邪馬台国畿内説 Part325
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邪馬台国論の鉄板、畿内説のスレです。
【骨 子】
・3世紀中葉には、古墳時代が開始していた。
・出現期古墳段階で、近畿中央部を中心に列島規模の政治連合が形成され始めていた。
・北部九州博多湾岸地域は、既にこの政治連合の傘下にあった。
ゆえに、倭女王卑弥呼の都があったのは畿内である。
邪馬台国論争ももう畿内で決着なのでロマンはありませんが
勝者の貫録を見せつつ、更なる真実を探求しましょう。
前スレ
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1518294984/
◆0【 要 旨 】 ( >>2-12に各論、それ以下にFAQを付す )
纒向遺跡の発掘状況等から、ここには西日本の広域に影響力を持った宗教的指導者が君臨しており、それは各地の首長に共立され求心的に集約された権力基盤を持つ女性であったと考えられる。
その死亡時期は3世紀中葉とみられる。畿内に中国文化が急速に浸透する時期である。
これらを倭人伝の記事と対照すると、箸中山古墳の被葬者が倭人伝に記載ある曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、纒向が邪馬台国にあった倭女王の宮殿所在地であると同定できる。
2世紀の地球規模的寒冷化は、農業生産力を強化する社会的需要から指導的地位を占める析出集団の成長を強烈に促進し、弥生的青銅器祭祀を終息せしめ、高塚化した墳丘墓を現出させる。
換言すれば、弥生墳丘墓の巨大化が顕著な地域こそが、弥生社会に古墳時代へと向かう構造変化の著しい地域であり、3世紀に爆発的に広域化する萌芽期国家の中核である。自然環境変化に起因する社会構造変化が現象として纒向に凝集し結実したと言える。
倭人伝に記載された卑弥呼の活動期間に相当する庄内併行期は、畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入している時期であり、ことに那珂比恵地域への人口流入が急拡大していく。
博多湾貿易が対外交渉の主役に躍り出るこの時期には、西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易をする段階となっている。
絶域であった日本列島が中華社会と二国間の国交を再開した時期、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の倭国の中枢である。
倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
それは桜井市纒向以外にありえない。 >>224
>言ってますよ。
>だからこそ、平原遺跡は卑弥呼の墓として完璧なんです。
それを言ってしまうと、平原1号墓のことが分かっていないことが丸わかりですよ
土坑墓は、周溝が埋まってからその埋まった土を掘って土坑を作っています
1号墓本体の被葬者と周溝の土坑墓の被葬者の死亡時期には、周溝が埋まるほどの時間差があるんですよ
それは殉葬とは言わないでしょう
陪葬とは言えるかもしれませんが
日本語が分かる人ならこの違いは分かりますよね? >>235
勘違いしてる人が多いけど、那珂八幡の三角鏡は第二主体から出土しているのだよ
古墳造営当初の埋葬主体と思われる第一主体は未調査
社殿があり発掘できない状態 >>248
>山に丹が有るだけで、「出」ではないから文献通り
>倭人伝では「有」と「出」を使いわけてるからね
よそでも同じようなことを書いている人がいましたが、九州の辰砂の鉱脈は飛鳥時代になってから畿内豪族によって「発見」されています
弥生時代の九州には丹(水銀朱・鉱石としては辰砂)が「ない」んですよ
産出しないものを「有」と書かれることはないでしょ?
存在すら未発見なのですし >>247
>それならば、魏使も畿内の人に会い、畿内の纒向遺跡の情報も得ていたことは認めますね?
は?
魏の使いが何でわざわざ田舎者と会うんだ?
言葉だって通じないだろ。 >>240
筑紫伊都の勢力がどの時代に畿内に移動したのかは大問題ですね。 >>251
では第一主体と第二主体で埋葬時期にどれほどの時間差を想定するのですか?
畿内の島の山古墳は後円部と前方部にそれぞれ同大の方形壇がありますが、一体の埋葬施設という扱いですよ >>253
>魏の使いが何でわざわざ田舎者と会うんだ?
「田舎者」というのは>>253の単なる主観ですね
伊都国が10メートルそこそこの墓しか作れない時代に100メートル級の巨大墳丘墓を作っている大勢力ですよ? 九州北部と畿内は親戚みたいなもの。
仲良く行こう。
敵は尾張出雲山陰にありだ。 九州説の人は「親魏倭王」を甘く考えすぎ
使訳通じるところの30ヶ国から異議が出ないところでなければ、魏朝から「親魏倭王」の除正はない
華夷秩序というのは、中華の王朝に対して蛮夷が朝貢し、それに対してそのトップを王なり侯なりに除正し、配下に率善中郎將などの位階を与え、朝貢の品の何倍もの下賜品を与えることで、王朝の権威を示すというシステム
ここで、トップの王なり侯なりへの除正を間違うことが、王朝ひいては皇帝の権威に一番傷を付けることになる
だから、文句が出そうであれば除正の範囲を値切るし、答礼使を派遣して確認することになる
実際倭の五王の遣使の時には、上表文で求めた半島についての称号を外されているだろ?
畿内の人間が奴国や伊都国に来ていることを認めるなら、大都市纒向の情報は魏使の耳に入るし、それより小さな首長墓しか作れない伊都国王は「倭王」にはなれないよ >>256
同じとする根拠も無いだろ?
那珂八幡の件は土器専門の久住さんの説だよ
最近はかなり認められてきているから調べてみ >>194
>吉竹高木の早良平野付近。
吉武高木遺跡を奴国にするのはいいけどさ、不彌國はどこに置くんだい?
>>194の唱える「短里説」wwでは、1短里が70メートルくらいなんだろ?
奴国ー不彌國間が100里だから、吉武高木遺跡から7キロくらいだろ?
でも、吉武高木遺跡と須玖岡本遺跡間が12キロ以上あるぞ
須玖岡本遺跡も奴国の中だよな?
不彌國ってのは奴国の内側にあるのか?ww
どうやっても「短里≒70メートル」なんてのは、無理なんだよ >>259
悪いが、巻向はホケノ以前は「鉄」もない、銅製品も銅鐸の欠片しかみつからない
本当に申し訳ないが「大都市」とは言えない
時代が新しくなっても北部九州の土器が僅かしか出ない事も致命的 >>260
同じじゃなくてもいいけどさ、編年上いつ頃を想定するんだ?
出ている三角縁神獣鏡は椿井大塚山古墳出土鏡の同笵鏡だから、本当の出現期ではないぞ
「大和の発生期・出現期の前方後円墳と比べ規模は格段の差がある」とWikipediaその他に書かれているような古墳が箸中山の手本だったというのは無理があるだろう? >>255
つか、移動なんてありうるのか??
って話 その八幡というのは何のことなんだ?
菅野神社の話? 菅野神社(不明)は五世紀の人物ではない、
もっと前の年代
同じような名称や
呼称でも系統が違うのかな 本当のモモタロウ?
が何やらと言っている人がいたり、埴輪とか >>264
北部九州との交流が乏しかったという事
北部九州と畿内勢力と取引はあったが、相手は残念ながら「巻向」ではない
北部九州の庄内土器の多くは大和型ではないのだよ
北部九州を無視して倭人伝は語れないし
ホケノからは内行花文鏡の欠片が出土するので、出雲や吉備経由で間接的に影響はあったかもな >>262
>巻向はホケノ以前は「鉄」もない
九州説の人はすぐ「鉄がー」って言うねぇ
2015年から淡路島の舟木遺跡の発掘調査が行われていて、弥生終末期の鉄工房遺跡としては最大級のものだと確認されていたりしている
2016年には滋賀県彦根市の稲部遺跡でも鉄器工房群が出ているし、畿内に鉄製品を供給するには十分な規模だと思う
例えば1世紀の稲作遺跡として知られる静岡県の登呂遺跡からは鉄製品は出土していないけれど、鉄の刃先を付けて使う鍬の木の部分が出土していて、登呂遺跡で鉄を使っていたことを疑う人はいない
1世紀の静岡でも普通に鉄を使っていたのに、3世紀の畿内に鉄がないってどうして思うんだかそっちの方が不思議
さらに、鉄の供給が潤沢になると稲の収穫用の石庖丁が消えるんだが、石庖丁が使われなくなるのは北部九州より畿内の方が早い
九州説の人が九州の方が鉄が多いって言うのの根拠は、「甕棺墓から出る鉄鏃」だけなんだよ
そして甕棺墓が廃れたあとになると、九州でも鉄鏃はほとんど出なくなる
纒向遺跡は交易用の運河と見られる纒向大溝から建設が始まっていることからも、「計画都市」と考えられているんだよ
ちなみに纒向編年の基礎は、この纒向大溝の堆積物中の土器資料から作られている
どう考えても立派な都市だろ? >>270
纒向の周りには鉄があるのに、纒向には鉄がないのは、纒向が交通の弁の悪いど田舎だったということなんだよ。 あと、大溝って福岡の方が有名でより古かったような気がする。
纒向って筑紫の劣化コピーじゃん。 >>
wiki?
は知らんが、前方後円墳の考古学的考証は逐一変わってるよ
初期の前方後円墳の派生と大和王権との関連を考え直さないといけない、という流れもある 少し調べてみて、このような事が書いてあるでしょ
・神功皇后 日本書紀によると170〜269年 >>264
>北部九州の庄内土器の多くは大和型ではないのだよ
河内型だって言いたいんだろうけれど、庄内期に入る前の畿内第X様式の時点で河内と大和の土器形式は一体となっていて、大和盆地と河内湖西南の西河内は一体の勢力圏だよ
この「畿内第X様式の範囲」がおそらく、邪馬台国の「七万戸」の範囲
邪馬台国自体は大和盆地西南部のもっと狭い領域だろうけど
>北部九州を無視して倭人伝は語れないし
不彌國までは北部九州だから無視はしないけれど、そのあと水行20日で投馬国の時点で九州から出てるじゃない? >>252
"産出しないものを「有」と書かれることはないでしょ?"
思い込みでしかない
文献的には「有」でしかないので、それ以上も以下も無い 河内は河内だよ。台与の時に和解。
それまでは河内はクナ国。
投馬国は宮崎鹿児島。九州から出てない。
河内を邪馬台国側に混ぜるなよ >>277
君は嘘ばかりつくな。
しかもタチが悪いわ。
関係ない地域を邪馬台国側に巻き込むなよ。
邪馬台国はヤマト、山外国。
葛城山系の西側。
邪馬台国の西の境界は知らん。
宇陀や伊賀辺りまで含むんじゃないか?河内より可能性があるわ。 葛城も御所も生駒も奈良も桜井も宇陀も伊賀も邪馬台国、ヤマト国。
河内は河内。 桃
もともと神仙界の話だからな
と言ってる人もいた
だっ津ーの?が正解 >>278
九州説の生命線だから
必死で屁理屈考えてるな
苦しいねー
w 畿内第X様式は中河内と大和南部で始まって
100年くらいかけて拡大斉一化する
伊賀は北部が近江、東海、南部は畿内の影響を受ける >>118
>弥生中期までは北部九州の絹の出土が多く、その後激減するわけだね<
これも✖。
正始四年も「上獻生口、倭錦、絳青[糸兼]、緜衣、帛布、丹木、hu、短弓矢」だし、
壹與も「獻上男女生口三十人、貢白珠五千、孔青大句珠二枚、異文雜錦二十匹」だ。
要するに、この男らも、年代捏造や、存在史料の黙殺の騙しをやっている、という事だ。
>弥生中期までの鉄器は中国東北部の鋳造鉄斧の破片を 磨製石器の製法で再利用している
中期までの絹も半島経由の持込品だろうね<
箕氏が朝鮮に田蚕を伝授した位であるから、
燕の南にいた、とされる倭人が、鉄器や絹を知らない筈がなく、
この男も、筑紫倭人の年代を弥生中期に固定して、
卑弥呼や壹與を「南→東」の捏造をして、
大和に持って行く、という嘘つき騙しをしようとしているんだな。 >>119
>九州北部は遠賀川流域の歴史が鍵だな。 飯塚、直方、etc。
飯塚はなぜ塚なのか? いいとは何なのか?猪と関係あるのか?
九州説は、筑豊の歴史を語れよ。<
福岡平野〜筑紫平野が、女王國の中心である事は変えようがない。
宗像の陶ケンのように、出雲系の飛び地のような地もあるが、
筑豊の大半は、「其餘旁國遠絶、不可得詳」地域であって、
元は在地の毛人蝦夷や猿田彦系のであり、
阿毎氏の天孫族の、糸島や南九州への進出や、
岡田宮や宇佐のように、東征の拠点になった地域があっただけ。 >>122
>伊都國では三雲南小路遺跡 中期後半〜中期末(前一世紀後半?)
井原鑓溝遺跡 後期中ごろ(一世紀終わりごろ)
奴国では 須玖岡本遺跡 中期後葉〜末(一世紀初めごろ)
この辺までは、王墓があるから栄えていると言えるが、奴国も伊都国も、このあと
「王墓が続かない」<
須玖岡本も、奴國というよりは、邪馬壹國の弥生銀座の中心地域もであり、
という事は、相当長く継続した須玖岡本の年代観の詐称だな。
>井原井原鑓溝遺跡をもって、弥生時代「後期」というならそれでもいいが、卑弥呼の3世紀中ごろから見て1世紀半ほども昔だ
卑弥呼の頃には、王墓らしい王墓が作れない、繁栄の盛りを過ぎた地域なんだよ、北部九州は <
弥生銀座の繁栄は、久留米から八女方面に遷宮した317年頃までは、首都として継続していた。 >>123
>三雲南小路遺跡、1世紀半ばに方形周溝墓が出現した意味は何なんだろう<
やはり、姫氏と天孫族の阿毎氏系とが合同した倭奴國王系の墓制であったんだろう。 >>127
>短里みたいなモノは無く、南水行は東の間違いだとわかるから 九州説死亡でしょ?<
長里みたいな史料事実もなく、「南≠東」であるから、
大和説は嘘つき騙しであった事が確実であり、
大和説は死亡でしょ?。 >>130
大和説者が、祇園山や平原や弥生銀座などに触れないのは、
「大和説にとっては致命的であり、都合が悪いから」
である事にきまっているじゃん。 >>288
>弥生銀座の繁栄は、久留米から八女方面に遷宮した317年頃までは、首都として継続していた。
久留米の前は伊都でいいの? >>136
>ンなニセ情報いくら流しても 畿内説勝勢は覆せないって w <
ンな「史料事実を否定曲解」する偽大和説情報をいくら流しても、
九州説の勝勢は覆せないって w >>142
>邪馬台国はヤマト国、葛城山系以東の奈良盆地一帯です。
邪馬台は単なる地名です。
ヤマトの地が卑弥呼を共立した勢力に征伐され、都が置かれました。<
これも、「南≠東」などの嘘吐き騙しをした事に拠って✖であり、
この男も、嘘つき騙しの・・・・大和説人種です。 >>272
>畿内は破鏡のカケラだけですか。
平原1号墓も破鏡してあるね
大和で同じような破鏡供献が見られる墳墓として桜井茶臼山古墳があるけれど、桜井茶臼山古墳から出た鏡は、判定できたものだけで81面
その内訳は
三角縁神獣鏡 26面
内行花文鏡(国産) 10面
内行花文鏡(舶載) 9面
画文帯・斜縁・四乳神獣鏡 16面
半肉彫神獣鏡 5面
環状乳神獣鏡 4面
だ龍鏡 4面
細線獣帯鏡 3面
方格規矩鏡 2面
単き鏡 1面
盤龍鏡 1面
ひと頃は、一つの墓から出た鏡としては、平原1号墓が最多でだから重要って言ってた九州説の人がいるけど、鏡種・枚数ともに桜井茶臼山古墳の方が圧倒的に多いね
九州説の人は、古い情報だけで同じことを言い続けているだけなんだよ
鉄もそう >>147
>どこかで畿内説が言い負かされた事実がありませーん 創作はダメよ<
大和説の嘘つき騙しがバレて、大和説が言い負かされた事実ばかりがあって、
大和説が勝った事実は全くありません。
創作はダメよ。 >>273
>纒向の周りには鉄があるのに、纒向には鉄がないのは、纒向が交通の弁の悪いど田舎だったということなんだよ。
「大和弥生社会の展開とその特質(再論)」寺澤薫(2016)
ttp://www.makimukugaku.jp/pdf/kiyou-4.pdf
とか読んでご覧
纒向は「それ以前に何もなかったところ」に「新たに作った王都」なんだよ
古いものが出ないのを田舎と言ってるだけだろ
何もなかったところに新たに作り始める契機として時期的に一番蓋然性が高いのが「卑弥呼の共立」
0から都市を造れるだけの実力が畿内大和に当時あったことも分かる >>278
>文献的には「有」でしかないので、それ以上も以下も無い
文献的に「有」と書かれるためには、存在が知られてなければならないことくらいは分かるよね?
九州の弥生時代には、というか古墳時代を過ぎて飛鳥時代まで、九州島に丹は「ない」
倭国は九州限定で使譯所通三十國もすべて九州説だと、明確に「其山有丹」と矛盾するんだよ
よく鉄が出ないから邪馬台国は畿内じゃないと言う九州説の人がいるけど、鉄鏃を使うというのは倭国のことであって邪馬台国のことではない
「日本にはニホンカモシカがいる」が真であっても、というか明らかに真だけれど、東京都千代田区にニホンカモシカがいないからといって、千代田区が日本じゃないってことにはならないだろ?
それに対して「日本にはニホンカモシカがいる」が真ならば、対偶の「ニホンカモシカがいない(国)は日本ではない」が真になる
「丹が出ない範囲・九州を一つの国」だと主張するならそれは「倭国ではない」んだよ
倭国は九州限定ではあり得ず、弥生時代に丹が出ていたところまでを含む広域でなければならないことが分かる訳だ >>298
文献的には、ナガスネヒコなどヤマトの勢力は征伐されているからね。
考古学的にも、それに矛盾する結果は出ていない。
単純な卑弥呼の共立じゃないんじゃないかな >>296
平原の破砕鏡といって、副葬前にわざと砕いた後副葬されてる
だから完鏡近くまで復元される鏡も多い
桜井茶臼山古墳や他の多く墓の鏡もそうだが、「破鏡」とは、鏡の欠片で、丁寧に断面が磨いてある物も多い
欠片でも貴重だった事が伺える
桜井茶臼山古墳はそれらをばら蒔いてるね
81面とはそういう事
完鏡近くまで復元できるものはなかったはず
しかし、これだけの副葬品は凄いよ
この中に大型鏡も含まれている為北部九州の文化の影響は強い墓だね >>301
平原が時代的に先だしな。
それを比べて、茶臼山の方がすごい
とかいうのが頭悪い。
茶臼山は、平原の伝統を継承してるだけ。 >>149
>卑弥呼が死んだのは三世紀半ば 平原1号は二世紀末の墓 <
平原1号は、21枚の「尚方作」鏡があるから、
明帝→卑弥呼の100枚の銅鏡を元にしたものである事が確実であり、
だから、卑弥呼の死以後。 >>150
>邪馬台国の官も大和朝廷の官と一致するし、邪馬台国はヤマト国の可能性が高い。・・・<
邪馬台国なんてないし、
大和は、筑紫城の倭奴國の阿毎氏から別れた別種の旧小国であったから「朝廷」なんてないし、
「邪馬壹國女王之所都」は「南≠東」に拠って「ヤマト国」ではないから、
この大和説男も、×人種。 >>151
>孝霊天皇が牛鬼を討つ話。
>次に神功皇后。<
大和は天皇を称したのは、天智からだから、
それ以前には、「天皇」も「皇后」もいなかった。 >>154
>公式調査報告書 <
「公式」なんて、何の価値もない。
要は、
「私的」であっても「公的」であっても、
きちんと事実関係を正確に調査報告し、
それに関する正確な評価や解釈をしてあるのか?が大事なのであり、
「南→東」などのような、史料事実を否定曲解をしたり、
大和説のみがありき、というような「結論先にありき」の学者の「調査報告」には、
何の信頼性も価値もない。 >>156
>平原1号墓は、漢鏡40面出土の王墓とかいうフレコミwだけど、<
その「漢鏡」という判断をしたのは誰なんだ?。原田なのか?、柳田なのか?。
またその根拠は何だったんだ?。
>実際には舶載鏡は、漢鏡5期の「雲雷文長宜子孫銘内行花文鏡」と漢鏡3期の「四螭二朱雀龍虎鏡」の2面のみ<
これも、誰が何を根拠に断定したんだい?。
>大量(32面)の方格規矩鏡も含め残りは仿製鏡 <
仿製鏡が、何故方格規矩鏡に、「尚方作」鏡とそうでない鏡を区別して造ったんだい?。
>舶載鏡1,2面程度を埋納した墳墓はたくさんあるし、
舶載鏡はその鏡種からして後漢代の朝貢時にもたらされたものだろう<
後漢代の朝貢で「鏡を貰った」などという記録など、ないんだろ?。
あるのは、魏の明帝だけ。
>卑弥呼の墓にあてるのはムリだよ<
明帝は、おそらく、「卑弥呼が鏡を重宝にしている」ことを知って、
100枚もの鏡を与えた。 破鏡や?製鏡は配布の鏡の不足を補う為に始まった文化
その鏡が配布もされずにひとところにある時点で配布対象がいない周りに影響を及ぼせてない存在であるのが分かる
あとにも続かず、同時代にも周りに何も影響がない平原の現実を如実に表している
そして茶臼山等の畿内を頂点とする鏡の配布は「九州にそれまで一切ない」「三角縁」「古墳」の物であり、九州との連続性が無いのが明白
畿内は弥生末期から既に独自の小型?製鏡を作成配布しており、邪馬台国以前から九州とは完全に別のシステムを構築しているのが知られている
平原は何かの中心や起源ではなく2世紀に九州の勢力が崩壊し、それまで400年続いた王墓も伝統もそこで絶えたと言う終わりの証拠と言うのが分かる 鏡の配布と言う形式は同じだが、三角縁の配布など九州に一切なかった新たな方式を意図的に採用している事からも九州と畿内の鏡の配布に連続性は見いだせないのが分かる
前述したように畿内は既に弥生時代末期から独自の鏡を作成し、配布していることからも両者に直接的な繋がりはないのが分かる
九州はむしろ鏡の配布の中心を畿内に奪われただけと言う力関係を表す証拠なのが見えてくる >>156
>また、弥生末期は各地でただ一人の首長のための大型墳丘墓が各地で作られる時代に入っている<
何故、新しい大型墳丘墓が必要になったのか?の理由に、
大陸からの強力な渡来流民の存在の考察は不可避だな。
>吉備の楯築墳丘墓は二つの方形突出部を入れて墳丘長72メートル、<
それまでの墓とは全く違うんだから、
新規の「有槨」部族の渡来、という事が不可欠だろうな。
>出雲の西谷9号墓は四隅突出墓でその突出部まで入れるとおよそ60×50メートル、
丹波の赤坂今井墳丘墓は東西36m、南北39m、高さ3.5mの墳丘部に加え四方に5〜9mの平坦部がつく
畿内の纒向石塚古墳で全長96メートル、東田大塚古墳で墳丘長120メートルある<
新規渡来部族は、墓を大きくして誇示する必要があったんだろうな。
>平原1号墓の墳丘サイズ14×12メートルというのは王墓だとしても、
有力国の王墓としては、どうしても見劣りする
ということで、九州説(伊都国が卑弥呼の都説)が大事に大事に思う平原1号墓は、
それほど大した遺跡ではない<
卑弥呼や壹與は、共立された女王であるし、新規渡来系部族でもないし、
周辺部族に「誇示する」必要もなかったんだろうな。 むしろ文化の伝播と言うのなら九州は弥生時代を通じて全く採用していなかった大型墳墓や三角縁などの文化の激流に押し流され独自性を失っている姿が明白となる
文化の主体は九州にはなく、常に畿内にあるのが分かる >>158
>萬二千里は、淮南子以来の大陸世界での概念的な「地の果てまでの距離」を記しただけだから、
それを典拠にするのもむなしいだけだぞ
淮南子: 時則訓
東方之極,自碣石山過朝鮮,貫大人之國,東至日出之次,木之地,青土樹木之野,太r、句芒之所司者,萬二千里。
まあ、九州説はこの数値+短里という捏造だけが頼りだから、認められないんだろうけどww<
これは、既に説明済みの投稿だな。
既に、出発点がいろいろである事は指摘してあるし、
この碣石山は山東半島だから、帯方や楽浪からの距離ではないし、
何よりも、魏の役人や郡の役人や魏使らが、
「観念的な距離での嘘つき騙しの報告」を魏帝に書いた、とバレれば、
そりゃ、その首が危ない。 >>159
>短里で記されているところがいくらでもあると、九州説の人はよく言いますが
現実と合わない数値が記されていることが分かる「だけ」です・・・<
これも、返答済みの投稿だな。
自分で勝手に、「墓地を国の場所だ」と決めつけたり、
「奴國」のように、比定地自体を大幅に造り変えたり、
陳寿が原則として「地域間距離は、その居住外縁部間の距離」で表記している、
という事も考えないで、距離計算をして、間違っている、と言っているんだから、
この男の頭の方がおかしい訳で。 >>162
>(平原)弥生終末(西新式直前)とあるから、あとは通説の実年代を当てるだけ<
そもそも、
平原が「西新式土器」を副葬しなければならない、
という決まりがある訳でも、必要がある訳でもなく、
また、(通説の)西新式土器の時期範囲も、何ら絶対性も信頼性も、何の保証もない。 九州説のアホが妄想する全ての中心の文化の頂点の大九州帝国など存在しないw
何の証拠もなく出てくるもんは畿内の影響だらけ
まぁバカの脳内には何か栄光の大帝国が見えてるんだろうよ
笑わせてくれる >>308
畿内から大型内行花文鏡が出てきてるね。
さぞ大切だったんだろうね。良かったね。
被征服民の畿内の銅鐸土民は、哀れだね。 纒向と吉野ケ里を比較すれば
都市機能に吉野ケ里が進んでいたのは一目瞭然
畿内説の一部が纒向は王都と騒いでいるだけなんだよ
畿内説の学者の多くは候補地としてるだけ・・・本心は王都としてみすぼらしいと思ってる 纏向周辺は田畑が多いから、発掘調査には向いているのに一向に進まない
市・地元住民が協力して田畑の調査に協力すれば良いのにね >>312
<萬二千里の変遷>
淮南子:碣石山→東方之極
後漢書:楽浪郡→倭
魏志: 帯方郡→倭
要は中国の国境から辺境まで「満二千里」と観念距離を置いているわけ
中国の範囲が拡大していっても「満二千里」は変わらないw >>165
>方角が間違うはずがないと、判で押したように九州説の人は言いますが、
魏志倭人伝で九州に上陸してすぐの 末盧國から伊都國の行程が、
実際には北東なのに東南陸行と、この時点で90度間違っています <
キミの解釈が×。
魏使らは陳寿は、当然人類の常識として、行程記載では、
原則として、「出発+途中+到着」をきちんと書き分けている。
だから、「東南」は出発時の方向記録であり、目的地の方向ではない。
>また隋書では、大和までの行程はきちんと東と書いてありますが、<
また×。
大和は「附庸」地に属するとしか書かれていないのであり、
「大和までの行程」も全く書かれていない。
>対馬から壱岐が、 都斯麻國迥在大海中 又東至一支國 と、
本来南でなければならないのが東となっています <
これも×。
竹島から来て済州島の近くを通り、
都斯麻國は迥在大海中はと記しただけであるから、上陸しておらず、
都斯麻國を眺めて、一支國へ行った事になり、
都斯麻國の南方海上から一支國は「東〜東南東」であるから、「東」でぴったりであり。
間違っていない。 >>165
>おそらく、隋書の編纂時に魏志倭人伝も確認して、東に行くべきところが南と書いてあるのを見て、
魏志倭人伝の地理観が90度間違っていると判断して全体を90度回したために
正しかった対馬ー壱岐間が連動して回ってしまったのでしょう<
おそらく、・・・・アホのキミの分裂幻覚の妄想。
>つまり、史書編纂時の撰者の地理観に従って、以前の記録は修正され得ることになります<
現地へ行かなかった後代のアホ史家ならそんなアホな事は有り得るが、
現地を見た使者は、当然、実見に従って記録するもの。
>そう考えると、魏志倭人伝の地理観では、倭国は「當在會稽、東冶之東」と考えられていたので<
これも×。
嘘を付くな。「當在會稽東治之東」だ。
>報告書の東がその地理観に合わせるために南に変更されるのも、当然にあり得ることになります<
思想宗教に狂った後代の・・・・アホなら有り得る事だ。
>なら、畿内説で何も問題はないですね<
「南≠東」に拠って、×。 >>324
そんな「常識」が、あったって証拠は?
??? >>167
>重要度はやはり最大の内行花文鏡が一番だろう<
>当時の各地の首長墓と比べて、非常に貧弱なことにはコメントはないのですか?<
どこの何時の?首長墓と比べたんかね?。
また、どういう理由で「貧弱」だった、とで判断したのかね?。
>副葬品についても、例えば丹波の大風呂南一号墓では一つの墳墓からは最多の11本の鉄剣が出ています<
単なる「共立された卑弥呼や壹與」に、
女王としてのお宝の副葬品を比べるのならまだしも、
「11本の鉄剣 」のような、大量の武具が、何故副葬される必要があるんかね?。
>大事なはずの大型内行花文鏡も破砕供献されてますよね?
葬送儀礼用の鏡というだけではないですか?<
内行花文鏡は、「鏡片」としての下賜にも沢山使われており、
播磨の大中遺跡からも発見されており、
だから、共立女王への葬送のペンダントとして、破砕副葬された可能性がある。 >>169
>>(魏使らは)不彌國から後を1里400mで書く、
というような・・・・アホな事をしないから、×。<
>不彌國から先の部分に里程を書いた所は魏志倭人伝にはないですよ?
何を見てコメントしているのですか? 話が噛み合わない訳ですね(ヤレヤレ)<
何を誤魔化しているんだい?。
不彌國付近から大和までの「距離や里数」を計算して、証拠のような形で提示したのは、
お前の方から、
であったんだよ。 >>174
>何でこの人前スレへの反論を延々と書いてて、
直前に自説を完全に否定しているコメントがあるのを無視してるんだろう?<
順番に読んで、返事を書いたり、反論をしておかなければ、
この投稿子のような・・・・嘘つき詐欺師の大和説者に、
話をすり替えての騙しでのヘイトスピーチをされる事になるから。 >>181
>>弥生後期の繁栄を議論するなら、平原遺跡は適切だと思うけど?
なぜ抜かしたの?<
>100年以上も前の三雲南小路遺跡でも30メートル四方の立派な方形墳丘墓
奴国の須玖岡本遺跡D地点の王墓も、同程度の規模と推測されている<
ウソを付くな。
須玖岡本遺跡は、奴國ではない。
弥生銀座付近そのものであり、邪馬壹國ものだな。
>同じ地域のかつての王墓と比べても、平原1号墓墳丘の貧弱さは明らかだろう?<
当然、サイズは、王墓の絶対条件ではない。
内容や副葬品の価値の方が重要。
>弥生後期の「繁栄の程度」を議論するのに平原1号墓を出すとしても、その結果は
以前の「繁栄が失われた」ってことになるね<
平原の内容や副葬品が余りにも「繁栄を示していた」から、
大和説考古学者や歴史学者学が、路線の変更を余儀なくされた。 >>185
>>大事な鏡を大量に不可逆的な方法で備えたのだから<
>いや、国産の仿製鏡なんだから、作ろうと思えばいくらでも作れるだろう?
実際、大型内向花文鏡を6枚使ってるんだし(同じ大きさでないのは知ってるよ)
自分のところで作れるのは、そこまで大事じゃないだろう <
それなら、平原時代の、平原以外のどの墓で、
大量の「豪華な鏡や玉などを副葬」した墓があったのか?を示せばよい。
また、鏡を造った、とすれば、「海東」へ渡来の呉系楽浪鏡師らだよ。
>奴国と唐子鍵に、九州と畿内の青銅器生産の中心があったことが、鋳型の出土から
分かっている<
奴国ではなく、弥生銀座だな。
また、唐子鍵は、(鏡ではなく)銅鐸生産ではなく)だな。
>で、平原1号墓より前(編年が確実ではないけれど)に、畿内では高さ1メートルを超える
銅鐸を作っていたんだから、大型の青銅器の製作は国内で普通にできる <
唐子鍵で、鏡を造っていた、とでもいうんかい?。
>逆に言うと、平原1号墓は大型内向花文鏡以外、誇るべきものがないのかな?<
玉や5尺刀や耳トウなど、一杯ある。 >水銀朱は中国産で<
>北部九州では弥生期に国産の朱は使われていません<
朱は、当然墓以外には、「以朱丹塗其身體、如中國用粉也」ですから、鯨面文身の材料であり、
明帝から「鉛丹」も貰い、「丹木」も魏に贈っている。
>魏志倭人伝に「其山有丹」と書かれていることと整合性が取れませんが、そのあたりは九州説ではどう処理しているのですか?<
松浦川上流に「丹山」があった。
>>墓の様相は各地で文化が違うので、比較に意味が無いと思われます<
>「同じ地域の伊都国と奴国」でも以前は大きな墳丘を持つ王墓を作っていました <
この男は、弥生銀座の須玖岡本を奴國というの騙しをしていたな。 >>188
>そして、伊都国では古墳時代に入ると三雲遺跡の領域内=伊都国の王墓の伝統的な立地に端山古墳、築山古墳と、
伊都国王の後裔と考えられる豪族の首長墓が作られています<
端山古墳、築山古墳は、那珂八幡よりもずっと後。
>同じ地域で、前と後の時代には大きな墓を作っているのに、それと比べても平原1号墓は相当に見劣りします<
平原よりも2〜3世代位 後。
>そして、三雲南小路遺跡、端山古墳、築山古墳が、同じ地域に作られているのに対し、
平原1号墓は伊都国内とは言っても少し離れた西側の丘陵地帯に作られていて、
しかも尾根よりも西側、伊都国中枢部が見えない位置に立地しています<
「少し離れた西側」と言ってもたった1q位。
>その点も、伊都国の王墓とするのが躊躇われる理由になっています<
その点、古田説は、伊都国と奴國の「王家の谷」説。 >>189
>>畿内説が平原遺跡と真正面に取り組まないで逃げている限り、世間は畿内説側が嘘をついていると思うだろう。<
>真正面から取り上げてるだろ?<
嘘を付くな。墓の形状や副葬品などの論点からは、殆ど逃げている。
>たぶん私は(畿内説だけど)<
それじゃお前は、「南→東」などの史料事実の否定曲解の嘘つき騙しだから、
始めから、「結論先にありき」の信頼性も客観性も全くないありき」の、
・・・・詐欺師仲間だった、という事だ。
>>>183より平原1号墓については詳しいよ 例えば平原遺跡に5号墓まであるのは、把握しているのかな?<
そんな事は解説書にいくらでも書いてあったよ。
>していたら、1号墓をつけずに平原遺跡と言い続けたりはしないと思うけどww<
当然「平原遺跡」と言えば、普通は「平原1号墳」の事だ。
>西新式直前という根拠になった土器は、2号墓の周溝から出土したものだよ<
だから、ますます後代の祭祀での使用土器であった可能性が非常に高い事になり、
2世紀末、なんて報告は、全く信頼性がなかった事になる、ってことだ。 >>190
>そして、平原1号墓だけが王墓扱いされているけれど、墳丘サイズは2号墓とほぼ同じで間の周溝を共有している状態
平原遺跡という視点で見ると、「1号墓だけが王墓」という突出した墳墓には見えない <
墓の形状や副葬品の豪華さで、幾らでも「突出した墳墓」に見える。 >>308
三角を必死に持ち上げてるけど、出土数や三角の扱われ方を見ると、他の種類の鏡より格下
これは北部九州でも同じ
悪いが三角は大量生産品の花輪的鏡でしかないなぁ >>193
>ここの九州説(伊都国が<弥呼の都説)の人は、
平原1号墓の周溝の土坑墓を殉葬だって言わないのかな? <
私は、祇園山があるから、言わないが、
ここの平原説の方は、殉葬墓が沢山ある、と言っておられるよ。 >>339
私は卑弥呼やイヨの時代は九州説だけど、その後の時代に連合関係がさらに広がり畿内に中心を移したと考えているよ
いつかはまだ考証中… >>341
>私は卑弥呼やイヨの時代は九州説だけど
それで、なんで王墓が一つしかないの? >>195
>>「歴韓國乍南乍東」は、韓國陸行です。<
>魏志倭人伝より引用 「循海岸「水行」、歴韓國、乍南乍東、到其北岸狗邪韓國」
頭おかしいんじゃないの? <
循海岸水行なら、
海岸沿いの波打ち際近くの水行になり、
巨大なリアス式の半島では、歴韓国には極めて膨大な時間と危険を伴い、
「乍南乍東」では全く航行出来ず、
韓の方四千里だけでも8千里になって七千余里には全くならず、
沖合洋上航行であれば、
半島南岸は倭地であるから、歴韓国も出来ず、
郡から沖合洋上航行では、狗邪韓国へ逆戻りする矛盾あり、
持衰の乗った倭船になるから、郡や魏の大型船であった事も否定され、
倭王武の上表文に「自昔・・・道kei百濟、裝治船舫」とあるから、
百済の地を陸行するのがルートであった事が記載されるなど、
郡から倭までの「全水行」説は全く否定されている。 >>196
>>「王墓」の位置は、それぞれの国の位置とは関係がないし、
特に奴國は、須玖岡本ではありません。<
>三雲南小路遺跡の王墓は、三雲遺跡群の中にあって、ここが伊都国の中枢ですよ?<
そんな内陸では、
「郡使往來常所駐」や、
「王遣使詣京都帶方郡、諸韓國及郡使倭國、皆臨津搜露、傳送文書賜遺之物詣女王、不得差錯」
も出来ません。
伊都国は、前原付近の海岸沿いや糸島水道付近です。
そして、奴國は伊都国の東南百里ですから、
丁度三雲や平原付近から東南地域であり、
日向峠を越えて、吉武高木付近の早良平野地域です。
>須玖岡本遺跡も、岡本遺跡群の中にあって、青銅器製作工房跡もある奴国の中心地です<
伊都国から奴國は移動の動詞がないから、側副傍線國の説明であって本行程ではなく、
だから伊都国の次は、
「東百里」に外縁部がある不彌國(藤崎西新町から東の海岸付近)になり、
邪馬壹國女王之所都は不彌國の直ぐ「南」ですから、
須玖岡本や那珂八幡付近の弥生銀座その物だ、という事になります。
違うというなら、どこ七日具体的な地名を「根拠」とともに挙げて、反論してみてください
印象操作の域を出ていませんよ!
反論する気なら、やり直しです!! あのね・・・
倭人伝に書いてある距離が
各国の中心地と中心地の距離だ
って定説を認めないで変な説を立てると
部分里程の合計が12000余里では
あり得なくなっちゃって
九州説メチャクチャになるよ >>347
>倭人伝に書いてある距離が各国の中心地と中心地の距離だって定説
そんな定説あったの?
聞いたことないんだが??? ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています