明治4年2月に薩長土三藩の兵力で編成される御親兵の設置が決定すると、出兵準備のため西郷が東京より帰藩し、久光に代わって知藩事・島津忠義が4月に西郷とともに上京する。
西郷や大久保らが主導するかたちで同年7月14日に廃藩置県が断行されると、島津久光はこれに激怒し、抗議の意を込めて自邸の庭で一晩中花火を打ち上げさせる。旧大名層の中で廃藩置県に対してあからさまに反感を示した唯一の例になる。
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9月10日に政府から分家するよう命じられ、島津忠義の賞典禄10万石のうち5万石を家禄として分賜される(玉里島津家の創立)。