邪馬壹國は北部九州に在った(王都は伊都国)part12
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邪馬壹國は北部九州5県(福岡、佐賀、長崎、熊本、大分)に跨って存在し、
卑弥呼は伊都國を都として邪馬壹國を統治していた。
邪馬壹國とは26か国の国邑で構成されており
その26か国の国邑とは對馬國、一大國、末廬國、伊都國、奴国、不彌國と旁國20か国(斯馬國、已百支國、
伊邪國、都支國、彌奴國、 好古都國、不呼國、姐奴國、對蘇國、蘇奴國、 呼邑國、華奴蘇奴國、
鬼國、爲吾國、鬼奴國、 邪馬國、躬臣國、巴利國、支惟國、烏奴國)
魏志倭人伝には伊都国に卑弥呼が居たとの記述が2か所あり、その一つが 「世有王皆統屬女王國」である。
「世有王皆統屬女王國」の「A統屬B」は「AはBに統屬する」の意味であり
Aについて「伊都国の代々の王は皆」と理解されていたが、
ここでは「世有王」としかなく「世世有王」ではない。
「世有王」の「世有」について『三国志』内で用例を調べると魏書に4例、呉書に1例有る。
「三世有」(魏書)、「當世有」(呉書)等の特殊な事例を除き『三国志』内では「世有」は魏の世を示している。
「世有」を代々と訳してよい場合でも親子二代程度で何代も続いたとの意味ではなく
「世有」は魏代内の世である。即ち「世有王」は「代々の王」の意味ではなく、
「世(魏の世)は王が居た」の意味なのである。
そして文はここで一旦切れて、次に続く「皆」は「世有王」ではなく別のものを指しているのであり、
それは倭の国々のことである。
「皆統屬女王國」の「皆」は倭国の国々を指していると考えられる。
「皆統屬女王國」とは「倭の国々は皆、女王国に統屬していた」の意味なのである。
すると前文の「世(魏の世)に王が居た」の王とは女王国の王である卑弥呼や壹與のことを指していると判明する。
また「世有王」とは「魏の時代に王(卑弥呼、壹與)が伊都国に居た」こと指すと結論される。 >>550
呼子を通って唐津か伊都に上陸するのに、
唐津や伊都が主要宿場町や首都だったら、なんで鉄鋌(てってい)を荷解きしないんだ? @阿波 主要宿場町や首都に鉄鋌(てってい)を荷解きしてもしょうがないだろ。
一大率でチェックだけして、
宗像に集めて、
紀元前は丹後の扇谷遺跡鉄工所
紀元後は淡路の舟木・五斗長垣内鉄工所へ輸送して、
鉄器生産したんだよ。
で、完成品の鉄器は北部九州に集中出土。 >>554
はっ、はっ、はっ、 なんでわざわざ宗像に集める必要があるのかね? ちょっと、無理が過ぎるよ、その妄想。 @阿波 >>555
北部九州⇔畿内など東方
を接続する東方への主要港に物資を集積しただけの話。
無理もなにも自然な話だよ。
脳みそ大丈夫?
あ!?
溶けてるよ?
変な汁が出てるし
そろそろ取り替えた方がいいんじゃない? >>554
>紀元前は丹後の扇谷遺跡鉄工所
>紀元後は淡路の舟木・五斗長垣内鉄工所へ輸送して、
>鉄器生産したんだよ。
はっ、はっ、はっ、 北部九州では鉄器生産しなかったのかね? ちょっと、お粗末だね、北部九州。 @阿波 末蘆國から伊都國まで五百里も陸行するというのは謎だな。
対馬海峡三千里だから、五百里というのはかなりの距離だ。 >里程は漢代の楽浪郡史の記録だろ。
>金印授与の時にも漢使が来たわけだし
>楽浪土器が大量に来日してるんだから。
>魏使の日記に書かれていたのは日程。
>つまり、
>里程と日程は同じ行程をそれぞれで説明したもの。
他スレからの引用だが、一つのヒントになるかな。
里程が漢代の楽浪官吏による記載だとすると、
里程における末蘆國と伊都は、漢代のものということになる。
漢代の末蘆國は唐津の桜馬場や宇木汲田遺跡で確定だろう。
じゃあ、
漢代の伊都は、ひょっとしたら、日向遷都前の、
吉武高木遺跡のことを示しているのでは? 里程では、漢代の楽浪情報だけ残っていて、
末蘆国(桜馬場)→漢代伊都(吉武高木)が五百里
ついでに、
漢代伊都(吉武高木)→奴国(須久岡本)が百里
魏使は倭船で来日したから日程だけ。
伊都の範囲が、高祖山を中心として、
東は吉武高木から西は三雲井原までの範囲で、
伊都の中心地が、漢代は吉武高木だったのが、
魏代には三雲へ移った。
ただし、大使館迎賓館はずっと三雲のまま。 ということは、上陸地点は伊都にかなり近い所で上陸するのでいい。
呼子から唐津を経てずっと沿岸水行して、
筑前深江駅くらいまでが末蘆国の範囲で、その辺りで九州初上陸。
魏使にとっては、一応末蘆国に上陸したことになる。
三雲まで歩いてすぐ。
日誌には陸行1日。
漢代も泊ったのは三雲だが、
伊都の中心に王に会いに行く時は、吉武高木まで五百里歩いた。
また船に乗って、糸島半島を迂回して、東側に再上陸して、
さらに歩くより近いから。
これなら、三雲にだけ楽浪土器が集中して、唐津に少ないことも説明できる。
吉武高木には0年くらいまで宮殿跡が維持されていたわけだし。 前漢と後漢で違うだろ。
後漢の頃にはすでに糸島側に倭国の中心が移っていた。 鉄を加工するのに森林資源がいるから
都会の北部九州にはそんな森はないでしょう。 7世紀の糸島には、斜め高炉24基が出土した
元岡遺跡がありますね。
炉や鉄縡、鉄片、鉄器など
64トンの出土がありまして
奈良時代までの最大製鉄遺跡です。 >>554
>紀元前は丹後の扇谷遺跡鉄工所
>紀元後は淡路の舟木・五斗長垣内鉄工所へ輸送して、
>鉄器生産したんだよ。
はっ、はっ、はっ、 北部九州では鉄器生産しなかったのかね? ちょっと、お粗末だね、北部九州。 @阿波 >>564
マジで
元岡で遺跡がでたとは聞いてたけど
20年くらい前。
他が霞む規模の製鉄遺跡じゃん。 >>566
逆に考えると、7世紀の糸島は
貴族やましてや王族の住む高級住宅地では無くなっていたということ。
1〜3世紀には、伊都が首都だったから、
製鉄所は丹後や淡路島に作って、周囲の森林を大量消費した。
7世紀には、奈良が首都だったから、
九州に製鉄所を作って、周囲の森林を大量消費した。
>環境汚染 >>562
核心部分は、57年金印を貰ったのが誰か?ということになる。
もし須久岡本王が貰ったのなら、
ギリギリ57年くらいまでは倭国の中心は奴国側にあり、
伊都王宮は吉武高木=陸行五百里
その直後に政変が起きて、三雲側へ遷都。
それ以降の107年など伊都王宮は高祖宮。 >>567
>1〜3世紀には、伊都が首都だったから、
製鉄所は丹後や淡路島に作って、周囲の森林を大量消費した。
はっ、はっ、はっ、 北部九州では鉄器生産も出来なかったのかね? ちょっと、お粗末だね、北部九州。 @阿波 朝鮮半島から鉄原料は全輸入
鉄工所は丹後と淡路島
完成品の鉄器は北部九州で大量出土
同時期の王墓は筑紫のみ
他説の批判は本当にためになる。
「北部九州に鉄工房遺跡ないじゃないかw」
なるほどその通り。
高級住宅地と工業地帯は離れている方がいい。
遠く淡路島で鉄加工をして、完成品だけ北部九州倭国に持ち帰ったわけだ。
可哀想に目の前の東岸の河内には鉄器ほぼ無し。
「魏使が測定したなら長里になるだろ、測定していない」
なるほどその通り。
魏使は倭船でやってきただけで、日誌に書かれていたのは日程だけ。
東夷伝里を測定したのは、漢代の長期間に沢山やって来ていた楽浪官吏。
つまり魏志倭人伝の行程記事は、
里程=漢代の楽浪官吏、東夷伝里、伊都の中心は吉武高木で陸行五百里
日程=魏使、日誌、伊都の中心は高祖宮、陸行一日 >>570
>高級住宅地と工業地帯は離れている方がいい。
そこまで離さんといかんのかね? 大気汚染が心配なのかな? それとも騒音? 妄想も桁違いだね。 @阿波 鉄器加工に必要な大量の燃料だよ。
青銅器よりも融点が高いので、比べ物にならないくらい大量の燃料がいる。
しかも威信材メインの青銅器に比べて、
消費財の鉄器は品数も多い。
瀬戸内海にずらりと並んだ高地性集落で、
山々の木々から大量に炭を生産して、淡路島に運び込んで鉄器生産に使っていたわけだ。
一部は北部九州へ持ち帰って燃料として使用。
実際に高地性集落では炭作成の焼け跡も見つかっている。
北部九州の木材は、建築材や工具農具などのみに使用。 熊本のトンカラリンも同じで、熊本へ進出した筑紫倭国が、
貴重な木材を切り出して川へ搬出するための設備。
川から有明海、そして吉野ヶ里などへ運び、
そこから更に川沿いに筑紫へと輸送したわけだ。
燃料も木材<瀬戸内海の高地性集落で大量生産
建築材も農工具も木材<熊本で伐採して輸送
筑紫王に対して、
熊本〜筑後〜瀬戸内海の支配官が反乱したのが
倭国乱の要因だろうな。 >>572
>鉄器加工に必要な大量の燃料だよ。
畿内説にも馬鹿にされるよ、そんなこと言いだしたら。
それはそうと、
>高級住宅地と工業地帯は離れている方がいい。
そこまで離さんといかんのかね? 大気汚染が心配なのかな? それとも騒音? 妄想も桁違いだね。 @阿波 >>570
倭人伝が全然読めてないから、ためになってないんだよw
247年に倭遣使 躬臣国王 載斯烏越 と 倭船で来たのは帳政
狗奴国と戦争とかいうから、便乗査察で 伊都まで来て
245年の 難升米 黄幢の件で 檄 告喩 で帰っただけ。
卑弥呼のお悔やみはあったかな?
普通は台与の戴冠祝い とかもなのに、お土産無しで 檄 告喩 だってよ。
帰りは 巳百支国王 率善中郎將 伊聲耆 掖邪拘 等二十人 に洛陽まで送らせた。
240年の 梯儁 の時は卑弥呼に金印紫綬他お土産もって、
魏の軍船仕立てて、邪馬国の女王宮まで行軍して、ちゃんと視察もしてった。
卑弥呼の詐欺外交は、この7年で終ってるだろ。
巳百支国王 掖邪拘 は、倭王を騙った共犯で死刑になってるかもな。 >>568
>>>562
>核心部分は、57年金印を貰ったのが誰か?ということになる。
>
>もし須久岡本王が貰ったのなら、
>ギリギリ57年くらいまでは倭国の中心は奴国側にあり、
>伊都王宮は吉武高木=陸行五百里
>
>その直後に政変が起きて、三雲側へ遷都。
>それ以降の107年など伊都王宮は高祖宮。
むしろ三雲側の王が金印をもらった可能性が高い。
三雲の細石神社が金印を江戸時代まで保有していたと伝えられているからだ。 >>576
57年金印を貰ったのが、
奴国=葦原「那珂」津国=出雲の
須久岡本王=大国主だとしたら?
国譲りで降伏したのだから、
その際に金印も委譲して、それが細石神社に伝わった、とも考えられる。
また、通説通りに志賀島で金印が出土したのなら、
それこそ奴国側の権力者が57年に貰ったとして差し支えない。 >>577
可能性としては否定しない。
ただ、一般的には三雲南小路遺跡は後漢の早い時代、1世紀頃に考えている意見が多いようだ。
ならば、後漢書の倭奴国=魏志倭人伝の伊都国だ。 >>578
須久岡本と三雲南小路はほとんど時代が近接している、
と言われている。
北部九州説者は、三雲南小路からの王墓群を筑紫の日向、
つまり日向三代に例えているのだから、
当然のことながら、
三雲南小路の直前にほぼ重なるようにして、大国主がいたことになる。
須久岡本の王墓被葬者が大国主かどうかは別として、
三雲南小路王から三雲に遷都したわけで、
その前の代の筑紫王あるいは最高実力者は、それ以外の場所にいたことになり、
考古学的には須久が栄えていた。 すまない何が言いたいかと言うと、
金印を授与する時に、漢使が金印授与相手の所まで必ずやって来たわけであり、
その相手が須久岡本にいた可能性も充分に高い。
もし57年の筑紫王あるいは最高実力者が須久岡本にいたのなら、
楽浪土器から判明している、三雲に駐していた楽浪人たちも、
少なくとも57年までは、
倭国の中心は須久岡本と考えていた筈。
一万二千余里を計算するにあたって、
自分は、壱岐対馬をそれぞれ方可で二倍する、
というのが正しいと思っていて、
そうすると一万二千余里はまさに須久岡本になる。
これもまた、
里程=漢代の楽浪郡における倭国情報
であれば、説明がつく。 高祖山を中心とする伊都國はずっと首都であって、
吉武高木の宮殿が王宮で、
紀元前はずっと筑紫王も吉武高木に住んでいた。
金印授与の57年の筑紫王あるいは将軍関白などの最高実力者=大国主は、
須久岡本に住んでいて、那珂川流域=葦原那珂津国=奴国を支配していた。
だから漢代においては、
首都=伊都=吉武高木遺跡=末蘆国からは陸行五百里
漢代の倭国最盛期=57年金印授与時においては、
首都は同じく吉武高木だが、
倭国の中心=時の最高実力者の所在=須久岡本=総計一万二千余里 倭人伝も記紀も突き詰めれば、伊都国に至る
既に答えは出ているよな
卑弥呼イヨまでは伊都国又はその周辺に王はいただろうね
その後の倭国は文献情報が無いので不明 倭国の文献情報は無いが、
日向三代以降がどうなったかは、記紀に詳述されている。
倭人伝でわかるのは、
卑弥呼は狗奴国との戦争中に死去。
狗奴国との戦争にあたって、難升米に檄告喩。
次の男王で内乱。つまり邪馬台国内での内乱。
その次のイヨが共立されて邪馬台国内乱が終結。
>國中遂定 政等以檄告喩壹與
内乱が終結した後に、檄告喩。
つまり、狗奴国との戦争にあたって、イヨに檄告喩。
ここで記紀との接点が再び生じる。
神夏磯媛=イヨだ。 須玖岡本は副葬品に武器が多く、最高権力者と言うよりは将軍的な性格が強い。
個人的には、猿田彦を疑っている。
三雲南小路が邇邇芸と木花佐久夜毘売ならば、ほぼ近い年代であることは何も矛盾しなくなる。 神夏磯姫は残念ながら4世紀初頭で、壹與の次くらいだろう。
八咫の鏡を所有し、称号が筑紫の梟師とあるので、帥(率)の名を持つ筑紫倭国の女王であることは間違いない。
また、その末裔と伝えられている田湯津姫も、筑紫倭国の女王だったろう。 須玖岡本はニギハヤヒだろうね。
先代旧事本紀に、ニギハヤヒの遺体を畿内から高天原=倭国へ引き取って埋葬したとある。
大国主は本拠の須久岡本でなく、出雲へ封印された。
勇猛たる東征将軍のニギハヤヒを、大国主に対する防御神として
大国主の本拠であった須久岡本へ据えた。 壹與はヨタ姫、淀姫として、肥前一宮淀姫神社に鎮座している。
淀姫神社を畿内に勧請し、大阪の淀川や豊臣の淀姫の名前の由来となっている。 卑弥呼時代に狗奴国相手に善戦して、狗奴国を熊本に後退させた。
伊都日向の師升の倭国王統たる難升米は東征を成功させて、
倭国王になるが、内乱を生じてしまう。
邪馬台国内乱に乗じて狗奴国が筑後へ進出。
そこで難升米の子孫である景行が息子の日本武尊を伴って出陣。
神夏磯媛=イヨは、八咫の鏡を奉じて北部九州の兵を預けたのだろう。
狗奴国王=クマソタケルの逃げ道を封じるために、
景行は大分上陸→宮崎→熊本→筑後と、時計回りに進軍。
日本武尊はイヨと一緒に奴国と筑後の間で待機。
このまま景行が筑後へ攻め込めば100%勝利なのだが、
若き日本武尊は血気はやって、筑後のクマソタケルへ攻め込んでしまう。
クマソタケルは南に景行が迫っているので南に逃げられず、
西の肥前川上へ逃走。
そこで追走してきた日本武尊に討ち取られる。
結果として日本武尊が勝ったからいいが、
もし負けていたら、奴国あるいは伊都までクマソタケルに制圧されるところだったわけだ。
景行激怒。 >>586
>先代旧事本紀に、ニギハヤヒの遺体を畿内から高天原=倭国へ引き取って埋葬したとある。
これは知らなかった。
ただし饒速日は天照国照の称号を持ち、天照大神と大国主の両方の権威を継承した大王だよ。
当時は兄弟相続で邇邇芸に王権が継承されたのだろう。
ちなみに天照が男なら、天照からスサノオも兄弟相続。
海幸山幸も兄弟相続。
神武はウガヤフキアエズの末子。
神武の息子らも、王権を継承したのは末弟。
つまり饒速日は東征将軍ではなく倭王。 >>589
>つまり饒速日は東征将軍ではなく倭王。
その線は自分も考えた。
しかし、考古学的には饒速日とは銅戈を奉じて戦っている。
その根拠については、考古学と文献をすり合わせて
何度か書きこんでいるので、それを参照していただきたい。
考古学的には、倭王とは銅矛祭祀。
銅戈は明らかに銅矛より下の身分となっている。
よって、饒速日は本州攻略で大活躍したものの、
源氏や平氏と同じく、臣籍降下していたものと考えられる。 >>588
想像力豊かだが、肥前の伝承とは違う。
もともと熊襲梟師は筑紫野にいたとされている。
4世紀にはすでに王都は伊都ではなく、内陸に移っていた。
梟師の称号は神夏磯姫と同じであり、太宰の帥にも通じる、九州の覇者、倭国王の称号だろう。
熊襲梟師が討ち取られた王宮は、まさに壹與が鎮座していた河上神社の近郊であり、熊襲梟師、壹與、神夏磯姫、卑弥呼は全て同族の倭王だ。 >>590
それも違う。
大和において神武と饒速日は邂逅し、天羽羽矢を見せ合ってともに天神の子であることを確認している。
そもそも神武は饒速日を頼って伊都を脱出しており、大和においては饒速日の方が立場が上だったろう。
後世においても、饒速日の末裔の物部大連は、神武の末裔の大王家に引けを取らない権力を保有していた。 >>591
与止日女神は後世の神功皇后の妹。
壹與とは時代が違う。
熊襲梟師、壹與、神夏磯姫、卑弥呼は全て倭王の血を引く同族だね。 現代の男系後継問題と同じで、
ニニギがコノハナサクヤヒメを娶りながら、
姉のイワナガヒメを返したというのが問題。
北部九州説によると、三雲南小路遺跡の王墓と妃墓がニニギになるようだが、
夫婦そろって仲良く埋葬されているわけだ。
イワナガヒメを返したのは、外見上の問題ということになっているが、
実はニニギという人物は、古代の王にしては珍しく、
コノハナサクヤヒメだけを愛して、
妾を取らなかったのではないか?
一方の兄である饒速日は、臣籍降下して身軽になり、
東征将軍として国の威を使って冒険三昧。
北部九州の女性たちはもちろん、
ナガスネヒコ=唐津鍵の首長を初めとして、
港々で愛人をこしらえて、大量の子孫を残した。
本来の倭王たるニニギの血統は、
ニニギの純愛によって、男系子孫が枯渇し、
饒速日のこさえた大量の子孫の助けを借りざるを得ない状況になったことが、
種々の頭痛の種となったのではないか。 神功皇后の妹とされるようになるのはもっと後世の習合なんだよ。
詳しくはググってくれ。 >>590
天神の子であって、天孫ではないわけだ。
神武は饒速日を頼ってなどいない。
倭王とはあくまでもニニギの系統であり、
ニニギの系統である証を見せたからこそ、
単なる天神の子であって、既に臣籍降下した饒速日(の子孫)はひれ伏して
ナガスネヒコ(オオモノヌシ)を誅したわけだ。 >>594
>一方の兄である饒速日は、臣籍降下して身軽になり、
>東征将軍として国の威を使って冒険三昧。
>北部九州の女性たちはもちろん、
>ナガスネヒコ=唐津鍵の首長を初めとして、
>港々で愛人をこしらえて、大量の子孫を残した。
この辺りはかなり同意する。
大王としてはかなり風来坊だな。
王都を放り出して開拓最前線の大和まで行くくらいだから。
>ニニギの純愛によって、男系子孫が枯渇し、
海幸山幸が兄弟喧嘩するくらいだから、男子が不足していたと言うことはあるまい。 >>597
>海幸山幸が兄弟喧嘩するくらいだから、男子が不足していたと言うことはあるまい。
逆で、
ただでさえニニギ直系の倭王男子が不足しているのに、
こともあろうか海幸山幸が兄弟喧嘩してしまった。 >>596
塩土爺から饒速日についての話を聞いて神武は東征した。
饒速日がナガスネヒコを殺したのは、自分の命令を聞かなくなったからであり、神武に恭順したからではない。
饒速日もまた天照の孫であり、天孫だ。
邇邇芸の王統が正統というのは、後世から見た補正が入った結果論で、神武の時代においては確定事項ではない。 >>599
うーん。
饒速日を考古学的に当てはめると、銅戈。
大国主=八千矛神は、中広型銅矛。
広型銅矛が、国譲りを受けた後の、日向三代の倭王。
考古学的には、銅矛>銅戈の身分序列なので、
銅戈は活躍すれども、倭王ではなかったと考えるのが自然なわけだ。 >>598
それこそ、邇邇芸の王統が途絶えても、饒速日の子のウマシマジらも控えているし、天照の子孫なら出雲国造家や、大ヤマツミ(これも志賀島にいた天照の末裔)の家系もあるので、王統はいくらでもあった。 >>600
あくまでも饒速日の身分の証は十種の神宝と天羽羽矢だよ。
臣下が持つ伐ではない。
十種の神宝の中の沖津鏡と辺津鏡は籠神社に伝世している。
三雲南小路や平原遺跡と同じで、内行花文鏡だよ。
これこそ倭国王権の象徴。 ウマシマジはダメでしょ。
臣籍降下した饒速日と、こともあろうか畿内の首長の妹との子孫だから。
饒速日は、倭王ニニギの兄だから内行花文鏡も持っていて偉いけど、
倭王ではないわけで。 紀元前の吉武高木王の時点で、
越の石剣部族の八岐大蛇に勝利して、
丹後に扇谷遺跡を建設して、
日本海沿岸を筑紫倭王が支配している。
硯や鉄器が分布。
0年くらいに那珂川奴国のイケメンお坊ちゃんである大国主が
日本海沿岸各地の首長と血縁を結んで、国力を奴国へ集中し、
その国力を背景にして、
銅剣オオヤマツミの主な領域である瀬戸内海沿岸へ出陣。
中広型銅矛が淡路島に上陸したあたりで、
銅剣オオヤマツミが降伏して、瀬戸内海沿岸の銅剣地域が丸ごと奴国大国主の支配下となった。
(だから大国主
その時の降伏調印儀式が、
大国主の最大の荘園である、出雲で行われたのが荒神谷遺跡など。
大国主は淡路島に舟木遺跡を建設して、
オオヤマツミは瀬戸内海沿岸に高地性集落を建設して、
森林から炭を生産して舟木遺跡へ輸送。
大国主も鬼じゃないから、オオヤマツミへある程度の鉄器は融通した。 吉武高木の宮殿に、
倭王大国主が須久岡本から通っていたのかもしれないし、
実は倭王はいて、
大国主は将軍か関白だったのかもしれない。
漢の楽浪郡からは、三雲に外交官派遣。
漢代伊都までは末蘆国から陸行五百里(東夷伝里
57年金印授与時の倭国中心地は、
大国主のいる須久岡本で、郡から総計一万二千余里。 先代旧事本紀では天照国照という、倭王としての称号を与えられている。
記紀は天孫族から見た歴史という補正が入っているんだよ。
畿内の首長の妹を娶ったといっても、その祖父はやはり筑紫の倭王である大山祇(語義は大国主、地祇と同じ)である。
決して低い身分の家系ではない。
邇邇芸-神武を正統とする万世一系説はあくまでも後世の修飾である。 大国主は失脚する。
(奴国那珂川流域に住居工房が乱立して森林伐採し、大規模土石流が発生
大洪水に見舞われた奴国には疫病が蔓延。
壊滅的な様相を呈する。
本来の倭国王の男系である五皇子のうち、
オシホミミの息子であるニニギに倭国再建が託され、
ニニギは高祖山の西側に伊都建設。
難民流入を制限し、千戸限定。
オオヤマツミの娘を娶り、淡路島鉄工所経営権を引き継ぐ。
オオヤマツミの依頼にて、
兄の饒速日は淡路島鉄工所を強化すべく東征。
内陸のナガスネヒコ=唐古鍵首長と血縁同盟。
(銅戈兵図
(天磐船図
(巨大翡翠結納
沿岸集落をナガスネヒコと挟撃して、大阪湾住吉上陸。
五斗長垣内遺跡を新設し、
大阪湾を新規占領して、
オオヤマツミ領土の瀬戸内海沿岸から、
大阪湾沿岸に森林伐採をシフトする。 大ヤマツミは又の名を和多志大神と言い、海の神である。
その本貫地は博多湾の志賀島の綿津見神社である。
愛媛や大阪は、倭国の拡大により諸般の事情で移動したもの。
元々は山の神(ヤマツミ)と海の神(ワダツミ)を兼ねた、博多湾沿岸の大王である。
このあたりの陸海長としての呼称は、天照国照饒速日(天は海に同義)などと通じるものがある。
天津神(海上勢力)と国津神(陸上勢力)を統合するのが倭国王なのである。 何度も書いているので簡略化するが、
饒速日は大阪湾上陸の他にも、
安芸広島上陸
越後タケミナカタ攻略→諏訪侵攻を果たしている。
プレイボーイの饒速日の九州最高位の妻が、あのお方。
憚られるので明記しないが、これまで何度か書いてきた。
その子孫が、丹後一大率長官となり、太田南古墳群を形成。
その一族から出たのが、卑弥呼なわけだ。
太田南古墳群1号墳は卑弥呼の父親で、方形周溝墓の木棺墓。
邪馬台国期に築かれる、四隅突出墓は、丹後を越えて富山まで分布するのに、
肝心の丹後若狭湾には太田南古墳群が聳え続ける。
つまり、四隅突出墓とは、
伊都筑紫王配下の丹後一大率長官によって任命された、
日本海沿岸の行政官なわけだ。 >>608
オオヤマツミはオオヤマツミ。
北部九州部族のうち、早期から東方進出した部族。
日本海沿岸から瀬戸内海沿岸まで幅広く活躍した。
紀元後は瀬戸内海に銅剣文化圏を形成。
大国主の東征に下る。
オオワダツミはオオワダツミ。
志賀島を本貫とする海龍部族。安曇族。
オオヤマツミと倭国王外戚の座を争い、倭国乱を引き起こした。 >>607
>沿岸集落をナガスネヒコと挟撃して、大阪湾住吉上陸。
ここは誤り。
摂津の開拓は大ヤマツミの息子の三島溝杭耳が行なった。
その末裔が登美のナガスネヒコや鴨主であり、大阪の三島神社、京都の上賀茂・下鴨神社、奈良の鳥見神社など全て勢力範囲だ。
この鴨一族の姫であるホトイスケヨリ姫を神武が娶ることで、神武の大和における立場が保証された。
また、饒速日はホトイスケヨリ姫の叔母にあたる玉依比売を娶っている。 >>606
長くなったけど、卑弥呼は饒速日の男系女王なわけだ。
これも詳しく言うと卑弥呼様に睨まれるから、
簡単に言うと、
魏志倭人伝には、当時の倭人は文身を入れていて、
一目で出身地や身分がわかるようになっていたという。
では、饒速日の子孫は、、
倭王だったならなぜ、、、
ただ男子一人だけが、、、 饒速日の頃=大阪湾上陸作戦とかは、まだ倭王継承権を保持していたわけだ。
その後いろいろあって、
日本海側に回って、越後諏訪攻略戦に移る頃には、
天火明命=臣籍降下したのだろう。
つまりは、北部九州倭国の超上流家系のあの女性を娶るために。 >>609
>プレイボーイの饒速日の九州最高位の妻が、あのお方。
ぜひ書いてくれ。
>太田南古墳群1号墳は卑弥呼の父親で、方形周溝墓の木棺墓。
一理ある。
>つまり、四隅突出墓とは、
>伊都筑紫王配下の丹後一大率長官によって任命された、
>日本海沿岸の行政官なわけだ。
若き邇邇芸王に実権はないから、祖父の天照の次男であった天穂日から始まる出雲氏(後の出雲国造家)の墓だろう。 >>611
それはおそらく、
饒速日と共に、大阪湾上陸を果たした後に、
>摂津の開拓は大ヤマツミの息子の三島溝杭耳が行なった。
ではないかと。
高地性集落を建設。
末裔が鴨一族なのは矛盾しない。
が、おそらく日本海側から琵琶湖経由で入っている。
先行した有力氏族の姫を、後から東征してきた神武が娶ったということだろう。 鴨一族が饒速日より格下なのは明言されているが、それだけでは畿内一帯の鴨一族の勢力が強すぎる。
鴨一族が開拓したところへ、饒速日が来たのだろう。
鴨一族の権威は大ヤマツミから継承しているので、筑紫における天孫邇邇芸>大ヤマツミの格差が、大和においては天孫饒速日>鴨王・長髄彦に反映されているのだろう。 >>614
四隅突出墓はニニギの時代ではない。
卑弥呼の時代。
北部九州邪馬台国領にはヒナモリ=官吏を配置し、
日本海沿岸倭種に四隅突出墓=官吏を配置した。
甕棺豪族を廃止し、王墓は平原女王墓に集権。
中央集権を推し進めることによって、国力が集中して、
狗奴国相手に優位に戦い、勝利した。 >>618
>四隅突出墓はニニギの時代ではない。
>卑弥呼の時代。
だから、天穂日の「末裔」だと書いた。 >>617
でしょうね。
長髄彦は饒速日と血縁を結ぶことで、大物主となって、
近畿一円に神武に滅ぼされるまでの短期であるものの、国家を形成した。
饒速日の銅戈軍勢は、長髄彦領土を通過して、
愛知に朝日遺跡を建設もしくは、占領。(銅戈、銅鐸、巴型銅器 長髄彦は殺されたが、鴨一族は存続し、第2代天皇は登美家のホトイスケヨリ姫の子である。 鴨一族はむしろ、奈良盆地よりもさらに開発が遅れた京都盆地を本拠としたからこそ
余計な戦いに巻き込まれずに存続した。
瀬戸内海が倭国乱で荒れて淡路島鉄工所が使えなくなり、
代替に琵琶湖稲部遺跡に鉄工所を建設した時も、
京都盆地は微妙に蚊帳の外。
その後、奈良盆地に藤原京や平城京が建設される時も、
京都盆地は微妙に遠い。
京都盆地へ遷都しようという時になって初めて、
天皇家と鴨一族が現実的に協力することになり、
いきなり首都候補地の有力者としてクローズアップされて
政権内で重宝されることになったわけだ。 鴨一族がオオヤマツミの末裔と言うのは初めて聞いたが、非常に面白い。
オオヤマツミというのは、スサノオ神話にもある通り、
かなり早くから東方進出していた部族。
その血縁が、東方に展開していたというのは十分にありうる話であるわけだ。
オオヤマツミも倭王かどうかはともかくとして、
北部九州倭人の部族であることは確実であって、
鴨もまた、
吉武高木の賀茂の頃には、筑紫倭国の政治に参加していたのであろうし、
福岡県嘉麻市などに名残りを残しつつも、
大国主の東征や、ニニギ饒速日に押されて、畿内へ軸足を移していったのだろう。 【葛城鴨王家の系譜】
大和国葛城にいた古代氏族の系譜。
その祖は博多の王である大山祇の子であり、摂津に鎮座する三島溝杙耳(陶津耳)である。
その息子は登美に移住して神武と戦った長髄彦であり、娘は活玉依姫である。
出雲の国譲りの後に大和に移住していた事代主は三輪山の神となっていたが、活玉依姫に娘と息子を生ませる。
娘は後に神武の妃となるイスケヨリ姫(五十鈴姫)であり、息子は天日方奇日方(櫛御方)である。天日方奇日方はまたの名を鴨主という。
天日方奇日方の曾孫が太田多根子となる。
この家系には別の伝承がある。
飛鳥大神の娘である登美夜姫が、高天原からやってきた天照の孫であるニギハヤヒとの間に生んだ子が、物部氏の祖であるウマシマジである。
登美の長髄彦は、神武との戦いの中で「自分は天神の子であるニギハヤヒに仕えて妹をニギハヤヒに娶らせたが、どうしてまた天神の子と称するものが来て土地を取ろうとするのか」と言っている。
とすると、登美夜姫と活玉依姫はともに長髄彦の妹ということになる。
いずれにしても、大和国の主だった勢力はいずれも筑紫か出雲、高天原にその起源があることになる。 【葛城鴨王家の系譜】
大和国葛城にいた古代氏族の系譜。
その大祖は博多の王であった大山祇の子であり、古代は越の石剣八岐大蛇部族に劣勢であった。
吉武高木の筑紫倭王が歴史に登場し、
その王族東征将軍であるスサノオが出陣して八岐大蛇部族に勝利し、
田熊石畑遺跡に基地を築いて日本海沿岸を支配した。
スサノオと懇意にした大山祇は、筑紫から日本海沿岸をスサノオに譲り、
瀬戸内海沿岸を開拓していく。
大国主中広型銅矛が登場し、大山祇はこれと敵対して降伏。
雌伏を余儀なくされる。
大国主が晩年に失脚した期を逃さず、
倭王家に一族の娘「コノハナサクヤヒメ」を嫁がせることに成功。
饒速日銅戈が大阪湾上陸し、この時に大阪湾沿岸の開発を任されたのが、
摂津に鎮座する三島溝杙耳(陶津耳)である。
その息子は登美に移住して神武と戦ってしまった長髄彦であり、娘は活玉依姫である。
出雲の国譲りの後に大和に移住していた事代主は三輪山の神となっていたが、活玉依姫に娘と息子を生ませる。
娘は後に神武の妃となるイスケヨリ姫(五十鈴姫)であり、息子は天日方奇日方(櫛御方)である。天日方奇日方はまたの名を鴨主という。
天日方奇日方の曾孫が太田多根子となる。
この家系には別の伝承がある。
飛鳥大神の娘である登美夜姫が、高天原からやってきた天照の孫であるニギハヤヒとの間に生んだ子が、物部氏の祖であるウマシマジである。
登美の長髄彦は、神武との戦いの中で「自分は天神の子であるニギハヤヒに仕えて妹をニギハヤヒに娶らせたが、どうしてまた天神の子と称するものが来て土地を取ろうとするのか」と言っている。
とすると、登美夜姫と活玉依姫はともに長髄彦の妹ということになる。
いずれにしても、大和国の主だった勢力はいずれも筑紫か出雲、高天原にその起源があることになる。 魏志倭人伝も解読されたし、
記紀との接点もわかってきた。
考古学的にも北部九州説を補強する新発見が相次ぐ。
あとは、銅鐸と甕棺墓だな。 >>604
>高級住宅地と工業地帯は離れている方がいい。
なんでそこまで離さんといかんのかね? そこまで離す妄想を是非、聞きたいんだがw @阿波 >古墳は墳形の規格が埋葬者の出身家系を
意味するという。
先日のNHKでは、方墳は飛鳥時代蘇我稲目の都塚古墳から突然始まると放送されていたが
蘇我氏の本拠地とされる徳島県石井町の曽我氏神社古墳群にはそれに先立ち、古墳時代前期に既に10m×12mの方墳(2号墳)が確認されている。
このことから、方墳墓は蘇我氏一族専用の墓型であった可能性が高い。 @阿波
[石井町/曽我氏神社古墳群]
http://awakouko.info/modules/xpwiki/?%C0%D0%B0%E6%C4%AE%2F%C1%BE%B2%E6%BB%E1%BF%C0%BC%D2%B8%C5%CA%AF%B7%B2 「樋口遺跡」 弥生時代終末期の集落遺跡
眉山の南西の麓、園瀬川の自然堤防上に営まれた集落遺跡。1983年(昭和58年)以降数次にわたる発掘調査により、弥生時代の終末期の竪穴住居跡や奈良時代の掘立柱建物跡などが見つかっている。
竪穴住居跡からは土器や石器など多数の遺物が出土しており、中でも東阿波型土器が多く含まれる点は遺跡の大きな特徴である。
そのほか注目すべきは、赤い顔料である朱が付着した土器が多数出土していることである。これらの土器の分布範囲は広く、人々の交流が活発であった様子がわかる。
樋口遺跡の集落内には、幅広い交易に関わった人々が暮らしていたのであろう。 @阿波
樋口遺跡 http://awakouko.info/modules/xpwiki/?%C6%C1%C5%E7%BB%D4%2F%C8%F5%B8%FD%B0%E4%C0%D7 「水銀朱の精製工房跡か」「加茂宮ノ前遺跡 石器や辰砂出土」 徳島新聞 2017年2月23日
徳島県教委と県埋蔵文化財センターは22日、阿南市加茂町の加茂宮ノ前遺跡で見つかった弥生時代中期後半〜古墳時代前期初頭(1〜3世紀)の竪穴住居跡の内外から、
古代の赤色顔料の水銀朱が付いた石器15点と水銀朱の原料の辰砂原石10点が出土したと発表した。
遺跡の南西約5キロには辰砂の採掘遺跡として全国で唯一確認されている若杉山遺跡があり、同遺跡に関連する水銀朱の精製工房跡とみている。
辰砂は硫化水銀の鉱石で、これを原石から取り出して精製した水銀朱は、古墳時代初期を中心に棺内部や死者の体に塗るなどして使われた。 防腐剤としての役目のほか、死者の魂を鎮める目的もあったとされる。
出土した石器のうち、石杵8点(全長約10〜23センチ)は辰砂を砕く際に使われ、磨石2点(10センチ四方)は擂りつぶすときに用いられた。石臼1点(縦20センチ、横17センチ)はその土台だったとみられる。
それぞれに水銀朱が付着している。辰砂原石は全長2〜5センチ。石器と原石は5棟ある竪穴住居跡のうち3棟の内部や周辺で見つかった。一部が埋まった状態で、捨てられたとみられる。
精製に伴って出る石片などがないため工房は特定できないが、工房があった集落と断定した。
弥生時代後期〜古墳時代初期(3〜4世紀)の若杉山遺跡からは、辰砂採掘に伴う石くずや精製用の石器が出土している。
水銀朱は奈良や大阪など各地の有力者の墓で使われており、徳島産だった可能性があるが、出荷先などは分かっていない。 @阿波 1、はじめに
芝遺跡は四国、徳島県南部海岸沿いの海部郡海陽町(旧海部町)芝・野江に所在する。
阿南室戸国定公園内の海岸沿いに位置し、高知県との県境に近い。
芝遺跡は、現在の海岸線より約2キロメートル程内陸に入り、海部川の右岸、母川とに挟まれた沖積平野の微高地および尾根の先端付近に位置する。
海部川の河口では砂堆が発達し、ラグーンを形成していたと考えられ、郡内一の沖積平野を形成している。(海部町史1971、寺戸1995)
2、調査成果
芝遺跡では3面の遺構面を確認した(3)。
第1遺構面は中世にあたり、13世紀後半〜14世紀中頃にかけての屋敷境溝を持つと考えられる掘立柱建物跡や土壙墓などを検出した。
このうち、土壙墓は屋敷墓と考えられ、海部刀短刀・土師器杯・皿が出土し、13世紀後半頃と推定できる。
第二遺構面では弥生時代後期〜古墳時代前期前半頃にかけての竪穴住居や溝、旧河道等を検出した。
旧河道からは外来系土器が多数出土している。
第3遺構面では弥生時代前期後半以降頃以降の遺構と遺物を検出した。
中期中頃〜後半にかけての円形周溝墓を4基検出し、
時期が確定できる円形周溝墓としては、県内初出となった。
この内、円形周溝墓1は直径約11メートル、溝幅が最大約2メートルを測り、陸橋を持つ。出土遺物は陸橋周辺に集中して出土しており、
結晶片岩を含む吉野川下流域産と考えられる土器がほとんどを占め、若干の在地土器が混じる。
この他、周溝墓の可能性のある溝も検出しており、この時期の集落内墓地であった可能性が考えられる。
また、弥生時代後期中頃と推定される竪穴住居では、炉跡内から鉄切片・小破片が出土し、炉跡底面に焼土面が広がっていた。
そのため、本炉跡は鍛冶炉跡と推定され、U類(村上1998)にあたると考えられる。
この他、サヌカイト片や特殊なものとして朱付着石杵も出土しており、この朱は水銀朱であることが確認されている。
したがって、竪穴住居では石器・鉄器・朱を扱う工房跡であった可能性が指摘でき、阿波南部地域に鉄・朱が伝わっていたことを実証できる好資料である。 @阿波
敵が攻めてくるのは収穫期だ。
稲作だから10月。
弥生時代には基本的に職業軍人はいないから、
(倭国にはいたかもしれん=甕棺墓戦士)
敵もまた、農業を営んでおり、
農繁期は軍事行動を起こせない。
また、収穫期が過ぎると、稲は全て環濠集落の中の倉庫へと貯蔵されるため、
攻め込んでも籠城されて、効率が悪い。
例外はあるかもしれんが、
基本的には10月だけ。
あるいは冬の間だけ守っていればいい。 銅鐸は九州に普及していない。
もし稲作で使う時報だったり、
便利な利器であれば、九州でも使ったはず。
しかも、青銅器としては大きい部類に入るので、青銅原料を入手するために
北部九州を通過している筈であり、
基本的には北部九州倭人や倭種が銅鐸を作っていたと思われる。
淡路島で舌が見つかったし、内側に摩耗痕があることから、
銅鐸は鐘のように鳴らして使用していたことが判明している。
では、なぜ九州ではほぼ全く使われず、
あちこちに出土するのか。 北部九州倭国、あるいは倭国から海運ですぐの地域、
であれば、強大な倭国水軍が常駐している。
が、遠方へと開拓した倭人集団はどうか?
先行して稲作をしていた現地集落に襲われる危険性があるわけだ。
北部九州倭国から、遠く突出して集落を形成した場合、
倭国兵は守ってくれない。
よって、小高い位置に銅鐸と見張りを置き、
周囲の集落から略奪集団がやってきたら、銅鐸を打ち鳴らして
全員避難して防御を固めたわけだ。 倭国兵がいる九州本国や、
倭国兵がすぐ駆け付けることのできる瀬戸内海西部などは
銅鐸が必要ない。
狼煙をあげて、兵がすぐに出陣する、あるいは攻められることなどなく、
むしろ攻めて略奪する側。
日本海沿岸は、
弥生早期には、吉武高木王が越の八岐大蛇部族と戦っていたので、
孤立した開拓集落は銅鐸を必要とした。
しかし、扇谷遺跡を経営して
沿岸の支配を確立すると、
(倭人倭種にとっての)治安が維持されて、銅鐸が必要なくなっていったわけだ。 銅剣祭祀のオオヤマツミも、
初期は倭人以外の集落からの来襲に備えるため、
また、後には、中広型銅矛大国主と戦争状態に入り、
その襲撃に備えるため、銅鐸を必要とした。
播磨に銅鐸が少ないのは、
当時のオオヤマツミの拠点の一つが播磨にあり、
(大量の青銅器を保有していたのだから、本当の本拠は北部九州にあっただろうが)
播磨にはオオヤマツミの主力兵団がいたので、銅鐸は必要なく、
もし攻めてきたら、狼煙を上げて、迎え撃っていたのだろう。 大国主が失脚して、
銅戈饒速日が大阪湾攻略や諏訪攻略をするわけだが、
近畿式銅鐸は、饒速日が新たに入植して孤立した集落へ、
三遠式銅鐸は、大国主タケミナカタ系の集落が、
それぞれ使用したのだろう。
前者は勝者なので、攻めることが多く、
あまり使われなくなって、祭器化大型化していく。
後者は敗者なので、使われた痕跡があり、次第に追いつめられて
先に消滅する。 銅鐸が無くなったのは、倭国による征服が広範囲に及び、
つまりは倭国の集落を襲う敵がいなくなったことを意味する。
弥生時代のJアラート。
なんで埋納したかというと、
一年間のうちで使用するのは、収穫期に限定されるため、
他の時期は埋めておくことで、錆びて劣化するのを防いだのだろう。
山頂にないのは、落雷の危険があるから。
あるいは眺望に最適な場所を選んだためか。 九州は小型の銅鐸が数個は出ているし
鋳型も出ているが、
そんなに流行った形跡はないね。
結果的には九州ではあまり興味を
引かなかったのだろう。 銅矛文化圏に押し潰されて銅鐸文化圏は消滅したのだろう。
記紀神話でも各地の祭祀でも銅矛は継承されているからね。
現在の日本文化は銅矛文化圏に属している。 >>631
>>601
3、旧河道出土資料について
旧河道からは弥生時代終末頃〜古墳時代前期前半頃にかけての外来系土器が多く出土した。
報告書では旧河道をそれぞれ溝12164、溝33239〜溝33241、溝33244とし、主に上層と下層に分けて、遺物の取り上げを行った。
特に溝12164は幅5m以上、深さ1.1mを測り、大きく上層・中層・下層の3層に分層できた。
下層から布留甕1個体が出土し、上層からは東阿波型土器や布留式土器がまとまって出土しており、時期差の可能性が考えられる出土状況が確認できた。
図3は旧河道出土土器の内、実測し、報告書に掲載している個体総数の内訳を表したものである。
この割合が遺跡全体の割合を表しているわけではないが、参考として提示した。
実測総数196個体に対して、
阿波97個体で48%、畿内39個体で20%、在地36個体で18%、讃岐7個体で4%、土佐3個体で2%、吉備3個体で2%、産地不明が12個体で6パーセントである。
約半数が阿波(東阿波型土器を含む吉野川下流域)の土器で占めており、次いで畿内系土器、在地時の出土数が多い。
讃岐や土佐、吉備の出土数は数%に留まる状況を示している。 @阿波 >>641
>>605
芝遺跡では弥生時代前期後半頃には吉野川下流域や紀伊からの搬入品が認められるが、
特に吉野川下流域土器は弥生時代を通じて恒常的に出土すると考えられる。
弥生時代終末頃になると吉野川下流域時の他に、畿内・讃岐・土佐・吉備からの搬入品が認められるようになるものの、
普遍化した出土状況は見られない。
古墳時代前期前半頃になると吉野川下流域時が主体であることに変わりはないが、一定量の畿内系土器の搬入が認められる
ようになる。
以上のような搬入土器の出土状況や共伴関係の検討から、
吉野川下流域の搬入時を主体とし、複数地域からの搬入土器が混在する第一段階(弥生時代終末頃〜古墳時代初め頃)。
吉野川下流域地域の土器・畿内系土器が主体となる第二段階(古墳時代前期前半頃)に分類することができると考えられる。
第一段階は伝統的な交流からの脱却の揺籃期、第二段階は交易ルートの確立を意味し、この現象は吉野川下流域、
なかでも鮎喰川下流域集団の影響が大きく、朱を媒介として交流が盛んに行われていたものと考えられる。
朱の搬出や食料供給に阿波南部地域集団が関係(菅原1992、岡山 2002)していたことを示す資料である。 @阿波 >>642
4、周辺の遺跡の様相
本地域は発掘調査がほとんど行われていないため、資料数が少ないが、海部川河口砂堆に所在する大里松原神社遺跡において
若干の土器が採集されている。
東阿波型土器や下川津B類時が出土しており、在地産土器と外来系土器が混在する状況を示している。
時期は大きく弥生時代後期後半と古墳時代前期初頭の2時期に分かれ、
この在地土器と外来系土器の混在する状況が、本地域の特徴であると意義付け、海人の存在が想定されている。(菅原1992)
この他、吉野川下流域地域で畿内系土器が出土しているのは黒谷川郡頭遺跡(菅原1989)や石井城ノ内遺跡(日下1999)などに
限られ、出土点数も数点しかない現状では、阿波南部地域の特異性が窺える。 @阿波 >>643
5、まとめ
芝遺跡は阿波南部地域で数少ない発掘調査を行った遺跡である。
県内では珍しい円形周溝墓をはじめ、竪穴住居等の遺構や弥生時代前期後半以降の土器・石器も出土し、
本地域の集落形態の一様相が確認できた遺跡である。
また、弥生時代終末頃〜古墳時代前期前半頃にかけての搬入土器がまとまって出土したことから、
出土状況・共伴関係の検討を行い、各搬入土器の搬入時期のピークを探った。
土器の搬入には鮎喰川下流域集団の関与が想定され、一連の動きに若杉山遺跡(岡山1997)の朱が関わっていると考えられる。
本地域の発掘調査事例が芝遺跡に限られる現状では、搬入土器が普遍的に出土するのか、芝遺跡の特異性なのか、判断しがたいが、
大里松原神社遺跡においても搬入土器が認められることは、
本地域に一定量の土器が搬入される状況があったことの傍証になるものと考えられる。
芝遺跡は土佐ー阿波ー畿内を結ぶ四国東岸海岸沿い太平洋ルートを想定できる遺跡であり、
海上交通に際しての人・物が集中する拠点集落であったと考えられる。 @阿波 >>640
銅矛文化圏というのは銅矛祭祀を行う文化圏のことだが、
その圏内にも多数の銅鐸が出土している。
紀元前に、日本海沿岸は統一された。
だから銅矛は日本海沿岸に分布する必要はなく、
瀬戸内方面へと進出する。
さらに、中広型銅矛の時には淡路島まで統一されたから、
銅戈は更に先の大阪湾沿岸にしか拡大する必要が無い。
銅矛祭祀や銅戈祭祀は、北部九州倭人の祭祀だろう。
銅鐸は祭祀などではなく、
北部九州倭人が勢力拡大するにあたっての、
一番辺境の集落。
つまり、敵地真っ只中に入り込んで、倭国本国の兵力が及ばない
突出した集落において、
農作業などしている集落民に、敵襲を知らせるJアラート。
一見すると、北部九州倭国が銅鐸勢力を滅ぼしていってるように見えるが、
そうではなく、
北部九州倭国の勢力圏の最も辺縁の危険地帯の集落に配備されたJアラート。 例えば高地性集落。
銅鐸も小高い場所に埋納されることが多いのに、
同じく高所に作られた大量の高地性集落からは銅鐸が出ない。
なぜなら、高地性集落は、
北部九州倭国が瀬戸内沿岸などを制圧して、
森林から炭を生産して、淡路島で鉄加工の燃料として供給するための施設であり、
安全が保障されているから。 稲作開始以降、北部九州からの東征は何波にも渡っており、
後から来る波は、先に入植した者達との軋轢を生んだわけだ。
場合によっては、
敵対する勢力同士の、お互いの最前線集落がそれぞれの銅鐸を使用しているという
状況もあった。 神無月には全国の神様が出雲に集まる。
神無月は10月だが、旧暦10月は現在の新暦11月。
つまり新暦10月に収穫して、倉庫に入れ終わった時期に当たる。
収穫した稲を「稲荷」にまとめて、
倭国本国への年貢を持参して、各地の豪族が集まったわけだ。
中央豪族だけでなく、日本海倭種豪族も集まるから、
吉武高木の宮殿に上がることは出来ず、
スサノオ=東方制圧将軍=一大率の前身の拠点である、宗像田熊石畑遺跡に集まった。
そしてそこで、重要な政略結婚などを皆で協議した。
弥生時代に翻訳すると、
神無月には倭種の各地豪族が稲荷を持って出雲=宗像田熊石畑遺跡に集まる。
ちなみに日本海沿岸倭種地域からの稲荷は
稲場=鐘崎に一旦陸揚げ。 大国主が整備したのだろうな。
筑紫〜日本海沿岸の有力者の娘を娶って争いを無くして、
ヒナモリ卑奴母離=夷守=事代主=恵比寿を各地に配置して、
稲荷を集めるシステムを構築した。
奴国へ国力を集中するシステムを作ったことで、
瀬戸内海沿岸へと倭国支配域を広げていった。
というより、先行していたオオヤマツミ銅剣勢力を屈服させた。
吉武高木アマテラスにとっての、東征将軍スサノオが、
大国主にとっては、辺境征服担当タケミナカタであり、
タケミナカタは領地を離れるわけにはいかないし、
むしろ敵と面していて、兵糧を送ってもらう側だから、
タケミナカタは神無月に出雲に行かなくていい。
現地で戦っていなければならない。 倭人は辺境の倭人倭種集落、あるいは、倭人に友好的な非倭人集落などに、
環濠集落の建設ノウハウを伝授した上で、
Jアラートとして、銅鐸を配ったわけだ。
遠いと守りきれないから。
襲撃されるのは、新暦10月の収穫期。
それより前だと、襲撃する側だって農作業が忙しくて動けない。
それより後だと、収穫物を環濠集落内の倉庫に貯蔵し終わっているから籠城できる。
だから銅鐸は新暦10月旧暦9月の1か月間だけしか使わないわけで、
それ以外の時期は錆びたりしないよう土中に埋納していたわけだ。 >>645
>一見すると、北部九州倭国が銅鐸勢力を滅ぼしていってるように見えるが、
>そうではなく、
>北部九州倭国の勢力圏の最も辺縁の危険地帯の集落に配備されたJアラート。
うーん、新説だけど、考古学的には支持は得られているの? >>651
考古学的には用途不明のはず。
一応の名目としては、収穫を祝う祭器というのがポピュラーですかね。
けど、それだと
山の斜面に埋められていることが説明できない。
銅矛銅戈勢力が銅鐸集落を占領したとして、
なんで銅矛や銅戈と一緒に銅鐸を埋納するのか?
略奪して溶かして銅矛銅戈を作る方がいいいはず。
何よりも、
特に祭器として大型化した銅鐸など、
銅鏡に比べても結構な体積を誇る青銅器なわけで、
北部九州によって征服される側であれば、原料を確保できないわけです。
発想の転換と言うか、
むしろ、北部九州倭国によって授与される利器。
警備兵が常駐していない辺境地域における、
Jアラート。
これが最も有力だと思われます。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています