共産革命の“役に立つ白痴”津田左右吉の大害毒
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筑波大学名誉教授   中 川 八 洋

「神武天皇から開化天皇までの記紀は嘘八百の歴史創作である」との津田史学を錦の御旗にする井上光貞/直木孝次郎らの共産党系学者のプロパガンダ言説は、
「邪馬台国・九州説」と手に手に取り合って、荒唐無稽な歴史偽造を画策している。
いうまでもなく、大和朝廷は、紀元後250年の三世紀半ばまで、畿内の大和盆地には存在していなかったという、
これこそトンデモ“嘘八百の歴史創作”をするためである。

魏志倭人伝にある「邪馬台国」という漢字表記は、紀元後230年代、
「奈良県/大阪府/兵庫県/岡山県/香川県/愛媛県」等をすでに武力統合した大和朝廷が、まだ「日本国」と言う国号はできていないが、
自国名を我流の“宛て漢字”で作った初の“日本製の漢字表記国名”である(注2)。
楽浪郡の支那が、「奴 な」国からの遣使に「国名は?」と問うて、「わがくに」と答えたこの「わ」を表音漢字として「倭」を宛てたが、
それから二百年、日本はついに国名表記変更を願い出た。
が、魏はこれを一蹴し、「親魏倭王」として「倭」を変えなかった。こんなトリヴィアなことは、どうでもいい。
問題は、「邪馬台国・九州説」が、紀元後すぐの頃にはすでに畿内大和に歴史事実として君臨した神武天皇と、その後の八代の天皇を実在しないとする詭弁やトリックになっている問題。

 「邪馬台国・九州説」の根拠に真っ当なものは一つもない。例えば、人口わずか六千人規模の吉野ケ里遺跡(佐賀県)をもって、
人口35万人以上の「邪馬台国」だと騒ぐのは、「六千人」と「35万人以上」の区別がつかない幼児と変わらない。
『魏志倭人伝』には「邪馬台国は7万余戸」とある。鬼頭宏は、「一戸は10名で換算せよ」とするから(注3)、この場合は邪馬台国の人口は「70万人以上」となる。
多くの研究論文では「一戸5人」で計算しているので、これに従えば「7万戸以上×5人=35万人以上」となる。
人口「35万人以上」を擁する「くに 国」は、九州のどこにも煙すらない。