>>343 続き

>持衰の乗った倭船になるから、郡や魏の大型船であった事も否定され、

持衰が乗るのは其行來「渡海」の時
海岸沿いの「水行」と対岸に渡る「渡海」は区別されてるから、
「循海岸水行」では持衰は乗ってないかもね
それに、持衰が和船にしか乗らないとはどこにも書いてないから、
>>343は意味のないことを書いてることになる

>倭王武の上表文に「自昔・・・道kei百濟、裝治船舫」とあるから、
>百済の地を陸行するのがルートであった事が記載されるなど、

原文は
「自昔祖禰躬甲冑跋渉山川不遑寧處 東征毛人五十五國西服衆夷六十六國渡平海北九十五國王道融泰廓土遐畿 累葉朝宗不愆于歳
 臣雖下愚忝胤先緒驅率所統歸崇天極道遥百濟裝治船舫」のことだな
昔より、は「祖禰(そでい)躬ら甲冑を擐き…」にかかるだけで、後半の
「臣、下愚と雖も忝くも先緒を胤ぎ、統べる所を驅率し、天極に歸崇し、道百濟を遥て、船舫を裝治す」
にはかからないぞ
そして「道百濟を遥て」の「道」は陸路とは限らない
単に経路くらいの意味で、海路の「路」と同じ意味

>郡から倭までの「全水行」説は全く否定されている。

ほぼ、妄想だよねww

>>344さん、まったく同意です!!
何でこんなのの相手をしなくちゃいけないんだろう?