邪馬壹國は北部九州に在った(王都は伊都国)part12
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邪馬壹國は北部九州5県(福岡、佐賀、長崎、熊本、大分)に跨って存在し、
卑弥呼は伊都國を都として邪馬壹國を統治していた。
邪馬壹國とは26か国の国邑で構成されており
その26か国の国邑とは對馬國、一大國、末廬國、伊都國、奴国、不彌國と旁國20か国(斯馬國、已百支國、
伊邪國、都支國、彌奴國、 好古都國、不呼國、姐奴國、對蘇國、蘇奴國、 呼邑國、華奴蘇奴國、
鬼國、爲吾國、鬼奴國、 邪馬國、躬臣國、巴利國、支惟國、烏奴國)
魏志倭人伝には伊都国に卑弥呼が居たとの記述が2か所あり、その一つが 「世有王皆統屬女王國」である。
「世有王皆統屬女王國」の「A統屬B」は「AはBに統屬する」の意味であり
Aについて「伊都国の代々の王は皆」と理解されていたが、
ここでは「世有王」としかなく「世世有王」ではない。
「世有王」の「世有」について『三国志』内で用例を調べると魏書に4例、呉書に1例有る。
「三世有」(魏書)、「當世有」(呉書)等の特殊な事例を除き『三国志』内では「世有」は魏の世を示している。
「世有」を代々と訳してよい場合でも親子二代程度で何代も続いたとの意味ではなく
「世有」は魏代内の世である。即ち「世有王」は「代々の王」の意味ではなく、
「世(魏の世)は王が居た」の意味なのである。
そして文はここで一旦切れて、次に続く「皆」は「世有王」ではなく別のものを指しているのであり、
それは倭の国々のことである。
「皆統屬女王國」の「皆」は倭国の国々を指していると考えられる。
「皆統屬女王國」とは「倭の国々は皆、女王国に統屬していた」の意味なのである。
すると前文の「世(魏の世)に王が居た」の王とは女王国の王である卑弥呼や壹與のことを指していると判明する。
また「世有王」とは「魏の時代に王(卑弥呼、壹與)が伊都国に居た」こと指すと結論される。 邪馬壹國は北部九州筑紫平野に在った
(旧倭都は伊都國・新倭都女王王都は久留米)
伊都國の王は旧倭國王
伊都國は惣座遺跡・肥前国庁跡
新倭國の王は卑弥呼
卑弥呼の倭都は久留米南部(隋書俀國伝のヤマタイ) >>491
伊都國の王は、途中で消滅するような
弱小の王だよ。邪馬台国の時代には
もういなかったんだから。
奴の国の王は旧倭國王
新倭國の王は卑弥呼
卑弥呼の倭都は久留米南部(隋書俀國伝のヤマタイ)
でいいだろ >>483
本人に確認したら(どこの骨董市かも含めて)
とうとう白状しなかったよ。インタビュー記事がある。
鏡の文字も鮮明すぎる。インタビューした教授が
こんなにはっきりしたのは今までみた古代鏡のなかでは
見た事がない、と述べている。
つまりは現代の贋作ということだ。決着はついた。 >>492
>伊都國の王は、途中で消滅するような弱小の王だよ。
>邪馬台国の時代にはもういなかったんだから。
少なくとも卑弥呼王の新倭國が景初二年(238年)十二月に成立するまでは、
女王國に統属している旧倭國王(世有王)は伊都國に居た。 これは他のスレッドの話になるんだけど
パク(朴)氏の話をしている人がいたよ、
何か理由でもあるのかな
子供の頃、一緒に遊んだりしていたんだけど、
ちなみに川崎市川崎区の話 朴氏と言っても、普通の一般人だよ、
・・・そうだと思う
朴 李 金 郭 田
このような名前の人達がいたり、
なぜか多い >>492
倭国王は伊都国の王統だろ。
少なくとも中国側はそう見ていた。 >>497
>倭国王は伊都国の王統だろ。
>少なくとも中国側はそう見ていた。
伊都国王統の倭王は景初二年(238年)以前の旧倭國の王。
卑弥呼は景初二年(238年)以降の新倭國の王。
景初二年(238年)以前の卑弥呼は女王國の王。
卑弥呼は女王國の王であったが、景初二年(238年)に魏は倭國王と認めた。
倭奴國の王統は、107年に帥升によって滅ぼされた。
そして帥升は倭國王となった。
伊都國には楽浪郡からの郡使が訪れているから、
伊都國の王は、帥升王統の倭國王と推定される。 >>498
>倭奴國の王統は、107年に帥升によって滅ぼされた。
そして帥升は倭國王となった。
いや、中国側は倭国を前漢代から朝貢してきた連続した王朝とみなしていた。 福岡市 広報戦略室??認証済みアカウント? @Fukuokacity_pr
比恵(ひえ)遺跡群で出土した石製品が硯(すずり)であることが分かりました。
比恵遺跡群のある福岡平野は「魏志倭人伝」に登場する「奴国(なこく)」の中心部とされています。
邪馬台国時代の「奴国」で、文字の使用を示す発見です。
福岡市博物館「ふくおか発掘図鑑8」で、3/6〜4/1まで展示します。
12:50 - 2018年3月5日
https://twitter.com/Fukuokacity_pr/status/970506712603127809 >>499
>いや、中国側は倭国を前漢代から朝貢してきた連続した王朝とみなしていた。
「安帝永初元年 倭國王帥升等獻生口百六十人 願請見」
永初元年(107年)に倭國王帥升は安帝に生口百六十人を獻じ、
請見を願ったが、却下された。
生口百六十人は倭奴國の捕虜。倭王権交代の証拠である。
安帝は帥升を倭國王と認めたが、
初代皇帝である光武帝が倭奴國に奉貢朝賀と印綬を与えているので、
帥升が倭奴國を継承する王であるとしている。 蝙蝠鈕座内行花文鏡は不思議と副葬品としては重要な位置を占めていない様に見える。
糸島のくびれあたりの潤地頭給遺跡でそれこそ弥生終末期ピンポイントの位至三公銘蝙蝠座鈕内行花文鏡が出土してるが、その墓に特に強い権力者という様相はない。
4世紀後半と見られる一貴山銚子塚古墳だが、棺内に置かれたのは鍍金方格規矩四神鏡と長宜子孫内行花文鏡。
棺外に三角縁神獣鏡。
古来からの鏡形式のこだわりがある事がわかる。
このあたりの地域ではこの二種の鏡が最上位なのだろうな。 平原遺跡は明らかに蝙蝠の内行花文鏡が最上位だろ。
と言うか、内行花文鏡の中に序列があるようには思えないね。
籠神社の神鏡である内行花文鏡(十種の神宝)も、形式や年代はバラバラだし。 >>502
漢皇帝と倭王の関係は案外形式的なものじゃなくて
現代みたくトップ(優位勢力)同士の相性が効いてたんじゃないかな。
共和党だと仲良くできるけど民主党だとイマイチみたいな感じで
四葉内行花文鏡の頃はお互い円満にいったたけど
蝙蝠の頃は疎遠になったとか。 >>507
そこに大問題がある。
中国に勢力同士の傾向があったとしたら、
日本にも勢力同士の傾向があった可能性はないだろうか?
つまり、
中華皇帝と誼を通じて権威確立しようとする勢力と
日本独自の世界観で権威確立しようとする勢力。 なんで伊都に上陸じゃなくて末蘆國に上陸したのか?
五百里も陸行なんてしんどいし皇帝からの品々も陸送したの?
ナンパした説にしては末蘆國の人々が海に潜ってるのを見てるから
嵐じゃなさそうだし。
なんで陸行五百里だりょしかも東南ぽ。 >>509
>なんで伊都に上陸じゃなくて末蘆國に上陸したのか?
伊都国は直方辺り 内陸なんだから、そりゃ無理。 @阿波 >>502
>4世紀後半と見られる一貴山銚子塚古墳だが、棺内に置かれたのは鍍金方格規矩四神鏡と長宜子孫内行花文鏡。
>棺外に三角縁神獣鏡。
つまり方格規矩四神鏡と内行花文鏡は4世紀後半まで重宝されていたわけだな。
銅鏡を中国での年代で古く論じることはできないわけだ。 というか、八咫の鏡にもなった内行花文鏡が至高なわけだよ。
籠神社の10種の神宝の鏡も内行花文鏡。
内行花文鏡と方格規矩鏡を詰め込んだ平原がいかに高位の王墓であるかわかるし、後漢鏡からはるかに進歩しているから魏代の卑弥呼以降の遺構であることも明白。 え?青銅鏡は、後漢時代が最盛期だよ
魏、晋時代には劣化・簡略化されてる 平原遺跡は独自の進化を始めた魏代以降の女王墓。
被葬者の最有力候補は卑弥呼。 祇園山古墳被葬者の最有力候補は、卑弥呼と奴婢100人。 >>507
>魏皇帝と卑弥呼はかなりウマが合ったようだね。
魏皇帝と卑弥呼は利害一致。 【日本の歴史】
1世紀
倭奴国 漢と通じ金印を貰う
倭国=朝鮮半島南岸〜対馬〜壱岐〜九州北岸
海洋民による海洋国家
後漢書「倭奴国は倭の極南界」
2世紀前半
九州銅矛圏vs近畿銅鐸圏
近畿銅鐸圏の王、帥升が後漢に朝貢
北宋通典「倭面土国(ヤマト国)王帥升」
2世紀後半
銅矛圏の一部勢力(安曇氏)が大阪侵略(大阪湾型銅戈)→倭国大乱
→卑弥呼即位により銅矛圏と銅鐸圏が和睦し同盟
出雲、吉備は従わず(狗奴国)
銅矛圏の王も廃されず伊都国に残る
魏志倭人伝「邪馬台国(ヤマト国)女王卑弥呼」「伊都国、世有王」
旧宗主国倭奴国王族の住吉氏、領地の朝鮮半島南部に亡命、新羅王として即位
(住吉神 中筒男=新羅王2代目 南解次次雄)
3世紀前半
邪馬台国連合=北部九州、近畿
出雲、吉備は銅輸入ルートから締め出され、銅器を使わない独自の祭祀を開始
(出雲=四隅突出墓、吉備=特殊器台)
丹波地方にいた住吉王族残党が新羅合流(丹波〜若狭湾は四隅突出墓の空白地帯)
(住吉神 底筒男=新羅王4代目 昔脱解) >>514
ですね。
つまり平原遺跡の劣化方格規矩四神鏡こそが魏鏡。 いや、それは後漢鏡のコピー
しかも尚方(官営工房)で作ったものでなく、普通に取引されてる鏡のコピー 畿内説互助会
就職活動
天下り
税金泥棒
観光目当て >>509
秀吉の朝鮮出兵だって、
博多湾から出航してもよさそうなのに、
名護屋浦にわざわざ巨大な城と
兵站基地を作ったんだぞ。
古代では壱岐から伊都に向かうよりも
なるべく少しでも早く上陸したかったんだろ >>526
>秀吉の朝鮮出兵だって、
博多湾から出航してもよさそうなのに
対馬海流に邪魔されて、博多湾から出航できないよ。
だから、名護屋に城を築いたんだよ。 @阿波 >>526
伊都から壱岐に行くのに、呼子から出港するならわかります。
けれども壱岐から伊都に向かうのなら、
壱岐から呼子までは危険ですが、
呼子から伊都までは湾内での沿岸航行でいいので、比較的安全なはずです。
魏使の船酔いがひどくて一刻も早く上陸させてくれと頼んだのでしょうかね。 >>528
>伊都から壱岐に行くのに、呼子から出港するならわかります。
呼子よりもっと西からだね。 名古屋以西。 @阿波 対馬海流
以下の点から、末盧國側の到着地点は呼子だと確定する。
・壱岐〜呼子は23kmと短距離な上に、間に馬渡島や加唐島があって安全性が高い。
・壱岐〜呼子の潮流は、日によって方向が変わる。(下記参照)
・楽浪土器など海外土器は伊都(沿岸〜三雲)に、日本国内各地からの土器は奴国に集中。
(国内船で混雑する博多湾と、朝鮮半島からの国際線を別々に管理)
☆潮流の向きは変化する。
対馬海峡:朝鮮半島〜対馬〜壱岐〜九州北岸 は以下の部分に分けられる。
対馬海峡西水道(朝鮮海峡):朝鮮半島〜対馬、60km
対馬海峡東水道(狭義の対馬海峡):対馬〜壱岐、55km
(壱岐から九州までは近距離にて水道外:壱岐〜呼子、23km)
潮流の向きは、海底地形や気象、潮の干満によって影響されて日々変化する。
壱岐〜呼子の表層流(海洋レーダーシステム)
<2011年6月> 北東・東:3 南西・南・南東11 北8 西3 乱流4 (日)
<2012年6月> 北東・東:3 南西・南・南東10 北7 西9 乱流1 (日)
<2013年6月> 北東・東:4 南西・南・南東6 北8 西10 乱流2 (日)
<2014年6月> 北東・東:2 南西・南・南東7 北9 西10 乱流2 (日)
<2015年6月> 北東・東:1 南西・南・南東6 北19 西3 乱流1 (日)
極端に北向きの流れが多い2015年を除いて、2011年から2014年までを平均すると、
南向き34(壱岐→呼子:28.6%) 東向き12(10.1%)
北向き32(呼子→壱岐:26.9%) 西向き32(26.9%) 乱流9(7.6%) >>530
じゃあ、呼子は大陸からの玄関口なのかな? @阿波 壱岐⇔呼子⇔唐津⇔伊都(楽浪土器)
玄関口といえば玄関口だな。 >>530
>・壱岐〜呼子の潮流は、日によって方向が変わる。(下記参照)
そんなにころころ潮流の方向が変わっちゃ、おちおち安全航行なんてしておれんだろ? @阿波 >>533
現実何だからしょうがない。
むしろころころ変わる潮流を読むからこそ、
壱岐対馬のイザナギイザナミは対馬海峡利権を独占できたわけだ。 >>532
>壱岐⇔呼子⇔唐津⇔伊都(楽浪土器)
なら、宗像のように、朝鮮半島の鉄鋌(てってい)もあるよね? @阿波 まあ、壱岐対馬の住人は
普通に穀物の買い出しに行くけど
遣唐使はさんざん遭難してるからな。
地元民が海流と風を読まないと
難しい海域なんだろうなあ。 潮流を読みさえすればほとんど漕がなくても渡れるということだ。 >>534
>壱岐対馬のイザナギイザナミは対馬海峡利権を独占できたわけだ。
なら、宗像のように、朝鮮半島の鉄鋌(てってい)もあるよね? @阿波 >>532
>玄関口といえば玄関口だな。
じゃあ、宗像方面が「世界文化遺産」に認定されて
なんで、呼子方面が「世界文化遺産」に認定されないんだい?
その差をなんと考える? @阿波 >>539
弥生時代の渡海ルートとは無関係。
@阿波は相変わらずアレだなあ、と考える。 >>541
>弥生時代の渡海ルートとは無関係。
あれ? 呼子は大陸の玄関口なんじゃないの?
@呼子は相変わらずアレだなあ、と考える。 @阿波 >>542
弥生時代に玄関口だった呼子が、なんで世界遺産になる必要があるの?
宗像祭祀は4世紀以降。
つまり、畿内が4世紀以降に発展することと連動して、
九州⇔畿内の玄関口である宗像が発展するわけだ。
そして日本の天皇家は畿内で発展するから、
宗像がそのまま現代まで権威を保ち続けて、世界遺産にもなる。
3世紀の壱岐呼子とはまったく無関係の話だね。 いや、沖ノ島の祭祀は筑紫政権が主導したアマテラスを祀るものだったのではないか。 ついでだけど、
漢⇔壱岐対馬⇔呼子⇔唐津⇔伊都
の頃には、唐津が栄えている。
江戸時代の参勤交代宿場町と同じで、ハブ宿場町は栄えるわけだ。
漢が滅亡すると唐津も衰退する。
何が言いたいかと言うと、
宗像祭祀が始まる4世紀こそが、畿内が発展し始める時代だってこと。
よく畿内説が、
4世紀北部九州が衰える衰えると言うけど、
それはブーメランであって、
畿内が盟主になって外交するのなら、その中間宿場町になる北部九州は、
むしろ栄えなければならない。
それが衰退するということは、畿内の開発にエネルギーを費やしたから。
4世紀畿内には何も無いから、畿内と九州を接続しても、
九州にとっては何の利潤も生まれなかったわけだ。
4世紀に畿内を開発して、畿内が成長したから、
4世紀からハブ宿場町の宗像祭祀は栄えるし、
中国⇔壱岐対馬⇔北部九州⇔畿内で、
5世紀6世紀の北部九州は金銀財宝の最盛期を迎える。 >>543
>弥生時代に玄関口だった呼子
なら、宗像のように、朝鮮半島の鉄鋌(てってい)もあるよね? @阿波 >>546
呼子を通って唐津か伊都に上陸するのに、なんで鉄鋌(てってい)を落とすんだ?
脳みそを車検に出したら? >>547
>呼子を通って唐津か伊都に上陸するのに
なら、宗像のように、「唐津か伊都」に朝鮮半島の鉄鋌(てってい)もあるよね? @阿波 >>547
じゃあ、宗像方面が「世界文化遺産」に認定されて
なんで、呼子方面が「世界文化遺産」に認定されないんだい?
その差をなんと考える? @阿波 >>548
唐津や伊都は主要宿場町や首都なのに、なんで鉄鋌(てってい)を荷解きするんだ?
鉄鋌(てってい)は宗像で一旦集めてから、
紀元前は丹後の扇谷遺跡鉄工所
紀元後は淡路の舟木・五斗長垣内鉄工所へ輸送して、
完成品である鉄器が、唐津や伊都に出土
なるほど宗像には鉄鋌(てってい)が出るのだな。
まさに
北部九州⇔畿内など東方
を接続する東方への宿場町だったわけだ。 >>545
>5世紀6世紀の北部九州は金銀財宝の最盛期を迎える。
むしろ畿内より九州の方が栄えているだろ。 >>550
唐津や伊都が主要宿場町や首都だったら、なんで鉄鋌(てってい)を荷解きしないんだ? @阿波 >>550
呼子を通って唐津か伊都に上陸するのに、
唐津や伊都が主要宿場町や首都だったら、なんで鉄鋌(てってい)を荷解きしないんだ? @阿波 主要宿場町や首都に鉄鋌(てってい)を荷解きしてもしょうがないだろ。
一大率でチェックだけして、
宗像に集めて、
紀元前は丹後の扇谷遺跡鉄工所
紀元後は淡路の舟木・五斗長垣内鉄工所へ輸送して、
鉄器生産したんだよ。
で、完成品の鉄器は北部九州に集中出土。 >>554
はっ、はっ、はっ、 なんでわざわざ宗像に集める必要があるのかね? ちょっと、無理が過ぎるよ、その妄想。 @阿波 >>555
北部九州⇔畿内など東方
を接続する東方への主要港に物資を集積しただけの話。
無理もなにも自然な話だよ。
脳みそ大丈夫?
あ!?
溶けてるよ?
変な汁が出てるし
そろそろ取り替えた方がいいんじゃない? >>554
>紀元前は丹後の扇谷遺跡鉄工所
>紀元後は淡路の舟木・五斗長垣内鉄工所へ輸送して、
>鉄器生産したんだよ。
はっ、はっ、はっ、 北部九州では鉄器生産しなかったのかね? ちょっと、お粗末だね、北部九州。 @阿波 末蘆國から伊都國まで五百里も陸行するというのは謎だな。
対馬海峡三千里だから、五百里というのはかなりの距離だ。 >里程は漢代の楽浪郡史の記録だろ。
>金印授与の時にも漢使が来たわけだし
>楽浪土器が大量に来日してるんだから。
>魏使の日記に書かれていたのは日程。
>つまり、
>里程と日程は同じ行程をそれぞれで説明したもの。
他スレからの引用だが、一つのヒントになるかな。
里程が漢代の楽浪官吏による記載だとすると、
里程における末蘆國と伊都は、漢代のものということになる。
漢代の末蘆國は唐津の桜馬場や宇木汲田遺跡で確定だろう。
じゃあ、
漢代の伊都は、ひょっとしたら、日向遷都前の、
吉武高木遺跡のことを示しているのでは? 里程では、漢代の楽浪情報だけ残っていて、
末蘆国(桜馬場)→漢代伊都(吉武高木)が五百里
ついでに、
漢代伊都(吉武高木)→奴国(須久岡本)が百里
魏使は倭船で来日したから日程だけ。
伊都の範囲が、高祖山を中心として、
東は吉武高木から西は三雲井原までの範囲で、
伊都の中心地が、漢代は吉武高木だったのが、
魏代には三雲へ移った。
ただし、大使館迎賓館はずっと三雲のまま。 ということは、上陸地点は伊都にかなり近い所で上陸するのでいい。
呼子から唐津を経てずっと沿岸水行して、
筑前深江駅くらいまでが末蘆国の範囲で、その辺りで九州初上陸。
魏使にとっては、一応末蘆国に上陸したことになる。
三雲まで歩いてすぐ。
日誌には陸行1日。
漢代も泊ったのは三雲だが、
伊都の中心に王に会いに行く時は、吉武高木まで五百里歩いた。
また船に乗って、糸島半島を迂回して、東側に再上陸して、
さらに歩くより近いから。
これなら、三雲にだけ楽浪土器が集中して、唐津に少ないことも説明できる。
吉武高木には0年くらいまで宮殿跡が維持されていたわけだし。 前漢と後漢で違うだろ。
後漢の頃にはすでに糸島側に倭国の中心が移っていた。 鉄を加工するのに森林資源がいるから
都会の北部九州にはそんな森はないでしょう。 7世紀の糸島には、斜め高炉24基が出土した
元岡遺跡がありますね。
炉や鉄縡、鉄片、鉄器など
64トンの出土がありまして
奈良時代までの最大製鉄遺跡です。 >>554
>紀元前は丹後の扇谷遺跡鉄工所
>紀元後は淡路の舟木・五斗長垣内鉄工所へ輸送して、
>鉄器生産したんだよ。
はっ、はっ、はっ、 北部九州では鉄器生産しなかったのかね? ちょっと、お粗末だね、北部九州。 @阿波 >>564
マジで
元岡で遺跡がでたとは聞いてたけど
20年くらい前。
他が霞む規模の製鉄遺跡じゃん。 >>566
逆に考えると、7世紀の糸島は
貴族やましてや王族の住む高級住宅地では無くなっていたということ。
1〜3世紀には、伊都が首都だったから、
製鉄所は丹後や淡路島に作って、周囲の森林を大量消費した。
7世紀には、奈良が首都だったから、
九州に製鉄所を作って、周囲の森林を大量消費した。
>環境汚染 >>562
核心部分は、57年金印を貰ったのが誰か?ということになる。
もし須久岡本王が貰ったのなら、
ギリギリ57年くらいまでは倭国の中心は奴国側にあり、
伊都王宮は吉武高木=陸行五百里
その直後に政変が起きて、三雲側へ遷都。
それ以降の107年など伊都王宮は高祖宮。 >>567
>1〜3世紀には、伊都が首都だったから、
製鉄所は丹後や淡路島に作って、周囲の森林を大量消費した。
はっ、はっ、はっ、 北部九州では鉄器生産も出来なかったのかね? ちょっと、お粗末だね、北部九州。 @阿波 朝鮮半島から鉄原料は全輸入
鉄工所は丹後と淡路島
完成品の鉄器は北部九州で大量出土
同時期の王墓は筑紫のみ
他説の批判は本当にためになる。
「北部九州に鉄工房遺跡ないじゃないかw」
なるほどその通り。
高級住宅地と工業地帯は離れている方がいい。
遠く淡路島で鉄加工をして、完成品だけ北部九州倭国に持ち帰ったわけだ。
可哀想に目の前の東岸の河内には鉄器ほぼ無し。
「魏使が測定したなら長里になるだろ、測定していない」
なるほどその通り。
魏使は倭船でやってきただけで、日誌に書かれていたのは日程だけ。
東夷伝里を測定したのは、漢代の長期間に沢山やって来ていた楽浪官吏。
つまり魏志倭人伝の行程記事は、
里程=漢代の楽浪官吏、東夷伝里、伊都の中心は吉武高木で陸行五百里
日程=魏使、日誌、伊都の中心は高祖宮、陸行一日 >>570
>高級住宅地と工業地帯は離れている方がいい。
そこまで離さんといかんのかね? 大気汚染が心配なのかな? それとも騒音? 妄想も桁違いだね。 @阿波 鉄器加工に必要な大量の燃料だよ。
青銅器よりも融点が高いので、比べ物にならないくらい大量の燃料がいる。
しかも威信材メインの青銅器に比べて、
消費財の鉄器は品数も多い。
瀬戸内海にずらりと並んだ高地性集落で、
山々の木々から大量に炭を生産して、淡路島に運び込んで鉄器生産に使っていたわけだ。
一部は北部九州へ持ち帰って燃料として使用。
実際に高地性集落では炭作成の焼け跡も見つかっている。
北部九州の木材は、建築材や工具農具などのみに使用。 熊本のトンカラリンも同じで、熊本へ進出した筑紫倭国が、
貴重な木材を切り出して川へ搬出するための設備。
川から有明海、そして吉野ヶ里などへ運び、
そこから更に川沿いに筑紫へと輸送したわけだ。
燃料も木材<瀬戸内海の高地性集落で大量生産
建築材も農工具も木材<熊本で伐採して輸送
筑紫王に対して、
熊本〜筑後〜瀬戸内海の支配官が反乱したのが
倭国乱の要因だろうな。 >>572
>鉄器加工に必要な大量の燃料だよ。
畿内説にも馬鹿にされるよ、そんなこと言いだしたら。
それはそうと、
>高級住宅地と工業地帯は離れている方がいい。
そこまで離さんといかんのかね? 大気汚染が心配なのかな? それとも騒音? 妄想も桁違いだね。 @阿波 >>570
倭人伝が全然読めてないから、ためになってないんだよw
247年に倭遣使 躬臣国王 載斯烏越 と 倭船で来たのは帳政
狗奴国と戦争とかいうから、便乗査察で 伊都まで来て
245年の 難升米 黄幢の件で 檄 告喩 で帰っただけ。
卑弥呼のお悔やみはあったかな?
普通は台与の戴冠祝い とかもなのに、お土産無しで 檄 告喩 だってよ。
帰りは 巳百支国王 率善中郎將 伊聲耆 掖邪拘 等二十人 に洛陽まで送らせた。
240年の 梯儁 の時は卑弥呼に金印紫綬他お土産もって、
魏の軍船仕立てて、邪馬国の女王宮まで行軍して、ちゃんと視察もしてった。
卑弥呼の詐欺外交は、この7年で終ってるだろ。
巳百支国王 掖邪拘 は、倭王を騙った共犯で死刑になってるかもな。 >>568
>>>562
>核心部分は、57年金印を貰ったのが誰か?ということになる。
>
>もし須久岡本王が貰ったのなら、
>ギリギリ57年くらいまでは倭国の中心は奴国側にあり、
>伊都王宮は吉武高木=陸行五百里
>
>その直後に政変が起きて、三雲側へ遷都。
>それ以降の107年など伊都王宮は高祖宮。
むしろ三雲側の王が金印をもらった可能性が高い。
三雲の細石神社が金印を江戸時代まで保有していたと伝えられているからだ。 >>576
57年金印を貰ったのが、
奴国=葦原「那珂」津国=出雲の
須久岡本王=大国主だとしたら?
国譲りで降伏したのだから、
その際に金印も委譲して、それが細石神社に伝わった、とも考えられる。
また、通説通りに志賀島で金印が出土したのなら、
それこそ奴国側の権力者が57年に貰ったとして差し支えない。 >>577
可能性としては否定しない。
ただ、一般的には三雲南小路遺跡は後漢の早い時代、1世紀頃に考えている意見が多いようだ。
ならば、後漢書の倭奴国=魏志倭人伝の伊都国だ。 >>578
須久岡本と三雲南小路はほとんど時代が近接している、
と言われている。
北部九州説者は、三雲南小路からの王墓群を筑紫の日向、
つまり日向三代に例えているのだから、
当然のことながら、
三雲南小路の直前にほぼ重なるようにして、大国主がいたことになる。
須久岡本の王墓被葬者が大国主かどうかは別として、
三雲南小路王から三雲に遷都したわけで、
その前の代の筑紫王あるいは最高実力者は、それ以外の場所にいたことになり、
考古学的には須久が栄えていた。 すまない何が言いたいかと言うと、
金印を授与する時に、漢使が金印授与相手の所まで必ずやって来たわけであり、
その相手が須久岡本にいた可能性も充分に高い。
もし57年の筑紫王あるいは最高実力者が須久岡本にいたのなら、
楽浪土器から判明している、三雲に駐していた楽浪人たちも、
少なくとも57年までは、
倭国の中心は須久岡本と考えていた筈。
一万二千余里を計算するにあたって、
自分は、壱岐対馬をそれぞれ方可で二倍する、
というのが正しいと思っていて、
そうすると一万二千余里はまさに須久岡本になる。
これもまた、
里程=漢代の楽浪郡における倭国情報
であれば、説明がつく。 高祖山を中心とする伊都國はずっと首都であって、
吉武高木の宮殿が王宮で、
紀元前はずっと筑紫王も吉武高木に住んでいた。
金印授与の57年の筑紫王あるいは将軍関白などの最高実力者=大国主は、
須久岡本に住んでいて、那珂川流域=葦原那珂津国=奴国を支配していた。
だから漢代においては、
首都=伊都=吉武高木遺跡=末蘆国からは陸行五百里
漢代の倭国最盛期=57年金印授与時においては、
首都は同じく吉武高木だが、
倭国の中心=時の最高実力者の所在=須久岡本=総計一万二千余里 倭人伝も記紀も突き詰めれば、伊都国に至る
既に答えは出ているよな
卑弥呼イヨまでは伊都国又はその周辺に王はいただろうね
その後の倭国は文献情報が無いので不明 倭国の文献情報は無いが、
日向三代以降がどうなったかは、記紀に詳述されている。
倭人伝でわかるのは、
卑弥呼は狗奴国との戦争中に死去。
狗奴国との戦争にあたって、難升米に檄告喩。
次の男王で内乱。つまり邪馬台国内での内乱。
その次のイヨが共立されて邪馬台国内乱が終結。
>國中遂定 政等以檄告喩壹與
内乱が終結した後に、檄告喩。
つまり、狗奴国との戦争にあたって、イヨに檄告喩。
ここで記紀との接点が再び生じる。
神夏磯媛=イヨだ。 須玖岡本は副葬品に武器が多く、最高権力者と言うよりは将軍的な性格が強い。
個人的には、猿田彦を疑っている。
三雲南小路が邇邇芸と木花佐久夜毘売ならば、ほぼ近い年代であることは何も矛盾しなくなる。 神夏磯姫は残念ながら4世紀初頭で、壹與の次くらいだろう。
八咫の鏡を所有し、称号が筑紫の梟師とあるので、帥(率)の名を持つ筑紫倭国の女王であることは間違いない。
また、その末裔と伝えられている田湯津姫も、筑紫倭国の女王だったろう。 須玖岡本はニギハヤヒだろうね。
先代旧事本紀に、ニギハヤヒの遺体を畿内から高天原=倭国へ引き取って埋葬したとある。
大国主は本拠の須久岡本でなく、出雲へ封印された。
勇猛たる東征将軍のニギハヤヒを、大国主に対する防御神として
大国主の本拠であった須久岡本へ据えた。 壹與はヨタ姫、淀姫として、肥前一宮淀姫神社に鎮座している。
淀姫神社を畿内に勧請し、大阪の淀川や豊臣の淀姫の名前の由来となっている。 卑弥呼時代に狗奴国相手に善戦して、狗奴国を熊本に後退させた。
伊都日向の師升の倭国王統たる難升米は東征を成功させて、
倭国王になるが、内乱を生じてしまう。
邪馬台国内乱に乗じて狗奴国が筑後へ進出。
そこで難升米の子孫である景行が息子の日本武尊を伴って出陣。
神夏磯媛=イヨは、八咫の鏡を奉じて北部九州の兵を預けたのだろう。
狗奴国王=クマソタケルの逃げ道を封じるために、
景行は大分上陸→宮崎→熊本→筑後と、時計回りに進軍。
日本武尊はイヨと一緒に奴国と筑後の間で待機。
このまま景行が筑後へ攻め込めば100%勝利なのだが、
若き日本武尊は血気はやって、筑後のクマソタケルへ攻め込んでしまう。
クマソタケルは南に景行が迫っているので南に逃げられず、
西の肥前川上へ逃走。
そこで追走してきた日本武尊に討ち取られる。
結果として日本武尊が勝ったからいいが、
もし負けていたら、奴国あるいは伊都までクマソタケルに制圧されるところだったわけだ。
景行激怒。 >>586
>先代旧事本紀に、ニギハヤヒの遺体を畿内から高天原=倭国へ引き取って埋葬したとある。
これは知らなかった。
ただし饒速日は天照国照の称号を持ち、天照大神と大国主の両方の権威を継承した大王だよ。
当時は兄弟相続で邇邇芸に王権が継承されたのだろう。
ちなみに天照が男なら、天照からスサノオも兄弟相続。
海幸山幸も兄弟相続。
神武はウガヤフキアエズの末子。
神武の息子らも、王権を継承したのは末弟。
つまり饒速日は東征将軍ではなく倭王。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています