>>122
>伊都國では三雲南小路遺跡 中期後半〜中期末(前一世紀後半?)
      井原鑓溝遺跡 後期中ごろ(一世紀終わりごろ)
奴国では  須玖岡本遺跡 中期後葉〜末(一世紀初めごろ)
この辺までは、王墓があるから栄えていると言えるが、奴国も伊都国も、このあと
「王墓が続かない」<

須玖岡本も、奴國というよりは、邪馬壹國の弥生銀座の中心地域もであり、
という事は、相当長く継続した須玖岡本の年代観の詐称だな。

>井原井原鑓溝遺跡をもって、弥生時代「後期」というならそれでもいいが、卑弥呼の3世紀中ごろから見て1世紀半ほども昔だ
卑弥呼の頃には、王墓らしい王墓が作れない、繁栄の盛りを過ぎた地域なんだよ、北部九州は <

弥生銀座の繁栄は、久留米から八女方面に遷宮した317年頃までは、首都として継続していた。