。
倭国(阿波)の「庄・蔵本集落遺跡」からは「前漢代」の中国鏡が出土している訳だから、
ますます圧倒的に
徳島県こそが前漢〜後漢末期の中国と交流していた中心地だったわけだな。 @阿波 >>766
阿波は実に不思議で面白いところなんですよ。
阿波を訪れた学者は「なんでこんな物が阿波に?」と不思議がって帰るそうです。 @阿波 日本史より謎な金儲けできる方法とか
グーグルで検索⇒『羽山のサユレイザ』
BZI8Z 庄内式、布留式土器は畿内第X期東阿波型土器(薄型軽量土器)の伝播を示唆する
鮎喰川下流集落群では、弥生終末期には軽量薄型の土器が生み出される。
中・東部瀬戸内から大阪湾岸地域、淀川地域・山城地域に搬出された阿波を代表する土器であり、東阿波型土器と呼んでいる。
企画性が強く、器壁内面にヘラケズリと指頭圧痕を残す製作技法に特徴がある。土器製作専業集団によるものだろう。
類似技法による土器は讃岐・吉備に拡がり、薄型土器の南北軸を形成している。 @阿波 あれだけいた畿内説コテハンがほんと消えたなあ。
高齢さんとかも最近見なくなったし。
あの人の世界観は好きだったけど、考古学的証拠が出そろった最近はやっぱり反論できずに言い張るだけになってちょっとかわいそうだったよね。
ジョーカーもあれはあれで頑張っていたけど意外と判断思考は科学的だったから
議論が煮詰まってくると九州説そのまんまの発言をし始めてそれは九州説じゃんと指摘されて本人絶句したり相当悩んでるっぽかったよね。
ここでまだ頑張ってるのはスレ主と根拠厨くらいで科学的議論を放棄してのテンプレ死守の印象操作作戦に徹底してもはや議論が成り立たない。
岡上は東遷説とはいえ畿内説なわけで真っ向から取り組んでなんとか畿内説に持っていこうとしているのだけど、
もう味方であるはずの岡上程度の東遷説議論ですら許容できないほど畿内説は追いつめられているのだな。 >>624
素晴らしいね。
アマゾンで電子出版してみたら?
個人的にはこういうラインが日本各地の
重要な遺跡、古墳 神社などを結ぶのは、
当時
築造あるいは用地選定に
鏡による光を用いたことを想定するべきように思う。
正確に直線を引くには光しかないからね。 774 さん
有難うございます。
2017年の年末にまとめとして実は自分用に一つの結論として、
ちょっとした知り合いに配布要しての本はもう作ってあるのです。
アマゾンの電子書籍はどんなものか知りませんが、面白そうですね。
魏志と日本書紀と考古学と歴史的な遺物、ここまで合致的であることを偶然と捨ておくのは、
如何にも勿体ないと思っています。 平原遺跡
・柳田康雄「九州弥生文化の研究2002」
(糸島地域p178)
「二世紀前半ともいわれている平原遺跡は、その年代に科学的な根拠は全くない。
瑪瑙や琥珀の玉類は別にしても、四二面のうち最も多い方格規矩鏡の中に、方格内の銘や小乳もなく、八像も簡略化され、玄武が釣針状の蛇だけになったものがある。
このように簡略化された方格規矩鏡は三世紀代に下がるものと思われ、鏡からでも三世紀前半まで下げて考えなければならない。
周溝から鉢形の土器が出土しているが公表されていない。」
・柳田康雄「弥生時代王権論」2013
(p317)
「拙稿のように32面の方格規矩四神鏡を含めて38面の製造技術が164年(『延喜七年』銘獣首鏡)以後、235年(「青龍三年」)銘方格規矩四神鏡)以前に見られる鋳造・研磨技術である」 >>775
アマゾンアンリミテッドで読み放題で
個人の史論読むのがおもしろいす。 >>781
読みました!
官の解釈に頭を殴られた思いです。
これまでは単なる語呂合わせ論でしかなかったですが、一本筋通った感じがします。
私からは
彌馬の彌の字は正確な音を転写すると
ミャらしく ミといったりヤと言ったりするのはそういうことらしいです。
だからミヤとみなしても全然問題ないと思います。その場合、馬は場でしょうね。
それと110を元に考えるなら
百襲の百はホとよんで ホソ が 百ソが十で110と考えた方が素直な気がしました。
トトヒのトト は
古語につとに 、つとめてなどとの類推から
トトヒで次の日という解釈もあると読んだことがあります。巫女に次の日では意味が通じないので
未来の時間を指してると考えれば
ある日から110日がまさにトトヒホソ!になります!! それと
流通路の変更に河内湖の消失を上げるのも
一本筋通っていてよいと思いました。
日本海ルートの東端としての経路も
まずは生駒山越 が日本海につながっているというのも、腑に落ちる点です。
日本海からヤマトへのみちと
日本海から東播磨摂津に出る道があったようで
弥生土器での折衷型土器がこのあたりに見られて、日本海と畿内がつながっていた経路にあったことがわかります。
しかし
なぜ三輪山を目指したのか気になりますね。
近畿地方の最高峰が三輪山になるんでしょうか?
吉備からも三輪山の方向がわかるのであれば
東海や北陸からもそうだったのかな?
いやいいもの読ませてもらいました。 近畿と九州には同一の地名がかなりあるのが確認されています。単に似ているのではなく、「連続的」に同一の地名があるのです。
「筑紫」の周辺で言うと、北の笠置山から始まって、
春日→御笠山→住吉(墨江)神社→平群→池田→三井→小田→三輪→雲堤→筑前高田→長谷山→加美(上)→朝倉→久留米→三潴→香山(高山)→鷹取山→天瀬→玖珠→鳥屋山→上山田→山田市→田原
と続く地名連鎖が存在します。
これはほぼ反時計回りに続く円周上にあります。
「畿内」でも全く同様に「笠置(笠置山)」→春日→三笠山→住吉(墨江)神社→平群→池田→三井→織田→三輪→雲梯→大和高田→長谷山→賀美(上)→朝倉→久米→水間→天の香山(高山)→高取山→天ケ瀬→国樔→鳥見山→上山田→山田→田原と連続しているのです。
これらも同様に反時計回り円周上に連なっています。
字面は多少違っても発音ほぼ同じなのです。このような例は「近畿」と「九州」以外の地域には確認されていません。
もし「重層地名としての類似」が「近畿」からの「伝搬」とするならば、「近畿」からある程度離れた多くの場所にはかなり多量に同様な地名の「類似」、或いは「重層地名類似」がなければなりませんが、そうはなっておりません。
特に「九州」に多い理由を別に探さなければならないわけです。
これを整合的に説明できる仮定は「どちらかの地名群がオリジナルであり、どちらかがコピーである」というものだと思われます。
現代でも移民などの場合、以前の地名を持って行くという場合もあるかもしれません。しかし、それが大量に発生するとなると、単なる移民の話ではなくなります。
このような現象が起きるためには、「政治権力」つまり「権力機構」の移転が必須であると思われるのです。 神功皇后が出てくる伝記は眉唾。
それ以前からあったものを隠そうとすることが多い。
その代表が伊都(怡土)の語源。
魏志倭人伝に名前がある以上、神功皇后より前からあったことは確実なのに。 >>782 さん
ご購読頂きまして本当にありがとう御座います!
よろしければ、どんな批判的な内容でも結構ですので、是非アマゾンでのレビューも頂けましたら嬉しいです。(ちょっとあつかましいですかね?)
邪馬台国の官の比定につきましては、今回のアイデアの肝になるところですので、
ここ(5ch)でもずっと沈黙を貫いていましたが、ご評価頂いて本当に嬉しいです。
こういった形で自身で書き溜めたものを世に問うことができたのも
774さんのご助言あってのことですし、本当に有難う御座います。
今日は残業がすごかったので、一旦これにて失礼します。 そりゃそうかもしれないですね。
勝手なリクエストはご放念ください! >>789
記紀の出雲の国譲りは、出雲の大国主(大己貴)を倒したので、豊葦原中国を治めるために邇邇芸が筑紫に降り即位するという、少し訳のわからないストーリーである。
しかし大己貴がいたのがこの大己貴神社がある筑紫なら、次のようになる。
筑紫の倭王であった大己貴を倒したので、邇邇芸が次代の倭王となるために筑紫に降り即位した。
このエピソードは、神武が大和入りしてから出会う三輪山の神の娘の話より3〜4世代も前の話になる。
つまり、筑紫の大己貴神社(大神神社)の方が古い。
大和の三輪山の神は出雲(大己貴)の末裔とされているので、筑紫の三輪山の祖先を祭ったのだろう。 岡上さん、片方だけどんなものかと思い買いました。
すごく詳細に資料を調べられているようで、感心しました。
特に興味を惹かれたのは、三雲南小路遺跡の話でした。
まさに、原始、女性は太陽であった、ですね。 出雲の伝承では、宗像家は出雲帝国の西王家、神門臣家から分家独立したタカアタス命が初代で
宇佐の地に都したと言います。
近畿の葛城に初めて?移住して分家独立なさったのは
世代でいうとカタアタス命らから三〜四世代後。
出雲帝国の東王家の富家/向家の八重波津身命(いわゆる事代主/大物主)の御子、天日方奇日方命らが母親の生玉依媛命の実家の摂津の三島(高槻市辺り)に母子共々に移り、
後に葛城に出雲人や三島からの人らを連れて移住して
登美家(富家)を号して盤拠したのが端緒のようです。
妹君には媛踏鞴五十鈴姫命 と五十鈴依媛命がいたと言います。
少し後に、その葛城の登美家を頼り出雲から西王家の神門臣家の多岐津彦(父は高彦/味耜高彦根命)らが葛城の南部に移住してきて
高賀茂家を号して分家独立。
葛城のこの出雲から移住して分家独立した登美家と高賀茂家をひとからげに葛城のカモ族と呼ばれるようになって、、、
(王族を神族と奉り、神をカモと発音していた所以)
遡って、宗像家初代のカタアタス命には三人の女御が座して、
長女の多岐理媛命は出雲の東王家、富家の天の冬衣命(第7代オオナモチ(帝王))に嫁ぎ
八重波津身命他を生みます。
また、次女の多岐津媛命/神屋楯媛命/高津媛命は出雲の本家、西王家の神門臣家の八千戈命(第8代オオナモチ)に嫁ぎ(いとこ同士の結婚)
高彦(味耜高彦根)ほかを生みます
八千戈と八重波津身の治世の御代に秦人がやってきて出雲帝国をかき回して乗っ取りを謀り、お二方はほぼ同時期に賊のてにより殺害されてします。
この渡来人等との共住を忌避して出雲人が領有した各地に移住した中の一つが上の近畿の葛城(大和)地方。
時代は紀元前3世紀終わり〜同2世紀頃、中国の秦末から前漢の半ば頃に比定出来るカモです? 岡上本が好評そうなので読んでみた。
確かになかなかよく調べていて読みやすい 796 さん 799 さん
ご購読有難う御座います。
三雲南については、三角縁神獣鏡が魔鏡、魔鏡というぐらいなら、
本場と同型鏡の二号墓のものについて、その百倍、いや千倍ぐらい世間から注目して欲しいですね。
通勤中ですので、取り急ぎご御礼まで。 いろいろ楽しく議論したいのですが、最近は5chも人も減って来ているみたいだし、
そんな感じではなくなっているのかも。。。
そもそも、私自身が少しは営業しないとダメなんでしょうが。
ま、それも急ぐことも全くないので、なんでも聞いてくださいね。
>> 782さん
古事記では夜麻登登母母曽毘売 ですからね。百をホと読むのは少し厳しい気がします。
トトとモモをついに考えるなら、登登と 母母 の対応関係は生きていますね。
ただし、考えてみると、ご指摘の通りモモを100 ソを10として、モモソ で110と意味をとるのが
スマートな気もして来ました。(トトヒは、「尊い」でしょうか?)
その場合は、モモソ(百十)は、イソ(五十)とでうまく対になりますね。
モモソヒメとイサセリヒコとの符牒もばっちりです。 ここにも転載しておくか
東遷説スレにあった言葉
「東遷した時期をある特定の時期の範囲の中に設定する説が「東遷説」なのであり
遅すぎるとありきたりの九州説になってしまい
早すぎるとごくふつうの畿内説になってしまう」 >>727
>岡上は九州説、というよりアンチ畿内説3狂人の一人だぞ
彼は平原遺跡の価値を認めた上での畿内説だよ。
ただ、そのことが気にくわない畿内説支持者からは裏切り者扱いされてアンチに認定された。
しかし邪馬台国は畿内という立場だから、れっきとした畿内説。
その他の事柄は、アンチの発言をなんでも岡上のせいにする全岡上病にすぎない。 鉄器ゼロだからどうにもならない。
鉄器数百と蝙蝠紐座内行花文鏡が無造作に発見される
北部九州は
ムダ毛処理して小奇麗な
3世紀の文明人
鉄器ゼロの毛人地域は、
ムダ毛ボウボウの毛人の地 トリを変えました。
あと、現在例の直線についての大きな地図を作っています。
A1の350dpiという大きさでもまだまだ直線の持つ精確さには足りないぐらいです。
絵心ゼロですので、まだまだ時間かかりますが、僭越ながらできたらこちらで
紹介させて頂きます。 楽しみ。
岡上氏は考古遺物に限らず古伝口承の類に
ご興味ありますか?
特に
>>797さんも書いてらっしゃいますが
大元出版の各著作に実に興味深い内容が書いてあります。
筑紫から丹波に天香山が移住して後に
大和の笛吹のあたりに居住して子の叢雲が大王になり、出雲から銅剣を贈呈されたという。
尾張熱田にある叢雲の劔これなり、と。
ヒミコは何人もいて共立されたヒミコと
親魏倭王のヒミコは別人という内容もあり。
どこまで本当かわかりませんが、信憑性を感じる内容になっています。歴史学ではなく民俗学の範疇かもしれませんが。
鏡の祭祀は物部が九州から持ち込んだ。
畿内から銅鐸が消えるのは物部と大彦の対立。
などなど。 おそらく著者 斎木さんのブログです。
ttps://ameblo.jp/dorabida1207/entry-12037755216.html 筑紫を起点に西日本一帯に文化が広がるのは、伝承と考古学の両方から確実ですね。
それを畿内発祥とか言い張るからおかしくなる。 >>811
>筑紫を起点に西日本一帯に文化が広がるのは、伝承と考古学の両方から確実ですね。
筑紫に「其山有丹」は該当しない。 @阿波 >>811
>筑紫を起点に西日本一帯に文化が広がるのは、伝承と考古学の両方から確実ですね。
筑紫に「有薑橘椒襄荷」は該当しない。 @阿波 >>811
>筑紫を起点に西日本一帯に文化が広がるのは、伝承と考古学の両方から確実ですね。
筑紫に「倭地温暖」は該当しない。 @阿波 682日本@名無史さん2018/04/15(日) 06:16:33.78
テンプレを読みに行くことすら拒否する駄々っ子のために貼ってあげるよ
倭国内の弥生時代後期〜末期に鉄器がないと想定する方がおかしい
鉄器が「発掘されない理由」を考える方が、重要
Q:鉄器の乏しい畿内の政権が覇権を握るのは無理だ!
A:倭人伝の描かれた卑弥呼の政権は覇権的でない。
宗教的権威者を核に、各地の首長が自主的姿勢で政治力を求心的に集約(共立)したものであり、考古学が解明した3世紀の状況とよく整合する。
一方、伐採用石斧の減少状況から鉄器の普及状態を推測すると、九州と畿内でも極端な格差が無い。準構造船(久宝寺南:庄内新)をはじめとする木製品の加工痕からみても、一定量の鉄器が普及していたと思われる。
遺存例には大竹西遺跡の鉄剣(弥生後期初頭)や唐古鍵40次調査の板状鉄斧、痕跡では加美遺跡Y1号周溝墓の鉄斧による伐採痕や唐古鍵SD-C107鉄斧柄、纒向遺跡メクリ地区の大型鉄器を研磨したと推定されている大量の砥石(3世紀前半〜中頃)など。
鍛冶を伴う遺構は纒向石塚の北東200m近辺出土の鞴羽口や鉄滓等(3世紀後半)、淀川・桂川圏で中臣遺跡(京都山科,弥生後〜古墳初)、西京極遺跡(京都市内,弥生後前)、和泉式部町遺跡(右京区,弥生後〜古墳初)、
南条遺跡(向日市,弥生後前)、小曽部芝谷遺跡(高槻,弥生後)、美濃山廃寺下層遺跡(八幡,弥生後後)、星ヶ丘遺跡(枚方,弥生後後)、鷹塚山遺跡(枚方,弥生後後)、木津川圏で田辺天神山遺跡(京田辺,弥生後〜古墳初)など。
纒向での鉄利用状況については、大型建物D隣の大型祭祀土壙SK-3001より出土したヒノキ材(庄内3)の分析で、その加工痕及び周辺で植生上少ないヒノキの多用という状況から
「集落を包括した工人専業集団の発達がなされ、鉄器が一般使用または使用できる集落」(金原 2011)
と結論されている。
弥生終末期(庄内新相)の畿内中枢に於て遺物が直接土壌と接触しにくい墓制が普及し始めると同時に俄かに豊富な鉄器が登場するという状況を鑑みると、畿内の土壌の特性が鉄器の遺存状態に大きく影響していたことには疑問の余地が無い。 683日本@名無史さん2018/04/15(日) 08:07:34.78
>>682
あのー
それだからダメだって言ってるんだが。
纒向の話をしているのに、
京都大阪までかき集めてどうすんの?
しかも京都大阪までかき集めてたったのそれだけ?
邪馬台国じゃないなあ、と思わないの?
北部九州の人がわずかに持ち込んだ鉄器を大事に大事に使ってたんだなあ、と思わないの?
【鉄器】
唐古鍵 板状鉄斧
大竹西遺跡 鉄剣(大阪府八尾市)
<こ れ だ け>
【痕跡】
唐古鍵 鉄斧「柄」
加美遺跡Y1号周溝墓 「伐採痕」(大阪市)
久宝寺南遺跡 準構造船の加工痕(大阪府八尾市)
纒向遺跡 大量の砥石 大型鉄器を研磨したと「推定」
明らかじゃん。
ごくごくわずかな鉄器とその痕跡のうち、
3点が大阪で、八尾市に準構造船を伴っている。
北部九州倭人が鉄器を持って準構造船でやってきたわけだ。 978岡上 ◆0/8QIRu3og 2018/04/13(金) 23:24:28.40
余談ですが、今日、歴史REALの邪馬壹国を買ってみました。
北条先生の説が一番興味深かったですね。
一文だけ抜き出しておきましょう。
「ヤマト土着の弥生文化の勢力が独自に邪馬台国の主体をになったというのはありえない。
纏向の建物の配列の仕方などは、ヤマト在地の弥生文化とは異質で九州北部の強い影響を受けていることは明らかです。
中略 言ってみれば、「邪馬台国東遷説」に近い考え方かもしれません」 いるか聞かれて誰も答えられない
という事実は
いないという推測の
決定的な根拠だな >>828
2ちゃんでレスがないことが論拠の推論www >>829
つまり、あんたが答えられないってことだろ?
決定的な論拠だ >>830
2ちゃんの過疎スレで解答がないだけの推論www
で、決定的wwwww
笑い殺す気か?? >>831
つまり、あんたは答えられないわけだ
東遷説の学者はいないということで、FA?
よろしいね? すっかり遅くなってしまいましたが。
>>809 さん
地図は週末で大体はできたので、今試しに印刷に出しています。
リンクは少し読ませて頂きました。
神代の出雲と日向での記憶というのが、記紀では神話に押し込められていますが、
そこから歴史を導出しても、似たような史観に落ち着くのですかね。
たしかに類似性は感じましたよ。ただ、徐福云々はちょっとついて行けませんでしたが。
かぐや姫の物語は私も興味があり、これまた小論を描いたことがあります。
基本的にはイリ王朝、就中、垂仁天皇のエピソードと関係あるのでは思っています。
けど、こちらはまだまだお披露目できるレベルでもないので、自粛しておきます。 日本の地理上にて発見した一つの興味深い直線をご紹介いたします。(この直線の発見は、「継続としての日本古代史」を書くにあたって偶然に発見した、単なる副産物に過ぎません。)
その直線は、吉備の地、現在の岡山市にある「浦間茶臼山古墳」(この古墳は箸墓の丁度1/2相似形であることがわかっています)と「伊勢神宮(内宮)」を結ぶことで現出します。
この直線上には、三輪山、箸墓、応神皇陵や明石海峡の中間点など、不思議なほどに沢山の地形や神社・古墳などが並びます。
そして、特にその直線上には、赤盾赤矛・黒盾黒矛を祀ったとされる墨坂神社と大坂山口神社もあり、実在可能性の濃いとされる10代、ハツクニシラス スメラミコト、崇神天皇の事績と非常に関連性が深いものが多いのが特色です。
如何にも胡散臭いと感じられるでしょうが、これだけの地点を恣意的に私が配置できるわけがありませんし、単なる偶然とするにもあまりに奇妙です。
そして、なぜこのような直線が現出するのかを私なりに考えてみたところ、この直線は、その奇妙すぎる一致にもかかわらず、何も厳密な測量などによらずとも、ある特定の日(それは10月10日なのですが)に
三輪山の方向から朝日が登る地点を遥拝することによって、現出することがわかったのです。
論より証拠、「継続としての日本古代史」のちょっとした広告用ポスターを自作して、この「10月10日の直線(レイライン)」を紹介することしましたので、是非一度ご覧ください。 A3版 ttp://fast-uploader.com/file/7079819167188/
A1版 ttp://fast-uploader.com/file/7079819231809/
A1版は結構大きいので、ご注意ください。
私は、A0に引き伸ばして印刷しました。なかなかの迫力です。
ご笑覧ください。 内向花文鏡と、太陽信仰、伊勢、そして箸墓とその相似形の浦間茶臼山
これらに共通性を見出した結果として、発見した事実ですね。
この直線は単なる客観的な事実関係ですから、
私が初めて言及したことを嬉しくおもいます。 >>835
これはさすがに偶然じゃないでしょうか。
このスケールで正確に距離や方角を測る技術を持っていたとは考えにくいですし。
伊都と伊勢を結ぶ線とかならまだ色々考えますけどね。 >>841 さん
必然か偶然か判断するのは、観察者の方ですので判断は、考えは置いておくとして、
まずは、この「10月10日の直線」が事実かどうか、予断を抜きにして、まずは事実関係を確認してみてください。
この直線を成立させるのに特段の技術は必要ないことは、その命名にも含意させています。
マピオンさんで日の出の方向を確認するアプリがありますので、
それで浦間茶臼山からの10月10日の日の出の方向を調べてみてください。 >>839 さん
有難う御座います。
一生懸命作った甲斐がありました! >>841 さん
といっても、なかなか面倒でしょうから、
キャプチャしてアップしてみました。比べてみてください。
http://fast-uploader.com/file/7079949282151/ 自スレに誤爆してしまった(笑)
こちらに書こうと思っていたのは、伊都国説についてです。
私は伊都国説に基本的にかなり好意的ですが、それは、もし魏志がなく、
魏略の内容だけなら、魏略における「女王国」とは伊都国の平原王墓で
ほぼ完全に考古学と文献が合致しており、異論がないだろうということです。
もし、これだけなら原始日本の描写として基本的な構図が
ここまで畿内説と九州説で支離滅裂に分裂することもなかったでしょう。
逆にいうと、魏志にあって、魏略にないもの、つまり邪馬台国と投馬国は、
魏志の時代になって初めて「張政の報告書」によってもたらされた新情報ではないか、
ということです。 そりゃそうだ。
漢代は統一国家倭国。
魏代には邪馬台国と狗奴国に分裂して倭国王争奪戦。
三国志東夷伝韓伝に倭人も鉄を採掘しているとあるのだから
その近くに倭人支配地域が出現しているわけで、
それが 国会図書館の遠隔複写サービスですか!
大学はなにかと紹介状云々といわれて、なんて閉鎖的だとおもいましたが、
これは誰でもアクセスできそうですね。
今までこれはというのは、仕方なく通販で買ってましたが、絶版のものは手付かずでした。これはだいぶ便利そうです。
ありがとうございます。 >> 850 さん
そうですね。
畿内病にかかると、それだけのことがどうしても認められなくなる様で、
急に非学問的に他説を弾圧しようとするのですから困ったものですね。 >>854 さん
伊都国論者をすべて岡上と自動判定する岡上病を誘発するような発言はお控えください(笑) ちょっとテスト
しかし、見れば見るほど、魏略と伊都説は相性いいですね。
これはアタリってことなんでしょうね 魏略と魏志で伊都の人口が一桁減ってるけんですか?
不思議ですよね、遷都したって言ってもいいですよね。 同じ時代の話なんじゃないの?
伊都からどこに遷都したと?
筑後?
大和? 伊都国は規模が小さいにも関わらず重要な扱いをされている
そのすぐそばに大きな奴国があることから奴国の旧都だったのではないか? 奴国が紀元前からあって大きくなりすぎたので、王都だけ伊都に遷都したんだよ。 最初の王都として福岡平野に吉武高木遺跡(紀元前2世紀)、奴国と考えられている須玖岡本遺跡(紀元前2〜1世紀)があり、
後に高祖山をはさんだ西側の糸島平野に移動して伊都国とされる三雲南小路遺跡(紀元前1世紀の王・王妃墓)、井原鑓溝遺跡(紀元1〜2世紀の王墓)、平原遺跡(紀元2〜3世紀の女王墓)がある。
三雲南小路遺跡の甕棺墓から発見された内行花文鏡には「見日之光天下大明」という銘文があり、太陽光を象った鏡であることがわかる。内行花文鏡は中国で王侯に下賜されていた形式であり、倭国が漢王朝の冊封の元での祭政一致王権をとっていたことがわかる。
昭和40年(1965年)に平原遺跡から出土した最大の内行花文鏡は国産と考えられている。その円周が漢代の8咫(直径1尺の円の円周が4咫)に相当することから、記紀などにおいてアマテラスがニニギに与えたとされる八咫の鏡であると考えられている。
かつては八咫は単に大きいことを意味するだけだという説もあったが、この鏡の出土により実際に円周がちょうど八咫である鏡が実在したことが確認された。
これらの王朝は高祖山の東側の福岡平野の奴国に成立し、後に西側の糸島平野の伊都国に移動しているが、出土品や墓制が同じであることから基本的には一連の王権であると考えられる。
三種の神器は現在の天皇家においても象徴とされており、倭国王権の起源は稲作伝来の地でもあるこれら博多湾・玄界灘周辺にあったことになる。
これが卑弥呼が女王となった倭国の姿である。 千、万の戸数の差もそうなんですが、
邪馬台国も投馬国も魏略の段階では文献上存在してないですからね。
その二つがないので、文献的な解釈で苦しむ必要もないわけです。
つまり、魏略における女王国とは、平原の一号墓で間違いないでしょうね。
否定する要素、無いようにおもいますけどね。 で、魏略の女王=平原被葬者 が否定できないということになると、
魏略(邪馬台国の記載なし)と魏志(邪馬台国の記載あり)の何十年かの間に、
倭国側に体制の変更があり、それを正始年間の交渉で掴んだということなんでしょう。
すなわち、魏略と魏志の間にあった体制の変化それこそ邪馬台国への遷都ということです。 このスレで俺は天皇だと名乗っても否定できないけど、否定できないことに何か意味あるの? 旧伊都国のうちの庶民の暮らす地区を奴(やっこ)の国としたんだよ。 畿内厨がむごすぎるので、こちらのスレに書いておこう。
「大和において、大型内行花文鏡が尊重されていると、何か不都合でもあるのですか?」
もちろん、不都合ありません。
魏略における女王(平原王墓)の祭祀の影響が、大和においてあるということがわかるだけです。 >>872
根拠がないのはお前。
岡上は鏡という根拠を示している。 いや、魏略における女王(平原王墓)の祭祀とか、根拠ないから >>873
鏡ってあほですか?
ってか雑すぎ
内行花文鏡は平原1号以前から東伝してるし、大きさによる格付けも昔からある
平原1号の影響だなんて、まったく根拠がない 畿内で最も尊重されていた鏡は内行花文鏡。
九州で最も尊重されていた鏡も内行花文鏡。
銅鐸を用いた畿内独自の祭祀は打ち捨てられ、九州の銅鏡銅矛文化が西日本と東日本を席巻する。
その内行花文鏡の中でも最大となるのが平原遺跡の超大型内行花文鏡である。
「畿内厨」はその鏡が持つ意味について何も答えられない。
素晴らしいレスが来たので貼っておこう。九州王さんかな??
カッコだけ私が改変させていただきました。悪しからず。
議論云々以前に、考古学的な発掘物も直視できない人たちについて
一連の流れでよくわかったと思います。 畿内の鏡の祭祀を筑紫の進出した影響とみないのはなんでかね?
単に考古学者が公にそう言ってないから? >>876
>「畿内厨」はその鏡が持つ意味について何も答えられない。
質問もしないで、このフレーズよく使う人いるよな
馬鹿そのものでしょ 考古学者が公に主張していない、ということはないですね。
本当なんでなんでしょうね?
「触れられたくない事実」か何かなのでしょうか? >>876
>銅鐸を用いた畿内独自の祭祀は打ち捨てられ、九州の銅鏡銅矛文化が西日本と東日本を席巻する。
いつ九州の銅矛文化が西日本と東日本を席巻したの? お、訂正しておきますか。
畿内で最も尊重されていた鏡は内行花文鏡。
九州で最も尊重されていた鏡も内行花文鏡。
銅鐸を用いた畿内独自の祭祀は打ち捨てられ、九州の銅鏡文化が西日本と東日本を席巻する。
その内行花文鏡の中でも最大となるのが平原遺跡の超大型内行花文鏡である。
「畿内厨」はその鏡が持つ意味について何も答えられない。 >>881
訂正しなきゃいけないポイントが外れてないか >>883
では、あなたが訂正してみては??
どうぞどうぞ! >>877
畿内説にとって都合が悪いからだろ。
畿内説は歴史の歪曲だから、考古学は不都合な事実なんだよ。 Wiki
矛より引用
祭礼に用いる祭具として祭矛がある。
なお、祭具用矛は「儀矛」とも呼ばれ、神宝、神宝、威儀物などとして使用される。
それらは手矛であり、鍔は円形で金、柄は黒漆、鍔下柄に鰭をつけるが、赤地錦で先を三山に切り、金色の巴紋または神紋を取り付けることになっている[1]。 揚げ足取りはほっといて楽しみましょう。
魏略と魏志の記述通りならかなり大規模な人員移動です。
そのまま直接、伊都の人員が畿内へ東遷したんでしょうか?
一応、魏志に準じるなら伊都から南へ遷都した? >>889 さん
そうですね。
大規模な人員が移動したならもう少し何か発見があっても良さそうですが。
前線方向に移動したんでしょうかね?
>>889
岡上病の方は、まずはご家族に(略) >>893 さん
すみません、番号間違えましたね。
あなたが岡上病ですか、まずはご家族(略) 常識的にいえば、岡上病というと岡上みたいなハメになっちゃう病気ってことだもんね >>896
公私とも順調ですが、それがどうかしましたか?
岡上病というのは、全岡上病の略で、
「畿内説に都合の悪い事実を指摘する人間は一人(岡上)で有るはず」
という一種の心理的逃避行動の一つです。
恒常的にこうした逃避に依存すると精神衛生上良くありませんし、
はたから見ても大変見苦しいものですので、まずは早めにご家族に相談ください。 >>897
そんな人いないよ
岡上独特の妄想だね
病的アンチは何人もいるでしょ?
それが、わかってない人などいない >>898
そうですか?
別スレでやり取りしていた鳥頭の人なんかは、
伊都国説の方たちと私を同一視する典型的な症例の持ち主でしたが。 >>899
伊都国説とか、そんな馬鹿な人が何人もいるの? この板ではすでに伊都国説が多数派だが?
事実を認識できていないようだ。 >>899
それ・・・
>「畿内説に都合の悪い事実を指摘する人間は一人(岡上)で有るはず」
>という一種の心理的逃避行動の一つ
にぜんぜん該当してないんだけど >>901
伊都国説は私の見る限り、結構な人数と思いますよ。
貴方、考え方かなり不味いですよ。岡上病の初期症状かもしれません。
こんな風に考えてませんか?
「伊都国説はバカな説だから、岡上ぐらいしかいないはず。
だから、伊都国説は岡上だ。」
早めにご家族にご相談を 全岡上病
全岡上病とは、邪馬台国スレに出没する畿内説論者のみが発症する、心の病。
九州説側の書き込み全てが岡上というコテハンによる匿名の書き込みであると信じ込む、一種の強迫観念である(そもそも岡上はコテハンなので匿名なら岡上ではない)。
学問の世界ではすでに追い詰められている、という事実を認めたくない畿内説論者が、
九州説に多くの賛同者などいるわけがないのだ、と自分自身を騙そうとすることで発症する。
岡上が自演によって多数派を装っているのだ、と言う発想は、
実は、自身が自演を頻繁に行っているという事実の裏返しにほかならない。
現時点では治療法は発見されておらず、一度発症すると死ぬまで治ることはない。 >>902
まさか
馬鹿がそんなに多いなんて
明日の日本はどうなるんだ 実際には前にもいたんだけど「世有王 皆統屬女王國」の意味を古田に説明出来なかったんで、実質な言いだしっぺは俺。 古田氏は九州説の中でも最も重要な、倭とは九州にあった国であるということを明確に主張した。
だが伊都国がその都であることまでは見抜けなかった。
(だからザラコクも伊都説ではない) 古田さんの説だと伊都国の直ぐ近くに邪馬壱国があると言ってるだけで何処に在ったのか謎のままで
しかも七万戸もの国が二万戸の奴国の近くに在ることになって、とてもじゃないが北部九州には入り切れなくなる。 伊都国スレと九州王さんのスレ、別なんですね。
「世有王 皆統屬女王國」の読み、私は好きですよ。
東南五百里到伊都国戸万余置曰爾支副曰洩渓觚柄渠觚其国王皆属女王(王女)也
魏略逸文を資料として見るなら、「皆、女王に属す」とあるだけで、女王「国」ではありませんからね。
この分での「其国王」っていうのは、対馬や壱岐の首長と考える方が合理的と思います。
伊都国の王が代々女王に属している、と解釈したのでは、「其国本亦以男子〜」の一文と整合的にはなりませんから。
したがって、魏略を見れば、魏志の「世有王 皆統屬女王國」の世有は、世世有と読むのは勝手読みとわかります。 「皆、王女に属す」は「皆、女王に属す」に直すけど「国」は脱字と考えない恣意的判断を根拠にしてるからアホ 国を脱字と考えないと恣意的判断になるんですか?
それはどう言った根拠で? 考えない根拠って、あくまで魏略をみてるんだから、
魏志の内容を前提に脱字っておかしいですよね。
で、脱字と考える根拠はなんですか??? あと、王女、女王の読み替え?ですが、
岡上説的には、王女の方が都合がいいのは、例の本を読んでもらった方なら
わかりますよ。 じゃあ、齟齬と指摘された点を直しておきましょう。これで文句ないですね。
伊都国スレと九州王さんのスレ、別なんですね。
「世有王 皆統屬女王國」の読み、私は好きですよ。
東南五百里到伊都国戸万余置曰爾支副曰洩渓觚柄渠觚其国王皆属王女也
魏略逸文を資料として見るなら、「皆、王女に属す」とあるだけで、「女王国」ではありませんからね。
この分での「其国王」っていうのは、対馬や壱岐の首長と考える方が合理的と思います。
伊都国の王が代々、王女に属している、と解釈したのでは、「其国本亦以男子〜」の一文と整合的にはなりませんから。
したがって、魏略を見れば、魏志の「世有王 皆統屬女王國」の世有は、世世有と読むのは勝手読みとわかります。 >>933
論理的思考のできない人だなあ
脱字と考えない理由はなんなの?
理由がないと岡上の主張は根拠ナシなんだけど 意味がわかりませんね。
ある文に「脱字があると考えない」のが、普通の読みであって、
ある文に「脱字があると考える」と考えるほうにこそ根拠が必要ですね。 そして、仮に総合的にみて「脱字があると考える」方が合理的だとしても
現物にはその字は存在しないので、脱字がないと考えて上手く解釈できるケースなら、
「脱字がある考える」ことは、(合理的とは言えても)必然的とまでは言えないですね。 意味がわかりませんね。
普通、脱字がないと考えて読むのが普通ですよ。
脱字と考える方に根拠が必要です。
普段そんなに力んで文章読んでいるんですか?? つまり岡上説の信頼性は
翰苑の信憑性を超えません
w >>939
933 は、あくまで魏略の解釈ですから、それは褒め言葉ですね。 >>938
史料批判をする気がないって、あなたそれ・・・ で、魏志を除いて、魏略の王女を女王国と読み替えないといけない根拠はなんですか??
早く示してくださいね。 >>944
誰か王女を女王国と読み替えないといけない言ったのか? そうだな岡上さんの見解をもっと聞いてみたいものだ。 >>947
イミフ
岡上が>>945に簡単に論破されたのを見て素直に感想を言っただけなんだが まあ常識的に言うと
反論できないで罵って誤魔化すのと
論破された奴を嵩にかかって蔑むのは
ぜんぜん違う
前者は矮小で、後者は尊大だ キナイコシの発言は意味不明なものが多い。
質問なのかなんなのか。 岡本さん以外は名前も付いてないし
何について何言ってるか分からないな。
「世有王 皆統屬女王國」は「魏の世に王がいた、倭の国々は女王国(伊都国を都とする国)に統属していた」で解決済み
従来の「伊都国の代々の王が女王国に統属していた」がトンデモ読みだったんだよ。 >>959九州王
>倭の国々は女王国(伊都国を都とする国)に統属していた」で解決済み
その女王国(伊都国を都とする国)に在る「其山有丹」はどこ? どう解決済みなのかね? @阿波 >従来の「伊都国の代々の王が女王国に統属していた」がトンデモ読みだったんだよ。
これは同意 >>961
伊都国の代々の王とは、筑紫忌部の王のこと。
よって、「伊都国の代々の王が女王国に統属していた」は正解。 >>962
魏略だと伊都国については「東南五百里 到伊都國 戸万余 置官曰爾支 副曰洩渓 柄渠 其國王皆属女王也」としかなく
伊都国に代々の王の記述はく伊都国に複数の王は存在しないから「其國王皆」の皆は伊都国の王ではなく複数の王がいる倭国の国々の王のことを指していることになる。
魏略の皆が倭の国々の王なら魏志倭人伝の「皆統屬女王國」の皆も同じ様に伊都国の代々の王ではなく倭の国々を指しているはずで
「倭の国々は皆女王国に統属していた」が正しい訳である。 >>963
>伊都国に代々の王の記述はく伊都国に複数の王は存在しないから「其國王皆」の皆は伊都国の王ではなく複数の王がいる倭国の国々の王のことを指していることになる。
伊都国に複数の王は存在しないのは当然。 だから「其國王皆」の皆は伊都国の代々の王のこと。 @阿波 >>965
>伊都国に複数の王は存在しないのは当然。
伊都国に「同時代に」複数の王は存在しないのは当然。 だから「其國王皆」の皆は伊都国の代々の王のこと。 @阿波 >>967
魏略には伊都国の代々の王とか書いてないの
書いてないのに皆は伊都国の代々の王のことなんてない。 >>969
じゃあ伊都国って王国はたった一代で潰れたのか?
バカじゃね?
w >>970
魏略だと伊都国が何時からあるか分からない
建国されたばかりで、まだ一代かもしれないだろ
それを皆とは書かけないよ
バカじゃね?
w。 問題は伊都国の方ではなくて、女王の方だな。
共立されたばかりの女王に伊都国王が代々統属されることはありえない。 >>972
卑弥呼がいつ共立されたのか分からない。
バカじゃね?
w。 >>971
そんなこともわからないお前がバカなんじゃねーの? どっちにせよ
卑弥呼治世中に伊都国王が何人もいないと決めつけてる
岡上が知能小学生以下ってことがわかるね 卑弥呼治世中に伊都国王が何人もいたと決めつけるほうがヤバそうだ
www 自分の主張を言わず、ただ賛成とだけ書き込む人は
経験則から言って高確率で自演 >>963
その文だけで倭国全部が邪馬台国女王の傘下にあるは誤読かと
むしろ伊都国王及びその臣下・住人一同、「皆」が女王に属すると
読むべきかと >>982
魏略だと時間的に今しか指してないの伊都国の王は一人だけ
伊都国の王だけじゃ皆にならないのでその臣下・住人一同をふく含めて「皆」ですか
でも「其國王皆」と王が複数いるとありますから、やはり倭の国々の王のことですね
皆は対島国の王や一支国の王のことですね。 >>982
邪馬台国なんて、魏略には存在しませんよ。魏志からの密輸はいけませんね。
「其國王皆属女王」としかないのに、「皆」が臣下住民一同と読むのは読み込みすぎですね。 >>983 さん
私の言いたいところが、完全にわかってらっしゃる。
知己ほど貴重なものはないですね。感謝、感謝です! >>983
>でも「其國王皆」と王が複数いるとありますから
伊都国に「同時代に」複数の王は存在しないのは当然。 だから「其國王皆」の皆は伊都国の代々の王のこと。 @阿波 >>984
伊都国の項の中で、「其国皆」とあれば、倭国全部の国になるのか?
そうじゃなくて「伊都国の皆」と読む
それを援用すれば「其国皆」は「伊都国王以下の伊都国の皆」という意味 >987
「伊都国の項」という考え自体が魏志からの密輸になりますかね。
魏略ではこのセンテンスはここで終わり、次は女王に属さない国の話題になりますから。
最後の文は女王に属していた国の話題と対比的に読むことができます。 >それを援用すれば「其国皆」は「伊都国王以下の伊都国の皆」という意味
「其国皆」って、「王」はどこに行った? 「諸国王皆」or「国王皆」なら「倭国内の諸国王皆」と読めるが、
「其国王皆」なら「伊都国王以下の皆」と読むべきだと思われる 阿波さん
魏志では女王国=邪馬台国と考えるから、伊都国王が別の国に代々属していると言えますが、
魏略は、その対象は女王(王女)という個人ですからね。
特定の個人に伊都国代々使えるというのは、ちょっと苦しいと思いますよ(無理ではないですけど)
次に女王に属さない国の説明があることも考えると、ここは周辺国と読む方が素直に思います。 違いますよ。
ほんと、自演してるって妄想する方多いんですね。
自分で考えたことを理解頂けるのは、非常に嬉しいですが、
2chで褒められようと貶されようと、別に特段興味ないです。 >>993岡上
>特定の個人に伊都国代々使えるというのは、ちょっと苦しいと思いますよ
女王(王女)個人として表現されていたとしても、女王(王女)=女王国=邪馬台国でしょ?
それは屁理屈というもの。
伊都国に「同時代に」複数の王は存在しないのは当たり前。 だから「其國王皆」の皆は伊都国の代々の王のこと。 @阿波 阿波さん
違いますよ。
ここは魏略を読んでいるのであって、魏志を読んでいるのではありませんから。
魏略には、邪馬台国なんて存在しません。
「女王が邪馬台国にいる」という考え自体が魏志からの密輸です。 このスレッドは1000を超えました。
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