邪馬台国畿内説 Part324
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邪馬台国論の鉄板、畿内説のスレです。
【骨 子】
・3世紀中葉には、古墳時代が開始していた。
・出現期古墳段階で、近畿中央部を中心に列島規模の政治連合が形成され始めていた。
・北部九州博多湾岸地域は、既にこの政治連合の傘下にあった。
ゆえに、倭女王卑弥呼の都があったのは畿内である。
邪馬台国論争ももう畿内で決着なのでロマンはありませんが
勝者の貫録を見せつつ、更なる真実を探求しましょう。
前スレ
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1518118887/
◆0【 要 旨 】 ( >>2-12に各論、それ以下にFAQを付す )
纒向遺跡の発掘状況等から、ここには西日本の広域に影響力を持った宗教的指導者が君臨しており、それは各地の首長に共立され求心的に集約された権力基盤を持つ女性であったと考えられる。
その死亡時期は3世紀中葉とみられる。畿内に中国文化が急速に浸透する時期である。
これらを倭人伝の記事と対照すると、箸中山古墳の被葬者が倭人伝に記載ある曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、纒向が邪馬台国にあった倭女王の宮殿所在地であると同定できる。
2世紀の地球規模的寒冷化は、農業生産力を強化する社会的需要から指導的地位を占める析出集団の成長を強烈に促進し、弥生的青銅器祭祀を終息せしめ、高塚化した墳丘墓を現出させる。
換言すれば、弥生墳丘墓の巨大化が顕著な地域こそが、弥生社会に古墳時代へと向かう構造変化の著しい地域であり、3世紀に爆発的に広域化する萌芽期国家の中核である。自然環境変化に起因する社会構造変化が現象として纒向に凝集し結実したと言える。
倭人伝に記載された卑弥呼の活動期間に相当する庄内併行期は、畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入している時期であり、ことに那珂比恵地域への人口流入が急拡大していく。
博多湾貿易が対外交渉の主役に躍り出るこの時期には、西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易をする段階となっている。
絶域であった日本列島が中華社会と二国間の国交を再開した時期、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の倭国の中枢である。
倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
それは桜井市纒向以外にありえない。 >>401
>奈良時代以前の中国古文献において
日本国内の行程を 魏の里で表記したものは存在しない。<
嘘を付くな。
魏志以外にも、漢書の如惇注や、魏略や、後漢書や、梁書や、隋書が、
「魏里=短里」で記載されている。
>倭人伝での表記も、実距離の5倍程度と乖離しており、魏の里で表記したとは言えない。<
魏使らや陳寿が記録したのは、「魏里=短里」だ。 >>779
事実を無視してそう思うならかってにすれば? >>768
> この本は短里で書かれた可能性が高い
「80〜100m程度の単位で記されている可能性が極めて高い」という推論が成り立つのは理解できるだろうか?
君はできないとしても、少なくとも松木さん含めて多くの人間は理解している。
この推論を得て九州・畿内説問わず通説では「東夷伝は短里で書かれている」としている。
それだけの話。
循環論法というような数学や論理学の話ではないよ。
推論が納得できないと言うならそれ以上はどうしようもない。
「里=約100m」
https://youtu.be/CgVcx-xUVYo?t=1m3s >>407
>「尚方作」鏡なんかで、何で3世紀半ばの卑弥呼以後の墓である事が判るんだ
お前の妄想で世界は動かない<
個人が一枚の「尚方作」鏡を所有したり、
一般鏡師が一枚位の、偽の「尚方作」鏡を造る事はあっても、
21枚ものまとまった「尚方作」鏡を、列島の墓に副葬されるような事は、
明帝の100枚の銅鏡が元になった、という鏡でなくては、存在し得ない。 >>783
ああ律暦志に1里=300歩=1800尺
見つかってる尺の基準のモノサシ正始弩尺が24cmの事実こそ
無視できないからそうさせて貰う >>408
大和説の思考原理は、
「南→東」などの嘘つき騙しのような、思想宗教に狂った人種に特有な事だから、
一般人には解らないものが多いんだよ。
だから、国民の7割に拒絶されているの。笑) >>784
いくら1律80〜100mで書かれていようとも
そう書かれてるからそれが存在するというのは循環論法
こればかりは誰にもどうしようもない >>409
21枚もの「尚方作」鏡だから、
(個人ではなく)魏の工房で造られたものが元になっており、
明帝の下賜鏡でしか起こり得ず、
魏朝が採用しなかった三角縁神獣鏡は、明帝の下賜鏡に採用される、
という事は起こり得ず、
アルツ老人大和説学者の思考はわからんわ。 >>410
>パプアニューギニアは800以上の少数部族、言語に分かれている
パプアニューギニアにはおサルさんから感染したHTLV-1キャリアも九州西部南部と同じで多く<
何だいこりゃ?。
まるで、東テイ人が、パプアニューギニアの一部の渡来説のような話だな。
>パプアニューギニアを中心としたカーゴ・カルトは、
近代まで文明の利器を知らなかった現地人は西洋人が持ち込んできた工業製品に対して、
これは当地の先住民のために神が作ったものであり、
白人は神と特別な繋がりを持って不当にそれらを占有したのだ、と考えた
先住民を九州、神を中国、白人をヤマト王権に置き換えると 九州説の思考と一致する<
カーゴ・カルトは、出雲系銅鐸部族や東テイ人や毛人蝦夷が先住民で、
倭人を白人と置き換えると、ほぼ一致する事になる。 >>790
じゃあどういう事かみんなに説明してくれ >>422
>(三角縁神獣鏡)大半が邪馬台国である畿内で作っていただけの事だ。<
大和で、粗悪な副葬用の三角縁神獣鏡を造ったには、4世紀であり、
卑弥呼の頃ではない。 >>430
>西晋の裴秀(224-271年)が禹貢地域図を作っている
地図を作るに遵奉すべき原則として、縮尺の決定,方格の設定,直角三角形による距離測定,
高低の測定,直角・鋭角の計測 ,曲線・直線の計測の6つを挙げている <
成程。
しかし、その地図では、日本列島は載っていなかったんでしょうね。 >>431
>(年已長大)それ、合わなくても書けるだろう <
伝聞であれば、聞いた年齢を書けば済む事。
伝聞ではなく、実際に会ったから、「年已長大」という表現になった。 >>793
三角縁神獣鏡には景初3年(239年)と銘が入ってるぞ >>439
>だから不正確なんだろ? <
二組の魏使らが確認し、
陳寿も、彼らの「言葉で説明された地図」から、
「計其道里、當在會稽東治之東」という推定で九州を特定出来ていたから、
大体正確な「地図説明」。 >>792
Bであると推測されるからAと推測される
またAであると推測されるからBと推測される
倭人伝の東夷伝を読み実際の長さと照らし合わせて見ると1里が75〜100mで書かれている
当時の東夷伝では1里が75〜100mが使われていたと考えられる
全然循環論法になってないな。
短里は魏志倭人伝だけでなく三国史記でも一部使われてるよ。 >>797
始皇帝はそれを統一するよう定めた
度量衡の統一な
その後歴代の皇帝の仕事の一つとなった
>>799
魏志倭人伝、三国史記で短里が使われていた証拠
→魏志倭人伝、三国史記が短里で書かれてるから
循環論法 >>440
>長沙馬王堆第3号墳の時代に既に10里(1里=300歩、1歩=6尺)を1寸に縮小した18万分之1図が発見されてるから <
前漢代なら、始皇帝の「1歩=6尺」を使っていてもおかしくないな。
>西晋の裴秀(224-271年)のころまでには測量技術は進歩していたが
四夷まで測量はしていなかったということだな<
前漢からはるか後代の魏代の参考にはならんよ。
長沙馬王堆は前漢とは陸続きであるから、
歩測や記里車?での計測は可能であったんだろうが、
それは、「在帶方東南大海之中」の倭地には、当然通用しない訳で、
だから、魏使らは、一寸千里や簡易三角測量も知っていたから、測定出来た、
という事の証拠になるだろうな。 >>800
証拠は現代地図と整合的だからじゃないの >>800
>>>799
>魏志倭人伝、三国史記で短里が使われていた証拠
>→魏志倭人伝、三国史記が短里で書かれてるから
>循環論法
文意が通ってませんよw >>441
>地図が大陸でも辺境に行くほど不正確になってる という研究結果もある<
そんなことは、現代でも幾らでも起こり得る事。
要は、測定の必要や測定者の能力の問題。 >>801
簡易なものでも三角測量するなら距離が50m〜100mもバラバラにならん >>803
だから循環論法は成り立たないんだよ?
そういう話だよね? >>445
>会稽東冶之東だからね 南が東の間違いなのは明らかだしな <
会稽東治之東だからね 。
陳寿も、1里の距離も「南と東とを間違い」もしていない事は、
明らかだしな。 >>800
>その後歴代の皇帝の仕事の一つとなった
東夷だから、皇帝の威光が十分に行き届いていないんだよ。 >>806
三角測量なんてしないで、魏の使いが輿に揺られながら目測したり、所要時間から推定したんだろう。 短里があった証拠が短里で書かれたという書しかないなら
どこまで行っても循環から逃げられないのだ
1短里=300短歩=1800短尺で
魏志倭人伝は特別にこれを使って記す…とでも
書かれた文章でも見つからん限りな >>811
陳寿は短里で書かれた報告書を手にしていたが、それが短里であることには気がつかなかったんだろう。
ただ、疑問を感じたので日程を併記したのかもね。
なんだか変だなぁと。
そうしたら後世でつなげてしまった。 >>768
> この本は短里で書かれた可能性が高い
> だから短里は存在する
> なぜならこの本は短里で書かれた可能性が高いからというのは循環論法
「この本は短里で書かれた可能性が高い、だから短里は存在する」
「(だから)短里は存在する、 なぜならこの本は短里で書かれた可能性が高いから」
循環ではない。倒置法を使って同じことを2度繰り返しているだけ
「80〜100m程度の単位で記されている可能性が極めて高い」という推論が成り立つのは理解できる?
多くの人は推論に納得して、それを前提に邪馬台国を議論しているだけ。
文献と「現実の地理」をつき合わせて出した推論だからそもそも循環もしていない
なぜか循環論法に拘っているようだけど、そういう話でないことは理解できないかな >>809
記録残したのは魏の人間だから魏の単位使ってるだろうけどな 耳成山、凄い重要な気がする。
火山の山頂を埋めた古墳じゃないかと言われているが。隣の池との関係も気になる。
情報が全然ないんだよな。詳しい人いないかな。 >>816
書いている方(陳寿)はそう思っていたが、報告書を書いた帯方郡の役人はそうでは無かったんだろう。
もしくは役人を案内した中国語ができる倭人は。 >>814
>「80〜100m程度の単位で記されている可能性が極めて高い」という推論が成り立つのは理解できる?
>多くの人は推論に納得して、それを前提に邪馬台国を議論しているだけ。
>文献と「現実の地理」をつき合わせて出した推論だからそもそも循環もしていない
賛成! >>812
その証拠は?
魏志倭人伝が短里だからだと循環論法
>>813
古代史だからって論証に反していいって事にはならんだろう
>>814
なんで、魏志倭人伝に短里が使われていた証拠は
魏志倭人伝がそう書かれているからというのは
循環論法だから指摘してるだけなんだ
違うと言うなら1短里=300短里とか書かれてる文献を
普通の里はそれがあって証明されてるんだし >>818
そうだという証拠は?
短里はあったはずだから陳寿の見た報告書は短里のはずだった? 短里があったと証明したいなら
1短里=300短歩で基準尺は3cmのこういう物が見つかってて…と
それでしか証明する方法はない
何々という書の距離を計算したら1里が短里になったから
短里は存在したじゃ証明にはならんからな >>820
> なんで、魏志倭人伝に短里が使われていた証拠は
> 魏志倭人伝がそう書かれているからというのは
そんなことは言っていないよ。
「現実の地理」とつき合わせた推論だから循環もしていない >>471
「計其道里、當在會稽東治之東」と、行程に記された「里」の実態距離が、
どうしょもなく「ほぼ一致」することが証明されてるんだからな。
「南≠東」がである事も、確定的なんだよ。 >>823
魏志倭人伝に短里が使われていた証拠は
現代の地理に突き合わせて
魏志倭人伝の1里は75mの短里になったから短里で書かれている
全然違わないじゃないか
短里があると証明したいなら
短里で距離が書かれているという以外のもので証明しないと
いつまで経っても堂々めぐり >>482
>【レポート】箸墓古墳に行ってみた1/2 (稜樂會 小山田 宗治) ・・・
>邪馬台国、御所市説 <
御所説であれば、「南≠東」に拠って×であり、小山田もアホ。 大体今現在わざわざ長里、短里とか言って区別しなきゃ
ごっちゃになってわけがわからなくなる所から見ても
当時普通の里と短里が一緒に存在したわけがない事が見て取れる 日本の奈良時代で1里533m
戦国時代で1里約4km
さて、当時の一歩や一尺はどのくらいの長さだったでしょうか? >>825
「80〜100m程度の単位で記されている可能性が極めて高い」という推論が成り立つのは理解できる? 東夷の日本では記録が残る奈良時代以降は
1里=300歩=1800尺は成立していないのですね。 >>832
魏志倭人伝が書かれた魏では
1里=300歩=1800尺
1尺が24cm
1里400mだった事ははっきりしてるけどな >>830
1魏里=435mを否定はしませんが
1東夷里=70〜90mも否定はできないのですね。 >>827
>当時普通の里と短里が一緒に存在したわけがない事が見て取れる
地域によって違う。
今だって、米ドルとオーストラリアドルは違うだろ。 >>493
>九州説に日本語が不自然な奴が多いよな。
やっぱり朝鮮人は畿内説だと困るみたいだね。<
大和説者には、やっぱり、「朝鮮人差別の・・・・戦争キョクウ」が多いようだね。
こいつらは、いずれ、
竹島などでの殺人事件を引き起こして、国民を興奮させ、
天皇の名を使って戦争に強制して、朝鮮人全滅戦争に参戦させ、
自分等は、命令する側になって、栄耀栄華を貪ろう、とする、
キョクウの・・・・ケダモノ人種。
戦前のキョクウや軍閥と同じ。
それじゃ、当然双方全滅の核戦争にもなってしまう。 >>834
1魏里=400mとそれ以外の物証が見つかってないから
1里=80mは計測ミスったんだろって可能性を原理的に排除できない >>835
違う違う
1魏里=435mは証明できるけど
1東夷里=70〜90mは証明できない >>839
そろそろ自分が駄々をこねているだけだと気がつこうよ。 >>838
>>840
ほんなら1東夷里の体系が書かれた書と基準尺プリーズ
存在しないものを証拠にしてはいけない >>500
キョクウの人種差別的国粋皇国史観戦争狂の大和説男らは、
こんなふうに、根拠を言えないし、言えば国民にウソがばれてしまうから、
全く根拠を言わない。
ただ、口先でヘイトスピーチ街宣を、言い張るだけ。
だから九州説が亡んだ >>842
駄々も何もそうなるからそう言ってるだけなんだよ >>504
キョクウの戦争狂の「南→東」などの嘘つき騙しの大和説男らは、
それは、まったく理由を言わない不思議な・・・・たち。 九州説が循環論法に陥るのは
そもそも邪馬台国は九州にあったはずだって前提に立つからだ
なもんで全てが全て後付けの言い訳になる
畿内説は前方後円墳がたくさんあるな
三角縁神獣鏡が一杯い出るな
大和国と邪馬台国って似てるな
だから邪馬台国は畿内にあったのかもなと確かな物証から入る
そこが最大の違い >>839
> 1里=80mは計測ミスったんだろって可能性を原理的に排除できない
では、短里は無理に認める必要はないから、1里=80mで計測をミスした前提で議論を進めようか >>509
>律暦志に三国志などの「里」の瑣末な確認なんかする必要ないさ
国家公定の制度を記録してるだけだから<
律暦志は、
周髀算経の一寸千里の計測もせず、
魏の初代文帝の即位の詔書での「度量衡の統一」指示が、
始皇帝の「1歩=6尺」命令での混乱の是正指示であった事も判らず、
その後で魏の重臣たちが「周制への復古」を上表を次々と提出した、
という事も理解していないようなアホであったから、
アホ学者の書であった、という事になる。 倭人伝の里を実際の距離から換算し、推測すると、
九州の可能性が高いということだな
短里の存在の証明にはならんが、およその距離の推測はできるという事だ
魏は長里を使っていた?
倭人伝は長里で測った距離と実質距離と合う記述はあるのかい?
なければ長里で換算したらダメという事だよ それよりも芸能界というのがあるでしょ、
あのようなのは、どこの組の人間なんだ?
ググると出てこない? 例えば暴力団
▢▢組+芸能プロダクション
このようにググったりすると出てくるけど >>848
>だから邪馬台国は畿内にあったのかもなと確かな物証から入る
確かw
どこが? >>849
計測ミスの証拠は山ほどあるからな
まず1里400mと全く合致しない
魏志倭人伝の里数は百里、五百里とキリが良すぎ
インド方面も2倍の距離で書かれている
洛陽近くはそんなにズレがない
短里じゃなくて計測が正しくないと断言すらできる >>510
>中国の史書が一貫して倭国を九州北部だとした なんて証拠でもあるの?<
新唐書頃までの史書は、いずれも「倭國は倭奴國の後裔」であり、
「世與中國通」して来た国である事を記載し主張している。 >>855
じゃあ、ずれました。
東夷伝は全体に一里が85メートルくらいになる誤差がありました。
それでいいよ。 >>856
うーん、旧唐書までじゃないかな。
新唐書は日本書紀から引用して東遷説で書かれているから。 >>854
何と言おうとも
機内には3世紀の国内最大の前方後円墳があり
魏の景最という年号が刻まれた三角縁が大量にあり
これが邪馬台国と同じ読みのできる大和国に存在している
いずれも九州にはない >>858
そうよ僻地だから正確に距離が測れなかったんだよ
なもんで魏志倭人伝に出てくる距離は
邪馬台国を指すものとしては扱えない >>515]
>じゃ、魏晋短里説ってウソじゃないか! <
「魏西晋朝短里」だよ。
そして、その王朝が、周髀算経の一寸千里の示す1里距離の使用を、
公的や役人たちに推奨していたのか?の問題。 >>516
相変わらず根拠もなく言い張る、「南→東」などの嘘つき騙しの、
・・・・ケダモノ大和説w。 >>517
「南→東」などの嘘つき騙しの、
「結論ありき」ですかい?、
国粋皇国史観殺し合い戦争狂の・・・・ケダモノの大和説 男。 大体な
1里80mとしてもだな
帯方より1万2千里は北九州にならんのだぞ?
むしろ畿内を指すぐらいだ >>926
「南→東」などの嘘つき騙しの、国粋皇国史観の殺し合い戦争狂の、
キョクウの・・・・ケダモノの大和説男は、
俺は空飛ぶ円盤を見たんだぞー
みたいな話ばっかりだね。 はいはい九州説の勝手に勝利宣言な
言い負かされたらいつもそれが始まる >>527
「南→東」などの嘘つき騙しの、
国粋皇国史観の殺し合い戦争狂のキョクウの・・・・ケダモノの大和説男は、
証拠を出さない生活習慣にどっぷり漬かってるんだよ。
それが大和説の意見統一がとれない理由だってことも、まるで気づかない。 倭人伝の行程が魏の里であることを主張するなら
倭人伝の中の里が魏の里である場所を
示すとかすればいいのに。 >>535
支離滅裂な解釈しかしてないし、 自画自賛的なもので根拠が皆無。
まさに大和説男らのためにあるような言葉だ。
会稽東治を無理やり南に移動させて、建安郡の東冶にすり替える理屈とか・・・。 1里80mとすると1万2千里は960km
帯方(ソウル)〜福岡540km
帯方(ソウル)〜福岡〜奈良1180km
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