邪馬台国畿内説 Part325
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邪馬台国論の鉄板、畿内説のスレです。
【骨 子】
・3世紀中葉には、古墳時代が開始していた。
・出現期古墳段階で、近畿中央部を中心に列島規模の政治連合が形成され始めていた。
・北部九州博多湾岸地域は、既にこの政治連合の傘下にあった。
ゆえに、倭女王卑弥呼の都があったのは畿内である。
邪馬台国論争ももう畿内で決着なのでロマンはありませんが
勝者の貫録を見せつつ、更なる真実を探求しましょう。
前スレ
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1518294984/
◆0【 要 旨 】 ( >>2-12に各論、それ以下にFAQを付す )
纒向遺跡の発掘状況等から、ここには西日本の広域に影響力を持った宗教的指導者が君臨しており、それは各地の首長に共立され求心的に集約された権力基盤を持つ女性であったと考えられる。
その死亡時期は3世紀中葉とみられる。畿内に中国文化が急速に浸透する時期である。
これらを倭人伝の記事と対照すると、箸中山古墳の被葬者が倭人伝に記載ある曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、纒向が邪馬台国にあった倭女王の宮殿所在地であると同定できる。
2世紀の地球規模的寒冷化は、農業生産力を強化する社会的需要から指導的地位を占める析出集団の成長を強烈に促進し、弥生的青銅器祭祀を終息せしめ、高塚化した墳丘墓を現出させる。
換言すれば、弥生墳丘墓の巨大化が顕著な地域こそが、弥生社会に古墳時代へと向かう構造変化の著しい地域であり、3世紀に爆発的に広域化する萌芽期国家の中核である。自然環境変化に起因する社会構造変化が現象として纒向に凝集し結実したと言える。
倭人伝に記載された卑弥呼の活動期間に相当する庄内併行期は、畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入している時期であり、ことに那珂比恵地域への人口流入が急拡大していく。
博多湾貿易が対外交渉の主役に躍り出るこの時期には、西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易をする段階となっている。
絶域であった日本列島が中華社会と二国間の国交を再開した時期、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の倭国の中枢である。
倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
それは桜井市纒向以外にありえない。 >>407
嘘つけ
みんな鉄筋
建設する過程で纏向は何も出ないと桜井市も知ってたから立てたんだよ
纒向は奈良の豪族どもの墓地確定
邪馬台国と関係ない
大和王権のみ関係するかも >>337
>三角を必死に持ち上げてるけど、出土数や三角の扱われ方を見ると、他の種類の鏡より格下
>これは北部九州でも同じ
>悪いが三角は大量生産品の花輪的鏡でしかないなぁ
なぜ、大量生産して大量配布したのか、と、なぜ、卑弥呼の遣使のときの年号鏡があるのか、を
つなげて考えられるだけの論理構成力があれば、三角縁神獣鏡が「大量に出る」ことの重要さが
分かると思うよ
>>337には難しいかな? 聖武天皇の難波行幸に従駕した笠朝臣金村(かさのあそみかなむら)の詠んだ一首
押(お)し照(て)る 難波の国は 葦垣(あしかき)の
古(ふ)りにし郷(さと)と 人皆の
思(おも)ひ息(やす)みて つれも無く ありし間(あひだ)に積麻(うみを)なす
長柄(ながら)の宮に 真木柱(まきばしら) 太高(ふとたか)敷きて 食国(をすくに)を 治めたまへば 沖つ鳥
味経(あぢふ)の原に もののふの 八十伴(やそとも)の緒(を)は 廬(いほり)して 都(みやこ)なしたり 旅にはあれども
壬申の乱で天武に敗れたなにわは、奈良時代はさびれていたんだね。
この歌からは、芦原中津國、食国であるのが伺える。 >>399
一方、糸島は東風小学校設立の時、潤地頭給遺跡発見
九州では出ないと思われてた弥生終末〜古墳前期の玉造工房の発見、古墳初頭の井戸跡から準構造船、木棺墓+位至三公銘蝙蝠座鈕内行花文鏡が出土
準構造船ばかりが注目され、この鏡に関してはあまり話題にならないが結構重要 大中臣氏の歌
たづのすむ沢べの蘆の下根とけ汀もえいづる春は来にけり(後拾遺9)
【通釈】鶴の棲む沢辺の蘆の地下の根に張っていた氷が解け、汀(みぎわ)がいっせいに芽吹く春はやって来たのだ。
平安時代、汀(上町台地〜泉北丘陵)に春がやってきた。桓武天皇で天智系に戻ったからかな。 桜井市より橿原市の方が都にふさわしい
橿原考古学研究所の分家が桜井市纏向学研究センター
公務員のやることはケシカラン >>412
まず、三角は中国鏡とする根拠から必要
巷は国産説に傾きつつある状況
魏の現地では紀年鏡は殆ど見られないのも重要
三角については特別な年号を後から入れたんだろうね
紀年鏡はすべて4世紀以降の墓から出土してるし
鏡副葬文化は元々北部九州だから、そういう内容も文化と一緒に伝播したんじゃない? 纒向小建設時の調査では大溝が検出されているのだが… >>391
日本国民は勤勉だし、正直だから
似非学者は見破るよ >>368
弥生末期の平原と、古墳時代の茶臼山。
時代も違うのに比べてどうこうというのが、頭悪いと言っている。
お前の頭が悪いからわからないのか? >>369
橿原がヤマト王権発祥の地なのだ
邪馬台国は九州でもどこでもいい
考えて見ろ
天皇家の先祖が鬼道とか生口とか生贄なんてしねーよ >>358
弥生末期の平原と、古墳時代の茶臼山。
時代も違うのに比べてどうこうというのが、頭悪いと言っている。
お前の頭が悪いからわからないのか? >>343
やっぱり、>>343は頭がおかしいと理解するよりないな
>循海岸水行なら、
>海岸沿いの波打ち際近くの水行になり、
>巨大なリアス式の半島では、歴韓国には極めて膨大な時間と危険を伴い、
海岸=波打ち際だと思ってるのかww
「循海岸」は半島の南西角で曲がるという意味
単に現代語の道案内で「道なりに行って」というのの海路版
「海岸線(の概略)に沿って」だよ
>「乍南乍東」では全く航行出来ず、
これをジグザグに進むことだと思ってるみたいだけど、そんな意味はないから
単に「南に行く部分と東に行く部分がある」ってだけ
>韓の方四千里だけでも8千里になって七千余里には全くならず、
半島の南西角で曲がってから東に3千里行くってのが、通常の解釈だぞ?
>沖合洋上航行であれば、
>半島南岸は倭地であるから、歴韓国も出来ず、
韓国の西岸を通っているんだから、そこで韓国を経(歴)てるだろ?
>郡から沖合洋上航行では、狗邪韓国へ逆戻りする矛盾あり、
これも意味不明だよな?
普通は、狗邪韓国を釜山付近に想定しているよ
半島の南西角を曲がって東に航行して着く場所だから、逆戻りなんてしてないだろ? >>343 続き
>持衰の乗った倭船になるから、郡や魏の大型船であった事も否定され、
持衰が乗るのは其行來「渡海」の時
海岸沿いの「水行」と対岸に渡る「渡海」は区別されてるから、
「循海岸水行」では持衰は乗ってないかもね
それに、持衰が和船にしか乗らないとはどこにも書いてないから、
>>343は意味のないことを書いてることになる
>倭王武の上表文に「自昔・・・道kei百濟、裝治船舫」とあるから、
>百済の地を陸行するのがルートであった事が記載されるなど、
原文は
「自昔祖禰躬甲冑跋渉山川不遑寧處 東征毛人五十五國西服衆夷六十六國渡平海北九十五國王道融泰廓土遐畿 累葉朝宗不愆于歳
臣雖下愚忝胤先緒驅率所統歸崇天極道遥百濟裝治船舫」のことだな
昔より、は「祖禰(そでい)躬ら甲冑を擐き…」にかかるだけで、後半の
「臣、下愚と雖も忝くも先緒を胤ぎ、統べる所を驅率し、天極に歸崇し、道百濟を遥て、船舫を裝治す」
にはかからないぞ
そして「道百濟を遥て」の「道」は陸路とは限らない
単に経路くらいの意味で、海路の「路」と同じ意味
>郡から倭までの「全水行」説は全く否定されている。
ほぼ、妄想だよねww
>>344さん、まったく同意です!!
何でこんなのの相手をしなくちゃいけないんだろう? >>430
同意
各説 三角は邪馬台国の物証にならない >>410 正解かも
>纒向は奈良の豪族どもの墓地確定
邪馬台国と関係ない
大和王権のみ関係するかも < これ証拠だな
>纏向周辺の学校
纒向小
織田小
橋本小
東小
箸中
大三輪中
・
・
・
みんな鉄筋コンクリート
掘っても何も出なかった証拠
> >>431
何いってるんだ?
中国製なら九州説即死じゃんか
日本製でも畿内説は痛くも痒くもない 平原の方格規矩鏡は中国製説が急浮上してる
ただし、それは三角と非常に近しいところで作られている可能性が指摘されたから
三角を日本製とするなら、平原の方格規矩も日本製とみるべきという状況 >>423
>纒向小建設時の調査では大溝が検出されているのだが…
溝だけかよ。
纒向終わったな。 ザラコクは自演も成り済ましもしないという点だけは評価できる >>410
纏向学研究センターは纏向遺跡の中心地だな
掘って、何も出なかったか 変な物出てきたから建設したんだろ >>345
>そんな内陸では、
>「郡使往來常所駐」や、
>「王遣使詣京都帶方郡、諸韓國及郡使倭國、皆臨津搜露、傳送文書賜遺之物詣女王、不得差錯」
も出来ません。
国の位置をなんだと思っているのかな? 首都ってどこの国でも、国家元首の居所だろ?
「郡使往來常所駐」だから海の近くって、上陸したばかりのところに大陸からの使者を泊めるのかい?
そんな失礼な仕打ちをするのか? 普通は、きちんとした迎賓館的なところに迎えるだろ?
それが海岸にある必要はないだろうが?
「皆臨津搜露」も入国管理であって、そこに「国がある」訳じゃないだろ?
「成田空港の入国管理ゲートのところが国の場所だ」って言われたらおかしいだろうが?
>伊都国は、前原付近の海岸沿いや糸島水道付近です。
>そして、奴國は伊都国の東南百里ですから、
>丁度三雲や平原付近から東南地域であり、
すぐ上で、私が書いた「三雲遺跡群が伊都国の中枢」を否定しているのに
「伊都国は海岸沿い」って書いてるのに、伊都国からの距離を測るときには「三雲や平原」って言ってるww
「三雲が伊都国の中心地」でいいじゃん!
>丁度三雲や平原付近から東南地域であり、
>日向峠を越えて、吉武高木付近の早良平野地域です。
地図見てる? 平原や三雲から吉武高木は、ほぼ真東だよ?
人には、王墓の位置は国じゃないと言いながら、平原も吉武高木も王墓とされる遺跡だよな?
どんなダブスタやねん?ww >>435
三角縁が日本製なら、畿内説なんて何の根拠もない。 >>449
考古学の知識を持ち合わせていないことを自慢しなくてもいいんやで >>448
溝にしがみつくなんて可哀想。
福岡にもあるよ。 >>345
>側副傍線國の説明
そんな概念は、一部の「九州説の頭の中にしかない」んですが?
中国人に聞いても、放射読みとか傍線経路とかは「ない」そうですよ
>邪馬壹國女王之所都は不彌國の直ぐ「南」ですから、
これも、魏志倭人伝には「書いてない」ことですね
九州上陸までに1万里使ってるから、残りは2千里って言ってたのはどこへ行ったんですか?
この経路だと、九州上陸後に6百里しか使っていないのでまだ千四百里残ってますね?
それがすぐ南って、誰がどう見てもおかしいでしょ?ww 太陽は東から西へ。
大阪が夜の食国で月が治める時、
博多の空に太陽あり。
どちらも倭人の王。 >>424
学者はほぼ100パーセント畿内説なんだが 纏向小学校
昭和50年6月30日
新校舎施工。
何も出なかった 奈良に都のある大和朝廷は、大阪と何の関係もない。
大阪は奈良にしばかれてばかりなのだ。 >>449
スプリング8使って科学的に分析した結果三角縁は
当時の日本製品とは違う中国製品と同一の成分比率だったよ >>458
纒向が注目されるようななった調査がそれなんだぜ 三輪小学校
平成18年
新校舎(東館)・運動場落成
何も出なかった キウスはまともじゃないんだからまともに返してもムダなだけ 難波潟潮干に立ちて見わたせば淡路の島に鶴渡る見ゆ
鶴、丹頂、丹、 >>423
本当 なら 何故建設しちゃったの?
他になにも出なかったの?広い土地で? そらあそこら掘っくり返して親魏倭王の金印とか出たら苦労せんわ 【応神天皇(倭王讃)の難波大隈宮】
「あわじ嶋 いや二並び 小豆島 いや二並び 寄ろしき嶋嶋・・・」
この歌は、応神天皇の難波大隈宮がどこに営まれたか、その地理的条件を浮かびあがらせる。
通説の難波大隈宮から見えるのは、淡路島だけで、小豆島は105km離れ、淡路島北端の岩屋と神戸市須磨浦の鉢伏山山塊に遮られ、全く望むことは出来ない。
また、丘陵や山地が存在しないため、天皇が高臺から兄媛の船を見送ったという説話も生まれようがない。
さらに、天皇が徴発した三原の海人は、淡路島南端の三原郡の海人といえるが、大阪湾とは正反対の最遠地である。
これらの説話は、古代「難波」の地であった讃岐の出来事を伝えたもので、応神天皇の難波大隈宮は、
さぬき市津田町、雨滝山東斜面の御座殿・神野あたりに推定される。 >>345
>違うというなら、どこ七日具体的な地名を「根拠」とともに挙げて、反論してみてください
また真似っこだなぁww 本当にオリジナリティがないww
伊都国は糸島付近、中心地は三雲遺跡群
奴国は福岡平野、中心地はもともとは岡本遺跡群、
弥生後期になると比恵・那珂遺跡群の方へ中心が移るようだ
吉竹高木遺跡のある早良国は、奴国の衛星国が属国で奴国の中
今も、那の津という地名が残っている儺県が奴国の中なんだから、
岡本遺跡群を奴国の外に出すのはムリ
不彌国はある意味どうでもいい
投馬国は出雲
『投馬』の上古音は、dug-magでカタカナ表記なら「ヅマ」だ
「出雲イヅモ」のイが弱声化すれば、dug-magとかなり近い発音になる
投馬と出雲だと字面では似てないように思うだろうが、外国人が聞き慣れない発音を聞き取って当て字で表記したと考えれば、かなり妥当な推定だろう
出雲は、西谷墳墓群を作るほどの王権が発達した大国だという考古学的事実もある
弥生時代の遺跡からは各地の土器が出て、人の交流の結節点だったことが考古学的物証で示される
日本の記録、記紀でも重要な国として特記してある(古事記の神代の三分の一は出雲記事)
で、邪馬台国はヤマト国だよ
>>345のむちゃくちゃよりは、よほど筋が通っているし、地名とも整合性があるだろ?
>>346
完全に同意!! >>467
取るに足らないものしか出なかったから建設したんだろう
普通は建てないけどな >>470
投馬国はどちらかというと瀬戸内海の鞆の浦の可能性が高いと思うよ >>423
纒向小学校のHP見たけど
そんなの出てないな ガセネタかチンケな遺物 纒向にはわざわざ発掘しなくても3世紀の前方後円墳とかあるやんなあ >>360
>>水系が違うからね <
>早良平野と吉竹高木(吉武高木ともいうらしい)」は、同じ室見川水系。
日本語読めますか?
奴国のある那珂川と牛頸川流域と、早良国の室見川流域が、水系が違うから「元は別の国」って言ってるんだよ
>須玖岡本説は、魏志倭人伝の説明に合わないから、×。
「魏志倭人伝に合わない」んじゃなくて、「九州説の脳内妄想に合わない」の間違い
>三雲や平原付近では2万戸が困難であり、
なんで伊都国と奴国を一緒にしてるの?
奴国は早良平野まで含む福岡平野一帯だから、2万戸に相応だろう?
まあ、2万戸自体は実数ではなく誇張が入っているだろうけれど
>吉武高木が、倭奴國の頃からの首都であった可能性があるからの推定であり、
>国境ではなく、峠を越える事になるだけ。
その可能性の「根拠」は?
吉武高木遺跡の王墓の年代は弥生前期末から中期初頭(前三世紀末〜前二世紀初め)で、
漢委奴國王の朝貢とまったく時代が合わないんだけど?
>県庁所在地や市役所が目的地であれば、その門や入り口までだ。
なんだか、日本の常識と違うな、この人は >>475
そっから先南に水行10日陸行1月に邪馬台国がある事になるん?
九州南部は狗奴国だから投馬国を宮崎とすると地理的に収まりそうにないよ >>469
日本書紀に、応神天皇が、難波津から故郷へ船出する愛しい人の舟を見送りながら
「淡路嶋 いや二並び小豆嶋 いや二並び 寄ろしき嶋嶋 誰れか去れ放ちし 吉備なる妹を 相見つるもの」
(淡路島は小豆島と二つ並んでいる。私が立寄りたいような島島は、皆二つ並んでいるのに、私は独りにされてしまった。誰が遠くへ行き去らしてしまったのだ。吉備の兄媛を、折角親しんでいたものを)
別に難波から小豆島が見えるとか、そういう歌じゃないよ。 >>477
周りの人間は何言ってんのこの人って感覚だけど 大津皇子可哀想だな。
辞世の句
ももづたふ磐余(いわれ)の池に鳴く鴨を今日のみ見てや雲隠りなむ
ももづたふ、敦賀や鈴。
イワレと鴨を恨んでいるのかな。
雲隠りなむ、太陽が雲に隠れるのかな。
太陽は烏。
金烏臨西舎 鼓声催短命
泉路無賓主 此夕離家向
金烏の家は西にあるのかな。和泉路に賓主はなし。
我こそが応神天皇の子孫だと言いたかったんだろう。
息長氏(敦賀、鈴)、神功皇后、応神天皇。 >>478
>なんだか、日本の常識と違うな、この人は
中国では城郭都市の城門までだったと思うよ。
わざわざ町の中央からの距離を測るとは思えない。 >>362
王の権力の大きさの指標として、王墓の大きさはかなり重要だってことが認められずにダダと捏ねてるだけじゃん
舶載鏡2面は、当時の墳墓としては特に珍しくもない
結局「でかい鏡がある」と「仿製鏡であってもたくさんの鏡がある」のがすごいって言えばすごいかな
これが卑弥呼の墓だとすると、なぜ魏の皇帝から新しい鏡を100枚もらったのに、それより150年も前の鏡の仿製鏡を30枚以上も作って副葬しなきゃいけないのか、説明してごらんww 奥山に 紅葉踏みわけ 鳴く鹿の 声きく時ぞ 秋は悲しき
奥山、オクヤマツミ、秋津。
鹿、鹿島の鹿、関東の先住民、中臣の守り神。
鹿が鳥の味方になり、オクヤマツミの勢力は負け秋が来た。悲しいなぁ。 >>481
>「淡路嶋 いや二並び小豆嶋 いや二並び 寄ろしき嶋嶋 誰れか去れ放ちし 吉備なる妹を 相見つるもの」
>(淡路島は小豆島と二つ並んでいる。・・・・・・)
難波から小豆島が見える、そういう歌。 >>480
なるほど
それで何で計ったの
ベニバナ花粉?
桃核? 熨斗鮑、
伊勢神宮でアワビを刻んで熨斗を作る伝統がある。
阿波忌部。
アワビを刻む度に、罪を噛み締める役割を担っていたのかな。 サルタヒコの遺言。
「底どく御魂」「つぶたつ御魂」「あわさく御魂」
底、独、常、立、阿波サク
国底立神、国常立神、鬼門に封じられた神、天香久山に祀られている神。
&阿波咋。
倭国大乱を引き起こした張本人。 「神道五部書」の『豊受皇太神御鎮座本記』の内容を「国史大系」の第七巻から見てみると「天村雲命伊勢大神主上祖也。
神皇産霊神六世之孫也。阿波國麻植郡座忌部神社、天村雲神社、二座是也」
阿波國に座す二社(忌部神社、天村雲神社)が皇祖皇統の正統なる末裔であると記している。
阿波忌部が伊勢神宮(少なくとも外宮の)の正統なる祭祀者であり、伊勢神宮は阿波忌部の上祖を祀っているのである。 >>377
>>そして、方格規矩鏡の製作年代が1世紀の中頃より繰り下がらないのだから、
>これが間違い
否定したいなら「根拠」を書けと何度言えば!
書けないんだろうけどさ
>>365に書いておいた「鏡の考古学」ttp://home.p07.itscom.net/strmdrf/kagami.htmが
詳しいから読んでおいで
中国の墳墓から出た年代の確実な鏡との共伴関係を基盤にして、岡本編年より信頼できる論になってるから 魏志倭人伝に出てくる地名を現在と比較してみよう
対馬国=対馬
一支国=壱岐島
末羅国=松浦
伊都国=糸島
奴国=儺県(なのあがた、博多の旧名)
不彌国=宇美町?
で次に水行するとあるから九州北部に邪馬台国の入り込む余地はないのでは
やっぱり邪馬台国=大和国なんじゃ 杵築大社の天井図。
八雲なのに一つ足りず七つしかない。
もう一つの雲は何処に消えたのか? >>498
それ天下り先で造っただけだから
橿原考古学研究所で充分だったのに
税金の無駄遣い >>387
>筑紫の土器編年は、同じものの大和の土器編年よりも、50年位は古い、という事は常識でした。
>だから、布留の始まり同士の、ホケノや箸墓よりも那珂八幡の方が50年位古い、 という事になる。
ちょっとびっくりした
今どき、そんなことを言う人がいるとは思っても見なかった
この辺りを読んでみてから書き込んでくれるかな?
「古墳出現前後における畿内型甕形土器の西方拡散に関する研究」佐々木憲一(2010)
明治大学人文科学研究所紀要 第66冊 (2010年3月31日)251−312
ttps://m-repo.lib.meiji.ac.jp/dspace/bitstream/10291/10881/1/jinbunkagakukiyo_66_251.pdf
こういうのを「根拠」っていうんだよ! >>488
日数がどうだろうと
投馬国が宮崎とするなら邪馬台国は九州最南端となってしまって
狗奴国は邪馬台国の南と書いてる魏志倭人伝の記述に合わなくなる 加茂岩倉の勢力は、オオナムチに敗れて散り散りになったのかもしれない。
カグツチが生まれた所為で、イザナミが亡くなる >>490
そこら掘ってもそんな何でも出てくるわけないよな
何変な事言ってるんだろう
九州説がまた変な言いがかりつけてるだけだな
ってみんな思ってるよ >>387
>国民投票でも、掲示板でも、衰退したな。
国民投票ww そんなのいつあったんだ?ww
掲示板は>>387みたいに無駄な情熱のある人間wがいると、多数投稿で埋められるからな
そして、プロの研究者の人数は数えないという大笑い
九州説を唱えるプロの研究者は、考古学者でも文献史学の人でも絶えて久しいからねぇ
ネット弁慶って言葉くらいは知ってるよな? ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています