邪馬台国畿内説 Part324
■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています
邪馬台国論の鉄板、畿内説のスレです。
【骨 子】
・3世紀中葉には、古墳時代が開始していた。
・出現期古墳段階で、近畿中央部を中心に列島規模の政治連合が形成され始めていた。
・北部九州博多湾岸地域は、既にこの政治連合の傘下にあった。
ゆえに、倭女王卑弥呼の都があったのは畿内である。
邪馬台国論争ももう畿内で決着なのでロマンはありませんが
勝者の貫録を見せつつ、更なる真実を探求しましょう。
前スレ
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1518118887/
◆0【 要 旨 】 ( >>2-12に各論、それ以下にFAQを付す )
纒向遺跡の発掘状況等から、ここには西日本の広域に影響力を持った宗教的指導者が君臨しており、それは各地の首長に共立され求心的に集約された権力基盤を持つ女性であったと考えられる。
その死亡時期は3世紀中葉とみられる。畿内に中国文化が急速に浸透する時期である。
これらを倭人伝の記事と対照すると、箸中山古墳の被葬者が倭人伝に記載ある曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、纒向が邪馬台国にあった倭女王の宮殿所在地であると同定できる。
2世紀の地球規模的寒冷化は、農業生産力を強化する社会的需要から指導的地位を占める析出集団の成長を強烈に促進し、弥生的青銅器祭祀を終息せしめ、高塚化した墳丘墓を現出させる。
換言すれば、弥生墳丘墓の巨大化が顕著な地域こそが、弥生社会に古墳時代へと向かう構造変化の著しい地域であり、3世紀に爆発的に広域化する萌芽期国家の中核である。自然環境変化に起因する社会構造変化が現象として纒向に凝集し結実したと言える。
倭人伝に記載された卑弥呼の活動期間に相当する庄内併行期は、畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入している時期であり、ことに那珂比恵地域への人口流入が急拡大していく。
博多湾貿易が対外交渉の主役に躍り出るこの時期には、西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易をする段階となっている。
絶域であった日本列島が中華社会と二国間の国交を再開した時期、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の倭国の中枢である。
倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
それは桜井市纒向以外にありえない。 こんなふうに
何も証拠がないことばかり言い張るのが
九 州 説
>>716
>何組の魏使らが確認してようとも 比率がほぼ合っていようとも
1万2千里を魏で使われていた事が確実にわかってる1里400mに当てはめると
赤道を越えた場所になる事実だけで全て台無し<
「魏で使われていた事が確実にわかってる1里400m」という事が、嘘つき騙し。
魏志の記載や、陳寿の推定や、文帝の詔書や、重臣たちの「周制への復古」の上表などで、
周髀算経などの短里が使われた事がはっきりしてい。
そして、「赤道を越えた場所になる事実」だけでも、長里が使われていなかった、という事の証拠。
>1里400m以外の単位があったと主張するならきちんと確認できる資料を出せば
それで解決するのにしない <
前項の証拠の他にも、如惇注や介山や赤壁や海賦などにように、
史料事実を出している。
>なぜならそんな物は存在しないからだ <
要するにお前は、史料事実を否定曲解する嘘つき騙しの・・・・なのだ。 >>717
>1里400mは律暦志、正始弩尺の史料事実で証明できる <
律暦志は、
漢書や魏志での短里的な例に関する説明をしていない不完全なものであるから、
半分×文書であり、証明根拠になっていない。
また、正始弩尺は、
周代から大きな変化がなかったものであるから、始めから的外れであり、
証明根拠にならず、
証明根拠に必要なのは、始皇帝の「1歩=6尺」だけが使われていたのか?、という事。 >>719
大和説バカは、
いつまで経っても「ぼくちゃんのかんがえたすごい行程」の、
嘘つき騙しを喚くだけだな。 >>722
>案内されて来たんだろうから距離が正確とか関係ないだろうよ
アメリカまでの距離知らなくても飛行機乗ってりゃ着くだろ <
だから、「所要日数」を併記されているんだよ。
勿論、陳寿らは、
各行程の「出発説明+途中説明+到着説明+付加的説明」の順に、
きちんと書いてくれているから、
後続の使節らも、案内人無しでも、ある程度自分らも倭地へ来る事が出来る。 便所紙はないわー
捏造する気満々だったんじゃないか。
邪馬台国の怪といい、九州説のやる事は全く信用出来ん。 >>723
また「南→東」などの史料事実の否定曲解の嘘つき騙しの、
大和説の基地外か。 >>724
「長里だけだ」といういう「南→東」などの嘘つき騙しの大和説者らの方が、
間違ってる、ってほうがより明白。 >>726
>出雲まで水行十日、天橋立まで陸行一月 ご存知の通り数字は誇張が入っている<
「南≠東」に拠って、始めから、×。 方角間違い例なんて沢山あるのにな、
ザラコクは余程のバカなんだろう、というより間違いなくバカ。 世間の誤解を解かないといけない。
邪馬台国はヤマト国、葛城山系以東の奈良盆地一帯です。邪馬台は単なる地名です。ヤマトの地が卑弥呼を共立した勢力に征伐され、都が置かれました。
纒向の外来系土器、円形周溝墓などがその証です。殉葬などそれ以前になかった風習が持ち込まれたことも、新しい別の勢力がヤマトの地を支配した傍証になります。
女王国、大和朝廷を作ったのは、出雲など山陰の勢力、尾張、阿波、宮崎や遠賀川の石神など縄文系勢力。
畿内の勢力はこれらの勢力に征伐されました。
倭国大乱の元凶。
火神、カグツチ、ホアカリ、火産霊、国常立神(天香久山の山頂に祀られている神、尾張一宮の本来の主祭神、天岩戸の向こう側、鬼門に封じられた神)、オオナムチ、飛騨の顔が二つ胴が一つの怪物、牛鬼、
阿波咋、
宮崎の石神、イワレ、岩割、
遠賀川の石神、石筒之男、
彼らが畿内や九州北部を征伐して、出来たのが女王国、それに連なる大和朝廷。
四道将軍で関東東北を征伐したのも彼らです。 >>728
>尾張なども東海系のS字土器や前方後方墳を失う立場<
尾張も、元々は、出雲系の銅鐸祭祀部族で、
大和の残存銅鐸部族との関係で、倭國の地方の市の纏向との通商はあった。
>ただこの土地は少し関係が特殊で弥生時代を通じて畿内と密接な交流を見せている
後にも前方後円墳と前方後方墳が同時期の同じ場所に存在しているなど、独自性の消滅の対象とはなってない
土器の移動などを見ても敵対と言うよりも関係の近い同盟国と言う図式が想定される <
同じ出雲系の銅鐸祭祀部族がいたから。
>ただ文化主体となるのが畿内であることと、
墓の規模が常に前方後円墳が上回ることなどから主体は畿内にあると思われる
邪馬台国の前後くらいに合併吸収されていく事になる<
「畿内」も「邪馬台国」も、
「南→東」の嘘つき 騙しに拠って、×。 >>377
正解だよ、東北のほうに本拠地があった。
いまもそうでしょ。
>女王国、大和朝廷を作ったのは、
>出雲など山陰の勢力、尾張、阿波、宮崎や遠賀川の石神など縄文系勢力。 畿内や半島?のほうに言った人物がいる
それが『松傾』
東北地方のほうに戻ったと書いてあるでしょ?
帰農したの? >>729
>岸倭人伝に短里が使われてるという事を魏志倭人伝を使って証明するのは循環論法<
短里の根拠を、魏志以外の根拠も沢山使っているから、循環論法にならない。 東北のほうのサイト?にも書いてあったでしょ、
朝廷などに仕えていない人々(松傾の親戚、一族)が・・・住んでいて >>730
>そんなごたくを並べんでも
短里の存在を明確に示す短律暦志と短正始度尺でも持ってくればそれで解決する話<
そんな御託を並べても、
律暦志も正始度尺も、根拠にはならない、という事は、何度も説明済み。 小手子の像
あの辺りに住んでいた・・・、
その後、畿内のほうに行った人物がいる
『松傾』 311後だったかな
聖人でも殺したのか?
と言ってる人がいたり 『菅野神社』
調べてみると、
百済の国王の末裔が〜、興福寺が何やらと出て来たり >>733
>比率なんぞ一致してないな ある所では50m別の所では100m
比率が一致?嘘をつくな<
勿論、長里の「6倍」位もの不一致に比べれば、はるかに一致であるし、
魏志の記載は、始めから有効数字1桁概数記載であるから、
「50mと100m」は十分許容の範囲内であるし、
更に、この男の「50m」とか「100m」とかの計測を、おそらく、
きちんとした「外縁部間での計測」ではなく、
中心地間での計測のようなインチキをしているのではないか?、
という疑いもある。 『聖化 日神 日霊 津』
この人物が現れ、初めて・・・と書いてない? 東夷伝全体で一里は100メートル未満なのだけれどね。
畿内説にとっては都合が悪いのだろうけれど。 後漢書における里程
大倭王は邪馬台国にいる。
楽浪郡の国境は、その国(邪馬台国)から一万二千里である。
倭国の西北界である狗邪韓國からは七千里である。 >>735
長里だけだとかほざいて、無理やり大和のどこかに持ってこようと、
邪馬台国などどこにもない。
大和には何もない。
あるのは、倭國の神武東征で、
在地の銅鐸部族や毛人蝦夷の首長たちを騙し討ちに殺戮して、
その後、婚姻で関係を持って、
倭國の地方の市を監督する「大倭」職の旧小国の属国の姿だけ。
行程を屁理屈こねてどこにしようが、結果は同じ。
能無しの大和説は、そもそも何も知らないアホだから、チョウ
リとか喚いてれば大和に邪馬壹國女王之所都が出てくると思ってる低能。 誰の事を言ってるのか、わからないんだけど、
川崎に住んでいるんじゃない?
と言ってる人がいなかった?
家も川崎区(神奈川県)に住んでいるんだけど >>737
>投馬を玉(たま) とよむと、「玉」は山口県の山陰側の地名である。
田万川町、玉江川(萩市)、矢玉、湯玉 。
「馬」の字より、野生馬がいたのは下関市山陰側の吉母の御崎だから、
投馬国は厚母 (あつも)・室津・湯玉・矢玉だろう。
吉母の御崎は古くは室津の内だった。<
「南≠東」だから、✖。 >>744
>魏史倭人伝に記されてる邪馬台国は濃尾。
その後倭国の都は大和盆地に遷都され、前方後方墳は前方後円墳へと変化した。
その理由は奴国の前方後方墳文化と伊都国の円墳文化を融合させるため。<
根本的に「南≠東」だから、✖。 >>746
大和説が主張する長里自体、
魏志に書かれた里の距離と5〜6倍も違ってるのに、何を言うか。 >>747
何?、「南は東の間違い」だと?。
大和説の基地外は毎度意味不明なこと言いだす。
短里記載の存在を過小評価ではごまかせないとわかったら、
今度は、「方向の間違い」説とか、
人種差別殺し合い戦争の国粋皇国史観のヘイトスピーチで、
国民を騙そう、とするのか?。
まいど大和説の、・・・・的低能ぶりは、笑いしか出ない、。 >>748
>山口県萩市から室津半島を結んだ線上には、
点々と足跡のごとく神社群が連なっています。 ・・・
投馬国も女王に属しているわけではなかったな <
これも「南≠東」に拠って、最後で✖。 魏志に書かれた数字がおかしいだけでしょ
何が不満なの? >>749
バカは何回言ったら理解するんだろうな.
「東征」は、九州倭国がしたものであり、
大和はそれのお手伝いをしたに過ぎず、
大和の出雲でも東征なんてねーよ。 奈良時代以前の中国古文献において、
日本国内の行程を
魏の里で表記したものは存在しない。
倭人伝での表記も、実距離の5倍程度と乖離しており、魏の里で表記したとは言えない。 >>752
九州には、弥生時代前期から400年の間ずっと、いろんな墓や墳の文化だった。
>円墳もその多くは吉備や畿内に集中していて九州の墓制ではない
当然前方後方墳なども存在しない <
嘘を付くな。円墳も前方後方墳も北部九州にある。
>大型墳墓も葺石の文化もない土地だった<
祇園山は、葺石もある。
>そこに唐突に畿内で成立発展した前方後円墳文化が流入し飲み込まれていく
こんなところに起源などない <
列島の前方後円墳は、那珂八幡などが初元。 >>402
>列島の前方後円墳は、那珂八幡などが初元。
なんで、そんなウソを平気でつくの?
>>758
>畿内を見れば3世紀はもっと畿内が中心だった事がわかるよ<
大和は、「南≠東」に拠って、✖。 >>760
平原は、21枚の「尚方作」鏡に拠って、
3世紀半ばの卑弥呼以後の墓である事が判っているのに、
「2世紀の?製鏡だらけ」とか嘘を付いて、
「どこにも影響を広げられずにそのまま後に続かないで終わった田舎の個人墓」
と言い放って、
いつまでも貶めてるんだか。
ヤマトのアホどもはの、毎度どうしようもない低能だな。 「尚方作」鏡なんかで、何で3世紀半ばの卑弥呼以後の墓である事が判るんだ
お前の妄想で世界は動かない 九州説の思考原理は個人特有だから、一般人には解らないものが多いんだよ
だから一人一説なの
笑) 「尚方作」鏡だから魏の下賜鏡だ〜とか言い出したら
三角縁が魏の下賜鏡になって九州説即死なのに
アルツ老人の思考はわからんわ
>一人一説
パプアニューギニアは800以上の少数部族、言語に分かれている
パプアニューギニアにはおサルさんから感染したHTLV-1キャリアも九州西部南部と同じで多く
パプアニューギニアを中心としたカーゴ・カルトは、
近代まで文明の利器を知らなかった現地人は西洋人が持ち込んできた工業製品に対して、
これは当地の先住民のために神が作ったものであり、
白人は神と特別な繋がりを持って不当にそれらを占有したのだ、と考えた
先住民を九州、神を中国、白人をヤマト王権に置き換えると
九州説の思考と一致する >>764
>直後じゃねぇんだよ
景最3年(238年)に卑弥呼が遣いを寄越したとあるから<
この男は、またウソを書いている。
卑弥呼の遣使は、景初二年(238年)。
>倭国大乱(178年ごろ)から60年は経ってる<
「倭国大乱」など存在しない。
あったのは、「倭國亂」であり、
歴年とは10年位であり、
魏使らが来た240年頃には、卑弥呼は「年已長大」であり、
「長大」は30〜35歳位であり、だから生まれたのは205〜210年であり、
卑弥呼共立が20歳位であった、とすれば、それは225〜230年位になり、
だから、「倭國亂」は、215〜220年からの10年位の間であったんだろう、
という事になる。 >>767
>別に平原を卑弥呼の時代にしてやったって何にも変わらんがな<
平原は、卑弥呼の死以後。
>その頃の伊都国は周囲を庄内式土器の勢力に取り囲まれて
ごく狭い領域に閉じ込められた土地に過ぎない<
これも、違う。
平原付近は、伊都国の東南100里以上位になってしまうから、
奴國の領域内であった可能性が高い。
つまり、平原は、邪馬壹國と伊都国の「倭国中枢部」にはならず、
それとは少し離れた地であった、という事になる。
>大切にしまい込んだ鏡も殆ど?製鏡
周りに何の影響も及ぼせずにそこで完結してそこで終わる個人墓なのは変わらない<
21枚の「尚方作」鏡を引き継いだ事になるから、間違いなく、共立女王の墓。
>そして九州をはじめとした当時のほぼ日本全国は畿内の文化の拡大の下にある
全国の中心は纏向のある畿内 <
これは、勿論「南≠東」に拠って、・・・・は✖。
で?3世紀に墓が移動するとこれがどうして邪馬台国になるんだ?
なぁ九州のサルよ 筑紫勢力 漢委奴国王(57年 後漢書)->九州王朝
肥国勢力 親魏倭王(238年 魏志)->邪馬台国->九州王朝に吸収合併
畿内勢力 元小国で倭国を併合 印綬不明(703年 旧唐書) ->大和朝廷 >>774
>九州は200年ごろには王墓も消滅して、弥生前期から400年続いた福岡を中心とする勢力も崩壊してる
鏡も小型?製鏡ばかりになり、それも王墓じゃなくて集落などで見つかるようになり秩序の崩壊がみられる
そのまま状態で「現代にいたるまで」一度も独自勢力の統合など見られない <
何寝言言ってんだお前?。
大和は、筑紫城の倭奴國の阿毎氏から別れた別種の旧小国であって、
白村江の後で、大敗した倭国を併合吸収継承したんだよ。
>そのような流れの中で畿内の土器、墓制、祭祀、祭器が雪崩れ込んできて独自文化を消失させていく<」
逆だな。
そのような流れの中で、
筑紫の土器、墓制、祭祀、祭器が大和や東征地域に雪崩れ込んでに行って、
縄文以来の出雲系や毛人蝦夷の独自文化を消失させていくの。
お前の脳内の大大和帝国なんて言う妄想はチラシの裏でにも書いとけ アホが 。 そんなこと言ってる学者はゼロなんだが
また素人おじん75歳の新発明か? >>780
>三角縁神獣鏡は洛陽と日本にしか見つかっていないんだぞ
これがどういう事を意味するかわかってないようだな <
三角縁神獣鏡は、日本にだけから500枚以上出土し、
洛陽からの出土は1枚あったかなかったか?だけなんだぞ。
これがどういう事を意味するかわかってないようだな。 >>782
>国譲り。 いつの時代か。 4世紀末〜5世紀じゃないか。<
二中歴に拠って、神武即位元年が紀元前91年頃であった事になり、
天照は、神武の6代位以上前だから、大体紀元前3世紀以上以前の事になる。 >>412
>平原は、卑弥呼の死以後。
平原遺跡が卑弥呼の墓ですね! >>788
>>投馬国も女王に属しているわけではなかったな <
>その通り、
嘘を付くな。
魏志倭人伝では、卑弥呼共立国の一つ、とした書かれ方をしている。 >>419
嘘だな。
そんなことは書いてない。
畿内説の得意な捏造または誤読。 >>416
大半が邪馬台国である畿内で作っていただけの事だ。 >>789
>魏志倭人伝が短里で書かれてる事を 魏志倭人伝が証明すると言ったな?
はい循環論法でございます<
勿論、魏志倭人伝以外の証拠も沢山挙げておいたから、循環論法にはならないが、
しかし、不可知部分が殆どである自然や歴史においては、
「孤立的な(一つだけの)単独情報」である事など、幾らでも起こり得るのであり、
そのような場合は、その情報の存在の「資料批判が、その情報の成否の証拠」になる事は、
幾らでも起こり得る。
この男は、それが判らずに、「何でもかんでも循環論法」誹謗をしている・・・・アホ。 >>791
>2倍も違うのにどこが誤差じゃボケ<
有効数字1桁の概数計測であれば、2倍位違う事は、幾らでも発生し得る。
それで、「6倍位も違う長里の、どこが正しい数値」なんじゃ?。 >>796
>邪馬壱 出雲〜丹波まで細長い漢数字の「一」に近い形だからか <
何だ?、この男は。ひょっとしたら分裂幻覚妄想の・・・・か?。
>大和 男弟が補佐して政治をおこなっている。<
「南≠東」だから✖。
> これが為政者、つまり天皇<
大和が天皇を称す事が出来たのは、天智から。 >>423
なんか学があるようなことを言いたくて
でも無学だから失敗しているな >>798
>周は1里何々メートルで…と周制の里体系を示せなければ
何の証明にもならない単なるイチャモン<
周髀算経や淮南子の一寸千里の法。
>距離が正確に計れたら正確な地図も存在してるはずだが そんな物見たことないや <
周髀算経は、天地の地図を「言葉」で説明している。
天地の模型やモデルが作られたのは、漢代頃であった筈。
「平面的な近似地図」は、もっと後であった筈。 >>800
>女王擁立後も実際に為政者だったのは弟だよ 女王は姿も見せないと言っている <
魏使らは、「年已長大」という観察を記録しているから、当然卑弥呼に面会している。
勿論、
「有男弟佐治國。自爲王以來、少有見者、以婢千人自侍、唯有男子一人給飮食、傳辭出入」
であるから、「婢千人自侍、唯有男子一人」が、卑弥呼の施政での考えを伝える事が出来る。 西晋の裴秀(224-271年)が禹貢地域図を作っている
地図を作るに遵奉すべき原則として、縮尺の決定,方格の設定,直角三角形による距離測定,
高低の測定,直角・鋭角の計測 ,曲線・直線の計測の6つを挙げている >>430
理論だけな
実際に出来てるモノは混一以下 >>804
>弟=天皇 卑弥呼=祭王<
これは、明らかに嘘つき騙しね。
「有男弟佐治國」であって、「佐治」は「王の補佐をする」仕事であり、
天皇ではなく、
「王」は 卑弥呼。 >>807
>六代孝安「室秋津島宮」(御所市室)に御所があったとされるが、<
大和は、倭国から別れた別種の旧小国であり、
倭國の地方の市を監督する「大倭」職の国であったから、
「御所」はなく、後代の記紀の造作文言。
>出雲は国譲りを受けたので、女王の行宮だったとも言える <
出雲は、「国を譲った」形になった方。
譲って貰ったのは、筑紫倭國であり、大和ではない。 >>808
>書けてねえから 邪馬台国行こうと思ったらパプアニューギニアに着く事になるから<
まだ明確な「地図」のようなものは未完成的であり、
文字や言葉を使って説明するような時代。 長沙馬王堆第3号墳の時代に既に10里(1里=300歩、1歩=6尺)を1寸に縮小した18万分之1図が発見されてるから
西晋の裴秀(224-271年)のころまでには測量技術は進歩していたが
四夷まで測量はしていなかったということだな 地図が大陸でも辺境に行くほど不正確になってる
という研究結果もある >>811
>初代神武天皇が6世紀ごろとな? あらゆる史料に矛盾する <
そもそも、大和が天皇を称したのは、白村江の後の天智から。 >>812
>能登半島の能登島が黒歯国、東南にあって一年かかる、小人の国や裸の国もある <
「東南≒東北」だから×。
>倭種は出雲の北にある隠岐の島<
「東≒東北」だから×。 会稽東冶之東だからね
南が東の間違いなのは明らかだしな >>813
>別に問題なし、平原は畿内勢力が掌握してるからな。<
問題大有り。
大和は、筑紫城の倭奴國から別れた別種の旧小国であり、
大和が、筑紫の倭國を併合吸収継承したのは、白村江の後だから、
平原の頃は、旧小国。 >>815
>中国が日本を南に傾けて描いてるのは蔑んでいるという事も言えるな
卑とか邪とか当て字が酷いもの <
「南に傾けて描いてる」事は、
「蔑んでいる」事とは何の関係もない。
この男も・・・・。 >>817
>魏志倭人伝に使われているだろう短里を
魏志倭人伝の比率が一致してるから使われていたとするのは
これは全く持っての循環論法 <
「比率の一致」は史料批判の内容であり、
且つ「魏志倭人伝の記載そのもの」ではなく、別のものであるから、
循環論法になっていない。
だから、 >>820
大和説なんて、「南→東」などの史料事実の否定曲解の嘘つき騙しや、
分裂幻覚的な妄想願望の繰り返し以外は、何の根拠もないからな。
話にもならんわ。 >>821
>そもそもマツラへは方位すら書かれてないからな。 方位絶対説はこの時点でアウトだからw
極論すれば向かったのは松江や出雲かもしれないんだぞ。<
出発時点で、目的地(末盧國)がはっきり見えているんだから、
そんな場合は、出発方向を記載する必要がない。 >>824
>神武東征は岡田宮で筑紫とは言えない北九州<
神武東征の出発地は、筑紫城。
だから、岡田宮は、邪馬壹國の周辺丘陵地か?、其餘旁國遠絶になる。
>不弥国も女王に属していないし、女王と対立していた地域という可能性が高い <
不彌國は、当然女王共立国。
>何れにしても神武東征経路は全部大和の管轄外の平定物語を初代天皇の事績としたもの
日向・薩摩の熊襲・隼人なんて最たる例 <
何の根拠もないから、この男も、分裂幻覚の妄想の病気。 >>825
>東征とか言う考古学的根拠ゼロの伝説に頼るのか <
日下まで舟で達した事と、河内湾の存在という事との一致、
という考古が根拠。
>まぁ別にいいよ 記紀をそのまま信用するってんだろ? 九州説は<
史料批判無しには、信用しない。
>じゃあ卑弥呼は神功皇后だな<
卑弥呼と壹與の二人の事績を一人の神功に書いている、
という史料批判に拠って、「卑弥呼は神功皇后」は否定する。
悪かったな サルども。
お前らは、生粋の・・・・ケダモノの詐欺師の大和説者だわ。 >>831
>>「尺寸」系は関係なし。
「里歩系単位と尺寸系単位」の換算の問題。<
>1里は1,800尺だよ。<
周髀算経などや魏志の記載からは、
「1歩≒1尺」であり、「1里≒300尺」であり、
始皇帝の 命令の「1歩=6尺」の否定だよ。
>日中の史学が確定してる。<
日本であれ中国であれ、どこの国であっても、どこの学者であっても、
魏志の「里」記載や、
「徑百餘歩」の記載や、
二組の魏使らが里数を確認している事や、
郡役人の「韓の方四千里」記載や、
陳寿の「計其道里、當在會稽東治之東」の推定説明と魏志の「里」記載の一致などの、
説明が出来ていないんであれば、
そりゃアホ学者であった、という事になる。 >>833
大和説には、脳みそのないバカしかいないな。
言うことすべてが自爆テロにしかなってない。
国粋皇国史観の人種差別戦争狂のキョクウか?、お前ら。 >>837
>伊吹山の神は、大和朝廷と最後の最後まで戦い抜いている。<
大和は「朝廷」ではなかった。
大和が朝廷になったのは、701年。 >>838
>倭国は百余国あったって北九州だけで百国以上あったはずも無い
南はクマだから違うしな <
「百余国」という事は、もしも正方形の中にあったとすれば、
一辺に十国余りになるように並べられたらよく、
吉野ケ里クラスの国なら、中北部九州でなら面積的に十分存在し得る。 >>841
>倭国一周五千里って能登半島一周の事だろ
能登半島をとにかく馬鹿にしたかったようだ<
「南≠東北」だから、×。 平安時代に書かれた和名抄郡名で
九州全体で96郡。
弥生時代から平安時代までに
合併したりしたものもあっただろうから
九州倭国で百余国は問題ないだろうね。 >>843
>弟が補佐って天皇の事だと分かっていて故意に蔑んでる可能性も高いぞ<
「佐治」は、天子や王の治世を助ける事が仕事であり、
天子や王そのものではない。
>内陸(大和)まで行きたくないから出雲(邪馬壱)の女王にだけ会いに行った<
「南≠東」に拠って、×。 >>844
>男王を立てたが乱れて・・・中国による天皇下げの可能性高い<
何これ?。また分裂幻覚の妄想患者?。
卑弥呼の頃に、「天皇」なんて存在していなかった。 >>463
後世そう呼んだだけでしょ
なんか問題でも? >>847
>卑弥呼は女王じゃなくて<
また分裂幻覚の妄想患者。
>出雲にいる天皇の姉だった可能性もある <
「天皇」はまだなかったし、
不彌國のすぐ南に「邪馬壹國女王之所都」があるんだから、
「南≠東北」に拠って、×。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています