邪馬台国畿内説 Part325
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邪馬台国論の鉄板、畿内説のスレです。
【骨 子】
・3世紀中葉には、古墳時代が開始していた。
・出現期古墳段階で、近畿中央部を中心に列島規模の政治連合が形成され始めていた。
・北部九州博多湾岸地域は、既にこの政治連合の傘下にあった。
ゆえに、倭女王卑弥呼の都があったのは畿内である。
邪馬台国論争ももう畿内で決着なのでロマンはありませんが
勝者の貫録を見せつつ、更なる真実を探求しましょう。
前スレ
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1518294984/
◆0【 要 旨 】 ( >>2-12に各論、それ以下にFAQを付す )
纒向遺跡の発掘状況等から、ここには西日本の広域に影響力を持った宗教的指導者が君臨しており、それは各地の首長に共立され求心的に集約された権力基盤を持つ女性であったと考えられる。
その死亡時期は3世紀中葉とみられる。畿内に中国文化が急速に浸透する時期である。
これらを倭人伝の記事と対照すると、箸中山古墳の被葬者が倭人伝に記載ある曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、纒向が邪馬台国にあった倭女王の宮殿所在地であると同定できる。
2世紀の地球規模的寒冷化は、農業生産力を強化する社会的需要から指導的地位を占める析出集団の成長を強烈に促進し、弥生的青銅器祭祀を終息せしめ、高塚化した墳丘墓を現出させる。
換言すれば、弥生墳丘墓の巨大化が顕著な地域こそが、弥生社会に古墳時代へと向かう構造変化の著しい地域であり、3世紀に爆発的に広域化する萌芽期国家の中核である。自然環境変化に起因する社会構造変化が現象として纒向に凝集し結実したと言える。
倭人伝に記載された卑弥呼の活動期間に相当する庄内併行期は、畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入している時期であり、ことに那珂比恵地域への人口流入が急拡大していく。
博多湾貿易が対外交渉の主役に躍り出るこの時期には、西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易をする段階となっている。
絶域であった日本列島が中華社会と二国間の国交を再開した時期、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の倭国の中枢である。
倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
それは桜井市纒向以外にありえない。 >>115
>会稽東治之東だけでも畿内確定だろ
どこをどうしたらそうなるんだ。
畿内説の強引さには呆れたな。 >>114
後期も栄えているけど?
畿内説は嘘つきの集まりだな。 弥生中期までは北部九州の絹の出土が多く、その後激減するわけだね
弥生中期までの鉄器は中国東北部の鋳造鉄斧の破片を
磨製石器の製法で再利用している
中期までの絹も半島経由の持込品だろうね 九州北部は遠賀川流域の歴史が鍵だな。
飯塚、直方、etc。
飯塚はなぜ塚なのか?
いいとは何なのか?猪と関係あるのか?
九州説は、筑豊の歴史を語れよ。 住吉三神どうなったんだろう。
倭国大乱で殺されたのかな。 石筒之男、カグツチの血が岩に落ちて生まれる。
物部と関係あるのか? >>117
>後期も栄えているけど?
>畿内説は嘘つきの集まりだな。
伊都國では三雲南小路遺跡 中期後半〜中期末(前一世紀後半?)
井原鑓溝遺跡 後期中ごろ(一世紀終わりごろ)
奴国では 須玖岡本遺跡 中期後葉〜末(一世紀初めごろ)
この辺までは、王墓があるから栄えていると言えるが、奴国も伊都国も、このあと
「王墓が続かない」
井原井原鑓溝遺跡をもって、弥生時代「後期」というならそれでもいいが、卑弥呼の3世紀中ごろから見て1世紀半ほども昔だ
卑弥呼の頃には、王墓らしい王墓が作れない、繁栄の盛りを過ぎた地域なんだよ、北部九州は 三雲南小路遺跡、1世紀半ばに方形周溝墓が出現した意味は何なんだろう。 伊都国、畿内の勢力が博多湾に拠点を作ったのかな。
天孫降臨神話と関係あるのか。 本州では下戸遺伝子と短頭の分布はほぼ一致する。
九州南部鹿児島は、不思議なんだよね。
かなりの短頭地域なのに、下戸遺伝子は殆ど分布しない。縄文系の長頭でもないし。
隼人は本州とルーツの違う渡来人なのかもしれない。 >>116
短里みたいなモノは無く、南水行は東の間違いだとわかるから
九州説死亡でしょ? >>122
一番大事な女王墓である平原遺跡に触れない不思議 >>857
>倭で魏の里を使っていたという証拠は?<
隋書に拠れば、夷人は「里」を知らない筈だったが、
実際には、神功の筑紫での話と、不知火海の島の話に短里が使われていた、
というような話があった記憶がある。 久留米にも、牛鬼伝説があるんだな。
牛鬼を退治し、その耳を耳納山に埋めたとある。
牛鬼とミミ、どういう関係なんだろう。 奈良の耳成山。
久留米の牛鬼伝説と似たような謂れがあるのかな。。。 >>860
同じ事の繰り返しになるから、面倒だから張り付けておこう。
>畿内説は前方後円墳がたくさんあるな<
列島の最初は那珂八幡で、大和は3世紀末以後だ。
>三角縁神獣鏡が一杯い出るな <
これも、筑紫が列島の初元で、大和は4世紀以後だ。
>大和国と邪馬台国って似てるな<
邪馬壹國は邪馬台国ではない。
>だから邪馬台国は畿内にあったのかもなと確かな物証から入る そこが最大の違い <
だから、「南→東」などの嘘つき騙しをして、邪馬壹國は大和にあったかもな?、
というインチキをする。
それが、九州説との最大の違い。 >>135
ンなニセ情報いくら流しても
畿内説勝勢は覆せないって
w 中大兄皇子の歌
「香具山は 畝傍ををしと 耳梨と 相争ひき 神代より かくにあるらし 古(いにしへ)も 然(しか)にあれこそ うつせみも 妻をあらそふらしき」
原文「高山波雲根火雄男志等耳梨與相諍競伎神代従如此尓有良之古昔母然尓有許曽虚蝉毛嬬乎相挌良思吉」
ミミとは何なんだろう。
耳成山口神社。
天神社と呼ばれていたのに、祀られているのは高皇産霊と大山祇。
どういうことなんだろう。 >>862
>そうよ僻地だから正確に距離が測れなかったんだよ
なもんで魏志倭人伝に出てくる距離は
邪馬台国を指すものとしては扱えない <
魏使らは、有効数字1桁位の概数で記載しているから、
別に100%完璧なものでなくて、大体の距離として扱えばよい。 >>870
>大体な 1里80mとしてもだな 帯方より1万2千里は北九州にならんのだぞ?<
なる。
>むしろ畿内を指すぐらいだ<
大和は「南≠東」に拠って、始めから×。 >>874
はいはい、
大和説の勝手な勝利宣言な。
言い負かされたら、いつもそれが始まる。 邪馬台国はヤマト国、葛城山系以東の奈良盆地一帯です。邪馬台は単なる地名です。ヤマトの地が卑弥呼を共立した勢力に征伐され、都が置かれました。
纒向の外来系土器、円形周溝墓などがその証です。殉葬などそれ以前になかった風習が持ち込まれたことも、新しい別の勢力がヤマトの地を支配した傍証になります。
女王国、大和朝廷を作ったのは、出雲など山陰の勢力、尾張、阿波、宮崎や遠賀川の石神など縄文系の勢力。
大阪や奈良など畿内の勢力はこれらの勢力に征伐されました。
倭国大乱の元凶。
火神、カグツチ、ホアカリ、火産霊、国常立神(天香久山の山頂に祀られている神、尾張一宮の本来の主祭神、天岩戸の向こう側、鬼門に封じられた神)、オオナムチ、飛騨の顔が二つ胴が一つの怪物、牛鬼、
阿波咋、
宮崎の石神、イワレ、岩割、
遠賀川の石神、石筒之男、
彼らが畿内や九州北部を征伐して、出来たのが女王国、それに連なる大和朝廷。
四道将軍で関東東北を征伐したのも彼らです。 >>130
どう違う?
弥生後期の九州北部の繁栄の象徴だよ。 >>877
>倭人伝の行程が魏の里であることを主張するなら
倭人伝の中の里が魏の里である場所を 示すとかすればいいのに。<
おやおや?、もう何度も何度も書かれた方がおられたのに、
読んでいなかったの?。 >>141
どこかで畿内説が言い負かされた事実がありませーん
創作はダメよ >>148
卑弥呼が死んだのは三世紀半ば
平原1号は二世紀末の墓 邪馬台国の官も大和朝廷の官と一致するし、邪馬台国はヤマト国の可能性が高い。
官は伊支馬有り。次は弥馬升と曰う。次は弥馬獲支と曰う。次は奴佳鞮。
伊支馬は生駒。生馬。火の神。
弥馬升は三見宿禰、出雲醜大臣の子。
弥馬獲支はミミ鷲、日鷲。
奴佳鞮は中臣。
出雲地方には生馬神が祀られているんだな。
生馬神社境内には「牛荒神の大木」と呼ばれる木があり木に藁が巻き付けられている。
出雲風土記かな、生馬神の子は、もう荒ぶらないと言ったとか。
ヤマトの地名と出雲の集落名、共通点が多い。 鳥取県の上石見に伝わる伝承。
牛鬼伝説の中でも、一番古いものじゃないかな。
孝霊天皇が牛鬼を討つ話。
上の岩を見よと言って牛鬼を倒す。
ここでは、牛鬼は石に倒されるんだな。
次に神功皇后。
瀬戸内海で神功皇后が住吉明神と、頭が八つで牛の姿をした塵輪鬼を討つ話。敗れた牛鬼に似た塵輪鬼はバラバラになり、島々になるとある。八雷神と似ている。
その後は西日本各地で様々な時代の牛鬼伝説。
共通しているのは、
◎牛鬼は海や水辺に現れる。
◎牛鬼は磯女と一緒に現れる。
◎牛鬼の子供は石である。
同じようなこととして、牛鬼に「石は流れる、葉は沈む」などあべこべなことを言うと助かる。
◎また火に関するものもある。
◎牛鬼は老いた椿という言い伝え。古い海神ということか。
見えてくるストーリー。
牛鬼(古い海神)は孝霊天皇の時代に石にやられた。
海神の姫達は、石の子を産むようになった。
神功皇后の時代に、瀬戸内海の牛鬼に似た塵輪鬼が倒され海賊になった。
古い海神と言えば、BC1000年頃に渡来し稲作を広めた勢力、ヤマツミとワダツミ系かな。
古事記では、
事代主〜オオタタネコの子がタケミカヅチ。
石がかつては仲間だった牛鬼、古い海神を乗っ取るのに関係しているのかもしれない。 >>880
>1里80mとすると1万2千里は960km
帯方(ソウル)〜福岡540km <
「邪馬壹國女王之所都」までの行程は、直線ではなく、折れ線的道のり距離記載であり、
直線距離よりも2〜3割多くなる。
また、帯方は、ソウルよりも50km〜100km位北の筈。
また、行程記載では、不彌國で萬二千里がほぼ使い切っているので、
邪馬壹國女王之所都は不彌國のすぐ南にある事になる。
>帯方(ソウル)〜福岡〜奈良1180km ほらな <
帯方(ソウル)〜福岡が960kmであれば、福岡〜奈良は220kmになる事になるが、
山陽本線部分だけでも500km以上あるんだから
帯方(ソウル)〜福岡〜奈良1180kmは、全く合わない。
という事は、この男も、ウソをついている事になる。 >>128
>一番大事な女王墓である平原遺跡に触れない不思議
平原1号墓は、漢鏡40面出土の王墓とかいうフレコミwだけど、
実際には舶載鏡は、漢鏡5期の「雲雷文長宜子孫銘内行花文鏡」と漢鏡3期の「四螭二朱雀龍虎鏡」の2面のみ
大量(32面)の方格規矩鏡も含め残りは仿製鏡
舶載鏡1,2面程度を埋納した墳墓はたくさんあるし、舶載鏡はその鏡種からして後漢代の朝貢時にもたらされたものだろう
卑弥呼の墓にあてるのはムリだよ
また、弥生末期は各地でただ一人の首長のための大型墳丘墓が各地で作られる時代に入っている
吉備の楯築墳丘墓は二つの方形突出部を入れて墳丘長72メートル、
出雲の西谷9号墓は四隅突出墓でその突出部まで入れるとおよそ60×50メートル、
丹波の赤坂今井墳丘墓は東西36m、南北39m、高さ3.5mの墳丘部に加え四方に5〜9mの平坦部がつく
畿内の纒向石塚古墳で全長96メートル、東田大塚古墳で墳丘長120メートルある
平原1号墓の墳丘サイズ14×12メートルというのは王墓だとしても、有力国の王墓としては、どうしても見劣りする
ということで、九州説(伊都国が卑弥呼の都説)が大事に大事に思う平原1号墓は、それほど大した遺跡ではない >>154
報告書にはその様な詳細年代は書かれてないはずだが? 萬二千里は、淮南子以来の大陸世界での概念的な「地の果てまでの距離」を記しただけだから、それを典拠にするのもむなしいだけだぞ
淮南子: 時則訓
東方之極,自碣石山過朝鮮,貫大人之國,東至日出之次,木之地,青土樹木之野,太r、句芒之所司者,萬二千里。
まあ、九州説はこの数値+短里という捏造だけが頼りだから、認められないんだろうけどww 短里で記されているところがいくらでもあると、九州説の人はよく言いますが現実と合わない数値が記されていることが分かる「だけ」です
九州に上陸後の比定地でほぼ異論がないのは
末慮国(松浦)
伊都国(糸島)
奴国(福岡平野)
くらいですが、それぞれを代表的な王墓遺跡の位置を基準に直線距離で計ると
末慮(宇木汲田遺跡)−伊都(三雲南小路遺跡)間 26キロ
伊都(三雲南小路遺跡)ー奴国(須玖岡本遺跡)間 20キロ
になります
これが、それぞれ魏志倭人伝では五百里と百里なので
末慮−伊都間 26キロ/五百里 一里=52メートル
伊都ー奴国間 20キロ/百里 一里=200メートル
となって、4倍程度違ってしまいます
「短里」という魏晋里を一定の割合で縮めた「きちんとした尺度」があると考えるのは無理で、
里程はあてにならないとするしかありません >>157
弥生終末(西新式直前)とあるから、あとは通説の実年代を当てるだけ >>156
三角とは違って平原の鏡は舶載鏡と国産の扱い方の重要度は変わらないよ?
糸島は鏡の種類に拘りはある地域で、
平原鏡は三雲井原の王墓から受け継いでいるね
重要度はやはり最大の内行花文鏡が一番だろう
君の話ではまず、国産鏡より舶載鏡を重要視した、とする事実がなければならない
ちなみに国産の大型内行花文鏡は、後の時代に畿内で別室まで設けかなり大事に副葬されてたりするね >>886
>示すから文句つけるなよ 邪馬台国まで帯方郡から1万2千里
魏志倭人伝の里数書かれてる不弥国まで1万700里で 残り1300里<
方四百余里の對海國と、方三百里の一大國の、
国内見聞移動をした事が抜けているから、×。
>不弥国を博多近辺として奈良まで640km
1300里が1里400mとすると520km <
大和は「南≠東」に拠って、×。
>不弥国から1300里を1里400mで換算すると
畿内になるからそこからは1里400mが使われている<
魏使らは(精神的な異常者ではなく)普通の人間だから、途中まで1里80mで書いて、
不彌國から後を1里400mで書く、というような・・・・アホな事をしないから、×。 >>135
>「南→東」などの嘘つき騙しをして
九州説のブランドフレーズですね!
方角が間違うはずがないと、判で押したように九州説の人は言いますが、魏志倭人伝で九州に上陸してすぐの
末盧國から伊都國の行程が、実際には北東なのに東南陸行と、この時点で90度間違っています
また隋書では、大和までの行程はきちんと東と書いてありますが、対馬から壱岐が、
都斯麻國迥在大海中 又東至一支國 と、本来南でなければならないのが東となっています
おそらく、隋書の編纂時に魏志倭人伝も確認して、東に行くべきところが南と書いてあるのを見て、
魏志倭人伝の地理観が90度間違っていると判断して全体を90度回したために
正しかった対馬ー壱岐間が連動して回ってしまったのでしょう
つまり、史書編纂時の撰者の地理観に従って、以前の記録は修正され得ることになります
そう考えると、魏志倭人伝の地理観では、倭国は「當在會稽、東冶之東」と考えられていたので
報告書の東がその地理観に合わせるために南に変更されるのも、当然にあり得ることになります
なら、畿内説で何も問題はないですね >>162
その西新式直前と特定する根拠は何だい?
1号墓の時期は周溝から出た土器から弥生時代後期後半、西新式直前の段階ではないか、という推論しか書いてないし、かなり撹拌が酷かったから、特定できるほどの土器の数は出てないよ。おまけに土器の実測図も公表されていない。
厳密には1号墓の時期は公表してませんよ
弥生終末期 >>163
>重要度はやはり最大の内行花文鏡が一番だろう
当時の各地の首長墓と比べて、非常に貧弱なことにはコメントはないのですか?
副葬品についても、例えば丹波の大風呂南一号墓では一つの墳墓からは最多の11本の鉄剣が出ています
大事なはずの大型内行花文鏡も破砕供献されてますよね?
葬送儀礼用の鏡というだけではないですか? 官位、冠位?
各家の系図などがあるでしょ
嘘のモノ、捏造だという話は? >>164
>不彌國から後を1里400mで書く、というような・・・・アホな事をしないから、×。
不彌國から先の部分に里程を書いた所は魏志倭人伝にはないですよ?
何を見てコメントしているのですか?
話が噛み合わない訳ですね(ヤレヤレ) >>888
「南→東」などの嘘つき騙しの大和説が、
本を売って金を設けて立身出世るために考え出した長里というのは、
始皇帝が制定強制した「1歩=6尺」という換算規定を金科玉条にして、
永遠の規定であるかのように信仰したものであり
魏の初代文帝が、即位の詔書で、始皇帝のために混乱を呈した度量衡の統一を指示し、
周制の1歩≒1尺に戻したもの。
>糸島は後漢代の各種楽浪土器が出るところなので
後漢の公里のほうが一部の層には伝わってた可能性はある<
遼東や高句麗や扶余や韓に関する里数は、短里で書かれており、
それは当然楽浪や帯方の郡役人が記録したものであることになり、
だから、魏の短里の方が、倭人上層部に伝わっていた可能性はある。 >>898]
>いや計算は合ってますけど 帯方から邪馬台国まで1万2千里<
それ、折れ線的道のり距離であり、短里。
>不弥国まで1万700里で<
不彌國で萬二千余里は、ほぼ使い切って、残っていないから、
邪馬壹國女王之所都まで残り約0里。
>1300里を1里400mで計算すると520km
北九州から奈良まで直線距離500kmちょい <
神戸〜文字の山陽本線だけでも530〜540km。
>なんで1300里の部分は1里400mが使われてるとすると
畿内をピタリと指すのでここは1里400mになってるのではないかと<
南≠東だから、×。
また途中で、短里から長里に変更する事も・・・・しかしないから、×。 >>149
弥生後期の繁栄を議論するなら、平原遺跡は適切だと思うけど?
なぜ抜かしたの? >>902
>つうわけで魏志倭人伝の距離ああだこうだ言うのはもうやめような
何の意味もない事がもうわかるだろ <
何で止めるの?。
せっかく大和説の・・・・性を、世間の人々に示す事が出来る、
と喜んでいたのに・・・。 何でこの人前スレへの反論を延々と書いてて、直前に自説を完全に否定しているコメントがあるのを無視してるんだろう? >>156
>舶載鏡1,2面程度を埋納した墳墓はたくさんあるし、舶載鏡はその鏡種からして後漢代の朝貢時にもたらされたものだろう
倭王としての正統性が見て取れますね。 >>167
>当時の各地の首長墓と比べて、非常に貧弱なことにはコメントはないのですか?
首長墓と比べても意味ないな。
>大事なはずの大型内行花文鏡も破砕供献されてますよね?
>葬送儀礼用の鏡というだけではないですか?
破鏡という儀式だよ。
大事な鏡を大量に不可逆的な方法で備えたのだから、平原遺跡の被葬者が極めて重要な人物であったことがうかがえる。 >>174
畿内説が何度も同じことを蒸し返すからだよ。 >>908
本気で大和説信じてる人には悪いが、
大和説学者も、1万2千里を1里435mで換算すれば、赤道付近へ行ってしまう事になるって
わかってたんだろうに。
「南≠東」だし。
都合が悪いから黙ってたんだろうな。 >>914
いーえ。
邪馬台国なんて、史料に存在しません。 >>172
>弥生後期の繁栄を議論するなら、平原遺跡は適切だと思うけど?
100年以上も前の三雲南小路遺跡でも30メートル四方の立派な方形墳丘墓
奴国の須玖岡本遺跡D地点の王墓も、同程度の規模と推測されている
同じ地域のかつての王墓と比べても、平原1号墓墳丘の貧弱さは明らかだろう?
弥生後期の「繁栄の程度」を議論するのに平原1号墓を出すとしても、その結果は
以前の「繁栄が失われた」ってことになるね
>なぜ抜かしたの?
入れても話が変わらないし、平原1号墓の編年推定の基盤が脆弱だから議論が発散しがちになるからだよ
実際>>166とかで、そっちに議論が流れてしまっているだろ? >>917
>直線距離ではないよ。
朝鮮半島の西岸と南岸を航行するから、もう少し道のりは長いよ。
800キロくらいにはなるんじゃないな<
「歴韓國乍南乍東」は、韓國陸行です。 平原遺跡を貧弱と表現するのは無理筋だと思うよ。
畿内説が平原遺跡と真正面に取り組まないで逃げている限り、世間は畿内説側が嘘をついていると思うだろう。 >>167
平原の時期までこの辺りの地域は大型化にあまり拘りは見えません
弥生後期は各地に勢力が点在していたと思われる時代です
丹波地域と糸島地域の墓との比較に意味があるのでしょうか?
お互いそれなりの勢力があり、王もいたと思いますよ
墓の様相は各地で文化が違うので、比較に意味が無いと思われます
水銀朱や鏡、素環頭大刀、玉類の副葬文化の北部九州とは同文化圏とは思えません
ただ、北部九州内では鏡の重要度はかなり高いです
平原で出土した"素環頭大刀"は中国でも使用されたいた刀であり、水銀朱は中国産で、ジトウや鏡についても分かる様にに当然ながら、中国との関連が伺えます
瑪瑙の管玉も半島産と思われるので、かなり大陸かぶれな女王です
平原が注目されるのは、卑弥呼とイメージが重なる部分が多い事が一番の理由でしょうね >>177
>大事な鏡を大量に不可逆的な方法で備えたのだから
いや、国産の仿製鏡なんだから、作ろうと思えばいくらでも作れるだろう?
実際、大型内向花文鏡を6枚使ってるんだし(同じ大きさでないのは知ってるよ)
自分のところで作れるのは、そこまで大事じゃないだろう
奴国と唐子鍵に、九州と畿内の青銅器生産の中心があったことが、鋳型の出土から
分かっている
で、平原1号墓より前(編年が確実ではないけれど)に、畿内では高さ1メートルを超える
銅鐸を作っていたんだから、大型の青銅器の製作は国内で普通にできる
逆に言うと、平原1号墓は大型内向花文鏡以外、誇るべきものがないのかな? >>937
>史料事実とは1里=400mのことだよ <
史料事実とは、文献の場合は、原則として「書かれた文そのもの」のことだよ。 >>943
>律暦志と正始弩尺の史料事実は1里400mだって<
何?。
律暦志に「1里400m」と書かれているって?。
現代人の文献なのか?。」 >>184
>水銀朱は中国産で
北部九州では弥生期に国産の朱は使われていません
魏志倭人伝に「其山有丹」と書かれていることと整合性が取れませんが、そのあたりは九州説ではどう処理しているのですか?
>墓の様相は各地で文化が違うので、比較に意味が無いと思われます
>>181でも書きましたが、「同じ地域の伊都国と奴国」でも以前は大きな墳丘を持つ王墓を作っていました
そして、伊都国では古墳時代に入ると三雲遺跡の領域内=伊都国の王墓の伝統的な立地に端山古墳、築山古墳と、
伊都国王の後裔と考えられる豪族の首長墓が作られています
同じ地域で、前と後の時代には大きな墓を作っているのに、それと比べても平原1号墓は相当に見劣りします
そして、三雲南小路遺跡、端山古墳、築山古墳が、同じ地域に作られているのに対し、
平原1号墓は伊都国内とは言っても少し離れた西側の丘陵地帯に作られていて、しかも尾根よりも西側、伊都国中枢部が見えない位置に立地しています
その点も、伊都国の王墓とするのが躊躇われる理由になっています >>183
>畿内説が平原遺跡と真正面に取り組まないで逃げている限り、世間は畿内説側が嘘をついていると思うだろう。
真正面から取り上げてるだろ?
たぶん私は(畿内説だけど)>>183より平原1号墓については詳しいよ
例えば平原遺跡に5号墓まであるのは、把握しているのかな?
していたら、1号墓をつけずに平原遺跡と言い続けたりはしないと思うけどww
西新式直前という根拠になった土器は、2号墓の周溝から出土したものだよ >>189に追記
そして、平原1号墓だけが王墓扱いされているけれど、墳丘サイズは2号墓とほぼ同じで間の周溝を共有している状態
平原遺跡という視点で見ると、「1号墓だけが王墓」という突出した墳墓には見えない >>62
「長里だけだ」とかは、
ごく少数の現代日本人の、人種差別殺し合い戦争狂の国粋皇国史観の、
キョクウの・・・・大和説者だけが抱く妄想でしょ。 >>62
「長里だけだ」とかは、
ごく少数の現代日本人の、人種差別殺し合い戦争狂の国粋皇国史観の、
キョクウの・・・・大和説者だけが抱く妄想でしょ。 >>190に追記
ここの九州説(伊都国が卑弥呼の都説)の人は、平原1号墓の周溝の土坑墓を殉葬だって言わないのかな? >>75
>それぞれを代表的な王墓遺跡の位置を基準に直線距離で計ると
末慮(宇木汲田遺跡)−伊都(三雲南小路遺跡)間 26キロ
伊都(三雲南小路遺跡)ー奴国(須玖岡本遺跡)間 20キロ になります <
・・・・アホの詐欺師ですか?。
「王墓」の位置は、それぞれの国の位置とは関係がないし、
特に奴國は、須玖岡本ではありません。
>これが、それぞれ魏志倭人伝では五百里と百里なので
末慮−伊都間 26キロ/五百里 一里=52メートル
伊都ー奴国間 20キロ/百里 一里=200メートル
となって、4倍程度違ってしまいます<
末盧國の上陸地は唐津港付近であり、
伊都国は、前原周辺であり、
奴國は、入口の三雲や平原付近から、日向峠を越えて、吉竹高木の早良平野付近。
それで、計算をやり直してみな。
>「短里」という魏晋里を一定の割合で縮めた「きちんとした尺度」があると考えるのは無理で、
里程はあてにならないとするしかありません <
各国の都や近縁外縁部ではなくて、
自分で勝手に「各国の王墓」までの距離に設定して距離計算をするのは、
インチキそのものです。 >>182
>「歴韓國乍南乍東」は、韓國陸行です。
魏志倭人伝より引用
「循海岸「水行」、歴韓國、乍南乍東、到其北岸狗邪韓國」
頭おかしいんじゃないの? >>194
>「王墓」の位置は、それぞれの国の位置とは関係がないし、
>特に奴國は、須玖岡本ではありません。
三雲南小路遺跡の王墓は、三雲遺跡群の中にあって、ここが伊都国の中枢ですよ?
須玖岡本遺跡も、岡本遺跡群の中にあって、青銅器製作工房跡もある奴国の中心地です
違うというなら、どこ七日具体的な地名を「根拠」とともに挙げて、反論してみてください
印象操作の域を出ていませんよ!
反論する気なら、やり直しです!! >>76
>最近の九州説のトレンド(笑)は、「伊都国が邪馬台国だ」なんだねww <
違うね。
邪馬壹國女王之所都は、不彌國のすぐ南だ。
>魏志倭人伝の記述から邪馬台国の位置を求めようという努力は放棄したらしいww<
大和説の・・・・男らは、「南→東」などの嘘つき騙しと同じように、
また、九州説者の言っている事を、曲解捏造して、
その捏造でヘイトスピーチ街宣をするらしい。 >>194
>末盧國の上陸地は唐津港付近であり、
上陸地は、国の位置を示す代表的な地点にはならないでしょう
横浜から東京に行くときに、多摩川を渡ったところまでの距離を書くのですか?
>>196でも書きましたが、弥生時代の王墓は中心集落内またはその隣接地に作られます
王墓をその国の代表点に取るのが妥当だと思いますが? >>194
>奴國は、入口の三雲や平原付近から、日向峠を越えて、吉竹高木の早良平野付近
吉武高木遺跡は、最初期の王墓と言われることもある遺跡だけれど、それは仮称「早良国」の王墓であって
奴国の王墓ではないよ
水系が違うからね
のちに奴国に合流(併合?征服?)されて、奴国の領域になるけれど、ある国まで行くときの旅程を
国境を越えたところまでとはしないだろう?
>>198にも書いたけれど
横浜から東京に行くときに、多摩川を渡ったところまでの距離を書いたりしないだろう?
東京なら日本橋までだし、普通は県庁所在地(市役所等中心地)までだ >>190
副葬品を抜きに平原を語っている、典型的な詐欺師の手法 都合の悪い数値にならないように恣意的な地点を選んでいる>>194の方が、ごまかしなんだよ >>90
追い詰められた大和説男らが、
夢中で荒らしやヘイトスピーチ街宣をしたり、
「南→東」などのウソを言い張ったりで、
大変だな。 >>200
もう一度書くけれど、>>200よりも私の方が平原1号墓について詳しいよ?
>副葬品を抜きに平原を語っている、典型的な詐欺師の手法
副葬品について書くことで、私を論破できるなら「根拠」を挙げて論証すればいいんだよ?ww
「詐欺師」なんていう汚い言葉で印象操作に逃げてないでさ
例えば、耳飾といわれている金層ガラスについて論じたりはしないのかい? >>202
根拠も出さずに「典型的な詐欺師」とか言ってるあたり、十分に馬鹿に見えるんだけどなww 専門家に質問があるんだけど
『松傾』というのは、
どのような人物なの?
陰陽師?八卦の陣のような人物? >>197
>邪馬壹國女王之所都は、不彌國のすぐ南だ。
九州説の頼みの綱の、「総旅程萬二千里」からすると、不彌國から千三百里のはずなんだが、すぐ南でいいのかい?
それに、>>194理論だと、国境を越えたところまでで距離を測るらしいから、すぐ南なら距離は0になるよね? >>166
結局、公式の調査報告書を否定しないと九州説はニッチもサッチも行かないわけだな。 >>93
>>列島の最初は那珂八幡で、大和は3世紀末以後だ。<
>ではなぜ、その最初の那珂八幡古墳が、正確に箸中山古墳の三分の一の相似形なんでしょうね?<
箸墓が、那珂八幡を模倣したんだから。
>そして、その那珂八幡古墳の母集落である恵・那珂遺跡群では
畿内様式土器の九州での生産拠点になっていた様子が伺えるのはなぜなんでしょうね?<
田舎の播磨や河内や大和が、都の弥生銀座に憧れて、都の「市」へ、
土器を搬入上納したから。
丁度、
「纏向に東海などの西日本の物資が集まったから、纏向が西日本の盟主だった」
と主張したのと同じ論理。
>古墳時代の前から、畿内様式甕を作っていた遺跡が
畿内から独立した存在というのは「すごく不思議」ですよね?<
「畿内から独立」したのではなく、
播磨や河内や纏向が、都の弥生銀座に憧れて、搬入貢納をした事になる。 松傾について調べてみると
半島人ではないぞ、違う民族だぞw
という話ばかり >>94
>畿内系の入植地ってことでしょ<
入植したのではなく、首都へ搬入上納したの。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています