>>768
> この本は短里で書かれた可能性が高い
> だから短里は存在する
> なぜならこの本は短里で書かれた可能性が高いからというのは循環論法

「この本は短里で書かれた可能性が高い、だから短里は存在する」
「(だから)短里は存在する、 なぜならこの本は短里で書かれた可能性が高いから」

循環ではない。倒置法を使って同じことを2度繰り返しているだけ


「80〜100m程度の単位で記されている可能性が極めて高い」という推論が成り立つのは理解できる?
多くの人は推論に納得して、それを前提に邪馬台国を議論しているだけ。
文献と「現実の地理」をつき合わせて出した推論だからそもそも循環もしていない
なぜか循環論法に拘っているようだけど、そういう話でないことは理解できないかな