また、荒れ気味のスレ進行になってきましたね。
「いやなら、見るな」が5chへの正しい対処ですよ。

纏向遺跡は布留傾向期の前後で、個人的には2期に分けて考えたい遺跡です。
仮に前者を纏向庄内遺跡、後者を纏向布留傾向以後遺跡と呼称しましょうか。下層が纏向庄内遺跡で上層が纏向布留傾向以後遺跡です。すると、纏向布留傾向以後遺跡は纏向庄内遺跡に覆いかぶさるだけでなく、箸中山やホケノあたりまでの範囲に南限を広げていますね。
纏向庄内遺跡の範囲に関しては、柵付き高床建築群が中心の位置で良いと思いますよ。纒向矢塚古墳の編年が難しいですが、位置的にはここか纏向石塚が西限でしょうね。集落の端に墓をつくったのですね。中心と一端が想定できるわけですから、範囲の全容も想像できます。
西限近くに纏向勝山もありますが、纏向布留傾向以後遺跡です。他の3つの前方後円墳も纏向布留傾向以後遺跡です。
纏向庄内遺跡は、どんなに言いつくろっても、辻地区を中心に数百m四方で、発掘調査が100回位は繰り返されたわけです。
その上で、朝鮮半島で採取した鉄も、国交に不可欠な文字の痕跡も、曹叡が卑弥呼の好物と認識した絹、金、刀、銅鏡、真珠、鉛丹も出ないわけです。絹(?)が出た層は布留傾向以後ですからね。
つまり、考古学的に、纏向庄内遺跡が邪馬台国であった訳がありません。可能性は絶無です。