X



邪馬台国纏向説
■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています
0001日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/05(月) 12:44:33.40
破綻しました、、、、
0151日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/15(木) 16:53:17.90
東夷伝に朝鮮半島で倭人が鉄を入手したとありますが、鉄は貴重だから、再利用されて残っていないことも考えられますから、代わりに鉄文化とリンクしているものを見つければいいのです。
畿内の古墳との関連でならば、まず、割竹形木棺の伝播を考えるべきでしょうね。
ところが、畿内の古墳で、引き上げても250年とされるホケノの前の年代に割竹形木棺がないのです。(私には見つけられませんでした。)
0152日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/15(木) 16:53:58.85
それと、畿内は古墳時代の原点であることは、間違いありませんが、鉄器使用開始の指標となるホケノのこの割竹形木棺の墓制は、滋賀県野洲市が発祥なのです。少し遅れて平原1号、それから半世紀遅れで纏向へと伝播しています。
0153日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/15(木) 16:57:44.93
。。。

117 名前:岡上 ◆JN/67qb8kM Mail: 投稿日:2017/09/10(日) 20:27:43.84
なんか罵倒ばっかりですね。
世間では景初四年実在説のほうが有力ともおもいませんけど。。。


785 名前:日本@名無史さん Mail: 投稿日:2017/09/12(火) 09:57:28.01
>>683
仕方ないよ、、、、
あの2013年の調査以前から、国家に否定されているのだものね。。。
あれは、天皇の妹の墓なのだからね。。。


234 1 名前:岡上 ◆JN/67qb8kM Mail: 投稿日:2017/06/09(金) 23:37:22.40
今日は何か盛り下がってますねぇ。。。

まぁまともに考えてみたら、倭国大乱後の女王墓である平原が重要じゃないわけないですよね。
0154日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/15(木) 17:12:47.37
>>152
割竹型木棺の製作に鉄器が必要ということでしょうか。
滋賀県は「畿内」というよりも、日本海航路による筑紫勢力の圏内であるように思います。
0155日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/15(木) 17:14:04.33
>>150
>邪馬台国や狗奴国を比定することには、あまり興味がありませんね。

じゃあ、ここに来る意味はなにですか?  @阿波
0157日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/15(木) 17:20:23.90
>>150
>邪馬台国を弥生集落遺跡と考えた場合にも、最低でも文字文化は欠かせません。

倭人に文字文化が有ったとは確認されていません。 

そんな、確認されていないものより、鉄鍛冶炉遺構や辰砂採掘遺跡ですね。  @阿波
0158日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/15(木) 18:16:07.10
>>114
邪馬台国や狗奴国を比定するには、弥生後期集落遺跡の分布群で検討するべき。

もう、古墳や銅鏡や里程などでは不可。  @阿波
0160日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/15(木) 18:42:09.88
まあ、魏志倭人伝にない前方後円墳を根拠にされても困るよな。
邪馬台国とは別にそのような集団がいたというだけだし。
0162日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/15(木) 18:46:14.28
その「俺様ルール」に対応できないのかな?  @阿波
0163日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/15(木) 18:53:28.05
>>159
その「俺様ルール」に対応できないのかな?  @阿波
0165日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/15(木) 19:59:43.29
>>114
邪馬台国や狗奴国を比定するには、弥生後期集落遺跡の分布群で検討するべき。

もう、古墳や銅鏡や里程などでは不可。  @阿波
0168日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/15(木) 20:53:38.84
>>166-167
九州の中の蛙 大海を知らず。  @阿波
0169日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/16(金) 01:46:40.52
狂人>>1晒し上げ
0170日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/16(金) 07:19:09.23
2013年が致命的だったね。。。
0171日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/16(金) 18:11:58.17
割竹型木棺の製作に鉄器が必要かどうかは、断定しきれませんね。
丸木でのカヌーは石器でもつくっていますしね。
ただ、死期を予測して作ったり、在庫を常に確保していたとするのは、弥生の感覚にとっても、縁起が悪いのではないでしょうか。
死の直後に数日で作らなかったのだとしたら、鉄器は必要でしょうね。
あと、鉄入手のルートのこともありますが、丸木でのカヌー作りと作業が酷似しているから、おっしゃる通り、日本海航路に早くから進出していた勢力が関わっているでしょうね。
2世紀までに若狭や敦賀から琵琶湖岸に達していた勢力があったと思います。
0172日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/16(金) 18:13:40.04
割竹型木棺の製作に鉄器が必要かどうかは、断定しきれませんね。
丸木でのカヌーは石器でもつくっていますしね。
ただ、死期を予測して作ったり、在庫を常に確保していたとするのは、弥生の感覚にとっても、縁起が悪いのではないでしょうか。
死の直後に数日で作ったのだとしたら、鉄器は必要でしょうね。
あと、鉄入手のルートのこともありますが、丸木でのカヌー作りと作業が酷似しているから、おっしゃる通り、日本海航路に早くから進出していた勢力が関わっているでしょうね。
2世紀までに若狭や敦賀から琵琶湖岸に達していた勢力があったと思います。
0173日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/16(金) 18:18:38.26
よく、勘違いされることですが、寿陵でもないかぎり、葬儀に該当する、セレモニーは棺の方が墳丘墓より、重要です。
現代でも同じことでしょう。
墳丘墓や古墳は、王権の継承者ための、継承セレモニーのアイテムです。
0174日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/16(金) 18:20:59.46
だから、葬礼での種族の分類は、棺によって考えるべきですね。
0176日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/16(金) 19:18:46.26
キナイコシの語源は何?どういう奴?


             見物人
0177日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/17(土) 01:42:27.98
狂人>>1晒し上げ
0178日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/17(土) 10:44:47.64
畿内説を論破されてしまったキナイコシの、スレッドへの、妨害が激しくなってきたね。。。。
0180日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/18(日) 02:10:42.69
異常者>>1晒しage
0181日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/18(日) 13:51:16.77
畿内説を論破されてしまったキナイコシの、スレッドへの、妨害が激しくなってきたね。。。。
2013年が、致命的だった、、、、
0182日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/18(日) 16:08:30.24
嘘つき晒し上げ
0183日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/18(日) 17:02:14.39
纏向遺跡自体は、西暦200年頃、誕生していますね。
纏向石塚が、210年頃の築造ですから、ある程度の人口集落があった証拠になります。
でも、鉄器が皆無の年代です。勿論、それ以降も文字については、3世紀全体を通しても、その痕跡はありませんから、邪馬台国とは無関係です。
そして、卑弥呼が魏と接触し始めた230年代もまだ無鉄器です。
250年頃以降、ホケノ築造ですから、纏向の鉄器時代は、卑弥呼死後ですね。
卑弥呼死後、鉄入手ルートにつながった、もしくは、近江方面の鉄入手勢力に征服されたということになります。
0184日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/19(月) 01:31:20.68
異常者>>1晒しage
0186日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/19(月) 10:16:22.67
桜井茶臼山古墳は興味深いですよ。三角縁神獣鏡が出土していて、宗像との関わりもあるようです。纏向とは少し離れていて、纏向遺跡には、無い要素があります。誰の古墳でしょうかね。
0187日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/19(月) 11:06:23.07
九州北部から運ばれた内行花文鏡が大事にされていた古墳だよね。
被葬者の出身地はどこだったのかな?
0189日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/19(月) 13:04:20.13
実は、考古学的に墳形以外に纏向の古墳とヤマト王権の関連を見出すことはできません。ヤマト王権最初期の大王墓とされる西殿塚古墳も、そうですね。
対照的に、桜井茶臼山古墳の副葬品は、大和王権の祭祀を思わせるものが多い。北部九州の影響を強く受けています。
時期的には西暦300年頃過ぎ、天皇家に系譜が繋がる人物が初めて畿内に権力を獲得して、ここに埋葬されたのでしょうね。
0190日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/19(月) 13:07:42.55
何百枚もの三角縁神獣鏡が、庄内式と全く共伴関係にないことは、不思議ですね。ほとんどは、布留式期に模倣して制作された国産鏡とするのが合理的でしょう。画文帯を模倣したものか、中国製の三角縁神獣鏡を模倣したものかは、わかりませんがね。
邪馬台国論争にとっては、ややこしいことをしてくれたものです。
0191日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/19(月) 13:13:59.46
難升米が曹叡に拝謁したタイミングを考えれば、下賜鏡は景初三年の作でしょう。
下賜鏡が三角縁神獣鏡かどうかは、わかりませんが、もしそうならば、紀年銘くらいはあったかもしれません。
景初三年鏡が出土したのは、出雲なのですが、残りの99枚はどうなったのでしょうね。
邪馬台国が九州ならば、銅鏡などは珍しくもなんともありませんから、鋳つぶして、リサイクルした可能性もあります。
そうではなかったとも、最終的には、倭国を併呑した大和朝廷によって、奈良の大仏にでもなったのですかね。
0192日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/19(月) 13:34:42.84
桜井茶臼山古墳の副葬された三角縁神獣鏡の破片が、紀年銘が正始元年とあるものと、一致したようですね。
恐らく、舶来鏡でしょう。西暦240年代頃はどこにあったのかが、問題になりますが、共に副葬されていたものから類推すると、やはり、九州北部ということになりそうです。
0193日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/19(月) 14:18:36.60
邪馬台国の条件として、まずは、西暦240年に文字文化と鉄文化があったことです。
そして、それ以前から、曹叡が卑弥呼の好物と認識したものがあったことが必須です。絹、金、刀、銅鏡、真珠、鉛丹ですね。
残念ながら纏向は全く該当しません。
0194日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/19(月) 14:52:25.02
畿内説は、あの2013年の大規模調査で破綻した。。。
0195日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/19(月) 15:36:54.24
レベルの高い謎の考古学者が、難解な論理で、追い詰めてしまったのではないのかな、、、
0196日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/19(月) 15:46:21.16
畿内説を論破されたキナイコシが、偽の邪馬台国畿内説スレッドで、方格規矩鏡と超大型内行花文鏡のことでも、鮮やかに論破されてしまったねw
0197日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/19(月) 16:14:22.11
>>195
レベルの高い謎の考古学者達の投稿を、僕たちが編集して、次回のスレッドのテンプレートにすればよいのではないのかな。。
0198日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/19(月) 16:15:25.71
26日本@名無史さん2018/02/08(木) 08:24:07.85
魏志倭人伝の邪馬台国までの里程
帯方郡(朝鮮北部)から狗邪韓国まで七千里、女王国まで一万二千里。
対馬海峡が三千里であり、帯方郡から九州上陸までで一万里となるので、邪馬台国の位置は九州北部になる。

魏志倭人伝の邪馬台国までの日程
帯方郡から邪馬台国まで水行10日、陸行1月(1日の誤りか)
ちなみに帯方郡から投馬国(宮崎都万)まで水行20日

後漢書
大倭王は邪馬台国にいる。
楽浪郡の国境は、その国(邪馬台国)から一万二千里である。
倭国の西北界である狗邪韓國からは七千里である。

魏略逸文
帯方(郡)より女(王)国に至る万二千余里。

邪馬台国時代の遺物の出土状況
http://yamatai.cside.com/tousennsetu/image/zu11.gif
0199日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/19(月) 16:16:00.35
31日本@名無史さん2018/02/08(木) 15:52:01.39
>>1
邪馬台国あまり興味がないが、関連スレ目立つので一言
魏志倭人伝だと邪馬台国は鉄器国家です
纏向周辺に鉄があった3世紀末には卑弥呼は死んでいる
纏向と卑弥呼は無関係だよ

3231を補足します2018/02/08(木) 15:55:25.72
卑弥呼の死が日本列島の鉄器分布を改革して、やっと近畿地方にも行き渡るようになったのでしょうね
0200日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/19(月) 16:17:23.47
81日本@名無史さん2018/02/13(火) 14:04:51.65
纏向が卑弥呼と無関係なのは、3世紀前半の鉄製品がないというだけでも、致命的な証拠になります。
そして、もう1点指摘することができるのですが、同様に3世紀前半の硯がないということも大きいでしょうね。
魏志倭人伝では、卑弥呼は皇帝に上表文を送っていますからね。
硯は、鉄のように錆びたりしませんからね。

82日本@名無史さん2018/02/13(火) 14:32:17.00
箸墓古墳は主体部を発掘してないので
結論は出せないが、
周壕などの異物は4世紀以降のみである。
0201日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/19(月) 16:17:53.08
85日本@名無史さん2018/02/13(火) 15:00:27.33
【邪馬台国はどんな国?】

「魏志倭人伝」−「倭人は兵器に矛を用いる」
―銅矛であれ鉄矛であれ、
矛が多量に出土しているのは北九州、奈良県は出土無し。

「魏志倭人伝」−魏への持参物、魏から女王への贈り物に多数の「絹織物」
−邪馬台国のあった弥生時代後期までの「絹」は、すべて九州からの出土。

「魏志倭人伝」−「倭人は鉄の鏃を用いる」
鉄は圧倒的に九州にある。
http://www.infokkkna.com/ironroad/2011htm/iron7/1103iron09.jpg

「魏志倭人伝」−「魏は卑弥呼に五尺刀二口を与えた」
−弥生時代の鉄刀、鉄剣は福岡県から92例出土、奈良県からは1例のみの出土。

三角縁神獣鏡は魏の鏡に非ず、卑弥呼の時代は「方格規矩四神鏡、内行花文鏡」
邪馬台国時代、古墳時代を通じて、福岡県から37面、奈良県からは、わずか2面。

その山に丹あり
弥生時代の奈良では、朱丹は二箇所で しか使用されていない。
福岡県では41箇所の遺跡で使用されている。
0202日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/19(月) 16:18:14.79
86日本@名無史さん2018/02/13(火) 15:15:50.93
纏向というより、畿内全体でみた場合でも、文字文化は博多湾岸を経由しなければいけませんが、3世紀後半になっても、土器の動きは、畿内から九州への一方通行です。
文字を伝えるのは物ではなく人ですが、畿内への人的資源の移動が証拠立てられないというのが、実情ですね。
西暦230年代、畿内に文字を理解できた文化があったことを証明出来ないことは、畿内説にとって、大きな痛手です。
0203日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/19(月) 16:18:49.17
9392です。2018/02/14(水) 11:43:56.94
不正確な書き方が、気になりますので、修文します。

弥生時代末期に、卑弥呼を共立した倭国が朝鮮半島に進出していた最大の理由は、鉄でしょうね。
魏志倭人伝は東夷伝の一部ですが、東夷伝に倭人が弁韓に鉄を採りに来ているという記述があります。また、実際に、弥生時代を通して玄界灘近辺には鉄が溢れています。
曹魏と(ひょっとしたら公孫とも)の交流も、弁韓での、鉄の採掘を認めて貰うためであるとするのが、合理的です。
渡海や他民族との軋轢という危険を冒して、鉄を獲得していたわけですから、女王の都の建設や警備に鉄器が使われていないとする理由はありませんね。合理的な理由があるならお示し願いたいです。
ところが、西暦230年代、卑弥呼が曹魏と交流を始めた頃、纏向には鉄が全くありません。仮に、ホケノが230年代(そんなことをいう学者さんは現在は皆無ですがね。)だとしても、それは鉄器が有力者の副葬品になるほどの希少品だったことの証拠になるだけです。
そして、大陸とやりとりするための文書作成の道具、硯もありませんしね。
纏向は、邪馬台国ではありませんよ。
0204日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/19(月) 16:19:31.63
108日本@名無史さん2018/02/14(水) 16:03:38.08
弥生時代までの文字文化の痕跡はそう多くありません。
特に漢字は、大陸との交流でしか使いようがありませんからね。
周という文字が読める土器が出るくらいでも、話題になるくらいです。
福岡以外で、硯は出雲でも出土したようですが、熊本はどうだったでしょうか。
それとあと一言だけ。
帯方郡から水行二十日の地点は投馬國ではありませんか。
陸行一月の開始は水行十日の後ですよ。
0205日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/19(月) 16:19:59.75
110日本@名無史さん2018/02/14(水) 23:20:52.05
女王国の入り口というか境界は、楽浪帯方から七千里ですよ。

後漢書における里程
大倭王は邪馬台国にいる。
楽浪郡の国境は、その国(邪馬台国)から一万二千里である。
倭国の西北界である狗邪韓國からは七千里である。
倭奴国は倭国の極南界である。

111日本@名無史さん2018/02/15(木) 09:31:02.11
>>110
後漢書では博多湾付近に在った倭奴国が倭国の極南界
魏志倭人伝では狗奴国との境が倭国の南の端で
倭国の入り口というか境界は朝鮮半島南岸ですね。
0206日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/19(月) 16:20:25.13
112日本@名無史さん2018/02/15(木) 11:32:01.45
>>111
そうですね。
狗邪韓国が女王の境界ですね。
0207日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/19(月) 16:20:44.66
114一介の古墳ファンです。2018/02/15(木) 11:42:29.30
古墳の年代について調べていると、どうしても邪馬台国論争の問題が絡んでしまいますね。卑弥呼の塚が弥生墳丘墓なのか古墳なのか、です。
古墳の年代にとって、纏向は重要な地域です。畿内や、列島規模でみても、古墳時代の原点であります。

115日本@名無史さん2018/02/15(木) 11:43:14.12
しかし、西暦240年前後、纏向は無文字であり、無鉄です。
少なくとも、考古学的証拠は皆無です。
この文明発生前の地域が、鉄の産地を跨いで中国大陸と文字による交流が可能だったとするのは、不合理ですね。

116日本@名無史さん2018/02/15(木) 11:44:25.73
3世紀全般や4世紀に視野に広げれば、卑弥呼の死後ということですが、舶来鏡や鉄器等の大陸の文物は入ってきているのだから、介在するものがいたようですが、直接的な相互交流の証拠には不十分です。
0208日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/19(月) 16:21:08.73
118日本@名無史さん2018/02/15(木) 11:45:54.10
後漢書では倭の西北界が拘邪韓國ですね。
朝鮮半島には南西部に前方後円墳がありますね。畿内の影響があった最古の証拠でしょうね。
ただ、どんなに引き上げても、5世紀中葉のようです。
邪馬台国の時代に畿内の影響があった考古学的証拠になりません。

119日本@名無史さん2018/02/15(木) 11:47:18.68
魏志倭人伝では、倭国は対馬以南です。倭人の地の領分で、官が置かれ統治されていた領分が倭国との認識のようですね。官が置かれていなかった朝鮮半島や、女王国の東に海を千里渡った領分は倭種の地です。

120日本@名無史さん2018/02/15(木) 11:48:45.52
卑弥呼の前の男王のときや、倭国大乱後の卑弥呼の共立の当時、倭国は統一体だったのでしょう。
共立後、しばらくして狗奴国の卑弥弓呼素が反乱したのですね。

121日本@名無史さん2018/02/15(木) 11:50:41.81
そして、魏国はそれ以降、再び台与を共立するまで、倭国を女王の属国と女王国と男王国=狗奴国の3グループに分けて認識していますね。女王国は一万二千里から、卑弥呼の宮が邪馬台国と考えるのが合理的です。(このあたりはスレの住人さんに同じような意見の方がいますね。)
0209日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/19(月) 16:21:34.52
123日本@名無史さん2018/02/15(木) 12:30:16.01
>>115
魏に何回も朝貢したり使節を受け入れてるのに
無文字なんてことは有り得ないよな。
0210日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/19(月) 16:22:20.42
124日本@名無史さん2018/02/15(木) 12:39:12.30
【卑弥呼の王宮の候補】

・高祖宮
魏志に伊都国と記された糸島市にある。
糸島平野と福岡平野の間にあるクシフル山があり、福岡に通じる峠を日向峠と呼ぶことから、高祖宮は記紀にある筑紫の日向の高千穂宮に比定できる。
高千穂宮は天孫ニニギが八咫の鏡を伴って筑紫の王として即位した宮であり、神武天皇が東征に出発した宮でもある。
後にこの地に建設される怡土城、高祖城はクシフル山の山頂を含む中国式山城であり、高千穂宮の名にふさわしい。
糸島平野にある三雲南小路遺跡はニニギと木花咲耶姫の墓と伝えられる。
高祖宮の目の前の平原遺跡からは、ニニギ王家の家宝である神宝八咫の鏡が出土している。
伊都高祖宮こそ倭国の王都であり、平原遺跡は倭国女王卑弥呼が被葬者の最有力候補である。

・橿日宮
現在の香椎神宮。
卑弥呼の後継者となる筑紫の女王の一人として、景行天皇の時代に筑紫の梟帥の称号と八咫の鏡を持つ神夏磯姫(神橿日姫)がいて、その名からはおそらく橿日宮に住んでいたと思われる。
景行天皇の孫の仲哀天皇も橿日宮を拠点としており、代々の筑紫の王宮として用いられていたと考えられる。
魏志では不弥国に比定されることが多く、ここまでは距離が明記されているので郡使が往復したことは確実である。何のために往復したのかと言えば、卑弥呼に会いに行った可能性がある。

・高良宮
筑後一宮。高良大社や高良玉垂宮などからなる複合施設だが、後世の仏教との習合や神仏分離などの影響による。
近隣には卑弥呼もしくはそれに近い人物の墓と言われる祇園山古墳がある。
卑弥呼が筑後出身ならば、高良宮が元宮だったかもしれない。
郡使が滞在した伊都国までやや遠いのと、魏志倭人伝に該当する記事もないのが不利。
すると祇園山は壹與の墓か?
0211日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/19(月) 16:22:27.91
いずれの宮も聖地である山の西の麓にあり、王は太陽を背にして君臨したと考えられる。
これは倭国が太陽信仰をもとにした祭政一致体制であったためである。
その象徴となるのが王位の証である八咫の鏡などの内行花文鏡である。
平原遺跡に見られる鳥居や御柱などは、3世紀において神道が成立していたことを示す。
卑弥呼が用いたと記録された鬼道も、三種の神器や榊を用いた神道の儀式であったはずである。
0212日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/19(月) 16:23:08.10
125日本@名無史さん2018/02/15(木) 12:39:39.32
【壹與と與止日女】

肥前国一宮である與止日女神社(佐賀県佐賀市大和町川上)があり、かつては河上神社と呼ばれていた。
その祭神は與止日女命(ヨドヒメ)といい、世田姫(ヨタヒメ)、淀姫(ヨドヒメ)、豊姫(ユタヒメ)とも呼ばれる。
與止日女神社を流れる佐嘉川は江戸時代の治水工事までは佐賀平野において筑後川に流入していた。
魏志に記された末盧国に比定される松浦にも淀姫神社(長崎県松浦市志佐町)があり、そこから松浦川を上った上流にも河上大明神こと淀姫神社という神社がある(佐賀県伊万里市大川)。
與止日女神社の末社は福岡県から熊本県、長崎県、対馬まで分布している。
後に淀姫神社は畿内にも勧請され、豊臣時代の淀川や淀姫の名前の由来でもある。
かつて豊前国一宮は今の宇佐八幡宮(大分県宇佐市)ではなく香春三山の香春宮(香春神社、福岡県田川郡)であったとされており、三の岳の祭神が豊比当スといい、同一人物の可能性がある。
この領域は邪馬壹国連合の一部であり、その主である與止日女命は卑弥呼の権威を受け継いだ壹與そのものだろう。
熊襲の由来が卑弥呼の敵であった肥後の狗奴国であれば、卑弥呼のいた筑後でも伊都国のあった筑前でも狗奴国のあった肥後でもなく、肥前から壹與が共立されることでバランスを取り、狗奴国が和解して倭国が統一されたと考えることができる。
0213日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/19(月) 16:23:16.56
この與止日女神社の西に大願寺廃寺跡(佐賀市大和町大字川上大願寺)という遺跡がある。
ここに熊襲の王であるクマソタケル、名をトロシカヤ(取石鹿文)という人物の墓が伝わる。
この地に伝わる伝承では、筑紫を根城としていたトロシカヤが筑紫の穴倉陣で小碓命に襲われて肥前川上に脱出してくる。
小碓命は船で肥前堀江、蠣久と追跡し、大願寺の山中でトロシカヤの宮の新築祝いに女装して潜入し、トロシカヤを暗殺する。
死の間際にトロシカヤはクマソタケルの名を返上してより小さな地域の王の名であるカワカミタケル(川上梟帥)と名を改め、小碓命にヤマトタケル(倭建命)の名を献上する。
ここで重要なのは熊襲がこの時代に筑紫を拠点に九州北部を治めていて、倭国の王家そのものと考えられる点である。
また、その本拠地は壹與と見られる人物の本拠地でもある。狗奴国として分裂していた肥国王統から女王壹與を迎えることで、倭国は安定を手に入れたのである。
0214日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/19(月) 16:24:24.75
139日本@名無史さん2018/02/15(木) 13:45:18.87
イザナギが降臨した淤能碁呂島は能古島、イザナギが禊をしたのは小戸、そこに建てられたのが住吉。
福岡こそイザナギの都。
倭国の建国の地。

そしてその倭国の女王となったのが卑弥呼。

考古学的にも、3世紀以前の倭国の王墓は博多湾沿岸にしかない。
そして博多湾沿岸は稲作伝来の地、弥生文化発祥の地。
全ては博多湾沿岸から始まった。
0215日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/19(月) 16:24:45.07
140日本@名無史さん2018/02/15(木) 13:45:36.75
三角縁神獣鏡の同型鏡を分析すると鏡径に大小があり、小さくなるほど文様が不鮮明になる。
これは母鏡から鋳型を作りできた子鏡をまた同じように鋳型にとって順次コピーしていったとみられる。
踏み返しされた三角縁神獣鏡の母鏡とみられるもっとも大きな径となるものが出土した古墳をみると、北九州と吉備に片寄っていることがわかる。
これは三角縁神獣鏡の流通の起点が畿内ではないことを示しており、たとえ下賜と仮定しても
北九州から畿内にもたらされた蓋然性が高く畿内説にとって非常に不利な結果となっている。

母鏡の出土例
>藤崎方形周溝墓
>天神森古墳
>原口古墳
>名島古墳
>香椎ヶ丘古墳

>以上福岡

>湯迫車塚古墳 岡山
>赤塚古墳 大分
>造山1号噴 島根
>椿井大塚山古墳 奈良
0216日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/19(月) 16:25:14.66
149日本@名無史さん2018/02/15(木) 16:51:27.77
>>123
上表文は倭王印で封泥または押印されなければいけませんから、卑弥呼の膝元から送られていますね。邪馬台国に文字文化があったことは間違いありませんよ。

150日本@名無史さん2018/02/15(木) 16:52:20.41
>>128
邪馬台国や狗奴国を比定することには、あまり興味がありませんね。
邪馬台国を弥生集落遺跡と考えた場合にも、最低でも文字文化は欠かせません。今のところは玄界灘沿岸以外だと、島根県か三重県ということになりますか。
山陽、畿内、四国は厳しいのではと思います。

151日本@名無史さん2018/02/15(木) 16:53:17.90
東夷伝に朝鮮半島で倭人が鉄を入手したとありますが、鉄は貴重だから、再利用されて残っていないことも考えられますから、代わりに鉄文化とリンクしているものを見つければいいのです。
畿内の古墳との関連でならば、まず、割竹形木棺の伝播を考えるべきでしょうね。
ところが、畿内の古墳で、引き上げても250年とされるホケノの前の年代に割竹形木棺がないのです。(私には見つけられませんでした。)

152日本@名無史さん2018/02/15(木) 16:53:58.85
それと、畿内は古墳時代の原点であることは、間違いありませんが、鉄器使用開始の指標となるホケノのこの割竹形木棺の墓制は、滋賀県野洲市が発祥なのです。少し遅れて平原1号、それから半世紀遅れで纏向へと伝播しています。
0217日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/19(月) 16:25:45.46
154日本@名無史さん2018/02/15(木) 17:12:47.37
>>152
割竹型木棺の製作に鉄器が必要ということでしょうか。
滋賀県は「畿内」というよりも、日本海航路による筑紫勢力の圏内であるように思います。
0218日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/19(月) 16:26:06.87
160日本@名無史さん2018/02/15(木) 18:42:09.88
まあ、魏志倭人伝にない前方後円墳を根拠にされても困るよな。
邪馬台国とは別にそのような集団がいたというだけだし。
0220日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/19(月) 16:27:04.76
172日本@名無史さん2018/02/16(金) 18:13:40.04
割竹型木棺の製作に鉄器が必要かどうかは、断定しきれませんね。
丸木でのカヌーは石器でもつくっていますしね。
ただ、死期を予測して作ったり、在庫を常に確保していたとするのは、弥生の感覚にとっても、縁起が悪いのではないでしょうか。
死の直後に数日で作ったのだとしたら、鉄器は必要でしょうね。
あと、鉄入手のルートのこともありますが、丸木でのカヌー作りと作業が酷似しているから、おっしゃる通り、日本海航路に早くから進出していた勢力が関わっているでしょうね。
2世紀までに若狭や敦賀から琵琶湖岸に達していた勢力があったと思います。

173日本@名無史さん2018/02/16(金) 18:18:38.26
よく、勘違いされることですが、寿陵でもないかぎり、葬儀に該当する、セレモニーは棺の方が墳丘墓より、重要です。
現代でも同じことでしょう。
墳丘墓や古墳は、王権の継承者ための、継承セレモニーのアイテムです。

174日本@名無史さん2018/02/16(金) 18:20:59.46
だから、葬礼での種族の分類は、棺によって考えるべきですね。

175日本@名無史さん2018/02/16(金) 19:05:07.68
>>155
タイトルの纏向の語に反応しましたね。
古墳好きですからね。
0221日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/19(月) 16:27:27.91
183日本@名無史さん2018/02/18(日) 17:02:14.39
纏向遺跡自体は、西暦200年頃、誕生していますね。
纏向石塚が、210年頃の築造ですから、ある程度の人口集落があった証拠になります。
でも、鉄器が皆無の年代です。勿論、それ以降も文字については、3世紀全体を通しても、その痕跡はありませんから、邪馬台国とは無関係です。
そして、卑弥呼が魏と接触し始めた230年代もまだ無鉄器です。
250年頃以降、ホケノ築造ですから、纏向の鉄器時代は、卑弥呼死後ですね。
卑弥呼死後、鉄入手ルートにつながった、もしくは、近江方面の鉄入手勢力に征服されたということになります。
0222日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/19(月) 16:27:49.55
186日本@名無史さん2018/02/19(月) 10:16:22.67
桜井茶臼山古墳は興味深いですよ。三角縁神獣鏡が出土していて、宗像との関わりもあるようです。纏向とは少し離れていて、纏向遺跡には、無い要素があります。誰の古墳でしょうかね。

187日本@名無史さん2018/02/19(月) 11:06:23.07
九州北部から運ばれた内行花文鏡が大事にされていた古墳だよね。
被葬者の出身地はどこだったのかな?
0223日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/19(月) 16:28:16.20
188日本@名無史さん2018/02/19(月) 11:20:37.31
>>186-187
北部九州説はじめ、だれにも分からない

189日本@名無史さん2018/02/19(月) 13:04:20.13
実は、考古学的に墳形以外に纏向の古墳とヤマト王権の関連を見出すことはできません。ヤマト王権最初期の大王墓とされる西殿塚古墳も、そうですね。
対照的に、桜井茶臼山古墳の副葬品は、大和王権の祭祀を思わせるものが多い。北部九州の影響を強く受けています。
時期的には西暦300年頃過ぎ、天皇家に系譜が繋がる人物が初めて畿内に権力を獲得して、ここに埋葬されたのでしょうね。

190日本@名無史さん2018/02/19(月) 13:07:42.55
何百枚もの三角縁神獣鏡が、庄内式と全く共伴関係にないことは、不思議ですね。ほとんどは、布留式期に模倣して制作された国産鏡とするのが合理的でしょう。画文帯を模倣したものか、中国製の三角縁神獣鏡を模倣したものかは、わかりませんがね。
邪馬台国論争にとっては、ややこしいことをしてくれたものです。
0224日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/19(月) 16:28:34.37
191日本@名無史さん2018/02/19(月) 13:13:59.46
難升米が曹叡に拝謁したタイミングを考えれば、下賜鏡は景初三年の作でしょう。
下賜鏡が三角縁神獣鏡かどうかは、わかりませんが、もしそうならば、紀年銘くらいはあったかもしれません。
景初三年鏡が出土したのは、出雲なのですが、残りの99枚はどうなったのでしょうね。
邪馬台国が九州ならば、銅鏡などは珍しくもなんともありませんから、鋳つぶして、リサイクルした可能性もあります。
そうではなかったとも、最終的には、倭国を併呑した大和朝廷によって、奈良の大仏にでもなったのですかね。

192日本@名無史さん2018/02/19(月) 13:34:42.84
桜井茶臼山古墳の副葬された三角縁神獣鏡の破片が、紀年銘が正始元年とあるものと、一致したようですね。
恐らく、舶来鏡でしょう。西暦240年代頃はどこにあったのかが、問題になりますが、共に副葬されていたものから類推すると、やはり、九州北部ということになりそうです。

193日本@名無史さん2018/02/19(月) 14:18:36.60
邪馬台国の条件として、まずは、西暦240年に文字文化と鉄文化があったことです。
そして、それ以前から、曹叡が卑弥呼の好物と認識したものがあったことが必須です。絹、金、刀、銅鏡、真珠、鉛丹ですね。
残念ながら纏向は全く該当しません。
0225日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/19(月) 16:30:44.77
>>197
ここは、纏向説スレッドだから、纏向説が破綻している根拠だけを抜き出して、纏めればいいのではないのかな、、
0226日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/19(月) 16:31:39.95
内容が、高度すぎて、少し難しいね。。。
0227日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/19(月) 18:20:31.08
ありもしない大規模調査w
0228日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/19(月) 23:15:42.62
スレ乱立犯>>1晒し上げ
0230日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/20(火) 10:06:35.04
今日も、優れた考古学者たちに、キナイコシが、偽の畿内説スレッドで、畿内説を鮮やかに論破されているね。。。。
0231日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/20(火) 10:11:58.17
畿内説を追い詰め過ぎたのかな。。。
狂人のキナイコシが、焦ってインターネットで暴れるだけになってしまったね、、、、
0232日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/20(火) 11:17:36.60
>>1さんがどういう意図でスレを立ち上げられたかはよくわかりません。
纏向を邪馬台国の首都とするのか、纏向が邪馬台国そのものに一致させるのかもわかりません。
しかし、魏と交流していた240年頃の卑弥呼が、纏向以外の地にいたことは断言できますね。
考古学的には240年代までの纏向には、鉄文化も、文字文化も、鏡も、鉄剣もありませんからね。
邪馬台国の都の訳がありませんよ。
0233日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/20(火) 11:30:41.62
もっとも、「それじゃあ、おまえは邪馬台国をどこだと思っているんだ?」と問われても、
わからないと答えるしかありませんが。
距離や方角などについては、魏志倭人伝に記載されている行程をどのように解釈すべきか、文献学上の裏付けが必要なのでしょうが、その方面は全く無学なのでね。
しかし、考古学的には、繰り返しますが、邪馬台国の条件は、西暦240年に文字文化と鉄文化があって、それ以前から卑弥呼の好物の絹、金、刀、銅鏡、真珠、鉛丹があったことです。
0235日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/20(火) 12:30:22.35
畿内説は、あの2013年の大規模調査で破綻した。。。
0236日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/20(火) 12:34:34.54
畿内説を論破されたキナイコシは誰に質問しているのだろうか。。。。
このスレッドに現れた謎の考古学者は、ほとんどの倭人に文字文化がなかったといっているようだが、、、
0237日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/20(火) 12:36:15.00
>>236
そうだね、だからこそ、文字が発達した邪馬台国が倭国の中では、考古学的に特徴的になるといってるようだね、、
0238日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/20(火) 12:37:09.28
>>237
発狂したキナイコシは、そんなこともわからないのだろうね。。。
0239日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/20(火) 12:43:33.93
よく調べてみると、熊本城の地下から、文字の痕跡が発見されるのではないのかな。。。
0240日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/20(火) 12:54:22.18
>>236
倭人に文字文化があった根拠は

奈良藤原京より先の時代、7世紀中頃の阿波の役人は木簡に習字をしていた。
徳島県国府町の観音寺・敷地遺跡から出土した7世紀中頃の論語木簡は、日本で一番古い出土木簡である。
ちなみに、同遺跡から円面硯・風字硯・須恵器蓋転用硯、上級貴族が使用する油杯(燈明)など官衙有数の資料が重要文化財に指定されている。

ではなぜ、奈良藤原京より先の時代に、阿波の地にそれらが存在したのか。

それは、7世紀末頃に阿波から奈良へ遷都(持統朝)する直前まで、阿波に倭の王権・王都があった証である。

阿波国府推定地に隣接する観音寺・敷地遺跡出土品(重要文化財指定)
http://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/213354

こういう事実を示せるのは、倭国(阿波)以外には存在しない。   @阿波
0241日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/20(火) 13:45:22.72
>>234
倭人全体で考えれば、繊維質上に文字は残ってないようですが、弥生後期までに、硯や、文字が刻まれた土器が出ています。
上位層では、「太伯」「大夫」という漢語を文字で代々伝えたと思いますよ。渡来した時のままの言語体系を数百年続け、該当する漢語の発音を、口伝だけで伝え、再び、漢人に対し特定させるほどの正確さで発音したことも、否定はしきれませんが、可能性は低いでしょうね。
ただ、私が主張したかったのは、倭人全体に文字文化があったことではなく、邪馬台国の首都で、卑弥呼か、卑弥呼の側近が漢語を解し、詔を読み、上表文を書くほどの文化レベルに達していたということだけです。
遠距離の首都同士の国交ですからね。会話ではなく、読み書きのやり取りが必要ですからね。
そして、正誤を卑弥呼は確かめなければなりませんから、文字を解せる者は複数人いなければいけませんね。
0242日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/20(火) 13:46:43.03
文字が刻まれた土器ではなく、墨書きされたものだったでしょうかね。
0244日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/20(火) 13:59:12.10
3世紀の熊本にも阿波にも、文字の痕跡はないようですよ。
0245日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/20(火) 14:14:21.30
通訳がいたんだから、中国人を雇っただけということもある。
0246日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/20(火) 14:46:05.56
>>245
上表文は倭王印で封泥か押印されます。そうして、魏皇帝は内容の真偽を確かめるのだし、そのために、印を送りました。
だから、卑弥呼のいる邪馬台国で書き上げなければいけません。意思疎通に悪意の他者が介在しない工夫です。
上表文を書いたのが、中国人であって、倭人側には内容の正誤を確かめるすべがないとしたら、卑弥呼は倭王印で押印しづらかったと思いますよ。
0247日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/20(火) 14:49:04.61
本当にいなきゃあしょうがないわな
中国人を複数雇えば良いよ
0249日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/20(火) 15:13:05.93
三世紀の墨書土器は、わりと各地から出てる。
一文字が多いので呪文っぽい雰囲気。
0250日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/20(火) 15:20:41.50
キナイコシも、本当は畿内説が破綻してしまったことは、わかっているのではないかな。。。
■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています

ニューススポーツなんでも実況