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邪馬台国畿内説 Part324
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垢版 |
2018/02/11(日) 05:36:24.60
 邪馬台国論の鉄板、畿内説のスレです。
【骨 子】
・3世紀中葉には、古墳時代が開始していた。
・出現期古墳段階で、近畿中央部を中心に列島規模の政治連合が形成され始めていた。
・北部九州博多湾岸地域は、既にこの政治連合の傘下にあった。
ゆえに、倭女王卑弥呼の都があったのは畿内である。

 邪馬台国論争ももう畿内で決着なのでロマンはありませんが
 勝者の貫録を見せつつ、更なる真実を探求しましょう。

前スレ
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1518118887/

◆0【 要 旨 】  ( >>2-12に各論、それ以下にFAQを付す )
 纒向遺跡の発掘状況等から、ここには西日本の広域に影響力を持った宗教的指導者が君臨しており、それは各地の首長に共立され求心的に集約された権力基盤を持つ女性であったと考えられる。
その死亡時期は3世紀中葉とみられる。畿内に中国文化が急速に浸透する時期である。

 これらを倭人伝の記事と対照すると、箸中山古墳の被葬者が倭人伝に記載ある曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、纒向が邪馬台国にあった倭女王の宮殿所在地であると同定できる。

 2世紀の地球規模的寒冷化は、農業生産力を強化する社会的需要から指導的地位を占める析出集団の成長を強烈に促進し、弥生的青銅器祭祀を終息せしめ、高塚化した墳丘墓を現出させる。
 換言すれば、弥生墳丘墓の巨大化が顕著な地域こそが、弥生社会に古墳時代へと向かう構造変化の著しい地域であり、3世紀に爆発的に広域化する萌芽期国家の中核である。自然環境変化に起因する社会構造変化が現象として纒向に凝集し結実したと言える。

 倭人伝に記載された卑弥呼の活動期間に相当する庄内併行期は、畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入している時期であり、ことに那珂比恵地域への人口流入が急拡大していく。
 博多湾貿易が対外交渉の主役に躍り出るこの時期には、西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易をする段階となっている。
 絶域であった日本列島が中華社会と二国間の国交を再開した時期、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の倭国の中枢である。

 倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
 それは桜井市纒向以外にありえない。
0288日本@名無史さん
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2018/02/11(日) 22:52:39.58
>>287

日本は元小国でのちに倭国を併合した、は使者からの聞き取り調査で、
あるいは倭国が日本と改名した、というのは唐の推測ですね。
0289日本@名無史さん
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2018/02/11(日) 22:56:31.82
>>559
平原が、壹與の墓であったんなら、
時期が3世紀の第4四半世紀頃にずれ込む可能性がある事になり、
周りを取り囲まれるように孤立した小さな地域で、周辺に何の影響も及ぼしてない 、
という事も起こり得る、という事も理解出来ないらしい大和説は、
流石はゴキブリ以下の知能しかない人種だな。
何を夢見てんだか。
0290日本@名無史さん
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2018/02/11(日) 22:57:53.03
>>289
ザラコクは支離滅裂
0292日本@名無史さん
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2018/02/11(日) 23:00:39.94
畿内説じゃなく大和説と印象操作に必死だな、邪馬台国の怪はw
0293日本@名無史さん
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2018/02/11(日) 23:06:24.06
>>574
大和説のバカは、いまだにわかってないから笑える。
生活、宗教、宝物等のあらゆる文化の基軸が、九州から全国に拡散してる。
その中心が筑紫であり、ここには全国から人が集まる双方向の拠点として機能している。
そのような全国規模の中心は筑紫以外にどこにもない。
当然大和もその影響下にある。
しかも北部九州の影響がかなり色濃くな。
どこにどんな遺跡が今更出てこようが、纏向で何が出てこようが最早何の影響もない。
筑紫しか当時の全国の中心なんて存在しないんだよ。
もうとっくに「確定」してんだよw。
アホは、いまだにちょっと何か見つかればごまかせるとか思ってる程度の認識だから、、
アホとしか言いようがない。
0294日本@名無史さん
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2018/02/11(日) 23:08:25.03
>>576
弥生銀座が邪馬壹國の中心でいいよ。

どの勢力が邪馬壹國を作ったかだな。
0295日本@名無史さん
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2018/02/11(日) 23:11:50.06
>>577
大和が、まさに邪馬壹國の時代に、
筑紫を中心とする影響力の拡大に飲み込まれてると言う現実を、
ミエナイキコエナイでありもしない妄想を続ける異常者。
それが、大和説。

ただのカルト宗教だから仕方ないね 。
0296日本@名無史さん
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2018/02/11(日) 23:15:24.30
>>580
>逆。 邪馬台国が纒向を作って遷都してきた。<

逆。
筑紫倭國の東征に拠って、筑紫倭国が、纒向に「市」を作って、大倭職を置いた。
0297日本@名無史さん
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2018/02/11(日) 23:17:15.25
>>581
近畿のどこに邪馬壹國があるの? と聞いても全員違うことを言う。
行程は絶対確実なの? と聞いても全員違うことを言う。
何が確定してんだよサルが。
0298日本@名無史さん
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2018/02/11(日) 23:22:07.70
>>582
>傍国20カ国は遠すぎてよくわからないと書いてある
邪馬台国が九州北部連合で計7万個になるはずだから
傍国20カ国は合計4万戸になるはずだというのは
這い出ましたね 九州説お得意の循環論法ですね <

キミの話方は、相変わらず「意味不明」だね。
また大和説がお得意の循環論法かね?。
0299日本@名無史さん
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2018/02/11(日) 23:29:28.38
>>584
大和は最盛期ですらも、大和から外に出てない 。
肝心の邪馬壹國女王之所都の時代となれば、その勢力さえもまだ確定しておらず、
中心も存在しない。
ご自慢の鉄とやらがそんなに凄いなら、とっくのとうに日本征服してんじゃねぇのか?、。
弥生時代の400年くらいを大和から出ることも出来ずに、
逆に西部は、出雲や四国や瀬戸内海の影響を受けまくってる。

アホが こんな基本も知らんで「支配した!」「東征だ!」とかの、
嘘吐きバカ丸出しのことを喚いて思考停止する大和説者。
0300日本@名無史さん
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2018/02/11(日) 23:30:59.89
>>585
>鉄器は畿内の古墳からも大量に出てるで <

300年頃からね。
0301日本@名無史さん
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2018/02/11(日) 23:36:07.00
>>587
アホの大和説に言わせると、
300年頃の古墳の鉄を卑弥呼の時代にカウントするんだとさする。
でも大和がいつも喚き散らしてる鏡も、4世紀の古墳から出てんだけどな。
0302日本@名無史さん
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2018/02/11(日) 23:39:01.45
>>590
最初から大和説なんて、何一つ根拠も証拠もないただのバカ話だから、
誰も相手してない。
アホを相手に笑いものにするのが面白いから遊んでるだけ 。
0303日本@名無史さん
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2018/02/11(日) 23:41:53.37
>>278
確かに青龍三年鏡との比較だったね
この鏡が技術的に平原より新しい物という意見だったかな
しかし、その根拠は薄いと感じたよ

そもそもこの鏡も国産の可能性も多いにあるし、技術面についてもわずかな差なので、作成場所が違うなら一概に言えるものではない

それで、不思議に思ったのだが、
柳田さんは平原の鏡を「国産」としているのだが、技術面での考証はあくまで「中国の鏡の技術変化」で考証してるところが気になったんだよなぁ

平原はすでに最大の内行花文鏡を作成する技術がある訳で、国産ならば国産の鏡技術として年代考証すべきと思うのだがね
0304日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/11(日) 23:46:29.06
ザラコクが、また妄想してるな
0305日本@名無史さん
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2018/02/11(日) 23:50:57.24
>>600
>(孝霊)三世紀の地勢感で正確かどうかなんて判断出来る状況ではないですよ。<

 梯儁等の記録が正確であったから、張政等も、間違えないで来れた。

>ましてや地球が球体とも、地動説でもありませんから。<

倭地と中国中心部は、大体同緯度だから、周髀算経の「大地平面」近似が有効。

>当時の基本認識は神仙思想です。<

魏使らや陳寿が神仙思想な訳がない。
孝霊は、神仙・・・・。
0306日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/11(日) 23:53:54.59
妄想じゃなくて痴呆

他人の発言を、大和と筑紫を入れ替え書き換えて機械的にコピペしてる
だから内容がムチャクチャ
0307日本@名無史さん
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2018/02/11(日) 23:54:20.70
>>603
>師升を葛城に本拠をもつ綏靖天皇辺りに比定するならね。<

帥升も九州の倭国王だから、
「南≠東」に拠って×。
0308日本@名無史さん
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2018/02/11(日) 23:55:44.49
>>302
ここまで入り浸ってる時点で説得力無し。
お前はもうここの畿内説に夢中だろw
0309日本@名無史さん
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2018/02/11(日) 23:56:06.47
>>604
>梁書に「漢の霊帝の光和年間(178〜183)、倭国は乱れ、戦いあって年月を経た」とある
これが神武東征かも知れないね <

二中歴に拠って、✖。
0310日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/11(日) 23:58:51.45
>>605
>バカに何度言っても無駄だろうが
弥生時代の前期の稲作の伝播以外に九州から西日本に広がる影響など何もない
東征も東遷もあり得ない バカに何度言っても理解できないだろうが<

倭王武の上表文の「自昔…東征毛人五十五國」で、✖。
0311日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/12(月) 00:06:36.46
>>609
>俺は畿内説だけど東征あったかも知れない派だ
西暦60年頃は九州が中心だったのは金印やら鏡やら後漢書の記述で確からしいからな
そこから100年後にその勢力が東に向けて出軍し<

二中歴では、神武東征は紀元前91年頃になるから✖。

>記紀にあるように苦しい戦いを経て畿内に連合国家を打ち立てたと そう考えてる<

神武東征は、倭國から別れた別種の「旧小国」の、
「地方の市を監督する大倭職」の国を造ったのだから、を造ったのだから、✖。
0314日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/12(月) 04:09:24.82
何も知らんでよう言う
0315日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/12(月) 06:15:21.86
>>610
>尚方作鏡には景初3年とか入ってないからなあ<

明帝の詔書は、景初二年12月に出されたんだから、
景初三年鏡は、始めから、明帝の鏡としては✖。

>三角縁神獣鏡に比べたらどうしても格が落ちる<

「格」なんて評価は、単なる「個人的な好み」の問題であり、
皇帝の格を示すのなら、「尚方作」鏡が最も適切。
0316日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/12(月) 06:21:43.32
>>613
>尚方作鏡なんてニセモノは腐るほどあるしなあ
そんな銘文、なんの根拠でもないよなー <

「ニセモノ」が一杯あったんなら、それは、
「尚方作」と書けば「格」や「価値」が上に見られる、
という事が判っていたからだな。
0317日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/12(月) 06:27:57.79
>>616
>出雲勢力も含んでたかもね
まあその辺りの事はよくわからんけど <

実態としては、
出雲の銅鐸が、大和では拒否されて無くなって、忘れられてしまっており、
しかし、梁代になっても、筑紫倭国と、出雲文身國と、越の大漢國と、大和の扶桑國が併存していた、
という事だ。
0318日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/12(月) 06:30:51.96
>>617
世の中には時系列の概念を理解できない奴らもいるんだよ。
人種差別的殺し合い戦争狂の、国粋皇国史観の、キョクウの・・・・大和説人種なんてのは、
その典型な訳で。
0319日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/12(月) 06:36:08.91
>>622
>その後に大和、吉備ともに出雲とは別の文化を更に進化させて
後の邪馬台国、大和朝廷へとつながる体制を確立する <

「邪馬台国、大和朝廷」なんて分裂幻覚妄想を書いちゃ、
「南≠東」や、
「大和は筑紫倭国の別種の旧小国」という史料事実を否定する事になるから、✖。
0320日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/12(月) 06:41:40.42
>>624
>(孝霊)霊帝の諱はそのまま孝霊天皇に充てたと 思われるけどな。
意味は滅びはしないが 国が乱れる等の意味がある。
欠史の名前は大体同時代、大陸との関連性のある諱が付いている。<

欠史八代の「天皇名」も、当然、
7世紀末の「大和日本国が倭国を併合吸収継承」した後の、
大和の造作。
0321日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/12(月) 06:51:45.09
>>625
>誤読でトンデモ書いてるよね ある意味、海外史料の限界<

勿論、誤読ではない。
「次用明、亦曰目多利思比孤、直隋開皇末、始與中國通」の話は、
釈日本紀引用の延喜講記に、
小野妹子が隋文帝に「日本国」を名乗って、
「本国の倭國の承認を得ていない」という事で叱られた?、
という話で確認が取れ、
隋書に書かれた開皇20年頃の遣使の話が、
書紀の大和日本国には記載されていない、
という事とも符合する。
0322日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/12(月) 06:58:21.92
>>630
>いつぐらいの出来事になるんスかね<

騙されてはいけないよ。
「倭国大乱」なんて存在しない。
あったのは、筑紫で「倭国乱」であり、
それとは別に、それ以前の「自昔」から倭王武の頃まで、
倭国の「東征毛人55国」が継続していた。
0323日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/12(月) 07:06:46.61
>>631
>そのタリシヒコは用明天皇の事だとして記紀の記載を採用してる<

嘘を付くな。
用明は、「タリシヒコ」ではなく「目多利思比孤」と記録されていた。

>そしてその時代に遣隋使が来た中国側の記録と双方の記事を合わせて中国は記事を書いてる
日本書紀の遣隋使の最初の部分が不自然なのは以前から指摘されてる
日本側が意図的に(おそらく中国皇帝から叱責されたことなどの屈辱を隠すため)削除したと考えられている<

隋の初代文帝は、
大和日本国が、筑紫倭国から独立して日本国を称する事を認めなかった、
という事だ。
0324日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/12(月) 07:12:45.95
>>635
>(孝霊)具体的に出雲において海を渡ってきた月支国の船団と戦ったり、
半島と山比べしたなんて伝承を持っているのは孝霊天皇だけだからな。
勿論瀬戸内海や吉備でも成敗伝承が多く、
倭国乱れたとするなら 具体的な内容を伴う唯一の存在。<

ダメだ。
「倭國乱」は、九州の倭國内での話だから、✖。
0325日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/12(月) 07:21:08.21
>>637
>方形周溝墓の拡大に政治的な背景など見られない
土器も祭器も祭祀も在地の物を維持している事から文化的な伝播でしかない<

墓の形態は、非常に保守的であり、漸進的な変化しかなかなか起こり得ず、
だから、方形周溝墓の拡大は、
その部族や氏族の支配地の新規拡大を意味する事になるもの。
だから、壹與に属する部族の支配域の拡大があった、という事になるになる。
0326日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/12(月) 07:26:09.00
>>641
>平原一号は二世紀末<

明帝→卑弥呼の21個の「尚方作」鏡の存在に拠って、
卑弥呼死亡以後である事が確定。
0327日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/12(月) 07:28:25.12
>>641
>方形周溝墓は単なる文化として拡大したのち、各地域で独自の発展を見せている
それが各地で別物の独自性を持つようになる
この伝播に中心的な勢力による意図などは見いだせない <

おそらく「自昔・・・東征毛人五十五國」のため。
0328日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/12(月) 07:30:45.65
>>643
>平原の時代とは九州の平原が栄えてた時代?なら
後漢書に倭の奴国が建武中元二年(57)に使いを遣したとあるからね<

平原は、21個の「尚方作」鏡の存在に拠って、卑弥呼の死後以後であるから、✖。
0329日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/12(月) 07:35:02.53
>>645
「南→東」などの嘘吐き騙しの「大和」が出て来ると、
とたんにレベルが下がるぜ 。
0330日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/12(月) 07:38:15.73
>>650
>方300里とか書かれてるだけで行とか至とかの移動途中の説明の動詞がないけど
いいの<

「動詞」だけだ、というのではなく、
途中での説明や記載があれば、途中移動があった事になる。
0331日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/12(月) 07:41:02.54
>>652
そういうチェリピクや、「南→東」などのような史料事実の否定曲解が、
大和説者の特徴。
0332日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/12(月) 07:45:36.54
>>654
>方形周溝墓は弥生前期北部九州発祥して
中期にはすでに東海や畿内中心に多くなって いるからな。
銅鐸も同じ動きなので、東征的な動きは 弥生中期に既に終わっている。
なので弥生後期の平原の物は東国勢力から 派遣された人物の物。<

平原は、21個の「尚方作」鏡で明帝の下賜鏡である事が決まったから、
卑弥呼の死後以後が確定であるので、✖。
0333日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/12(月) 07:52:14.55
>>658
>方形周溝墓は在地の文化を変化させていない むしろ各土地で独自の発展を遂げている
東征などは起こってない ただの文化的な移動<

墓祭祀形態は、相当「保守的」であり、漸進的にしか変化が起きず、
大きな変化があった場合には、別部族の侵入や支配を想定しなければならない。
だから、平原も、既に筑紫在地部族であった娘の墓だ、
という事になり、卑弥呼以後の娘の浜だった、という事になる。
0334日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/12(月) 09:04:50.90
>>660
>官は伊支馬有り。次は弥馬升と曰う。次は弥馬獲支と曰う。次は奴佳鞮。
伊支馬は生駒。生馬。火の神。 弥馬升は三見宿禰、出雲醜大臣の子。
弥馬獲支はミミ鷲、日鷲。 奴佳鞮は中臣。<

「南≠東」であるから、「生駒」や「出雲」は×。

>ヤマトの地名と出雲の集落名、共通点が多い<

大和は、出雲系銅鐸部族や毛人が共存していたところに、
神武らの東征で倭國の勢力下になって、また新しい共存時代になったから。
0335日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/12(月) 09:09:46.75
>>662
>銅鐸も最初は10以上の系統があって各地で独自の発展を遂げてる
勘違いしてる人が多いが何かの主体的な勢力が広めているわけじゃない
これも文化的な移動によって成立した文化とみるのが自然
むしろ弥生時代の後期くらいから中心地が統合されて独自性が出てくる<

最も古い菱環鈕式が、出雲が圧倒的に出土が多い、という事実は覆しようがなく、
出雲が、列島の銅鐸祭祀の初元であった事は、否定しようがない。
0336日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/12(月) 09:16:42.81
>>664
>前方後方墳は在地の文化を変化させていない むしろ各土地で独自の発展を遂げている<

筑紫の那珂八幡などが列島の前方後円墳の初元であった、という事も、
否定しようがない。

>東征などは起こってない ただの文化的な移動 <

宋書が、倭王武の上表文の「自昔・・・東征毛人五十五国」を掲載した、という事実も、
否定しようがなく、
古代における推論論理の「原点」にするしかない。
0337日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/12(月) 09:19:26.65
>>667
>別に不思議でも何でもない
弥生時代末ごろに畿内と吉備を中心とした地域に全国的な影響力を持つ邪馬台国が誕生する
そしてその勢力がそのまま大和朝廷になるだけの話 <

「南≠東」に拠って、×であり、
この男も、×人間。
0338日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/12(月) 09:24:22.65
>>669
>吉備は温羅、即ち出雲の配下<

吉備は、銅鐸祭祀の出雲系であったところへ、
倭系の「国生み植民地」も作られて、共存的であったようで、
そこへ、五瀬命らの東征が長期寄留をしたようであった。
0339日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/12(月) 09:31:07.73
>>137
1里≠75mによって×

>>138
律暦志で韓の方四千里や、七千余里や、3海峡の各線余里の説明がつかないなら
そっちの記述の方が不正確なものという事だろ
違うというなら方四千里やら3海峡の各線余里の距離は正確なものという証拠がいる
0340日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/12(月) 09:41:33.23
>>671
>弥生前期の稲作などの移動と、邪馬台国の全国的な文化の拡大は全く違う物<

「邪馬台国」なんて存在しない。

>弥生時代後期になると各地域にかなり強い独自の王権や文化の個性の確立が起こる
しかし、弥生時代末期の邪馬台国時代前後になると、
その確立した文化の壁を突き破って畿内の文化が広まりそれ一色に変わる<

「畿内」は、「南≠東」に拠って×。
出雲が中心であった西日本で起こった事は、九州倭國勢力の東征。

>各地の変化は中心の動きと連動していて独自性は限定的で明らかな中心点が存在しているのが分かる
その動きはどんどん強くなり各地の個性を完全に塗りつぶしていく
これらの動きから弥生時代末期の変化は政治的で中心の存在する意図的なものであるのが分かる<

中心点になったのは、筑紫倭國。
0341日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/12(月) 09:43:45.68
>>148
当時使われていた1里400mに当てはめると
邪馬台国がニュージーランドになるから
邪馬台国だけじゃなくて他の辺境の国でも同様に過大な記述が見られるから
魏の都洛陽から遠く離れた地は距離が不正確だったという事がわかる
0342日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/12(月) 09:44:11.15
>>335
否定される
初元ではない

同じ菱環鈕式でも出雲が多くなるのは2〜3期
1期に多いのは四国
0344日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/12(月) 09:50:35.75
ザラコクって結局方角しかより何処ないんだよな、
思考能力が既に退化してるだろw
0345日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/12(月) 09:51:40.39
>>683
>基本的に方形周溝墓も前方後円墳も 文化の伝搬の結果であって
支配がどうとかというものではない。<

基本的に、墓祭祀は、その部族内にあっては非常に保守的であり、セレモニーも漸進的。
大きな変化があった場合には、
新規部族の流入や支配が起きた事を想定しなければならない。

>五世紀に各地に定形型前方後円墳が作られるが
その近所に近い時代の大型円墳や
バチ型、手鏡型古墳があったりして
型式を強制されたようなものではないからね。<

同じ部族内では、「型式」の変更は、非常に困難。
0346日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/12(月) 09:53:16.11
>>329
じゃ来るなよ、誰もお前を望んでないから
畿内説以外は立ち入り禁止だぞ。
0347日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/12(月) 09:54:23.87
ザラコクが書けば書くほど畿内説論者が増えていくのになw
0348日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/12(月) 09:55:44.73
>>688
「邪馬台国はパプアニューギニアにある」なんて嘘つき騙しを、
しゃーしゃーと主張するお前も、嘘つき騙しの犯罪者的な・・・・。
0349日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/12(月) 09:58:01.38
ヤマタイとはヤマトだね、隋書倭国伝に書いてあるだろ。
九州にあるのは伊都に奴国、投馬国が出雲、丹波。
これで確定だよ。
0350日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/12(月) 10:02:08.24
>>692
>弥生中期から後期にかけて世襲の権力者と呼べるような存在が現れ独自の権力基盤のシンボルである祭祀や墓制を確立する
この動きは強い個性と排他性を見せて独自の勢力の基盤としているのが分かる
ところがそれが弥生時代末期になると一気に畿内の方式に塗り替えられる
変化は常に中心の動きと連動しており独自性は殆どなくなる<

「畿内の方式に塗り替え」と言った瞬間に、
この男も「南≠東」に拠って、×人種。
筑紫倭國の東征と、大陸からの部族の新規渡来があっただけ。
0351日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/12(月) 10:04:03.69
>>693
>邪馬壱・・・山陰〜丹波
女王・・・天橋立
邪馬・・・奈良
狗奴・・・桃太郎 の話が示しているように敵対していたのは当時の大勢力「吉備」
裸国などは能登半島と一年も離れていると、さげすんでいる<

「南≠東」に拠って、×。
0353日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/12(月) 10:09:19.32
当時は中華思考に天動説、しかも球体とも認識してないので
基本的に遠方の方角認識は今とは違うのにな。

方角間違い説でもはや何の問題もない、ヤマタイとはヤマトの事。
0354日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/12(月) 10:21:00.82
古田の元気な頃と今では考古学的な環境が全く違うのにな。
正直古田だけでなく、九州説全般で今では矛盾した話にしかならないから。
ザラコクの頭の中は30年前で止まってるんだろ。
0355日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/12(月) 10:24:17.79
>>696
>古墳を過小評価すれば九州説が成り立つとか思ってる馬鹿には毎度笑える
言い出すことがいつもいつも間抜けで笑いしか出ない <

セレモニーの進化拡大は、人的能力と必要と技術の伝来向上が必要だ。
0356日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/12(月) 10:24:38.26
>>351
でも「南≠東」って否定されたでしょ
0357日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/12(月) 10:29:36.77
>>697
>国譲りで出雲も大和となったはず<

出雲は、文身国として梁代までは独立性を保っており、
国譲りは、出雲が海峡〜筑紫の倭人に盟主の座を譲った話であり、
大和は、筑紫倭国から別れた別種の旧小国だ。
0358日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/12(月) 10:34:35.60
>>149
東夷の里が
周髀算経や淮南子の一寸千里や、漢書の如惇注や介山や、三国志内の大半の記載や、
海賦や、江表伝の?赤壁などに書かれているから存在すると言うのは
循環論法に当たります
0359日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/12(月) 10:35:39.02
>>701
>纒向から大分辺りの外来系土器も出てるからな。文献に照らし合わせても、
大和朝廷に九州の勢力も噛んでいるのは間違いない。
首謀者は尾張出雲阿波だが、九州の勢力の責任も明確にしないといけないなあ<

大和は朝廷ではなかった。
大和が朝廷になったのは、白村江の後で、
それまで盟主であった九州倭国を併合吸収継承した後。
0360日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/12(月) 10:38:44.58
>>702
>神武東征は、大和に属さなかった地域との抗争を神話的に描いたものである
だから、日向や筑紫(境界つきるところの先)や吉備や難波が出てくる<

神武東征は、倭王武の「自昔・・・東征毛人55国」の一つの例。
0361日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/12(月) 10:41:14.71
>>703
>纏向の主体はあくまでも大和と吉備 <

纏向は、あくまで、筑紫倭國の地方の市を監督する「大倭」職の国。
0362日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/12(月) 10:48:54.98
>>705
>神武東征の宇佐も大和に属していない 宇佐は渡来人のムラだとされる
応神、神功の時代になって平定した <

宇佐は、神武らの東征時点で既に存在していたものであり、
出雲王朝の出雲大社に次ぐNo.2の格式を持っていたようであるから、
出雲時代のNo.2であった天照らの「国生み」神話の、
瀬戸内への植民の拠点であったんだろう、という事になる。
0363日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/12(月) 10:58:26.36
>>712
>墓制だけでは語れんよ。 畿内も前方後円墳だけじゃないからな。
出雲は、大和朝廷の首謀者の一つ。<

大和が朝廷になったのは、白村江の後だから、×。
出雲は、神武ら東征時点での在地の出雲系銅鐸祭祀部族地域であり、
欠史八代の頃は、大和盆地内で倭人系と共存していた。
0364日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/12(月) 11:07:45.77
 
こんなふうに妄想を言い張るだけ

 根拠をまったく言わないのが


 九州説という新興宗教だな


 
0365日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/12(月) 11:11:38.37
>>715
>むしろ出雲を語るなら墓制を欠かせない
出雲こそが「大型墳墓による地位と同盟のシンボル化」という方式を作り出した
そしてそれを広範囲に広める中心だった
ところがそのオリジナルの方法を全く違う方式に
「変更させられ」「新たな中央に従う」ことになっている
神話ではないが、かなりハッキリとした畿内勢力への屈伏の表れとみることができる<

ダメだな。
梁代までは、出雲は、文身国として独立的な存在になっているし、
「畿内勢力」というのも、「南≠東」であるから×であり、実態は「筑紫倭國勢力」。
0366日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/12(月) 11:14:30.11
こんなふうに
何も証拠がないことばかり言い張るのが

    九 州 説



 
0367日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/12(月) 11:24:07.36
>>716
>何組の魏使らが確認してようとも 比率がほぼ合っていようとも
1万2千里を魏で使われていた事が確実にわかってる1里400mに当てはめると
赤道を越えた場所になる事実だけで全て台無し<

「魏で使われていた事が確実にわかってる1里400m」という事が、嘘つき騙し。
魏志の記載や、陳寿の推定や、文帝の詔書や、重臣たちの「周制への復古」の上表などで、
周髀算経などの短里が使われた事がはっきりしてい。
そして、「赤道を越えた場所になる事実」だけでも、長里が使われていなかった、という事の証拠。

>1里400m以外の単位があったと主張するならきちんと確認できる資料を出せば
それで解決するのにしない <

前項の証拠の他にも、如惇注や介山や赤壁や海賦などにように、
史料事実を出している。

>なぜならそんな物は存在しないからだ <

要するにお前は、史料事実を否定曲解する嘘つき騙しの・・・・なのだ。
0368日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/12(月) 11:32:25.81
>>717
>1里400mは律暦志、正始弩尺の史料事実で証明できる <

律暦志は、
漢書や魏志での短里的な例に関する説明をしていない不完全なものであるから、
半分×文書であり、証明根拠になっていない。
また、正始弩尺は、
周代から大きな変化がなかったものであるから、始めから的外れであり、
証明根拠にならず、
証明根拠に必要なのは、始皇帝の「1歩=6尺」だけが使われていたのか?、という事。
0369日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/12(月) 11:35:09.61
>>719
大和説バカは、
いつまで経っても「ぼくちゃんのかんがえたすごい行程」の、
嘘つき騙しを喚くだけだな。
0371日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/12(月) 11:42:35.23
>>722
>案内されて来たんだろうから距離が正確とか関係ないだろうよ
アメリカまでの距離知らなくても飛行機乗ってりゃ着くだろ <

だから、「所要日数」を併記されているんだよ。
勿論、陳寿らは、
各行程の「出発説明+途中説明+到着説明+付加的説明」の順に、
きちんと書いてくれているから、
後続の使節らも、案内人無しでも、ある程度自分らも倭地へ来る事が出来る。
0372日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/12(月) 11:43:38.34
便所紙はないわー
捏造する気満々だったんじゃないか。
邪馬台国の怪といい、九州説のやる事は全く信用出来ん。
0373日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/12(月) 11:44:40.30
>>723
また「南→東」などの史料事実の否定曲解の嘘つき騙しの、
大和説の基地外か。
0374日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/12(月) 11:47:18.63
>>724
「長里だけだ」といういう「南→東」などの嘘つき騙しの大和説者らの方が、
間違ってる、ってほうがより明白。
0375日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/12(月) 11:49:26.89
>>726
>出雲まで水行十日、天橋立まで陸行一月 ご存知の通り数字は誇張が入っている<

「南≠東」に拠って、始めから、×。
0376日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/12(月) 11:53:55.22
方角間違い例なんて沢山あるのにな、
ザラコクは余程のバカなんだろう、というより間違いなくバカ。
0377日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/12(月) 11:57:25.19
世間の誤解を解かないといけない。

邪馬台国はヤマト国、葛城山系以東の奈良盆地一帯です。邪馬台は単なる地名です。ヤマトの地が卑弥呼を共立した勢力に征伐され、都が置かれました。
纒向の外来系土器、円形周溝墓などがその証です。殉葬などそれ以前になかった風習が持ち込まれたことも、新しい別の勢力がヤマトの地を支配した傍証になります。

女王国、大和朝廷を作ったのは、出雲など山陰の勢力、尾張、阿波、宮崎や遠賀川の石神など縄文系勢力。
畿内の勢力はこれらの勢力に征伐されました。


倭国大乱の元凶。
火神、カグツチ、ホアカリ、火産霊、国常立神(天香久山の山頂に祀られている神、尾張一宮の本来の主祭神、天岩戸の向こう側、鬼門に封じられた神)、オオナムチ、飛騨の顔が二つ胴が一つの怪物、牛鬼、
阿波咋、
宮崎の石神、イワレ、岩割、
遠賀川の石神、石筒之男、

彼らが畿内や九州北部を征伐して、出来たのが女王国、それに連なる大和朝廷。
四道将軍で関東東北を征伐したのも彼らです。
0378日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/12(月) 11:58:16.68
>>728
>尾張なども東海系のS字土器や前方後方墳を失う立場<

尾張も、元々は、出雲系の銅鐸祭祀部族で、
大和の残存銅鐸部族との関係で、倭國の地方の市の纏向との通商はあった。

>ただこの土地は少し関係が特殊で弥生時代を通じて畿内と密接な交流を見せている
後にも前方後円墳と前方後方墳が同時期の同じ場所に存在しているなど、独自性の消滅の対象とはなってない
土器の移動などを見ても敵対と言うよりも関係の近い同盟国と言う図式が想定される <

同じ出雲系の銅鐸祭祀部族がいたから。

>ただ文化主体となるのが畿内であることと、
墓の規模が常に前方後円墳が上回ることなどから主体は畿内にあると思われる
邪馬台国の前後くらいに合併吸収されていく事になる<

「畿内」も「邪馬台国」も、
「南→東」の嘘つき 騙しに拠って、×。
0379日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/12(月) 12:00:04.42
>>377
正解だよ、東北のほうに本拠地があった。
いまもそうでしょ。

>女王国、大和朝廷を作ったのは、
>出雲など山陰の勢力、尾張、阿波、宮崎や遠賀川の石神など縄文系勢力。
0380日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/12(月) 12:02:25.12
畿内や半島?のほうに言った人物がいる
それが『松傾』

東北地方のほうに戻ったと書いてあるでしょ?
帰農したの?
0381日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/12(月) 12:03:13.52
>>729
>岸倭人伝に短里が使われてるという事を魏志倭人伝を使って証明するのは循環論法<

短里の根拠を、魏志以外の根拠も沢山使っているから、循環論法にならない。
0382日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/12(月) 12:08:15.38
東北のほうのサイト?にも書いてあったでしょ、
朝廷などに仕えていない人々(松傾の親戚、一族)が・・・住んでいて
0383日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/12(月) 12:10:59.04
>>730
>そんなごたくを並べんでも
短里の存在を明確に示す短律暦志と短正始度尺でも持ってくればそれで解決する話<

そんな御託を並べても、
律暦志も正始度尺も、根拠にはならない、という事は、何度も説明済み。
0384日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/12(月) 12:11:48.58
小手子の像

あの辺りに住んでいた・・・、
その後、畿内のほうに行った人物がいる

『松傾』
0385日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/12(月) 12:13:33.12
311後だったかな

聖人でも殺したのか?
と言ってる人がいたり
0386日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/12(月) 12:19:32.59
『菅野神社』

調べてみると、
百済の国王の末裔が〜、興福寺が何やらと出て来たり
0387日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/12(月) 12:20:35.66
>>733
>比率なんぞ一致してないな ある所では50m別の所では100m
比率が一致?嘘をつくな<

勿論、長里の「6倍」位もの不一致に比べれば、はるかに一致であるし、
魏志の記載は、始めから有効数字1桁概数記載であるから、
「50mと100m」は十分許容の範囲内であるし、

更に、この男の「50m」とか「100m」とかの計測を、おそらく、
きちんとした「外縁部間での計測」ではなく、
中心地間での計測のようなインチキをしているのではないか?、
という疑いもある。
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