邪馬壹國は北部九州に在った(王都は伊都国)part12
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邪馬壹國は北部九州5県(福岡、佐賀、長崎、熊本、大分)に跨って存在し、
卑弥呼は伊都國を都として邪馬壹國を統治していた。
邪馬壹國とは26か国の国邑で構成されており
その26か国の国邑とは對馬國、一大國、末廬國、伊都國、奴国、不彌國と旁國20か国(斯馬國、已百支國、
伊邪國、都支國、彌奴國、 好古都國、不呼國、姐奴國、對蘇國、蘇奴國、 呼邑國、華奴蘇奴國、
鬼國、爲吾國、鬼奴國、 邪馬國、躬臣國、巴利國、支惟國、烏奴國)
魏志倭人伝には伊都国に卑弥呼が居たとの記述が2か所あり、その一つが 「世有王皆統屬女王國」である。
「世有王皆統屬女王國」の「A統屬B」は「AはBに統屬する」の意味であり
Aについて「伊都国の代々の王は皆」と理解されていたが、
ここでは「世有王」としかなく「世世有王」ではない。
「世有王」の「世有」について『三国志』内で用例を調べると魏書に4例、呉書に1例有る。
「三世有」(魏書)、「當世有」(呉書)等の特殊な事例を除き『三国志』内では「世有」は魏の世を示している。
「世有」を代々と訳してよい場合でも親子二代程度で何代も続いたとの意味ではなく
「世有」は魏代内の世である。即ち「世有王」は「代々の王」の意味ではなく、
「世(魏の世)は王が居た」の意味なのである。
そして文はここで一旦切れて、次に続く「皆」は「世有王」ではなく別のものを指しているのであり、
それは倭の国々のことである。
「皆統屬女王國」の「皆」は倭国の国々を指していると考えられる。
「皆統屬女王國」とは「倭の国々は皆、女王国に統屬していた」の意味なのである。
すると前文の「世(魏の世)に王が居た」の王とは女王国の王である卑弥呼や壹與のことを指していると判明する。
また「世有王」とは「魏の時代に王(卑弥呼、壹與)が伊都国に居た」こと指すと結論される。 須勢理姫と正式に結婚した大己貴命は、
自らがスサノオ将軍となって、八千矛神になる。
オオヤマツミ八上女王の怒りを受けて立ち、
古代最大の(元)夫婦喧嘩戦争が勃発。
ここで高志国の沼河姫を娶る理由も想像がつく。
須勢理姫と結婚してスサノオ兵権を獲得し、
博多湾水軍の指揮権を得ただけでなく、
越の若狭湾水軍の指揮権も得るために越の沼河姫に求婚した。
もしくは、スサノオ兵権には博多湾と若狭湾両方の指揮権がついていたが、
オオヤマツミの琵琶湖下之郷遺跡と越とで若狭湾を挟撃されるのを避けるために、
越を味方につけて、逆に琵琶湖を一緒に攻めるのが目的だったか。
いずれにせよ、戦略上は非常に重要な結婚であり、
だからこそ須勢理姫も文句を言いながらも八千矛神を越に行かせたわけだ。 中広型銅矛を奉じる八千矛神は、平型銅剣を奉じるオオヤマツミ女王と戦い、
その領土を奪っていって、最終的に完全勝利する。
瀬戸内海沿岸の支配権も手に入れて、ついに大国主となった。
その後は、
@旧友である木伊スクナヒコナを森林長官に迎えて、葦原那珂津国の森林木材管理をしてもらう。
Aオオヤマツミ領土からの木材で、淡路島に舟木鉄工所を新設。
など、内政に力を入れていく。
一見すると、日本海沿岸の支配者アマテラスを越えて、
日本海沿岸+瀬戸内海沿岸の支配者となったかに見えるオオクニヌシだが、
形式としては、
アマテラス配下の将軍スサノオに任命されて、その軍勢で成し遂げた仕事であり、
アマテラスの領土を拡張したにすぎない。
スサノオの娘の須勢理姫を越えて、
アマテラスの娘である田心姫と湍津姫をも妻に迎えたが、
アマテラス一族は決してオオクニヌシのアマテラス就任を認めてはくれなかった。 だからこその金印である。
アマテラス一族が認めてくれないのなら、漢皇帝に認めてもらおうというわけだ。
だが、オオクニヌシに逆風が吹き始める。
まず、一緒に葦原那珂津国を発展してくれた功労者である
スクナヒコナが死去する。
木伊において森林管理に精通していたスクナヒコナがいなくなったことで、
森林管理の質が低下し、
密猟ならぬ密伐採、
あるいは賄賂をもらっての違法伐採黙認
などが横行し、那珂川流域の森林が荒れ始める。
そして漢使を迎えるにあたっての木材需要の高騰。
オオヤマツミに瀬戸内海からの木材供給を増やすよう命じるが、
八上姫以来の恨みから、思うように言うことを聞いてくれない。
結局は自領の木材を大量伐採せざるをえなくなり、
土石流の発生によって一夜にして全てを失ってしまったのだった。 美しい姫達と恋愛をしていたら
わらしべ長者のように
いつの間にか日本海沿岸と瀬戸内海沿岸の覇者になっていた。
そして漢皇帝からの金印授与。
人々から称賛され、頂点を極めたかに思えたのが、
ある豪雨の夜の洪水によって一瞬で流れ去った。
疫病が発生した葦原那珂津国から命からがら逃げだし、
須勢理姫の実家へ身を寄せた大国主は、
まさに一夜の夢のような人生をどう振り返ったことだろうか。 倭人伝など文献に残る痕跡としては、
各地に配置されたヒナモリ=夷守とは、
オオクニヌシの息子たち、事代主=恵比寿を、各地に配置していた名残りだろう。
国譲りによって、日向伊都王によって上塗りされて、
ヒナモリシステムはそのままに、その上に伊都派遣の支配者が置かれたのだろう。 長すぎて斜め読みしかできない。
だが、博多那珂津国の王が金印をもらったのであり、天津神アマテラスではないというのは、よい考えだと思う。
天津神が常に倭王であったわけではないのだろう。
ただ、個人的には金印は伊都にニニギが降臨してからだと思うので、年代に若干ズレがあるのではないか。 >>864
>中広型銅矛を奉じる八千矛神
【大国主神を祀る、全国唯一の式内社「八鉾神社」】
徳島県阿南市長生町に鎮座する「八鉾神社」。祭神は大己貴命。延喜式内社である。
この「八鉾神社」には四つの重要文化財が神宝として保管されている。
また「八鉾神社」自体も重要文化財に指定されているので、合計五つの重要文化財を持ち合わせている神社となる。
一つは「大己貴命 木造彫刻立像」
二つ目は「少彦名命 木造彫刻立像」
三つ目が「二品家政所 下文 」
四つ目が「附紺紙金泥法華経」である。
この八鉾神社、阿波では出雲の「杵築大社(出雲大社)」の元社であると伝えられている。
八鉾とは八千矛神(やちほこのかみ)。
出雲の主であり、長(おさ)である大国主神のこと。
大国主神の別名、大己貴神は、長国の偉大な主を意味している。
大国主神は、スサノオ命の子孫で、稲羽の素兎の物語で有名である。
オオクニヌシは、兄さん達から大きな袋を持たされる等、色々のいじめを受けたが、それらの試練を乗り越え、出雲国を治める立派な人となった。
オオクニヌシの子供にコトシロヌシ(えべっさん)と建御名方神(たけみなかたのかみ)がいる。
コトシロヌシは、式内社の事代主神社として、勝浦町沼江と阿波市市場町伊月に祀られ、タケミナカタは、式内社のタケミナトミ神社として石井町浦庄字諏訪に祀られている。
平安時代に記録される3132座の式内社の中に、これら八鉾神社やタケミナトミ神社等の神社は、阿波にしかない。 @阿波 その【大国主神を祀る、全国唯一の式内社「八鉾神社」】 は
南の狗奴国(卑弥弓呼勢力):長国(勝浦川流域勢力・那賀川流域勢力)に鎮座する。 @阿波
※南の狗奴国(卑弥弓呼勢力)
【勝浦川流域勢力 弥生時代集落】
勢合銅鐸出土地・田浦遺跡・新居見遺跡
【那賀川流域勢力 弥生時代集落】
若杉山遺跡・福寺山遺跡・宮ノ本遺跡 >>870
※南の狗奴国(卑弥弓呼勢力) 追加訂正
【海部川流域勢力 弥生時代集落】
芝遺跡・大里遺跡
【勝浦川流域勢力 弥生時代集落】
勢合銅鐸出土地・田浦遺跡・新居見遺跡
【那賀川流域勢力 弥生時代集落】
若杉山遺跡・福寺山遺跡・宮ノ本遺跡 別スレで、邪馬台国筑紫説という名称の提案があったが、どう思う?
佐賀と肥国とかを想定している人には受け入れられない? つまり卑弥呼の死後に崩壊したということか。
まあ、卑弥呼を共立した勢力の一つではあったかもしれない。 吉野ヶ里遺跡は、
弥生時代、から平安時代まで続く
複合遺跡です。
役所でもあったのか
9世紀の木簡も出土しています。 >>872
賛成^_^
共立勢力として
伊都
吉武高木
スク岡本
高良山
とか想定するのかな? >>876
>共立勢力として
伊都
吉武高木
スク岡本
高良山
あのねぇ、共立勢力がお墓や山なの? なんとかならんものかね? 九州説は。 @阿波 天御中主より彦なぎさまで筑紫城にイマスの
筑紫城はどこだろうね? >>872
>別スレで、邪馬台国筑紫説という名称の提案があったが、どう思う?
>佐賀と肥国とかを想定している人には受け入れられない?
佐賀は受け入れOK。
竹斯米多國が吉野ヶ里周辺(目達・米田・米多)にあったから、
佐賀平野東部も筑紫の地域に入る。 >>880
>竹斯米多國が吉野ヶ里周辺(目達・米田・米多)にあったから
じゃぁ、竹斯米多國で人が暮らした弥生集落遺跡群はどこ? @阿波 糸島と脊振南の佐賀地区は文化的にも共通項が多いから
、共立国でいいんじゃね?
つまり、佐賀平野と筑後川流域が入る。
そうなると、有明海の交流の国々も入ってくる。
九州の西側は唐津とこ交流国々がある。
東がようわからん。 米多とか吉野ヶ里の近くなので
集落遺跡は無数にあるよ。 いわゆる佐賀大和近辺は街道沿いに
弥生遺跡が並んでる。当時の海岸線だったんだろう。 >>883
だがそうすると、筑紫と肥国の共立国ということになる。 >>885
>集落遺跡は無数にあるよ。
目ぼしいのを挙げて。 @阿波 >>889
「企救国」ってのがよく分からないんだがその中心と想定されるという「城野遺跡」や近くの「重留遺跡」・「重住遺跡」
それが目ぼしい遺跡なの?
例えば、鉄器とか、鉄鍛冶炉遺構とか舶載鏡とか、採掘遺構とは言わないけれど水銀朱精製遺構とか そんなものはないのかね? @阿波
邪馬台国王都「吉野ヶ里」の衛星国ならありそうなもんだが・・・ @阿波 >>891
弥生鉄器は北部九州から出てる。
畿内からはあまり出てない。
調べればすぐわかることだから、自分で調べてね。 >>892
>弥生鉄器は北部九州から出てる。
なんで「吉野ヶ里」周辺で出ないのかね? @阿波 >>892
>弥生鉄器は北部九州から出てる。
鉄鍛冶炉遺構は? @阿波 >>893-894
めんどくさいから自分で調べてね。
誰も相手をしない理由がわかったよw >>895
>めんどくさいから自分で調べてね。
便利な逃げ口上だね。 想定どうりだけど。 @阿波 阿波についてそれだけ調べることができるなら、九州についても調べられるよね!
やればできるよね! >>898
いや、調べたんだけれどね。 これといったものがないんだよね。 九州には。 @阿波 >>895
>>899
@阿波は探す気がないんだよ。
資料を提示しても、@阿波は見る気がないみたい。
もし資料を見ていたなら、彼の眼は節穴らしい。 >>900
>@阿波は探す気がないんだよ。
資料を提示しても、@阿波は見る気がないみたい。
いや、その「提示された資料」をよくよく調べたんだけれどね。 これといったものがないんだよね。 九州には。
悪いが、阿波の遺跡にはとても及ばない、変哲もないものばかり。 @阿波 阿波さん阿波さん
集落遺跡っていい方は多分一般的じゃないから引っかからないと思うよ。
そこは弥生遺跡だと思うで。 to 阿波
>いや、その「提示された資料」をよくよく調べたんだけれどね。
調査資料(発掘調査報告書)は、今は有料になっているから、
佐賀県から取り寄せたのかね?
昔は、佐賀県の発掘調査報告書の一部はネットでも見られたこともあるが。 >>582
三国史記とかの記録によると
14年 倭人が兵船百余隻で海辺に侵入。
59年 夏の五月に倭国と友好関係を結んで修交し、使者を派遣し合った。
73年 倭人が木出島を侵して来たので、王は角干羽鳥を派遣して、これを防がせたが、勝てずして羽鳥が戦死した。121年 夏四月に倭人が東の辺境を攻めた。
123年 春三月に倭国と講和した。
158年 倭人が交際のために訪れた。
173年 倭の女王卑弥呼が使わした使者が訪れた。(「二十年夏五月。倭女王卑彌乎。遣使来聘」)
193年 倭人が大飢饉となり千余人にも及ぶ避難民到来。
208年 夏4月、倭人が国境を侵す。奈解王は将軍利音に反撃させた。
232年 夏四月に倭人が金城を包囲。
233年 五月 倭兵が東辺を攻めた。
249年 夏四月に倭人が舒弗邯、于老を殺した。
287年 夏四月に倭人が一礼部を襲う。1千人を捕虜にして立ち去った。
289年 夏五月に、倭兵が攻めてくるということを聞いて、戦船を修理し、鎧と武器を修理した。
292年 夏六月に倭兵が沙道城を攻め落とす。
294年 夏 倭兵が長峯城を攻めて来た。 295年 春 王が臣下に向かって「倭人が、しばしばわが城邑を侵して来るので、百姓が安じて生活することができない。私は百済と共に謀って、一時海を渡って行って、その国(倭)を討ちたいが、皆の意見はいかがか?」ときいた。
これに対して、舒弗邯、弘権が「われわれは海戦に不慣れでございます。冒険的な遠征をすれば、不測の危険があることを恐れます。
いわんや百済は偽りが多く、常にわが国を呑み込もうと野心をもっておりますから、かれらと共に謀ることは困難だと思います」と答えた。王はこれを聞いて「それもそうだ」といった。
300年 春正月に、倭国と使者を派遣し合った。
312年 春三月に、倭国の国王が使臣をつかわして、息子のために求婚したので、王は阿飡の急利の娘を倭国に送った。
344年 倭国が使者をつかわして、婚姻を請うたが、すでに以前に女子を嫁がせたことがあるので断った。
345年 二月に倭王が、書を送って国交を断ってきた。
346年 倭兵が風島に来て、進んで金城を包囲して攻めて来た。
364年 倭人は多数をたのんで、そのまま直進して来る所を伏兵が起ってその不意を討つと、倭人は大いに敗れて逃走した。
393年 倭人が来て金城を包囲し、5日も解かなかった。
402年 三月に倭国と通好して、奈勿王の子、未斯欣を人質として倭に送った。405年 倭兵が明活城を攻める。
407年 春三月 倭人が東辺を侵し、夏六月にまた南辺を攻める。
408年 春二月、王は、倭人が対馬島に軍営を設置し、兵器・武具・資財・食糧を貯え、我が国を襲撃することを企てているとの情報を手に入れた。
倭兵が出動する前に、精兵を選んで兵站をしようと考えたが、舒弗邯の未斯品曰く「兵は凶器であり戦は危険な事です。
ましてや大海を渡って他国を討伐し、万が一に勝つことができなければ、後で悔やんでも仕方ありません」王はこの意見に従った。 >>904
>調査資料(発掘調査報告書)は、今は有料になっているから、
佐賀県から取り寄せたのかね?
いつ提示されたっけ? その調査資料(発掘調査報告書)なるものを。 記憶にないんだけどw
そんな有料の資料じゃないといけないのかね? @阿波 >>907
今は調査資料(発掘調査報告書)を自由に閲覧できないので、
佐賀県から購入して読むしか方法がない。
価格は、遺跡毎の調査毎の報告書が一部3千〜5千円。と記憶しているが。
佐賀県が保管してない資料は紹介してくれたと思う。 そんな大層なものでなくても、これでいいんじゃないの。
https://www.pref.saga.lg.jp/kiji0031880/index.html
どっちみち、目ぼしい弥生末期集落遺跡はないんだから。 @阿波 >>910
>四国は侏儒国なんだからどうでもいいよ。
侏儒国にも「其山有丹」あったっけ? @阿波 鉱山大国の日本にあって「其山有丹=山に水銀鉱床があるよん」
じゃない都道府県ってどこよ? なるほど!
福岡県に水銀鉱床があろうがなかろうが
北部九州伊都説=伊都を首都とする北部九州邪馬台国だから
なるほど北部九州邪馬台国で問題が無いわけだな 【筑紫を中心とする倭国の交易路】
もともと日本海ルートが倭国の交易の主力だった。4世紀の仲哀天皇のときに関門海峡が開削され、5世紀の雄略天皇のときに風待ち港と澪標が整備され、瀬戸内ルートが整備された。なお、太平洋ルートは事実上存在しなかった模様。纒向は日本海ルートの末梢の辺境。
筑紫博多→出雲→丹後・若狭→能登・越→諏訪→甲斐・秩父
↓ ↓
↓ 近江三上祝→東濃→纏向
↓
宇佐→瀬戸内海→阿波・吉備→淡路島→摂津住吉
【九州北部勢力による倭国の拡大】
紀元前に、越のヒスイ勾玉を含む三種の神器が出現
→日本海沿岸の土器が博多湾へ流入
1世紀に銅矛などが拡散
2世紀に高地性集落が瀬戸内海を東征
→瀬戸内四国の土器が博多湾へ流入
2世紀末に銅戈が大阪湾上陸
→畿内から庄内式土器が博多湾へ流入
3世紀に大型内行花文鏡が畿内へ侵入
→畿内から布留式土器が博多湾へ流入 連弧文鏡と内行花文鏡は名称が違うから別物みたいに感じるけど、
連続した同じ系統の鏡でしょ。
同じ系統の鏡が、外周に雷雲文があるかないかだけの差で、
前漢時代は連弧文鏡で、
後漢時代は内行花文鏡なだけ。
連弧文鏡・内行花文鏡と、
方格規矩四神鏡の二大系統だけど、不思議だよね。
三雲南小路遺跡は、ほぼ連弧文鏡。
なのに、同じ墓域の、
井原鑓溝遺跡は、ほとんど方格規矩四神鏡。
なんで?
さらに、
卑弥呼様の平原遺跡では、内行花文鏡と方格規矩四神鏡が両方ある。
内行花文鏡は超大型八葉へと倭国独自発展しているけど、
数は超巨大5+2だけ。
一方の方格規矩四神鏡は32面もあるのに、ちょっと大きめだけど、
むしろちょっと退化。
なんで? 【里程】
漢代に楽浪郡を支配していた公孫氏が独自に制定したの里(短里)で実測
日本側の地名は漢代の地名(倭国の中に、末蘆国、伊都国、奴国・・・
魏が公孫氏の楽浪郡を滅ぼして押収した資料に短里使用が使用されており
これが魏略や三国志魏書の参考資料となる。
【日程】
魏代に魏使が出張日誌に記録
日本側の地名は魏代の地名(邪馬台国、狗奴国、投馬国、などは魏代に新登場
この出張日誌が三国志魏書の参考資料に加わる。
※公孫淵は自立を目指し燕王を自称し独自の年号を制定しており、度量衡も独自のものを制定したと考えられる
短里も公孫淵が制定したものであろう。 >>919
>短里も公孫淵が制定したものであろう。
周髀算経によると、
短里(1里≒76.5m平均値)は、
商代(BC1120以前)に制定されたことがわかる。
BC1600頃か? >>921
>周髀算経そんなことは書いてない
周髀算経に明確に書いてある
周髀算経を読み解くには、地球の歳差運動についての天文学識が必須。
@北極樞大星の観測記述を理解できること。観測時期:BC1120頃
A一寸千里の法(日影の観測記述)を理解できること。 つまり周髀算経には書いてないってことだよ
現代人の妄想だ 確か、周脾算経に書かれてたのは
当時の都付近の夏至の日に
八尺の棒の影が一寸変化する
南北方向の距離が千里ということだったね。
現在なら地球の大きさや都の緯度は
すぐわかるから計算も簡単で、
千里が7〜80kmで、短里だったと
言うことがわかるわけだ。 即ち、無知低能ボンクラにとっては、
周髀算経には「1里=76.5m」と書いてないってことになる。 239年親魏倭王金印授与時の銅鏡百枚は蝙蝠紐座内行花文鏡か方格規矩四神鏡が妥当だけど、
57年漢委奴国王金印授与時に貰う銅鏡はなんだろうか? 前漢鏡でも内行花文鏡は珍重されている。
後漢鏡でも内行花文鏡だろう。
籠神社にある饒速日の十種の神宝の鏡も内行花文鏡だからね。 >後漢鏡でも内行花文鏡だろう。
それは、いわゆる連弧文鏡だろうか、
それとも雷雲文を持つ、内行花文鏡だろうか。 http://www.motoise.jp/houmotu/kagami.php
に写真がある。
神宝 海部氏伝世鏡
(約二千百年前、昭和六十二年十月三十一日初公開)
息津鏡(学名 内行花文長宜子孫八葉鏡)
邊津鏡(学名 内行花文昭明鏡)
昭和六十二年十月三十一日(旧暦九月九日・重陽の節句)に二千年の沈黙を破って突如発表されて世に衝撃を与えたこの二鏡は、
元伊勢の祀職たる海部氏が當主から次の當主へと八十二代二千年に亘って厳重に伝世され来ったものである。
日本最古の伝世鏡たる二鏡の内、邊津鏡は前漢時代、今から二〇五〇年位前のものである。
又、息津鏡は後漢時代で今から一九五〇年位前のものである。
そしてこの神宝はその由緒が国宝海部氏勘注系図に記載されており、又當主の代替りごとに、口伝を以っても厳重に伝世されたものである。
現存最古の国宝海部氏系図並びに二千年前の伝世鏡は、當社の元伊勢たる史実を実証するものであろう。
(以上引用)
後漢鏡の方は長宜子孫銘雲雷文内行花文鏡だそうですよ。
それが何? 伊都、宗像、籠神社と、内行花文鏡つながりの元伊勢文化圏があったのですね。 >>931
私は九州説ですよ。
意図せずきつい口調になっていてすみません。
籠神社の鏡でいうなら、
息津鏡は、内行花文鏡で、長宜子孫、四葉紐座
邊津鏡は、(内行花文)連弧文鏡、昭明
息津鏡は57年に間に合ったかどうか。
邊津鏡は紀元前の鏡ですよね。三雲南小路2号墓に沢山あります。 銅鏡も色々と分類方法があるわけですが、
皇帝など貴族向けの献上用の銅鏡と、
それ以下の販売用の銅鏡に大別することもできます。
販売用の銅鏡は、楽浪郡にさえ到達していれば、
交易で手にすることができます。
しかし、漢の貴族層へ献上用の銅鏡であれば、
朝貢しなければなかなか手に入りませんよね? 伊都側から逆算すると、
三雲南小路1号墓は、連弧文鏡の0年前後の形式が大半、雷雲文内行花文鏡は無い。
三雲南小路2号墓は、連弧文鏡の紀元前のものが大半。
夫婦であれば同じ時代を過ごしたはずなので、
連弧文鏡の中での時代の相違は死亡時期とはリンクせず、
男王たるものは、連弧文鏡の0年前後の形式
皇后たるものは、連弧文鏡の紀元前の形式、
という単なる形式の問題だったように思われます。
そうなると、
籠神社の邊津鏡は、王族の「皇后」へ贈られたものである可能性が高くなります。
また、雷雲文内行花文鏡が無いわけですから、
57年以前に雷雲文内行花文鏡が後漢の主流となっていたなら、
三雲南小路遺跡は57年金印より前。
57年にはまだ雷雲文の無い連弧文鏡が重宝されていたのなら、
三雲南小路遺跡は57年金印より後、となります。
洛陽焼溝漢墓からは、前者の可能性が高いですが、
辺境の王に贈る鏡であれば、
外交と、後漢貴族の流行とは別物ですから、
洛陽焼溝漢墓の流行がすぐに外交へ反映されたという確証は無いので、
後者の可能性も残ります。 古来より倭は年次を違えることなく朝貢していたと書かれていたので、内行花文鏡もたくさんあるのでしょうね。
漢から冊封された倭王の証として内行花文鏡を拝領していて、漢の滅亡とともに国産の超大型内行花文鏡が倭王の証となったのでしょう。
おそらく伊勢や宮中の八咫の鏡も内行花文鏡のはずです。 現時点では、次に来るのが井原鑓溝遺跡なわけです。
大半が方格規矩四神鏡。
しかも漢有善銅ではなく新有善銅ですから、
後漢から見たら、黒歴史である新の銘がはいった方格規矩四神鏡が含まれている。
1世紀以降であることは確定なわけですが、
同じ墓域である南小路遺跡との落差が激しすぎます。
出自だけを考えれば、
井原鑓溝遺跡の被葬者は、方格規矩四神鏡が好みで、
交易で入手した方格規矩四神鏡を元に、
自前の工房で方格規矩四神鏡を量産して、
原版と一緒に自らの王墓に副葬させた、と考えればいいのですが、
権力の象徴である銅鏡の形式が
三雲南小路遺跡と異なるのはなかなか理解しがたいです。
これはどういうことでしょうか? >>937
>内行花文鏡もたくさんあるのでしょうね。
そこが最大の問題なのです。
内行花文鏡が権威の象徴であることに異存はありませんが、
その原本はどの王が入手したのでしょうか?
三雲南小路遺跡は、連弧文鏡。
井原鑓溝遺跡は、方格規矩四神鏡。
そして突然、
平原遺跡に超大型内行花文鏡が出現します。
もちろん、平原遺跡にも原本は存在しますし、
内行花文鏡、長宜子孫、四葉紐座
はそれなりに来日しています。
内行花文鏡、長宜子孫、四葉紐座は貴重品であり、
漢からも少量しか贈られなかった、
と考えれば、辻褄が合いますが、
三雲南小路遺跡にも井原鑓溝遺跡にも存在せず、
57年あるいは107年の朝貢に関係した別の王墓が存在する可能性なども
考えられるわけです。 三雲南小路遺跡と金印の関わりについての検証ですね。
なるほど。
ただし籠神社に前漢鏡と後漢鏡が混在しているので、多くの鏡が伝世していたはずで、考察自体が難しいですね。 古墳時代の副葬から、伝世は300年は考えられるわけで、
古い銅鏡が出るからといって、
古いのではなく、
古い銅鏡というのは、むしろ骨董品として
古ければ古いほど
希少価値の高い銅鏡として珍重されていった可能性が高い。
大量消費社会の現代とは真逆の価値観です。 そして須玖岡本遺跡です。
一見すると、三雲南小路遺跡と完全に同年代。
しかし、たった一枚の2世紀鏡によって、大混乱です。
そして甕棺墓の形式が、吉野ケ里遺跡と同じ。
方格規矩四神鏡が無いので、井原鑓溝遺跡よりは前。
とすると、九州説としては、
あまりにも後ろにずれてしまって困るわけですが、
なるべく早い時代に設定するのなら、
三雲南小路遺跡が57年より後の、1世紀の後半で、107年より前。
須玖岡本遺跡が107年にギリギリ2世紀鏡の最新版を副葬されて、
井原鑓溝遺跡はその後。
と考えるしかなくなります。 須玖岡本は王ではなく将軍クラスとの意見もありますが。
それなら三雲南小路以降は王墓は糸島平野側であり、まだ未発見の遺跡があるはずということになります。 >>943
そうなんです。
平原遺跡に八葉の国産大型内行花文鏡が存在する以上は、
内行花文鏡、長宜子孫、四葉紐座
が副葬された王墓がそれより前に存在しないと
説明がつかない。
三雲南小路遺跡の副葬品は、朝貢しなければ手に入らない品々ですから、
57年の時に入手したものである可能性が非常に高いでしょう。
となると、
内行花文鏡、長宜子孫、四葉紐座を手に入れたのは、
107年であることになる。
自分が外交で手に入れた銅鏡なら、
たとえ希少であっても、破鏡にして副葬させるわけですから。 井原鑓溝遺跡は江戸時代に発見されたわけなので、
内行花文鏡も入っていた可能性はありますね。
そうだとすれば、
107年に朝貢したのが井原鑓溝遺跡の被葬者になって、
現在判明している遺跡だけで話がまとまりますが。 私は前のスレのような論者ですので、
現時点での考えを示しますと、
須玖岡本の有力者(大国主)が、中広型銅矛にて広型銅剣オオヤマツミ女王国を制圧して、
1世紀に日本海沿岸+瀬戸内沿岸の淡路島までを統一した。
紀元前からの吉武高木アマテラスに対抗するため、
57年朝貢して金印ゲット。
連弧文鏡など各種威信材を下賜された。
が、葦原那珂津国の大洪水にて失脚。
古代出雲=豊前にて討たれ、墓なし。
後代出雲へ封印。
その後に新伊都=三雲日向に擁立された、
三雲南小路王(ニニギ)が、威信材の全てを受け継いだ。
その一部は父親である立岩遺跡(オシホミミ)へ副葬。
オシホミミは倭王を固辞したから破鏡せず。
ニニギは倭王だから破鏡。 57年朝貢で、なんで連弧文鏡かというと、
専門家の方が詳しいでしょうけども、
方格規矩四神鏡というのは、新の王莽が威信鏡として重用していたわけです。
新を滅ぼして後漢を作った当事者である光武帝ですから、
方格規矩四神鏡を与えることはありえない。
復興した漢の威光を示す、
前漢の連弧文鏡こそが、金印と共に与えるのにふさわしい銅鏡であろうと思われます。 三雲南小路遺跡被葬者(ニニギ)の兄である、
銅戈将軍(ニギハヤヒ)は、
淡路島から先の、大阪湾攻略戦、
安芸平定
そして日本海側へ回っての、越後→信州平定、を成し遂げる。
亡くなった時期はニニギとどちらが早いかわかりません。
ニニギは一旦は近畿で葬られたと思われます。
しかし、
コノハナサクヤヒメだけを妻としたニニギと違い、
子だくさんのニギハヤヒの子孫、特に九州妻の子供たちが、
ニギハヤヒの遺体を北部九州倭国=高天原へと運び直して、(先代旧事本紀)
滅ぼした大国主への鎮守として、
本来は大国主の本拠であった、須玖岡本遺跡へ被葬した。
よって、時間差が生じて、
弟の三雲南小路遺跡とほぼ同じ銅鏡ながらも、
銅戈将軍ニギハヤヒの墓には、
ギリギリ2世紀鏡が副葬された。 この仮定でも、結局は
内行花文鏡が問題になります。
籠神社の銅鏡は、三雲南小路遺跡の王から、
生前の須玖岡本被葬者=銅戈将軍とその妻に贈られたものになるわけです。
それぞれが誰であるかは、上の仮説を読んでいただければと思います。
根拠もありますよね。
邊津鏡は、三雲南小路2号墓のものと同じであり、
銅戈将軍の妻へ贈られたものでしょう。
だがしかし、
銅戈将軍その人に贈られたであろう、
息津鏡=内行花文鏡で、長宜子孫、四葉紐座
はどうでしょうか?
三雲南小路遺跡にはありません。
銅戈将軍の九州妻との子孫が、三雲南小路遺跡よりも後の、
須玖岡本遺跡被葬時に追加した、と考えることもできます。
どうでしょうか。 以上が銅鏡についてですが、
実はそんなことはどうでもいいくらいの大問題があります。
鉄鏡、です。
2世紀の中国では、
銅鏡などよりも、鉄鏡のほうが重要になっていて、
辺境の王に対しても、鉄鏡を下賜し始めています。
魏においても同様で、
曹操が既に、皇帝、皇后、皇太子、以下のそれぞれに対する、
鉄鏡の規範を定めています。
卑弥呼が朝貢したのは、3世紀。
魏においては、
とっくの昔に権威があるのは鉄鏡。 中国の皇帝が、辺境王からの朝貢に対して下賜する威信鏡としては、
前漢(〜8):連弧文鏡
新(8〜23):方格規矩四神鏡(新有善銅)
後漢・光武帝(23〜57):連弧文鏡or内行花文鏡
後漢(1世紀後半):四葉内行花文鏡
後漢(2世紀以降):鉄鏡
魏:鉄鏡
がふさわしいわけです。 卑弥呼は親魏倭王の金印を貰いました。
そしてそれに伴い、夥しい数の品々を貰いました。
銅鏡百枚はリストの最後の方にさりげなく記載されていますが、
これは威信材でしょうか?
魏の文献には、皇帝一族は立場に応じた鉄鏡を所有すると書かれています。
各地の辺境王にも鉄鏡を下賜して、辺境王は副葬しています。 >>948
>ニニギは一旦は近畿で葬られたと思われます。
ニギハヤヒは一旦は近畿で葬られたと思われます。 57年、107年にそれぞれどの(貴族献上用)銅鏡が贈られたかは、
非常に重要な問題と思われます。
販売用銅鏡は、幅広い時間差をもって、日本へ伝わるわけですが、
献上用銅鏡は、交易による自然拡散ではなかなか伝わらないですし、
伝わる時は、朝貢によってダイレクトに伝わるわけです。
さらに、献上用銅鏡は、日本の王族にとっても重宝される。
問題点の一つは、
内行花文鏡、長宜子孫、四葉紐座
が、どの朝貢によって来日来倭したのか?
一つの解としては、井原鑓溝遺跡にあったけれども、
江戸時代の発掘なので、記録が失われただけ、と考えられます。
事実、井原鑓溝遺跡の他の地点からは、内行花文鏡が見つかっていますので、
107年朝貢は、井原鑓溝遺跡被葬者だった、でもいいでしょう。
もう一つの問題点は、
平原遺跡女王=卑弥呼が、
なぜに3世紀に、鉄鏡ではなく、わざわざ銅鏡を百枚ももらったのか?
後漢滅亡時の中国三国志大乱、公孫氏による遮断
などの間に、
倭国では大型内行花文鏡が独自発達して、
もはや鏡は大型内行花文鏡が至高であり、
新興国である魏からの銅鏡は、
九州説の方が言っていたように、溶かして原料として再利用する価値しかなかった、
という可能性もあるでしょう。 四葉紐座内行花文鏡なら、
伊都の井原鑓溝遺跡の完全なる家臣墓である、
末蘆國の桜馬場遺跡から出ている。
井原鑓溝遺跡+桜馬場遺跡が四葉紐座内行花文鏡は入手していた。 興味深い
投稿を中断して申し訳ないのですが
とか言ってる錯乱した人がいるんですが
円周が八咫だから八咫の鏡はいいとして
以降の四つをまとめて主張してる人とかいます?
528 日本@名無史さん[sage] 2018/04/23(月) 20:55:50.82
平原1号墓出土鏡の円周は八咫
だから、八咫の鏡
だから、平原1号墓は卑弥呼の墓
だから、伊都国が邪馬台国の都
だから、短里で正しいに決まってる
だから、水行10日の起点は帯方郡
最初の鏡の円周が八咫なのは事実だから絶対に否定できない(エッヘン)
って思ってたのにねぇ
そもそも「咫」が長さを測るのに使われていない、っていう反論は盲点だったんだろうね
大陸史書の全用例の確認っていうのは、電子テキストの検索ができるようになる前は
何年もかかって専門の研究者が調べるような内容だったんだけれど、今は素人の趣味人程度で
きっちり論証に使えるんだから便利な世の中になったものだ
で、全用例が確認済みだから、反論できないのも確認済みww
まあ、常識からしても、伊都国説は無理があるよな 五尺刀中国朱など副葬された女王墓で、70-80年男王墓が続いた後の長期政権。
だから、平原1号墓は卑弥呼の墓
魏使は伊都で卑弥呼や台与と面会している。
だから、伊都国が邪馬台国の都
三国志東夷伝の里程全てが、弥生時代にしては現代地理と驚くほど相関している。
だから、短里(東夷伝里)で正しいに決まってる
里程と日程を直列させるのではなく、里程は漢代楽浪郡使、日程は魏使、の並列記事。
だから、水行20日の起点は帯方郡
(外交問題に気を遣う人は、日程部分は放射読み)
以上が邪馬台国伊都北部九州説。
以下は、畿内ヤマト政権の成立に関わる後世の別問題。
平原1号墓出土鏡の円周は八咫
だから、八咫の鏡
長さを言っているだけだから事実ではある。 魏志倭人伝の邪馬台国までの里程
帯方郡(朝鮮北部)から狗邪韓国まで七千里、女王国まで一万二千里。
対馬海峡が三千里であり、帯方郡から九州上陸までで一万里となるので、邪馬台国の位置は九州北部になる。
後漢書における里程
大倭王は邪馬台国にいる。
楽浪郡の国境は、その国(邪馬台国)から一万二千里である。
倭国の西北界である狗邪韓國からは七千里である。
倭奴国は倭国の極南界である。 倭人伝をよく読めば伊都国が卑弥呼の都であることは明白なんだがな
伊都国に一大率がいたとか書いてもないことを主張してる人って奈良に邪馬台国を持って行きたくてわざと誤読してるとしか思えないな。 レス数が950を超えています。1000を超えると書き込みができなくなります。