>>196
>>「王墓」の位置は、それぞれの国の位置とは関係がないし、
特に奴國は、須玖岡本ではありません。<

>三雲南小路遺跡の王墓は、三雲遺跡群の中にあって、ここが伊都国の中枢ですよ?<

そんな内陸では、
「郡使往來常所駐」や、
「王遣使詣京都帶方郡、諸韓國及郡使倭國、皆臨津搜露、傳送文書賜遺之物詣女王、不得差錯」
も出来ません。
伊都国は、前原付近の海岸沿いや糸島水道付近です。
そして、奴國は伊都国の東南百里ですから、
丁度三雲や平原付近から東南地域であり、
日向峠を越えて、吉武高木付近の早良平野地域です。

>須玖岡本遺跡も、岡本遺跡群の中にあって、青銅器製作工房跡もある奴国の中心地です<

伊都国から奴國は移動の動詞がないから、側副傍線國の説明であって本行程ではなく、
だから伊都国の次は、
「東百里」に外縁部がある不彌國(藤崎西新町から東の海岸付近)になり、
邪馬壹國女王之所都は不彌國の直ぐ「南」ですから、
須玖岡本や那珂八幡付近の弥生銀座その物だ、という事になります。

違うというなら、どこ七日具体的な地名を「根拠」とともに挙げて、反論してみてください

印象操作の域を出ていませんよ!
反論する気なら、やり直しです!!