親魏派の「21国」の中に、「巴利(はり)國」があります。この国が播磨を指すことはほぼ確実でしょう。巴利国と狗奴国は瀬戸内海を挟んで対立していたわけです。

『播磨国風土記』には讃伎日子神が播磨の地元の神と争い、追い出された話が出て来ます。これは、巴利国と狗奴国との抗争の反映でしょう。

 ちなみに、ヤマトタケルの母親は播磨の稲日太郎姫です。

弥生時代後期の四国・瀬戸内地方を見てみると、四国から山陽地方にかけて「銅剣圏」が広がっており、その中でも分布が濃いのが讃岐です。

 一方、当時の九州は「銅矛・銅戈圏」ですが、四国南西部と淡路島にも「銅矛」と「銅戈」の分布が広がっています。

四国・瀬戸内地方の中で四国南西部と淡路島だけ、「例外」というか「九州寄り」なのです。

 ところが、古墳時代になると四国・瀬戸内地方の中心は讃岐から吉備・播磨に移っていきます。

邪馬台国の時代は弥生時代から古墳時代への過渡期ですので、『魏志』「倭人伝」や『播磨国風土記』には瀬戸内海の覇権が讃岐の狗奴国から吉備・播磨といった邪馬壱国側の諸国に移っていく様子を描写していたわけです。

 ちなみに、近畿地方では弥生時代の銅鐸圏は大阪のあたりが中心ですが、古墳時代になると大和が中心になります。