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伊都国東遷スレ
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0001岡上 ◆JN/67qb8kM
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2018/01/08(月) 18:00:57.57
ないので立てました。

<要点>
1、魏志にある邪馬台国は「ヤマト」であり、倭王権の基礎となった。
2、だたし、その女王、「ヒミコ(日巫女)」は伊都国の関係者
3、平原一号墓の巫女王は、東遷前の先代のものであり、銅鏡による太陽祭祀を主宰する「日巫女」の葟として、最もふさわしい。

<ポイント>
・記紀の伝承がおおむね歴史的事実であることが視野に入ってくる
・唐古、鍵と纏向の間にある文化的断絶(銅鐸祭祀断絶)を伊都国勢力の進入から説明できる

柳田康雄の考え方(仮説)に基本的に一致しています。
<参考 URL >
歴史秘話ヒストリア 「女王卑弥呼はどこから来た?」
https://www.nhk.or.jp/historia/backnumber/204.html
柳田康雄 「伊都国を掘る」2000年
https://www.nhk.or.jp/historia/backnumber/204.html
柳田康雄 「 弥生王権論 伊都国からヤマト国へ」 2016年
http://www.city.itoshima.lg.jp/m043/010/040/070/030/kankotosyo.html
0772日本@名無史さん
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2018/03/09(金) 00:02:55.41
あれだけいた畿内説コテハンがほんと消えたなあ。
高齢さんとかも最近見なくなったし。
あの人の世界観は好きだったけど、考古学的証拠が出そろった最近はやっぱり反論できずに言い張るだけになってちょっとかわいそうだったよね。
ジョーカーもあれはあれで頑張っていたけど意外と判断思考は科学的だったから
議論が煮詰まってくると九州説そのまんまの発言をし始めてそれは九州説じゃんと指摘されて本人絶句したり相当悩んでるっぽかったよね。
ここでまだ頑張ってるのはスレ主と根拠厨くらいで科学的議論を放棄してのテンプレ死守の印象操作作戦に徹底してもはや議論が成り立たない。
岡上は東遷説とはいえ畿内説なわけで真っ向から取り組んでなんとか畿内説に持っていこうとしているのだけど、
もう味方であるはずの岡上程度の東遷説議論ですら許容できないほど畿内説は追いつめられているのだな。
0773日本@名無史さん
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2018/03/09(金) 18:04:43.61
マジキチ晒しあげ
0774日本@名無史さん
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2018/03/20(火) 23:56:03.47
>>624
素晴らしいね。
アマゾンで電子出版してみたら?

個人的にはこういうラインが日本各地の
重要な遺跡、古墳 神社などを結ぶのは、
当時
築造あるいは用地選定に
鏡による光を用いたことを想定するべきように思う。

正確に直線を引くには光しかないからね。
0775岡上 ◆9UB1s3/HD6
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2018/03/25(日) 11:22:55.34
774 さん

有難うございます。
2017年の年末にまとめとして実は自分用に一つの結論として、
ちょっとした知り合いに配布要しての本はもう作ってあるのです。
アマゾンの電子書籍はどんなものか知りませんが、面白そうですね。

魏志と日本書紀と考古学と歴史的な遺物、ここまで合致的であることを偶然と捨ておくのは、
如何にも勿体ないと思っています。
0776日本@名無史さん
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2018/04/02(月) 10:15:57.58
あげ
0778日本@名無史さん
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2018/04/02(月) 19:41:56.03
岡上は論外だが、柳田説はいい線までいってるな
0779日本@名無史さん
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2018/04/02(月) 20:34:43.21
平原遺跡

・柳田康雄「九州弥生文化の研究2002」
(糸島地域p178)
「二世紀前半ともいわれている平原遺跡は、その年代に科学的な根拠は全くない。
瑪瑙や琥珀の玉類は別にしても、四二面のうち最も多い方格規矩鏡の中に、方格内の銘や小乳もなく、八像も簡略化され、玄武が釣針状の蛇だけになったものがある。
このように簡略化された方格規矩鏡は三世紀代に下がるものと思われ、鏡からでも三世紀前半まで下げて考えなければならない。
周溝から鉢形の土器が出土しているが公表されていない。」

・柳田康雄「弥生時代王権論」2013
(p317)
「拙稿のように32面の方格規矩四神鏡を含めて38面の製造技術が164年(『延喜七年』銘獣首鏡)以後、235年(「青龍三年」)銘方格規矩四神鏡)以前に見られる鋳造・研磨技術である」
0780日本@名無史さん
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2018/04/02(月) 23:49:11.07
>>775
アマゾンアンリミテッドで読み放題で
個人の史論読むのがおもしろいす。
0782日本@名無史さん
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2018/04/04(水) 11:36:30.30
>>781
読みました!

官の解釈に頭を殴られた思いです。

これまでは単なる語呂合わせ論でしかなかったですが、一本筋通った感じがします。

私からは

彌馬の彌の字は正確な音を転写すると
ミャらしく ミといったりヤと言ったりするのはそういうことらしいです。
だからミヤとみなしても全然問題ないと思います。その場合、馬は場でしょうね。

それと110を元に考えるなら
百襲の百はホとよんで ホソ が 百ソが十で110と考えた方が素直な気がしました。

トトヒのトト は
古語につとに 、つとめてなどとの類推から
トトヒで次の日という解釈もあると読んだことがあります。巫女に次の日では意味が通じないので
未来の時間を指してると考えれば
ある日から110日がまさにトトヒホソ!になります!!
0783日本@名無史さん
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2018/04/04(水) 11:55:07.09
それと
流通路の変更に河内湖の消失を上げるのも
一本筋通っていてよいと思いました。

日本海ルートの東端としての経路も
まずは生駒山越 が日本海につながっているというのも、腑に落ちる点です。
日本海からヤマトへのみちと
日本海から東播磨摂津に出る道があったようで
弥生土器での折衷型土器がこのあたりに見られて、日本海と畿内がつながっていた経路にあったことがわかります。

しかし
なぜ三輪山を目指したのか気になりますね。
近畿地方の最高峰が三輪山になるんでしょうか?

吉備からも三輪山の方向がわかるのであれば
東海や北陸からもそうだったのかな?

いやいいもの読ませてもらいました。
0785日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/04(水) 16:26:38.64
三輪山って、九州から移転した地名らしいよ。
0786日本@名無史さん
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2018/04/04(水) 17:04:03.50
>>785
くわしく
0787日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/04(水) 17:07:05.62
 近畿と九州には同一の地名がかなりあるのが確認されています。単に似ているのではなく、「連続的」に同一の地名があるのです。
 「筑紫」の周辺で言うと、北の笠置山から始まって、
春日→御笠山→住吉(墨江)神社→平群→池田→三井→小田→三輪→雲堤→筑前高田→長谷山→加美(上)→朝倉→久留米→三潴→香山(高山)→鷹取山→天瀬→玖珠→鳥屋山→上山田→山田市→田原
と続く地名連鎖が存在します。
これはほぼ反時計回りに続く円周上にあります。

 「畿内」でも全く同様に「笠置(笠置山)」→春日→三笠山→住吉(墨江)神社→平群→池田→三井→織田→三輪→雲梯→大和高田→長谷山→賀美(上)→朝倉→久米→水間→天の香山(高山)→高取山→天ケ瀬→国樔→鳥見山→上山田→山田→田原と連続しているのです。
これらも同様に反時計回り円周上に連なっています。

 字面は多少違っても発音ほぼ同じなのです。このような例は「近畿」と「九州」以外の地域には確認されていません。
もし「重層地名としての類似」が「近畿」からの「伝搬」とするならば、「近畿」からある程度離れた多くの場所にはかなり多量に同様な地名の「類似」、或いは「重層地名類似」がなければなりませんが、そうはなっておりません。
特に「九州」に多い理由を別に探さなければならないわけです。
 これを整合的に説明できる仮定は「どちらかの地名群がオリジナルであり、どちらかがコピーである」というものだと思われます。
 現代でも移民などの場合、以前の地名を持って行くという場合もあるかもしれません。しかし、それが大量に発生するとなると、単なる移民の話ではなくなります。
このような現象が起きるためには、「政治権力」つまり「権力機構」の移転が必須であると思われるのです。
0790日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/04(水) 22:28:53.33
「三輪」は畿内から九州への方向みたいだぞ
0791日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/04(水) 23:11:57.52
神功皇后が出てくる伝記は眉唾。
それ以前からあったものを隠そうとすることが多い。
その代表が伊都(怡土)の語源。
魏志倭人伝に名前がある以上、神功皇后より前からあったことは確実なのに。
0792岡上 ◆9UB1s3/HD6
垢版 |
2018/04/04(水) 23:22:10.31
>>782 さん

ご購読頂きまして本当にありがとう御座います!
よろしければ、どんな批判的な内容でも結構ですので、是非アマゾンでのレビューも頂けましたら嬉しいです。(ちょっとあつかましいですかね?)

邪馬台国の官の比定につきましては、今回のアイデアの肝になるところですので、
ここ(5ch)でもずっと沈黙を貫いていましたが、ご評価頂いて本当に嬉しいです。

こういった形で自身で書き溜めたものを世に問うことができたのも
774さんのご助言あってのことですし、本当に有難う御座います。

今日は残業がすごかったので、一旦これにて失礼します。
0794岡上 ◆9UB1s3/HD6
垢版 |
2018/04/04(水) 23:28:03.80
そりゃそうかもしれないですね。
勝手なリクエストはご放念ください!
0795日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/04(水) 23:42:16.95
>>789
記紀の出雲の国譲りは、出雲の大国主(大己貴)を倒したので、豊葦原中国を治めるために邇邇芸が筑紫に降り即位するという、少し訳のわからないストーリーである。
しかし大己貴がいたのがこの大己貴神社がある筑紫なら、次のようになる。
筑紫の倭王であった大己貴を倒したので、邇邇芸が次代の倭王となるために筑紫に降り即位した。

このエピソードは、神武が大和入りしてから出会う三輪山の神の娘の話より3〜4世代も前の話になる。
つまり、筑紫の大己貴神社(大神神社)の方が古い。
大和の三輪山の神は出雲(大己貴)の末裔とされているので、筑紫の三輪山の祖先を祭ったのだろう。
0796日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/04(水) 23:47:34.43
岡上さん、片方だけどんなものかと思い買いました。
すごく詳細に資料を調べられているようで、感心しました。
特に興味を惹かれたのは、三雲南小路遺跡の話でした。
まさに、原始、女性は太陽であった、ですね。
0797日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/05(木) 00:00:36.13
出雲の伝承では、宗像家は出雲帝国の西王家、神門臣家から分家独立したタカアタス命が初代で
宇佐の地に都したと言います。

近畿の葛城に初めて?移住して分家独立なさったのは
世代でいうとカタアタス命らから三〜四世代後。
出雲帝国の東王家の富家/向家の八重波津身命(いわゆる事代主/大物主)の御子、天日方奇日方命らが母親の生玉依媛命の実家の摂津の三島(高槻市辺り)に母子共々に移り、
後に葛城に出雲人や三島からの人らを連れて移住して
登美家(富家)を号して盤拠したのが端緒のようです。
妹君には媛踏鞴五十鈴姫命 と五十鈴依媛命がいたと言います。
少し後に、その葛城の登美家を頼り出雲から西王家の神門臣家の多岐津彦(父は高彦/味耜高彦根命)らが葛城の南部に移住してきて
高賀茂家を号して分家独立。

葛城のこの出雲から移住して分家独立した登美家と高賀茂家をひとからげに葛城のカモ族と呼ばれるようになって、、、
(王族を神族と奉り、神をカモと発音していた所以)


遡って、宗像家初代のカタアタス命には三人の女御が座して、
長女の多岐理媛命は出雲の東王家、富家の天の冬衣命(第7代オオナモチ(帝王))に嫁ぎ
八重波津身命他を生みます。


また、次女の多岐津媛命/神屋楯媛命/高津媛命は出雲の本家、西王家の神門臣家の八千戈命(第8代オオナモチ)に嫁ぎ(いとこ同士の結婚)
高彦(味耜高彦根)ほかを生みます

八千戈と八重波津身の治世の御代に秦人がやってきて出雲帝国をかき回して乗っ取りを謀り、お二方はほぼ同時期に賊のてにより殺害されてします。
この渡来人等との共住を忌避して出雲人が領有した各地に移住した中の一つが上の近畿の葛城(大和)地方。

時代は紀元前3世紀終わり〜同2世紀頃、中国の秦末から前漢の半ば頃に比定出来るカモです?
0799日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/05(木) 04:54:49.89
岡上本が好評そうなので読んでみた。
確かになかなかよく調べていて読みやすい
0801岡上 ◆9UB1s3/HD6
垢版 |
2018/04/05(木) 07:53:08.96
796 さん 799 さん

ご購読有難う御座います。

三雲南については、三角縁神獣鏡が魔鏡、魔鏡というぐらいなら、
本場と同型鏡の二号墓のものについて、その百倍、いや千倍ぐらい世間から注目して欲しいですね。

通勤中ですので、取り急ぎご御礼まで。
0803岡上 ◆9UB1s3/HD6
垢版 |
2018/04/05(木) 23:33:13.32
いろいろ楽しく議論したいのですが、最近は5chも人も減って来ているみたいだし、
そんな感じではなくなっているのかも。。。
そもそも、私自身が少しは営業しないとダメなんでしょうが。
ま、それも急ぐことも全くないので、なんでも聞いてくださいね。

>> 782さん
古事記では夜麻登登母母曽毘売 ですからね。百をホと読むのは少し厳しい気がします。
トトとモモをついに考えるなら、登登と 母母 の対応関係は生きていますね。

ただし、考えてみると、ご指摘の通りモモを100 ソを10として、モモソ で110と意味をとるのが
スマートな気もして来ました。(トトヒは、「尊い」でしょうか?)

その場合は、モモソ(百十)は、イソ(五十)とでうまく対になりますね。
モモソヒメとイサセリヒコとの符牒もばっちりです。
0804日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/07(土) 14:37:19.19
悪いひとたちがやって来て
みんなを殺した

理由なんて簡単さ
そこに弱いひとたちがいたから

女達は犯され
老人と子供は燃やされた

悪いひとたちはその土地に
家を建てて子供を生んだ

そして街ができ
悪いひとたちの子孫は増え続けた


朝鮮進駐軍 関東大震災 日本人10万人大虐殺

https://youtu.be/iBIA45CrE30
https://youtu.be/D0vgxFC04JQ
https://www.youtube.com/watch?v=sYsrzIjKJBc
https://www.youtube.com/watch?v=SiHp41uWo1I
https://www.youtube.com/watch?v=zYBCTRryFP8
https://youtu.be/Q5Ifb-UXVic
0805日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/08(日) 17:21:23.38
ここにも転載しておくか

東遷説スレにあった言葉
「東遷した時期をある特定の時期の範囲の中に設定する説が「東遷説」なのであり
 遅すぎるとありきたりの九州説になってしまい
 早すぎるとごくふつうの畿内説になってしまう」
0806日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/12(木) 22:34:50.78
>>727
>岡上は九州説、というよりアンチ畿内説3狂人の一人だぞ

彼は平原遺跡の価値を認めた上での畿内説だよ。
ただ、そのことが気にくわない畿内説支持者からは裏切り者扱いされてアンチに認定された。
しかし邪馬台国は畿内という立場だから、れっきとした畿内説。
その他の事柄は、アンチの発言をなんでも岡上のせいにする全岡上病にすぎない。
0807日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/12(木) 22:40:27.07
鉄器ゼロだからどうにもならない。

鉄器数百と蝙蝠紐座内行花文鏡が無造作に発見される
北部九州は
ムダ毛処理して小奇麗な
3世紀の文明人


鉄器ゼロの毛人地域は、
ムダ毛ボウボウの毛人の地
0808岡上 ◆Lv09mLa3HM
垢版 |
2018/04/14(土) 00:20:03.54
トリを変えました。

あと、現在例の直線についての大きな地図を作っています。
A1の350dpiという大きさでもまだまだ直線の持つ精確さには足りないぐらいです。

絵心ゼロですので、まだまだ時間かかりますが、僭越ながらできたらこちらで
紹介させて頂きます。
0809日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/14(土) 01:36:22.63
楽しみ。

岡上氏は考古遺物に限らず古伝口承の類に
ご興味ありますか?

特に
>>797さんも書いてらっしゃいますが
大元出版の各著作に実に興味深い内容が書いてあります。

筑紫から丹波に天香山が移住して後に
大和の笛吹のあたりに居住して子の叢雲が大王になり、出雲から銅剣を贈呈されたという。
尾張熱田にある叢雲の劔これなり、と。

ヒミコは何人もいて共立されたヒミコと
親魏倭王のヒミコは別人という内容もあり。

どこまで本当かわかりませんが、信憑性を感じる内容になっています。歴史学ではなく民俗学の範疇かもしれませんが。

鏡の祭祀は物部が九州から持ち込んだ。
畿内から銅鐸が消えるのは物部と大彦の対立。
などなど。
0810日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/14(土) 01:44:42.30
おそらく著者 斎木さんのブログです。
ttps://ameblo.jp/dorabida1207/entry-12037755216.html
0811日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/14(土) 11:39:10.33
筑紫を起点に西日本一帯に文化が広がるのは、伝承と考古学の両方から確実ですね。
それを畿内発祥とか言い張るからおかしくなる。
0812日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/14(土) 11:51:35.76
>>811
>筑紫を起点に西日本一帯に文化が広がるのは、伝承と考古学の両方から確実ですね。

筑紫に「其山有丹」は該当しない。  @阿波
0813日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/14(土) 11:55:32.55
>>811
>筑紫を起点に西日本一帯に文化が広がるのは、伝承と考古学の両方から確実ですね。

筑紫に「有薑橘椒襄荷」は該当しない。  @阿波
0814日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/14(土) 11:57:43.37
>>811
>筑紫を起点に西日本一帯に文化が広がるのは、伝承と考古学の両方から確実ですね。

筑紫に「倭地温暖」は該当しない。  @阿波
0815日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/15(日) 09:10:54.41
682日本@名無史さん2018/04/15(日) 06:16:33.78
テンプレを読みに行くことすら拒否する駄々っ子のために貼ってあげるよ
倭国内の弥生時代後期〜末期に鉄器がないと想定する方がおかしい
鉄器が「発掘されない理由」を考える方が、重要

Q:鉄器の乏しい畿内の政権が覇権を握るのは無理だ!

A:倭人伝の描かれた卑弥呼の政権は覇権的でない。
 宗教的権威者を核に、各地の首長が自主的姿勢で政治力を求心的に集約(共立)したものであり、考古学が解明した3世紀の状況とよく整合する。

 一方、伐採用石斧の減少状況から鉄器の普及状態を推測すると、九州と畿内でも極端な格差が無い。準構造船(久宝寺南:庄内新)をはじめとする木製品の加工痕からみても、一定量の鉄器が普及していたと思われる。
 遺存例には大竹西遺跡の鉄剣(弥生後期初頭)や唐古鍵40次調査の板状鉄斧、痕跡では加美遺跡Y1号周溝墓の鉄斧による伐採痕や唐古鍵SD-C107鉄斧柄、纒向遺跡メクリ地区の大型鉄器を研磨したと推定されている大量の砥石(3世紀前半〜中頃)など。
 鍛冶を伴う遺構は纒向石塚の北東200m近辺出土の鞴羽口や鉄滓等(3世紀後半)、淀川・桂川圏で中臣遺跡(京都山科,弥生後〜古墳初)、西京極遺跡(京都市内,弥生後前)、和泉式部町遺跡(右京区,弥生後〜古墳初)、
南条遺跡(向日市,弥生後前)、小曽部芝谷遺跡(高槻,弥生後)、美濃山廃寺下層遺跡(八幡,弥生後後)、星ヶ丘遺跡(枚方,弥生後後)、鷹塚山遺跡(枚方,弥生後後)、木津川圏で田辺天神山遺跡(京田辺,弥生後〜古墳初)など。

 纒向での鉄利用状況については、大型建物D隣の大型祭祀土壙SK-3001より出土したヒノキ材(庄内3)の分析で、その加工痕及び周辺で植生上少ないヒノキの多用という状況から
「集落を包括した工人専業集団の発達がなされ、鉄器が一般使用または使用できる集落」(金原 2011)
 と結論されている。

 弥生終末期(庄内新相)の畿内中枢に於て遺物が直接土壌と接触しにくい墓制が普及し始めると同時に俄かに豊富な鉄器が登場するという状況を鑑みると、畿内の土壌の特性が鉄器の遺存状態に大きく影響していたことには疑問の余地が無い。
0816日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/15(日) 09:11:22.92
683日本@名無史さん2018/04/15(日) 08:07:34.78
>>682
あのー
それだからダメだって言ってるんだが。

纒向の話をしているのに、
京都大阪までかき集めてどうすんの?

しかも京都大阪までかき集めてたったのそれだけ?
邪馬台国じゃないなあ、と思わないの?
北部九州の人がわずかに持ち込んだ鉄器を大事に大事に使ってたんだなあ、と思わないの?

【鉄器】
唐古鍵 板状鉄斧
大竹西遺跡 鉄剣(大阪府八尾市)
 <こ れ だ け>

【痕跡】
唐古鍵 鉄斧「柄」
加美遺跡Y1号周溝墓 「伐採痕」(大阪市)
久宝寺南遺跡 準構造船の加工痕(大阪府八尾市)

纒向遺跡 大量の砥石 大型鉄器を研磨したと「推定」


明らかじゃん。

ごくごくわずかな鉄器とその痕跡のうち、
3点が大阪で、八尾市に準構造船を伴っている。

北部九州倭人が鉄器を持って準構造船でやってきたわけだ。
0817日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/15(日) 10:26:37.14
978岡上 ◆0/8QIRu3og 2018/04/13(金) 23:24:28.40
余談ですが、今日、歴史REALの邪馬壹国を買ってみました。
北条先生の説が一番興味深かったですね。

一文だけ抜き出しておきましょう。
「ヤマト土着の弥生文化の勢力が独自に邪馬台国の主体をになったというのはありえない。
纏向の建物の配列の仕方などは、ヤマト在地の弥生文化とは異質で九州北部の強い影響を受けていることは明らかです。
中略 言ってみれば、「邪馬台国東遷説」に近い考え方かもしれません」
0820日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/15(日) 14:21:28.16
>>819
という証拠は?
0822日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/15(日) 14:29:50.33
東遷説の学者がいなくなって

これも推測?
0824日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/15(日) 14:52:47.48
>> 823
質問に質問で返すなよ
0826日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/15(日) 14:55:05.19
いないらしい
0827日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/15(日) 15:04:36.95
>>826
推測乙
0828日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/15(日) 16:41:07.36
いるか聞かれて誰も答えられない
という事実は
いないという推測の
決定的な根拠だな
0829日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/15(日) 17:13:02.81
>>828
2ちゃんでレスがないことが論拠の推論www
0831日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/15(日) 17:44:42.92
>>830
2ちゃんの過疎スレで解答がないだけの推論www
で、決定的wwwww
笑い殺す気か??
0832日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/15(日) 23:26:36.61
>>831
つまり、あんたは答えられないわけだ

東遷説の学者はいないということで、FA?
よろしいね?
0833岡上 ◆Lv09mLa3HM
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2018/04/17(火) 00:00:53.81
すっかり遅くなってしまいましたが。

>>809 さん
地図は週末で大体はできたので、今試しに印刷に出しています。

リンクは少し読ませて頂きました。
神代の出雲と日向での記憶というのが、記紀では神話に押し込められていますが、
そこから歴史を導出しても、似たような史観に落ち着くのですかね。
たしかに類似性は感じましたよ。ただ、徐福云々はちょっとついて行けませんでしたが。

かぐや姫の物語は私も興味があり、これまた小論を描いたことがあります。
基本的にはイリ王朝、就中、垂仁天皇のエピソードと関係あるのでは思っています。
けど、こちらはまだまだお披露目できるレベルでもないので、自粛しておきます。
0834岡上 ◆Lv09mLa3HM
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2018/04/21(土) 08:03:07.43
日本の地理上にて発見した一つの興味深い直線をご紹介いたします。(この直線の発見は、「継続としての日本古代史」を書くにあたって偶然に発見した、単なる副産物に過ぎません。)

その直線は、吉備の地、現在の岡山市にある「浦間茶臼山古墳」(この古墳は箸墓の丁度1/2相似形であることがわかっています)と「伊勢神宮(内宮)」を結ぶことで現出します。
この直線上には、三輪山、箸墓、応神皇陵や明石海峡の中間点など、不思議なほどに沢山の地形や神社・古墳などが並びます。
そして、特にその直線上には、赤盾赤矛・黒盾黒矛を祀ったとされる墨坂神社と大坂山口神社もあり、実在可能性の濃いとされる10代、ハツクニシラス スメラミコト、崇神天皇の事績と非常に関連性が深いものが多いのが特色です。

如何にも胡散臭いと感じられるでしょうが、これだけの地点を恣意的に私が配置できるわけがありませんし、単なる偶然とするにもあまりに奇妙です。
そして、なぜこのような直線が現出するのかを私なりに考えてみたところ、この直線は、その奇妙すぎる一致にもかかわらず、何も厳密な測量などによらずとも、ある特定の日(それは10月10日なのですが)に
三輪山の方向から朝日が登る地点を遥拝することによって、現出することがわかったのです。

論より証拠、「継続としての日本古代史」のちょっとした広告用ポスターを自作して、この「10月10日の直線(レイライン)」を紹介することしましたので、是非一度ご覧ください。
0835岡上 ◆Lv09mLa3HM
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2018/04/21(土) 08:05:30.68
A3版 ttp://fast-uploader.com/file/7079819167188/
A1版 ttp://fast-uploader.com/file/7079819231809/

A1版は結構大きいので、ご注意ください。
私は、A0に引き伸ばして印刷しました。なかなかの迫力です。
ご笑覧ください。
0837岡上 ◆Lv09mLa3HM
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2018/04/21(土) 10:31:46.90
内向花文鏡と、太陽信仰、伊勢、そして箸墓とその相似形の浦間茶臼山
これらに共通性を見出した結果として、発見した事実ですね。

この直線は単なる客観的な事実関係ですから、
私が初めて言及したことを嬉しくおもいます。
0840日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/22(日) 13:26:22.01
恥ずかし過ぎる自演、晒しあげ
0841日本@名無史さん
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2018/04/22(日) 14:16:44.37
>>835
これはさすがに偶然じゃないでしょうか。
このスケールで正確に距離や方角を測る技術を持っていたとは考えにくいですし。
伊都と伊勢を結ぶ線とかならまだ色々考えますけどね。
0842岡上 ◆Lv09mLa3HM
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2018/04/22(日) 19:29:32.87
>>841 さん

必然か偶然か判断するのは、観察者の方ですので判断は、考えは置いておくとして、
まずは、この「10月10日の直線」が事実かどうか、予断を抜きにして、まずは事実関係を確認してみてください。

この直線を成立させるのに特段の技術は必要ないことは、その命名にも含意させています。
マピオンさんで日の出の方向を確認するアプリがありますので、
それで浦間茶臼山からの10月10日の日の出の方向を調べてみてください。
0843岡上 ◆Lv09mLa3HM
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2018/04/22(日) 19:31:41.65
>>839 さん

有難う御座います。
一生懸命作った甲斐がありました!
0846日本@名無史さん
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2018/04/22(日) 22:37:58.28
ふーむ、狐に化かされたような気分
0848日本@名無史さん
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2018/04/24(火) 22:19:50.44
図書館ネットワークでコピーを申請したら?
0849岡上 ◆Lv09mLa3HM
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2018/04/24(火) 22:24:41.28
自スレに誤爆してしまった(笑)
こちらに書こうと思っていたのは、伊都国説についてです。

私は伊都国説に基本的にかなり好意的ですが、それは、もし魏志がなく、
魏略の内容だけなら、魏略における「女王国」とは伊都国の平原王墓で
ほぼ完全に考古学と文献が合致しており、異論がないだろうということです。

もし、これだけなら原始日本の描写として基本的な構図が
ここまで畿内説と九州説で支離滅裂に分裂することもなかったでしょう。

逆にいうと、魏志にあって、魏略にないもの、つまり邪馬台国と投馬国は、
魏志の時代になって初めて「張政の報告書」によってもたらされた新情報ではないか、
ということです。
0850日本@名無史さん
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2018/04/24(火) 22:27:47.17
そりゃそうだ。
漢代は統一国家倭国。

魏代には邪馬台国と狗奴国に分裂して倭国王争奪戦。

三国志東夷伝韓伝に倭人も鉄を採掘しているとあるのだから
その近くに倭人支配地域が出現しているわけで、
それが
0851日本@名無史さん
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2018/04/24(火) 22:36:42.56
九州北部に他ならない。
0852岡上 ◆Lv09mLa3HM
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2018/04/24(火) 22:38:05.91
国会図書館の遠隔複写サービスですか!

大学はなにかと紹介状云々といわれて、なんて閉鎖的だとおもいましたが、
これは誰でもアクセスできそうですね。
今までこれはというのは、仕方なく通販で買ってましたが、絶版のものは手付かずでした。これはだいぶ便利そうです。

ありがとうございます。
0853岡上 ◆Lv09mLa3HM
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2018/04/24(火) 22:42:36.54
>> 850 さん

そうですね。
畿内病にかかると、それだけのことがどうしても認められなくなる様で、
急に非学問的に他説を弾圧しようとするのですから困ったものですね。
0854日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/24(火) 22:50:25.43
×畿内病

〇キナイコシ
0855岡上 ◆Lv09mLa3HM
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2018/04/24(火) 22:53:17.41
>>854 さん
伊都国論者をすべて岡上と自動判定する岡上病を誘発するような発言はお控えください(笑)
0856岡上 ◆Lv09mLa3HM
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2018/04/26(木) 19:59:44.62
ちょっとテスト

しかし、見れば見るほど、魏略と伊都説は相性いいですね。
これはアタリってことなんでしょうね
0857日本@名無史さん
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2018/04/26(木) 23:33:43.23
魏略と魏志で伊都の人口が一桁減ってるけんですか?
不思議ですよね、遷都したって言ってもいいですよね。
0858日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/26(木) 23:54:32.88
同じ時代の話なんじゃないの?
伊都からどこに遷都したと?
筑後?
大和?
0859日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/27(金) 02:25:40.54
水路を通して行政区画が変わっただけだよ
0861日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/27(金) 22:15:41.76
伊都国は規模が小さいにも関わらず重要な扱いをされている
そのすぐそばに大きな奴国があることから奴国の旧都だったのではないか?
0862日本@名無史さん
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2018/04/27(金) 22:38:39.66
奴国が紀元前からあって大きくなりすぎたので、王都だけ伊都に遷都したんだよ。
0864日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/27(金) 23:59:21.16
最初の王都として福岡平野に吉武高木遺跡(紀元前2世紀)、奴国と考えられている須玖岡本遺跡(紀元前2〜1世紀)があり、
後に高祖山をはさんだ西側の糸島平野に移動して伊都国とされる三雲南小路遺跡(紀元前1世紀の王・王妃墓)、井原鑓溝遺跡(紀元1〜2世紀の王墓)、平原遺跡(紀元2〜3世紀の女王墓)がある。
三雲南小路遺跡の甕棺墓から発見された内行花文鏡には「見日之光天下大明」という銘文があり、太陽光を象った鏡であることがわかる。内行花文鏡は中国で王侯に下賜されていた形式であり、倭国が漢王朝の冊封の元での祭政一致王権をとっていたことがわかる。
昭和40年(1965年)に平原遺跡から出土した最大の内行花文鏡は国産と考えられている。その円周が漢代の8咫(直径1尺の円の円周が4咫)に相当することから、記紀などにおいてアマテラスがニニギに与えたとされる八咫の鏡であると考えられている。
かつては八咫は単に大きいことを意味するだけだという説もあったが、この鏡の出土により実際に円周がちょうど八咫である鏡が実在したことが確認された。
これらの王朝は高祖山の東側の福岡平野の奴国に成立し、後に西側の糸島平野の伊都国に移動しているが、出土品や墓制が同じであることから基本的には一連の王権であると考えられる。
三種の神器は現在の天皇家においても象徴とされており、倭国王権の起源は稲作伝来の地でもあるこれら博多湾・玄界灘周辺にあったことになる。
これが卑弥呼が女王となった倭国の姿である。
0865岡上 ◆Lv09mLa3HM
垢版 |
2018/04/28(土) 08:18:35.85
千、万の戸数の差もそうなんですが、
邪馬台国も投馬国も魏略の段階では文献上存在してないですからね。
その二つがないので、文献的な解釈で苦しむ必要もないわけです。

つまり、魏略における女王国とは、平原の一号墓で間違いないでしょうね。
否定する要素、無いようにおもいますけどね。
0866岡上 ◆Lv09mLa3HM
垢版 |
2018/04/28(土) 08:25:46.66
で、魏略の女王=平原被葬者 が否定できないということになると、
魏略(邪馬台国の記載なし)と魏志(邪馬台国の記載あり)の何十年かの間に、
倭国側に体制の変更があり、それを正始年間の交渉で掴んだということなんでしょう。

すなわち、魏略と魏志の間にあった体制の変化それこそ邪馬台国への遷都ということです。
0867日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/28(土) 08:57:39.10
このスレで俺は天皇だと名乗っても否定できないけど、否定できないことに何か意味あるの?
0868日本@名無史さん
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2018/04/28(土) 09:28:32.50
旧伊都国のうちの庶民の暮らす地区を奴(やっこ)の国としたんだよ。
0869岡上 ◆Lv09mLa3HM
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2018/04/28(土) 09:31:31.86
畿内厨がむごすぎるので、こちらのスレに書いておこう。

「大和において、大型内行花文鏡が尊重されていると、何か不都合でもあるのですか?」

もちろん、不都合ありません。
魏略における女王(平原王墓)の祭祀の影響が、大和においてあるということがわかるだけです。
0871日本@名無史さん
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2018/04/28(土) 09:34:49.26
王様の耳はロバの耳ーッ
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