邪馬壹國は北部九州に在った(王都は伊都国)part12
■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1515157747/
邪馬壹國は北部九州5県(福岡、佐賀、長崎、熊本、大分)に跨って存在し、
卑弥呼は伊都國を都として邪馬壹國を統治していた。
邪馬壹國とは26か国の国邑で構成されており
その26か国の国邑とは對馬國、一大國、末廬國、伊都國、奴国、不彌國と旁國20か国(斯馬國、已百支國、
伊邪國、都支國、彌奴國、 好古都國、不呼國、姐奴國、對蘇國、蘇奴國、 呼邑國、華奴蘇奴國、
鬼國、爲吾國、鬼奴國、 邪馬國、躬臣國、巴利國、支惟國、烏奴國)
魏志倭人伝には伊都国に卑弥呼が居たとの記述が2か所あり、その一つが 「世有王皆統屬女王國」である。
「世有王皆統屬女王國」の「A統屬B」は「AはBに統屬する」の意味であり
Aについて「伊都国の代々の王は皆」と理解されていたが、
ここでは「世有王」としかなく「世世有王」ではない。
「世有王」の「世有」について『三国志』内で用例を調べると魏書に4例、呉書に1例有る。
「三世有」(魏書)、「當世有」(呉書)等の特殊な事例を除き『三国志』内では「世有」は魏の世を示している。
「世有」を代々と訳してよい場合でも親子二代程度で何代も続いたとの意味ではなく
「世有」は魏代内の世である。即ち「世有王」は「代々の王」の意味ではなく、
「世(魏の世)は王が居た」の意味なのである。
そして文はここで一旦切れて、次に続く「皆」は「世有王」ではなく別のものを指しているのであり、
それは倭の国々のことである。
「皆統屬女王國」の「皆」は倭国の国々を指していると考えられる。
「皆統屬女王國」とは「倭の国々は皆、女王国に統屬していた」の意味なのである。
すると前文の「世(魏の世)に王が居た」の王とは女王国の王である卑弥呼や壹與のことを指していると判明する。
また「世有王」とは「魏の時代に王(卑弥呼、壹與)が伊都国に居た」こと指すと結論される。 >>337
>壱岐から東方向に流れる海流が「ほとんど」です。 @阿波
壱岐から東方向に流れる海流は、全くない。
あるのは、潮汐と風の影響を受けて、時々刻々多方向に変化する表層流
http://le-web.riam.kyushu-u.ac.jp/radar/current-map/ >>338
>壱岐から東方向に流れる海流は、全くない。
あるのは、潮汐と風の影響を受けて、壱岐から東方向に流れる表層流が「ほとんど」です。 @阿波
http://le-web.riam.kyushu-u.ac.jp/radar/current-map/ 古来より壱岐と呼子の往来が盛んだったのは事実だからなw >>341
>古来より壱岐と呼子の往来が盛んだったのは事実だからなw
もし古来より、呼子やその周辺が大陸との文化流入の玄関口であれば、 宗像地方に替わって呼子周辺が世界文化遺産になっている。
魏使はおろか、元寇・朝鮮通信使も一度たりとも呼子に上陸していない。 推して知るべし。 @阿波 >>342
世界文化遺産は沖ノ島
宗像地方はおまけ。 >>343
呼子は「おまけ」でさえない。 呼子は「おまけ」にもなれない。 @阿波 >>343
呼子は「おまけ」でさえない。 呼子は「おまけ」にもなれない。
魏使はおろか、元寇・朝鮮通信使も一度たりとも呼子に上陸していない。 推して知るべし。 @阿波 敵前の上陸する場合は一度に大軍が上陸可能な広い砂浜が適地だから呼子の様な港には元寇は上陸しなかっただけだし
朝鮮通信使は東に向かってたから呼子とは向かう方向が違っただけです
泡は無知過ぎw >>346
もし古来より、呼子やその周辺が大陸との文化流入の玄関口であれば、 宗像地方に替わって呼子周辺が世界文化遺産になっている。
魏使はおろか、元寇・朝鮮通信使も一度たりとも呼子に上陸していない。推して知るべし @阿波 魏使の上陸地点
唐津中原遺跡
現在は松浦川東岸であるが、地形が変わって古松浦潟南岸に位置した。
元寇の頃は古松浦湾南岸であった。 邪馬壹國は筑紫平野に在った(倭都は惣座遺跡の伊都国、女王都は久留米)
惣座遺跡は脊振山系から流下する嘉瀬川が形成する扇状地の扇頂近くに所在し、
佐賀市大和町久池井字惣座(肥前国庁跡近辺)に位置する。
遺跡は縄文時代から平安時代にまたがる複合遺跡である。 >>351
もし古来より、唐津やその周辺が大陸との文化流入の玄関口であれば、 宗像地方に替わって唐津周辺が世界文化遺産になっている。
魏使はおろか、元寇・朝鮮通信使も一度たりとも唐津に上陸していない。推して知るべし @阿波 >>352
惣座遺跡だけでは「倭都」を説明できない。 @阿波 >>347
反論になってないw
>>351
倭人伝では国の端に着くことを至るや到ると記していますから
魏使の上陸地点は末廬國の北の端の呼子付近です
末廬國の到着地点は中原遺跡ではありません。 >>355
>反論になってないw
反論になってないw @阿波 国の端に着くことを至るや到ると記しているって根拠がない
というか、定説と正反対のことを理由なく言い張っても、意味ないでしょ >>357
もし古来より、唐津や呼子が大陸との文化流入の玄関口であれば、 宗像地方に替わって唐津や呼子が世界文化遺産になっている。
魏使はおろか、元寇・朝鮮通信使も一度たりとも唐津や呼子に上陸していない。推して知るべし @阿波 後漢書における里程
大倭王は邪馬台国にいる。
楽浪郡の国境は、その国(邪馬台国)から一万二千里である。
倭国の西北界である狗邪韓國からは七千里である。 後漢書の「楽浪郡徼去其國萬二千里 其西北界狗邪韓國七千餘里」
この文は魏志倭人伝等の「從郡至倭 循海岸水行 歷韓國 乍南乍東 到其北岸狗邪韓國 七千餘里・・・
・・・自郡至女王國 萬二千餘里」の文からの引用だろ。 針が飛んで先には進まない壊れたレコード盤だったかなw >>364
時代遅れのアナログの壊れたレコード盤が泡説ですね。 壊れたレコードは、同じところを何度も回っていたな。
例えが古すぎてあきれた。40代のおれでさえ保育園のころの記憶だぞ オフコースと究極超人あ〜るの
レコードがあったなあ。
この辺が自分のレコード購入の最後。 >>367
ねぇ、宗像地方に替わって唐津や呼子がどうして世界文化遺産にならないの? @阿波 >>371
世界文化遺産になったのは沖ノ島
これに宗像の宗像神社を無理矢理くっ付けて世界文化遺産になった
宗像神社だけでは世界文化遺産の対象外
唐津や呼子には沖ノ島が無い。 >>372
>世界文化遺産になったのは沖ノ島
大陸からの玄関口が宗像方面だったということですね。
>唐津や呼子には沖ノ島が無い。
大陸からの玄関口じゃなかったということだね。 @阿波 >>372
以前、もれ(仮)が書いたはず
世界遺産か〜・・・、
このような話 沖ノ島が高天原なんじゃない?
あの祭祀はアマテラスを祭るものじゃないだろ。
名目上は市杵島姫を祭ることになっているけど。 共産革命の“役に立つ白痴”津田左右吉の大害毒
http://nakagawayatsuhiro.hatenablog.com/entry/2018/02/02/153406
筑波大学名誉教授 中 川 八 洋
「神武天皇から開化天皇までの記紀は嘘八百の歴史創作である」との津田史学を錦の御旗にする
井上光貞/直木孝次郎らの共産党系学者のプロパガンダ言説は、
「邪馬台国・九州説」と手に手に取り合って、荒唐無稽な歴史偽造を画策している。
いうまでもなく、大和朝廷は、紀元後250年の三世紀半ばまで、畿内の大和盆地には存在していなかったという、
これこそトンデモ“嘘八百の歴史創作”をするためである。
「邪馬台国・九州説」の根拠に真っ当なものは一つもない。例えば、人口わずか六千人規模の吉野ケ里遺跡(佐賀県)をもって、人口35万人以上の「邪馬台国」だと騒ぐのは、
「六千人」と「35万人以上」の区別がつかない幼児と変わらない。
『魏志倭人伝』には「邪馬台国は7万余戸」とある。鬼頭宏は、「一戸は10名で換算せよ」とするから(注3)、この場合は邪馬台国の人口は「70万人以上」となる。
多くの研究論文では「一戸5人」で計算しているので、これに従えば「7万戸以上×5人=35万人以上」となる。
人口「35万人以上」を擁する「くに 国」は、九州のどこにも煙すらない。
要するに、「邪馬台国・九州説」とは、次の荒唐無稽な馬鹿げた妄想に耽る歴史偽造屋の戯言なのだ。
『魏志倭人伝』を一読したとき、多少の教養があれば、それが特記する「卑弥呼」が、
第七代孝霊天皇の皇女「やまとととびももそひめのみこと」にそっくりだとすぐさま感じてこそ常識ある日本人。
「ももそひめのみこと」は、大和朝廷における神宮の斎宮であった。
鉄を産出する吉備の国を制圧した第七代孝霊天皇が(180年頃に)造営した“ミニ都”纏向遺跡は、
天理市の柳本駅(鉄道・桜井線)の南あたりが北端ではないか。そして、この線より南側で田原本町に入った所に、孝霊天皇の御所と政庁が建立されていたと推定される。
仮にそうだとすれば、纏向の“ミニ都”は、三世紀初頭の日本では破格の大きさとなろう。 私のように、纏向遺跡を『古事記』や『日本書紀』の中に“発見”して、吉備の国を制圧してトテツモナイ富を得た孝霊天皇が“ミニ都”を造営したのかな、
その皇女「ももそひめのみこと」は神宮斎宮と摂政とを兼ねていたのだろうか、
魏の遣使は大阪湾までの大海用の船から大和川の河口で降り河川用舟艇に乗り換え、
両岸から大勢の日本人農夫が引くロープで牽引され大和川を遡行して、
「ももそひめのみこと」が祈祷する祭祀の都へと向かったのだろうか、などと想像する時、
纏向遺跡は生き生きと生命を得て千八百年間の時を超越し現在に飛び跳ねる。 【筑紫の日向】
そもそも筑紫とは、博多湾を望む高千穂の日向峠周辺のことを指す言葉であったらしい。
それが拡大して博多湾沿岸から有明海沿岸や遠賀川沿岸まで含めるようになった。
こうして成立した倭国は、筑紫と豊国、肥国の連合国家、いわゆる邪馬台国連合であった。
福岡県の高祖山の最高峰は高地山、別名をクシフル山とも言う。
クシフルとは、チクシのフル(村落、国邑)の意味だそうだ。
古事記では天孫降臨の地は「筑紫の日向の高千穂の峰のクジフル岳」とあり、福岡県のクシフル山とするべきだろう。
考古学的にも、三種の神器を伴う弥生墳墓は高祖山の東の福岡平野と西の糸島平野にのみ発見されている。
クシフル山から自分の国土を眺めたニニギの国見の詔に「此地は韓国に向ひ、笠沙の御前を真来通りて、朝日の直刺す国、夕日の日照る国なり」とある。
宮崎県の日向高千穂では意味が通らないが、福岡県の筑紫日向なら朝鮮半島に向かう博多湾に面している。
最初の王墓として福岡平野に吉武高木遺跡(紀元前2世紀)、須玖岡本遺跡(紀元前2〜1世紀)があり、
高祖山をはさんだ西側の糸島平野に三雲南小路遺跡(紀元前1世紀の王・王妃墓)、井原鑓溝遺跡(紀元1〜2世紀の王墓)、平原遺跡(紀元2〜3世紀の女王墓)がある。
これらの遺跡からは、皇位の象徴とされる三種の神器と同じ剣、鏡、玉があわせて出土する。
倭国王権の起源は稲作伝来と弥生文化発祥の地である博多湾・玄界灘周辺にあったことになる。
漢により冊封された王権の象徴としては他にガラス璧があり、福岡県の須玖岡本遺跡、三雲遺跡、峯遺跡、宮崎県の玉の山遺跡からのみ出土している。
伊都国の三雲南小路遺跡には王と王妃があわせて葬られており、ニニギと木花開耶姫といわれる。
その拝殿である細石神社は江戸時代まで「漢倭奴国王」の金印を保管していたと伝えられている。
伊都国の平原遺跡からは円周が八咫(あた)となる超大型内行花文鏡が出土していて、ニニギがアマテラスから受け取った倭国の王権の象徴である八咫の鏡と考えられる。
高祖山には後世に山頂から山麓までを囲む中国式山城である怡土城があり、その中に高祖宮がある。これが記紀にある高千穂宮だろう。
筑紫の伊都が倭国の王都であり、天孫降臨の舞台、神武東征の出発地、そして倭国女王卑弥呼の都である。 >>378
神武東征の時期は何時か?
記紀では神武を初代天皇として冒頭に記しているが実際は記事の前後が入れ替えられていると考えられる
神武が東征してヤマト朝廷を建てたとするとその時期は紀元前となりとても事実とは考えられなくなるが
実際には新しい出来事を時期を変えて冒頭に移動させたとすると極めて現実的な出来事と理解される
ヤマト朝廷の歴史は神武東征から始まり欠歴八代の天皇を経て天武天皇へと繋がる
途中の崇神天皇からの天皇は九州倭国の歴史からの盗用が殆どである。 「漢倭奴国王」?
そんなモノはない、
そろそろ頭の病院に行け 誰が作ったのか、わからないけど、チェーンソーのゲーム
「海賊ごっこは終わり」と言っている、
あと敵の台詞「渡来人どもめ〜」 >>379
>神武東征の時期は何時か?
2世紀。
魏志倭人伝にある倭国大乱の頃。
>神武が東征してヤマト朝廷を建てたとするとその時期は紀元前となりとても事実とは考えられなくなるが
紀元前はおろか、3世紀でさえも奈良盆地にはたいしたものはない。
一代の長さを20年程度にすると、神武は2から3世紀。 東遷なんてない。
畿内説の妄想。
記紀に書かれているのは筑紫からの東征。 >>385
ばかまるだしだな
当然ながら畿内説は東遷なんて主張してない >>383
神武東征の時期を2世紀とすると
記紀が編纂されるまで600年も前のこととなる
畿内で文字の使用開始は5〜6世紀だ
初めの300年間は文字も無く口伝でしかない
とてもそんな昔のことを記憶していたとは考えられない
筑紫からの神武東征は6世紀くらいだろう。 >>387
筑紫ではもっと早くから文字を使っていましたよ。 筑紫で早くから文字を使ってて
神武東征の時期を2世紀とすると
畿内での文字使用開始がもっと早くなる
記紀編纂時に東征のことを覚えているくらいだからそんな昔のことじゃない。 >>390
だからと言って、神武東征が6世紀は無茶ですよ。
畿内の開発が本格化する4世紀以前だと思いますけどね。 >>390-392
だから、「神武東征」も九州説・畿内説(?)では明確に説明できないでしょ。
何回も言っているように、、「神武東征」も倭国(阿波)国内での出来事なんですよ。
決して広大な西日本一帯を巡る遠征譚ではありません。
そんなことが当時に出来る訳が無いのは、冷静に考えると分かるはずです。 @阿波 >>390-392
神武東征の舞台は阿波国内であり、 九州からの東征などではない。
神武軍が吉野川北岸の阿波市(西)から鳴門市(東)へ攻め下ったのが神武東征。
東征の参謀役となった速吸の門(はやすいのなと 鳴門海峡のこと)の大人・宇豆彦が「宇志比古神社(鳴門市大麻町大谷)」で祀られている。
その背後の山が宇豆彦の葬場である西山谷二号墳(円墳 出土品 圭頭形鉄鏃、やりがんな、鉄剣、鉄斧、斜線上方作銘獣帯鏡、鉄槍など)。
神武を佐けた霊剣・建布都神は、戦闘の地、阿波市の「建布都神社」で祀られている。
一方、長髄彦の本貫地は徳島県板野郡板野町川端で、周辺には、「東中富」「西中富」「富の谷」「富の谷口」「富の谷川」など中臣の地名が多く残る遺跡の密集地である。
長髄彦と神武軍との戦いの場は、この東隣の鳴門市萩原地域。長髄彦は、この地で神武軍との戦いに敗れたのである。
こういう事実を示せるのは、倭国(阿波)だけ。 @阿波 >>391
神武が東征する前にもニギハヤヒ等の東征者がおり畿内を開発し巨大古墳等を建造していた
最後の東征者が神武でありその時期は6世紀頃である。 >>396
記紀には巨大古墳を建造した記録がない
巨大古墳は皇室とは無関係である。 奈良の豪族だった平群氏は、福岡で被差別民になってしまったからな。
東征の結果だろう。
ムラの中には伝承が残っている。 聖帝・仁徳天皇 民のかまどは賑いにけり
仁徳天皇の四年、天皇が難波高津宮から遠くをご覧になられて
「民のかまどより煙がたちのぼらないのは、貧しくて炊くものがないのではないか。都がこうだから、地方はなおひどいことであろう」
と仰せられ「向こう三年、税を免ず」と詔(みことのり)されました。それからというものは、天皇は衣を新調されず、宮垣が崩れ、茅葦屋根が破れても修理も遊ばされず、星の光が破れた隙間から見えるという有様にも堪え忍び給いました。
三年がたって、天皇が高台に出られて、炊煙が盛んに立つのをご覧になり、かたわらの皇后に申されました。
「朕はすでに富んだ。嬉ばしいことだ」
「変なことを仰言いますね。宮垣が崩れ、屋根が破れているのに、どうして富んだ、といえるのですか」
「よく聞けよ。政事は民を本としなければならない。その民が富んでいるのだから、朕も富んだことになるのだ」
天皇は、ニッコリされて、こう申されました。
そのころ、諸国より
「宮殿は破れているのに、民は富み、道にものを置き忘れても拾っていく者もありません。もしこの時に、税を献じ、宮殿を修理させていただかないと、かえって天罰を蒙ります」
との申し出が頻頻とあるようになりました。
それでも、天皇は引き続きさらに三年間、税を献ずることをお聞き届けになりませんでした。六年の歳月がすぎ、やっと税を課し、宮殿の修理をお許しになりました。その時の民の有様を「日本書紀」は次のように生き生きと伝えている。
「民、うながされずして材を運び簣(こ)を負い、日夜をいとわず力を尽くして争いを作る。いまだ幾ばくを経ずして宮殿ことごとく成りぬ。故に今に聖帝(ひじりのみかど)と称し奉る。みかど崩御ののちは、和泉国の百舌鳥野のみささぎに葬し奉る」
仁徳天皇が巨大古墳とか造るはずがないな。 >>400
巨大古墳を造ったのは神武以前に畿内に東征して来たニギハヤヒ等の一族だな
征服民をこき使って巨大古墳を造らせた。 張り付けたろ
363日本@名無史さん2018/02/16(金) 17:52:11.31>>364
纏向周辺の学校
纒向小
織田小
橋本小
東小
箸中
大三輪中
・
・
・
みんな鉄筋コンクリート
掘っても何も出なかった証拠
364日本@名無史さん2018/02/16(金) 17:59:34.42
>>363
良いところを突いてるね
俺は橿原市の鴨公小学校出身だが
同校は藤原京跡の中心に木造で立っていたが
鉄筋にするとき場所を移転した 俺は四国と關係無いが
王都は阿波
邪馬台国は阿波及び大阪、兵庫、和歌山
奈良は眼中にない 王都は阿波の気延山麓一帯
邪馬台国は
※北の邪馬台国(卑弥呼側勢力)
【旧吉野川流域北岸勢力 弥生時代集落】
東州津遺跡・大柿遺跡・土取遺跡・昼間遺跡(正力地区)・昼間遺跡(天神前地区)・昼間遺跡(西貝川地区)・足代東原遺跡・吉水遺跡・拝原東遺跡
・西長峰遺跡・北原〜大法寺遺跡・黒谷川宮ノ前遺跡・黒谷川郡頭遺跡・桧はちまき山遺跡・光勝院寺内遺跡・カネガ谷遺跡・桧銅鐸出土地
【旧吉野川流域南岸勢力 弥生時代集落】
ウエノ遺跡・マチ遺跡・須賀遺跡・相知遺跡・井出上遺跡・稲持遺跡・貞光前田遺跡
【鮎喰川下流域勢力 弥生時代集落】
樋口遺跡・延命遺跡・矢野遺跡・名東遺跡・鮎喰遺跡・庄遺跡・庄蔵本遺跡 ※南の狗奴国(卑弥弓呼勢力)
【勝浦川流域勢力 弥生時代集落】
勢合銅鐸出土地・田浦遺跡・新居見遺跡
【那賀川流域勢力 弥生時代集落】
若杉山遺跡・福寺山遺跡・宮ノ本遺跡
こういう「邪馬台国勢力」と「狗奴国勢力」を「弥生集落遺跡」で提示できるのは倭国(阿波)だけ。 @阿波 >>407
こういう「邪馬台国勢力」と「狗奴国勢力」を「弥生集落遺跡」で提示できるのは倭国(阿波)だけ。 @阿波 >>403
526日本@名無史さん2018/02/16(金) 22:07:37.37
纒向小・・・大溝
織田小・・・纒向遺跡の範囲外
橋本小・・・存在せず
東小・・・存在せず
箸中・・・存在せず
大三輪中・・・纒向遺跡の範囲外
既知害のやることは理解できん >>411
文字が使用され鉄器も豊富に使用されてた北部九州が考古学的にも邪馬壹國の所在地ですね。 >>412
魏志倭人伝にある「丹山」が無くて、その地産の丹を使っていないところは邪馬台国論争の資格無し。 @阿波 文字や鉄器無いって文明が無いってことだから丹とは重要性が全然違うな。 伊都から見て下流の奴国仲島遺跡では
蝙蝠鈕座内行花文鏡が集落内で捨てられてたんだぞw
しかも美しい完鏡のままで。
平原1号ほどの豪華な副葬品(一括国宝指定)を持つ女王なら、
わざわざ形の劣悪な方格規矩鏡など入れずに、
後漢代の美しい方格規矩鏡でもいいし、最新の蝙蝠鈕座内行花文鏡でもいいし、
それを入れればいいだけの話。
それがわざわざ32面もの劣悪な方格規矩鏡を入れていたということは、
すなわち魏から貰った銅鏡百枚のうちの32面だから。 捨てられていたわけじゃないだろ。
事情があって隠しておいたらそのままになったとか、そんな感じだろう。 >>416
糸島説は内行花文鏡だけに頼らざるを得ない説だから、話にならない。 @阿波 >>411
どんどん見つかるね。
ひょっとして今まで遠慮してたとか?
数年前はたしか倭人は文字を知らないから後漢の時と比べて文字の配列が違うのは
文字を単なる模様として並べているからとか聞いたぞ。
>仿製鏡の根拠
硯の大量発見でこの根拠については崩れたわけだな。 文盲率99.99%くらいだろ。
工人は漢字知らないだろうし 女王の墓に32面も副葬する銅鏡なのだから
国産であれば当然文字の分かる責任者がチェックするだろうな。
お手本の後漢銅鏡をしっかりと見てね。 実際、古墳時代前期の倭鏡には漢字を理解できずに紋様化したものが見られる >>423
全く違う
一度、擬銘帯のある鏡を見てみろ 活字があったわけでもないし、フリーハンドで書かれた漢字を識別するのは難しいよ 壊滅した洛陽で銅鏡生産を再開するのなら
漢代から現地にある方格規矩鏡が手本として最適だろうね。
鏡写しするくらいたどたどしい未熟な職人たちにとって、
神獣鏡は肉彫りなど高度な技法を要するし
ましてや新規意匠の肉彫り生産で習作も無しに突然百枚も作れない。 アラビア文字を見て、例えばت, ث, د, ذ, ر, ز, س, ش, ص, ض, ط, ظ, ل, ن
と書いてあって、それを今の日本人が見て、ハア?
と思うのと同じだろうな。とりあえず模写はなんとかできるが。 誰だったかが言っていた、魏からの銅鏡百枚は「原料」であって、
全部溶かして、超大型内行花文鏡を作った、んじゃないの? >>429 民間の交易で輸入した銅鏡ならともかく、
魏からの下賜品は、原料とは違うんじゃないの?
溶かすなら廃品回収した銅クズで充分だし。それに
金属のわりにはよく割れるみたいだし。 平原の方格規矩四神鏡が国産という根拠の一つは大型だからというものがあるが、
青龍三年銘の方格規矩四神鏡も直径17センチ以上の大型だからな。
大型かどうかを根拠にするなら、判断基準は一括しないとね。
大型だから国産とするなら、当然大量生産している平原で作られたものとなり、
青龍三年銘の方格規矩四神鏡は平原女王から下賜されたものとなる。
卑弥呼の時代どストライクだ。
大型だけど青龍三年銘は舶載とするなら、
当然平原の方格規矩四神鏡も舶載の可能性が出て、
魏で作られた方格規矩四神鏡は大型で型崩れしたものが主流だった、
という話に落ち着く。 >>432
銅鏡だけでは、なんとも材料不足。
糸島説は内行花文鏡だけに頼らざるを得ない説だから、話にならない。 @阿波 青銅鏡は、一般の青銅器とスズの混合比が違うから
普通は、青銅鏡にしかリサイクルされない 平原のは、方格規矩四神鏡を含めすべて
ボウ製とみるのが正しいだろう。
大型化したことによる温度ムラの対策ができていない点や
形だけ真似た裏文様の雲雷紋内行花文鏡
塗装跡がある方格規矩鏡など、怪しいものばかりだ 皇帝の下賜品で、温度ムラの対策ができてなかったり塗装跡があったら
みっともないわな。平原で発掘されたのは倭国内で作られた最高級の
精一杯のコピー品か?。 大型内向花紋鏡は糸島産なのは間違いなかろう。
踏み返しコピーからオリジナルデザインに
技術が萌芽しかけてるとこだろうね。
それらを過ぎて、三角縁などの
日本独自のデザインになるわけだ。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています