私のように、纏向遺跡を『古事記』や『日本書紀』の中に“発見”して、吉備の国を制圧してトテツモナイ富を得た孝霊天皇が“ミニ都”を造営したのかな、
その皇女「ももそひめのみこと」は神宮斎宮と摂政とを兼ねていたのだろうか、
魏の遣使は大阪湾までの大海用の船から大和川の河口で降り河川用舟艇に乗り換え、
両岸から大勢の日本人農夫が引くロープで牽引され大和川を遡行して、
「ももそひめのみこと」が祈祷する祭祀の都へと向かったのだろうか、などと想像する時、
纏向遺跡は生き生きと生命を得て千八百年間の時を超越し現在に飛び跳ねる。