邪馬台国畿内説 Part324
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邪馬台国論の鉄板、畿内説のスレです。
【骨 子】
・3世紀中葉には、古墳時代が開始していた。
・出現期古墳段階で、近畿中央部を中心に列島規模の政治連合が形成され始めていた。
・北部九州博多湾岸地域は、既にこの政治連合の傘下にあった。
ゆえに、倭女王卑弥呼の都があったのは畿内である。
邪馬台国論争ももう畿内で決着なのでロマンはありませんが
勝者の貫録を見せつつ、更なる真実を探求しましょう。
前スレ
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1518118887/
◆0【 要 旨 】 ( >>2-12に各論、それ以下にFAQを付す )
纒向遺跡の発掘状況等から、ここには西日本の広域に影響力を持った宗教的指導者が君臨しており、それは各地の首長に共立され求心的に集約された権力基盤を持つ女性であったと考えられる。
その死亡時期は3世紀中葉とみられる。畿内に中国文化が急速に浸透する時期である。
これらを倭人伝の記事と対照すると、箸中山古墳の被葬者が倭人伝に記載ある曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、纒向が邪馬台国にあった倭女王の宮殿所在地であると同定できる。
2世紀の地球規模的寒冷化は、農業生産力を強化する社会的需要から指導的地位を占める析出集団の成長を強烈に促進し、弥生的青銅器祭祀を終息せしめ、高塚化した墳丘墓を現出させる。
換言すれば、弥生墳丘墓の巨大化が顕著な地域こそが、弥生社会に古墳時代へと向かう構造変化の著しい地域であり、3世紀に爆発的に広域化する萌芽期国家の中核である。自然環境変化に起因する社会構造変化が現象として纒向に凝集し結実したと言える。
倭人伝に記載された卑弥呼の活動期間に相当する庄内併行期は、畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入している時期であり、ことに那珂比恵地域への人口流入が急拡大していく。
博多湾貿易が対外交渉の主役に躍り出るこの時期には、西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易をする段階となっている。
絶域であった日本列島が中華社会と二国間の国交を再開した時期、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の倭国の中枢である。
倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
それは桜井市纒向以外にありえない。 >>222
そんな根拠のない詐欺みたいな言い訳に反論など必要ない。 >>207
>本来1里は400mやろ?ちゃうんか?
ちゃうな 畿内説は、九州節で論じられていないことを捏造して攻撃するんだな。
投馬国が邪馬台国に一部で7万戸に含まれるとかなんとか。 畿内説が根拠とするものは、邪馬台国と関係ないものばかり。 >>485
大和バカはそもそも、「南→東」などの嘘つき騙しの・・・・詐欺師。
居座るのは、スレ主や大和説者らと同じく、
人種差別殺し合い戦争狂の国粋皇国史観のキョクウの・・・・であって、
日本語も読めない人種だからか?。 >>228
結局、悪口しか言えなくなるのが九州説の限界 >>491
九州説者は、史料事実や史料実態を根拠にして帰納的確率的推論をするが、
大和説者は、「魏志の里や南方向記載は間違いだ」と言っているが、
間違いだだけでは「別の里や方向の特定」にならない筈なのに、
「長里や東方向という特定」を根拠にして大和説を唱えるから、
一種の「結論先にありき」の循環論法的な騙しになっているんだよ。
証明する行為だよ
循環論法に相当する >>492
本当に大和説ってアホしかいないんだな。
現実の大和に何一つない上に、九州の影響に塗りつぶされてる現実も見ないで、
アホな妄想行程叫んで大和とか言ってんだから。
大和なんて、九州の影響が色濃くどっぷり出てるところの一つだろうが、アホが。
安部政府や右翼マスコミや学会教育界や、人種差別的殺し合い戦争狂の国粋皇国史観の、
キョクウの異常者の集団はこれだから。 >>501
>考古学の世界で九州説なんて既に皆無状態だぞ。<
「南→東」という嘘つき騙しありきの考古学者は、信頼性が皆無に近い状態だぞ。
>今後お前は一切考古学関連の資料を利用しない事だな。<
嫌だ。
個人的な発掘事実報告や、
公的機関の発掘事実からの解釈などは、信頼性が全くない場合があるが、
公的資金での発掘事実報告には、時々「ついうっかり」、
(大和説には不利になるような)貴重な発掘事実も報告してしまっている事があり、
当然我々は、それを参考にする権利がある。 >>505
>祇園山だ!これが卑弥呼の墓だ! ↓ 三角縁 庄内土器 大型の葺石墳墓<
ありゃ?、何だこれは。
「大作冢、徑百餘歩、jun葬者奴婢百餘人」が抜けている。
>内行花文鏡だ!これが卑弥呼の鏡だ!<
ありゃ?、何だこれは。
平原なら、莫大豪華な「玉」や「21枚の尚方作の方格規矩鏡」が抜けている。
>↓ 三角縁同伴 古墳出土 <
ありゃ、何だこれは。
大和の三角縁なら、粗末で「脇役的な場所」に置かれた事が抜けている。
大和説者の低能詐欺師ぶりは、毎度笑わせてくれる。 >>508
国民のアンケート結果でも、7割の国民にも否認され、
口先で誤魔化す事だけが頼りなのか?大和説は。
可愛そうになあ。 >>510
>最盛期ですら献上品に出来ない粗悪品
畿内から畿内独自の精密な織技術を用いた絹織物出土 <
中国への献上品の「倭錦、絳青糸兼、緜衣、帛布」には、当然、
筑紫倭国の別種の旧小国の大和から筑紫への上納された絹も、含まれる。
>最盛期ですら大量の鉄器とやらがあっても九州から外に出られない雑魚ナメクジ九州
邪馬台国の時代を境に一気に畿内の鉄器が増えまくり畿内がこの時代に大きく躍進したことを示す証拠にしかなってない<
九州倭国の鉄器は卑弥呼時代のもの。
それに引き換え、別種の旧小国の大和の鉄器増加は4世紀以後。
大和の田舎猿のバカ話は毎度笑える。 それよりも
なぜ知っているんだろうという話
『ザ・モモタロウ』 家の写真
『菅野神社』〜『ザ・モモタロウ』
合致、確定しているものがあるような? >>515
>列島の前方後円墳の始まりは、那珂八幡などで、3世紀第4四半世紀。<
>考古学者の言ってることと違うね<
考古学者は、ほぼ皆、「南→東」などの嘘つき騙しだそうだから。
>誰の説?<
久住氏。 >>517
九州には、
径100歩の墓もある
丹もある
質の高い絹もある
入れ墨もある
骨占もある
宮殿もある
大きな祭祀の遺跡もある
多くの国をまとめ上げた中心もある
多くの国をまとめ上げたような影響力もある
鏡も古墳から見つかり、三角縁も始まり
土器、墓制、祭祀、宝物も全て始まり
大和は、自分達の文化をすべて塗りつぶされて自我を失う属国の姿しか見つからない
あるある喚くが何一つ提示されない。
おお、哀れ哀れ。 ザ・モモタロウを読んでみた?
「発電したぞ」
モモタロウが電気を起こした、
ような事も言ってる 源頼馬鹿というキャラ。
ムー帝国、とある国の王や王子(末裔)。
きんたろー、河童などは不明
キンタローと河童でザビエルという意味? >>518
>弥生時代の終わりころから、日本列島各地に有力な首長の墓として、様々な形の墳丘をもった墳墓がつくられるようになった。
そうした各地の墳墓がもついくつかの要素を総合して、3世紀なかごろ、奈良盆地に大きな墳丘をもつ前方後円墳が出現した。<
大きな墳丘をもつ前方後円墳は、筑紫那珂八幡などが初元。
大和はそれより遅れて3世紀末以後。
>その規模や副葬品から判断すると、弥生時代の首長とは比べものにならないほど強力な力を持つ支配者が存在したことがわかる。<
弥生銀座付近の出現した。
>箸墓古墳をはじめとする初期の前方後円墳が、奈良盆地に集中することは、
これらの被葬者と初期ヤマト政権の関係が深いことを示唆している。<
大和は、筑紫倭国から別れた別種の旧小国であり、
倭國の地方の市を監督する大倭職の小国。 >>526
>(箸墓など)年代不詳?
じゃあ九州が毎度持ち出す『古墳から出た』内行花文鏡だのは全部年代不詳だなw<
平原の「内行花文鏡と、21枚の尚方作の方格規矩鏡の共存」によって、
どちらも卑弥呼以後、という年代特定が出来ている。
>毎度九州説が喚いてる理論で行けば「同伴した一番新しいもので判断する」んだよなぁ?
じゃあお前らの鏡は全部5世紀以降に貰ったもんだわw ますます何もなくなるなwww <
いや、壹與が卑弥呼から相続した可能性があるから、壹與の死頃まで。 キンタローと言っても、
ザ・モモタロウに登場するキンタロー
調べてみるとわかる
ザビエルのような頭、
河童に〜改造されそうになった >>528
>国民の7割が邪馬台国は九州にあると思うってアンケート結果があったんだと
ザラコクはそれを邪馬台国が九州にあった根拠に使ってる <
国民の7割は、文献考古の両方の情報から、九州説に軍配を挙げた、という事になる。 >>529
>鉄とか笑わせてくれるw<
大和の鉄が、卑弥呼の?根拠になる、などと笑わせてくれる。
卑弥呼の頃より50年遅い。
>最盛期ですら九州から出られない雑魚が「鉄器があるから邪馬台国」とか 寝ぼけてんのか?
邪馬台国を境に一気に出土量が増える明確な畿内の画期がむしろ際立つだけ <
大和に鉄が増えたのは、筑紫倭國の東征のお手伝いをしたから。
>で、毎度「古墳から出る鉄なんてカウントしない!」と喚いてるよなぁ?<
古墳から出る鉄は、筑紫倭国の東征の将軍の墓になるから。
>じゃあお前らの鏡も全滅だわwwwww <
内行花文鏡も、東征将軍に与えらえたお宝。
三角縁は、呉系鏡師らから大和などの子弟が教わって、粗悪な副葬用に造った。
>九州の鏡も古墳から出てる後漢鏡をこれは都合よく「邪馬台国の時代に手に入った!」とか言い張ってんだからなwww
お前らから出たものなんて何一つないなwwwww<
明帝の下賜鏡も、三角縁も庄内も前方後円墳も、筑紫が初元。 >>531
大和説は、何か喋れば全部自滅というお笑い集団。
まぁ脳みそが無いから仕方ないね 。 >>532
>邪馬台国に征服されただけだろ。 <
「邪馬台国」なんて、始めからなかったね。 >>242
から。
>>誰の説?<
>久住氏。
すごいな
ザラコクの言うことは
真っ赤なウソばかり
ここまで徹底するって、凄いことだよ 九州説は、それがザラコクだけじゃないとこが
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Rock54: Caution(BBR-MD5:fc5433912aa55592f73f2dda4d43bdf8) >>533
>・柳田康雄「九州弥生文化の研究2002」 (糸島地域p178)
「二世紀前半ともいわれている平原遺跡は、その年代に科学的な根拠は全くない。
瑪瑙や琥珀の玉類は別にしても、四二面のうち最も多い方格規矩鏡の中に、
方格内の銘や小乳もなく、八像も簡略化され、玄武が釣針状の蛇だけになったものがある。
このように簡略化された方格規矩鏡は三世紀代に下がるものと思われ、
鏡からでも三世紀前半まで下げて考えなければならない。
周溝から鉢形の土器が出土しているが公表されていない。」
・柳田康雄「弥生時代王権論」2013 (p317)
「拙稿のように32面の方格規矩四神鏡を含めて38面の製造技術が
164年(『延喜七年』銘獣首鏡)以後、
235年(「青龍三年」)銘方格規矩四神鏡)以前に見られる鋳造・研磨技術である」<
ふーん?。
柳田は、「青龍三年」銘方格規矩四神鏡まで書いて置きながら、
21枚の「尚方作」方格規矩四神鏡には触れず、
だから、明帝→卑弥呼の下賜鏡の可能性には、敢えて言及していないようだね?。 九州説諸君、南は東の間違いだっていう畿内説側の説明に、ぜんぜん反論できてないよね?
南もダメじゃ九州説、もう終わりだろ >>536
>平原とか2世紀の?製鏡だらけの後に続かない、
周りになんの影響も及ぼさない個人墓を持ち出して邪馬台国とか
脳みそ腐ってるな 流石は九州説だ<
柳田が、平原の21枚の「尚方作」鏡に付いて、何か言っているのか?、が焦点になるな。 >>539
なにもない大和。
出てくるのは生活も、宗教も、宝物も何もかも、
筑紫倭国の影響に塗りつぶされた属国の姿ばかり。
必死になって持ち出すものがことごとく倭國の手垢まみれ。
でも何も知らない、何も考えない大和説は、
「チョウリガー」「インボウガー」「キヌガー」「ハシハカガー」と、
毎日同じことを叫び続ける。
異常者の無様な姿をただただ憐れむばかりである。 福岡と奈良の遺跡や遺物をくらべると、
基本的に福岡県が多く、
遺跡数で福岡が奈良の6倍
銅器で12倍
鉄器で20倍の違いがある。
実は弥生時代から奈良時代まで含めても
銅鏡が出土した遺跡は、福岡は奈良の3倍あるんだ。
ちなみに弥生時代にだけに限れば20倍だね。
奈良県の倍あるんだ。 最後がおかしくなったので修正
福岡と奈良の遺跡や遺物をくらべると、
基本的に福岡県が多く、
遺跡数で福岡が奈良の6倍
銅器で12倍
鉄器で20倍の違いがある。
実は弥生時代から奈良時代まで含めても
銅鏡が出土した遺跡は、福岡は奈良の3倍。
ちなみに弥生時代だけに限れば
福岡は奈良の20倍あるんだ。 大阪府や兵庫県と比べても、
奈良は1/3程度の弥生遺跡しかなく、
日本全国区でも特に少ない地域と言える。 >>267
大和は弥生末期以降に開発が進んだ新興都市だからな >>543
>柳田の修正
調査前「三世紀代に下がるものと思われ、鏡からでも三世紀前半まで下げて考えなければ」
↓
調査後「製造技術が164年以後、以前に見られる鋳造・研磨技術である」
結論は、西暦200年頃の墓 <
「結論は、西暦200年頃の墓 」に後退させた理由は何なのかね?。 古墳時代まで含めた前方後円墳の数も、
奈良はそれほど多いわけではなく、
最も多いのは千葉県で、
福岡は4位、奈良は8位である。
奈良県が前方後円墳発祥の地というのも疑問である。 九州は畿内に追いつかれ、追い抜かれた。
そして邪馬台国の時代が始まる。
単に、そういう話だよね。 >>544
「三角縁や古墳と同伴だらけの九州」よりも、
大和の方は、50年位遅くなる、
という実態が笑わせてくれる。 >>547
>平原の鏡については最新の研究で、非常に興味深い見解が示されているよ <
どんな見解?。 遺跡数や古墳数から考えると、
福岡はいまだに奈良には抜かれていないんだな。
すべての歴史において、遺跡数や古墳数で
奈良が福岡を上回ったことがない。
あえて言えば、白村江後に奈良に政権が疎開するまで、かな? >>272
>調査後「製造技術が164年以後、以前に見られる鋳造・研磨技術である」
チガウダロ
青龍三年鏡と同等の技術と判断してたはず >>274
違うよ。
ストローだった九州が呉や公孫氏からの輸入物資を横領して中央政権に反乱を企てたが、中央政権が敵(反乱軍)の味方(呉や公孫氏)の敵(魏)に繋ぎを付けることに成功して形勢を逆転したというお話だよ。 >>558
考古発掘実態の解釈の曲解捏造を、
常習する嘘つき騙しの大和説者の咆哮w。 >>282
あんた、考古発掘実態なんて知らんだろ? 奈良時代の頭初に、大和朝廷から朝貢された記録がある旧唐書では、
日本は元小国でのちに倭国を併合した、とあるから
彼らも倭国を併合する前は、大国でないことは自覚していたわけですね。 >>278
理由もなく
はず、はずって
はずかしい人だね >>285
あるいは倭国が日本と改名した、とも
書いてるんだが? >>287
日本は元小国でのちに倭国を併合した、は使者からの聞き取り調査で、
あるいは倭国が日本と改名した、というのは唐の推測ですね。 >>559
平原が、壹與の墓であったんなら、
時期が3世紀の第4四半世紀頃にずれ込む可能性がある事になり、
周りを取り囲まれるように孤立した小さな地域で、周辺に何の影響も及ぼしてない 、
という事も起こり得る、という事も理解出来ないらしい大和説は、
流石はゴキブリ以下の知能しかない人種だな。
何を夢見てんだか。 >>273
疑問ではなくあんたの願望だな。
実際そうなんだから仕方ないだろw 畿内説じゃなく大和説と印象操作に必死だな、邪馬台国の怪はw >>574
大和説のバカは、いまだにわかってないから笑える。
生活、宗教、宝物等のあらゆる文化の基軸が、九州から全国に拡散してる。
その中心が筑紫であり、ここには全国から人が集まる双方向の拠点として機能している。
そのような全国規模の中心は筑紫以外にどこにもない。
当然大和もその影響下にある。
しかも北部九州の影響がかなり色濃くな。
どこにどんな遺跡が今更出てこようが、纏向で何が出てこようが最早何の影響もない。
筑紫しか当時の全国の中心なんて存在しないんだよ。
もうとっくに「確定」してんだよw。
アホは、いまだにちょっと何か見つかればごまかせるとか思ってる程度の認識だから、、
アホとしか言いようがない。 >>576
弥生銀座が邪馬壹國の中心でいいよ。
どの勢力が邪馬壹國を作ったかだな。 >>577
大和が、まさに邪馬壹國の時代に、
筑紫を中心とする影響力の拡大に飲み込まれてると言う現実を、
ミエナイキコエナイでありもしない妄想を続ける異常者。
それが、大和説。
ただのカルト宗教だから仕方ないね 。 >>580
>逆。 邪馬台国が纒向を作って遷都してきた。<
逆。
筑紫倭國の東征に拠って、筑紫倭国が、纒向に「市」を作って、大倭職を置いた。 >>581
近畿のどこに邪馬壹國があるの? と聞いても全員違うことを言う。
行程は絶対確実なの? と聞いても全員違うことを言う。
何が確定してんだよサルが。 >>582
>傍国20カ国は遠すぎてよくわからないと書いてある
邪馬台国が九州北部連合で計7万個になるはずだから
傍国20カ国は合計4万戸になるはずだというのは
這い出ましたね 九州説お得意の循環論法ですね <
キミの話方は、相変わらず「意味不明」だね。
また大和説がお得意の循環論法かね?。 >>584
大和は最盛期ですらも、大和から外に出てない 。
肝心の邪馬壹國女王之所都の時代となれば、その勢力さえもまだ確定しておらず、
中心も存在しない。
ご自慢の鉄とやらがそんなに凄いなら、とっくのとうに日本征服してんじゃねぇのか?、。
弥生時代の400年くらいを大和から出ることも出来ずに、
逆に西部は、出雲や四国や瀬戸内海の影響を受けまくってる。
アホが こんな基本も知らんで「支配した!」「東征だ!」とかの、
嘘吐きバカ丸出しのことを喚いて思考停止する大和説者。 >>585
>鉄器は畿内の古墳からも大量に出てるで <
300年頃からね。 >>587
アホの大和説に言わせると、
300年頃の古墳の鉄を卑弥呼の時代にカウントするんだとさする。
でも大和がいつも喚き散らしてる鏡も、4世紀の古墳から出てんだけどな。 >>590
最初から大和説なんて、何一つ根拠も証拠もないただのバカ話だから、
誰も相手してない。
アホを相手に笑いものにするのが面白いから遊んでるだけ 。 >>278
確かに青龍三年鏡との比較だったね
この鏡が技術的に平原より新しい物という意見だったかな
しかし、その根拠は薄いと感じたよ
そもそもこの鏡も国産の可能性も多いにあるし、技術面についてもわずかな差なので、作成場所が違うなら一概に言えるものではない
それで、不思議に思ったのだが、
柳田さんは平原の鏡を「国産」としているのだが、技術面での考証はあくまで「中国の鏡の技術変化」で考証してるところが気になったんだよなぁ
平原はすでに最大の内行花文鏡を作成する技術がある訳で、国産ならば国産の鏡技術として年代考証すべきと思うのだがね >>600
>(孝霊)三世紀の地勢感で正確かどうかなんて判断出来る状況ではないですよ。<
梯儁等の記録が正確であったから、張政等も、間違えないで来れた。
>ましてや地球が球体とも、地動説でもありませんから。<
倭地と中国中心部は、大体同緯度だから、周髀算経の「大地平面」近似が有効。
>当時の基本認識は神仙思想です。<
魏使らや陳寿が神仙思想な訳がない。
孝霊は、神仙・・・・。 妄想じゃなくて痴呆
他人の発言を、大和と筑紫を入れ替え書き換えて機械的にコピペしてる
だから内容がムチャクチャ >>603
>師升を葛城に本拠をもつ綏靖天皇辺りに比定するならね。<
帥升も九州の倭国王だから、
「南≠東」に拠って×。 >>302
ここまで入り浸ってる時点で説得力無し。
お前はもうここの畿内説に夢中だろw >>604
>梁書に「漢の霊帝の光和年間(178〜183)、倭国は乱れ、戦いあって年月を経た」とある
これが神武東征かも知れないね <
二中歴に拠って、✖。 >>605
>バカに何度言っても無駄だろうが
弥生時代の前期の稲作の伝播以外に九州から西日本に広がる影響など何もない
東征も東遷もあり得ない バカに何度言っても理解できないだろうが<
倭王武の上表文の「自昔…東征毛人五十五國」で、✖。 >>609
>俺は畿内説だけど東征あったかも知れない派だ
西暦60年頃は九州が中心だったのは金印やら鏡やら後漢書の記述で確からしいからな
そこから100年後にその勢力が東に向けて出軍し<
二中歴では、神武東征は紀元前91年頃になるから✖。
>記紀にあるように苦しい戦いを経て畿内に連合国家を打ち立てたと そう考えてる<
神武東征は、倭國から別れた別種の「旧小国」の、
「地方の市を監督する大倭職」の国を造ったのだから、を造ったのだから、✖。 >>303
柳田は伊都国東遷ありきで理論付けしてるから信頼性は低いね >>610
>尚方作鏡には景初3年とか入ってないからなあ<
明帝の詔書は、景初二年12月に出されたんだから、
景初三年鏡は、始めから、明帝の鏡としては✖。
>三角縁神獣鏡に比べたらどうしても格が落ちる<
「格」なんて評価は、単なる「個人的な好み」の問題であり、
皇帝の格を示すのなら、「尚方作」鏡が最も適切。 >>613
>尚方作鏡なんてニセモノは腐るほどあるしなあ
そんな銘文、なんの根拠でもないよなー <
「ニセモノ」が一杯あったんなら、それは、
「尚方作」と書けば「格」や「価値」が上に見られる、
という事が判っていたからだな。 >>616
>出雲勢力も含んでたかもね
まあその辺りの事はよくわからんけど <
実態としては、
出雲の銅鐸が、大和では拒否されて無くなって、忘れられてしまっており、
しかし、梁代になっても、筑紫倭国と、出雲文身國と、越の大漢國と、大和の扶桑國が併存していた、
という事だ。 >>617
世の中には時系列の概念を理解できない奴らもいるんだよ。
人種差別的殺し合い戦争狂の、国粋皇国史観の、キョクウの・・・・大和説人種なんてのは、
その典型な訳で。 >>622
>その後に大和、吉備ともに出雲とは別の文化を更に進化させて
後の邪馬台国、大和朝廷へとつながる体制を確立する <
「邪馬台国、大和朝廷」なんて分裂幻覚妄想を書いちゃ、
「南≠東」や、
「大和は筑紫倭国の別種の旧小国」という史料事実を否定する事になるから、✖。 >>624
>(孝霊)霊帝の諱はそのまま孝霊天皇に充てたと 思われるけどな。
意味は滅びはしないが 国が乱れる等の意味がある。
欠史の名前は大体同時代、大陸との関連性のある諱が付いている。<
欠史八代の「天皇名」も、当然、
7世紀末の「大和日本国が倭国を併合吸収継承」した後の、
大和の造作。 >>625
>誤読でトンデモ書いてるよね ある意味、海外史料の限界<
勿論、誤読ではない。
「次用明、亦曰目多利思比孤、直隋開皇末、始與中國通」の話は、
釈日本紀引用の延喜講記に、
小野妹子が隋文帝に「日本国」を名乗って、
「本国の倭國の承認を得ていない」という事で叱られた?、
という話で確認が取れ、
隋書に書かれた開皇20年頃の遣使の話が、
書紀の大和日本国には記載されていない、
という事とも符合する。 >>630
>いつぐらいの出来事になるんスかね<
騙されてはいけないよ。
「倭国大乱」なんて存在しない。
あったのは、筑紫で「倭国乱」であり、
それとは別に、それ以前の「自昔」から倭王武の頃まで、
倭国の「東征毛人55国」が継続していた。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています