邪馬台国畿内説 Part325
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邪馬台国論の鉄板、畿内説のスレです。
【骨 子】
・3世紀中葉には、古墳時代が開始していた。
・出現期古墳段階で、近畿中央部を中心に列島規模の政治連合が形成され始めていた。
・北部九州博多湾岸地域は、既にこの政治連合の傘下にあった。
ゆえに、倭女王卑弥呼の都があったのは畿内である。
邪馬台国論争ももう畿内で決着なのでロマンはありませんが
勝者の貫録を見せつつ、更なる真実を探求しましょう。
前スレ
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1518294984/
◆0【 要 旨 】 ( >>2-12に各論、それ以下にFAQを付す )
纒向遺跡の発掘状況等から、ここには西日本の広域に影響力を持った宗教的指導者が君臨しており、それは各地の首長に共立され求心的に集約された権力基盤を持つ女性であったと考えられる。
その死亡時期は3世紀中葉とみられる。畿内に中国文化が急速に浸透する時期である。
これらを倭人伝の記事と対照すると、箸中山古墳の被葬者が倭人伝に記載ある曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、纒向が邪馬台国にあった倭女王の宮殿所在地であると同定できる。
2世紀の地球規模的寒冷化は、農業生産力を強化する社会的需要から指導的地位を占める析出集団の成長を強烈に促進し、弥生的青銅器祭祀を終息せしめ、高塚化した墳丘墓を現出させる。
換言すれば、弥生墳丘墓の巨大化が顕著な地域こそが、弥生社会に古墳時代へと向かう構造変化の著しい地域であり、3世紀に爆発的に広域化する萌芽期国家の中核である。自然環境変化に起因する社会構造変化が現象として纒向に凝集し結実したと言える。
倭人伝に記載された卑弥呼の活動期間に相当する庄内併行期は、畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入している時期であり、ことに那珂比恵地域への人口流入が急拡大していく。
博多湾貿易が対外交渉の主役に躍り出るこの時期には、西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易をする段階となっている。
絶域であった日本列島が中華社会と二国間の国交を再開した時期、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の倭国の中枢である。
倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
それは桜井市纒向以外にありえない。 破鏡や?製鏡は配布の鏡の不足を補う為に始まった文化
その鏡が配布もされずにひとところにある時点で配布対象がいない周りに影響を及ぼせてない存在であるのが分かる
あとにも続かず、同時代にも周りに何も影響がない平原の現実を如実に表している
そして茶臼山等の畿内を頂点とする鏡の配布は「九州にそれまで一切ない」「三角縁」「古墳」の物であり、九州との連続性が無いのが明白
畿内は弥生末期から既に独自の小型?製鏡を作成配布しており、邪馬台国以前から九州とは完全に別のシステムを構築しているのが知られている
平原は何かの中心や起源ではなく2世紀に九州の勢力が崩壊し、それまで400年続いた王墓も伝統もそこで絶えたと言う終わりの証拠と言うのが分かる 鏡の配布と言う形式は同じだが、三角縁の配布など九州に一切なかった新たな方式を意図的に採用している事からも九州と畿内の鏡の配布に連続性は見いだせないのが分かる
前述したように畿内は既に弥生時代末期から独自の鏡を作成し、配布していることからも両者に直接的な繋がりはないのが分かる
九州はむしろ鏡の配布の中心を畿内に奪われただけと言う力関係を表す証拠なのが見えてくる >>156
>また、弥生末期は各地でただ一人の首長のための大型墳丘墓が各地で作られる時代に入っている<
何故、新しい大型墳丘墓が必要になったのか?の理由に、
大陸からの強力な渡来流民の存在の考察は不可避だな。
>吉備の楯築墳丘墓は二つの方形突出部を入れて墳丘長72メートル、<
それまでの墓とは全く違うんだから、
新規の「有槨」部族の渡来、という事が不可欠だろうな。
>出雲の西谷9号墓は四隅突出墓でその突出部まで入れるとおよそ60×50メートル、
丹波の赤坂今井墳丘墓は東西36m、南北39m、高さ3.5mの墳丘部に加え四方に5〜9mの平坦部がつく
畿内の纒向石塚古墳で全長96メートル、東田大塚古墳で墳丘長120メートルある<
新規渡来部族は、墓を大きくして誇示する必要があったんだろうな。
>平原1号墓の墳丘サイズ14×12メートルというのは王墓だとしても、
有力国の王墓としては、どうしても見劣りする
ということで、九州説(伊都国が卑弥呼の都説)が大事に大事に思う平原1号墓は、
それほど大した遺跡ではない<
卑弥呼や壹與は、共立された女王であるし、新規渡来系部族でもないし、
周辺部族に「誇示する」必要もなかったんだろうな。 むしろ文化の伝播と言うのなら九州は弥生時代を通じて全く採用していなかった大型墳墓や三角縁などの文化の激流に押し流され独自性を失っている姿が明白となる
文化の主体は九州にはなく、常に畿内にあるのが分かる >>158
>萬二千里は、淮南子以来の大陸世界での概念的な「地の果てまでの距離」を記しただけだから、
それを典拠にするのもむなしいだけだぞ
淮南子: 時則訓
東方之極,自碣石山過朝鮮,貫大人之國,東至日出之次,木之地,青土樹木之野,太r、句芒之所司者,萬二千里。
まあ、九州説はこの数値+短里という捏造だけが頼りだから、認められないんだろうけどww<
これは、既に説明済みの投稿だな。
既に、出発点がいろいろである事は指摘してあるし、
この碣石山は山東半島だから、帯方や楽浪からの距離ではないし、
何よりも、魏の役人や郡の役人や魏使らが、
「観念的な距離での嘘つき騙しの報告」を魏帝に書いた、とバレれば、
そりゃ、その首が危ない。 >>159
>短里で記されているところがいくらでもあると、九州説の人はよく言いますが
現実と合わない数値が記されていることが分かる「だけ」です・・・<
これも、返答済みの投稿だな。
自分で勝手に、「墓地を国の場所だ」と決めつけたり、
「奴國」のように、比定地自体を大幅に造り変えたり、
陳寿が原則として「地域間距離は、その居住外縁部間の距離」で表記している、
という事も考えないで、距離計算をして、間違っている、と言っているんだから、
この男の頭の方がおかしい訳で。 >>162
>(平原)弥生終末(西新式直前)とあるから、あとは通説の実年代を当てるだけ<
そもそも、
平原が「西新式土器」を副葬しなければならない、
という決まりがある訳でも、必要がある訳でもなく、
また、(通説の)西新式土器の時期範囲も、何ら絶対性も信頼性も、何の保証もない。 九州説のアホが妄想する全ての中心の文化の頂点の大九州帝国など存在しないw
何の証拠もなく出てくるもんは畿内の影響だらけ
まぁバカの脳内には何か栄光の大帝国が見えてるんだろうよ
笑わせてくれる >>308
畿内から大型内行花文鏡が出てきてるね。
さぞ大切だったんだろうね。良かったね。
被征服民の畿内の銅鐸土民は、哀れだね。 纒向と吉野ケ里を比較すれば
都市機能に吉野ケ里が進んでいたのは一目瞭然
畿内説の一部が纒向は王都と騒いでいるだけなんだよ
畿内説の学者の多くは候補地としてるだけ・・・本心は王都としてみすぼらしいと思ってる 纏向周辺は田畑が多いから、発掘調査には向いているのに一向に進まない
市・地元住民が協力して田畑の調査に協力すれば良いのにね >>312
<萬二千里の変遷>
淮南子:碣石山→東方之極
後漢書:楽浪郡→倭
魏志: 帯方郡→倭
要は中国の国境から辺境まで「満二千里」と観念距離を置いているわけ
中国の範囲が拡大していっても「満二千里」は変わらないw >>165
>方角が間違うはずがないと、判で押したように九州説の人は言いますが、
魏志倭人伝で九州に上陸してすぐの 末盧國から伊都國の行程が、
実際には北東なのに東南陸行と、この時点で90度間違っています <
キミの解釈が×。
魏使らは陳寿は、当然人類の常識として、行程記載では、
原則として、「出発+途中+到着」をきちんと書き分けている。
だから、「東南」は出発時の方向記録であり、目的地の方向ではない。
>また隋書では、大和までの行程はきちんと東と書いてありますが、<
また×。
大和は「附庸」地に属するとしか書かれていないのであり、
「大和までの行程」も全く書かれていない。
>対馬から壱岐が、 都斯麻國迥在大海中 又東至一支國 と、
本来南でなければならないのが東となっています <
これも×。
竹島から来て済州島の近くを通り、
都斯麻國は迥在大海中はと記しただけであるから、上陸しておらず、
都斯麻國を眺めて、一支國へ行った事になり、
都斯麻國の南方海上から一支國は「東〜東南東」であるから、「東」でぴったりであり。
間違っていない。 >>165
>おそらく、隋書の編纂時に魏志倭人伝も確認して、東に行くべきところが南と書いてあるのを見て、
魏志倭人伝の地理観が90度間違っていると判断して全体を90度回したために
正しかった対馬ー壱岐間が連動して回ってしまったのでしょう<
おそらく、・・・・アホのキミの分裂幻覚の妄想。
>つまり、史書編纂時の撰者の地理観に従って、以前の記録は修正され得ることになります<
現地へ行かなかった後代のアホ史家ならそんなアホな事は有り得るが、
現地を見た使者は、当然、実見に従って記録するもの。
>そう考えると、魏志倭人伝の地理観では、倭国は「當在會稽、東冶之東」と考えられていたので<
これも×。
嘘を付くな。「當在會稽東治之東」だ。
>報告書の東がその地理観に合わせるために南に変更されるのも、当然にあり得ることになります<
思想宗教に狂った後代の・・・・アホなら有り得る事だ。
>なら、畿内説で何も問題はないですね<
「南≠東」に拠って、×。 >>324
そんな「常識」が、あったって証拠は?
??? >>167
>重要度はやはり最大の内行花文鏡が一番だろう<
>当時の各地の首長墓と比べて、非常に貧弱なことにはコメントはないのですか?<
どこの何時の?首長墓と比べたんかね?。
また、どういう理由で「貧弱」だった、とで判断したのかね?。
>副葬品についても、例えば丹波の大風呂南一号墓では一つの墳墓からは最多の11本の鉄剣が出ています<
単なる「共立された卑弥呼や壹與」に、
女王としてのお宝の副葬品を比べるのならまだしも、
「11本の鉄剣 」のような、大量の武具が、何故副葬される必要があるんかね?。
>大事なはずの大型内行花文鏡も破砕供献されてますよね?
葬送儀礼用の鏡というだけではないですか?<
内行花文鏡は、「鏡片」としての下賜にも沢山使われており、
播磨の大中遺跡からも発見されており、
だから、共立女王への葬送のペンダントとして、破砕副葬された可能性がある。 >>169
>>(魏使らは)不彌國から後を1里400mで書く、
というような・・・・アホな事をしないから、×。<
>不彌國から先の部分に里程を書いた所は魏志倭人伝にはないですよ?
何を見てコメントしているのですか? 話が噛み合わない訳ですね(ヤレヤレ)<
何を誤魔化しているんだい?。
不彌國付近から大和までの「距離や里数」を計算して、証拠のような形で提示したのは、
お前の方から、
であったんだよ。 >>174
>何でこの人前スレへの反論を延々と書いてて、
直前に自説を完全に否定しているコメントがあるのを無視してるんだろう?<
順番に読んで、返事を書いたり、反論をしておかなければ、
この投稿子のような・・・・嘘つき詐欺師の大和説者に、
話をすり替えての騙しでのヘイトスピーチをされる事になるから。 >>181
>>弥生後期の繁栄を議論するなら、平原遺跡は適切だと思うけど?
なぜ抜かしたの?<
>100年以上も前の三雲南小路遺跡でも30メートル四方の立派な方形墳丘墓
奴国の須玖岡本遺跡D地点の王墓も、同程度の規模と推測されている<
ウソを付くな。
須玖岡本遺跡は、奴國ではない。
弥生銀座付近そのものであり、邪馬壹國ものだな。
>同じ地域のかつての王墓と比べても、平原1号墓墳丘の貧弱さは明らかだろう?<
当然、サイズは、王墓の絶対条件ではない。
内容や副葬品の価値の方が重要。
>弥生後期の「繁栄の程度」を議論するのに平原1号墓を出すとしても、その結果は
以前の「繁栄が失われた」ってことになるね<
平原の内容や副葬品が余りにも「繁栄を示していた」から、
大和説考古学者や歴史学者学が、路線の変更を余儀なくされた。 >>185
>>大事な鏡を大量に不可逆的な方法で備えたのだから<
>いや、国産の仿製鏡なんだから、作ろうと思えばいくらでも作れるだろう?
実際、大型内向花文鏡を6枚使ってるんだし(同じ大きさでないのは知ってるよ)
自分のところで作れるのは、そこまで大事じゃないだろう <
それなら、平原時代の、平原以外のどの墓で、
大量の「豪華な鏡や玉などを副葬」した墓があったのか?を示せばよい。
また、鏡を造った、とすれば、「海東」へ渡来の呉系楽浪鏡師らだよ。
>奴国と唐子鍵に、九州と畿内の青銅器生産の中心があったことが、鋳型の出土から
分かっている<
奴国ではなく、弥生銀座だな。
また、唐子鍵は、(鏡ではなく)銅鐸生産ではなく)だな。
>で、平原1号墓より前(編年が確実ではないけれど)に、畿内では高さ1メートルを超える
銅鐸を作っていたんだから、大型の青銅器の製作は国内で普通にできる <
唐子鍵で、鏡を造っていた、とでもいうんかい?。
>逆に言うと、平原1号墓は大型内向花文鏡以外、誇るべきものがないのかな?<
玉や5尺刀や耳トウなど、一杯ある。 >水銀朱は中国産で<
>北部九州では弥生期に国産の朱は使われていません<
朱は、当然墓以外には、「以朱丹塗其身體、如中國用粉也」ですから、鯨面文身の材料であり、
明帝から「鉛丹」も貰い、「丹木」も魏に贈っている。
>魏志倭人伝に「其山有丹」と書かれていることと整合性が取れませんが、そのあたりは九州説ではどう処理しているのですか?<
松浦川上流に「丹山」があった。
>>墓の様相は各地で文化が違うので、比較に意味が無いと思われます<
>「同じ地域の伊都国と奴国」でも以前は大きな墳丘を持つ王墓を作っていました <
この男は、弥生銀座の須玖岡本を奴國というの騙しをしていたな。 >>188
>そして、伊都国では古墳時代に入ると三雲遺跡の領域内=伊都国の王墓の伝統的な立地に端山古墳、築山古墳と、
伊都国王の後裔と考えられる豪族の首長墓が作られています<
端山古墳、築山古墳は、那珂八幡よりもずっと後。
>同じ地域で、前と後の時代には大きな墓を作っているのに、それと比べても平原1号墓は相当に見劣りします<
平原よりも2〜3世代位 後。
>そして、三雲南小路遺跡、端山古墳、築山古墳が、同じ地域に作られているのに対し、
平原1号墓は伊都国内とは言っても少し離れた西側の丘陵地帯に作られていて、
しかも尾根よりも西側、伊都国中枢部が見えない位置に立地しています<
「少し離れた西側」と言ってもたった1q位。
>その点も、伊都国の王墓とするのが躊躇われる理由になっています<
その点、古田説は、伊都国と奴國の「王家の谷」説。 >>189
>>畿内説が平原遺跡と真正面に取り組まないで逃げている限り、世間は畿内説側が嘘をついていると思うだろう。<
>真正面から取り上げてるだろ?<
嘘を付くな。墓の形状や副葬品などの論点からは、殆ど逃げている。
>たぶん私は(畿内説だけど)<
それじゃお前は、「南→東」などの史料事実の否定曲解の嘘つき騙しだから、
始めから、「結論先にありき」の信頼性も客観性も全くないありき」の、
・・・・詐欺師仲間だった、という事だ。
>>>183より平原1号墓については詳しいよ 例えば平原遺跡に5号墓まであるのは、把握しているのかな?<
そんな事は解説書にいくらでも書いてあったよ。
>していたら、1号墓をつけずに平原遺跡と言い続けたりはしないと思うけどww<
当然「平原遺跡」と言えば、普通は「平原1号墳」の事だ。
>西新式直前という根拠になった土器は、2号墓の周溝から出土したものだよ<
だから、ますます後代の祭祀での使用土器であった可能性が非常に高い事になり、
2世紀末、なんて報告は、全く信頼性がなかった事になる、ってことだ。 >>190
>そして、平原1号墓だけが王墓扱いされているけれど、墳丘サイズは2号墓とほぼ同じで間の周溝を共有している状態
平原遺跡という視点で見ると、「1号墓だけが王墓」という突出した墳墓には見えない <
墓の形状や副葬品の豪華さで、幾らでも「突出した墳墓」に見える。 >>308
三角を必死に持ち上げてるけど、出土数や三角の扱われ方を見ると、他の種類の鏡より格下
これは北部九州でも同じ
悪いが三角は大量生産品の花輪的鏡でしかないなぁ >>193
>ここの九州説(伊都国が<弥呼の都説)の人は、
平原1号墓の周溝の土坑墓を殉葬だって言わないのかな? <
私は、祇園山があるから、言わないが、
ここの平原説の方は、殉葬墓が沢山ある、と言っておられるよ。 >>339
私は卑弥呼やイヨの時代は九州説だけど、その後の時代に連合関係がさらに広がり畿内に中心を移したと考えているよ
いつかはまだ考証中… >>341
>私は卑弥呼やイヨの時代は九州説だけど
それで、なんで王墓が一つしかないの? >>195
>>「歴韓國乍南乍東」は、韓國陸行です。<
>魏志倭人伝より引用 「循海岸「水行」、歴韓國、乍南乍東、到其北岸狗邪韓國」
頭おかしいんじゃないの? <
循海岸水行なら、
海岸沿いの波打ち際近くの水行になり、
巨大なリアス式の半島では、歴韓国には極めて膨大な時間と危険を伴い、
「乍南乍東」では全く航行出来ず、
韓の方四千里だけでも8千里になって七千余里には全くならず、
沖合洋上航行であれば、
半島南岸は倭地であるから、歴韓国も出来ず、
郡から沖合洋上航行では、狗邪韓国へ逆戻りする矛盾あり、
持衰の乗った倭船になるから、郡や魏の大型船であった事も否定され、
倭王武の上表文に「自昔・・・道kei百濟、裝治船舫」とあるから、
百済の地を陸行するのがルートであった事が記載されるなど、
郡から倭までの「全水行」説は全く否定されている。 >>196
>>「王墓」の位置は、それぞれの国の位置とは関係がないし、
特に奴國は、須玖岡本ではありません。<
>三雲南小路遺跡の王墓は、三雲遺跡群の中にあって、ここが伊都国の中枢ですよ?<
そんな内陸では、
「郡使往來常所駐」や、
「王遣使詣京都帶方郡、諸韓國及郡使倭國、皆臨津搜露、傳送文書賜遺之物詣女王、不得差錯」
も出来ません。
伊都国は、前原付近の海岸沿いや糸島水道付近です。
そして、奴國は伊都国の東南百里ですから、
丁度三雲や平原付近から東南地域であり、
日向峠を越えて、吉武高木付近の早良平野地域です。
>須玖岡本遺跡も、岡本遺跡群の中にあって、青銅器製作工房跡もある奴国の中心地です<
伊都国から奴國は移動の動詞がないから、側副傍線國の説明であって本行程ではなく、
だから伊都国の次は、
「東百里」に外縁部がある不彌國(藤崎西新町から東の海岸付近)になり、
邪馬壹國女王之所都は不彌國の直ぐ「南」ですから、
須玖岡本や那珂八幡付近の弥生銀座その物だ、という事になります。
違うというなら、どこ七日具体的な地名を「根拠」とともに挙げて、反論してみてください
印象操作の域を出ていませんよ!
反論する気なら、やり直しです!! あのね・・・
倭人伝に書いてある距離が
各国の中心地と中心地の距離だ
って定説を認めないで変な説を立てると
部分里程の合計が12000余里では
あり得なくなっちゃって
九州説メチャクチャになるよ >>347
>倭人伝に書いてある距離が各国の中心地と中心地の距離だって定説
そんな定説あったの?
聞いたことないんだが??? >>309
>鏡の配布と言う形式は同じだが、三角縁の配布など九州に一切なかった新たな方式を意図的に採用している事からも九州と畿内の鏡の配布に連続性は見いだせないのが分かる
九州も内行花文鏡を配布していたりしているから、鏡の形式が変わっただけ。
>前述したように畿内は既に弥生時代末期から独自の鏡を作成し、配布していることからも両者に直接的な繋がりはないのが分かる
そもそも本当に畿内で作られたかわならない。
裏付けとなる遺跡は?
畿内だとしても纒向が中心ではないだろう。 そもそも九州の鏡の序列は中国のシステムをそのまま採用してる物に過ぎない
九州の発明でも発祥でも何でもない
それが畿内に移動してると言うことは、すなわち九州が中国との交渉権を失ったことを意味してる
そして畿内は九州のシステムと全く違う独自の方式を作り出して「九州もその下位の序列に組み込んでいる」
これを見て九州が上だ、起源だなどと何をもって喚いてるのか皆目見当がつかない
九州説などこの程度の妄想しかない >>311
超大型内行花文鏡は九州独自の文化だと思うけどね。
平原遺跡の玉、耳璫なども、弥生時代の畿内では追いつけないよ。 >>339
古代の王宮は筑紫話国内を転々と移動した。
それだけのこと。 >>198
>>末盧國の上陸地は唐津港付近であり、<
>上陸地は、国の位置を示す代表的な地点にはならないでしょう<
「国の位置を示す代表的な地点」ではなく、
到着(至った)と認識できる地点までです。
だから、居住外縁部や入り口や門だろう、と言って来たのです。
出発点も同じです。
>横浜から東京に行くときに、多摩川を渡ったところまでの距離を書くのですか?<
日本と韓国の距離は、普通は、対馬北端から釜山の距離です。
横浜から東京に行くときは、横浜の出発点から、東京の中の目的地の外縁部までであり、東京のどこでもよければ、多摩川を渡ったところまでです。
>>>196でも書きましたが、弥生時代の王墓は中心集落内またはその隣接地に作られます 王墓をその国の代表点に取るのが妥当だと思いますが?<
思いません。
常識的には、その国の支配域や都の入り口です。 >>300
>ナガスネヒコなどヤマトの勢力は征伐されているからね。
畿内説の通常の解釈では、崇神天皇またはその前代の頃が纏向遺跡の建設時期であり、
邪馬台国の時代だと考える
記紀の系譜を参照するにしても、ナガスネヒコの討伐とウマシマジ(物部氏)の帰順は
邪馬台国時代のはるか昔だよ
個人的には、神武から崇神までは記紀系譜の直系十代ではなく、
古系譜研究家の宝賀寿男氏のいう、兄弟継承を含み神武から崇神まで5世代が妥当だと思っている
>考古学的にも、それに矛盾する結果は出ていない。
ナガスネヒコの実在を示す考古学的証拠は私は知らないんだが、何を「根拠」にそういうのだろうか? >>301
>桜井茶臼山古墳はそれらをばら蒔いてるね
>81面とはそういう事
>完鏡近くまで復元できるものはなかったはず
ただ、発掘時の状況として、既に盗掘済みでめぼしいものはないだろうと思われたのちに
土をさらって古いにかけて鏡片を拾い集めて分類したという、研究者の執念の成果だから
完鏡近くまで復元できるものがないのは、仕方がないとしてくれ >>302
>平原が時代的に先だしな。
耳飾(耳璫)とされる金層ガラスを重視すれば、他の遺跡での出土例は古墳時代までくだり、
弥生時代としては初出であり、平原1号墓の年代を古くするのを躊躇わせる要因になっている
MnO 含有量の多い青紺色ソーダ石灰ガラスのものは古墳時代でも後期のものが多く
例えば藤ノ木古墳から出ている
「平原遺跡出土ガラスの保存科学研究」(肥塚隆保 奈良文化財研究所 年報 2000)
ttps://repository.nabunken.go.jp/dspace/bitstream/11177/2668/1/AN00181387_2000_%E2%85%A0_32_33.pdf
そうなると、平原1号墓が絶対に桜井茶臼山古墳より古いとも言い切れないぞ
まあ、弥生時代終末期でよさそうだとは思うが
>それを比べて、茶臼山の方がすごい とかいうのが頭悪い。
といっても、実際それだけ多くの鏡種・枚数を揃えているのは事実なんだから
素直にすごいと認められる>>301を見習いなよ
破鏡の習慣は、その前にも後にもそれほど盛行した習慣ではなく、
どちらが先にしてもそれほど離れた時期ではないのだし、大体同じ時期に
より多くの鏡を使っている桜井茶臼山古墳の方が、より大きな勢力を
背景としているのは明らかだろう?
平原1号墓は九州説虎の子の3世紀前後の唯一の王墓候補なのに対し、
桜井茶臼山古墳は大王墓候補から外れているから発掘できたということも
考えてごらん >>199
>>奴國は、入口の三雲や平原付近から、日向峠を越えて、吉竹高木の早良平野付近<
>吉武高木遺跡は、最初期の王墓と言われることもある遺跡だけれど、
それは仮称「早良国」の王墓であって 奴国の王墓ではないよ<
「早良国」とは、現在の通説者が名付けた呼称であり、本来は存在しない国名。
>水系が違うからね <
早良平野と吉竹高木(吉武高木ともいうらしい)」は、同じ室見川水系。
>のちに奴国に合流(併合?征服?)されて、奴国の領域になるけれど、<
須玖岡本説は、魏志倭人伝の説明に合わないから、×。
>ある国まで行くときの旅程を 国境を越えたところまでとはしないだろう?<
三雲や平原付近では2万戸が困難であり、
吉武高木が、倭奴國の頃からの首都であった可能性があるからの推定であり、
国境ではなく、峠を越える事になるだけ。
>>>198にも書いたけれど
横浜から東京に行くときに、多摩川を渡ったところまでの距離を書いたりしないだろう?
東京なら日本橋までだし、普通は県庁所在地(市役所等中心地)までだ<
県庁所在地や市役所が目的地であれば、その門や入り口までだ。 >>321
纒向は掘っても無理
校舎立てるとき見つかって無いし
もしくは桜井市の学校は全部木造かなWw >>205
>根拠も出さずに「典型的な詐欺師」とか言ってるあたり、
十分に馬鹿に見えるんだけどなww<
この男は、口先での誤魔化しをぐずぐず言っているだけで、
結局は、平原の副葬品に関する具体的な反論を書いていないんだから、
十分「典型的な詐欺師」や「馬鹿」にみえるんだけどなあ。 纏向周辺の学校
纒向小
織田小
橋本小
東小
箸中
大三輪中
・
・
・
みんな鉄筋コンクリート
掘っても何も出なかった証拠 >>363
良いところを突いてるね
俺は橿原市の鴨公庄学校出身だが
同校は藤原京跡の中心に木造で立っていたが
鉄筋にするとき場所を移転した >>303
>平原1号は、21枚の「尚方作」鏡があるから、
珍しく根拠を書いているけれど、「尚方作」は19面だよ
>明帝→卑弥呼の100枚の銅鏡を元にしたものである事が確実であり、
>だから、卑弥呼の死以後。
これは大間違い
前漢鏡にも「尚方作」銘鏡は多くあり、というかそもそもほとんどの漢鏡の銘文は
「尚方作」で始まっていて一部「王氏作」があるくらい
そして、方格規矩鏡の製作年代が1世紀の中頃より繰り下がらないのだから、
それを卑弥呼の銅鏡100枚にあてるのは、無理がある
魏皇帝が、大陸内で100年以上伝世したものを国中から集めて、そんな骨董品を
皇帝の威を示す下賜品にしたってことになるんだぞ?
自分の主張がいかにおかしいか、理解できたかな?
参考 「鏡の考古学」ttp://home.p07.itscom.net/strmdrf/kagami.htm >>304
>「南≠東」
ワンパターンだなぁ
それだけでは、否定できないことは>>324で説明済み >>305
>大和は天皇を称したのは、天智からだから、
>それ以前には、「天皇」も「皇后」もいなかった。
だから何? ただの表記法にけちをつけて何かを否定してつもりになっているだけだろ?
そもそも漢風諡号は奈良時代の淡海三船(天智天皇の四世孫)が付けたものでそれ以前はないぞ
御間城入彦五十瓊殖って書いても>>305は何のことだか分からないだろ? >>208
>>邪馬壹國女王之所都は、不彌國のすぐ南だ。<
>九州説の頼みの綱の、「総旅程萬二千里」からすると、不彌國から千三百里のはずなんだが、すぐ南でいいのかい?<
「方四百余里」の對海國の国内見聞移動記録があり、
「方三百里」の一大國の国内見聞移動記録があり、
それだけで、合計「700里〜1400里」の移動を加算しなければならない事になり、
奴國への説明には途中の移動があった事を示す説明がないから、側副傍線行程國の説明であることになり、
魏使らは行っておらず、
だから、最高で1400−100=1300里位の移動距離が増えた事になり、
不彌國で、萬二千余里がほぼ消化されていたことになる。
>それに、>>194理論だと、国境を越えたところまでで距離を測るらしいから、<
そんな事は言わないねえ。
居住外縁部や入り口や「門」までの距離だ、と言っているんだよ。
>すぐ南なら距離は0になるよね?<
元々「余」が付いた概数での計算だから、「ほぼ0」だ。 纒向も鴨公も同じ邪馬台国、ヤマト国の一員。
かき集めて七万戸にすればいいんだよ。
仲良くしろ。
それとも卑弥呼の拠点の争いか?縁起悪いものになりたいんだな。 >>210
結局、「南→東」などの嘘つき騙しの、
定説的な詐欺師学者らの「公式の調査報告書」を絶対信仰しないと、
大和説はニッチもサッチも行かないわけだな。 >>306
>「結論先にありき」の学者の「調査報告」には、 何の信頼性も価値もない。
柳田先生が畿内説だというだけで、内容の検討も一切せずに
「何の信頼性も価値もない」という「結論先にありき」でしか語れないのが>>306だよね?
自己紹介乙、としかww >>307
>その「漢鏡」という判断をしたのは誰なんだ?。原田なのか?、柳田なのか?。
原田大六先生だよ
>またその根拠は何だったんだ?。
だから2000年の「平原遺跡(前原市文化財報告書)」を読みなさいって
>後漢代の朝貢で「鏡を貰った」などという記録など、ないんだろ?。
いつでも>>307は「ないこと」を根拠にしてしか論じないよね
古代史ってのは時間の壁の向こう側だから得られる情報が少ないし、
「見つからない」だけのもの(本当はあった)も多いことを、自分の都合しだいで
九州説に都合のいいときはあるといい、悪いときはないと、恣意的に言ってるだけなんだよな >>218
>九州説の人は卑弥呼が天照大御神なの?<
古田さんや古田説の方々や私は、最低、「違う」ね。 >>220
「南→東」などのような大和説者や、朝鮮人差別や、
国粋皇国史観殺し合い戦争の鼓舞扇動を広言するようなあんたら以上の、
醜態など存在しない 。 >>365
>そして、方格規矩鏡の製作年代が1世紀の中頃より繰り下がらないのだから、
これが間違い >>372
原田を出すなら「平原弥生古墳 上巻下巻(1991)」だろ >>310
>何故、新しい大型墳丘墓が必要になったのか?の理由に、
>大陸からの強力な渡来流民の存在の考察は不可避だな。
また謎の妄想を始めたな
弥生人と縄文人の間の骨格の違いは、食事の違いであって、体格が変わるほどの
外来民族の流入はないぞ
そして、半島南部の狗邪韓國まで倭人の領域なんだから、どこをどう通って
流民が来るんだい?
>それまでの墓とは全く違うんだから、
>新規の「有槨」部族の渡来、という事が不可欠だろうな。
本当に妄想がきついな
高地性集落も廃絶されてからだぞ、ローカル王の大規模弥生墳丘墓が作られるのは
渡来部族の征服も侵入も想定できない
「根拠」のない妄想はいくら書いてもムダ >>312
>「観念的な距離での嘘つき騙しの報告」を魏帝に書いた、とバレれば、
>そりゃ、その首が危ない。
東西とも再遠方の大月氏と倭国が、ともに親魏大月氏王、親魏倭王とされていること、
漢土の境界である敦煌、帯方郡がともに都から五千里とされていること、
そしてそれぞれ敦煌、帯方郡から萬二千里程度とされていることから、
この距離は中華世界の大きさ(最果てまでの距離)を表す理念的な数値と考えた方がよい
そしてこの観念のネタ元が淮南子: 時則訓
短里などはなく、実測値でもない理念的な数値なので
「自郡至女王國萬二千餘里」だから九州というのは、ほぼ意味がない >>368
対馬や壱岐の説明文には方とあるだけで
行とか至とかの移動途中の説明の動詞がないよ >>314
これは既に「論破済み」だな
>陳寿が原則として「地域間距離は、その居住外縁部間の距離」で表記している
「根拠」を示してね
国境を接しているところを距離0として、それぞれの内国移動距離を書かなかったら
総距離が分からなくなるから、他国の地理を報告する訪問記録としては意味がないのが分からないんだろうな >>369
魏志倭人伝の個数をかき集めれば8万戸
邪馬台国は7万戸 >>315
>平原が「西新式土器」を副葬しなければならない、
>という決まりがある訳でも、必要がある訳でもなく、
いや、西新式土器の前の形式の土器と見られるものが出ているから、
「西新式」の直前くらいと想定されているだけだぞ?
自分が何を書いているのか理解できているんだろうか? >>235
>>箸墓が、那珂八幡を模倣したんだから。<
>畿内古墳では三角縁神獣鏡の図像の変遷による編年ができあがっており、<
単なる相対編年であり、
そもそも、大和の三角縁神獣鏡は4世紀以後であり、
筑紫や「大和以外の地」の三角縁神獣鏡よりも新しいんでしょ?。
>さらに最初期の定形型前方後円墳は三角縁神獣鏡が副葬されて「いません」。
3世紀最末期以降になるホケノですら、三角縁神獣鏡は副葬されていません。
>那珂八幡古墳から三角縁神獣鏡が出ている時点で、
箸中山古墳より前っていうのは「ない」んですよ <
筑紫の土器編年は、同じものの大和の土器編年よりも、50年位は古い、という事は常識でした。
だから、布留の始まり同士の、ホケノや箸墓よりも那珂八幡の方が50年位古い、
という事になる。
こういう基本すら押さえずに書き散らすだけの人だとはっきりしましたね!。 >>319
>都市機能に吉野ケ里が進んでいたのは一目瞭然
「一目瞭然」でごまかさないで「根拠」を書いてね!
そもそも、吉野ヶ里遺跡は「墓域まで環濠で囲っている」から、環濠が長くて
「最大の環濠」集落と言われているのであって、墓域を除いた集落部分だけなら
唐子鍵遺跡の方が大きい
吉野ヶ里遺跡を比べるなら、愛知の朝日遺跡の方が比較対象として意味がある
あそこの環濠も逆茂木があるなど、防御を意識した環濠が見られるから >>236
結局「南→東」などの嘘つき騙しの大和説は、
国民投票でも、掲示板でも、衰退したな。 >>240
>伊都の地名が紀ノ川沿いにあるだろう。 神功皇后応神で伊都国の勢力は畿内に移ったんじゃないかな。
魏志倭人伝でも千戸しかない小さい勢力だし。<
そもそも「紀伊」という地域名が、
姫氏=紀氏の「紀」と、
天孫族の「阿毎=アマの伊」の伊都国の「伊」だし、
日本中に「伊」の文字が付く地域名が一杯あるし・・・。 >>324
>だから、「東南」は出発時の方向記録であり、目的地の方向ではない。
地図一つ見ずに、勝手な脳内妄想を書いているだけなのが丸分かり
末盧國から東南に向けて出発して短里で五百里で伊都国にいたる経路はないぞ
大陸史書の地理旅程記事を確認してもらえば分かるが、
起点と終点を結ぶ直線方向が書いてあるのが基本
大雑把な地図(実際に描いたか想定だけかは確認のしようもないが)を
用意して、その上での2点間の方角を記述しているようだ
例えば旧唐書の舊唐書列傳第一百四十七南蠻西南蠻では
「皋遂命巡官崔佐時至牟尋所都陽苴棟驕C南去太和城十餘里,東北至成都二千四百里,東至安南如至成都,通水陸行」
陽苴棟驍ヘ現在の大理白族自治州大理市で、そこから東北に2400里で成都、
東に水行陸行を通して成都に至る如し(同じくらいの距離)で安南(ハノイ)に至る
2400里進むときに、出発方向だけ書いてそのあと方向転換してたら、
どこに何があるかを示すための情報としては価値0だろ?
そして、成都から安南までは東至安南と書いてあるが実際には東南
大陸史書の地理・旅程の記述で、方角が間違っているところは結構ある
「南≠東」を絶対だと思って思考停止している人には分からないかな?
私はきちんと「根拠」となる「原文とその解釈」を、きちんと書いてるだろ?
反論したかったら、ちゃんと「論拠」を挙げて反論してごらん?
>>324に対する要求水準としては高すぎるかな?ww >>66
魏志の記載例を根拠にして
魏志の記載例が短里だったと機能的推論したというのは
循環論法 >>324
>大和は「附庸」地に属するとしか書かれていないのであり、
>「大和までの行程」も全く書かれていない。
いやいや、
「達於海岸 自竹斯國以東皆附庸於俀
俀王遣『小徳』阿輩臺従數百人設儀仗鳴皷角來迎
後十日又遣『大禮』哥多毗従二百餘騎郊勞 既至彼都」と書いてあるじゃないか
瀬戸内海を渡ってきて、海岸に着いたところで出迎えるのが『小徳』阿輩臺で
さらに都まで案内するのが『大禮』哥多毗
小徳も大礼も、大和朝廷の冠位十二階だろ?
大和の都まで着いてるじゃないか 張り付けたろ
363日本@名無史さん2018/02/16(金) 17:52:11.31>>364
纏向周辺の学校
纒向小
織田小
橋本小
東小
箸中
大三輪中
・
・
・
みんな鉄筋コンクリート
掘っても何も出なかった証拠
364日本@名無史さん2018/02/16(金) 17:59:34.42
>>363
良いところを突いてるね
俺は橿原市の鴨公小学校出身だが
同校は藤原京跡の中心に木造で立っていたが
鉄筋にするとき場所を移転した 張り付けたろ
363日本@名無史さん2018/02/16(金) 17:52:11.31>>364
纏向周辺の学校
纒向小
織田小
橋本小
東小
箸中
大三輪中
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みんな鉄筋コンクリート
掘っても何も出なかった証拠
364日本@名無史さん2018/02/16(金) 17:59:34.42
>>363
良いところを突いてるね
俺は橿原市の鴨公小学校出身だが
同校は藤原京跡の中心に木造で立っていたが
鉄筋にするとき場所を移転した ザラコクの目的はこうだ
筋が通ってなかろうが何だろうが何でも反論っぽい事言って
それを見た人の千人に一人でも九州説を信じればそれでいいという 張り付けたろ
363日本@名無史さん2018/02/16(金) 17:52:11.31>>364
纏向周辺の学校
纒向小
織田小
橋本小
東小
箸中
大三輪中
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みんな鉄筋コンクリート
掘っても何も出なかった証拠
364日本@名無史さん2018/02/16(金) 17:59:34.42
>>363
良いところを突いてるね
俺は橿原市の鴨公小学校出身だが
同校は藤原京跡の中心に木造で立っていたが
鉄筋にするとき場所を移転した 張り付けたろ
363日本@名無史さん2018/02/16(金) 17:52:11.31>>364
纏向周辺の学校
纒向小
織田小
橋本小
東小
箸中
大三輪中
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みんな鉄筋コンクリート
掘っても何も出なかった証拠
364日本@名無史さん2018/02/16(金) 17:59:34.42
>>363
良いところを突いてるね
俺は橿原市の鴨公小学校出身だが
同校は藤原京跡の中心に木造で立っていたが
鉄筋にするとき場所を移転した >>324
>竹島から来て済州島の近くを通り、
南望聃羅國だから南に望むだけで、済州島の近くまで南下はしてないぞ
>都斯麻國は迥在大海中はと記しただけであるから、上陸しておらず、
>都斯麻國を眺めて、
こっちは「經」都斯麻國だから、対馬を経由してる
遠くから見てるだけじゃない
>一支國へ行った事になり、
>都斯麻國の南方海上から一支國は「東〜東南東」であるから、「東」でぴったりであり。
間違っていない。
漢文の旅程では、
起点があって (例えば伊都国)
方角 (東南)
目的地 (至奴國)
がひとまとまりとして書かれる
東至一支國の起点は、その直前にいるところ・経由地だから都斯麻國にしかならない
>>324はこれを書いてて、恥ずかしくならなかった?
>>324は漢文を読めないしまともな解釈もできませんって自分で書いてるんだぞ? 張り付けたろ
363日本@名無史さん2018/02/16(金) 17:52:11.31>>364
纏向周辺の学校
纒向小
織田小
橋本小
東小
箸中
大三輪中
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みんな鉄筋コンクリート
掘っても何も出なかった証拠
364日本@名無史さん2018/02/16(金) 17:59:34.42
>>363
良いところを突いてるね
俺は橿原市の鴨公小学校出身だが
同校は藤原京跡の中心に木造で立っていたが
鉄筋にするとき場所を移転した >>325
>おそらく、・・・・アホのキミの分裂幻覚の妄想。
そう思うのは>>325の自由だけど、「根拠」を示してね!
>現地へ行かなかった後代のアホ史家ならそんなアホな事は有り得るが、
>現地を見た使者は、当然、実見に従って記録するもの。
三国志の撰者の陳寿は現地に行ってないから、ありえるよね?ww
実見に従った記録を、観念に合わせるために修正することはありうるよね?
>>325もそれを認めてるww ザラコクは反論が来ない様に
人の居ない時間に前スレのレスに罵詈雑言を浴びせる >>342
そうだな〜、卑弥呼の後で男王、その後にイヨだから、平原遺跡のある曽根から離れるだろうね
イヨの時代だと前方後円墳になってるかも?だから糸島地区で最古相は御道具山古墳だね
系統は那珂八幡系列で、同時期か少し新しいぐらいと思われるけど、未発掘なのが残念
糸島は前期の前方後円墳の多い所だけど、殆ど未発掘だから何が出るか楽しみではあるが、発掘に動く気配無いんだよなぁ >>327
>どこの何時の?首長墓と比べたんかね?。
弥生末期〜終末期、古墳時代の直前の時代
卑弥呼の共立の直前くらいの頃
どこのってのは、たくさん書いてあるだろ?
>>156他
吉備の楯築墳丘墓は二つの方形突出部を入れて墳丘長72メートル、
出雲の西谷9号墓は四隅突出墓でその突出部まで入れるとおよそ60×50メートル、
丹波の赤坂今井墳丘墓は東西36m、南北39m、高さ3.5mの墳丘部に加え四方に5〜9mの平坦部がつく
畿内の纒向石塚古墳で全長96メートル、東田大塚古墳で墳丘長120メートルある
>また、どういう理由で「貧弱」だった、とで判断したのかね?。
いや、どう見ても大きさが、比較するのもおこがましいほど小さいだろ
弥生時代の普通の家族墓と同じくらいの大きさしかない
>「11本の鉄剣 」のような、大量の武具が、何故副葬される必要があるんかね?。
女王として、ではなく、王としての副葬品、威信材に言及してるんだよ
鉄剣の本数は、王の権力を示す重要な指標になる >>328
>何を誤魔化しているんだい?。
>不彌國付近から大和までの「距離や里数」を計算して、証拠のような形で提示したのは、
>お前の方から、 であったんだよ。
どこにあるのかな?
コメント番号を引用して示してくれないかな?
いつも「根拠なし」で書き散らすだけの>>328でも、それくらいならできるだろ? >>401
桜井市役所も纏向学研究センターも木造だよ Ww ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています