邪馬壹國は北部九州に在った(王都は伊都国)part12
レス数が1000を超えています。これ以上書き込みはできません。
邪馬壹國は北部九州筑紫平野に在った
(旧倭都は伊都國・新倭都女王王都は久留米)
伊都國の王は旧倭國王
伊都國は惣座遺跡・肥前国庁跡
新倭國の王は卑弥呼
卑弥呼の倭都は久留米南部(隋書俀國伝のヤマタイ) >>491
伊都國の王は、途中で消滅するような
弱小の王だよ。邪馬台国の時代には
もういなかったんだから。
奴の国の王は旧倭國王
新倭國の王は卑弥呼
卑弥呼の倭都は久留米南部(隋書俀國伝のヤマタイ)
でいいだろ >>483
本人に確認したら(どこの骨董市かも含めて)
とうとう白状しなかったよ。インタビュー記事がある。
鏡の文字も鮮明すぎる。インタビューした教授が
こんなにはっきりしたのは今までみた古代鏡のなかでは
見た事がない、と述べている。
つまりは現代の贋作ということだ。決着はついた。 >>492
>伊都國の王は、途中で消滅するような弱小の王だよ。
>邪馬台国の時代にはもういなかったんだから。
少なくとも卑弥呼王の新倭國が景初二年(238年)十二月に成立するまでは、
女王國に統属している旧倭國王(世有王)は伊都國に居た。 これは他のスレッドの話になるんだけど
パク(朴)氏の話をしている人がいたよ、
何か理由でもあるのかな
子供の頃、一緒に遊んだりしていたんだけど、
ちなみに川崎市川崎区の話 朴氏と言っても、普通の一般人だよ、
・・・そうだと思う
朴 李 金 郭 田
このような名前の人達がいたり、
なぜか多い >>492
倭国王は伊都国の王統だろ。
少なくとも中国側はそう見ていた。 >>497
>倭国王は伊都国の王統だろ。
>少なくとも中国側はそう見ていた。
伊都国王統の倭王は景初二年(238年)以前の旧倭國の王。
卑弥呼は景初二年(238年)以降の新倭國の王。
景初二年(238年)以前の卑弥呼は女王國の王。
卑弥呼は女王國の王であったが、景初二年(238年)に魏は倭國王と認めた。
倭奴國の王統は、107年に帥升によって滅ぼされた。
そして帥升は倭國王となった。
伊都國には楽浪郡からの郡使が訪れているから、
伊都國の王は、帥升王統の倭國王と推定される。 >>498
>倭奴國の王統は、107年に帥升によって滅ぼされた。
そして帥升は倭國王となった。
いや、中国側は倭国を前漢代から朝貢してきた連続した王朝とみなしていた。 福岡市 広報戦略室??認証済みアカウント? @Fukuokacity_pr
比恵(ひえ)遺跡群で出土した石製品が硯(すずり)であることが分かりました。
比恵遺跡群のある福岡平野は「魏志倭人伝」に登場する「奴国(なこく)」の中心部とされています。
邪馬台国時代の「奴国」で、文字の使用を示す発見です。
福岡市博物館「ふくおか発掘図鑑8」で、3/6〜4/1まで展示します。
12:50 - 2018年3月5日
https://twitter.com/Fukuokacity_pr/status/970506712603127809 >>499
>いや、中国側は倭国を前漢代から朝貢してきた連続した王朝とみなしていた。
「安帝永初元年 倭國王帥升等獻生口百六十人 願請見」
永初元年(107年)に倭國王帥升は安帝に生口百六十人を獻じ、
請見を願ったが、却下された。
生口百六十人は倭奴國の捕虜。倭王権交代の証拠である。
安帝は帥升を倭國王と認めたが、
初代皇帝である光武帝が倭奴國に奉貢朝賀と印綬を与えているので、
帥升が倭奴國を継承する王であるとしている。 蝙蝠鈕座内行花文鏡は不思議と副葬品としては重要な位置を占めていない様に見える。
糸島のくびれあたりの潤地頭給遺跡でそれこそ弥生終末期ピンポイントの位至三公銘蝙蝠座鈕内行花文鏡が出土してるが、その墓に特に強い権力者という様相はない。
4世紀後半と見られる一貴山銚子塚古墳だが、棺内に置かれたのは鍍金方格規矩四神鏡と長宜子孫内行花文鏡。
棺外に三角縁神獣鏡。
古来からの鏡形式のこだわりがある事がわかる。
このあたりの地域ではこの二種の鏡が最上位なのだろうな。 平原遺跡は明らかに蝙蝠の内行花文鏡が最上位だろ。
と言うか、内行花文鏡の中に序列があるようには思えないね。
籠神社の神鏡である内行花文鏡(十種の神宝)も、形式や年代はバラバラだし。 >>502
漢皇帝と倭王の関係は案外形式的なものじゃなくて
現代みたくトップ(優位勢力)同士の相性が効いてたんじゃないかな。
共和党だと仲良くできるけど民主党だとイマイチみたいな感じで
四葉内行花文鏡の頃はお互い円満にいったたけど
蝙蝠の頃は疎遠になったとか。 >>507
そこに大問題がある。
中国に勢力同士の傾向があったとしたら、
日本にも勢力同士の傾向があった可能性はないだろうか?
つまり、
中華皇帝と誼を通じて権威確立しようとする勢力と
日本独自の世界観で権威確立しようとする勢力。 なんで伊都に上陸じゃなくて末蘆國に上陸したのか?
五百里も陸行なんてしんどいし皇帝からの品々も陸送したの?
ナンパした説にしては末蘆國の人々が海に潜ってるのを見てるから
嵐じゃなさそうだし。
なんで陸行五百里だりょしかも東南ぽ。 >>509
>なんで伊都に上陸じゃなくて末蘆國に上陸したのか?
伊都国は直方辺り 内陸なんだから、そりゃ無理。 @阿波 >>502
>4世紀後半と見られる一貴山銚子塚古墳だが、棺内に置かれたのは鍍金方格規矩四神鏡と長宜子孫内行花文鏡。
>棺外に三角縁神獣鏡。
つまり方格規矩四神鏡と内行花文鏡は4世紀後半まで重宝されていたわけだな。
銅鏡を中国での年代で古く論じることはできないわけだ。 というか、八咫の鏡にもなった内行花文鏡が至高なわけだよ。
籠神社の10種の神宝の鏡も内行花文鏡。
内行花文鏡と方格規矩鏡を詰め込んだ平原がいかに高位の王墓であるかわかるし、後漢鏡からはるかに進歩しているから魏代の卑弥呼以降の遺構であることも明白。 え?青銅鏡は、後漢時代が最盛期だよ
魏、晋時代には劣化・簡略化されてる 平原遺跡は独自の進化を始めた魏代以降の女王墓。
被葬者の最有力候補は卑弥呼。 祇園山古墳被葬者の最有力候補は、卑弥呼と奴婢100人。 >>507
>魏皇帝と卑弥呼はかなりウマが合ったようだね。
魏皇帝と卑弥呼は利害一致。 【日本の歴史】
1世紀
倭奴国 漢と通じ金印を貰う
倭国=朝鮮半島南岸〜対馬〜壱岐〜九州北岸
海洋民による海洋国家
後漢書「倭奴国は倭の極南界」
2世紀前半
九州銅矛圏vs近畿銅鐸圏
近畿銅鐸圏の王、帥升が後漢に朝貢
北宋通典「倭面土国(ヤマト国)王帥升」
2世紀後半
銅矛圏の一部勢力(安曇氏)が大阪侵略(大阪湾型銅戈)→倭国大乱
→卑弥呼即位により銅矛圏と銅鐸圏が和睦し同盟
出雲、吉備は従わず(狗奴国)
銅矛圏の王も廃されず伊都国に残る
魏志倭人伝「邪馬台国(ヤマト国)女王卑弥呼」「伊都国、世有王」
旧宗主国倭奴国王族の住吉氏、領地の朝鮮半島南部に亡命、新羅王として即位
(住吉神 中筒男=新羅王2代目 南解次次雄)
3世紀前半
邪馬台国連合=北部九州、近畿
出雲、吉備は銅輸入ルートから締め出され、銅器を使わない独自の祭祀を開始
(出雲=四隅突出墓、吉備=特殊器台)
丹波地方にいた住吉王族残党が新羅合流(丹波〜若狭湾は四隅突出墓の空白地帯)
(住吉神 底筒男=新羅王4代目 昔脱解) >>514
ですね。
つまり平原遺跡の劣化方格規矩四神鏡こそが魏鏡。 いや、それは後漢鏡のコピー
しかも尚方(官営工房)で作ったものでなく、普通に取引されてる鏡のコピー 畿内説互助会
就職活動
天下り
税金泥棒
観光目当て >>509
秀吉の朝鮮出兵だって、
博多湾から出航してもよさそうなのに、
名護屋浦にわざわざ巨大な城と
兵站基地を作ったんだぞ。
古代では壱岐から伊都に向かうよりも
なるべく少しでも早く上陸したかったんだろ >>526
>秀吉の朝鮮出兵だって、
博多湾から出航してもよさそうなのに
対馬海流に邪魔されて、博多湾から出航できないよ。
だから、名護屋に城を築いたんだよ。 @阿波 >>526
伊都から壱岐に行くのに、呼子から出港するならわかります。
けれども壱岐から伊都に向かうのなら、
壱岐から呼子までは危険ですが、
呼子から伊都までは湾内での沿岸航行でいいので、比較的安全なはずです。
魏使の船酔いがひどくて一刻も早く上陸させてくれと頼んだのでしょうかね。 >>528
>伊都から壱岐に行くのに、呼子から出港するならわかります。
呼子よりもっと西からだね。 名古屋以西。 @阿波 対馬海流
以下の点から、末盧國側の到着地点は呼子だと確定する。
・壱岐〜呼子は23kmと短距離な上に、間に馬渡島や加唐島があって安全性が高い。
・壱岐〜呼子の潮流は、日によって方向が変わる。(下記参照)
・楽浪土器など海外土器は伊都(沿岸〜三雲)に、日本国内各地からの土器は奴国に集中。
(国内船で混雑する博多湾と、朝鮮半島からの国際線を別々に管理)
☆潮流の向きは変化する。
対馬海峡:朝鮮半島〜対馬〜壱岐〜九州北岸 は以下の部分に分けられる。
対馬海峡西水道(朝鮮海峡):朝鮮半島〜対馬、60km
対馬海峡東水道(狭義の対馬海峡):対馬〜壱岐、55km
(壱岐から九州までは近距離にて水道外:壱岐〜呼子、23km)
潮流の向きは、海底地形や気象、潮の干満によって影響されて日々変化する。
壱岐〜呼子の表層流(海洋レーダーシステム)
<2011年6月> 北東・東:3 南西・南・南東11 北8 西3 乱流4 (日)
<2012年6月> 北東・東:3 南西・南・南東10 北7 西9 乱流1 (日)
<2013年6月> 北東・東:4 南西・南・南東6 北8 西10 乱流2 (日)
<2014年6月> 北東・東:2 南西・南・南東7 北9 西10 乱流2 (日)
<2015年6月> 北東・東:1 南西・南・南東6 北19 西3 乱流1 (日)
極端に北向きの流れが多い2015年を除いて、2011年から2014年までを平均すると、
南向き34(壱岐→呼子:28.6%) 東向き12(10.1%)
北向き32(呼子→壱岐:26.9%) 西向き32(26.9%) 乱流9(7.6%) >>530
じゃあ、呼子は大陸からの玄関口なのかな? @阿波 壱岐⇔呼子⇔唐津⇔伊都(楽浪土器)
玄関口といえば玄関口だな。 >>530
>・壱岐〜呼子の潮流は、日によって方向が変わる。(下記参照)
そんなにころころ潮流の方向が変わっちゃ、おちおち安全航行なんてしておれんだろ? @阿波 >>533
現実何だからしょうがない。
むしろころころ変わる潮流を読むからこそ、
壱岐対馬のイザナギイザナミは対馬海峡利権を独占できたわけだ。 >>532
>壱岐⇔呼子⇔唐津⇔伊都(楽浪土器)
なら、宗像のように、朝鮮半島の鉄鋌(てってい)もあるよね? @阿波 まあ、壱岐対馬の住人は
普通に穀物の買い出しに行くけど
遣唐使はさんざん遭難してるからな。
地元民が海流と風を読まないと
難しい海域なんだろうなあ。 潮流を読みさえすればほとんど漕がなくても渡れるということだ。 >>534
>壱岐対馬のイザナギイザナミは対馬海峡利権を独占できたわけだ。
なら、宗像のように、朝鮮半島の鉄鋌(てってい)もあるよね? @阿波 >>532
>玄関口といえば玄関口だな。
じゃあ、宗像方面が「世界文化遺産」に認定されて
なんで、呼子方面が「世界文化遺産」に認定されないんだい?
その差をなんと考える? @阿波 >>539
弥生時代の渡海ルートとは無関係。
@阿波は相変わらずアレだなあ、と考える。 >>541
>弥生時代の渡海ルートとは無関係。
あれ? 呼子は大陸の玄関口なんじゃないの?
@呼子は相変わらずアレだなあ、と考える。 @阿波 >>542
弥生時代に玄関口だった呼子が、なんで世界遺産になる必要があるの?
宗像祭祀は4世紀以降。
つまり、畿内が4世紀以降に発展することと連動して、
九州⇔畿内の玄関口である宗像が発展するわけだ。
そして日本の天皇家は畿内で発展するから、
宗像がそのまま現代まで権威を保ち続けて、世界遺産にもなる。
3世紀の壱岐呼子とはまったく無関係の話だね。 いや、沖ノ島の祭祀は筑紫政権が主導したアマテラスを祀るものだったのではないか。 ついでだけど、
漢⇔壱岐対馬⇔呼子⇔唐津⇔伊都
の頃には、唐津が栄えている。
江戸時代の参勤交代宿場町と同じで、ハブ宿場町は栄えるわけだ。
漢が滅亡すると唐津も衰退する。
何が言いたいかと言うと、
宗像祭祀が始まる4世紀こそが、畿内が発展し始める時代だってこと。
よく畿内説が、
4世紀北部九州が衰える衰えると言うけど、
それはブーメランであって、
畿内が盟主になって外交するのなら、その中間宿場町になる北部九州は、
むしろ栄えなければならない。
それが衰退するということは、畿内の開発にエネルギーを費やしたから。
4世紀畿内には何も無いから、畿内と九州を接続しても、
九州にとっては何の利潤も生まれなかったわけだ。
4世紀に畿内を開発して、畿内が成長したから、
4世紀からハブ宿場町の宗像祭祀は栄えるし、
中国⇔壱岐対馬⇔北部九州⇔畿内で、
5世紀6世紀の北部九州は金銀財宝の最盛期を迎える。 >>543
>弥生時代に玄関口だった呼子
なら、宗像のように、朝鮮半島の鉄鋌(てってい)もあるよね? @阿波 >>546
呼子を通って唐津か伊都に上陸するのに、なんで鉄鋌(てってい)を落とすんだ?
脳みそを車検に出したら? >>547
>呼子を通って唐津か伊都に上陸するのに
なら、宗像のように、「唐津か伊都」に朝鮮半島の鉄鋌(てってい)もあるよね? @阿波 >>547
じゃあ、宗像方面が「世界文化遺産」に認定されて
なんで、呼子方面が「世界文化遺産」に認定されないんだい?
その差をなんと考える? @阿波 >>548
唐津や伊都は主要宿場町や首都なのに、なんで鉄鋌(てってい)を荷解きするんだ?
鉄鋌(てってい)は宗像で一旦集めてから、
紀元前は丹後の扇谷遺跡鉄工所
紀元後は淡路の舟木・五斗長垣内鉄工所へ輸送して、
完成品である鉄器が、唐津や伊都に出土
なるほど宗像には鉄鋌(てってい)が出るのだな。
まさに
北部九州⇔畿内など東方
を接続する東方への宿場町だったわけだ。 >>545
>5世紀6世紀の北部九州は金銀財宝の最盛期を迎える。
むしろ畿内より九州の方が栄えているだろ。 >>550
唐津や伊都が主要宿場町や首都だったら、なんで鉄鋌(てってい)を荷解きしないんだ? @阿波 >>550
呼子を通って唐津か伊都に上陸するのに、
唐津や伊都が主要宿場町や首都だったら、なんで鉄鋌(てってい)を荷解きしないんだ? @阿波 主要宿場町や首都に鉄鋌(てってい)を荷解きしてもしょうがないだろ。
一大率でチェックだけして、
宗像に集めて、
紀元前は丹後の扇谷遺跡鉄工所
紀元後は淡路の舟木・五斗長垣内鉄工所へ輸送して、
鉄器生産したんだよ。
で、完成品の鉄器は北部九州に集中出土。 >>554
はっ、はっ、はっ、 なんでわざわざ宗像に集める必要があるのかね? ちょっと、無理が過ぎるよ、その妄想。 @阿波 >>555
北部九州⇔畿内など東方
を接続する東方への主要港に物資を集積しただけの話。
無理もなにも自然な話だよ。
脳みそ大丈夫?
あ!?
溶けてるよ?
変な汁が出てるし
そろそろ取り替えた方がいいんじゃない? >>554
>紀元前は丹後の扇谷遺跡鉄工所
>紀元後は淡路の舟木・五斗長垣内鉄工所へ輸送して、
>鉄器生産したんだよ。
はっ、はっ、はっ、 北部九州では鉄器生産しなかったのかね? ちょっと、お粗末だね、北部九州。 @阿波 末蘆國から伊都國まで五百里も陸行するというのは謎だな。
対馬海峡三千里だから、五百里というのはかなりの距離だ。 >里程は漢代の楽浪郡史の記録だろ。
>金印授与の時にも漢使が来たわけだし
>楽浪土器が大量に来日してるんだから。
>魏使の日記に書かれていたのは日程。
>つまり、
>里程と日程は同じ行程をそれぞれで説明したもの。
他スレからの引用だが、一つのヒントになるかな。
里程が漢代の楽浪官吏による記載だとすると、
里程における末蘆國と伊都は、漢代のものということになる。
漢代の末蘆國は唐津の桜馬場や宇木汲田遺跡で確定だろう。
じゃあ、
漢代の伊都は、ひょっとしたら、日向遷都前の、
吉武高木遺跡のことを示しているのでは? 里程では、漢代の楽浪情報だけ残っていて、
末蘆国(桜馬場)→漢代伊都(吉武高木)が五百里
ついでに、
漢代伊都(吉武高木)→奴国(須久岡本)が百里
魏使は倭船で来日したから日程だけ。
伊都の範囲が、高祖山を中心として、
東は吉武高木から西は三雲井原までの範囲で、
伊都の中心地が、漢代は吉武高木だったのが、
魏代には三雲へ移った。
ただし、大使館迎賓館はずっと三雲のまま。 ということは、上陸地点は伊都にかなり近い所で上陸するのでいい。
呼子から唐津を経てずっと沿岸水行して、
筑前深江駅くらいまでが末蘆国の範囲で、その辺りで九州初上陸。
魏使にとっては、一応末蘆国に上陸したことになる。
三雲まで歩いてすぐ。
日誌には陸行1日。
漢代も泊ったのは三雲だが、
伊都の中心に王に会いに行く時は、吉武高木まで五百里歩いた。
また船に乗って、糸島半島を迂回して、東側に再上陸して、
さらに歩くより近いから。
これなら、三雲にだけ楽浪土器が集中して、唐津に少ないことも説明できる。
吉武高木には0年くらいまで宮殿跡が維持されていたわけだし。 前漢と後漢で違うだろ。
後漢の頃にはすでに糸島側に倭国の中心が移っていた。 鉄を加工するのに森林資源がいるから
都会の北部九州にはそんな森はないでしょう。 7世紀の糸島には、斜め高炉24基が出土した
元岡遺跡がありますね。
炉や鉄縡、鉄片、鉄器など
64トンの出土がありまして
奈良時代までの最大製鉄遺跡です。 >>554
>紀元前は丹後の扇谷遺跡鉄工所
>紀元後は淡路の舟木・五斗長垣内鉄工所へ輸送して、
>鉄器生産したんだよ。
はっ、はっ、はっ、 北部九州では鉄器生産しなかったのかね? ちょっと、お粗末だね、北部九州。 @阿波 >>564
マジで
元岡で遺跡がでたとは聞いてたけど
20年くらい前。
他が霞む規模の製鉄遺跡じゃん。 >>566
逆に考えると、7世紀の糸島は
貴族やましてや王族の住む高級住宅地では無くなっていたということ。
1〜3世紀には、伊都が首都だったから、
製鉄所は丹後や淡路島に作って、周囲の森林を大量消費した。
7世紀には、奈良が首都だったから、
九州に製鉄所を作って、周囲の森林を大量消費した。
>環境汚染 >>562
核心部分は、57年金印を貰ったのが誰か?ということになる。
もし須久岡本王が貰ったのなら、
ギリギリ57年くらいまでは倭国の中心は奴国側にあり、
伊都王宮は吉武高木=陸行五百里
その直後に政変が起きて、三雲側へ遷都。
それ以降の107年など伊都王宮は高祖宮。 >>567
>1〜3世紀には、伊都が首都だったから、
製鉄所は丹後や淡路島に作って、周囲の森林を大量消費した。
はっ、はっ、はっ、 北部九州では鉄器生産も出来なかったのかね? ちょっと、お粗末だね、北部九州。 @阿波 朝鮮半島から鉄原料は全輸入
鉄工所は丹後と淡路島
完成品の鉄器は北部九州で大量出土
同時期の王墓は筑紫のみ
他説の批判は本当にためになる。
「北部九州に鉄工房遺跡ないじゃないかw」
なるほどその通り。
高級住宅地と工業地帯は離れている方がいい。
遠く淡路島で鉄加工をして、完成品だけ北部九州倭国に持ち帰ったわけだ。
可哀想に目の前の東岸の河内には鉄器ほぼ無し。
「魏使が測定したなら長里になるだろ、測定していない」
なるほどその通り。
魏使は倭船でやってきただけで、日誌に書かれていたのは日程だけ。
東夷伝里を測定したのは、漢代の長期間に沢山やって来ていた楽浪官吏。
つまり魏志倭人伝の行程記事は、
里程=漢代の楽浪官吏、東夷伝里、伊都の中心は吉武高木で陸行五百里
日程=魏使、日誌、伊都の中心は高祖宮、陸行一日 >>570
>高級住宅地と工業地帯は離れている方がいい。
そこまで離さんといかんのかね? 大気汚染が心配なのかな? それとも騒音? 妄想も桁違いだね。 @阿波 鉄器加工に必要な大量の燃料だよ。
青銅器よりも融点が高いので、比べ物にならないくらい大量の燃料がいる。
しかも威信材メインの青銅器に比べて、
消費財の鉄器は品数も多い。
瀬戸内海にずらりと並んだ高地性集落で、
山々の木々から大量に炭を生産して、淡路島に運び込んで鉄器生産に使っていたわけだ。
一部は北部九州へ持ち帰って燃料として使用。
実際に高地性集落では炭作成の焼け跡も見つかっている。
北部九州の木材は、建築材や工具農具などのみに使用。 熊本のトンカラリンも同じで、熊本へ進出した筑紫倭国が、
貴重な木材を切り出して川へ搬出するための設備。
川から有明海、そして吉野ヶ里などへ運び、
そこから更に川沿いに筑紫へと輸送したわけだ。
燃料も木材<瀬戸内海の高地性集落で大量生産
建築材も農工具も木材<熊本で伐採して輸送
筑紫王に対して、
熊本〜筑後〜瀬戸内海の支配官が反乱したのが
倭国乱の要因だろうな。 >>572
>鉄器加工に必要な大量の燃料だよ。
畿内説にも馬鹿にされるよ、そんなこと言いだしたら。
それはそうと、
>高級住宅地と工業地帯は離れている方がいい。
そこまで離さんといかんのかね? 大気汚染が心配なのかな? それとも騒音? 妄想も桁違いだね。 @阿波 >>570
倭人伝が全然読めてないから、ためになってないんだよw
247年に倭遣使 躬臣国王 載斯烏越 と 倭船で来たのは帳政
狗奴国と戦争とかいうから、便乗査察で 伊都まで来て
245年の 難升米 黄幢の件で 檄 告喩 で帰っただけ。
卑弥呼のお悔やみはあったかな?
普通は台与の戴冠祝い とかもなのに、お土産無しで 檄 告喩 だってよ。
帰りは 巳百支国王 率善中郎將 伊聲耆 掖邪拘 等二十人 に洛陽まで送らせた。
240年の 梯儁 の時は卑弥呼に金印紫綬他お土産もって、
魏の軍船仕立てて、邪馬国の女王宮まで行軍して、ちゃんと視察もしてった。
卑弥呼の詐欺外交は、この7年で終ってるだろ。
巳百支国王 掖邪拘 は、倭王を騙った共犯で死刑になってるかもな。 >>568
>>>562
>核心部分は、57年金印を貰ったのが誰か?ということになる。
>
>もし須久岡本王が貰ったのなら、
>ギリギリ57年くらいまでは倭国の中心は奴国側にあり、
>伊都王宮は吉武高木=陸行五百里
>
>その直後に政変が起きて、三雲側へ遷都。
>それ以降の107年など伊都王宮は高祖宮。
むしろ三雲側の王が金印をもらった可能性が高い。
三雲の細石神社が金印を江戸時代まで保有していたと伝えられているからだ。 >>576
57年金印を貰ったのが、
奴国=葦原「那珂」津国=出雲の
須久岡本王=大国主だとしたら?
国譲りで降伏したのだから、
その際に金印も委譲して、それが細石神社に伝わった、とも考えられる。
また、通説通りに志賀島で金印が出土したのなら、
それこそ奴国側の権力者が57年に貰ったとして差し支えない。 >>577
可能性としては否定しない。
ただ、一般的には三雲南小路遺跡は後漢の早い時代、1世紀頃に考えている意見が多いようだ。
ならば、後漢書の倭奴国=魏志倭人伝の伊都国だ。 >>578
須久岡本と三雲南小路はほとんど時代が近接している、
と言われている。
北部九州説者は、三雲南小路からの王墓群を筑紫の日向、
つまり日向三代に例えているのだから、
当然のことながら、
三雲南小路の直前にほぼ重なるようにして、大国主がいたことになる。
須久岡本の王墓被葬者が大国主かどうかは別として、
三雲南小路王から三雲に遷都したわけで、
その前の代の筑紫王あるいは最高実力者は、それ以外の場所にいたことになり、
考古学的には須久が栄えていた。 すまない何が言いたいかと言うと、
金印を授与する時に、漢使が金印授与相手の所まで必ずやって来たわけであり、
その相手が須久岡本にいた可能性も充分に高い。
もし57年の筑紫王あるいは最高実力者が須久岡本にいたのなら、
楽浪土器から判明している、三雲に駐していた楽浪人たちも、
少なくとも57年までは、
倭国の中心は須久岡本と考えていた筈。
一万二千余里を計算するにあたって、
自分は、壱岐対馬をそれぞれ方可で二倍する、
というのが正しいと思っていて、
そうすると一万二千余里はまさに須久岡本になる。
これもまた、
里程=漢代の楽浪郡における倭国情報
であれば、説明がつく。 高祖山を中心とする伊都國はずっと首都であって、
吉武高木の宮殿が王宮で、
紀元前はずっと筑紫王も吉武高木に住んでいた。
金印授与の57年の筑紫王あるいは将軍関白などの最高実力者=大国主は、
須久岡本に住んでいて、那珂川流域=葦原那珂津国=奴国を支配していた。
だから漢代においては、
首都=伊都=吉武高木遺跡=末蘆国からは陸行五百里
漢代の倭国最盛期=57年金印授与時においては、
首都は同じく吉武高木だが、
倭国の中心=時の最高実力者の所在=須久岡本=総計一万二千余里 倭人伝も記紀も突き詰めれば、伊都国に至る
既に答えは出ているよな
卑弥呼イヨまでは伊都国又はその周辺に王はいただろうね
その後の倭国は文献情報が無いので不明 倭国の文献情報は無いが、
日向三代以降がどうなったかは、記紀に詳述されている。
倭人伝でわかるのは、
卑弥呼は狗奴国との戦争中に死去。
狗奴国との戦争にあたって、難升米に檄告喩。
次の男王で内乱。つまり邪馬台国内での内乱。
その次のイヨが共立されて邪馬台国内乱が終結。
>國中遂定 政等以檄告喩壹與
内乱が終結した後に、檄告喩。
つまり、狗奴国との戦争にあたって、イヨに檄告喩。
ここで記紀との接点が再び生じる。
神夏磯媛=イヨだ。 須玖岡本は副葬品に武器が多く、最高権力者と言うよりは将軍的な性格が強い。
個人的には、猿田彦を疑っている。
三雲南小路が邇邇芸と木花佐久夜毘売ならば、ほぼ近い年代であることは何も矛盾しなくなる。 神夏磯姫は残念ながら4世紀初頭で、壹與の次くらいだろう。
八咫の鏡を所有し、称号が筑紫の梟師とあるので、帥(率)の名を持つ筑紫倭国の女王であることは間違いない。
また、その末裔と伝えられている田湯津姫も、筑紫倭国の女王だったろう。 須玖岡本はニギハヤヒだろうね。
先代旧事本紀に、ニギハヤヒの遺体を畿内から高天原=倭国へ引き取って埋葬したとある。
大国主は本拠の須久岡本でなく、出雲へ封印された。
勇猛たる東征将軍のニギハヤヒを、大国主に対する防御神として
大国主の本拠であった須久岡本へ据えた。 壹與はヨタ姫、淀姫として、肥前一宮淀姫神社に鎮座している。
淀姫神社を畿内に勧請し、大阪の淀川や豊臣の淀姫の名前の由来となっている。 卑弥呼時代に狗奴国相手に善戦して、狗奴国を熊本に後退させた。
伊都日向の師升の倭国王統たる難升米は東征を成功させて、
倭国王になるが、内乱を生じてしまう。
邪馬台国内乱に乗じて狗奴国が筑後へ進出。
そこで難升米の子孫である景行が息子の日本武尊を伴って出陣。
神夏磯媛=イヨは、八咫の鏡を奉じて北部九州の兵を預けたのだろう。
狗奴国王=クマソタケルの逃げ道を封じるために、
景行は大分上陸→宮崎→熊本→筑後と、時計回りに進軍。
日本武尊はイヨと一緒に奴国と筑後の間で待機。
このまま景行が筑後へ攻め込めば100%勝利なのだが、
若き日本武尊は血気はやって、筑後のクマソタケルへ攻め込んでしまう。
クマソタケルは南に景行が迫っているので南に逃げられず、
西の肥前川上へ逃走。
そこで追走してきた日本武尊に討ち取られる。
結果として日本武尊が勝ったからいいが、
もし負けていたら、奴国あるいは伊都までクマソタケルに制圧されるところだったわけだ。
景行激怒。 >>586
>先代旧事本紀に、ニギハヤヒの遺体を畿内から高天原=倭国へ引き取って埋葬したとある。
これは知らなかった。
ただし饒速日は天照国照の称号を持ち、天照大神と大国主の両方の権威を継承した大王だよ。
当時は兄弟相続で邇邇芸に王権が継承されたのだろう。
ちなみに天照が男なら、天照からスサノオも兄弟相続。
海幸山幸も兄弟相続。
神武はウガヤフキアエズの末子。
神武の息子らも、王権を継承したのは末弟。
つまり饒速日は東征将軍ではなく倭王。 >>589
>つまり饒速日は東征将軍ではなく倭王。
その線は自分も考えた。
しかし、考古学的には饒速日とは銅戈を奉じて戦っている。
その根拠については、考古学と文献をすり合わせて
何度か書きこんでいるので、それを参照していただきたい。
考古学的には、倭王とは銅矛祭祀。
銅戈は明らかに銅矛より下の身分となっている。
よって、饒速日は本州攻略で大活躍したものの、
源氏や平氏と同じく、臣籍降下していたものと考えられる。 >>588
想像力豊かだが、肥前の伝承とは違う。
もともと熊襲梟師は筑紫野にいたとされている。
4世紀にはすでに王都は伊都ではなく、内陸に移っていた。
梟師の称号は神夏磯姫と同じであり、太宰の帥にも通じる、九州の覇者、倭国王の称号だろう。
熊襲梟師が討ち取られた王宮は、まさに壹與が鎮座していた河上神社の近郊であり、熊襲梟師、壹與、神夏磯姫、卑弥呼は全て同族の倭王だ。 >>590
それも違う。
大和において神武と饒速日は邂逅し、天羽羽矢を見せ合ってともに天神の子であることを確認している。
そもそも神武は饒速日を頼って伊都を脱出しており、大和においては饒速日の方が立場が上だったろう。
後世においても、饒速日の末裔の物部大連は、神武の末裔の大王家に引けを取らない権力を保有していた。 >>591
与止日女神は後世の神功皇后の妹。
壹與とは時代が違う。
熊襲梟師、壹與、神夏磯姫、卑弥呼は全て倭王の血を引く同族だね。 現代の男系後継問題と同じで、
ニニギがコノハナサクヤヒメを娶りながら、
姉のイワナガヒメを返したというのが問題。
北部九州説によると、三雲南小路遺跡の王墓と妃墓がニニギになるようだが、
夫婦そろって仲良く埋葬されているわけだ。
イワナガヒメを返したのは、外見上の問題ということになっているが、
実はニニギという人物は、古代の王にしては珍しく、
コノハナサクヤヒメだけを愛して、
妾を取らなかったのではないか?
一方の兄である饒速日は、臣籍降下して身軽になり、
東征将軍として国の威を使って冒険三昧。
北部九州の女性たちはもちろん、
ナガスネヒコ=唐津鍵の首長を初めとして、
港々で愛人をこしらえて、大量の子孫を残した。
本来の倭王たるニニギの血統は、
ニニギの純愛によって、男系子孫が枯渇し、
饒速日のこさえた大量の子孫の助けを借りざるを得ない状況になったことが、
種々の頭痛の種となったのではないか。 神功皇后の妹とされるようになるのはもっと後世の習合なんだよ。
詳しくはググってくれ。 >>590
天神の子であって、天孫ではないわけだ。
神武は饒速日を頼ってなどいない。
倭王とはあくまでもニニギの系統であり、
ニニギの系統である証を見せたからこそ、
単なる天神の子であって、既に臣籍降下した饒速日(の子孫)はひれ伏して
ナガスネヒコ(オオモノヌシ)を誅したわけだ。 >>594
>一方の兄である饒速日は、臣籍降下して身軽になり、
>東征将軍として国の威を使って冒険三昧。
>北部九州の女性たちはもちろん、
>ナガスネヒコ=唐津鍵の首長を初めとして、
>港々で愛人をこしらえて、大量の子孫を残した。
この辺りはかなり同意する。
大王としてはかなり風来坊だな。
王都を放り出して開拓最前線の大和まで行くくらいだから。
>ニニギの純愛によって、男系子孫が枯渇し、
海幸山幸が兄弟喧嘩するくらいだから、男子が不足していたと言うことはあるまい。 >>597
>海幸山幸が兄弟喧嘩するくらいだから、男子が不足していたと言うことはあるまい。
逆で、
ただでさえニニギ直系の倭王男子が不足しているのに、
こともあろうか海幸山幸が兄弟喧嘩してしまった。 >>596
塩土爺から饒速日についての話を聞いて神武は東征した。
饒速日がナガスネヒコを殺したのは、自分の命令を聞かなくなったからであり、神武に恭順したからではない。
饒速日もまた天照の孫であり、天孫だ。
邇邇芸の王統が正統というのは、後世から見た補正が入った結果論で、神武の時代においては確定事項ではない。 >>599
うーん。
饒速日を考古学的に当てはめると、銅戈。
大国主=八千矛神は、中広型銅矛。
広型銅矛が、国譲りを受けた後の、日向三代の倭王。
考古学的には、銅矛>銅戈の身分序列なので、
銅戈は活躍すれども、倭王ではなかったと考えるのが自然なわけだ。 >>598
それこそ、邇邇芸の王統が途絶えても、饒速日の子のウマシマジらも控えているし、天照の子孫なら出雲国造家や、大ヤマツミ(これも志賀島にいた天照の末裔)の家系もあるので、王統はいくらでもあった。 >>600
あくまでも饒速日の身分の証は十種の神宝と天羽羽矢だよ。
臣下が持つ伐ではない。
十種の神宝の中の沖津鏡と辺津鏡は籠神社に伝世している。
三雲南小路や平原遺跡と同じで、内行花文鏡だよ。
これこそ倭国王権の象徴。 ウマシマジはダメでしょ。
臣籍降下した饒速日と、こともあろうか畿内の首長の妹との子孫だから。
饒速日は、倭王ニニギの兄だから内行花文鏡も持っていて偉いけど、
倭王ではないわけで。 紀元前の吉武高木王の時点で、
越の石剣部族の八岐大蛇に勝利して、
丹後に扇谷遺跡を建設して、
日本海沿岸を筑紫倭王が支配している。
硯や鉄器が分布。
0年くらいに那珂川奴国のイケメンお坊ちゃんである大国主が
日本海沿岸各地の首長と血縁を結んで、国力を奴国へ集中し、
その国力を背景にして、
銅剣オオヤマツミの主な領域である瀬戸内海沿岸へ出陣。
中広型銅矛が淡路島に上陸したあたりで、
銅剣オオヤマツミが降伏して、瀬戸内海沿岸の銅剣地域が丸ごと奴国大国主の支配下となった。
(だから大国主
その時の降伏調印儀式が、
大国主の最大の荘園である、出雲で行われたのが荒神谷遺跡など。
大国主は淡路島に舟木遺跡を建設して、
オオヤマツミは瀬戸内海沿岸に高地性集落を建設して、
森林から炭を生産して舟木遺跡へ輸送。
大国主も鬼じゃないから、オオヤマツミへある程度の鉄器は融通した。 吉武高木の宮殿に、
倭王大国主が須久岡本から通っていたのかもしれないし、
実は倭王はいて、
大国主は将軍か関白だったのかもしれない。
漢の楽浪郡からは、三雲に外交官派遣。
漢代伊都までは末蘆国から陸行五百里(東夷伝里
57年金印授与時の倭国中心地は、
大国主のいる須久岡本で、郡から総計一万二千余里。 先代旧事本紀では天照国照という、倭王としての称号を与えられている。
記紀は天孫族から見た歴史という補正が入っているんだよ。
畿内の首長の妹を娶ったといっても、その祖父はやはり筑紫の倭王である大山祇(語義は大国主、地祇と同じ)である。
決して低い身分の家系ではない。
邇邇芸-神武を正統とする万世一系説はあくまでも後世の修飾である。 大国主は失脚する。
(奴国那珂川流域に住居工房が乱立して森林伐採し、大規模土石流が発生
大洪水に見舞われた奴国には疫病が蔓延。
壊滅的な様相を呈する。
本来の倭国王の男系である五皇子のうち、
オシホミミの息子であるニニギに倭国再建が託され、
ニニギは高祖山の西側に伊都建設。
難民流入を制限し、千戸限定。
オオヤマツミの娘を娶り、淡路島鉄工所経営権を引き継ぐ。
オオヤマツミの依頼にて、
兄の饒速日は淡路島鉄工所を強化すべく東征。
内陸のナガスネヒコ=唐古鍵首長と血縁同盟。
(銅戈兵図
(天磐船図
(巨大翡翠結納
沿岸集落をナガスネヒコと挟撃して、大阪湾住吉上陸。
五斗長垣内遺跡を新設し、
大阪湾を新規占領して、
オオヤマツミ領土の瀬戸内海沿岸から、
大阪湾沿岸に森林伐採をシフトする。 大ヤマツミは又の名を和多志大神と言い、海の神である。
その本貫地は博多湾の志賀島の綿津見神社である。
愛媛や大阪は、倭国の拡大により諸般の事情で移動したもの。
元々は山の神(ヤマツミ)と海の神(ワダツミ)を兼ねた、博多湾沿岸の大王である。
このあたりの陸海長としての呼称は、天照国照饒速日(天は海に同義)などと通じるものがある。
天津神(海上勢力)と国津神(陸上勢力)を統合するのが倭国王なのである。 何度も書いているので簡略化するが、
饒速日は大阪湾上陸の他にも、
安芸広島上陸
越後タケミナカタ攻略→諏訪侵攻を果たしている。
プレイボーイの饒速日の九州最高位の妻が、あのお方。
憚られるので明記しないが、これまで何度か書いてきた。
その子孫が、丹後一大率長官となり、太田南古墳群を形成。
その一族から出たのが、卑弥呼なわけだ。
太田南古墳群1号墳は卑弥呼の父親で、方形周溝墓の木棺墓。
邪馬台国期に築かれる、四隅突出墓は、丹後を越えて富山まで分布するのに、
肝心の丹後若狭湾には太田南古墳群が聳え続ける。
つまり、四隅突出墓とは、
伊都筑紫王配下の丹後一大率長官によって任命された、
日本海沿岸の行政官なわけだ。 >>608
オオヤマツミはオオヤマツミ。
北部九州部族のうち、早期から東方進出した部族。
日本海沿岸から瀬戸内海沿岸まで幅広く活躍した。
紀元後は瀬戸内海に銅剣文化圏を形成。
大国主の東征に下る。
オオワダツミはオオワダツミ。
志賀島を本貫とする海龍部族。安曇族。
オオヤマツミと倭国王外戚の座を争い、倭国乱を引き起こした。 >>607
>沿岸集落をナガスネヒコと挟撃して、大阪湾住吉上陸。
ここは誤り。
摂津の開拓は大ヤマツミの息子の三島溝杭耳が行なった。
その末裔が登美のナガスネヒコや鴨主であり、大阪の三島神社、京都の上賀茂・下鴨神社、奈良の鳥見神社など全て勢力範囲だ。
この鴨一族の姫であるホトイスケヨリ姫を神武が娶ることで、神武の大和における立場が保証された。
また、饒速日はホトイスケヨリ姫の叔母にあたる玉依比売を娶っている。 >>606
長くなったけど、卑弥呼は饒速日の男系女王なわけだ。
これも詳しく言うと卑弥呼様に睨まれるから、
簡単に言うと、
魏志倭人伝には、当時の倭人は文身を入れていて、
一目で出身地や身分がわかるようになっていたという。
では、饒速日の子孫は、、
倭王だったならなぜ、、、
ただ男子一人だけが、、、 饒速日の頃=大阪湾上陸作戦とかは、まだ倭王継承権を保持していたわけだ。
その後いろいろあって、
日本海側に回って、越後諏訪攻略戦に移る頃には、
天火明命=臣籍降下したのだろう。
つまりは、北部九州倭国の超上流家系のあの女性を娶るために。 >>609
>プレイボーイの饒速日の九州最高位の妻が、あのお方。
ぜひ書いてくれ。
>太田南古墳群1号墳は卑弥呼の父親で、方形周溝墓の木棺墓。
一理ある。
>つまり、四隅突出墓とは、
>伊都筑紫王配下の丹後一大率長官によって任命された、
>日本海沿岸の行政官なわけだ。
若き邇邇芸王に実権はないから、祖父の天照の次男であった天穂日から始まる出雲氏(後の出雲国造家)の墓だろう。 >>611
それはおそらく、
饒速日と共に、大阪湾上陸を果たした後に、
>摂津の開拓は大ヤマツミの息子の三島溝杭耳が行なった。
ではないかと。
高地性集落を建設。
末裔が鴨一族なのは矛盾しない。
が、おそらく日本海側から琵琶湖経由で入っている。
先行した有力氏族の姫を、後から東征してきた神武が娶ったということだろう。 鴨一族が饒速日より格下なのは明言されているが、それだけでは畿内一帯の鴨一族の勢力が強すぎる。
鴨一族が開拓したところへ、饒速日が来たのだろう。
鴨一族の権威は大ヤマツミから継承しているので、筑紫における天孫邇邇芸>大ヤマツミの格差が、大和においては天孫饒速日>鴨王・長髄彦に反映されているのだろう。 >>614
四隅突出墓はニニギの時代ではない。
卑弥呼の時代。
北部九州邪馬台国領にはヒナモリ=官吏を配置し、
日本海沿岸倭種に四隅突出墓=官吏を配置した。
甕棺豪族を廃止し、王墓は平原女王墓に集権。
中央集権を推し進めることによって、国力が集中して、
狗奴国相手に優位に戦い、勝利した。 >>618
>四隅突出墓はニニギの時代ではない。
>卑弥呼の時代。
だから、天穂日の「末裔」だと書いた。 >>617
でしょうね。
長髄彦は饒速日と血縁を結ぶことで、大物主となって、
近畿一円に神武に滅ぼされるまでの短期であるものの、国家を形成した。
饒速日の銅戈軍勢は、長髄彦領土を通過して、
愛知に朝日遺跡を建設もしくは、占領。(銅戈、銅鐸、巴型銅器 長髄彦は殺されたが、鴨一族は存続し、第2代天皇は登美家のホトイスケヨリ姫の子である。 鴨一族はむしろ、奈良盆地よりもさらに開発が遅れた京都盆地を本拠としたからこそ
余計な戦いに巻き込まれずに存続した。
瀬戸内海が倭国乱で荒れて淡路島鉄工所が使えなくなり、
代替に琵琶湖稲部遺跡に鉄工所を建設した時も、
京都盆地は微妙に蚊帳の外。
その後、奈良盆地に藤原京や平城京が建設される時も、
京都盆地は微妙に遠い。
京都盆地へ遷都しようという時になって初めて、
天皇家と鴨一族が現実的に協力することになり、
いきなり首都候補地の有力者としてクローズアップされて
政権内で重宝されることになったわけだ。 鴨一族がオオヤマツミの末裔と言うのは初めて聞いたが、非常に面白い。
オオヤマツミというのは、スサノオ神話にもある通り、
かなり早くから東方進出していた部族。
その血縁が、東方に展開していたというのは十分にありうる話であるわけだ。
オオヤマツミも倭王かどうかはともかくとして、
北部九州倭人の部族であることは確実であって、
鴨もまた、
吉武高木の賀茂の頃には、筑紫倭国の政治に参加していたのであろうし、
福岡県嘉麻市などに名残りを残しつつも、
大国主の東征や、ニニギ饒速日に押されて、畿内へ軸足を移していったのだろう。 【葛城鴨王家の系譜】
大和国葛城にいた古代氏族の系譜。
その祖は博多の王である大山祇の子であり、摂津に鎮座する三島溝杙耳(陶津耳)である。
その息子は登美に移住して神武と戦った長髄彦であり、娘は活玉依姫である。
出雲の国譲りの後に大和に移住していた事代主は三輪山の神となっていたが、活玉依姫に娘と息子を生ませる。
娘は後に神武の妃となるイスケヨリ姫(五十鈴姫)であり、息子は天日方奇日方(櫛御方)である。天日方奇日方はまたの名を鴨主という。
天日方奇日方の曾孫が太田多根子となる。
この家系には別の伝承がある。
飛鳥大神の娘である登美夜姫が、高天原からやってきた天照の孫であるニギハヤヒとの間に生んだ子が、物部氏の祖であるウマシマジである。
登美の長髄彦は、神武との戦いの中で「自分は天神の子であるニギハヤヒに仕えて妹をニギハヤヒに娶らせたが、どうしてまた天神の子と称するものが来て土地を取ろうとするのか」と言っている。
とすると、登美夜姫と活玉依姫はともに長髄彦の妹ということになる。
いずれにしても、大和国の主だった勢力はいずれも筑紫か出雲、高天原にその起源があることになる。 【葛城鴨王家の系譜】
大和国葛城にいた古代氏族の系譜。
その大祖は博多の王であった大山祇の子であり、古代は越の石剣八岐大蛇部族に劣勢であった。
吉武高木の筑紫倭王が歴史に登場し、
その王族東征将軍であるスサノオが出陣して八岐大蛇部族に勝利し、
田熊石畑遺跡に基地を築いて日本海沿岸を支配した。
スサノオと懇意にした大山祇は、筑紫から日本海沿岸をスサノオに譲り、
瀬戸内海沿岸を開拓していく。
大国主中広型銅矛が登場し、大山祇はこれと敵対して降伏。
雌伏を余儀なくされる。
大国主が晩年に失脚した期を逃さず、
倭王家に一族の娘「コノハナサクヤヒメ」を嫁がせることに成功。
饒速日銅戈が大阪湾上陸し、この時に大阪湾沿岸の開発を任されたのが、
摂津に鎮座する三島溝杙耳(陶津耳)である。
その息子は登美に移住して神武と戦ってしまった長髄彦であり、娘は活玉依姫である。
出雲の国譲りの後に大和に移住していた事代主は三輪山の神となっていたが、活玉依姫に娘と息子を生ませる。
娘は後に神武の妃となるイスケヨリ姫(五十鈴姫)であり、息子は天日方奇日方(櫛御方)である。天日方奇日方はまたの名を鴨主という。
天日方奇日方の曾孫が太田多根子となる。
この家系には別の伝承がある。
飛鳥大神の娘である登美夜姫が、高天原からやってきた天照の孫であるニギハヤヒとの間に生んだ子が、物部氏の祖であるウマシマジである。
登美の長髄彦は、神武との戦いの中で「自分は天神の子であるニギハヤヒに仕えて妹をニギハヤヒに娶らせたが、どうしてまた天神の子と称するものが来て土地を取ろうとするのか」と言っている。
とすると、登美夜姫と活玉依姫はともに長髄彦の妹ということになる。
いずれにしても、大和国の主だった勢力はいずれも筑紫か出雲、高天原にその起源があることになる。 魏志倭人伝も解読されたし、
記紀との接点もわかってきた。
考古学的にも北部九州説を補強する新発見が相次ぐ。
あとは、銅鐸と甕棺墓だな。 >>604
>高級住宅地と工業地帯は離れている方がいい。
なんでそこまで離さんといかんのかね? そこまで離す妄想を是非、聞きたいんだがw @阿波 >古墳は墳形の規格が埋葬者の出身家系を
意味するという。
先日のNHKでは、方墳は飛鳥時代蘇我稲目の都塚古墳から突然始まると放送されていたが
蘇我氏の本拠地とされる徳島県石井町の曽我氏神社古墳群にはそれに先立ち、古墳時代前期に既に10m×12mの方墳(2号墳)が確認されている。
このことから、方墳墓は蘇我氏一族専用の墓型であった可能性が高い。 @阿波
[石井町/曽我氏神社古墳群]
http://awakouko.info/modules/xpwiki/?%C0%D0%B0%E6%C4%AE%2F%C1%BE%B2%E6%BB%E1%BF%C0%BC%D2%B8%C5%CA%AF%B7%B2 「樋口遺跡」 弥生時代終末期の集落遺跡
眉山の南西の麓、園瀬川の自然堤防上に営まれた集落遺跡。1983年(昭和58年)以降数次にわたる発掘調査により、弥生時代の終末期の竪穴住居跡や奈良時代の掘立柱建物跡などが見つかっている。
竪穴住居跡からは土器や石器など多数の遺物が出土しており、中でも東阿波型土器が多く含まれる点は遺跡の大きな特徴である。
そのほか注目すべきは、赤い顔料である朱が付着した土器が多数出土していることである。これらの土器の分布範囲は広く、人々の交流が活発であった様子がわかる。
樋口遺跡の集落内には、幅広い交易に関わった人々が暮らしていたのであろう。 @阿波
樋口遺跡 http://awakouko.info/modules/xpwiki/?%C6%C1%C5%E7%BB%D4%2F%C8%F5%B8%FD%B0%E4%C0%D7 「水銀朱の精製工房跡か」「加茂宮ノ前遺跡 石器や辰砂出土」 徳島新聞 2017年2月23日
徳島県教委と県埋蔵文化財センターは22日、阿南市加茂町の加茂宮ノ前遺跡で見つかった弥生時代中期後半〜古墳時代前期初頭(1〜3世紀)の竪穴住居跡の内外から、
古代の赤色顔料の水銀朱が付いた石器15点と水銀朱の原料の辰砂原石10点が出土したと発表した。
遺跡の南西約5キロには辰砂の採掘遺跡として全国で唯一確認されている若杉山遺跡があり、同遺跡に関連する水銀朱の精製工房跡とみている。
辰砂は硫化水銀の鉱石で、これを原石から取り出して精製した水銀朱は、古墳時代初期を中心に棺内部や死者の体に塗るなどして使われた。 防腐剤としての役目のほか、死者の魂を鎮める目的もあったとされる。
出土した石器のうち、石杵8点(全長約10〜23センチ)は辰砂を砕く際に使われ、磨石2点(10センチ四方)は擂りつぶすときに用いられた。石臼1点(縦20センチ、横17センチ)はその土台だったとみられる。
それぞれに水銀朱が付着している。辰砂原石は全長2〜5センチ。石器と原石は5棟ある竪穴住居跡のうち3棟の内部や周辺で見つかった。一部が埋まった状態で、捨てられたとみられる。
精製に伴って出る石片などがないため工房は特定できないが、工房があった集落と断定した。
弥生時代後期〜古墳時代初期(3〜4世紀)の若杉山遺跡からは、辰砂採掘に伴う石くずや精製用の石器が出土している。
水銀朱は奈良や大阪など各地の有力者の墓で使われており、徳島産だった可能性があるが、出荷先などは分かっていない。 @阿波 1、はじめに
芝遺跡は四国、徳島県南部海岸沿いの海部郡海陽町(旧海部町)芝・野江に所在する。
阿南室戸国定公園内の海岸沿いに位置し、高知県との県境に近い。
芝遺跡は、現在の海岸線より約2キロメートル程内陸に入り、海部川の右岸、母川とに挟まれた沖積平野の微高地および尾根の先端付近に位置する。
海部川の河口では砂堆が発達し、ラグーンを形成していたと考えられ、郡内一の沖積平野を形成している。(海部町史1971、寺戸1995)
2、調査成果
芝遺跡では3面の遺構面を確認した(3)。
第1遺構面は中世にあたり、13世紀後半〜14世紀中頃にかけての屋敷境溝を持つと考えられる掘立柱建物跡や土壙墓などを検出した。
このうち、土壙墓は屋敷墓と考えられ、海部刀短刀・土師器杯・皿が出土し、13世紀後半頃と推定できる。
第二遺構面では弥生時代後期〜古墳時代前期前半頃にかけての竪穴住居や溝、旧河道等を検出した。
旧河道からは外来系土器が多数出土している。
第3遺構面では弥生時代前期後半以降頃以降の遺構と遺物を検出した。
中期中頃〜後半にかけての円形周溝墓を4基検出し、
時期が確定できる円形周溝墓としては、県内初出となった。
この内、円形周溝墓1は直径約11メートル、溝幅が最大約2メートルを測り、陸橋を持つ。出土遺物は陸橋周辺に集中して出土しており、
結晶片岩を含む吉野川下流域産と考えられる土器がほとんどを占め、若干の在地土器が混じる。
この他、周溝墓の可能性のある溝も検出しており、この時期の集落内墓地であった可能性が考えられる。
また、弥生時代後期中頃と推定される竪穴住居では、炉跡内から鉄切片・小破片が出土し、炉跡底面に焼土面が広がっていた。
そのため、本炉跡は鍛冶炉跡と推定され、U類(村上1998)にあたると考えられる。
この他、サヌカイト片や特殊なものとして朱付着石杵も出土しており、この朱は水銀朱であることが確認されている。
したがって、竪穴住居では石器・鉄器・朱を扱う工房跡であった可能性が指摘でき、阿波南部地域に鉄・朱が伝わっていたことを実証できる好資料である。 @阿波
敵が攻めてくるのは収穫期だ。
稲作だから10月。
弥生時代には基本的に職業軍人はいないから、
(倭国にはいたかもしれん=甕棺墓戦士)
敵もまた、農業を営んでおり、
農繁期は軍事行動を起こせない。
また、収穫期が過ぎると、稲は全て環濠集落の中の倉庫へと貯蔵されるため、
攻め込んでも籠城されて、効率が悪い。
例外はあるかもしれんが、
基本的には10月だけ。
あるいは冬の間だけ守っていればいい。 銅鐸は九州に普及していない。
もし稲作で使う時報だったり、
便利な利器であれば、九州でも使ったはず。
しかも、青銅器としては大きい部類に入るので、青銅原料を入手するために
北部九州を通過している筈であり、
基本的には北部九州倭人や倭種が銅鐸を作っていたと思われる。
淡路島で舌が見つかったし、内側に摩耗痕があることから、
銅鐸は鐘のように鳴らして使用していたことが判明している。
では、なぜ九州ではほぼ全く使われず、
あちこちに出土するのか。 北部九州倭国、あるいは倭国から海運ですぐの地域、
であれば、強大な倭国水軍が常駐している。
が、遠方へと開拓した倭人集団はどうか?
先行して稲作をしていた現地集落に襲われる危険性があるわけだ。
北部九州倭国から、遠く突出して集落を形成した場合、
倭国兵は守ってくれない。
よって、小高い位置に銅鐸と見張りを置き、
周囲の集落から略奪集団がやってきたら、銅鐸を打ち鳴らして
全員避難して防御を固めたわけだ。 倭国兵がいる九州本国や、
倭国兵がすぐ駆け付けることのできる瀬戸内海西部などは
銅鐸が必要ない。
狼煙をあげて、兵がすぐに出陣する、あるいは攻められることなどなく、
むしろ攻めて略奪する側。
日本海沿岸は、
弥生早期には、吉武高木王が越の八岐大蛇部族と戦っていたので、
孤立した開拓集落は銅鐸を必要とした。
しかし、扇谷遺跡を経営して
沿岸の支配を確立すると、
(倭人倭種にとっての)治安が維持されて、銅鐸が必要なくなっていったわけだ。 銅剣祭祀のオオヤマツミも、
初期は倭人以外の集落からの来襲に備えるため、
また、後には、中広型銅矛大国主と戦争状態に入り、
その襲撃に備えるため、銅鐸を必要とした。
播磨に銅鐸が少ないのは、
当時のオオヤマツミの拠点の一つが播磨にあり、
(大量の青銅器を保有していたのだから、本当の本拠は北部九州にあっただろうが)
播磨にはオオヤマツミの主力兵団がいたので、銅鐸は必要なく、
もし攻めてきたら、狼煙を上げて、迎え撃っていたのだろう。 大国主が失脚して、
銅戈饒速日が大阪湾攻略や諏訪攻略をするわけだが、
近畿式銅鐸は、饒速日が新たに入植して孤立した集落へ、
三遠式銅鐸は、大国主タケミナカタ系の集落が、
それぞれ使用したのだろう。
前者は勝者なので、攻めることが多く、
あまり使われなくなって、祭器化大型化していく。
後者は敗者なので、使われた痕跡があり、次第に追いつめられて
先に消滅する。 銅鐸が無くなったのは、倭国による征服が広範囲に及び、
つまりは倭国の集落を襲う敵がいなくなったことを意味する。
弥生時代のJアラート。
なんで埋納したかというと、
一年間のうちで使用するのは、収穫期に限定されるため、
他の時期は埋めておくことで、錆びて劣化するのを防いだのだろう。
山頂にないのは、落雷の危険があるから。
あるいは眺望に最適な場所を選んだためか。 九州は小型の銅鐸が数個は出ているし
鋳型も出ているが、
そんなに流行った形跡はないね。
結果的には九州ではあまり興味を
引かなかったのだろう。 銅矛文化圏に押し潰されて銅鐸文化圏は消滅したのだろう。
記紀神話でも各地の祭祀でも銅矛は継承されているからね。
現在の日本文化は銅矛文化圏に属している。 >>631
>>601
3、旧河道出土資料について
旧河道からは弥生時代終末頃〜古墳時代前期前半頃にかけての外来系土器が多く出土した。
報告書では旧河道をそれぞれ溝12164、溝33239〜溝33241、溝33244とし、主に上層と下層に分けて、遺物の取り上げを行った。
特に溝12164は幅5m以上、深さ1.1mを測り、大きく上層・中層・下層の3層に分層できた。
下層から布留甕1個体が出土し、上層からは東阿波型土器や布留式土器がまとまって出土しており、時期差の可能性が考えられる出土状況が確認できた。
図3は旧河道出土土器の内、実測し、報告書に掲載している個体総数の内訳を表したものである。
この割合が遺跡全体の割合を表しているわけではないが、参考として提示した。
実測総数196個体に対して、
阿波97個体で48%、畿内39個体で20%、在地36個体で18%、讃岐7個体で4%、土佐3個体で2%、吉備3個体で2%、産地不明が12個体で6パーセントである。
約半数が阿波(東阿波型土器を含む吉野川下流域)の土器で占めており、次いで畿内系土器、在地時の出土数が多い。
讃岐や土佐、吉備の出土数は数%に留まる状況を示している。 @阿波 >>641
>>605
芝遺跡では弥生時代前期後半頃には吉野川下流域や紀伊からの搬入品が認められるが、
特に吉野川下流域土器は弥生時代を通じて恒常的に出土すると考えられる。
弥生時代終末頃になると吉野川下流域時の他に、畿内・讃岐・土佐・吉備からの搬入品が認められるようになるものの、
普遍化した出土状況は見られない。
古墳時代前期前半頃になると吉野川下流域時が主体であることに変わりはないが、一定量の畿内系土器の搬入が認められる
ようになる。
以上のような搬入土器の出土状況や共伴関係の検討から、
吉野川下流域の搬入時を主体とし、複数地域からの搬入土器が混在する第一段階(弥生時代終末頃〜古墳時代初め頃)。
吉野川下流域地域の土器・畿内系土器が主体となる第二段階(古墳時代前期前半頃)に分類することができると考えられる。
第一段階は伝統的な交流からの脱却の揺籃期、第二段階は交易ルートの確立を意味し、この現象は吉野川下流域、
なかでも鮎喰川下流域集団の影響が大きく、朱を媒介として交流が盛んに行われていたものと考えられる。
朱の搬出や食料供給に阿波南部地域集団が関係(菅原1992、岡山 2002)していたことを示す資料である。 @阿波 >>642
4、周辺の遺跡の様相
本地域は発掘調査がほとんど行われていないため、資料数が少ないが、海部川河口砂堆に所在する大里松原神社遺跡において
若干の土器が採集されている。
東阿波型土器や下川津B類時が出土しており、在地産土器と外来系土器が混在する状況を示している。
時期は大きく弥生時代後期後半と古墳時代前期初頭の2時期に分かれ、
この在地土器と外来系土器の混在する状況が、本地域の特徴であると意義付け、海人の存在が想定されている。(菅原1992)
この他、吉野川下流域地域で畿内系土器が出土しているのは黒谷川郡頭遺跡(菅原1989)や石井城ノ内遺跡(日下1999)などに
限られ、出土点数も数点しかない現状では、阿波南部地域の特異性が窺える。 @阿波 >>643
5、まとめ
芝遺跡は阿波南部地域で数少ない発掘調査を行った遺跡である。
県内では珍しい円形周溝墓をはじめ、竪穴住居等の遺構や弥生時代前期後半以降の土器・石器も出土し、
本地域の集落形態の一様相が確認できた遺跡である。
また、弥生時代終末頃〜古墳時代前期前半頃にかけての搬入土器がまとまって出土したことから、
出土状況・共伴関係の検討を行い、各搬入土器の搬入時期のピークを探った。
土器の搬入には鮎喰川下流域集団の関与が想定され、一連の動きに若杉山遺跡(岡山1997)の朱が関わっていると考えられる。
本地域の発掘調査事例が芝遺跡に限られる現状では、搬入土器が普遍的に出土するのか、芝遺跡の特異性なのか、判断しがたいが、
大里松原神社遺跡においても搬入土器が認められることは、
本地域に一定量の土器が搬入される状況があったことの傍証になるものと考えられる。
芝遺跡は土佐ー阿波ー畿内を結ぶ四国東岸海岸沿い太平洋ルートを想定できる遺跡であり、
海上交通に際しての人・物が集中する拠点集落であったと考えられる。 @阿波 >>640
銅矛文化圏というのは銅矛祭祀を行う文化圏のことだが、
その圏内にも多数の銅鐸が出土している。
紀元前に、日本海沿岸は統一された。
だから銅矛は日本海沿岸に分布する必要はなく、
瀬戸内方面へと進出する。
さらに、中広型銅矛の時には淡路島まで統一されたから、
銅戈は更に先の大阪湾沿岸にしか拡大する必要が無い。
銅矛祭祀や銅戈祭祀は、北部九州倭人の祭祀だろう。
銅鐸は祭祀などではなく、
北部九州倭人が勢力拡大するにあたっての、
一番辺境の集落。
つまり、敵地真っ只中に入り込んで、倭国本国の兵力が及ばない
突出した集落において、
農作業などしている集落民に、敵襲を知らせるJアラート。
一見すると、北部九州倭国が銅鐸勢力を滅ぼしていってるように見えるが、
そうではなく、
北部九州倭国の勢力圏の最も辺縁の危険地帯の集落に配備されたJアラート。 例えば高地性集落。
銅鐸も小高い場所に埋納されることが多いのに、
同じく高所に作られた大量の高地性集落からは銅鐸が出ない。
なぜなら、高地性集落は、
北部九州倭国が瀬戸内沿岸などを制圧して、
森林から炭を生産して、淡路島で鉄加工の燃料として供給するための施設であり、
安全が保障されているから。 稲作開始以降、北部九州からの東征は何波にも渡っており、
後から来る波は、先に入植した者達との軋轢を生んだわけだ。
場合によっては、
敵対する勢力同士の、お互いの最前線集落がそれぞれの銅鐸を使用しているという
状況もあった。 神無月には全国の神様が出雲に集まる。
神無月は10月だが、旧暦10月は現在の新暦11月。
つまり新暦10月に収穫して、倉庫に入れ終わった時期に当たる。
収穫した稲を「稲荷」にまとめて、
倭国本国への年貢を持参して、各地の豪族が集まったわけだ。
中央豪族だけでなく、日本海倭種豪族も集まるから、
吉武高木の宮殿に上がることは出来ず、
スサノオ=東方制圧将軍=一大率の前身の拠点である、宗像田熊石畑遺跡に集まった。
そしてそこで、重要な政略結婚などを皆で協議した。
弥生時代に翻訳すると、
神無月には倭種の各地豪族が稲荷を持って出雲=宗像田熊石畑遺跡に集まる。
ちなみに日本海沿岸倭種地域からの稲荷は
稲場=鐘崎に一旦陸揚げ。 大国主が整備したのだろうな。
筑紫〜日本海沿岸の有力者の娘を娶って争いを無くして、
ヒナモリ卑奴母離=夷守=事代主=恵比寿を各地に配置して、
稲荷を集めるシステムを構築した。
奴国へ国力を集中するシステムを作ったことで、
瀬戸内海沿岸へと倭国支配域を広げていった。
というより、先行していたオオヤマツミ銅剣勢力を屈服させた。
吉武高木アマテラスにとっての、東征将軍スサノオが、
大国主にとっては、辺境征服担当タケミナカタであり、
タケミナカタは領地を離れるわけにはいかないし、
むしろ敵と面していて、兵糧を送ってもらう側だから、
タケミナカタは神無月に出雲に行かなくていい。
現地で戦っていなければならない。 倭人は辺境の倭人倭種集落、あるいは、倭人に友好的な非倭人集落などに、
環濠集落の建設ノウハウを伝授した上で、
Jアラートとして、銅鐸を配ったわけだ。
遠いと守りきれないから。
襲撃されるのは、新暦10月の収穫期。
それより前だと、襲撃する側だって農作業が忙しくて動けない。
それより後だと、収穫物を環濠集落内の倉庫に貯蔵し終わっているから籠城できる。
だから銅鐸は新暦10月旧暦9月の1か月間だけしか使わないわけで、
それ以外の時期は錆びたりしないよう土中に埋納していたわけだ。 >>645
>一見すると、北部九州倭国が銅鐸勢力を滅ぼしていってるように見えるが、
>そうではなく、
>北部九州倭国の勢力圏の最も辺縁の危険地帯の集落に配備されたJアラート。
うーん、新説だけど、考古学的には支持は得られているの? >>651
考古学的には用途不明のはず。
一応の名目としては、収穫を祝う祭器というのがポピュラーですかね。
けど、それだと
山の斜面に埋められていることが説明できない。
銅矛銅戈勢力が銅鐸集落を占領したとして、
なんで銅矛や銅戈と一緒に銅鐸を埋納するのか?
略奪して溶かして銅矛銅戈を作る方がいいいはず。
何よりも、
特に祭器として大型化した銅鐸など、
銅鏡に比べても結構な体積を誇る青銅器なわけで、
北部九州によって征服される側であれば、原料を確保できないわけです。
発想の転換と言うか、
むしろ、北部九州倭国によって授与される利器。
警備兵が常駐していない辺境地域における、
Jアラート。
これが最も有力だと思われます。 >>652
>北部九州によって征服される側であれば、原料を確保できないわけです。
>発想の転換と言うか、
>むしろ、北部九州倭国によって授与される利器。
なるほど。
材料については既存の説では説明できませんね。
銅の材料は九州か半島・大陸に頼るしかないですからね。
技術的にもオーパーツすれすれですね。
銅鐸の九州北部の協力が不可欠と。 荒神谷遺跡は、
中広型銅矛大国主と、平型銅剣オオヤマツミが戦争をして、
オオヤマツミが折れた。
大国主が、オオヤマツミ降伏の返答として、
親オオヤマツミの集落に対して、銅鐸を授与した。
あるいは、
オオヤマツミ降伏によって、
親オオヤマツミの集落にオオヤマツミが分配していたのと同范の銅鐸を献上して、
丸ごと大国主の配下に入った。 あちこちに同伴銅鐸があるけれども、
特に注目するならば、
やはり淡路島に荒神谷遺跡の同范銅鐸があることであって、
大国主の中広型銅矛奴国軍勢が淡路島に上陸したなら
対襲撃用のJアラート銅鐸は必要ないのだから、
荒神谷遺跡の銅鐸はやはりオオヤマツミが
各地の親オオヤマツミ集落に配っていた銅鐸であって
これをもって淡路島は奴国大国主の支配下に入り、
銅鐸など必要ない、
北部九州倭国兵常駐の大規模鉄工所へと開発されていくことになったわけだ。 どすこい、どすこいっと あ〜、それからどした あ〜、こりゃこりゃ 僕たちが愛してやまなかった北部九州倭国説が、粉々に、木っ端みじんに論破され、見る影もなく叩き潰されてしまった、今、どうやって生きて行けばよいのだろうか。。。 大国主が淡路島に舟木遺跡を建設してからしばらくは、
西日本全体が平和な時代を享受する。
>>648
毎年ある程度の稲荷を奉公さえすれば、
瀬戸内海沿岸の高地性集落からの炭
朝鮮半島からの鉄原料
によって生産された鉄器が御恩されてくるわけだ。
だが、その平和な時代も、
那珂川流域の乱開発による土石流の発生によって
ある夏突然終わりを告げる。 そうだよね、九州説は今信じていると言うだけで恥ずかしい代物になってしまったからねぇ >>501
生口が委奴国の捕虜だという根拠は?
委奴国が伊都国だとしたら、伊都国の王墓は
3世紀までは続くから、その時期までに滅ぼされたとは考えられない。 魏志倭人伝にある。
倭人が罪を犯すと奴婢に落とされる。
生口ではない。
つまり生口とは、倭人倭種でない集落から挑発した人員。
中広型銅矛の大国主は
播磨を拠点に瀬戸内をもともと開発していたオオヤマツミを降伏させて
比較的平和裏に淡路島までを制圧した。
その大国主が57年金印ゲットから数年後に失脚して、
ニニギが伊都日向に降臨し、
銅戈饒速日が大阪湾沿岸を攻略する。
銅戈饒速日は力業で大阪湾を攻め落として、
そこで挑発した人員が、生口160人。 陳寿が得た情報源は、複数ある。
@漢代の記録
楽浪郡の書物に残されていた、
漢代倭国までの「東夷伝里による里程」
漢代の書物なので、
伊都は漢代伊都=吉武高木で、末蘆国の上陸地点=筑前深江駅から陸行五百里
伊都吉武高木宮殿から、金印授与相手の57年有力者のいる奴国須久岡本まで、陸行百里
A魏使の旅行日誌
魏代倭国までの「日程」や、見聞録
B壹與が贈った生口からの聴取
>獻上男女生口三十人
高知県東部「裸国」出身の生口が、瀬戸内海の生口島での職業訓練を経て、
北部九州倭国で優秀な成績を収め、魏へと贈られた。
彼(彼女)が洛陽で魏晋時代を逞しく生き抜き、
老年に陳寿に語ったのが、
遥か遠い故郷「裸国」と、
朱儒国(朱=阿波で採掘遺跡発見で確定、儒=淡島神社スクナヒコナ)
黒歯国(最古のお歯黒出土で河内確定)
について。
生口を輸送する船はあちこち停泊しながらなので、
裸国から北部九州倭国までは、船行一年。 平原1号墓と2号墓は周溝を共有しており、
東夷伝里における、「長径百余歩の墓域」を形成している。
もし長寿の卑弥呼の墓である場合、
同世代の弥生女性の平均寿命である30歳前後に達した時点で、
女王卑弥呼は自らの墓について考え始めることになり、
いつ死んでもいいように
基礎工事だけを先にしておくことになる。
よって卑弥呼30代の頃に、墓の基礎や周溝など、「墓域」は指定済み。
しかし卑弥呼はその後50年ほど生きるので、周溝はある程度埋まってしまう。
その状態で、卑弥呼が死去する。
殉葬の土壙墓は、50年の間に埋まってしまった周溝を
再度掘り返して作成されることとなるわけだ。 銅鐸は北部九州に入る頃には原型を留めていても、
畿内にまで広がる頃には、
中国の基本形の記憶も薄れて
奇形化していっただけの話。
前方後円墳の巨大化と似たようなもんだ。 >>668
妄想で文献や考古学を否定するのが九州説か・・・
w >>666
>もし長寿の卑弥呼の墓である場合、
同世代の弥生女性の平均寿命である30歳前後に達した時点で、
女王卑弥呼は自らの墓について考え始めることになり、
いつ死んでもいいように
基礎工事だけを先にしておくことになる。
よって卑弥呼30代の頃に、墓の基礎や周溝など、「墓域」は指定済み。
しかし卑弥呼はその後50年ほど生きるので、周溝はある程度埋まってしまう。<
面白い。
でも平原は卑弥呼の墓ではない。
なぜなら2世紀前半の「其国の男王」以降の墓がないからだ。
もちろん纏向でもない。
卑弥呼の墓があったのは聖地「高天原(御所市高天)」だ。
径百余歩の御神域を今も日本最古の神社がお守りしている。https://goo.gl/JfR6Lv 畿内にいたのはだいだらぼっち族じゃないか
銅鐸とか墓が巨大化したのには立派な理由があったんだ >>671
2世紀中に倭国大乱、卑弥呼の即位まであったのなら、次の王墓が3世紀の平原遺跡でいいよね。 いや、むしろ2世紀では平原の鏡は難しいよ。
少なくとも、倭国大乱後だよ。
つまり平原遺跡が卑弥呼の墓。 邪馬台国畿内説が、粉々に、木っ端みじんに論破され、見る影もなく叩き潰されてしまった、今、キナイコシはどうやって生きて行けばよいのだろうか。。。 倭国乱前の井原鑓溝ですら今では場所も不明になっているのに
内乱で失脚した男王の墓なんぞ見つからない方が普通だろ。
台与は遷都した可能性が高いから王墓は伊都には無いだろうな。 >福岡県道49号(大野城二丈線)
>福岡県道49号は福岡県大野城市と糸島市を結ぶ主要地方道。
>起点:大野城市山田四丁目
>終点:糸島市二丈深江
>大野城市を起点に、春日市の北部、福岡市の南部、糸島市の前原地域の南部を経由し、同市二丈地域を終点とする県道で、
>全体的に東西に延びている。
>福岡市と糸島市の市境部の日向峠では急カーブが連続する。
>日向峠を抜けたあと、糸島市深江交差点までは、山や田畑が広がる。
おいおい。
漢使が通った道がそのまんま残ってるじゃないか。
当たり前だが。
>大野城市を起点に、春日市の北部、福岡市の南部、糸島市の前原地域の南部を経由し、同市二丈地域を終点とする
不弥國 >大野城市を起点に
奴國(須久岡本) >春日市の北部、
漢代伊都(吉武高木)>福岡市の南部
魏代伊都(三雲南小路)>糸島市の前原地域の南部を経由し、
末蘆國上陸地点 >同市二丈地域を終点とする。 高祖山に宮殿を作ったのはさすが倭国乱時代だな。
弥生時代は糸島半島は根元に海が入り込んで
ほぼ島のような状態だったらしいから、
陸路だと奴国から県道49号線を通るしかなく、
高祖山から日向峠を見落としているのだから、
間者の一人すらも通ることはできなかったわけだ。
軍事上も諜報上も非常に理にかなっている。
三雲に漢使魏使を駐させれば、漢使魏使の身の安全を確保できるし、
あるいは他の豪族が抜け駆けして秘密会談を狙うのを阻止することもできる。
あるいは、
佐賀平野から山越えして唐津に抜けたとしても、
そもそも唐津は漢代からの伊都お膝元の地域だし、
そこを抜けて東進する姿は
はるか高祖山から丸見え。
弥生時代に高祖宮に陣取られたら、
他の地域は一切手が出せないな。 ×高祖山から日向峠を見落としているのだから、
〇高祖山から日向峠を見落ろしているのだから、
奴國は弥生銀座があったし、
漢代楽浪使がやって来た時には須久岡本に有力者がいたから、
漢代に倭国といえば奴國が象徴的中心地だったのだろう。
その奥の不弥國が記載されているのは、
魏使が来た時に台与が主に過ごしていた場所だから。
>國中遂定 政等以檄告喩壹與
(男王の時に内乱で乱れた)邪馬台国の国内が安定して、
(邪馬台国内乱中に筑後を奪った狗奴国と戦うために出陣した)壹與を、
張政らは
(難升米が狗奴国と戦うため出陣した時と同じく)檄告喩した。 もともと漢代伊都の宮殿は吉武高木=高天原だったわけだし、
考古学的には紀元前3世紀から0年くらいまで続いている。
須久岡本王が乱開発して大洪水を引き起こしたせいで、
奴國の疫病やらから逃れるため
やむなく魏代伊都=三雲・高祖宮に遷都した。
奴國が復興してきて、そろそろ奴國側に戻ろうかという時に、
倭国乱が起きたため、
防衛上の理由からも魏代伊都にとどまり続けた。
台与が狗奴国に勝利した時点で、
魏代伊都に籠る必要性は、都市の発展上からも、軍事上からも無くなるわけで、
台与は福岡平野側に遷都する。
香椎宮だろう。 >>677
>>>676
>根拠なし
平原遺跡が倭国大乱の前の墓なら、後漢鏡がたくさんあるはず。
ないのは、後漢滅亡後、つまり卑弥呼即位後の墓だから。
その後の女王墓なら、卑弥呼の墓しかあり得ない。 >>683
香椎宮が壹與の宮とな。ふむふむ。
しかし肥前佐賀の淀姫神社が壹與なら、宮は筑後高良宮あたりの方がアクセスが良い。
ちょうど足元に祇園山古墳もあるし。
どうだろう。 福岡県内は宮だらけなので、邪馬台国の候補に困らないな。 >>680
古代人が使った山道というのは、
急カーブが連続ということはないんだよ。
急斜面でもそのまままっすぐ登る。
車のために遠回りしてでも傾斜を緩くして
急カーブの道に作り直したわけ。
古代人は別ルートを通ったよ >>687
>車のために遠回りしてでも傾斜を緩くして
>急カーブの道に作り直したわけ。
なるほど古代はまっすぐ登っていたのを
近代に急カーブの道に作り直したわけか。
どちらにせよ、県道49号線は、
考古学的に重要遺跡遺物が集中している、
三雲遺跡から、吉武高木遺跡への
最短ルート。
別ルートと言っても、
北となれば、一旦海に出航して、糸島半島を大回りして、
高祖山の東側の浜に再上陸。
さらにそこから内陸へ陸行せねばならない。
南は山ばかりで別ルートを取ろうにも
さらに通行困難な地形だらけ。
県道49号線でFA。 考古学的に判明している、奴国の住居群や工房群の記載が皆無であることから、
魏使いは伊都三雲遺跡までしか来なかったことが確定している。
魏使が筑前深江駅に上陸して、
駐する所である伊都三雲遺跡まで移動する距離が、49号線を使うと、
10km(平野部)
駐する所である三雲遺跡から、49号線を使って、
吉武高木遺跡まで移動する距離が、
8.5km(日向峠)
陸行一日で伊都に到着するということは、
やはり魏使が到着したのは三雲遺跡であるのが合理的であり、
そこに駐して外交活動をしたわけだ。 >>675
嘘ついてごまかそうとしても駄目。
平原から出土した耳とうと管玉が3世紀のものだから、
平原が卑弥呼の墓。 >>691
柳田康雄. 『伊都国を掘る―邪馬台国に至る弥生王墓の考古学』
高山純. 「古代東アジアにおける耳璫の流伝」 >>692
その、どこに
「平原から出土した耳とうと管玉が3世紀のもの」
と書いてある? >>694
・平原の管玉と同類のものは、日本からは出土せず、
韓国の江原道東海市松亭洞一号住居跡や慶尚南道金海郡良洞里三四号木椰墓から
多量に出土していて、時期は、共伴している土器や鉄器から三世紀前半から
四世紀と考えられている
・耳璫も晋代(265 – 316年)前後に特徴的な特殊な形状のもので、
漢末から六朝初期に造られたと推測される浙江省杭州老和山搏室墓から
出土したものと同型である。
今から仕事行くからその間に読んでな >>695
で?
どこに
「平原から出土した耳とうと管玉が3世紀のもの」
と書いてある? 伊都八咫の輩はトンデモだから嘘つくのは平気の平左か >>696
3世紀から4世紀のものと読めるな。
やはり平原女王は卑弥呼か壹與のどちらかだな。 高山の60年代の論文に
「平原から出土した耳とうと管玉が3世紀のもの」
なんて書いてあるわけないし
平原一号を二世紀末の墓と結論した柳田が
「平原から出土した耳とうと管玉が3世紀のもの」
と言うわけもない
捏造だね >>698
>3世紀から4世紀のものと読めるな。
書いてないことが読めちゃう人って、すごいね ・平原の管玉と同類のものは、日本からは出土せず、
韓国の江原道東海市松亭洞一号住居跡や慶尚南道金海郡良洞里三四号木椰墓から
多量に出土していて、時期は、共伴している土器や鉄器から三世紀前半から
四世紀と考えられている
・耳璫も晋代(265 – 316年)前後に特徴的な特殊な形状のもので、
漢末から六朝初期に造られたと推測される浙江省杭州老和山搏室墓から
出土したものと同型である。 >>701
で?
どこに
「平原から出土した耳とうと管玉が3世紀のもの」
と書いてある?
そんなこと判明してないよね? 柳田康雄って、平原の鏡は全部イ方製と言ってる
学者じゃなかったっけ? 書いてあるじゃん?
まさか耳璫(じとう)が読めてないということはないよね? >>704
キミは日本語が読めない人かな?
それとも病的なウソつしかな?
書いてあると言い張るなら、その部分を引用してごらん
出来るものなら ミミとかミミナリという人は耳栓、つまり車輪型耳飾りを付けた人だったのかも
知れんな。 柳田は、通常の耳璫は中程が著しくくびれるのに対して、
平原1号墓のようにわずかにくびれるだけのような形式は
高山純氏の「古代東アジアにおける耳璫の流行」から
漢末から六朝初期の浙江省杭州老和山搏室墓出土の琥珀製耳璫(灰褐色)を引用してるが
わずかにくびれるだけの南紅瑪瑙製耳璫は前漢時代から新疆や広西では出ている 「平原から出土した耳とうと管玉が3世紀のもの」
と判明しているなんて
大ウソ >>708
横だが、
同類や形が類似ということは事実なのだから、3世紀の可能性が高い、でいいと思うよ
これを否定しても虚しいだけだろ >>709
つまり
「平原から出土した耳とうと管玉が3世紀のもの」
と判明しているなんてウソなんだよ >>709
柳田本人が否定しているのだが、何か虚しいのか? >>711
柳田は平原一号を弥生終期としているけど。
大型内行花文鏡が他で見つかるのも4世紀以降
だから、そんなものだろ。 >>711
それは個人の感想に過ぎないだろ。
ザラコクが古田を盲信しているように、キナイコシは柳田を盲信しているのか。 平原 = 卑弥呼の墓を言いたいのに
柳田を持ってくるあたり、わけがわからない >>715
管玉や耳璫の推定年代を柳田に依存してるのは誰?
その柳田が論文に書いた最終結論を、柳田個人の感想に過ぎないと否定する理由は?
典型的なチェリーピッキングだなあ 柳田の考察を元に平原遺跡が3世紀と結論して何が悪いんだ? 平原遺跡が3世紀という結論を受け入れたくなくて、駄々をこねているだけだな。 >>719
柳田の考察は、三世紀とする決め手にならないって結論でしょ? 柳田は平原一号を弥生終期としている。
大型内行花文鏡が他で見つかるのも4世紀以降
だから、そんなものだろ。 >>723
九州説の人は、こんなことも判らないの?
平原1号を二世紀の墓と結論したんだから当然なのに >>724
柳田は平原一号を弥生終期としている。
大型内行花文鏡が他で見つかるのも4世紀以降
だから、そんなものだろ。 横ですまんが、
耳トウの話からは3世紀後半に思える。
大型内行花文鏡も、2世紀なら漢を凌駕していたことになるし
畿内4世紀古墳で見つかる鏡なのだから、3世紀だとしても後半に思える。
魏からもらった大量中国朱や五尺刀などがある女王墓だから卑弥呼だと思うが、
逆に卑弥呼よりも後の時代だとしてもおかしくはない。
つまり台与とかが卑弥呼がもらったものを引き継いだとか。 九州説さんの話がまともだからです。
同型のものが3世紀後半から4世紀なのだったら、そりゃあ3世紀4世紀でしょう。
>>728
3世紀じゃないという理由を
考古学的に示してもらえますか? 平原1号墓の耳璫は浙江省杭州老和山搏室墓出土の琥珀製耳璫と同型じゃないよ 大型鏡は前漢前半代の南越王墓から彩画鏡を含む41cmが6面、38.8cmが2面出土している >>731
内行花文鏡なの?
大型鏡ならなんでもいいってわけじゃないんだけど。 大型鏡なら2世紀に漢を凌駕していたことになるんだろ? >>734
意味わからん。
2世紀に大型鏡を副葬したのは南越王だろ >>735
大型内行花文鏡の話をしている時に、
はるか南越の大型鏡を持ち出して何が言いたいんだ? 前漢前半に南越に大型鏡製作技術があったなら
紀元前111年に南越が滅んだ後、半島か糸島あたりに移住していてもおかしくないだろ >>738
また大型鏡の話に戻るのかw
大型内行花文鏡の話をしよう。 後漢の四葉内行花文鏡がやってくる時点で時間差が生じる。
そこからさらに八葉の超大型内行花文鏡にまで進化するのだから、
3世紀と考えないとどうにもならん。
4世紀に存在する大型内行花文鏡を考えると、
系統図を作るなら、平原は4世紀後半になってしまう。
それを回避するには、
3世紀卑弥呼の平原から下賜されたのが4世紀大型内行花文鏡と考えるしかない。 八葉の超大型内行花文鏡のコピー元は
同じ墓から出た雲雷紋内行花文鏡だよね? >>740
大型の鏡が墓から出土したから、卑弥呼の墓だったとか。 あまりにもお粗末。 @阿波 >>743
王墓のない阿波が邪馬壹国とかあまりにもお粗末。 国際的一大イベントをするのはいいが、
施設を大量建設して、その後どうするのか?
都市にはもともとのバランスがあり、
需要供給に応じて建物やインフラが整っている。
一大イベントのために
巨大施設や
特別な宿泊地を大量設立すると、
イベント終了後に維持費などが問題になるわけだ。 1世紀奴国はどうだろうか?
考古学的には、
1世紀に突出した住居群や工房群が乱立していたことがわかっている。
住居の建築資材としての木材。
生活資源としての燃料木材。
様々な工具としての木材。
そして工房群での大量の木材燃料消費。
ただでさえ、奴国では大量の木材を必要としていたわけだ。 >>740
「しかない」とか、うましか過ぎない?
「系統図」? 誰が作った?
技術的系譜の連続性が証明できてる? 平時であれば、
日本海沿岸や熊本からの木材資源。
そして瀬戸内海沿岸で炭を生産して、
淡路島の鉄工所で集中生産した鉄器、
で、生活は成り立つわけだが。
だが、歴史に残るほどの一大イベント。
つまり、57年金印授与が迫ったらどうなるのか? >>740
>そこからさらに八葉の超大型内行花文鏡にまで進化するのだから、
それ、進化だと思うの?
理由は? 須久岡本=大国主は、
自らの権威の集大成として、
漢に誼を通じ、
57年金印授与にこぎつけた。
これまでは楽浪郡使が定期的に来ていたのだが、
今回は違う。
漢と交渉して、
漢本国からの漢使が金印を携えてやってくる。
それは57年。
57年に向けて、
自ら構築した木材供給網をフル回転して、
漢使が通る沿道の家々を新築し、
漢使の宿泊する三雲の迎賓館、
そしてもちろん、漢使から金印授与される檜舞台となる吉武高木の宮殿も
全て新築する。 だが、日本海沿岸や瀬戸内沿岸からの木材輸送網は、
あくまで平時用のもの。
急に大量の木材を送れと言っても、
伐採人員も、輸送人員も、決定的に足りない。
だから、
漢使が来る直前になって、
自領である奴国の森林を大量伐採せざるをえなくなる。
大量の住居や工房群に対して禁止してきた、
那珂川流域の森林伐採。
それでも監視の目を盗んで伐採する者は後を絶たなかった。 もう時間が無い。
なりふり構わず、那珂川流域の森林を伐採して、
漢使を迎える
歴史的一大イベントの準備を突貫工事で成し遂げたわけだ。
考古学的には、
那珂比恵遺跡群の住居工房密集、
そして57年金印の実物出土や文献が裏付けする。 57年に漢本国からの使いがやってくる。
沿道には新築の建物がズラリと並び、
北部九州各地から、
さらには日本海沿岸の倭種地域からの豪族や関係者の
見物客にも、
委奴国の威信をかけた豪華な宿泊施設が提供されている。
漢使は筑前深江駅に上陸し、
三雲迎賓館の自国外交官である楽浪郡使に謁見し、
新築の最高級の部屋に宿泊。
吉日に、
日向峠沿道にずらりと並んだ倭人の好奇の目をうけながら、
吉武高木の新築宮殿へ向かって、
金印授与の式典を行った。 >744
お粗末な平原墓などと比較するのも憚れるんだが、
八倉比賣神社の縁起には、天照大神の葬儀の様子が記されているんだとか。さあいよいよ面白くなって来ました。
これがその謎の祭壇です。私の体と大きさを比べてみてください。高さは約50センチ、一辺は2.5メートルの正五角形をしています。
祭壇は石組みで、このような形の古墳は他の土地ではあまり見ることがありません。
実は徳島にはこのような五角形の囲みの祭壇が2000基以上もあると言われています。陰陽道の五芒星と関係があるのでしょうか?
一説には、この五角形は天照大神、大国主(オオクニヌシ)、少彦名(スクナヒコナ)、埴安媛(ハニヤスヒメ)、宇迦之御魂(ウカノミタマ)の五神を表すとも言われます。
五角形の頂点は天照大神が鎮座すると言われ、ここでも天照大神=卑弥呼、つまり五角形の祭壇は卑弥呼の墓の根拠とされています。 @阿波
「八倉比賣神社」 http://bqspot.com/shikoku/tokushima/569 須久岡本王にとっては、
若い頃に日本海沿岸をまとめあげて、
中広型銅矛を奉じて瀬戸内海の先輩である大山祇と争って勝利して、
大阪湾沿岸の集落に銅鐸を配って和平交渉をしながら、
淡路島に鉄工所を建設。
各地に配置したヒナモリ=恵比寿はよく地方を指導してくれている。
漢使に向かって歓声を上げる人々を見ながら、
新築の建物の数々を見回した。
だが、その向こうに見える山々は・・・禿げ上がっていた。 現代五輪では、莫大な経費を投じて巨大な競技場や宿泊施設を乱立して、
短いイベントが終了した後は、維持費と収益が釣り合わずに問題になっている。
57年奴国も同じで、
文字通り「歴史に残った」一大イベントである、金印授与のために
巨大な宮殿や宿泊施設を乱立して、
弥生時代の経費=奴国の森林資源
を失ってしまった。
早ければ、57年秋の台風シーズン、
おそくとも、58年中(梅雨、台風、秋雨)に、
大雨によって、
禿げ上がった山が耐えきれずに大規模な土石流を生じた。 下水道など完備されていない弥生時代に洪水を生じた場合、
方程式を解くがとごく、
続いて疫病が発生する。
家を失った難民が大量発生。
その難民も家が無事だった人々も巻き込んで
疫病が蔓延。
わずか数か月前の金印授与イベントがまるで夢であったかのごとく、
天国から地獄。
奴国始まって以来の阿鼻叫喚の地獄絵図が突如出現したわけだ。 >>554
>紀元前は丹後の扇谷遺跡鉄工所
>紀元後は淡路の舟木・五斗長垣内鉄工所へ輸送して、
>鉄器生産したんだよ。
はっ、はっ、はっ、 北部九州では鉄器生産しなかったのかね? ちょっと、お粗末だね、北部九州。 @阿波 命あっての物種。
須久岡本王は、たまらず、
正妻の実家である出雲=宗像田熊遺跡へ避難する。
その他の豪族も、続々と非難していった。 >>748
何も説明できず文句垂れの畿内説は黙ってて。
もしくは自分の意見の論拠を明示して。 >>570
>高級住宅地と工業地帯は離れている方がいい。
そこまで離さんといかんのかね? 大気汚染が心配なのかな? それとも騒音? 妄想も桁違いだね。 @阿波 倭国の最大発展地域である奴国がいきなり破滅。
動揺が広がり、
本来の王家である、倭国王家を立てる動きが広がる。
倭国王家五皇子の一人である、忍穂耳に声がかかるが、
奴国壊滅の様相にしり込みして、一旦は辞退。
田熊遺跡にて須久岡本王が指導権を返上。
忍穂耳に再び依頼がきて、
息子のニニギを推薦することとなる。 >>755
完全に妄想でワロた。
で、その祭壇から卑弥呼に関わる鏡やら絹やらはでてくるの? 金印を拝領したのは三雲の倭王だろう。
須玖岡本は将軍クラス。
そして三雲南小路遺跡の祭殿である細石神社が、江戸時代まで金印を保管していたという伝承とも一致する。
後漢の頃には、拡大し過ぎた奴国を離れて王宮は糸島に遷都していたのだろう。
それと、奴国の繁栄は金印拝領前に突然でっち上げたものではなく、紀元前から発展していた土地だよ。 忍穂耳=立岩堀田遺跡10号甕棺の被葬者
は、優秀な息子たちに恵まれていた。
本人は、
須久岡本王に遠賀川河口域を譲り、
上流で石器を作ってのんびりと暮らしていたのだが、
那珂川洪水で急に状況が変わった。
聡明な息子の、瓊瓊杵を倭国王に推薦し、
瓊瓊杵は猿田彦などの協力を経て、
先祖代々の吉武高木から見て、高祖山の西側になる、
日向峠を越えて西側の、
三雲に首都を新設。 >>765
伝世。
紀元前から、
倭国王家は吉武高木→五皇子→ニニギ
で、男系直系。
文身を入れていたのだから、
直系は外れようもないし、
傍系は入りようもない。
唯一潜り込めるとしたら、
妃が不貞を働いたときのみ。
だがそれも、古代ならなかなか難しいこと。
古代だから、あやふやなのではなく、
逆に、
文身を入れていたからこそ、
誤魔化しようもなく、
男系が維持されていた。 記紀に、文身をやめようという提案記事があるが、
現代の感覚で、時代遅れだからやめようと思ったのかなあ、というのは間違いで、
紀元前、吉武高木から続く男系王統を、
何らかの理由で揺るがそうとする勢力が、
まずは文身をやめて
つけいる隙を作ろう、と考えて提案したのだろうな。 同時代で三雲の小路が倭王で、須玖岡本が将軍クラスなら、三雲南小路がニニギで、須玖岡本が猿田彦だろう。
そして三雲南小路から、記紀の日向三代、魏志倭人伝の男王70〜80年が始まる。 詳細に検討してみればわかる。
神話時代=北部九州倭国時代
に、吉武高木以来の倭国王統に挑戦したのは、
大国主=須久岡本王=委国王金印(国津神と区別)
卑〇〇=饒速日の男系=親魏倭王金印(記紀から除外)
有史だと、天皇家に挑戦したのは、
足利義満=日本国王良懐とか、
織田信長とか。
日本列島の指導者たる男系に対して挑戦するために、
中華の金印を利用してみたり、
あれこれ努力してみたわけだ。
非常にわかりやすい構図だ。 天孫族の倭王男子相続が崩れるのが、倭国大乱の後の卑弥呼即位だね。
ニニギの末裔である神武が筑紫の日向を出て東征したので、天孫族の末裔の歴史書である記紀には卑弥呼は出てこない。
旧約聖書の出エジプト記にピラミッドを建設したエジプト王朝が描かれないのと同じこと。 >>769
須久岡本王は57年まで西日本を支配していたのだが、
57年に漢使を招いて金印授与式典まで開いて、結果的に失脚した。
水浸しとなった奴国から、
東の出雲=宗像に避難した須久岡本王は討たれ、
西の三雲=魏代伊都に首都を新設したニニギが倭国王となった。
ニニギの兄、ニギハヤヒが淡路島鉄工所を維持して、
さらに銅戈で大阪湾沿岸を占領して、
安芸広島を占領して、
越後信州タケミナカタも制圧した。
つまり、須久岡本王の残党を制圧して、
ニニギ倭国を安泰なものとしたわけだ。
須久岡本王は日本海沿岸の自分の荘園に封印され、
ニギハヤヒは須久岡本王の無念を封じるためにあえて須久岡本に埋葬された。
織田信長の建勲神社を見たらよくわかる。 >>764
>で、その祭壇から卑弥呼に関わる鏡やら絹やらはでてくるの?
庶民の墓、平原だから発掘ができたのだろうが、
気延山自体がご神体なので発掘などもってのほかなんですよ。 一般の墓と一緒にされると迷惑。 @阿波 >>554
>紀元前は丹後の扇谷遺跡鉄工所
>紀元後は淡路の舟木・五斗長垣内鉄工所へ輸送して、
>鉄器生産したんだよ。
ジョボw
はっ、はっ、はっ、 北部九州では鉄器生産しなかったのかね? ちょっと、お粗末だね、北部九州。 @阿波 >>774
クズの相手すんなよ。
もっと気高く生きていこうぜ! つまり須久岡本王は、
もともと住居や工房が乱立して森林資源が枯渇していたところに、
吉武高木帝王に対抗するために、
57年金印授与イベントに森林資源をつぎ込んでしまって、
大規模土石流を発生してしまったわけだな。
だから
須久岡本王は出雲=田熊遺跡へ避難した先で失脚
瓊瓊杵もわざわざ三雲まで遷都。 北部九州倭人が、
九州外の土地を外征する前に、
自分の国境で、祭祀銅矛(銅戈)を故郷の大地にぶっ刺して、
出征し、
毛人の土地を占領して、領有宣言として、
祭祀銅矛(銅戈)を占領地にぶっ刺した。
出征前にそれぞれの銅矛(銅戈)を祭壇に並べて飾ったのが
鳥居いの原型。 >>778
おまえ、それぞれの遺跡の年代をわかってないだろ。 平原女王墓が3世紀であることを否定する証拠は
無い、
ということで結論。 銅鐸出土図を見ると、あたかも畿内が銅鐸分布圏だったかのように見えるけど、
実はスカスカなんだよね。
銅鐸の音が響く範囲を500mとしても、
銅鐸の音が届くのは、
銅鐸を中心とした半径500m、1km四方ということになる。
これだと
銅鐸出土数と照らし合わせた場合、
畿内の隅々に銅鐸の効果が行き渡っていたとはとても言えないわけで、
集落があちこちに分布する中に、
銅鐸がポツンポツンと食いこんでいる、
というのが
実体図となる。 >>781
平原墓が3世紀であろうが大きな鏡が出ようが、
そんな平地にある、ジョボw い墓が王墓などと、片腹痛い。
まぁ、そんなものにでも頼らないとほかに何にも無いから仕方がないのだろうが @阿波 北部九州に、原始稲作を知っている人たちがやってくる
→北部九州から、全国の原始稲作適地に入植していく
北部九州に、ちょっと高地でも育つ稲を持った人たちがやってくる
→北部九州から、全国のちょっと高地に入植していく
北部九州に、河川をちょっと改修できる人たちがやってくる
→北部九州から、全国の河川のちょっと改修できる場所に入植していく
北部九州に、湿地帯を灌漑できる人たちがやってくる
→北部九州から、全国の湿地帯を灌漑しようと入植していく
これの繰り返し。 稲作集落が形成される。
不便な場所で誰も使わないと思っていた場所に、
北部九州からやってきた後進集団が、
河川改修したり、灌漑したりして、
新たな集落を築いていく。
別々に共存できるわけでは無く、
そこで水を堰き止められて、下流に流れてこなくなったり、
汚物を流されて、下流が汚染されたり。
争いが生じて、
ゆくゆくは、どちらがどちらの支配下に入るのか、
という問題になる。
考古学的も弥生稲作集落は争いだらけ。 そこで必要になるのが銅鐸。
例えば鴨一族が畿内に入植したとして、
本国である北部九州からの援軍はあてにできない。
だが、畿内には王国があるわけではなく、
中小のムラがいっぱいあるだけ(記紀によると
だから大規模な軍団に包囲されて殲滅されるということはなく、
攻められるとしても
せいぜい近隣の集落から、
十数人〜数十人で襲われるだけ。
環濠集落を作ってしまえば、
攻めてこられても、
銅鐸を打ち鳴らして環濠の中に逃げ込んでしまえば、
なかなか入ってこれない相手を、
弓で適当に打倒していれば逃げていく。
襲う側からしてみれば、
弓で射られて犠牲者を出す割には、
何の利益もないわけだ。 だから襲う側が攻めてくるのは、収穫期だけ。
収穫期に襲撃して、
収穫して積み上げられたばかりの作物を奪い、
収穫中の集落民を拉致していく。
もし、環濠集落を本格的に攻め滅ぼすのなら、
周囲の集落群と連携して、大規模な軍団を形成して攻め込むしかないが、
そのような指導者は畿内には唐古鍵などわずかしかいない。
襲撃する側にとっては、
収穫期に鴨一族を襲って嫌がらせをするくらいが精一杯であり、
鴨一族にとっては、
収穫期だけ銅鐸配備して気をつけていれば、
全滅することなど無かったわけだ。 邪馬台国畿内説が、粉々に、木っ端みじんに論破され、見る影もなく叩き潰されてしまった、今、キナイコシはどうやって生きて行けばよいのだろうか。。。 >>785
>→北部九州から、全国の原始稲作適地に入植していく
入植していくと言いながら、忌部一族のように入植していった部族がいないというw @阿波 >>554
>紀元前は丹後の扇谷遺跡鉄工所
>紀元後は淡路の舟木・五斗長垣内鉄工所へ輸送して、
>鉄器生産したんだよ。
はっ、はっ、はっ、 北部九州では鉄器生産しなかったのかね? ちょっと、お粗末だね、北部九州。 @阿波 魏使の上陸地点が筑前深江駅なら、
朝鮮半島南部→対馬が千里
対馬→壱岐も千里
壱岐→呼子→唐津→筑前深江駅も千里で
ピッタシだな。
渡海千里には純粋な渡海部分におまけの沿岸航海を含むことになり
女王国から東に渡海千里もまた
宗像から豊国を沿岸航海して残りを渡海で本州でよいわけだ。 帳政は倭人船で往復している。
倭人船が出入港に神事があるだろうことを思うと
芥屋浜が海流潮の見極め母港ではないかと推測する。
距離はいいでしょ?
伊都へ500里だと、伊都は今宿〜早良西麓。
其行來渡海詣中國恒使一人不梳頭不去蟣蝨衣服垢汚不食肉不近婦人如喪人
名之為持衰 若行者吉善共顧其生口財物 若有疾病遭暴害 便欲殺之謂其持衰不謹
この一分のソースとして、持衰についての情報は政帳以外が知り得たとは思えない。
梯儁については魏の軍船で来日であるから
伊都を目指すにしても、いったんは目視で接岸可能な糸島野北に付け
案内人を雇い、今宿か今津浜あたりに上陸したと考える。
深江は地形的に隠れ場所の無い風に弱い平浜っぽくて
倭の王船の母港には向かないんじゃないかな?
アースで見た限りでだけどねw >>791
忌部氏なども、その起源について考えてみると
他説だと意味不明である。
神代の岩戸隠れ神話における、天太玉命が祖とされており、
神話中では、天児屋命と共に鹿の骨で太占を行い、
ニニギの天孫降臨に付き添った五伴緒でもある。
高皇産霊神の眷属。
その子孫に忌部五部神があり、
出雲忌部が玉
紀伊忌部が材木、宮殿造影
阿波忌部が木綿、麻
讃岐忌部が盾
筑紫・伊勢忌部が刀・斧・鉄鐸・鏡
他に、備前・越前にも忌部がいる。 前には、伊部(いんべ)という地名が残っており、
焼き物(伊部焼)
刀剣
などは備前のみならず日本の誇る工芸品である。
このスレの住人であれば、「伊」の文字を見た瞬間に閃くものがあるだろう。
越前には、備前と似たように、
焼き物(越前焼)
織田剣神社、を初めとする数多くの剣神社、
が存在する。
織田剣神社はあの有名な織田信長の織田氏の先祖であり、
社伝には、伊部郷にスサノオを祀ったとか、
伊部の臣なる人物が剣をスサノオの御神体として祀ったのが織田剣神社の名の始まり、
などと記されている。 他説、というのは例えば畿内説や阿波説にて、
紀伊、阿波、讃岐まではまあいいであろう。
備前、まあ瀬戸内海中までよかろう。
伊勢、伊勢神宮もあるし、まあよかろう。
出雲・・・日本海にいきなり飛ぶが、銅鐸同笵など結びつきがあったからいいか?
いちおう古墳時代に玉作り遺跡が出土している。
筑紫・・・出雲や筑紫はある意味敵対地域であって、出雲の玉ならともかく、
刀・斧(武器)・鉄鐸(たぶん銅鐸)・鏡(威信材)を筑紫に作らせるっておかしくない?
越前・・・なんでそんな辺境に?
真面目に考えるとわけがわからない。
だが、北部九州説なら綺麗に説明がつく。 忌部氏(伊部氏)とは、神代まで祖がさかのぼるのだから、
弥生時代から存在した技術者集団なわけだ。
弥生時代に生産特化した技術者集団であるから、
まずは鉄器そのものを作る。
戦乱弥生時代であれば、鉄製武器が主だろう。
そして他の品々を生産するにしても、
弥生時代にまともな製品を作ろうと思ったら、
なにをするにも鉄製工具が必要なわけである。
つまり、弥生時代に忌部氏(伊部氏)が仕事をするには、
鉄器が必須であり、鉄製工房のそばにいるのが一番仕事をしやすいわけだ。
また、技能者集団である忌部氏(伊部氏)は、貴重な人員であり、
例えば、敵襲Jアラートである銅鐸が必要な辺境の集落などには決して配置されない。
北部九州倭国軍が治安を保証した、鉄器が分布する集落にのみ
忌部氏(伊部氏)は居住して生産を行うわけである。 北部九州説であれば説明がつく。
紀元前3世紀に吉武高木王配下の東征将軍スサノオが、
越の八岐大蛇石剣部族に勝利して、
八岐大蛇の頭部(九頭竜川流域)を占領し、
八岐大蛇の体部(若狭湾)に水軍基地=一大率の前身=戦前日本海軍、現代の海上自衛隊まで続く日本海沿岸の海軍要衝
八岐大蛇の尾部(丹後半島)に扇谷鉄工房遺跡を建設した。
次に、日本海沿岸を統一した須久岡本大国主中広型銅矛が、
瀬戸内利権を持っていた大山祇平型銅剣に勝利して、
淡路島に舟木鉄工房遺跡を建設した。
そして、奴国大洪水で失脚した須久岡本王に代わって、
倭国王となった、三雲南小路邇邇芸の兄、饒速日銅戈が、
大阪湾沿岸まで征服して、淡路島に五斗長垣内鉄工房遺跡を建設したわけだ。
その孫の代になって、倭国乱が発生し、
日本海沿岸を従える伊都邪馬台国と、
瀬戸内沿岸を従える筑後狗奴国が争った。
伊都と敵対する狗奴国には朝鮮半島からの鉄原料が入らなくなり、
淡路島の鉄工房遺跡は操業停止。
伊都の卑弥呼は朝鮮半島に臨時の鉄工房を作った後、
戦局を優位に進めて、邪馬台国傘下の丹後若狭湾から南下した琵琶湖湖畔に
稲部鉄工房遺跡を建設する 忌部氏(伊部氏)の仕事は鉄工房が必須なわけだ。
紀元前3世紀から1世紀は、扇谷遺跡の時代。
八岐大蛇を倒して得た、天叢雲剣(草薙剣)とは、扇谷遺跡で伊部氏が製作した剣であり、
吉武高木王、あるいは東征将軍スサノオに献上されて伝世した。
その後も紀元前弥生時代には、扇谷遺跡で鉄工房が維持される。
日本海沿岸を石剣部族と争っている間は、
日本海沿岸に銅鐸配備倭人辺境集落が存在するわけで、
貴重な忌部氏(伊部氏)は、
扇谷遺跡内で鉄製武器を作り、
鉄製工具を輸送した先の北部九州で各種生産を行う。
鉄器の優位によって、日本海沿岸をほぼ制圧してしまうと、
銅鐸集落は必要なくなり、
忌部氏(伊部氏)も扇谷遺跡周辺へ多数進出することになる。
その末裔が織田氏などの越前剣神社末裔だろう。 次に淡路島に鉄工所が移動する。
あとはわかりやすくて、
淡路島を取り囲むように、
しかも北部九州倭国にとっての異地である畿内を避けるように、
備前、紀伊、讃岐、阿波、に忌部氏(伊部氏)が配置される。
備前の忌部氏(伊部氏)は、最も北部九州倭国に近い=重要なわけで、
丹後の伊部氏が移住してきて、
弥生時代最重要の武器を生産した。
紀伊は、木の国。
大国主の時代から、木材の主要供出地であり、
計画的に森林を管理して、建物の建築なども請け負っていた。
紀伊には伊都の名が残っているわけだが、
大山祇、大国主、瓊瓊杵、神武、など、
時代の勝利者を全部引き当てて、常に勝者の元に協力者として参加して、
勝ち組になった、ラッキーな土地柄と見受けられる。
讃岐は盾。
倭国兵の兵装は、
倭国王直属の軍は銅矛、饒速日は東征将軍銅戈。
遠距離武器は鉄鏃(威力重視)と骨鏃(返し・毒)の弓。
防御は朱塗り盾の中央に、武器受け目的の巴型銅器。
巴型銅器は北部九州を中心に出土するし、奴国などから鋳型が見つかっているが、
讃岐の森広遺跡からも巴型銅器の鋳型が見つかっている。
伝承は正しく、讃岐で盾を作っていた考古学的証拠が見つかっているわけだ。 出雲と伊勢が核心に迫る。
まず出雲。
出雲忌部氏は玉を作っていたとある。
そしてそれに符合するように、松江市に出雲玉作遺跡が存在する。
だが、出雲玉作遺跡は古墳時代以降。
しかも鉄器がない。
神代の出雲には該当しないのではないか?
ここで、神代=弥生時代の
北部九州における玉作遺跡に着目してみる。
一つは、押しも押されもせぬ、伊都の潤地頭給遺跡。
玉作工房だけでなく、準構造船も見つかっており、しかも無防備。
伊都倭国王のお膝元にあって、
完全な安全が保障された中で、各地の玉材料を集めて玉作に励んでいたのだろう。 もう一つが、北九州市の城野遺跡。
この玉作遺跡には、
朱塗りの石棺を埋葬した方形周溝墓
そして大量の鉄製工具
が出土している。
ということは、
筑紫倭国に所属する玉作工房であったことが明らかであり、
「筑紫伊部」が、主に奴国弥生銀座、副で潤地頭給遺跡など糸島にいたとして、
島根の玉作遺跡が古墳時代以降であることからして、
弥生時代の「出雲伊部」とは、城野遺跡のことではなかったのか。
という推測が成り立つ。 潤地頭給遺跡が筑紫伊部であれば、
城野遺跡は出雲伊部。
だとすれば、神代=弥生時代の出雲とは、
筑紫以東の、宗像〜門司までの北部九州沿岸であったと推定できる。
つまり、宗像〜門司までの北部九州沿岸が出雲であって、
宗像、稲場=鐘崎、根の国、堅洲の国、などなどが出雲の中にあった、
と考えられることになる。
今後の新発見によって、宗像に玉作遺跡が見つかれば、
宗像=出雲
見つからなければ、
宗像〜門司の北部九州沿岸が出雲、ということになる。 伊勢についても、考古学的に判明した鉄工房遺跡の変遷で明らかである。
筑紫伊部と同じく、刀・斧(武器)・鉄鐸(たぶん銅鐸)・鏡(威信材)を
作っていた忌部氏(伊部氏)。
つまり、
伊勢忌部とは、稲部鉄工房遺跡へ移動して来た忌部氏(伊部氏)のことであり、
弥生時代から古墳時代前期の伊勢とは、
近江、滋賀県のことであった、と考古学的に判明しているわけだ。
ここしかない。 そもそも大国主の頃の出雲が本当に今の島根県だったのかという疑問があったが、それに対する回答として明確だな。
滋賀県の伊勢と三重県の伊勢の関係もわかりやすい。 スサノオは出雲にて、オオヤマツミの孫や曾孫に出会うのだから、
オオヤマツミは既に出雲にいて、八岐大蛇石剣部族と戦っているわけだ。
つまり、
北部九州から広がったのは、
@最初期稲作集団=金属器無しの、石剣部族
A青銅器集団=オオヤマツミを代表とする、銅剣集団
B鉄器集団=筑紫王族の東征将軍スサノオ、鉄製武器
AとBは、方形周溝墓という共通先祖祭祀が共通しており、
近親部族であることがわかる。 オオヤマツミは出雲を足場にして、東方勢力拡大を試みていたが、
青銅器では石器に対して完全優位とはいかず、苦戦していた。
そこに、筑紫において、朝鮮半島からの鉄器入手ルートを確立した近親部族である、
スサノオが来て、
石器部族を駆逐してくれたわけだ。
スサノオは扇谷遺跡を作り、日本海沿岸を開拓していく。
であるから、
オオヤマツミは、競合しない瀬戸内方面に新たに展開していく。 イザナギとイザナミは結婚するわけだが、
よくよく読んでみると、イザナミとは、出雲出身の女性である。
これも、
青銅器出雲オオヤマツミと、鉄器筑紫スサノオ(アマテラス)の構図と同じで、
青銅器出雲イザナミと、鉄器筑紫イザナギの構図なわけである。
遠賀川河口には、縄文時代の山鹿貝塚が見つかっており、
出雲豊国には、縄文時代から巫女女王がいたことが考古学的に判明している。
山鹿貝塚から、イザナミ、宗像三女神、そして卑弥呼、神功皇后(宮地嶽)
巫女女王の系譜が続いていたことがわかる。 鉄器奴国オオクニヌシとその兄弟が、
稲羽(稲場)の八上姫に求婚するわけだが、
これはつまり、
東方へ勢力拡大しようとする、
鉄器奴国の王子たちが、
東方進出するのに必要不可欠な稲羽(稲場)=鐘崎の出雲姫への求婚を争った、
という故事なわけである。
この競争に勝ったオオクニヌシは、
さらに、スサノオ=宗像田熊遺跡の吉武高木アマテラス王族の東征将軍の娘である、
須勢理姫をも娶り、
出雲の要衝=宗像田熊遺跡スサノオ、鐘崎稲場、の巫女指導者を娶って、
出雲=宗像〜門司の北部九州沿岸を勢力圏に加えて、
東方への足掛かりを作ったわけである。 >>809
>よくよく読んでみると、イザナミとは、出雲出身の女性である。
兄妹婚かと思ってました。
出雲が宗像や遠賀川方面の、後の豊国なら、ニニギと木花咲耶姫の婚姻とまったく同じ図式です。 >>809
>青銅器出雲オオヤマツミと、鉄器筑紫スサノオ(アマテラス)の構図と同じで、
>青銅器出雲イザナミと、鉄器筑紫イザナギの構図なわけである。
筑紫は鉄器、鉄器言わないのが吉。 @阿波 熊本は狗奴国だろ。
まあ、鉄器生産も稲作も盛んな国が、卑弥呼を相当悩ませたんだろう。 >>797
>出雲・・・日本海にいきなり飛ぶが、銅鐸同笵など結びつきがあったからいいか?
朝鮮半島まで、鉄材料を取りに行ってるんだから、日本海の出雲や越前なども倭国(阿波)の海人族の航行範疇。
>いちおう古墳時代に玉作り遺跡が出土している。
これまた、勾玉も倭国(阿波)のオリジナルですね。
徳島県で勾玉が出土された遺跡:稲持遺跡、矢野遺跡、黒谷川郡頭遺跡、井出上遺跡など
中でも稲持遺跡(徳島県三好郡東みよし町稲持)は、弥生時代後期の玉作遺跡として代表的である。
井手上遺跡(徳島県三好市井川町西井川)(弥生時代後期終末〜古墳時代前期初頭の集落)出土の翡翠製勾玉は、
新潟県糸魚川で産出する翡翠を使用し北陸周辺で加工されたものであることがわかっている。
出土した遺物は、吉野川下流域、讃岐、吉備等の搬入土器が含まれており、
当時の交易の範囲を知る上で貴重な発見となっている。 @阿波 >>797
>筑紫・・・出雲や筑紫はある意味敵対地域であって、
敵対などする訳がない。 出雲や筑紫も倭国(阿波)の拓殖地。
>刀・斧(武器)・鉄鐸(たぶん銅鐸)・鏡(威信材)を筑紫に作らせるっておかしくない?
作らせてなんかいない。 筑紫忌部が筑紫で作って利用し、暮らしただけ。 @阿波 >>797
>だが、北部九州説なら綺麗に説明がつく。
あれっ、とうとう、「忌部」も引き抜くつもり? @阿波 >>798
>忌部氏(伊部氏)とは、神代まで祖がさかのぼるのだから、
>弥生時代から存在した技術者集団なわけだ。
ここでいう忌部氏とは、平安時代の『新撰姓氏録』以降の忌部(斎部)氏ではない。
忌部氏とは倭人(広義の忌部氏)であり、全国を拓殖していった古代倭国(阿波)スーパー頭脳集団の総称である。 @阿波 >>798
>北部九州倭国軍が治安を保証した、鉄器が分布する集落にのみ
北部九州は筑紫忌部(一大卒)により、監視され、治安を保証された。 @阿波 >>799-801
忌部一族の全国展開の足跡。 @阿波 >>799-805
忌部一族の全国展開の足跡。 @阿波 >>806-811
ここから、九州説信者の妄想話。 @阿波 倭人伝には登場しない倭人勢力が存在しています。
半島南部、韓の南岸全域の投馬国5万戸である。 >実は本州もだけどwww
北岸狗邪韓國はその一部、邪馬台国の勢力下に有った巨斉島を意味する。
では、いったい彼らはどこから来たか。
邪馬台国連合と無縁なのに青銅器、鉄器の有る 吉備、出雲である。
これら、銅鐸圏の青銅器の特徴は中国製、半島製、邪馬台国製ではない事。
入り会いの弁韓から材料を持ってきて、自製しているのである。
そこから、帰結することは、九州も宗像、遠賀川域、沖ノ島ー隠岐航路は
紀元前より本州海神族勢力の中にあり、倭人伝時代で言うならば非女王属国なのである。
邪馬台国と本州王朝は外国同等であり、ほぼ何のかかわりもない。
魏志が投馬国の説明が不十分なのは
東夷伝序文や評にある、歴代皇帝の 使譯の及ばない国を無視したからである。
評曰 史漢著朝鮮兩越 東京撰錄西羗 魏世匈奴遂衰更有烏丸鮮卑 爰及東夷
使譯 時通記述隨事 豈常也哉
でも、陳寿は倭国の事は
>自郡至女王國 萬二千餘里 の
>参問倭地 絶在海中洲㠀之上 或絶或連周旋可五千餘里
のことしか、知りません。
と、小さな声でも ちゃんとはっきりと告白しています。 だから、卑弥呼の金印紫綬の経路上に無い宮崎は
新婚旅行か天孫降臨じゃなきゃ行かないでしょ?
降臨しても銅矛抜いて山が噴火したら、
龍馬が孫悟空で、Go West で、神武も東遷できない、っての。
なんだこれ? デジャブかよ?
阿波先生の妄想話の祟りでアワワワなのか? オオヤマツミが八岐大蛇に苦戦した理由は、2つある。
一つは、鉄器が無かった=朝鮮半島へのルートを確保していなかった。
壱岐対馬、そして博多湾がまだ統一されておらず、
金属器入手が、中小規模のクニを通した交易レベルにとどまり、
大量入手ができなかった。
もう一つ、最大の理由は、若狭湾。
博多湾はまだ統一されておらず、
オオヤマツミは古代出雲=宗像〜門司の北部九州沿岸を主な足場として東方展開をめざしたことになる。
よって、オオヤマツミは大規模な水軍を維持する港を持たないのに対して、
八岐大蛇は若狭湾に水軍を維持できるから、
制海権は八岐大蛇の側にあったわけだ。
吉武高木王が筑紫を統一して、壱岐対馬も支配下におさめる事で、
朝鮮半島から鉄原料青銅原料を国家として一括大量入手できるようになった。
そして博多湾を統一したことで、大規模な国家水軍を維持できるようになった。
吉武高木王族の東征将軍スサノオが、先に東へ向かっていたオオヤマツミ一族の女性を娶り、
博多湾水軍は宗像田熊遺跡を足場に東征した。 文明的にはある程度優位だったはずのオオヤマツミでさえ、
若狭湾の石剣部族八岐大蛇には苦戦したわけで、
古代日本海沿岸の制海権においては、博多湾と若狭湾というのは決定的に重要な場所だった。
吉武高木王族の東征将軍スサノオが若狭湾を攻め落としたことで、
博多湾と若狭湾の双方を領有する吉武高木王は、
日本海沿岸を支配するアマテラスとなったわけである。
邪馬台国の時代に、四隅突出型墳丘墓が日本海沿岸に分布することをもって、
あたかも日本海沿岸に出雲国家があったとする説があるが、これは違うことが明らか。
四隅突出型墳丘墓は、若狭湾を越えて富山まで分布するのに、
肝心要の若狭湾は、丹後半島に方形墓を主とする大田南古墳群が支配している。
大田南古墳群は、1号墓を筆頭に、鉄剣鉄刀が大量に副葬される将軍墓であり、
つまりは邪馬台国時代の日本海沿岸は、
伊都平原の方形周溝墓(筑紫博多湾)と、
丹後半島大田南古墳群の方形墓(若狭湾)によって、
相変わらず制海権を支配されていたわけである。
平原1号女王墓と大田南古墳群1号将軍墓とは、方形墓+木棺という墓制が共通しており、
大田南古墳群1号将軍こそが平原1号女王墓の近親者、おそらく父親でないかと思われる。
魏志倭人伝に記された一大率の、丹後若狭湾長官であろう。
また大田南古墳群5号墓からは、青龍三年銘の方格規矩四神鏡が出土しており、
青龍三年銘鏡と同じ特徴を持つ大量の方格規矩四神鏡が副葬された
平原1号女王から親族へ下賜されたものであろう。 開拓最前線(フロンティア)の環濠集落に銅鐸(Jアラート)を配備して、
収穫期の略奪者に備える、
というシステムは、オオヤマツミが考え出したものだろう。
日本海沿岸の制海権は若狭湾八岐大蛇に握られており、
収穫期のたびに襲われていた。
フロンティアに孤立した集落では、場合によっては防ぎきれず、女性を差し出して略奪を免れる、
といった場面もあったことだろう。
当然瀬戸内海にも進出し、これも畿内に近づくにつれて非倭人との接触が増え、
銅鐸配備が必要となっていく。 倭人倭種の中で、古代出雲=宗像〜門司の北部九州沿岸を本拠とし、
早期から東方展開していたオオヤマツミの視点で考えてみる。
@紀元前3世紀までは、若狭湾八岐大蛇に悩まされていたが、
博多湾を統一した鉄器吉武高木王によって日本海沿岸が統一され、
しかも吉武高木王族の東征将軍スサノオに妃を送りこむことに成功し、
日本海沿岸には(倭人にとっての)平和が訪れる。
一方の、瀬戸内海にても東征していくが、大阪湾石剣部族群との軋轢が生じ、
瀬戸内海でも銅鐸配備が必要となる。
大阪湾から少し離れた播磨に拠点を築き、少しずつ勢力圏を拡大していった。
石剣部族というのは、
北部九州倭人のような比較的同一文化のまとまった部族を指すのではなく、
金属器を持たない未開勢力=石剣で戦う部族、の総称である。 A紀元前1世紀頃に、中枢の筑紫において、須久岡本政権が主導権を握り、
日本海沿岸各地の主要豪族と縁組していく。
オオヤマツミはこれと敵対してしまい、戦争状態となる。
須久岡本王は銅矛祭祀を開始して、オオヤマツミが開拓した瀬戸内海沿岸を奪っていく。
出陣式で日本の銅矛を飾って祭り、一本を出陣式後に九州の大地に埋納。
もう一本を指揮官の船に載せて出陣し、遠征先で勝利して土地を占領すると、
領有宣言として、勝利儀式の後に、占領地の大地に埋納。
オオヤマツミも銅剣祭祀を行い、必死に防戦するが、
結局は、筑紫を領有して金属器の供給源を支配する須久岡本王には勝てない。
中広型銅矛が淡路島南あわじ市に到達=須久岡本王が瀬戸内海制海権を制圧
したことで、オオヤマツミは降伏し、
大量の銅剣=武装解除
各地に配備していた銅鐸=部族丸ごと降伏
の調印式を、日本海沿岸における古くからのオオヤマツミ拠点であった、島根荒神谷遺跡にて執り行った。 B57年金印授与イベントで漢使がやって来た。
須久岡本王から、瀬戸内沿岸から大量の木材を供出するよう命令されたが、
従うふりをして、もちろん極力拒否。
その結果、須久岡本王は金印授与イベント直前になって、
奴国を中心とする筑紫の木材を緊急大量伐採せざるをえなくなり、
57年もしくは58年の那珂川流域大洪水、疫病発生、
国譲りイベントへと繋がっていく。
須久岡本王の裏で通じていた、
オオヤマツミと吉武高木王家が相談して、
ニニギ王家にコノハナサクヤヒメを送りこむ大金星。
その兄で東征将軍スサノオに就任したニギハヤヒに協力して、
今度は瀬戸内海の先、大阪湾上陸作戦の成功に貢献する。
紀元前3世紀、オオヤマツミ+スサノオ 対 若狭湾八岐大蛇(無金属石剣)
紀元1世紀、オオヤマツミ+ニギハヤヒ 対 大阪湾(無金属石剣) 銅剣祭祀は、
ある程度瀬戸内海沿岸に展開した時期になって、
北部九州から中広型銅矛祭祀王が追撃して来たから、
それに対抗するために開始したのだろうな。
だから急に瀬戸内海中東部に広がっていく。
筑紫と敵対したから青銅器の供給も断たれ、
降伏直前には平型石剣で代用せざるをえなくなった。 C瀬戸内海沿岸に高地性集落を建設して木材から炭を作り、
淡路島鉄工所に運び込んで、鉄器大量生産。
鉄原料は朝鮮半島から伊都王が大量入手して、淡路島鉄工所へ運び込み、
作られた大量の鉄器は、これまた北部九州へと持ち帰っていく。
多少の鉄器は貰えるものの、その格差に、
オオヤマツミと、ニギハヤヒの畿内子孫、の鬱憤がたまっていく。
倭国大乱は基本的には九州倭国内での、
伊都邪馬台国vs筑後狗奴国の王統争い、であるが、
九州外の各地もそれに巻き込まれ、
倭国大乱の開始時は、
伊都邪馬台国 壱岐対馬肥前(佐賀長崎)豊前、日本海沿岸越前まで、備前紀伊
筑後狗奴国 肥後豊後、越後、瀬戸内海沿岸
という色分けで、取ったり取られたりしながらも、
次第に邪馬台国側が制圧していく。 @´
扇谷遺跡が長期間運営されていたことによって、
壱岐対馬〜博多湾〜若狭湾が、吉武高木王によって長期間安定支配されていたことが分かる。
スサノオは鉄器を伴って、日本海沿岸をさらに越後へと攻め込んでいく。
では、日本海沿岸がアマテラスのものとなり、
オオヤマツミが新規展開したのは瀬戸内海だけだったのか?
若狭湾から南下すると、日本最大の湖である琵琶湖がある。
オオヤマツミは琵琶湖を南下し、
南東岸に超巨大環濠集落「下之郷遺跡」を建設していた。 三重環濠集落である下之郷遺跡は、銅剣を保有しており、
石剣石鏃相手に激しく戦った跡が残っている。
スサノオがやって来たのなら鉄器を伴うはずだが、
基本的には石器中心であることから、
オオヤマツミだろう。 A´オオヤマツミが瀬戸内海で須久岡本王と戦争を開始すると、
下之郷遺跡を維持できなくなり、一旦放棄する。
B´ニギハヤヒ倭国軍と共に畿内復帰を果たしたオオヤマツミは、
琵琶湖再開発を始める。
普通の集落であれば、墓域と住居と倉庫が、区画別とはいえ、
一つの集落の中にまとまって存在する。
しかし、琵琶湖の遺跡群は、
指導者の墓域、一般人の集落、収穫物の貯蔵倉庫
が、別々の遺跡としてバラバラに存在する。
というのが一つ目の謎。
もう一つの謎が、
玉作工房が多数存在し、しかも複数の遺跡に存在する。
まるで琵琶湖周囲が丸ごと玉作生産地帯だったかのようである。 オオヤマツミ(+銅戈ニギハヤヒ)が何をやっていたかというと、
人件費の安い海外で、農場経営や工房経営をしていた。
倭人集落だと、
鉄器は揃えないといけないし、
着物も揃えないといけないし、
北部九州における倭国生活水準を用意しなくてはならない。
だが、鉄器の普及していない畿内人であれば、
鉄器も鏡も何も必要なく、
畿内地元水準よりもちょっと良い環境を用意するだけで、
周囲の集落から続々と就職志願者が押し寄せてくる。 玉作工房にしても、
そもそも玉原料の産出地は琵琶湖にはないわけだし、
完成品の玉製品は、畿内はおろか琵琶湖周辺の墓からもほとんど見つからず、
北部九州から大量に出土する。
また玉作の方法も妙で、
北部九州の城野遺跡など玉作工房では、大量の鉄製工具が出土しているのだが、
琵琶湖では鉄無しで作成している。
原料も完成品も琵琶湖には無いのに、
琵琶湖で鉄器なしで玉作に励んでいたわけだ。
現代企業がそのようなことをする理由を考えてみたらわかる。
人件費の安い海外に生産移転して、安く大量生産して、
本国へ逆輸入していたわけである。 オオヤマツミとは、弥生時代の総合商社なわけである。
現代の島国日本の商社が、
海外から石油や天然ガスなどの資源を買い付けて、
人件費の安い海外労働力を使って、海外農場や海外工場を運営するのと同じで、
弥生の島国九州倭国のオオヤマツミは、
海外(九州の外)から高地性集落で森林から炭燃料を大量生産して、
人件費の安い畿内労働力を使って、大規模農場や海外玉作工房群、
そして淡路島鉄工所を運営していた。 つまり生口を集めていたわけだが、
ではその募集方法はどのようなものだったか?
かなり紳士的に扱っていたことが分かる。
一つには、ニギハヤヒが大阪湾に上陸して以降、
中国史に生口が登場する。
これはつまり、畿内にて募集した労働者のことである。
もし生口を過酷な条件で使役していたのであれば、
そのような集団を中国に送ると、
逃亡したり反抗したり倭国の悪口ばかり吹聴したりで、
怖くてとても贈れない。
生口達が、有能かつ従順だからこそ、贈ったわけである。 もう一つは、
オオヤマツミとニギハヤヒは、鉄器を大量には持ち込んでいない。
(ここから逆に、彼らは倭王ではないこともわかる)
敵地の中に、鉄器をあまり持ち込まずに、
琵琶湖周辺の農場や工房を維持しており、
特に農場は、畿内でも突出した収穫量を誇るようになることから、
大量の生口が集まってきたことになる。
(3世紀の話なので気を悪くしないように)
北部九州の生活水準よりはだいぶ落ちるが、
畿内の地元集落よりはだいぶ良い。
そして北部九州直達の農業技術によって、収穫量が多く、
食べるのには困らない。
という労働環境を整えることによって、
畿内全域の若者が続々と琵琶湖に集まって来たのだろう。
そして生口にとっての夢は、真面目に働いて成績優秀者に選ばれ、
北部九州倭国で働く資格を得る事だった。 吉武高木は他よりダントツに古いだろう。
年代観がおかしいよ。
やり直し。 伊勢遺跡の倉庫群がサークル状に並ぶ理由もこれでわかる。
そして2世紀半ばの倭国乱にて、
オオヤマツミは狗奴国側についたわけだ。
邪馬台国側の軍事拠点の一つである丹後若狭湾一大率から琵琶湖で繋がる地域は
超危険地帯となり、
大田南古墳群1号将軍、つまり卑弥呼の父に攻め込まれたか、
賢ければ開戦と同時にさっさと撤収するだろう。
開戦初期は丹後若狭湾一大率は、本国伊都の救援に向かわねばならず、
ある程度の時間的余裕はあったと思われる。
あるいは越後と共に、東と南から若狭湾を挟撃していた時期もあるかもしれない。 男生口は外で農作業に、
女生口は内で玉作り。
月間トップの成績を収めたら夢の北部九州倭国生活。
超エリートは漢魏へ移住。 卑弥呼の勝利がほぼ決定的になると、
邪馬台国は丹後若狭湾一大率から睨みの効く、
琵琶湖北岸に、稲部遺跡鉄工所を新設したわけだ。
紀元前3世紀から倭人が支配していた日本海沿岸は
倭種地域として、北部九州倭国本国と同じくらい重要な地域となっており、
その森林を伐採することはできない。
琵琶湖沿岸〜川沿い。
敵対していた越後。
に、高地性集落を新設して、稲部遺跡に炭を運び込んで運営した。 >>842
紀元前3世紀の
吉武高木王アマテラス
東征将軍スサノオ
が、日本最古にして最も正確な歴史書である記紀に残っている。
であれば、
吉武高木王の系譜は当然のことながら残っていたわけであり、
一見すると、筑紫のあちこちに権力が移動しているように見えるが、
実のところは、
吉武高木王家の宮殿に皆が詣でていたわけである。 吉武高木は古すぎる。
イザナギくらいがいいところ。
アマテラスはニニギによる伊都国建国の直前なので、紀元前後くらい。
あと、アマテラスは九州本当にはいなかった可能性もある。 吉武高木王=扇谷遺跡
から
須久岡本王=舟木遺跡
の間にしばらく間があるから、
筑紫で有力豪族が林立して混乱した時期があるかもしれないね。
(紀元前1世紀)
もしくはまだ見つかっていない大規模鉄工房遺跡がどこかに眠っているのか。
だが、アマテラスは倭人=鉄器を扱う文明人なのだから、
鉄器が出土する地域、それも鉄器分布の中心にいたわけだな。 大国主の人生も、北部九州説ならよくわかる。
葦原中国から因幡に行って、紀伊に逃れて、さらに出雲に逃げて、
越に行って、また葦原中国に戻って国づくり。
あまりにあちこちに移動していて、神代=弥生時代では他説だと意味不明である。
だが、北部九州説にて
葦原中国=葦原那珂津国=奴国
弥生出雲=宗像〜門司の北部九州沿岸
弥生因幡=稲場=鐘崎
と考えると、考古学的にも説明がつく。 博多湾の吉武高木王が九頭竜川流域の石剣部族八岐大蛇を下して、
博多湾と若狭湾を領有することで日本海沿岸を支配するアマテラスとなった。
出雲=宗像〜門司の北部九州沿岸を根拠とするオオヤマツミは、
アマテラス領域の外、琵琶湖と瀬戸内海に新規開拓していく。
このような状況下で、考古学的には那珂川流域の弥生銀座が栄えてきて、
那珂川上流の須久地域に、那珂川流域=葦原中国をまとめる須久岡本王が現れる。
となると、
大己貴命は、弥生銀座のお坊ちゃんだったことになる。 大国主には大勢の妻がいるが、
古代出雲=宗像〜門司の北部九州沿岸における妻は、主なものでは、
八上姫(稲場)
須勢理姫(根の国)
田心姫と湍津姫(宗像)
がある。
須勢理姫の父はスサノオ
田心姫と湍津姫の父は(スサノオの剣から)アマテラス
では、残った有力者である八上姫は、
オオヤマツミ一族の女性ということになり、
縄文時代の山鹿貝塚から続く、古代出雲の女性指導者、オオヤマツミ女王であったわけだ。 大己貴命の実家は弥生銀座の須久岡本なわけだから、
多数の住人、多数の工房を抱えており、
大量の木材を必要とする。
博多湾〜若狭湾の日本海沿岸は、吉武高木王アマテラスの支配地域だから、
木材が必要だからといって、勝手に新規伐採することは出来ない。
であるから、弥生銀座の繁栄に伴って木材の需要が増えた須久岡本王は、
木材を融通してもらうために、
オオヤマツミ女王と婚姻を結んで、
アマテラス支配地域外である、琵琶湖周辺や瀬戸内科周辺の木材利権を融通してもらおう、
と考えたわけである。
現代と何ら変わることのない、商談をしに行ったわけだ。 オオヤマツミ女王である八上姫は、
荒々しい兄達ではなく、思慮深い末弟の大己貴命を選んで結婚する。
弥生銀座を運営するのに絶対必要な、オオヤマツミ領域の木材利権を
大己貴命が手にしたのだから、
このままでは大己貴命が須久岡本王になることは確実。
だから兄たちは必死で大己貴命の命を狙ったわけだ。
で、大己貴命は紀伊に逃れる。
日本海沿岸は、アマテラスによって支配された広域領土なので、
日本海沿岸に逃げても、普通に追いかけられて捕まる。
大己貴命はオオヤマツミ女王の八上姫と結婚したからこそ、
オオヤマツミ領域の瀬戸内海を抜けて、紀伊に匿われたわけだ。
兄たちが追いかけたくても、オオヤマツミが通してくれない。 紀伊には古くから外来系の石包丁などが出土している。
後には伊都郡那賀郡などの地名が残っていたのだから、
伊都や那珂川奴国、つまり博多湾の筑紫勢力が開拓していたわけだ。
人口の多い畿内と違い、
森林でおおわれた木伊には土着部族の数が少なく、
入植しやすかったのだろうし、
そもそも木材が主な目的のひとつだったのだから好都合だったわけだ。
忌部氏(伊部氏)を考えてみると、
考古学的には弥生銀座が筑紫伊部の本拠だったのだから、
弥生銀座を支配する須久岡本王とは、伊部氏の王であったか、
あるいは伊部氏を配下にする有力者だったか、
いずれにせよ大国主と伊部氏とは深い繋がりがあり、
だから紀伊に入植した紀伊忌部の祖である親族を頼って逃れたのだろう。
紀伊忌部の祖は木伊で森林開発しながら、
オオヤマツミ商社の瀬戸内海商舟に炭を売り、
代わりに生活必需品などを入手していたわけだ。 弥生銀座のお坊ちゃんであり、しかもジャニーズ系美男子である大己貴命が、
最果ての木伊に突然やって来たのだから、
現地の女性たちが大量に押し寄せる。
当然大己貴命はモテまくり、
畿内系の妻というのはこの隠遁時代に付きあった女性たちのことであろう。
また、
大己貴命の時代最先端のファッションや文化は
木伊や周辺地域の有力者や文化人の興味を大いにそそり、
社交も盛り上がる。
木伊の賢人スクナヒコナとも、この時代に既に出会っていたかもしれない。 大己貴命がいない間に兄たちが弥生銀座を仕切り、
財力にものを言わせて軍舟を調達し、木伊にまで押し寄せてくる。
それで仕方なく、
大己貴命は根の国にいるスサノオを頼ることになる。
同じ博多湾において、
吉武高木王アマテラスをさしおいて、弥生銀座の兄達が力をつけているので、
ある意味競争になっている状況。
吉武高木王アマテラスの王族将軍であるスサノオと
同盟交渉をする余地が十分にあるとふんだのだろう。
だがここでスサノオの娘、須勢理姫と恋愛関係に陥り、孕ませてしまう。
古代倭国の王族の娘なのだから、政略結婚の相手も決まっていただろう。
八上姫を結婚したとはいえ、弥生銀座を掌握できずに逃げていた大己貴命が
大事な娘に手を出してしまったので、
当然のことながらスサノオは激怒。
大己貴命を懲罰房にぶちこむ。
結局は愛娘の須勢理姫に負けて、スサノオは大己貴命に兵を与え、
大己貴命は兄達を討ち、
弥生銀座=葦原那珂津国、の主=須久岡本王となる。 考古学的には、スサノオの居所=宗像田熊石畑遺跡と考えられるのだから、
スサノオと須勢理姫がいた出雲の根の国とは、田熊石畑遺跡であったのだろう。
で、今度は八上姫が激怒。
オオヤマツミの力で木伊に匿ったのに裏切られたわけだ。
初代スサノオが東征する時にクシナダヒメを娶って以降も、
東方展開に重要な地である古代出雲=宗像〜門司の北部九州沿岸の姫を娶っていた可能性が高いのだから、
八上姫と須勢理は微妙な関係の親族であった可能性が高く、
その点でも問題があった。
子供を置いて立ち去ってしまう。
どこに立ち去ったかと言うと、
瀬戸内海もしくは琵琶湖へ立ち去り、
やがて来る(元)夫婦喧嘩の準備をしていたのだろう。 須勢理姫と正式に結婚した大己貴命は、
自らがスサノオ将軍となって、八千矛神になる。
オオヤマツミ八上女王の怒りを受けて立ち、
古代最大の(元)夫婦喧嘩戦争が勃発。
ここで高志国の沼河姫を娶る理由も想像がつく。
須勢理姫と結婚してスサノオ兵権を獲得し、
博多湾水軍の指揮権を得ただけでなく、
越の若狭湾水軍の指揮権も得るために越の沼河姫に求婚した。
もしくは、スサノオ兵権には博多湾と若狭湾両方の指揮権がついていたが、
オオヤマツミの琵琶湖下之郷遺跡と越とで若狭湾を挟撃されるのを避けるために、
越を味方につけて、逆に琵琶湖を一緒に攻めるのが目的だったか。
いずれにせよ、戦略上は非常に重要な結婚であり、
だからこそ須勢理姫も文句を言いながらも八千矛神を越に行かせたわけだ。 中広型銅矛を奉じる八千矛神は、平型銅剣を奉じるオオヤマツミ女王と戦い、
その領土を奪っていって、最終的に完全勝利する。
瀬戸内海沿岸の支配権も手に入れて、ついに大国主となった。
その後は、
@旧友である木伊スクナヒコナを森林長官に迎えて、葦原那珂津国の森林木材管理をしてもらう。
Aオオヤマツミ領土からの木材で、淡路島に舟木鉄工所を新設。
など、内政に力を入れていく。
一見すると、日本海沿岸の支配者アマテラスを越えて、
日本海沿岸+瀬戸内海沿岸の支配者となったかに見えるオオクニヌシだが、
形式としては、
アマテラス配下の将軍スサノオに任命されて、その軍勢で成し遂げた仕事であり、
アマテラスの領土を拡張したにすぎない。
スサノオの娘の須勢理姫を越えて、
アマテラスの娘である田心姫と湍津姫をも妻に迎えたが、
アマテラス一族は決してオオクニヌシのアマテラス就任を認めてはくれなかった。 だからこその金印である。
アマテラス一族が認めてくれないのなら、漢皇帝に認めてもらおうというわけだ。
だが、オオクニヌシに逆風が吹き始める。
まず、一緒に葦原那珂津国を発展してくれた功労者である
スクナヒコナが死去する。
木伊において森林管理に精通していたスクナヒコナがいなくなったことで、
森林管理の質が低下し、
密猟ならぬ密伐採、
あるいは賄賂をもらっての違法伐採黙認
などが横行し、那珂川流域の森林が荒れ始める。
そして漢使を迎えるにあたっての木材需要の高騰。
オオヤマツミに瀬戸内海からの木材供給を増やすよう命じるが、
八上姫以来の恨みから、思うように言うことを聞いてくれない。
結局は自領の木材を大量伐採せざるをえなくなり、
土石流の発生によって一夜にして全てを失ってしまったのだった。 美しい姫達と恋愛をしていたら
わらしべ長者のように
いつの間にか日本海沿岸と瀬戸内海沿岸の覇者になっていた。
そして漢皇帝からの金印授与。
人々から称賛され、頂点を極めたかに思えたのが、
ある豪雨の夜の洪水によって一瞬で流れ去った。
疫病が発生した葦原那珂津国から命からがら逃げだし、
須勢理姫の実家へ身を寄せた大国主は、
まさに一夜の夢のような人生をどう振り返ったことだろうか。 倭人伝など文献に残る痕跡としては、
各地に配置されたヒナモリ=夷守とは、
オオクニヌシの息子たち、事代主=恵比寿を、各地に配置していた名残りだろう。
国譲りによって、日向伊都王によって上塗りされて、
ヒナモリシステムはそのままに、その上に伊都派遣の支配者が置かれたのだろう。 長すぎて斜め読みしかできない。
だが、博多那珂津国の王が金印をもらったのであり、天津神アマテラスではないというのは、よい考えだと思う。
天津神が常に倭王であったわけではないのだろう。
ただ、個人的には金印は伊都にニニギが降臨してからだと思うので、年代に若干ズレがあるのではないか。 >>864
>中広型銅矛を奉じる八千矛神
【大国主神を祀る、全国唯一の式内社「八鉾神社」】
徳島県阿南市長生町に鎮座する「八鉾神社」。祭神は大己貴命。延喜式内社である。
この「八鉾神社」には四つの重要文化財が神宝として保管されている。
また「八鉾神社」自体も重要文化財に指定されているので、合計五つの重要文化財を持ち合わせている神社となる。
一つは「大己貴命 木造彫刻立像」
二つ目は「少彦名命 木造彫刻立像」
三つ目が「二品家政所 下文 」
四つ目が「附紺紙金泥法華経」である。
この八鉾神社、阿波では出雲の「杵築大社(出雲大社)」の元社であると伝えられている。
八鉾とは八千矛神(やちほこのかみ)。
出雲の主であり、長(おさ)である大国主神のこと。
大国主神の別名、大己貴神は、長国の偉大な主を意味している。
大国主神は、スサノオ命の子孫で、稲羽の素兎の物語で有名である。
オオクニヌシは、兄さん達から大きな袋を持たされる等、色々のいじめを受けたが、それらの試練を乗り越え、出雲国を治める立派な人となった。
オオクニヌシの子供にコトシロヌシ(えべっさん)と建御名方神(たけみなかたのかみ)がいる。
コトシロヌシは、式内社の事代主神社として、勝浦町沼江と阿波市市場町伊月に祀られ、タケミナカタは、式内社のタケミナトミ神社として石井町浦庄字諏訪に祀られている。
平安時代に記録される3132座の式内社の中に、これら八鉾神社やタケミナトミ神社等の神社は、阿波にしかない。 @阿波 その【大国主神を祀る、全国唯一の式内社「八鉾神社」】 は
南の狗奴国(卑弥弓呼勢力):長国(勝浦川流域勢力・那賀川流域勢力)に鎮座する。 @阿波
※南の狗奴国(卑弥弓呼勢力)
【勝浦川流域勢力 弥生時代集落】
勢合銅鐸出土地・田浦遺跡・新居見遺跡
【那賀川流域勢力 弥生時代集落】
若杉山遺跡・福寺山遺跡・宮ノ本遺跡 >>870
※南の狗奴国(卑弥弓呼勢力) 追加訂正
【海部川流域勢力 弥生時代集落】
芝遺跡・大里遺跡
【勝浦川流域勢力 弥生時代集落】
勢合銅鐸出土地・田浦遺跡・新居見遺跡
【那賀川流域勢力 弥生時代集落】
若杉山遺跡・福寺山遺跡・宮ノ本遺跡 別スレで、邪馬台国筑紫説という名称の提案があったが、どう思う?
佐賀と肥国とかを想定している人には受け入れられない? つまり卑弥呼の死後に崩壊したということか。
まあ、卑弥呼を共立した勢力の一つではあったかもしれない。 吉野ヶ里遺跡は、
弥生時代、から平安時代まで続く
複合遺跡です。
役所でもあったのか
9世紀の木簡も出土しています。 >>872
賛成^_^
共立勢力として
伊都
吉武高木
スク岡本
高良山
とか想定するのかな? >>876
>共立勢力として
伊都
吉武高木
スク岡本
高良山
あのねぇ、共立勢力がお墓や山なの? なんとかならんものかね? 九州説は。 @阿波 天御中主より彦なぎさまで筑紫城にイマスの
筑紫城はどこだろうね? >>872
>別スレで、邪馬台国筑紫説という名称の提案があったが、どう思う?
>佐賀と肥国とかを想定している人には受け入れられない?
佐賀は受け入れOK。
竹斯米多國が吉野ヶ里周辺(目達・米田・米多)にあったから、
佐賀平野東部も筑紫の地域に入る。 >>880
>竹斯米多國が吉野ヶ里周辺(目達・米田・米多)にあったから
じゃぁ、竹斯米多國で人が暮らした弥生集落遺跡群はどこ? @阿波 糸島と脊振南の佐賀地区は文化的にも共通項が多いから
、共立国でいいんじゃね?
つまり、佐賀平野と筑後川流域が入る。
そうなると、有明海の交流の国々も入ってくる。
九州の西側は唐津とこ交流国々がある。
東がようわからん。 米多とか吉野ヶ里の近くなので
集落遺跡は無数にあるよ。 いわゆる佐賀大和近辺は街道沿いに
弥生遺跡が並んでる。当時の海岸線だったんだろう。 >>883
だがそうすると、筑紫と肥国の共立国ということになる。 >>885
>集落遺跡は無数にあるよ。
目ぼしいのを挙げて。 @阿波 >>889
「企救国」ってのがよく分からないんだがその中心と想定されるという「城野遺跡」や近くの「重留遺跡」・「重住遺跡」
それが目ぼしい遺跡なの?
例えば、鉄器とか、鉄鍛冶炉遺構とか舶載鏡とか、採掘遺構とは言わないけれど水銀朱精製遺構とか そんなものはないのかね? @阿波
邪馬台国王都「吉野ヶ里」の衛星国ならありそうなもんだが・・・ @阿波 >>891
弥生鉄器は北部九州から出てる。
畿内からはあまり出てない。
調べればすぐわかることだから、自分で調べてね。 >>892
>弥生鉄器は北部九州から出てる。
なんで「吉野ヶ里」周辺で出ないのかね? @阿波 >>892
>弥生鉄器は北部九州から出てる。
鉄鍛冶炉遺構は? @阿波 >>893-894
めんどくさいから自分で調べてね。
誰も相手をしない理由がわかったよw >>895
>めんどくさいから自分で調べてね。
便利な逃げ口上だね。 想定どうりだけど。 @阿波 阿波についてそれだけ調べることができるなら、九州についても調べられるよね!
やればできるよね! >>898
いや、調べたんだけれどね。 これといったものがないんだよね。 九州には。 @阿波 >>895
>>899
@阿波は探す気がないんだよ。
資料を提示しても、@阿波は見る気がないみたい。
もし資料を見ていたなら、彼の眼は節穴らしい。 >>900
>@阿波は探す気がないんだよ。
資料を提示しても、@阿波は見る気がないみたい。
いや、その「提示された資料」をよくよく調べたんだけれどね。 これといったものがないんだよね。 九州には。
悪いが、阿波の遺跡にはとても及ばない、変哲もないものばかり。 @阿波 阿波さん阿波さん
集落遺跡っていい方は多分一般的じゃないから引っかからないと思うよ。
そこは弥生遺跡だと思うで。 to 阿波
>いや、その「提示された資料」をよくよく調べたんだけれどね。
調査資料(発掘調査報告書)は、今は有料になっているから、
佐賀県から取り寄せたのかね?
昔は、佐賀県の発掘調査報告書の一部はネットでも見られたこともあるが。 >>582
三国史記とかの記録によると
14年 倭人が兵船百余隻で海辺に侵入。
59年 夏の五月に倭国と友好関係を結んで修交し、使者を派遣し合った。
73年 倭人が木出島を侵して来たので、王は角干羽鳥を派遣して、これを防がせたが、勝てずして羽鳥が戦死した。121年 夏四月に倭人が東の辺境を攻めた。
123年 春三月に倭国と講和した。
158年 倭人が交際のために訪れた。
173年 倭の女王卑弥呼が使わした使者が訪れた。(「二十年夏五月。倭女王卑彌乎。遣使来聘」)
193年 倭人が大飢饉となり千余人にも及ぶ避難民到来。
208年 夏4月、倭人が国境を侵す。奈解王は将軍利音に反撃させた。
232年 夏四月に倭人が金城を包囲。
233年 五月 倭兵が東辺を攻めた。
249年 夏四月に倭人が舒弗邯、于老を殺した。
287年 夏四月に倭人が一礼部を襲う。1千人を捕虜にして立ち去った。
289年 夏五月に、倭兵が攻めてくるということを聞いて、戦船を修理し、鎧と武器を修理した。
292年 夏六月に倭兵が沙道城を攻め落とす。
294年 夏 倭兵が長峯城を攻めて来た。 295年 春 王が臣下に向かって「倭人が、しばしばわが城邑を侵して来るので、百姓が安じて生活することができない。私は百済と共に謀って、一時海を渡って行って、その国(倭)を討ちたいが、皆の意見はいかがか?」ときいた。
これに対して、舒弗邯、弘権が「われわれは海戦に不慣れでございます。冒険的な遠征をすれば、不測の危険があることを恐れます。
いわんや百済は偽りが多く、常にわが国を呑み込もうと野心をもっておりますから、かれらと共に謀ることは困難だと思います」と答えた。王はこれを聞いて「それもそうだ」といった。
300年 春正月に、倭国と使者を派遣し合った。
312年 春三月に、倭国の国王が使臣をつかわして、息子のために求婚したので、王は阿飡の急利の娘を倭国に送った。
344年 倭国が使者をつかわして、婚姻を請うたが、すでに以前に女子を嫁がせたことがあるので断った。
345年 二月に倭王が、書を送って国交を断ってきた。
346年 倭兵が風島に来て、進んで金城を包囲して攻めて来た。
364年 倭人は多数をたのんで、そのまま直進して来る所を伏兵が起ってその不意を討つと、倭人は大いに敗れて逃走した。
393年 倭人が来て金城を包囲し、5日も解かなかった。
402年 三月に倭国と通好して、奈勿王の子、未斯欣を人質として倭に送った。405年 倭兵が明活城を攻める。
407年 春三月 倭人が東辺を侵し、夏六月にまた南辺を攻める。
408年 春二月、王は、倭人が対馬島に軍営を設置し、兵器・武具・資財・食糧を貯え、我が国を襲撃することを企てているとの情報を手に入れた。
倭兵が出動する前に、精兵を選んで兵站をしようと考えたが、舒弗邯の未斯品曰く「兵は凶器であり戦は危険な事です。
ましてや大海を渡って他国を討伐し、万が一に勝つことができなければ、後で悔やんでも仕方ありません」王はこの意見に従った。 >>904
>調査資料(発掘調査報告書)は、今は有料になっているから、
佐賀県から取り寄せたのかね?
いつ提示されたっけ? その調査資料(発掘調査報告書)なるものを。 記憶にないんだけどw
そんな有料の資料じゃないといけないのかね? @阿波 >>907
今は調査資料(発掘調査報告書)を自由に閲覧できないので、
佐賀県から購入して読むしか方法がない。
価格は、遺跡毎の調査毎の報告書が一部3千〜5千円。と記憶しているが。
佐賀県が保管してない資料は紹介してくれたと思う。 そんな大層なものでなくても、これでいいんじゃないの。
https://www.pref.saga.lg.jp/kiji0031880/index.html
どっちみち、目ぼしい弥生末期集落遺跡はないんだから。 @阿波 >>910
>四国は侏儒国なんだからどうでもいいよ。
侏儒国にも「其山有丹」あったっけ? @阿波 鉱山大国の日本にあって「其山有丹=山に水銀鉱床があるよん」
じゃない都道府県ってどこよ? なるほど!
福岡県に水銀鉱床があろうがなかろうが
北部九州伊都説=伊都を首都とする北部九州邪馬台国だから
なるほど北部九州邪馬台国で問題が無いわけだな 【筑紫を中心とする倭国の交易路】
もともと日本海ルートが倭国の交易の主力だった。4世紀の仲哀天皇のときに関門海峡が開削され、5世紀の雄略天皇のときに風待ち港と澪標が整備され、瀬戸内ルートが整備された。なお、太平洋ルートは事実上存在しなかった模様。纒向は日本海ルートの末梢の辺境。
筑紫博多→出雲→丹後・若狭→能登・越→諏訪→甲斐・秩父
↓ ↓
↓ 近江三上祝→東濃→纏向
↓
宇佐→瀬戸内海→阿波・吉備→淡路島→摂津住吉
【九州北部勢力による倭国の拡大】
紀元前に、越のヒスイ勾玉を含む三種の神器が出現
→日本海沿岸の土器が博多湾へ流入
1世紀に銅矛などが拡散
2世紀に高地性集落が瀬戸内海を東征
→瀬戸内四国の土器が博多湾へ流入
2世紀末に銅戈が大阪湾上陸
→畿内から庄内式土器が博多湾へ流入
3世紀に大型内行花文鏡が畿内へ侵入
→畿内から布留式土器が博多湾へ流入 連弧文鏡と内行花文鏡は名称が違うから別物みたいに感じるけど、
連続した同じ系統の鏡でしょ。
同じ系統の鏡が、外周に雷雲文があるかないかだけの差で、
前漢時代は連弧文鏡で、
後漢時代は内行花文鏡なだけ。
連弧文鏡・内行花文鏡と、
方格規矩四神鏡の二大系統だけど、不思議だよね。
三雲南小路遺跡は、ほぼ連弧文鏡。
なのに、同じ墓域の、
井原鑓溝遺跡は、ほとんど方格規矩四神鏡。
なんで?
さらに、
卑弥呼様の平原遺跡では、内行花文鏡と方格規矩四神鏡が両方ある。
内行花文鏡は超大型八葉へと倭国独自発展しているけど、
数は超巨大5+2だけ。
一方の方格規矩四神鏡は32面もあるのに、ちょっと大きめだけど、
むしろちょっと退化。
なんで? 【里程】
漢代に楽浪郡を支配していた公孫氏が独自に制定したの里(短里)で実測
日本側の地名は漢代の地名(倭国の中に、末蘆国、伊都国、奴国・・・
魏が公孫氏の楽浪郡を滅ぼして押収した資料に短里使用が使用されており
これが魏略や三国志魏書の参考資料となる。
【日程】
魏代に魏使が出張日誌に記録
日本側の地名は魏代の地名(邪馬台国、狗奴国、投馬国、などは魏代に新登場
この出張日誌が三国志魏書の参考資料に加わる。
※公孫淵は自立を目指し燕王を自称し独自の年号を制定しており、度量衡も独自のものを制定したと考えられる
短里も公孫淵が制定したものであろう。 >>919
>短里も公孫淵が制定したものであろう。
周髀算経によると、
短里(1里≒76.5m平均値)は、
商代(BC1120以前)に制定されたことがわかる。
BC1600頃か? >>921
>周髀算経そんなことは書いてない
周髀算経に明確に書いてある
周髀算経を読み解くには、地球の歳差運動についての天文学識が必須。
@北極樞大星の観測記述を理解できること。観測時期:BC1120頃
A一寸千里の法(日影の観測記述)を理解できること。 つまり周髀算経には書いてないってことだよ
現代人の妄想だ 確か、周脾算経に書かれてたのは
当時の都付近の夏至の日に
八尺の棒の影が一寸変化する
南北方向の距離が千里ということだったね。
現在なら地球の大きさや都の緯度は
すぐわかるから計算も簡単で、
千里が7〜80kmで、短里だったと
言うことがわかるわけだ。 即ち、無知低能ボンクラにとっては、
周髀算経には「1里=76.5m」と書いてないってことになる。 239年親魏倭王金印授与時の銅鏡百枚は蝙蝠紐座内行花文鏡か方格規矩四神鏡が妥当だけど、
57年漢委奴国王金印授与時に貰う銅鏡はなんだろうか? 前漢鏡でも内行花文鏡は珍重されている。
後漢鏡でも内行花文鏡だろう。
籠神社にある饒速日の十種の神宝の鏡も内行花文鏡だからね。 >後漢鏡でも内行花文鏡だろう。
それは、いわゆる連弧文鏡だろうか、
それとも雷雲文を持つ、内行花文鏡だろうか。 http://www.motoise.jp/houmotu/kagami.php
に写真がある。
神宝 海部氏伝世鏡
(約二千百年前、昭和六十二年十月三十一日初公開)
息津鏡(学名 内行花文長宜子孫八葉鏡)
邊津鏡(学名 内行花文昭明鏡)
昭和六十二年十月三十一日(旧暦九月九日・重陽の節句)に二千年の沈黙を破って突如発表されて世に衝撃を与えたこの二鏡は、
元伊勢の祀職たる海部氏が當主から次の當主へと八十二代二千年に亘って厳重に伝世され来ったものである。
日本最古の伝世鏡たる二鏡の内、邊津鏡は前漢時代、今から二〇五〇年位前のものである。
又、息津鏡は後漢時代で今から一九五〇年位前のものである。
そしてこの神宝はその由緒が国宝海部氏勘注系図に記載されており、又當主の代替りごとに、口伝を以っても厳重に伝世されたものである。
現存最古の国宝海部氏系図並びに二千年前の伝世鏡は、當社の元伊勢たる史実を実証するものであろう。
(以上引用)
後漢鏡の方は長宜子孫銘雲雷文内行花文鏡だそうですよ。
それが何? 伊都、宗像、籠神社と、内行花文鏡つながりの元伊勢文化圏があったのですね。 >>931
私は九州説ですよ。
意図せずきつい口調になっていてすみません。
籠神社の鏡でいうなら、
息津鏡は、内行花文鏡で、長宜子孫、四葉紐座
邊津鏡は、(内行花文)連弧文鏡、昭明
息津鏡は57年に間に合ったかどうか。
邊津鏡は紀元前の鏡ですよね。三雲南小路2号墓に沢山あります。 銅鏡も色々と分類方法があるわけですが、
皇帝など貴族向けの献上用の銅鏡と、
それ以下の販売用の銅鏡に大別することもできます。
販売用の銅鏡は、楽浪郡にさえ到達していれば、
交易で手にすることができます。
しかし、漢の貴族層へ献上用の銅鏡であれば、
朝貢しなければなかなか手に入りませんよね? 伊都側から逆算すると、
三雲南小路1号墓は、連弧文鏡の0年前後の形式が大半、雷雲文内行花文鏡は無い。
三雲南小路2号墓は、連弧文鏡の紀元前のものが大半。
夫婦であれば同じ時代を過ごしたはずなので、
連弧文鏡の中での時代の相違は死亡時期とはリンクせず、
男王たるものは、連弧文鏡の0年前後の形式
皇后たるものは、連弧文鏡の紀元前の形式、
という単なる形式の問題だったように思われます。
そうなると、
籠神社の邊津鏡は、王族の「皇后」へ贈られたものである可能性が高くなります。
また、雷雲文内行花文鏡が無いわけですから、
57年以前に雷雲文内行花文鏡が後漢の主流となっていたなら、
三雲南小路遺跡は57年金印より前。
57年にはまだ雷雲文の無い連弧文鏡が重宝されていたのなら、
三雲南小路遺跡は57年金印より後、となります。
洛陽焼溝漢墓からは、前者の可能性が高いですが、
辺境の王に贈る鏡であれば、
外交と、後漢貴族の流行とは別物ですから、
洛陽焼溝漢墓の流行がすぐに外交へ反映されたという確証は無いので、
後者の可能性も残ります。 古来より倭は年次を違えることなく朝貢していたと書かれていたので、内行花文鏡もたくさんあるのでしょうね。
漢から冊封された倭王の証として内行花文鏡を拝領していて、漢の滅亡とともに国産の超大型内行花文鏡が倭王の証となったのでしょう。
おそらく伊勢や宮中の八咫の鏡も内行花文鏡のはずです。 現時点では、次に来るのが井原鑓溝遺跡なわけです。
大半が方格規矩四神鏡。
しかも漢有善銅ではなく新有善銅ですから、
後漢から見たら、黒歴史である新の銘がはいった方格規矩四神鏡が含まれている。
1世紀以降であることは確定なわけですが、
同じ墓域である南小路遺跡との落差が激しすぎます。
出自だけを考えれば、
井原鑓溝遺跡の被葬者は、方格規矩四神鏡が好みで、
交易で入手した方格規矩四神鏡を元に、
自前の工房で方格規矩四神鏡を量産して、
原版と一緒に自らの王墓に副葬させた、と考えればいいのですが、
権力の象徴である銅鏡の形式が
三雲南小路遺跡と異なるのはなかなか理解しがたいです。
これはどういうことでしょうか? >>937
>内行花文鏡もたくさんあるのでしょうね。
そこが最大の問題なのです。
内行花文鏡が権威の象徴であることに異存はありませんが、
その原本はどの王が入手したのでしょうか?
三雲南小路遺跡は、連弧文鏡。
井原鑓溝遺跡は、方格規矩四神鏡。
そして突然、
平原遺跡に超大型内行花文鏡が出現します。
もちろん、平原遺跡にも原本は存在しますし、
内行花文鏡、長宜子孫、四葉紐座
はそれなりに来日しています。
内行花文鏡、長宜子孫、四葉紐座は貴重品であり、
漢からも少量しか贈られなかった、
と考えれば、辻褄が合いますが、
三雲南小路遺跡にも井原鑓溝遺跡にも存在せず、
57年あるいは107年の朝貢に関係した別の王墓が存在する可能性なども
考えられるわけです。 三雲南小路遺跡と金印の関わりについての検証ですね。
なるほど。
ただし籠神社に前漢鏡と後漢鏡が混在しているので、多くの鏡が伝世していたはずで、考察自体が難しいですね。 古墳時代の副葬から、伝世は300年は考えられるわけで、
古い銅鏡が出るからといって、
古いのではなく、
古い銅鏡というのは、むしろ骨董品として
古ければ古いほど
希少価値の高い銅鏡として珍重されていった可能性が高い。
大量消費社会の現代とは真逆の価値観です。 そして須玖岡本遺跡です。
一見すると、三雲南小路遺跡と完全に同年代。
しかし、たった一枚の2世紀鏡によって、大混乱です。
そして甕棺墓の形式が、吉野ケ里遺跡と同じ。
方格規矩四神鏡が無いので、井原鑓溝遺跡よりは前。
とすると、九州説としては、
あまりにも後ろにずれてしまって困るわけですが、
なるべく早い時代に設定するのなら、
三雲南小路遺跡が57年より後の、1世紀の後半で、107年より前。
須玖岡本遺跡が107年にギリギリ2世紀鏡の最新版を副葬されて、
井原鑓溝遺跡はその後。
と考えるしかなくなります。 須玖岡本は王ではなく将軍クラスとの意見もありますが。
それなら三雲南小路以降は王墓は糸島平野側であり、まだ未発見の遺跡があるはずということになります。 >>943
そうなんです。
平原遺跡に八葉の国産大型内行花文鏡が存在する以上は、
内行花文鏡、長宜子孫、四葉紐座
が副葬された王墓がそれより前に存在しないと
説明がつかない。
三雲南小路遺跡の副葬品は、朝貢しなければ手に入らない品々ですから、
57年の時に入手したものである可能性が非常に高いでしょう。
となると、
内行花文鏡、長宜子孫、四葉紐座を手に入れたのは、
107年であることになる。
自分が外交で手に入れた銅鏡なら、
たとえ希少であっても、破鏡にして副葬させるわけですから。 井原鑓溝遺跡は江戸時代に発見されたわけなので、
内行花文鏡も入っていた可能性はありますね。
そうだとすれば、
107年に朝貢したのが井原鑓溝遺跡の被葬者になって、
現在判明している遺跡だけで話がまとまりますが。 私は前のスレのような論者ですので、
現時点での考えを示しますと、
須玖岡本の有力者(大国主)が、中広型銅矛にて広型銅剣オオヤマツミ女王国を制圧して、
1世紀に日本海沿岸+瀬戸内沿岸の淡路島までを統一した。
紀元前からの吉武高木アマテラスに対抗するため、
57年朝貢して金印ゲット。
連弧文鏡など各種威信材を下賜された。
が、葦原那珂津国の大洪水にて失脚。
古代出雲=豊前にて討たれ、墓なし。
後代出雲へ封印。
その後に新伊都=三雲日向に擁立された、
三雲南小路王(ニニギ)が、威信材の全てを受け継いだ。
その一部は父親である立岩遺跡(オシホミミ)へ副葬。
オシホミミは倭王を固辞したから破鏡せず。
ニニギは倭王だから破鏡。 57年朝貢で、なんで連弧文鏡かというと、
専門家の方が詳しいでしょうけども、
方格規矩四神鏡というのは、新の王莽が威信鏡として重用していたわけです。
新を滅ぼして後漢を作った当事者である光武帝ですから、
方格規矩四神鏡を与えることはありえない。
復興した漢の威光を示す、
前漢の連弧文鏡こそが、金印と共に与えるのにふさわしい銅鏡であろうと思われます。 三雲南小路遺跡被葬者(ニニギ)の兄である、
銅戈将軍(ニギハヤヒ)は、
淡路島から先の、大阪湾攻略戦、
安芸平定
そして日本海側へ回っての、越後→信州平定、を成し遂げる。
亡くなった時期はニニギとどちらが早いかわかりません。
ニニギは一旦は近畿で葬られたと思われます。
しかし、
コノハナサクヤヒメだけを妻としたニニギと違い、
子だくさんのニギハヤヒの子孫、特に九州妻の子供たちが、
ニギハヤヒの遺体を北部九州倭国=高天原へと運び直して、(先代旧事本紀)
滅ぼした大国主への鎮守として、
本来は大国主の本拠であった、須玖岡本遺跡へ被葬した。
よって、時間差が生じて、
弟の三雲南小路遺跡とほぼ同じ銅鏡ながらも、
銅戈将軍ニギハヤヒの墓には、
ギリギリ2世紀鏡が副葬された。 この仮定でも、結局は
内行花文鏡が問題になります。
籠神社の銅鏡は、三雲南小路遺跡の王から、
生前の須玖岡本被葬者=銅戈将軍とその妻に贈られたものになるわけです。
それぞれが誰であるかは、上の仮説を読んでいただければと思います。
根拠もありますよね。
邊津鏡は、三雲南小路2号墓のものと同じであり、
銅戈将軍の妻へ贈られたものでしょう。
だがしかし、
銅戈将軍その人に贈られたであろう、
息津鏡=内行花文鏡で、長宜子孫、四葉紐座
はどうでしょうか?
三雲南小路遺跡にはありません。
銅戈将軍の九州妻との子孫が、三雲南小路遺跡よりも後の、
須玖岡本遺跡被葬時に追加した、と考えることもできます。
どうでしょうか。 以上が銅鏡についてですが、
実はそんなことはどうでもいいくらいの大問題があります。
鉄鏡、です。
2世紀の中国では、
銅鏡などよりも、鉄鏡のほうが重要になっていて、
辺境の王に対しても、鉄鏡を下賜し始めています。
魏においても同様で、
曹操が既に、皇帝、皇后、皇太子、以下のそれぞれに対する、
鉄鏡の規範を定めています。
卑弥呼が朝貢したのは、3世紀。
魏においては、
とっくの昔に権威があるのは鉄鏡。 中国の皇帝が、辺境王からの朝貢に対して下賜する威信鏡としては、
前漢(〜8):連弧文鏡
新(8〜23):方格規矩四神鏡(新有善銅)
後漢・光武帝(23〜57):連弧文鏡or内行花文鏡
後漢(1世紀後半):四葉内行花文鏡
後漢(2世紀以降):鉄鏡
魏:鉄鏡
がふさわしいわけです。 卑弥呼は親魏倭王の金印を貰いました。
そしてそれに伴い、夥しい数の品々を貰いました。
銅鏡百枚はリストの最後の方にさりげなく記載されていますが、
これは威信材でしょうか?
魏の文献には、皇帝一族は立場に応じた鉄鏡を所有すると書かれています。
各地の辺境王にも鉄鏡を下賜して、辺境王は副葬しています。 >>948
>ニニギは一旦は近畿で葬られたと思われます。
ニギハヤヒは一旦は近畿で葬られたと思われます。 57年、107年にそれぞれどの(貴族献上用)銅鏡が贈られたかは、
非常に重要な問題と思われます。
販売用銅鏡は、幅広い時間差をもって、日本へ伝わるわけですが、
献上用銅鏡は、交易による自然拡散ではなかなか伝わらないですし、
伝わる時は、朝貢によってダイレクトに伝わるわけです。
さらに、献上用銅鏡は、日本の王族にとっても重宝される。
問題点の一つは、
内行花文鏡、長宜子孫、四葉紐座
が、どの朝貢によって来日来倭したのか?
一つの解としては、井原鑓溝遺跡にあったけれども、
江戸時代の発掘なので、記録が失われただけ、と考えられます。
事実、井原鑓溝遺跡の他の地点からは、内行花文鏡が見つかっていますので、
107年朝貢は、井原鑓溝遺跡被葬者だった、でもいいでしょう。
もう一つの問題点は、
平原遺跡女王=卑弥呼が、
なぜに3世紀に、鉄鏡ではなく、わざわざ銅鏡を百枚ももらったのか?
後漢滅亡時の中国三国志大乱、公孫氏による遮断
などの間に、
倭国では大型内行花文鏡が独自発達して、
もはや鏡は大型内行花文鏡が至高であり、
新興国である魏からの銅鏡は、
九州説の方が言っていたように、溶かして原料として再利用する価値しかなかった、
という可能性もあるでしょう。 四葉紐座内行花文鏡なら、
伊都の井原鑓溝遺跡の完全なる家臣墓である、
末蘆國の桜馬場遺跡から出ている。
井原鑓溝遺跡+桜馬場遺跡が四葉紐座内行花文鏡は入手していた。 興味深い
投稿を中断して申し訳ないのですが
とか言ってる錯乱した人がいるんですが
円周が八咫だから八咫の鏡はいいとして
以降の四つをまとめて主張してる人とかいます?
528 日本@名無史さん[sage] 2018/04/23(月) 20:55:50.82
平原1号墓出土鏡の円周は八咫
だから、八咫の鏡
だから、平原1号墓は卑弥呼の墓
だから、伊都国が邪馬台国の都
だから、短里で正しいに決まってる
だから、水行10日の起点は帯方郡
最初の鏡の円周が八咫なのは事実だから絶対に否定できない(エッヘン)
って思ってたのにねぇ
そもそも「咫」が長さを測るのに使われていない、っていう反論は盲点だったんだろうね
大陸史書の全用例の確認っていうのは、電子テキストの検索ができるようになる前は
何年もかかって専門の研究者が調べるような内容だったんだけれど、今は素人の趣味人程度で
きっちり論証に使えるんだから便利な世の中になったものだ
で、全用例が確認済みだから、反論できないのも確認済みww
まあ、常識からしても、伊都国説は無理があるよな 五尺刀中国朱など副葬された女王墓で、70-80年男王墓が続いた後の長期政権。
だから、平原1号墓は卑弥呼の墓
魏使は伊都で卑弥呼や台与と面会している。
だから、伊都国が邪馬台国の都
三国志東夷伝の里程全てが、弥生時代にしては現代地理と驚くほど相関している。
だから、短里(東夷伝里)で正しいに決まってる
里程と日程を直列させるのではなく、里程は漢代楽浪郡使、日程は魏使、の並列記事。
だから、水行20日の起点は帯方郡
(外交問題に気を遣う人は、日程部分は放射読み)
以上が邪馬台国伊都北部九州説。
以下は、畿内ヤマト政権の成立に関わる後世の別問題。
平原1号墓出土鏡の円周は八咫
だから、八咫の鏡
長さを言っているだけだから事実ではある。 魏志倭人伝の邪馬台国までの里程
帯方郡(朝鮮北部)から狗邪韓国まで七千里、女王国まで一万二千里。
対馬海峡が三千里であり、帯方郡から九州上陸までで一万里となるので、邪馬台国の位置は九州北部になる。
後漢書における里程
大倭王は邪馬台国にいる。
楽浪郡の国境は、その国(邪馬台国)から一万二千里である。
倭国の西北界である狗邪韓國からは七千里である。
倭奴国は倭国の極南界である。 倭人伝をよく読めば伊都国が卑弥呼の都であることは明白なんだがな
伊都国に一大率がいたとか書いてもないことを主張してる人って奈良に邪馬台国を持って行きたくてわざと誤読してるとしか思えないな。 >>963
日本の天皇信者は、アメリカの進化論否定論者と同じだから。 >井原鑓溝遺跡+桜馬場遺跡が四葉紐座内行花文鏡は入手していた。
平原の大型内行花文鏡は無銘だから、
モデルとしては長宜子孫鏡よりも相応しいかな。 倉本一宏も「水行10日、陸行1月」の起点が帯方郡説だと 魏志倭人伝の邪馬台国までの里程
帯方郡(朝鮮北部)から狗邪韓国まで七千里、女王国まで一万二千里。
対馬海峡が三千里であり、帯方郡から九州上陸までで一万里となるので、邪馬台国の位置は九州北部になる。
魏志倭人伝の邪馬台国までの日程
帯方郡から邪馬台国まで水行10日、陸行1月(1日の誤りか)
ちなみに帯方郡から投馬国(宮崎都万)まで水行20日
後漢書における里程
大倭王は邪馬台国にいる。
楽浪郡の国境は、その国(邪馬台国)から一万二千里である。
倭国の西北界である狗邪韓國からは七千里である。
倭奴国は倭国の極南界である。
魏略逸文における里程
帯方(郡)より女(王)国に至る万二千余里。
邪馬台国時代の遺物の出土状況
http://yamatai.cside.com/tousennsetu/image/zu11.gif >帯方郡(朝鮮北部)から狗邪韓国まで七千里、女王国まで一万二千里。
>対馬海峡が三千里であり、帯方郡から九州上陸までで一万里となるので、
>邪馬台国の位置は九州北部になる。
九州上陸から邪馬台国まで二千里なら合計一万二千里で問題ないじゃんよ これが私の邪馬台国論です
ぜひ読んでみてください
http://www7b.biglobe.ne.jp/~iichirou/
反論あるならどうぞ >>972
長すぎますか?
どこか1ページだけでも読んで頂いて感想くださったら有り難いです >>971
「神武天皇から10代崇神天皇の即位前までの時代が、邪馬台国時代にあたります。」
根拠のない話を前提に長々と書かれてもね。
オシホミミと開化天皇が同じだとか、何世代すっ飛ばしているんだよという話。
デタラメな妄想としか言いようがない。
誰と誰が同じ、なんていう話はほとんどが嘘だと思っているから。 >>974
皇統系譜上に於ける初代、神武=天村雲命。(海部、葛城(出雲)連合王国)
この天村雲命に始まる王朝が概ね欠史八代に相当します。
崇神は実在はしたけど畿内に向かう準備中に死去。
事績として伝わる神武の東征譚は実際には崇神の息子、イクメ(イサチ)大王=垂仁に依るとか? >>976
その「天村雲命」が日本で唯一、阿波でのみ祀られている不思議。 @阿波
式内社 阿波國麻殖郡「天村雲神伊自波夜比賣神社」
http://www.genbu.net/data/awa2/murakumo2_title.htm >>977
丹波風土記(残欠)には、丹波に天下った天火明命(始祖/=ニギハヤヒ/=ニニギ)の命を承けて
御子、天香語山(五十猛)と御孫の天村雲らは国家建設の為軍団を率いて各地を転戦して苦労の末に国が成った。と言います? 故・金関 恕(かなせき ひろし)先生の発見した国宝・中平銘鉄刀(東大寺山古墳出土)。
その鉄刀の主、謎の豪族「和邇氏」とヒミコは繋がるか。
繋がります。和邇氏はトヨから始まります。
事代主
┣━━━━━━━┓
天日方奇日方(鴨王) ヒメ踏鞴━━神武
┣━━━━━━┓
建飯勝 渟名底仲媛━━ 安寧
┃ ┃
建甕尻 息石耳 ※ヒメ踏鞴(248年没)
┃ ┃
豊御気主 トヨ津━━ 懿徳
┃ ┃
大御気主 孝昭
┃ ┃
阿田賀田須 天足彦国押人命
┃
和邇日子押人命
┣━━━━━━━┓
彦国姥津命 姥津媛(開化天皇妃)
┏━━━━━━━━━━━━━╋━━━━━┳━━━━━━┓
伊富都久命 彦国葺命 小篠命 乙国葺命
┏━━━━━━┳━━━━━━━┫ 【丈部氏祖】 【吉田氏祖】
彦忍人命 建耶須禰命 大口納命 【飯高氏祖】
(武社国造) ┃ ┣━━━━━━━┳━━━━━━━┓
八千宿禰命 難波根子武振熊命 彦汝命 真侶古命
(吉備穴国造) 【和邇氏祖】 【葦占氏祖】 (額田国造)
邪馬台国の場所はヒメ踏鞴やトヨ津が住んだ葛城、奈良県御所市。
神武東征とは女王国であった史実を隠ぺいするための大袈裟な記述であった事が分かります。 【葛城鴨王家の系譜】
大和国葛城にいた古代氏族の系譜。
その祖は博多の王である大山祇の子であり、摂津に鎮座する三島溝杙耳(陶津耳)である。
その息子は登美に移住して神武と戦った長髄彦であり、娘は活玉依姫である。
出雲の国譲りの後に大和に移住していた事代主は三輪山の神となっていたが、活玉依姫に娘と息子を生ませる。
娘は後に神武の妃となるイスケヨリ姫(五十鈴姫)であり、息子は天日方奇日方(櫛御方)である。天日方奇日方はまたの名を鴨主という。
天日方奇日方の曾孫が太田多根子となる。
この家系には別の伝承がある。
飛鳥大神の娘である登美夜姫が、高天原からやってきた天照の孫であるニギハヤヒとの間に生んだ子が、物部氏の祖であるウマシマジである。
登美の長髄彦は、神武との戦いの中で「自分は天神の子であるニギハヤヒに仕えて妹をニギハヤヒに娶らせたが、どうしてまた天神の子と称するものが来て土地を取ろうとするのか」と言っている。
とすると、登美夜姫と活玉依姫はともに長髄彦の妹ということになる。
いずれにしても、大和国の主だった勢力はいずれも筑紫か出雲、高天原にその起源があることになる。 伊都国は、「都の字の定義」からも伊都国が都ってのも否定されちゃったね 平原1号墓出土鏡の円周が八咫だから八咫の鏡ってのも否定されたし 短里、東夷伝里は、ただの繰り言で一般には認められない俗説 水行十日の起点を帯方郡に移すのも根拠なしの無理読み そもそも、魏志倭人伝(三国志)は、正史とされる史書であり、暗号書でもパズルでもない 「解読」して、この読み方が正しい、などというのは愚の骨頂 極力素直にそのままで読めば、読者に意味が通じるように書かれている 旅程も戸数も別に書いてあるのに、同じ国だという読み方は、不自然の一言で却下されてしまう 実際、魏志倭人伝でも、女王の都するところと明記された邪馬台国は 伊都国の戸数は、千戸であり、魏志倭人伝に「国」としてと数を記された中では同率最下位だ 隣に二万餘戸の大国、奴国があるのに、伊都国に都があるとするのは不自然の一言だ 平原1号墓が卑弥呼の墓だとするのと、伊都国が倭国の都=邪馬台国とするのは、 平原1号墓は、殉葬墓があって、八咫の鏡があるから、卑弥呼の墓という論法だったが 殉葬墓とされた土坑墓は埋葬時期がずれていて殉葬ではないには明らかだし、
円周が八咫だから八咫の鏡というのも否定された
墳丘サイズが12×8メートルで径百歩にはどうやっても届かない平原1号墓は、
卑弥呼の墓ではあり得ないし、伊都国が倭国の都とするのも、不自然なことばかりであり得ない
伊都国=邪馬台国説は成り立つ余地がない このスレッドは1000を超えました。
新しいスレッドを立ててください。
life time: 94日 5時間 23分 39秒 5ちゃんねるの運営はプレミアム会員の皆さまに支えられています。
運営にご協力お願いいたします。
───────────────────
《プレミアム会員の主な特典》
★ 5ちゃんねる専用ブラウザからの広告除去
★ 5ちゃんねるの過去ログを取得
★ 書き込み規制の緩和
───────────────────
会員登録には個人情報は一切必要ありません。
月300円から匿名でご購入いただけます。
▼ プレミアム会員登録はこちら ▼
https://premium.5ch.net/
▼ 浪人ログインはこちら ▼
https://login.5ch.net/login.php レス数が1000を超えています。これ以上書き込みはできません。