邪馬壹國は北部九州に在った(王都は伊都国)part12
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邪馬壹國は北部九州5県(福岡、佐賀、長崎、熊本、大分)に跨って存在し、
卑弥呼は伊都國を都として邪馬壹國を統治していた。
邪馬壹國とは26か国の国邑で構成されており
その26か国の国邑とは對馬國、一大國、末廬國、伊都國、奴国、不彌國と旁國20か国(斯馬國、已百支國、
伊邪國、都支國、彌奴國、 好古都國、不呼國、姐奴國、對蘇國、蘇奴國、 呼邑國、華奴蘇奴國、
鬼國、爲吾國、鬼奴國、 邪馬國、躬臣國、巴利國、支惟國、烏奴國)
魏志倭人伝には伊都国に卑弥呼が居たとの記述が2か所あり、その一つが 「世有王皆統屬女王國」である。
「世有王皆統屬女王國」の「A統屬B」は「AはBに統屬する」の意味であり
Aについて「伊都国の代々の王は皆」と理解されていたが、
ここでは「世有王」としかなく「世世有王」ではない。
「世有王」の「世有」について『三国志』内で用例を調べると魏書に4例、呉書に1例有る。
「三世有」(魏書)、「當世有」(呉書)等の特殊な事例を除き『三国志』内では「世有」は魏の世を示している。
「世有」を代々と訳してよい場合でも親子二代程度で何代も続いたとの意味ではなく
「世有」は魏代内の世である。即ち「世有王」は「代々の王」の意味ではなく、
「世(魏の世)は王が居た」の意味なのである。
そして文はここで一旦切れて、次に続く「皆」は「世有王」ではなく別のものを指しているのであり、
それは倭の国々のことである。
「皆統屬女王國」の「皆」は倭国の国々を指していると考えられる。
「皆統屬女王國」とは「倭の国々は皆、女王国に統屬していた」の意味なのである。
すると前文の「世(魏の世)に王が居た」の王とは女王国の王である卑弥呼や壹與のことを指していると判明する。
また「世有王」とは「魏の時代に王(卑弥呼、壹與)が伊都国に居た」こと指すと結論される。 世有王
@ 三国志魏書后妃傳第五
>自夫人以下、世有搗ケ。
夫人以下の妃の扱いについては、「それぞれの帝によって」増減があった。(以下、各帝ごとの変化について記載) 魏の世には増減があったの意味
A 三国志魏書任蘇杜鄭倉傳第十六
>語曰「世有亂人而無亂法」
「世の中に、世を乱す人はいても、世を乱す法律はない」と言います。
B 三国志魏書徐胡二王傳第二十七
>今汝先人、世有冠冕、
現在、貴方たちの先祖は、「代々」冠をつける役職についている、つまりこれも魏の世には冠をつける役職についているの意味
C 三国志魏書烏丸鮮卑東夷傳第三十
>而公孫淵、仍父祖三世有遼東。
父祖三代に渡って遼東を領有した。(189〜238)
D 三国志蜀書黃李呂馬王張傳第十三
>當世有聲名
当時は名声が高かった。
C は三世(三代)の意味、Dは当世(当時)の意味で、世有の用例ではない。
@ は代々の意だが、魏代ではある。Bも代々の意だが、魏代ではある。Aは一般的な言葉を引用しているのでこの世の中の意、用例としては不適切
以上からは、世有王は、特別な使用でない限り魏の世の王が、と訳すのが妥当である。 2か所目は「自女王國以北 特置一大率 檢察諸國畏憚之 常治伊都國 於國中有如刺史」の文である。
「自女王國以北 特置一大率」・・・一大率が置かれたのは伊都国ではなく女王国の北の諸国
「於國中有如刺史」・・・刺史は各地の行政機関内に常駐してる監察官
「常治伊都国」・・・女王国の北の各諸国の置かれた一大率を治め(統率)ていた 。
つまり
「自女王國以北 特置一大率 檢察諸國畏憚之 常治伊都國 於國中有如刺史」では、「女王国の北の各諸国には、特別に一大率を配置して検察させており、畏れ憚られている。
常に一大率は伊都国で統率されている。
これは魏で皇帝が刺史を州に派遣し検察させて洛陽で統率しているのと同じようだ。」の意味となる。
全て伊都国についての説明だから「皆統屬女王國」も伊都国についての説明
伊都国を首都とする女王國は倭の国々を統屬していた。
皆とは倭の国々を指しているのであって、皆が絶対に伊都国を指さなければならない理由はない。
だいたい皆と呼べるほど多くの王が魏代に伊都国にいたとは考えられないし、伊都国に付いては特に詳しく説明されているにも関わらずそれらし記述も一人の王名ない。
伊都国は郡使が滞在するところで、伊都国に付いては特に詳しく記されている
「官曰爾支 副曰泄謨觚 柄渠觚」と官、副官の名前は記されているのに、伊都国の王の名前は一人も記されていない
また倭人伝は張政が持ち帰った情報を最新として張政が帰国した時点で書かれていて
既に倭王が魏より任命されているのに、伊都国の首長を王と呼ぶこと事態がおかしい
伊都国の王は伊都国には居なかった、伊都国に居た王は伊都国の王ではなく、倭王の卑弥呼や壹與としか考えられない。
水行十日陸行一月が水行十日陸行一日の誤りであり、魏志倭人伝は全て矛盾なく解読することができます。 やりすぎ防犯パトロール、特定人物を尾行監視 2009年3月19日19時7分配信 ツカサネット新聞
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20090319-00000026-tsuka-soci
この記事で問題になった通称やりすぎ防パトは、創価学会と警察署が引き起こしていたようです
掻い摘んで説明すると
・創価学会は、町内会や老人会、PTA、商店会等の住民組織に関し、学会員が役員になるよう積極的に働きかける運動を
90年代末から開始し、結果、多くの住民組織で役員が学会員という状況が生まれた
・防犯パトロールの担い手は地域の住民と住民組織で、防犯活動に関する会議や協議会には、住民組織の代表に役員が出席する為
防犯活動や防パトに、創価学会が間接的に影響力を行使可能となった
・防パトは住民が行う為、住民が不審者や要注意人物にでっち上げられるトラブルが起きていたが
創価学会はその緩さに目をつけ、住民組織を握っている状況を利用し、嫌がらせ対象者を不審者や要注意人物にでっち上げ
防パトに尾行や監視、付き纏いをさせるようになった
・防パトは地元警察署との緊密な連携により行われる為、創価学会は警察署幹部を懐柔して取り込んでしまい
不審者にでっち上げた住民への嫌がらせに署幹部を経由して警察署を加担させるようになった
・主に当該警察署勤務と考えられる創価学会員警察官を動かし、恐らく非番の日に、職権自体ないにもかかわらず
私服警官を偽装させて管轄内を歩いて回らせ、防犯協力をお願いしますと住民に協力を求めて回り
防犯とは名ばかりの、単なる嫌がらせを住民らに行わせた(防犯協力と称し依頼して回っていた警察官らの正体は恐らく所轄勤務の学会員警察官)
※これに加えて防犯要員が同様のお願いをして回る
・こうして防犯パトロールを悪用し、住民を欺いて嫌がらせをさせつつ、創価学会自体も会員らを動員し、組織的な嫌がらせを連動して行った
つまり警察署に勤務する学会員警察官、警察署幹部、創価学会が通称やりすぎ防犯パトロールの黒幕
詳細は下記スレをご覧下さい
やりすぎ防犯パトロールは創価学会と警察署の仕業だった
https://rio2016.5ch.net/test/read.cgi/bouhan/1516500769/ 乙です
<伊都國の段落> 世有王。皆統屬女王國
魏代には王は伊都にいた。
伊都の皆は女王國に所属していた。
倭王の座をめぐって邪馬台国女王と狗奴国王が争っており、
狗奴国と対比しての表現ですね。 伊都の王は何人いたんだい?
女王は卑弥呼1人だよな >>7
伊都の貴族達が狗奴国王じゃなくて邪馬台国女王を選んで統属されたんだよ 邪馬台国女王と狗奴国王が倭国王争いをしていて、
考古学的に代々の王墓もあるし楽浪土器+硯は伊都に集積しているし
古来の首都である伊都の上流社会の人々がどちらにつくかは超重要だろ >>10
統属されたのは伊都国だけじゃないだろ
なんでわざわざ何度も書くんだ? 魏志倭人伝に、伊都に男王が70-80年続いたと明記されているのだから、
卑弥呼の長い治世も合わせたら200年続いた王都
平城京よりもずっと長い
だから当時の有力氏族有力神社系統は全て伊都で暮らしていて、
その「皆」が邪馬台国女王国と狗奴王国のどちらに統属しているかは
倭国の世論を映し出す明確な鏡だったわけだ >魏志倭人伝に、伊都に男王が70-80年続いたと明記されているのだから、
こんなことは書いてないし、卑弥呼とそれまでの倭王とは断絶してるだろ 断絶しとらんな
元は男王が70-80年いましたと明記されている
しかも彼らが金印を貰ったと書かれていないから、
奴国金印とは別の王達=伊都の三雲南小路や井原鑓溝の王達で
説明がつく 北の邪馬台国(卑弥呼側勢力)【旧吉野川流域北岸勢力 弥生時代集落】
東州津遺跡・大柿遺跡・昼間遺跡(正力地区)・昼間遺跡(天神前地区)・昼間遺跡(西貝川地区)・足代東原遺跡・吉水遺跡・拝原東遺跡
・西長峰遺跡・北原〜大法寺遺跡・黒谷川宮ノ前遺跡・黒谷川郡頭遺跡・桧はちまき山遺跡・光勝院寺内遺跡・カネガ谷遺跡・桧銅鐸出土
北の邪馬台国(卑弥呼側勢力)【旧吉野川流域南岸勢力 弥生時代集落】
ウエノ遺跡・マチ遺跡・須賀遺跡・相知遺跡・井出上遺跡・稲持遺跡・貞光前田遺跡
北の邪馬台国(卑弥呼側勢力)【鮎喰川下流域勢力 弥生時代集落】
樋口遺跡・延命遺跡・矢野遺跡・名東遺跡・鮎喰遺跡・庄遺跡・庄蔵本遺跡
南の狗奴国(卑弥弓呼勢力)【勝浦川流域勢力 弥生時代集落】
勢合銅鐸出土地
南の狗奴国(卑弥弓呼勢力)【那賀川流域勢力 弥生時代集落】
若杉山遺跡・福寺山遺跡 @阿波
こういう「邪馬台国勢力」と「狗奴国勢力」を「弥生集落遺跡」で提示できるのは倭国(阿波)だけ。 @阿波 つまり倭国乱の舞台は伊都を中心とする北部九州でドンピシャ >>20
こういう「邪馬台国勢力」と「狗奴国勢力」を「弥生集落遺跡」で提示できるのは倭国(阿波)だけ。 @阿波 それまで漢の威光で収まっていた秩序が
漢の滅亡で動揺したんだろ
甕棺墓の人たちは漢の権威を利用していたが、
それができなくなった
その結果が、吉武高木の木棺墓への回帰であり、
国産超大型内行花文鏡を頂点とする新秩序の構築
現代まで続いている >>22
甕棺墓も土壙墓も石棺墓も配石墓も方形周溝墓も円形周溝墓も円墳も前方後方墳も前方後円墳もあるのは倭国(阿波)だけ。 @阿波 >>22
木棺墓も甕棺墓も土壙墓も石棺墓も配石墓も方形周溝墓も円形周溝墓も円墳も前方後方墳も前方後円墳もあるのは倭国(阿波)だけ。 @阿波 >>17
その国は、元々は、また(狗奴国と同じように)
男子を王と為していた。居住して七、八十年後、
倭国は乱れ互いに攻撃しあって年を経た。そこで、
一女子を共に立てて王と為した。名は卑弥呼という。
七、八十年というのは伊都国じゃなくて邪馬台国の方だな。 >>25
なるほど
で、考古学的には、
七、八十年王墓が存在するのは伊都だけだから
邪馬台国の首都である伊都に考古学通りに男王達がいたわけだ
否定したいなら他の男王墓を呈示してほしい 建武中元二年(57)の奴国が貢を奉り朝賀し、印綬を賜った。 漢委奴国王
漢は奴国王に(東夷世界を)委任するぜい 建武中元二年(57)の倭奴国が貢を奉り朝賀し、印綬を賜った。
安帝永初元年(107)、倭国王の帥升等が朝貢。
70〜80年倭国乱
190年前後か?卑弥呼即位
233年(173年)-女王卑弥呼が斯蘆国(新羅)に使者を派遣した。
景初二年(238年)12月 - 卑弥呼、初めて難升米らを魏に派遣。
247年あるいは248年頃卑弥呼死去。 帯方郡
韓四千里
四方可四
千方可千
里四千里
三千里狗邪韓 ※7000(水行20日)
(渡海千里) ※8000
対馬
馬(方可四百余里) ※8800余
(渡海千里) ※9800余
壱岐
岐(方可三百里) ※10400余
(渡海千里) ※11400余
末盧(五百)伊都(百)博多駅前陥没地点 ※12000余(水行30日陸行1日) 漢委奴国王印は伊都国の細石神社に江戸時代まで保管されていたという噂がある。
また、後漢書で金印が授けられた年代は、伊都国の王墓群と一致する。
後漢書の倭奴国とは伊都国のことである。 漢委奴国王印
考古学的遺物として無価値に等しい
最近も贋作を疑われている 後に他の国でも同様の印が見つかり、本物であることがほぼ確実である。 >>40
不純物の種類や量まで本物(その印が本物ならば作られたはずの時代と地方に特徴的な不純物組成を持つゴールド)そっくりに偽物を江戸時代に作ったならば
その偽物製造技術こそがオーパーツだよ 金印に残る彫り痕の特徴が古代中国で作られたとされる印と大きく異なっている。 後世の偽造 志賀島の金印は、文字の中心線を彫ったあと、別の角度からも「たがね」を打ち込んで輪郭を整える「さらい彫り」という技法が使われている。
一方、この金印とほぼ同じ時期のもので特徴もよく似ているとして「本物説」の根拠の1つとなっている、中国で見つかった「広陵王璽」という印は、
たがねで文字を一気に彫り進める「線彫り」と呼ばれる高度な技法で製作されている。 さらに、前漢から後漢の印の多くは1つの線がほぼ均一の太さで彫られているのに対し、
志賀島の金印は中央から端に向かって太くなる特徴があるうえ、印面に対する文字の部分の面積がほかの印と比べて突出して大きい。
「さらい彫り」やこうした文字の特徴は江戸時代の印によく見られる。 金印は江戸時代に作られた偽物の可能性が非常に高い。 >>42
(笑)
2005年に中国の2つの金印が来日した際に、九州国立博物館が蛍光X線分析にかけました。
3つが同じ金の成分比率(18金か、24金かとか)なら、金印は本物という証拠になります。
九博は中国側が公開を拒否していることを理由に一切、公にしませんでした。 >>49
論文の作者が断定していないのに、お前が断定しちゃいかんだろ いずれにせよスペックが不明だから偽物を作りようがない さらに、金印の「つまみ」が途中で作り変えられている。 蛇の形をしている金印の「つまみ」は、もともとラクダの形をしていた。 >>48
同じたがねという工具を使ってるわけだ。
志賀島金印も広陵王璽金印も、同じくたがねで文字を一気に彫り進める「線彫り」で
作成された。
たまたま志賀島金印では微修正を加えなければならなかったから、
「さらい彫り」で仕上げをしただけの話。
なんせ金印だから、
ちょっとミスったからといって一から「線彫り」でやり直してられないからね。
そして文字の形はどちらも漢代の形。 まあどちらにせよ楽浪土器が伊都までしか来ていないから
卑弥呼のはともかく
57年金印は北部九州でしかありえないのであった。 >たまたま志賀島金印では微修正を加えなければならなかったから
やっぱ、江戸時代だな 江戸時代にどうやって成分分析すんの〜
江戸時代にどうやって、現代の専門家が本物と主張できる形状の金印を作れるの〜
おしえておしえて 江戸時代に作られたのなら、
成分は漢代の金印と異なって
せめて字体だけでも完璧に偽造しようとするだろうな 成分分析なんかするわけねー
金彫刻職人なら彫刻に適した調合が出来るわな 彫刻に適した調合が漢代の金印の調合なら
現代に至るまで全ての金細工は金印と同じ調合になるはずってこった そもそも江戸時代に金印を偽造する必要性ってなによ?
現代なら、日本人じゃない勢力が
北部九州倭人が東夷世界で唯一の金印をゲットした事実を
否定したいという動機があるがなw 江戸時代だぜ?
天明四年(1784)なんて黒船すら来てないバリバリの鎖国中だぜ?
薩長土肥ならともかく
満ち足りた福岡藩とその周囲の人たちに
金印偽造発見に加担する理由なんてなんにもない
つか、徳川の世であって、
皇室の記紀に関わってくる時代の金印なんて何にも意味なくて
実際に金も動かなかったし
政治的にも何にも変わらなかった
現代の胡散臭い奴がイチャモンつけてるのがバレバレ 廣陵王璽との比較は参考にはなるけど決定打にはならないんだよね
・漢委奴国王金印は国外の東夷王に贈られた金印であるから、国内向けの廣陵王璽金印とは価値が異なる
・その他の金印でない印を持ち出しても、そもそも金印でない時点で彫り方が異なる可能性が否定できない
△鏡じゃなくって、モノホンの特注特別品だから、
否定しようとしても、なかなか否定しがたい V字に掘るなんてありえないんだよな
だって当時の封泥に使われるためのもんだから >>65
新井白石が作らせたんだよ、 決まってんじゃん 倭奴国に金印を下賜したのは確かなので、偽造する意味はない。
福岡が倭国の都だった。 >>71
福岡を倭国の都とするために新井白石が偽造させたのさ。 >>75
それが逆だったら文句言え 死んでからは偽造できんぞ >>72
>>75
なるほど金印は本物だったわけだな
よーーーーーっくわかりました! >>79
あれ?
畿内説の新井白石がどうしたの?
金印詐欺がバレて顔真っ赤?w 国宝金印はやはり本物だった
日本人じゃない説はなにをトチ狂って
ケチをつけたのだろうか・・・
200回近く掘って鉄器も青銅器もゼロで精神がすり減ったのか
中国から学術出土ゼロの銅鏡の成分分析でダメ押し喰らって絶望したのか >>84
その根拠を明確に示してください
江戸時代に偽物を作ろうにも
情報がありませんよね? 新井白石が知っていたなら
文字の形くらいは漢代に合わせるだろうなー ☆江戸時代に分析不可能な金純度は漢代の金印に合致
☆江戸時代に検索可能な文字形は漢代の文字と微妙に違う
漢委奴国王金印は漢の国外の王に贈られた金印
対比している印は
国内向けの金印や
国内の普通の印
あれ?
やっぱ漢が作った金印で当たり前じゃん 江戸時代に偽造したのなら
せめて文字の形だけでも漢代の主流文字に合わせるよなあ
それが若干特殊だとしても
現代科学で分析した金の成分が漢代のものと一致するのなら
そりゃあ漢代の金印でしょうて 偽造したとすれば、
お手本の本物があったんだろうね >☆江戸時代に分析不可能な金純度は漢代の金印に合致
金彫刻職人なら彫刻に適した調合が出来るわな ふむふむ
偽造の根拠はそんなもんか
じゃあ普通に本物で問題ないな >>96
金彫刻職人なら彫刻に適した調合が出来るわな 前例の情報が無く(現代でも無いに等しいが)、
偽造するのが極めて難しい金印を
しかもわざわざ偽造する動機に乏しい
徳川政権下の江戸時代にわざわざ偽造する
なんか
3世紀に鉄器ゼロの王都とか
中国から学術出土ゼロの国産銅鏡とかと同じ臭いのする
無理スジの話だねw 畿内説は捏造が好きだから、自分たちに不利なものは自分たちがやっているのと同じく捏造だと思い込むんだよ。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています