邪馬台国はどこにあったか初心者に説明するスレ3
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前スレとは別の初心者です
もういらっしゃらないようなので立てました
当方、魏志倭人伝の現代語訳だけは読んだレベル也。
日本書紀は読んでない也。
お互い議論しなくていいから
自分の説の説明だけやってくれ。(重要だと思います)
投稿が分割するほど長いなら名前欄を使ってくれ。
できれば初心者がググらないでいいようにしてくれ。 (できればでいいです(前スレはググりながら読んでいました))
初心者が口を挟むとベテランの方同士が喧嘩になるようなので読むだけにします
前スレ
http://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1484705598/ >>947
帯方郡から水行20日ですから投馬國は朝鮮半島の南岸でしょ。
>>948
「有」は確定した数字で、「可」は推測した数字だな。
投馬國や邪馬壹國の戸数は実数ではなく推測値ですね。 >>940
>私は、肥国から共立により筑紫倭国の女王に共立されたと思う。
肥国といっても広いんですが、どこから共立されたんですか?
肥国に邪馬台国があるんですか?
それとも筑紫倭国に邪馬台国があるんですか?
肥国に7万戸の都に当たる遺跡はありますか?
筑紫倭国のどこを7万戸の都に当てるんですか? >>953
九州説を相手にしても無駄ですよ。 もっとも、相手に出来るのは妄想同レベルの九州説何でしょうが。 @阿波 >>943
>白村江で負けて滅んだ
白村江以後も九州王朝は700年までは存続していた。
>>953
日本書紀には遣唐使の記録はあるが遣隋使の記録はない
遣隋使は九州王朝が送ったものだよ。 >>905
>なぜ「その地は会稽、東冶の東にあり、朱崖、儋耳に近く、法や習俗に同じものが多い。」の部分は無視するの?
「会稽東治」「朱崖」「儋耳」は何処にあると思っているの?
「会稽東治」:浙江省 寧波市・舟山群島
会稽の東部にある治政地
「朱崖」:福建省 寧徳市 霞浦県 赤岸村・古嶺下村
空海が上陸した海岸
「儋耳」:福建省 寧徳市 霞浦県 東沖半島
古閩(ビン)南語の地域(福建省沿岸部・海南島・中国南岸部にあった古言語地域) >>949
>現代中国語の辞書を引いてもしょうがない
>せめて康熙字典を引こうよ
いや、ものすごく上から目線というかドヤ顔で書いてくれてるけどさ、書いてる内容を見ると本当にこの人分かってるんだろうかと思うんだけど
康熙字典って、>>855(同じ人だろ)の教えてくれたhttp://www.zdic.net/z/26/sw/90FD.htmですぐに見られるから、こっちも確認はしてるけど、
考證:〔《左傳·隱元年》大都不過參國之一。《註》凡邑有先君之廟曰都,無曰邑。〕 謹按所引註是莊二十八年左傳,非隱元年註,今照左傳原文改莊二十八年凡邑,有宗廟先君之主曰都。
と、同じことが書いてあるだけだよ
そして、「考證:〔《左傳·隱元年》」と書いてあるところから、まさに私が最初に>>848で「「曰う」が付いているところを見ると、どこかの註記か何かじゃないかな? 」と書いた通りじゃないか
「邑有先君之廟曰都」って言うのは、「左傳(春秋左氏伝)という注釈書にはそう書いてあった」ってだけだよ
春秋(四書五経の一つ)のある場所での「都」は、「邑有先君之廟曰都」という意味である、と「左傳(春秋左氏伝)という注釈書にはそう書いてあった」って、「康熙字典」にも「説文解字」にも書いてあるだけ
今問題にしているのは「春秋」じゃないんだから、「邑有先君之廟曰都」にこだわるのは無意味!!
QED >>953
>白村江の戦いで捕虜にされた薩夜麻が九州倭国の天子だったと主張するのですか?
筑紫の君が倭国の代表でしょうね。
>隋書の時点で、「都於邪靡堆 則魏志所謂邪馬臺者也」と書かれていて
>成立年は 隋書が656年、旧唐書が945年で、300年近い差があるんですが?
隋書の時点ではまだ筑紫をヤマトと呼んでいたのでしょう。
畿内の律令制が整うのは701年ですから。
>まあ、国造レベルはそれなりに自立性がありますが、独自王朝と呼べるほどの独立性はないでしょう
まったく別の国というわけではありませんからね。
朝鮮半島が南方統一されたら、どちらかの国は歴史的に無かったことにされるでしょうね。
>三角縁神獣鏡は、代表的な大和朝廷の勢力圏を示す遺物であり、沖ノ島祭祀も大和朝廷の影響下にあったことは確実視されています
畿内政権もアマテラスの子孫だから、祖先の祭祀には参加したでしょうね。
>これも以前に書きましたが、履中天皇が朝貢をしていないと考えれば、特に問題はありません
そもそも代替わりごとに宗主国の承認を得ることが通例です。
仮に一代飛ばしても、親子関係が変わるわけはない。 >>874
無布帛 以草為衣 盖 伊耶國
訳
布綿無く、革を以て衣と為す。けだし伊耶國
草ではイミフになる。革の誤字だろうと
するのが通説。
また伊耶國、伊那國、伊邪國の3通りにも字が違っているが
どれも同じ伊邪国だろう。 >>958
>肥国といっても広いんですが、どこから共立されたんですか?
これは不明。
現在の筑後かもしれないし。
(本来の筑紫は筑前だけ)
>肥国に邪馬台国があるんですか?
邪馬台国は筑紫の方。
肥国は後から邪馬台国(倭国)に含まれた。
後漢書との比較からは、おそらく倭国大乱で。
逆に、倭国大乱の首謀者の一部が肥国だった可能性もある。
>それとも筑紫倭国に邪馬台国があるんですか?
>筑紫倭国のどこを7万戸の都に当てるんですか?
倭の訓読みがヤマト。
7万戸は奴国を含む倭全体。
ただし投馬国はヤマトに含まれない。 >>849
ごもっともである。>>849の意見に同意 >>967
>草ではイミフになる。革の誤字だろうと
>するのが通説。
通説は疑え。
ロクなものがない。
牛馬がいないのに、どんな革で服を作るのか。
藁蓑でも来ていたんだろう。 >>960
>日本書紀には遣唐使の記録はあるが遣隋使の記録はない
>遣隋使は九州王朝が送ったものだよ。
日本書紀の遣隋使の記録
十六年夏四月、小野臣妹子至自大唐。唐國號妹子臣曰蘇因高。
卽大唐使人裴世C・下客十二人、從妹子臣至於筑紫。遣難波吉士雄成、召大唐客裴世C等。
爲唐客更造新館於難波高麗館之上。
六月壬寅朔丙辰、客等泊于難波津、是日以飾船卅艘迎客等于江口、安置新館。
於是、以中臣宮地連烏磨呂・大河內直糠手・船史王平、爲掌客。
爰妹子臣奏之曰「臣參還之時、唐帝以書授臣。然經過百濟國之日、百濟人探以掠取。是以不得上。」
於是、群臣議之曰「夫使人、雖死之不失旨。是使矣、何怠之失大國之書哉。」則坐流刑。
時天皇勅之曰「妹子、雖有失書之罪、輙不可罪。其大國客等聞之、亦不良。」乃赦之不坐也。
秋八月辛丑朔癸卯、唐客入京。是日、遣飾騎七十五匹而迎唐客於海石榴市術。額田部連比羅夫、以告禮辭焉。壬子、召唐客於朝庭令奏使旨。
大唐と書いてあるけれど、これは遣隋使のこと
隋書の「明年,上遣文林郎裴清 使於倭國。」の文林郎「裴清」と、日本書紀の「大唐客裴世C」の「裴世C」が同じ人物だって確認できるだろ?
九州王朝説を唱えた九州説の旗頭の一人、古田武彦氏は最初は>>960と同じように「九州王朝の遣隋使」を主張していたけれど、最後は諦めて九州王朝説を否定したよ
その結果、古田武彦氏と古田史学の会は喧嘩別れしている >>971
>その結果、古田武彦氏と古田史学の会は喧嘩別れしている
じゃああなたは古田派になればいい。 >>971
>大唐と書いてあるけれど、これは遣隋使のこと
何で隋と書かずに唐なんて書いたんだw
この記事自体が他所の文献からの盗用なんだよ。
>古田武彦氏と古田史学の会は喧嘩別れしている
何処からの情報だよwww >>966
>隋書の時点ではまだ筑紫をヤマトと呼んでいたのでしょう。
隋書には、裴世Cの倭国訪問記録があります
明年,上遣文林郎裴清 使於倭國。度百濟,行至竹島,南望𨈭羅國,經都斯麻國,迥在大海中。
又東至一支國,又至竹斯國,又東至秦王國,其人同於華夏,以為夷洲,疑不能明也。又經十餘國,達於海岸。
自竹斯國以東,皆附庸於倭。倭王遣小コ阿輩臺,從數百人,設儀仗,鳴鼓角來迎。
「自竹斯國以東,皆附庸於倭。」竹斯國より以東は、皆な倭に附庸す。
筑紫=竹斯と倭(大和朝廷)は、区別されていますね?
そして倭王の遣わした「小コ」は日本書紀に記されている冠位十二階の一つです
「九州王朝の遣隋使」は、どうあがいても無理なんですよ >>859
翰苑の記述は、誤字や漏れを考慮しなくても、
女王国までの行程はきっちりと完結して掲載されているね。
東南五百里で、伊都国に到着する。万余りの戸数がある。
(官を)置く。いわく爾支で、副いわく洩渓觚・柄渠觚という。其の国王はみな女王に属す
又、南は邪馬嘉(邪馬台国または山鹿)に至る。
帯方から女王国に至るには、一万二千余里である。
女王国の北は、其の戸数・道里を略載することができる。
女王国の南は、狗奴国がある。男子を以て王と為す。
その官いわくコウチヒコといい、女王には属さない。
一万二千余里の総距離として、ほぼ完結している。
一万二千余里はちんじゅも採用したのだからこの数値であると認識されていることがわかる。
畿内の記述は1ミリもない。 >>974
>何で上の方を見ないの?
>読めないの?
何が言いたいのかまったく分かりません
上の方に書いてあるのは「説文解字」にある、「春秋」の「都」に対する「左伝の注記」を、すべての「都」の意味に使って訳の分からない論を展開しているのしか見えませんが?
「伊都国が先王の廟がある都である」というのは、「説文解字」を根拠にしても、「康熙字典」を根拠にしても、まったく意味のある説明にはなりません >中国古典辞書の一般的な記述法でしょ
それを『一般の「都」の意味』に敷衍して使ってはダメだ、ということです >>977
>翰苑の記述は、誤字や漏れを考慮しなくても、
>女王国までの行程はきっちりと完結して掲載されているね。
翰苑がなんだか、分かってないでしょ?
翰苑の倭国に関する本文の記述はたったこれだけだよ
憑山負海 鎭馬臺以建都 分軄命官 統女王而列部 卑弥娥惑翻叶群情 臺與幼齒 方諧衆望
文身點面 猶稱太伯之苗 阿輩雞弥 自表天兒之稱 因禮義而標袟 即智信以命官
邪屆伊都 傍連斯馬 中元之際 紫綬之榮 景初之辰 恭文錦之獻
どこに、女王国までの行程があるって?ww >>975
>「自竹斯國以東,皆附庸於倭。」竹斯國より以東は、皆な倭に附庸す。
筑紫より東は全て倭なんだよね。
それはいいとして、勝手に倭を大和朝廷にしないでよ。
筑紫と秦王国まででまた行程が終わっているよ。
秦王国が香椎か宗像か小倉か知らないけど。
さらに十数国で(九州の東の)海岸に出て倭国は終わるとあるから、秦王国は香椎かな?
魏志倭人伝が不弥国(香椎)で行程が終わっているのと一致するのかもね。 >>978
>「伊都国が先王の廟がある都である」というのは、「説文解字」を根拠にしても、「康熙字典」を根拠にしても、まったく意味のある説明にはなりません
伊都国に倭王の王墓が歴代存在していたのは考古学的に確かなので、間違ってはいないよ。
陳寿がどのような意味で使ったかは保留するとしてもね。 >>890の話はごもっともだが、
伊都国は奴国の窓口みたいな意味が強いからな。
港湾というか、出入り口を抑えているというか。
至と到は、到は到着する(至は経由)という
意味があるが、伊都は到を使っているから
メインは伊都なのさ。奴国はおまけ。商業は奴国が人口も多くて盛んだったろうけどな。 >>980
自帯方至女國万二千余里
(翰苑 卷三十) >>983
だよね。
あとは、なんで魏の使いが奴国はともかく不弥国に行ったのか。
位置的には香椎宮だよ。
神功皇后の宮でもあるんだよ。
怪しいだろ。 >>973
>何で隋と書かずに唐なんて書いたんだw
日本書紀が完成したのが、唐の時代だからに決まってるじゃないですか
そんなことも分からないんですか?
「大陸の王朝に送った=大唐に送った」 なんですよ
そもそも、日本書紀の編纂理由が、唐に見せるため、ですから
>この記事自体が他所の文献からの盗用なんだよ。
強がりを言ってもムダですよ
他所からの盗用なら、唐國號妹子臣曰蘇因高はどこから来るんですか?
大陸の史書に「蘇因高」は出てきませんよ
遣隋使の時点までの九州王朝説は、ムリ、なんですよ
大陸の史書と日本書紀との対応がきちんと取れますから
で、倭の五王までの九州王朝も、倭王武=雄略天皇を否定できなければムリ
ここで、きちんと否定できた人はいないですよね
「違うったら違う」と駄々を捏ねている人はいますが
で、卑弥呼真で九州王朝で、倭の五王は大和朝廷という論もあり得ますが、
その場合「倭の五王」と呼ばれるように、宋書で「倭王」と書かれていることがネックになります
これは、倭の五王が親魏倭王=卑弥呼の後裔そのものだということを認めているからです
別の王朝なら、別の国名で呼ばれなければなりません
大陸の基本思想は、徳治主義の易姓革命の思想ですから、天命を失った王朝は滅んで、新しい王朝が建つことになりますから
隋と唐の国号が違うように、卑弥呼の王権と倭の五王の王権が別の王朝なら、倭の五王とは呼べない訳です 帯方郡からの使いが留まり、一大率も置かれていた伊都国。
最大の国邑である奴国。
〇〇のいた不弥国。
合わせて女王の都、邪馬台国(ヤマト、倭、筑紫)。 >>904
それって、後の時代になって
太宰府あたりに訪れた中国の使節が、
「ここは昔、ヤマイ国があったところ。発音がなまった」と
いう記述のとこだろ。ひょっとして
「ヤマタイはここである」と書いたのかな。 >>982
>伊都国に倭王の王墓が歴代存在していたのは考古学的に確かなので、間違ってはいないよ。
>陳寿がどのような意味で使ったかは保留するとしてもね。
ここでの議論が、「都は先王の廟のあるところ」だから伊都国が「都=邪馬台国」っていうのが論理的ではないと言っている訳です
女王の都するところ、というときの都は「先王の廟があるところ」という意味ではありません >>986
>そもそも、日本書紀の編纂理由が、唐に見せるため、ですから
わかってるじゃないか。
>大陸の史書と日本書紀との対応がきちんと取れますから
日本書紀が擦り合わせて書いたからねえ。
>「違うったら違う」と駄々を捏ねている人はいますが
全然違う家系図の人物を勝手にこの人とこの人は同じ、とやっているのはあなたですよ。
>別の王朝なら、別の国名で呼ばれなければなりません
わかっているじゃないですか。
後漢書を読んでください。
倭国は博多湾沿岸なんですよ。
>隋と唐の国号が違うように、卑弥呼の王権と倭の五王の王権が別の王朝なら、倭の五王とは呼べない訳です
畿内大和を、博多湾の倭の名前でそのまま呼ぶわけにはいかないのですよ。
卑弥呼から倭は畿内の国ですよ、なんてことになったらおかしいのです。 >>990
>女王の都するところ、というときの都は「先王の廟があるところ」という意味ではありません
ああ、なるほど。
それは納得。
陳寿は王都の意味で使っっているかもね。
まあ、どっちでも伊都国が倭の都であることに変わりはない。 >>983
>至と到は、到は到着する(至は経由)という
そんなことを言っていた人もいましたが、いろいろな漢籍が電子化されて、検索が容易になって、三国志内の「至」と「到」の使われているところを全部抽出して確認してみたところ、
「使い分けは気分としか言いようがなく明確な意味の違いは見出せなかった」という結論が出ていますよ >>993
ヤマイが間違いなんだよ。
ヤマトだよ。
博多湾沿岸が昔はそう呼ばれていたということ。 >>981
>勝手に倭を大和朝廷にしないでよ。
では、小徳という冠位を九州王朝で使っていたという文献証拠を出してくださいね!
待ってますよ!
小徳は、日本書紀にも書かれた冠位十二階の一つですから、大和朝廷に決まってるじゃないですか! このスレッドは1000を超えました。
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