伊都国東遷スレ
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ないので立てました。
<要点>
1、魏志にある邪馬台国は「ヤマト」であり、倭王権の基礎となった。
2、だたし、その女王、「ヒミコ(日巫女)」は伊都国の関係者
3、平原一号墓の巫女王は、東遷前の先代のものであり、銅鏡による太陽祭祀を主宰する「日巫女」の葟として、最もふさわしい。
<ポイント>
・記紀の伝承がおおむね歴史的事実であることが視野に入ってくる
・唐古、鍵と纏向の間にある文化的断絶(銅鐸祭祀断絶)を伊都国勢力の進入から説明できる
柳田康雄の考え方(仮説)に基本的に一致しています。
<参考 URL >
歴史秘話ヒストリア 「女王卑弥呼はどこから来た?」
https://www.nhk.or.jp/historia/backnumber/204.html
柳田康雄 「伊都国を掘る」2000年
https://www.nhk.or.jp/historia/backnumber/204.html
柳田康雄 「 弥生王権論 伊都国からヤマト国へ」 2016年
http://www.city.itoshima.lg.jp/m043/010/040/070/030/kankotosyo.html >>607 阿波さん
銅鏡百枚というのは、突出した数字で、そこに魏朝交流前の日本文化が垣間見えるからですよ。
枚数がでる普及品の神獣鏡ばかりフォーカスされて、古墳時代前期にもっとも大事にされた
内行花文鏡が、世間一般ではまだまだ等閑視されている状況を考えると余計そうですね。 >>611
まさか楽浪・帯方郡全体の男子が皆殺しにあったわけでもないでしょうし。 >> 610 阿波さん
すでに書きましたが、日光鏡は弥生時代には、量産されるほどの需要がありましたから。
その最上位にあるのが、三雲南小路2号墓の日光鏡(魔鏡効果あり?)です。 >>613岡上
>銅鏡百枚というのは、突出した数字で、そこに魏朝交流前の日本文化が垣間見えるからですよ。
よく分かりませんね。「魏朝交流前」の考察理由が。 魏朝時代の考察は必要ないの? @阿波
私は一応畿内説なので、魏から下賜された鏡は帯方郡製の神獣鏡と考えています。
けれど、古墳時代の副葬状態から見て、神獣鏡は階層性の下の方で、
その最上位は、どうみても大型内行花文鏡ですからね。
この事実はもっと周知されるべきだと思います。一種の啓蒙活動です。 まぁ、内行花文鏡オンリーでは、どうにも邪馬台国論争に勝てませんね。
倭国の痕跡は阿波の足元にも及ばない。 @阿波 阿波は内行花文鏡がもらえなかったかわいそうな土地。 >>619
唐子鍵も纏向もそうでしょうね。
ま、結局は盛大に崇拝するようになっちゃうんですけど(笑) さて、今のうちに、レイラインの話を最後的なところまで、書いてしまいます。
実は、箸墓と浦間を繋ぐ直線が10月10日の日の出の方向と合致する、つまり10月10日に三輪山に遥拝する文化が共通にあったのではないか、という推論に対して、
「太陽暦もないのに、どうやって10月10日がわかるんだよ」
というツッコミを待っていたのですが、特に来ないので一人で反論します。 結局「歴がない時代に10月10日を特定するには、夏至か冬至からの経過日数を数える」
のが、一番簡単だと思います。10月10でしたら、冬至ではなく、夏至から数えるのが合理的です。
では、夏至から10月10日まで、何日か、というと、それは110日になります。
漢字で書くと、十と百日。
ここで思い出したいのが、モモソヒメの名前です。
ヤマト トトヒ モモソ ヒメ と、トトヒ と モモソ が対の関係になっています。
十と百です。
どうもうまく符丁が合いすぎていると思います。 つまり、こういうことです。
箸墓と1/2相似形墓である浦間茶臼山古墳を繋ぐと、伊勢内宮までが一本の線になり、
崇神朝の事績と所縁のある神社などがその直線上に並びます。
その直線は10月10日に、三輪山を遥拝することで、必然的に現出し、
その聖なる日、10月10日を特定するための知識(夏至から110日)が、「ヤマト トトヒ モモソヒメ」の
名前自体に示唆されています。
聖なることを「ひじり」といいますが、これは「日知り」の転化から来ているようですが、
まさしく、このような知識を持っていることが、「聖」だったのではないでしょうか。 このような形で事実が一本の線に繋がった時、怖いようで、嬉しいようでしたが、
もうこれ以上の発見もないだろうという気持ちにもなりました。
一見、オカルト以外の何物でもなく見えるでしょうが、一つ一つの事実は
私が手を加えることはできませんし、していません。
すでに何度か行っている通り、邪馬台国の所在論争には、特段関係のない話ですが、
崇神期の事績との一致点としては、興味深い事実になると思います。
わたしは普通の給与取得者ですし、家庭もありますので、これからもそのつもりです。
特段発表する場もないので、この場で書かせていただきました。 >>619
>阿波は内行花文鏡がもらえなかったかわいそうな土地。
無知な人? @阿波 伊勢は日ノ隈宮と東西でセットらしい。
ただ、古代人がそこまで厳密に方角を測定していたとは思えない。
魏志倭人伝の角度が、少なくとも左回りに30〜45度はねじれているように見える。 北九州の夏至の日の出が東から約30度ズレルのは自然現象 そういうことか。
魏の使いは夏頃に九州に渡ったのか。 妙に学問的な部分は北部九州説のパクリ
銅鏡議論で不利になって敗走
>>621以降がスレ主の実力部分 せんと、本拠地として機内が機能し始めた時期は、いつ頃と見てますか?
600年に大和に先駆けて九州から隋へ大使が派遣されてます。
その頃まで九州が独自に外交できる力があったと見れますが、その後はヤマトから。
その時期がはっきり畿内が中枢となった時期でしょうか? >>633
>600年に大和に先駆けて九州から隋へ大使が派遣されてます。
妄想
>その頃まで九州が独自に外交できる力があったと見れますが
妄想 >>636
隋書と記紀のその部分の違いを知らないようなので世見直しをお勧めします。
記紀には2回の派遣になっていますが
隋書ではその2回より前に九州勢力からと思われる派遣が1回多く記録されていますよ。
ここ大真面目に。 >>641
いや、ここはマジだって。
この部分の隋書と記紀の違いって有名だろ。 太宰府は600年代初頭には完成
7世紀初め頃から在った。 【白村江の戦いと倭国滅亡】
663年に白村江において行われた倭・百済と唐・新羅の決戦で倭国軍は大敗した。
自ら前線に赴いていた筑紫君薩夜麻が捕虜となり8年にわたり唐に抑留された。
筑紫には唐から郭務悰ら2000人の使節団が駐留したが、畿内大和ではなく筑紫を占領したのは、そこが倭国の首都だったからである。
668年、筑紫の使節団は帰国し、中大兄皇子は天智天皇として即位したが、その翌年には筑紫都督府が置かれ、同じ敗戦国の百済に置かれた熊津都督府と同様に唐の統治制度として機能し、倭国は独立国としての権限を喪失した。
旧唐書には倭国と日本国が分けて記載され、「日本は旧小国、倭国の地を併せたり」とある。
三国史記の新羅本紀には「670年、倭国が国号を日本と改めた」、新唐書にも670年に「日本と號す」とあるが、国内にはその記録がない。
671年に天智天皇が死亡、翌年にはその王子である大友皇子を殺した大海人皇子(天武天皇)が実権を握った(壬申の乱)。
天武天皇は対外的な国史としての日本書紀(漢文)を編纂させ、歴史上の天皇への漢風諡号の制定などを行った。
日本書紀の最大のトリックは、神武東征より後の筑紫倭国の歴史を抹消することであった。
日本書紀の編纂と並行して禁書令が出され、8世紀初頭に記紀以外の多くの古代の記録が失われた。
倭国の政治および文化を継承するために、筑紫から多くの文物、人物、建物、地名が平城京に移動された。
筑紫が679年に水縄断層系によるM7.1の筑紫大地震、畿内が684年に南海トラフ地震と推定されているM8.4の白鳳大地震により被災している。
筑紫は震災からの復興もままならなず没落したと考えられる。
701年の大宝律令で行政単位が評から国・郡に改称され、九州から関東までの中央集権国家としての畿内政権が誕生する。
この大倭の表記が大和とあらためられ、以前から筑紫倭国に対して近畿を示すために用いていた日本国が列島全体の統一王朝の国号となり、ヤマトは畿内の地名に変化した。
こうして筑紫倭国は滅亡し、その権益は唐に朝貢(遣唐使)を再開する畿内大和政権が継承した。 >>647
九州北部説でもここまで来ると基地っぽいな 流石に >>647 みたいなのはもういいだろう。
鸚鵡返しばかりのザラコクといい、責任持ってサッサと巣に引き戻せよ >>637
同じ国の話?
57年とか107年のじゃなくて 隋書の6〜7世紀の記事でさえ、国内外で相違がある。
隋書にある倭国は、後漢書にある倭国と同じだろ。
遷都または併合の話は旧唐書で初めて登場する。 第2番札所 徳島市 「金山神社・立岩神社」
「八尺(やあた)の鏡はこの地で作られた」
ご存知のように日本の皇室に代々伝わる『三種の神器』とは、『天叢雲の剣(草薙の剣)』、『八尺の鏡』、『八尺(やさか)にの勾玉』をいうが、その神器のひとつ『八尺の鏡』の製作地はこの神社であるという伝承がある。
その背景には、銅鐸や銅鏡の出土が多く「たたら跡」と見られる史跡もあるこの地区が「日本の治金技術発祥の地」ではないかという説がある。
見渡すと周辺にも「金谷」、「多々羅(古来、精錬所のことを『たたら』という)」、「八田(八尺)」という地名が残り、まさにこの「金山神社・立岩神社」の鎮座地自体も『多家良(たから)』という埋蔵金ミステリーそのまんまの名前。
この精錬伝承の中心となっているのが、『金山神社』と『立岩神社』の両神社である。金山神社は鍛冶の神である金山毘古(かなやまびこ)神を祀り、その境内の中に高さ7m幅4mの日本一の巨大陽石(と掲示されている)をご神体とする『立岩神社』が鎮座する。
この巨石は『天津麻羅(あまつまら)』を祭神とし、素朴に男性を象徴しているが特に通俗的な信仰はない。
古事記には「八尺の鏡は天の金山の鉄をとりて天津麻羅を求ぎて伊斯許理度売命(いしきりどめのみこと)に科せて鏡をつくらしめ」という記述があり、これがこの地が八尺の鏡製造地であることを裏付けている。
なお、ここより直線で13キロ西には神山町の『立岩神社』(第3番札所)があり、ここには高さ20m幅20mの女性器を象徴する巨石があり、古来より「天の岩戸」と称されている。 @阿波 >>658
アマツマラ
筑紫天孫族の恥さらしだな
阿波www 漢代から隋代まで、中国から見た倭国は一貫して九州北部の国。
勝手に日本の歴史家が大和朝廷と結び付けているだけ。 >>662
反論する価値もないってことだよ。
言わせんなよ、恥ずかしい どうも九州説の方は、すぐ九州王朝に飛びついてしまうみたいですね。
九州は古墳時代には前方後円墳体制に組み込まれているわけですから、
そこまで否定できると本気で考えているのでしょうか。
マァ平原墓を卑弥呼墓と見たり、箸墓を4世紀を見るぐらいまではまぁアリかなと思いますが、正直ネタとしても陳腐ですし賞味期限切れだと思いますね。 >>665
>畿内説は中国の史書と一致しないのですよ。
九州説も九州東遷説もでしょ。 @阿波 奈良も京都も沼の下。
大阪は淀川の氾濫原。
これで畿内説とか、ちゃんちゃら可笑しいわ。
埋め立てて開発が進んだ現在の京都や大阪と比較するなよ。 >>668
>これで畿内説とか、ちゃんちゃら可笑しいわ。
九州東遷説もでしょ。 @阿波 >>668
だから、畿内が沼の下なんだから、九州東遷説も沼に沈むと言ってるんですよ。 @阿波 魏志の時代に倭国の中心がどこにあったのかは議論の余地があるんでしょうが、
実際のところ、倭国の中心が伊都から大和に遷移したことを否定するのは厳しいんじゃないでしょうかね。
大和には前史を見出すべき遺跡はないし、伊都にも後史を見出すべき遺跡もありません。
平原王墓を2世紀中まで繰り下がるか、繰り下がらないか、
箸墓が3世紀まで遡るか、遡らないかで魏志の「邪馬台国」の比定地が変わるというだけの話です。 4世紀は筑紫は香椎宮の時代なので、高祖宮から香椎宮に移動しました、ですべて説明できる。 平原を248年になくなった女王の墓と考えてしまうと、魏志をアクロバティックに読まざるを得ない点も勿論、
青龍年銘の方格鏡や、東大寺山古墳の中平年銘の鉄刀、それに黒塚の黄幢と覚わしき鉄製品など、
いろいろ説明に窮するんじゃないでしょうかね。
当時の伊都国=邪馬台国が入手してから畿内に持ち込んだとも強弁できるのでしょうが、
あんまりスマートな解決方法とは思いませんね。 >>672 さん
九州王朝シンパの方とお見受けしました。
古墳時代には前方後円墳が九州にも受けられていることには、なんも思うところはないのですか?? 3世紀に邪馬台国が爆発的に領土を広げた結果として
各地にその有力者が散ってお宝を残したんだろ
無問題 景行天皇も仲哀天皇も4世紀だ。
4世紀は空白などではない。
景行天皇が仮に畿内からの侵略者なら、説明はできてしまう。 景行天皇の和風諡号は忍代別。
分家という意味だが、筑紫を征服して大帯日子(大いなる支配者)の名前もつけられている。 >>671岡上
>大和には前史を見出すべき遺跡はないし、伊都にも後史を見出すべき遺跡もありません。
倭国(阿波)には奈良遷都前の飛鳥時代の遺跡がありますが。
だから、畿内が沼の下なんだから、九州東遷説も沼に沈むと言ってるんですよ。 @阿波 内行花文鏡から伊都に記紀の神話の原型を見るのは大賛成ですが、
同様に、いやそれ以上に人代の歴史、大和王権も認めるべきと思いますが。。。
そう見るとイリ王朝の王都としての纏向とその地の箸墓の意義もわかりそうなものですが。 >>673
あなたは東遷論なんでしょ
東遷する時に手ぶらで移動するの? >>675
その各地に散った有力者とは、倭国(阿波)から進出した「忌部一族」なんですよ。 @阿波 >>679
意義を認めないわけではないが、邪馬台国と関係するという根拠がない。 >> 阿波さん
ネタにマジレスというのも無粋でしょうが、奈良盆地全体が沼地であったわけでもないでしょうに。 >>680
ですので、東遷した時には、一番大切なもの、大型の内行花文鏡を持って行ったのでしょ?
実際、たいそう丁重に扱われて大和から出ているじゃないですか?
古墳時代の伊都国から、大型の内向花文鏡が出て来ましたか??? 4世紀の筑紫の女王である神夏磯姫が持っていたと日本書紀にありますよ。 洗いざらいもっていった、ということは、「東遷」ですね。 >>683岡上
>奈良盆地全体が沼地であったわけでもないでしょうに。
平地のほとんどの所は沼地だったでしょうね。 @阿波 >>683岡上
>奈良盆地全体が沼地であったわけでもないでしょうに。
沼地でないのであれば、弥生集落遺跡が平地のあちこちに有ってしかるべき。 @阿波 平原王墓が248年に死んだ卑弥呼のものかどうか、ここはまだ議論の余地は多いあると思いますが、
伊都国の王権がその後に大和のイリ王朝に繋がっていることを否定して、九州王朝説を主張するのは流石にもう厳しいと思います。
畿内厨に馬鹿にされるだけですから、流石にそろそろあきたらめたら?という感じですね。 >>691岡上
>伊都国の王権がその後に大和のイリ王朝に繋がっていること
これが全くの「妄想」で、イリ王朝?なるものが大和にあった痕跡など微塵もなし。
あるというのであれば、その集落遺跡を示すべき。 @阿波 ヤマト王権が分家で、筑紫に平原の後継の女王がいた。
景行天皇がやって来て本家を乗っ取った。
これですべて説明できますけど。 >>694
まぁその説明ならまぁアリですよ。
東遷説ですから、私とは時期の違いがあるだけ。
私がオワコンと言っているのは、九州王朝説です。
>>阿波さん
纏向がイリ王朝の遺跡であるとずっと言っていますが。 九州説といっても、王家はしばしば入れ替わるのですよ。
九州北部は多くの勢力が入り乱れているわけですが、それは記紀にある筑紫の姿であり、魏志倭人伝にも一致します。 >>695岡上
>纏向がイリ王朝の遺跡であるとずっと言っていますが。
言うのであれば、その集落遺跡なり痕跡を示すべき。 でなければ、ただの「妄想」と言われても仕方がないですよ。 @阿波 >>664
畿内に於いてプレヤマトが前方後円墳体制を採用したのは間違いないが列島の四辺他地方にも前方後円墓制の流行に乗った勢力があった可能性を否定できませんなー
正否どちらも確定する根拠なしやろ?(まーお墓や土器金属器で何も決まらんいうことや
やっぱり軍事機密じゃね(ひらたくいうと実用武器要塞の特徴(あまり研究進んどらんよーじゃが >>700
つまり、古墳時代以降、九州も前方後円墳だが、それは「流行に乗った」だけということですね。
確かにその通りかもしれませんよ。
しかし、それなら内行花文鏡だって、単に九州からの流行に在来の畿内勢力が「乗っただけ」であって、
東遷的、もしくは東征的な事実なんて何ないという畿内自生説も十分成り立ちますね。
貴方の論理は、九州説も畿内自生説も同時に成り立たせる論理というになります。
その論理は邪馬台国の位置論争に何も寄与しない論理、つまり無意味ということです。 >>701
九州での前方後円墳って円墳や方墳と混在してるよな。 >>701
畿内は鉄が遅れすぎ。
畿内が盛り上がる時には鉄が一緒に増量。
九州もしくは、畿内より西側の鉄勢力が畿内に流入って考えるのが自然。 >>705
そうですね。
日本海ルートにて鉄器と銅鏡が入って来たんでしょうね。 >>706
陸路で近くまで鉄が来ていた、海路では波風が安全な瀬戸内海。
わざわざ日本海ルートを開拓するメリットがないような。
そして、その痕跡も聞いたことがない。 http://www.infokkkna.com/ironroad/2011htm/iron7/1103iron09.jpg
畿内だけ、時代遅れて鉄文化が発展。
福井は逆に古墳時j台初期に鉄が減る。
日本海ルートが盛んになったとは考えにくい。
同時に関東や能登の方面に急に鉄が増える。
畿内の大和朝廷となる勢力が急激に力を持ち、東へ遠征も行ったと考える。
その急激な鉄の増加や遠征するほどの勢力拡大は
日本海ルートでちびちび畿内が成長しての結果とは考えにくい。
まとまった勢力が短期間に入り込んだからこその発展と考えるのが自然。 https://m.youtube.com/watch?feature=share&v=rm4JaHmq0Kc
こんなんあったんですね。
柳田先生、相変わらず笑顔が素敵です。
磯田さんはちょっとハシャギ過ぎですね
途中、女王の出身地として、北九州、近畿、吉備の三択が出て来ますが、
近畿は論外なので、実質二択ですね。 >>707
逆ですよ、弥生時代に既存ルートとしてあったのが日本海ルート。
古墳時代に新たに開拓されたのが瀬戸内海ルート。
といっても、記紀を見る限り、イリ王朝は過渡期だったらしく、
まだまだ日本海ルートの方が主役ですね。 100〜250年で
畿内、吉備、出雲、淡路、能登、越、阿波、紀、濃尾、東海、関東
が、連合して 纏向時代の奈良に都を置いたんでしょうが?
つまり、伊都国が倭人伝の伊都なら
九州で卑弥呼の後がまの内乱してたんだからお呼びでないでしょうがwww
九州の古墳時代はこれより後だよ。 >>710
そのルートに力があれば、出土品で鉄がもっとでていたでしょうね。
ないです。
富山を見てもそれ以東を見てもないですね。
その節は無理があります。
まず、吉備の発展を考えれば瀬戸内海ルートがなかったと言えません。
四国ですら畿内より早くより鉄が増えています。
瀬戸内海を渡っていることは間違いありません。
関西より畿内より東に縄文時代からたくさんの集落はあったのに
鉄文化は大幅に遅れています。
日本海ルートがあったと考えるのには、どの角度でも無理がありますよ。
零細企業のような細々としたルートまで皆無とは言いませんが、日本の情勢を動かすようなものはなかったでしょう。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています