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邪馬壹國は北部九州に在った(王都は伊都国)part12

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0001日本@名無史さん
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2018/02/01(木) 09:45:04.53
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1515157747/

邪馬壹國は北部九州5県(福岡、佐賀、長崎、熊本、大分)に跨って存在し、
卑弥呼は伊都國を都として邪馬壹國を統治していた。
邪馬壹國とは26か国の国邑で構成されており
その26か国の国邑とは對馬國、一大國、末廬國、伊都國、奴国、不彌國と旁國20か国(斯馬國、已百支國、
伊邪國、都支國、彌奴國、 好古都國、不呼國、姐奴國、對蘇國、蘇奴國、 呼邑國、華奴蘇奴國、
鬼國、爲吾國、鬼奴國、 邪馬國、躬臣國、巴利國、支惟國、烏奴國)

魏志倭人伝には伊都国に卑弥呼が居たとの記述が2か所あり、その一つが 「世有王皆統屬女王國」である。
「世有王皆統屬女王國」の「A統屬B」は「AはBに統屬する」の意味であり
Aについて「伊都国の代々の王は皆」と理解されていたが、
ここでは「世有王」としかなく「世世有王」ではない。
「世有王」の「世有」について『三国志』内で用例を調べると魏書に4例、呉書に1例有る。
「三世有」(魏書)、「當世有」(呉書)等の特殊な事例を除き『三国志』内では「世有」は魏の世を示している。
「世有」を代々と訳してよい場合でも親子二代程度で何代も続いたとの意味ではなく
「世有」は魏代内の世である。即ち「世有王」は「代々の王」の意味ではなく、
「世(魏の世)は王が居た」の意味なのである。
そして文はここで一旦切れて、次に続く「皆」は「世有王」ではなく別のものを指しているのであり、
それは倭の国々のことである。
「皆統屬女王國」の「皆」は倭国の国々を指していると考えられる。
「皆統屬女王國」とは「倭の国々は皆、女王国に統屬していた」の意味なのである。
すると前文の「世(魏の世)に王が居た」の王とは女王国の王である卑弥呼や壹與のことを指していると判明する。
また「世有王」とは「魏の時代に王(卑弥呼、壹與)が伊都国に居た」こと指すと結論される。
0799日本@名無史さん
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2018/03/15(木) 21:14:22.77
北部九州説であれば説明がつく。

紀元前3世紀に吉武高木王配下の東征将軍スサノオが、
越の八岐大蛇石剣部族に勝利して、
八岐大蛇の頭部(九頭竜川流域)を占領し、
八岐大蛇の体部(若狭湾)に水軍基地=一大率の前身=戦前日本海軍、現代の海上自衛隊まで続く日本海沿岸の海軍要衝
八岐大蛇の尾部(丹後半島)に扇谷鉄工房遺跡を建設した。

次に、日本海沿岸を統一した須久岡本大国主中広型銅矛が、
瀬戸内利権を持っていた大山祇平型銅剣に勝利して、
淡路島に舟木鉄工房遺跡を建設した。

そして、奴国大洪水で失脚した須久岡本王に代わって、
倭国王となった、三雲南小路邇邇芸の兄、饒速日銅戈が、
大阪湾沿岸まで征服して、淡路島に五斗長垣内鉄工房遺跡を建設したわけだ。

その孫の代になって、倭国乱が発生し、
日本海沿岸を従える伊都邪馬台国と、
瀬戸内沿岸を従える筑後狗奴国が争った。

伊都と敵対する狗奴国には朝鮮半島からの鉄原料が入らなくなり、
淡路島の鉄工房遺跡は操業停止。
伊都の卑弥呼は朝鮮半島に臨時の鉄工房を作った後、
戦局を優位に進めて、邪馬台国傘下の丹後若狭湾から南下した琵琶湖湖畔に
稲部鉄工房遺跡を建設する
0800日本@名無史さん
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2018/03/15(木) 21:15:20.88
忌部氏(伊部氏)の仕事は鉄工房が必須なわけだ。

紀元前3世紀から1世紀は、扇谷遺跡の時代。
八岐大蛇を倒して得た、天叢雲剣(草薙剣)とは、扇谷遺跡で伊部氏が製作した剣であり、
吉武高木王、あるいは東征将軍スサノオに献上されて伝世した。

その後も紀元前弥生時代には、扇谷遺跡で鉄工房が維持される。

日本海沿岸を石剣部族と争っている間は、
日本海沿岸に銅鐸配備倭人辺境集落が存在するわけで、
貴重な忌部氏(伊部氏)は、
扇谷遺跡内で鉄製武器を作り、
鉄製工具を輸送した先の北部九州で各種生産を行う。

鉄器の優位によって、日本海沿岸をほぼ制圧してしまうと、
銅鐸集落は必要なくなり、
忌部氏(伊部氏)も扇谷遺跡周辺へ多数進出することになる。

その末裔が織田氏などの越前剣神社末裔だろう。
0801日本@名無史さん
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2018/03/15(木) 21:15:57.73
次に淡路島に鉄工所が移動する。

あとはわかりやすくて、
淡路島を取り囲むように、
しかも北部九州倭国にとっての異地である畿内を避けるように、
備前、紀伊、讃岐、阿波、に忌部氏(伊部氏)が配置される。

備前の忌部氏(伊部氏)は、最も北部九州倭国に近い=重要なわけで、
丹後の伊部氏が移住してきて、
弥生時代最重要の武器を生産した。

紀伊は、木の国。
大国主の時代から、木材の主要供出地であり、
計画的に森林を管理して、建物の建築なども請け負っていた。
紀伊には伊都の名が残っているわけだが、
大山祇、大国主、瓊瓊杵、神武、など、
時代の勝利者を全部引き当てて、常に勝者の元に協力者として参加して、
勝ち組になった、ラッキーな土地柄と見受けられる。

讃岐は盾。

倭国兵の兵装は、
倭国王直属の軍は銅矛、饒速日は東征将軍銅戈。
遠距離武器は鉄鏃(威力重視)と骨鏃(返し・毒)の弓。
防御は朱塗り盾の中央に、武器受け目的の巴型銅器。

巴型銅器は北部九州を中心に出土するし、奴国などから鋳型が見つかっているが、
讃岐の森広遺跡からも巴型銅器の鋳型が見つかっている。

伝承は正しく、讃岐で盾を作っていた考古学的証拠が見つかっているわけだ。
0802日本@名無史さん
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2018/03/15(木) 22:19:47.16
出雲と伊勢が核心に迫る。

まず出雲。

出雲忌部氏は玉を作っていたとある。
そしてそれに符合するように、松江市に出雲玉作遺跡が存在する。

だが、出雲玉作遺跡は古墳時代以降。
しかも鉄器がない。
神代の出雲には該当しないのではないか?

ここで、神代=弥生時代の
北部九州における玉作遺跡に着目してみる。

一つは、押しも押されもせぬ、伊都の潤地頭給遺跡。
玉作工房だけでなく、準構造船も見つかっており、しかも無防備。
伊都倭国王のお膝元にあって、
完全な安全が保障された中で、各地の玉材料を集めて玉作に励んでいたのだろう。
0803日本@名無史さん
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2018/03/15(木) 22:20:34.71
もう一つが、北九州市の城野遺跡。

この玉作遺跡には、
朱塗りの石棺を埋葬した方形周溝墓
そして大量の鉄製工具
が出土している。

ということは、
筑紫倭国に所属する玉作工房であったことが明らかであり、
「筑紫伊部」が、主に奴国弥生銀座、副で潤地頭給遺跡など糸島にいたとして、

島根の玉作遺跡が古墳時代以降であることからして、
弥生時代の「出雲伊部」とは、城野遺跡のことではなかったのか。
という推測が成り立つ。
0804日本@名無史さん
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2018/03/15(木) 22:26:06.20
潤地頭給遺跡が筑紫伊部であれば、
城野遺跡は出雲伊部。

だとすれば、神代=弥生時代の出雲とは、
筑紫以東の、宗像〜門司までの北部九州沿岸であったと推定できる。

つまり、宗像〜門司までの北部九州沿岸が出雲であって、
宗像、稲場=鐘崎、根の国、堅洲の国、などなどが出雲の中にあった、
と考えられることになる。

今後の新発見によって、宗像に玉作遺跡が見つかれば、
宗像=出雲

見つからなければ、
宗像〜門司の北部九州沿岸が出雲、ということになる。
0805日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/15(木) 22:30:32.62
伊勢についても、考古学的に判明した鉄工房遺跡の変遷で明らかである。

筑紫伊部と同じく、刀・斧(武器)・鉄鐸(たぶん銅鐸)・鏡(威信材)を
作っていた忌部氏(伊部氏)。

つまり、
伊勢忌部とは、稲部鉄工房遺跡へ移動して来た忌部氏(伊部氏)のことであり、
弥生時代から古墳時代前期の伊勢とは、
近江、滋賀県のことであった、と考古学的に判明しているわけだ。

ここしかない。
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