>>533
>・柳田康雄「九州弥生文化の研究2002」 (糸島地域p178)
「二世紀前半ともいわれている平原遺跡は、その年代に科学的な根拠は全くない。
瑪瑙や琥珀の玉類は別にしても、四二面のうち最も多い方格規矩鏡の中に、
方格内の銘や小乳もなく、八像も簡略化され、玄武が釣針状の蛇だけになったものがある。
このように簡略化された方格規矩鏡は三世紀代に下がるものと思われ、
鏡からでも三世紀前半まで下げて考えなければならない。
周溝から鉢形の土器が出土しているが公表されていない。」
・柳田康雄「弥生時代王権論」2013 (p317)
「拙稿のように32面の方格規矩四神鏡を含めて38面の製造技術が
164年(『延喜七年』銘獣首鏡)以後、
235年(「青龍三年」)銘方格規矩四神鏡)以前に見られる鋳造・研磨技術である」<

ふーん?。
柳田は、「青龍三年」銘方格規矩四神鏡まで書いて置きながら、
21枚の「尚方作」方格規矩四神鏡には触れず、
だから、明帝→卑弥呼の下賜鏡の可能性には、敢えて言及していないようだね?。