邪馬台国畿内説 Part325
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邪馬台国論の鉄板、畿内説のスレです。
【骨 子】
・3世紀中葉には、古墳時代が開始していた。
・出現期古墳段階で、近畿中央部を中心に列島規模の政治連合が形成され始めていた。
・北部九州博多湾岸地域は、既にこの政治連合の傘下にあった。
ゆえに、倭女王卑弥呼の都があったのは畿内である。
邪馬台国論争ももう畿内で決着なのでロマンはありませんが
勝者の貫録を見せつつ、更なる真実を探求しましょう。
前スレ
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1518294984/
◆0【 要 旨 】 ( >>2-12に各論、それ以下にFAQを付す )
纒向遺跡の発掘状況等から、ここには西日本の広域に影響力を持った宗教的指導者が君臨しており、それは各地の首長に共立され求心的に集約された権力基盤を持つ女性であったと考えられる。
その死亡時期は3世紀中葉とみられる。畿内に中国文化が急速に浸透する時期である。
これらを倭人伝の記事と対照すると、箸中山古墳の被葬者が倭人伝に記載ある曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、纒向が邪馬台国にあった倭女王の宮殿所在地であると同定できる。
2世紀の地球規模的寒冷化は、農業生産力を強化する社会的需要から指導的地位を占める析出集団の成長を強烈に促進し、弥生的青銅器祭祀を終息せしめ、高塚化した墳丘墓を現出させる。
換言すれば、弥生墳丘墓の巨大化が顕著な地域こそが、弥生社会に古墳時代へと向かう構造変化の著しい地域であり、3世紀に爆発的に広域化する萌芽期国家の中核である。自然環境変化に起因する社会構造変化が現象として纒向に凝集し結実したと言える。
倭人伝に記載された卑弥呼の活動期間に相当する庄内併行期は、畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入している時期であり、ことに那珂比恵地域への人口流入が急拡大していく。
博多湾貿易が対外交渉の主役に躍り出るこの時期には、西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易をする段階となっている。
絶域であった日本列島が中華社会と二国間の国交を再開した時期、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の倭国の中枢である。
倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
それは桜井市纒向以外にありえない。 >>467
取るに足らないものしか出なかったから建設したんだろう
普通は建てないけどな >>470
投馬国はどちらかというと瀬戸内海の鞆の浦の可能性が高いと思うよ >>423
纒向小学校のHP見たけど
そんなの出てないな ガセネタかチンケな遺物 纒向にはわざわざ発掘しなくても3世紀の前方後円墳とかあるやんなあ >>360
>>水系が違うからね <
>早良平野と吉竹高木(吉武高木ともいうらしい)」は、同じ室見川水系。
日本語読めますか?
奴国のある那珂川と牛頸川流域と、早良国の室見川流域が、水系が違うから「元は別の国」って言ってるんだよ
>須玖岡本説は、魏志倭人伝の説明に合わないから、×。
「魏志倭人伝に合わない」んじゃなくて、「九州説の脳内妄想に合わない」の間違い
>三雲や平原付近では2万戸が困難であり、
なんで伊都国と奴国を一緒にしてるの?
奴国は早良平野まで含む福岡平野一帯だから、2万戸に相応だろう?
まあ、2万戸自体は実数ではなく誇張が入っているだろうけれど
>吉武高木が、倭奴國の頃からの首都であった可能性があるからの推定であり、
>国境ではなく、峠を越える事になるだけ。
その可能性の「根拠」は?
吉武高木遺跡の王墓の年代は弥生前期末から中期初頭(前三世紀末〜前二世紀初め)で、
漢委奴國王の朝貢とまったく時代が合わないんだけど?
>県庁所在地や市役所が目的地であれば、その門や入り口までだ。
なんだか、日本の常識と違うな、この人は >>475
そっから先南に水行10日陸行1月に邪馬台国がある事になるん?
九州南部は狗奴国だから投馬国を宮崎とすると地理的に収まりそうにないよ >>469
日本書紀に、応神天皇が、難波津から故郷へ船出する愛しい人の舟を見送りながら
「淡路嶋 いや二並び小豆嶋 いや二並び 寄ろしき嶋嶋 誰れか去れ放ちし 吉備なる妹を 相見つるもの」
(淡路島は小豆島と二つ並んでいる。私が立寄りたいような島島は、皆二つ並んでいるのに、私は独りにされてしまった。誰が遠くへ行き去らしてしまったのだ。吉備の兄媛を、折角親しんでいたものを)
別に難波から小豆島が見えるとか、そういう歌じゃないよ。 >>477
周りの人間は何言ってんのこの人って感覚だけど 大津皇子可哀想だな。
辞世の句
ももづたふ磐余(いわれ)の池に鳴く鴨を今日のみ見てや雲隠りなむ
ももづたふ、敦賀や鈴。
イワレと鴨を恨んでいるのかな。
雲隠りなむ、太陽が雲に隠れるのかな。
太陽は烏。
金烏臨西舎 鼓声催短命
泉路無賓主 此夕離家向
金烏の家は西にあるのかな。和泉路に賓主はなし。
我こそが応神天皇の子孫だと言いたかったんだろう。
息長氏(敦賀、鈴)、神功皇后、応神天皇。 >>478
>なんだか、日本の常識と違うな、この人は
中国では城郭都市の城門までだったと思うよ。
わざわざ町の中央からの距離を測るとは思えない。 >>362
王の権力の大きさの指標として、王墓の大きさはかなり重要だってことが認められずにダダと捏ねてるだけじゃん
舶載鏡2面は、当時の墳墓としては特に珍しくもない
結局「でかい鏡がある」と「仿製鏡であってもたくさんの鏡がある」のがすごいって言えばすごいかな
これが卑弥呼の墓だとすると、なぜ魏の皇帝から新しい鏡を100枚もらったのに、それより150年も前の鏡の仿製鏡を30枚以上も作って副葬しなきゃいけないのか、説明してごらんww 奥山に 紅葉踏みわけ 鳴く鹿の 声きく時ぞ 秋は悲しき
奥山、オクヤマツミ、秋津。
鹿、鹿島の鹿、関東の先住民、中臣の守り神。
鹿が鳥の味方になり、オクヤマツミの勢力は負け秋が来た。悲しいなぁ。 >>481
>「淡路嶋 いや二並び小豆嶋 いや二並び 寄ろしき嶋嶋 誰れか去れ放ちし 吉備なる妹を 相見つるもの」
>(淡路島は小豆島と二つ並んでいる。・・・・・・)
難波から小豆島が見える、そういう歌。 >>480
なるほど
それで何で計ったの
ベニバナ花粉?
桃核? 熨斗鮑、
伊勢神宮でアワビを刻んで熨斗を作る伝統がある。
阿波忌部。
アワビを刻む度に、罪を噛み締める役割を担っていたのかな。 サルタヒコの遺言。
「底どく御魂」「つぶたつ御魂」「あわさく御魂」
底、独、常、立、阿波サク
国底立神、国常立神、鬼門に封じられた神、天香久山に祀られている神。
&阿波咋。
倭国大乱を引き起こした張本人。 「神道五部書」の『豊受皇太神御鎮座本記』の内容を「国史大系」の第七巻から見てみると「天村雲命伊勢大神主上祖也。
神皇産霊神六世之孫也。阿波國麻植郡座忌部神社、天村雲神社、二座是也」
阿波國に座す二社(忌部神社、天村雲神社)が皇祖皇統の正統なる末裔であると記している。
阿波忌部が伊勢神宮(少なくとも外宮の)の正統なる祭祀者であり、伊勢神宮は阿波忌部の上祖を祀っているのである。 >>377
>>そして、方格規矩鏡の製作年代が1世紀の中頃より繰り下がらないのだから、
>これが間違い
否定したいなら「根拠」を書けと何度言えば!
書けないんだろうけどさ
>>365に書いておいた「鏡の考古学」ttp://home.p07.itscom.net/strmdrf/kagami.htmが
詳しいから読んでおいで
中国の墳墓から出た年代の確実な鏡との共伴関係を基盤にして、岡本編年より信頼できる論になってるから 魏志倭人伝に出てくる地名を現在と比較してみよう
対馬国=対馬
一支国=壱岐島
末羅国=松浦
伊都国=糸島
奴国=儺県(なのあがた、博多の旧名)
不彌国=宇美町?
で次に水行するとあるから九州北部に邪馬台国の入り込む余地はないのでは
やっぱり邪馬台国=大和国なんじゃ 杵築大社の天井図。
八雲なのに一つ足りず七つしかない。
もう一つの雲は何処に消えたのか? >>498
それ天下り先で造っただけだから
橿原考古学研究所で充分だったのに
税金の無駄遣い >>387
>筑紫の土器編年は、同じものの大和の土器編年よりも、50年位は古い、という事は常識でした。
>だから、布留の始まり同士の、ホケノや箸墓よりも那珂八幡の方が50年位古い、 という事になる。
ちょっとびっくりした
今どき、そんなことを言う人がいるとは思っても見なかった
この辺りを読んでみてから書き込んでくれるかな?
「古墳出現前後における畿内型甕形土器の西方拡散に関する研究」佐々木憲一(2010)
明治大学人文科学研究所紀要 第66冊 (2010年3月31日)251−312
ttps://m-repo.lib.meiji.ac.jp/dspace/bitstream/10291/10881/1/jinbunkagakukiyo_66_251.pdf
こういうのを「根拠」っていうんだよ! >>488
日数がどうだろうと
投馬国が宮崎とするなら邪馬台国は九州最南端となってしまって
狗奴国は邪馬台国の南と書いてる魏志倭人伝の記述に合わなくなる 加茂岩倉の勢力は、オオナムチに敗れて散り散りになったのかもしれない。
カグツチが生まれた所為で、イザナミが亡くなる >>490
そこら掘ってもそんな何でも出てくるわけないよな
何変な事言ってるんだろう
九州説がまた変な言いがかりつけてるだけだな
ってみんな思ってるよ >>387
>国民投票でも、掲示板でも、衰退したな。
国民投票ww そんなのいつあったんだ?ww
掲示板は>>387みたいに無駄な情熱のある人間wがいると、多数投稿で埋められるからな
そして、プロの研究者の人数は数えないという大笑い
九州説を唱えるプロの研究者は、考古学者でも文献史学の人でも絶えて久しいからねぇ
ネット弁慶って言葉くらいは知ってるよな? >>492
古墳内から出土した土器の付着物じゃあなかったっけ 飛騨の口碑
中部の勢力が出雲を作り大和朝廷を作ったとある。
真実をある程度含んでいる可能性があるな。 出雲の王は、出雲の縄文系勢力と日本海側に進出したカグツチ、火神に倒されたんじゃないかな。 >>502
県立と市立の違いのわからないアホ
リンク先の記事も読めない池沼 各地で起こった渡来人征伐。
出雲の王サルタヒコ族、丹後半島の王ヤマタノオロチ族。 >>462
纒向遺跡の範囲じゃない
ガイキチの主張はイミフ そのへん掘って何も出てこないから纒向は何もないとか主張するなら
今すぐ九州のどこでも適当に掘って何か掘り当てて
そんでここが邪馬台国だって主張すればいいのに >>488
>日数は一万二千里にかかる日数。
何度も書いているけれど、萬二千里は中華世界の地の果てまでの観念的な距離
日数は報告書にあった数字なんだろう
まあ、10日単位くらいに丸めてると思うし、途中の宿泊地での逗留日数も入っていると思うけど 大和朝廷が古墳時代の日本の中心なのは間違いないし、古墳時代の始まりは卑弥呼の邪馬台国時代と重なる
その状態で、九州に邪馬台国を持ってくるには
1.古墳時代の開始を4世紀と言い張って、邪馬台国が畿内に移動したと主張する(東遷説)
2.あくまで九州政権と畿内政権は別だと主張する(九州王朝説)
の二つしかない
ということで、九州説の人は以下の問いに答えてくれるとうれしい
・東遷説を採るのか採らないのか?
・東遷説を採るとするなら、邪馬台国の東遷なのか、神武の東遷なのか?
・神武と邪馬台国は関係すると考えるのか(≒邪馬台国はどこで神武はどこにいたのか)?
・九州王朝の存在を主張するのか?
・主張するなら倭の五王が大和朝廷の大王でないことをどのように論証するのか? >>500
>で次に水行するとあるから九州北部に邪馬台国の入り込む余地はないのでは
次、というのが誤読。
日程部分は魏志倭人伝でだけ追加されたおまけ情報。 鳥取県の上石見に伝わる伝承。
牛鬼伝説の中でも、一番古いものじゃないかな。
孝霊天皇が牛鬼を討つ話。
上の岩を見よと言って牛鬼を倒す。
ここでは、牛鬼は石に倒されるんだな。
大和朝廷は、卑弥呼を共立した仲間の海神まで倒すんだな。
その後は西日本各地で様々な時代の牛鬼伝説。
共通しているのは、
◎牛鬼は海や水辺に現れる。
◎牛鬼は磯女と一緒に現れる。
◎牛鬼の子供は石である。
同じようなこととして、牛鬼に「石は流れる、葉は沈む」などあべこべなことを言うと助かる。
◎また火に関するものもある。
牛鬼は老いた椿という言い伝え。古い海神ということか。
見えてくるストーリー。
牛鬼(古い海神)は孝霊天皇の時代に石にやられた。
海神の姫達は、石の子を産むようになった。
古い海神と言えば、BC1000年頃に渡来し稲作を広めた勢力、ヤマツミとワダツミ系かな。 >>507
王都ならそこらじゅうどこを掘っても何か出てくるよ。
福岡みたいに。 魚沼での鳥追い祭。
鳥追いの歌
鳥追いだ、鳥追いだ
この鳥どこから追ってきた
信濃の国から追ってきた
何を持って追ってきた
芝抜いて追ってきた
四番鳥(しーばんどーり)も五番鳥(ごーばんどーり)も たちゃーありゃーほいほい
いっち憎い鳥は
どうとさんぎとこすずめ (どうは朱鷺、さんぎは鷺、こすずめは雀の意味です)
こすずめのちくしょうが
稲三束盗んで
甘酒、から酒作って
どうとさんぎを呼んできて
どうに六ペー飲ませて
さんぎに三杯飲ませて
酔った酔ったこんときだ
きじん鳥にぼっざえて (きじんは雉、ぼっざえてはおんぶしての意味です。)
佐渡島へほいほい
酒に酔わせて退治するみたいな歌だな。
渡来人征伐の話かな。 魏志倭人伝の邪馬台国までの里程
帯方郡(朝鮮北部)から狗邪韓国まで七千里、女王国まで一万二千里。
対馬海峡が三千里であり、帯方郡から九州上陸までで一万里となるので、邪馬台国の位置は九州北部になる。
魏志倭人伝の邪馬台国までの日程
帯方郡から邪馬台国まで水行10日、陸行1月(1日の誤りか)
ちなみに帯方郡から投馬国(宮崎都万)まで水行20日
後漢書における里程
大倭王は邪馬台国にいる。
楽浪郡の国境は、その国(邪馬台国)から一万二千里である。
倭国の西北界である狗邪韓國からは七千里である。
倭奴国は倭国の極南界である。
魏略逸文における里程
帯方(郡)より女(王)国に至る万二千余里。
邪馬台国時代の遺物の出土状況
http://yamatai.cside.com/tousennsetu/image/zu11.gif 纒向遺跡、前代未聞の非道な遺跡。民を虐待した証。
卑弥呼が亡くなった時に殉葬100人。
その後も殉葬は続く。
日本書紀に生き埋めにされ泣き叫ぶ様がリアルに描かれている。
大罪だな。 纒向小・・・大溝
織田小・・・纒向遺跡の範囲外
橋本小・・・存在せず
東小・・・存在せず
箸中・・・存在せず
大三輪中・・・纒向遺跡の範囲外
既知害のやることは理解できん >>518
そもそも里程は邪馬台国まで到達しておらんぞ
オマケというか
魏志倭人伝の元ネタ魏略は伊都国までの記述しかない
使者は伊都国で留まったとあるから
外国の使者はそこまでしか通して貰えなかったんだろう
魏志倭人伝の著者陳寿はそこが邪馬台国ではない事を知っていたから
里を知らず距離を日数で表す倭人からの情報を聞いて付け足した
そんで誤った情報を伝えられたか、
それとも倭人が国防のため意図的にウソを言ったのか
結果南に水行20日、陸行一月…の記述が魏志倭人伝に加わる事になったという事 >>521
じゃあどこ掘って何が出てきたの
親魏倭王の金印でも見つかったか >>526
>織田小・・・纒向遺跡の範囲外
>橋本小・・・存在せず
>東小・・・存在せず
>箸中・・・存在せず
>大三輪中・・・纒向遺跡の範囲外
これは酷すぎるw 邪馬台国畿内説というタイトル&テンプレ
大和朝廷の罪を他の地域にまで擦りつけようとする、汚らしい小賢しい意図が見え隠れする。
邪馬台国は大和国。生駒葛城山系の西側。
他の畿内は被害者。巻き込むな。 >>520
そうだろ?
九州説はそんなわけのわかんない主張をしているわけだ >>530
邪馬台国は大和国。
生駒葛城山系の東側。 纒向には別に掘らなくても前方後円墳がそびえ建ってるんだが >>523
>同じ質問を繰り返すな。
このスレにこの質問は一つしかないけど?
何言ってるんだかww
お仲間の>>401他に言ってやれよ 繰り返すな!って >>533
その多くが卑弥呼時代に届かないだろう
卑弥呼に共立される前にも王がいたこと忘れてる?
倭人伝には「首都が移った」との記載は無いしね >>241
いや、「南→東」などの嘘吐き騙しや、「長里だけ」がウソと発覚して、
大和説絶望。 邪馬台国は卑弥呼が都を置いた処としか書かれていない。
女王国が倭国と認められたのは、何回も朝貢し親魏倭王の称号を得てから。
男王の都が邪馬台国である根拠は何もない。 >>243
大和は、
元々筑紫城の倭奴國の阿毎氏から別れた別種の旧小国であり、
伊都国系の分家の倭人系。 >>245
大和の国は、筑紫城の倭奴國から別れた別種の旧小国であったから、
伊都国などから三種の神器を分けて貰ったんだよ。 >>487
>これより150年も前の鏡の仿製鏡を30枚以上も作って副葬しなきゃいけないのか、
これが間違い >>545
>これが間違い
>これが間違い
否定したいなら「根拠」を書けと何度言えば!
書けないんだろうけどさ
>>365に書いておいた「鏡の考古学」http://home.p07.itsc...t/strmdrf/kagami.htmが
詳しいから読んでおいで
中国の墳墓から出た年代の確実な鏡との共伴関係を基盤にして、岡本編年より信頼できる論になってるから
コピペで済むから楽だわww >>246
>>田舎の播磨や河内や大和が、都の弥生銀座に憧れて、
都の「市」へ、土器を搬入上納したから<
>九州の地で九州の土で「畿内様式の甕」を奴国の中心地で作っているんですよ?<
奴國ではないよ。
都の弥生銀座では、三雲で始まった庄内を造っているところに、
播磨や河内がそれを模倣して造ったものを搬入上納して来て、売りさばいたのだよ。
>そして、その後九州様式甕がなくなって、畿内様式甕だけになります<
明大の佐々木氏の論考では、九州の庄内と播磨や河内からの庄内が共存していた、
という説明であったよ。
>>「纏向に東海などの西日本の物資が集まったから、纏向が西日本の盟主だった」
と主張したのと同じ論理で、筑紫の西日本全域と半島からの物資が集まったから、
筑紫が西日本から半島南部全体の盟主であった。<
>纒向では、外来土器に地元の土器が淘汰されるなんてことは起こっていませんよ?<
纏向には、筑紫の土器は搬入されていないし、
纏向の土器は、播磨や河内に比べて弥生銀座には殆ど搬入されていないんだよ。
王都纒向と、王都からの一大率を受け入れていた地域の差ですね! 畿内の文化一色に塗りつぶされる九州を見てバカな妄想を喚き続けるアホの九州説に笑いが止まらない >>547の忘れ物
>王都纒向と、王都からの一大率を受け入れていた地域の差ですね! <
王都弥生銀座と、田舎の別種の旧小国の纏向との、地域性の差ですね。 >>527
>魏志倭人伝の元ネタ魏略は伊都国までの記述しかない
つまり伊都国が邪馬台国の中心地 応神さんとか伊都国の地が入っているかもしれないけどね。
応神仁徳で畿内はまたやられるんだから、馬鹿にできない。 九州北部の三種の神器が現在まで継承されているというのに、畿内の土器がどうとか、ちゃんちゃらおかしいわ。 >>543
>大和の国は、筑紫城の倭奴國から別れた別種の旧小国であったから、
私は神武天皇の実在を認める立場だからもとをたどれば、九州倭国が本家筋だと思ってるよ
ただ、卑弥呼の時代より5世代(100年くらい?)前
卑弥呼の頃には倭国は九州限定ではあり得ない
ただ卑弥呼が共立された理由に九州倭国の血筋ってのも案外重要だったかもしれない
でも、別種でも東渡海千里の倭種でもないよ
関門海峡が千里ってのはどうやっても通らないし、そこから畿内まで地続きなんだから 自分達の文化を全部畿内の文化に上書きされて消滅させられてる雑魚
生活も宗教も宝物も全て無くしてる
それが九州
こんなところが邪馬台国とかほざいてる低能が九州説 >>247
>>「畿内から独立」したのではなく、<
>>>211は畿内と北部九州の交流は認めるんですね?
それならば、魏使も畿内の人に会い、畿内の纒向遺跡の情報も得ていたことは認めますね?<
どういう文脈の話だったか?は知らんし、
魏使が弥生銀座で畿内の人にあったのかで?なんて事も知らんが、
纏向の人間が少しだけ弥生銀座にも来ていた、という事は認めているよ。 邪馬台国は大和国。
尾張や出雲など縄文系勢力による政権。
大和朝廷。
渡来人殺し、神殺し、関東東北を征伐した張本人。 九州北部が倭国の発祥の地であることを理解すれば、古代史は非常にわかりやすくなる。 >>554
>九州北部の三種の神器
翡翠が九州では出ないことをどう思っているんだろうww
翡翠の産地は沼河比売の故郷だけだよ
出雲の大国主の奥さんの一人
出雲は大和と関係が深い
というか、日本神話的には九州王家の傍流神武と、出雲の言代主(大物主)の子孫・媛蹈鞴五十鈴媛命が大和で結婚して皇統が始まることになっている
で、神武から5世代あとが纒向に都を置いた崇神の頃が邪馬台国の時代 正に邪馬台国の直前に400年の文化をすべて失い全く関連もない畿内の文化に全て上書きされる負け犬ド田舎
それが九州
こんな場所に邪馬台国があると妄想を叫ぶアホが九州説 邪馬台国は大和国。大和朝廷。縄文系勢力による政権。
関東東北を征伐したのは、尾張出雲阿波などの縄文系勢力です。
誤解しないでください。 >>559
ごめん(>_<)
×岡本→○岡村だ
岡本遺跡って何度も書いてて自分に釣られた >>560
>九州北部が倭国の発祥の地であることを理解すれば、古代史は非常にわかりやすくなる。
それはいいんだよ
昔は先進地だったのは私も認めてる
ただその繁栄が3世紀まで届かないんだよ
卑弥呼の頃には倭国王を張れるような国力は北部九州にはない >>252
>九州の辰砂の鉱脈は飛鳥時代になってから畿内豪族によって「発見」されています<
こりゃまた、信用出来ない話をしているね。
飛鳥時代と言えば、大半はまだ筑紫倭国が盟主であった時期。
そんな時期に大和の?豪族がわざわざ九州まで行って、丹山を探しておれるもんかね?。
こりゃ、その豪族が自分が発見したかのように報告でもしたんだろうなあ。
>弥生時代の九州には丹(水銀朱・鉱石としては辰砂)が「ない」んですよ
産出しないものを「有」と書かれることはないでしょ? <
魏志には、きちんと「其山有丹」と書かれていし、「丹木」も魏に献上している。
この「其」は、当然魏使らが訪れた九州倭国の事。
>存在すら未発見なのですし <
魏志にはきちんと「ある」と書いている。 何も見つからない九州
見つかった見つかったと喚き散らすものは皆古墳や三角縁、庄内式と同伴
畿内の文化どっぷりの中にあるものを誇らしげに叫び続ける間抜け
それが九州説 >>255
>筑紫伊都の勢力がどの時代に畿内に移動したのかは大問題ですね。<
移動なら、新唐書に神武の頃であった、と書かれているが、
旧唐書や唐会要によれば、大和日本国は、筑紫倭国から別れた別種の旧小国だった、
と書いているよ。 >>557
>どういう文脈の話だったか?は知らんし、
>魏使が弥生銀座で畿内の人にあったのかで?なんて事も知らんが、
>纏向の人間が少しだけ弥生銀座にも来ていた、という事は認めているよ
魏使に「大和の纒向に大都市を要する大勢力があり100メートル級の大墳墓を作っている」という情報が届いたら、九州のローカル王が「親魏倭王」の称号を得ることはない
>>259を再掲
九州説の人は「親魏倭王」を甘く考えすぎ
使訳通じるところの30ヶ国から異議が出ないところでなければ、魏朝から「親魏倭王」の除正はない
華夷秩序というのは、中華の王朝に対して蛮夷が朝貢し、それに対してそのトップを王なり侯なりに除正し、配下に率善中郎將などの位階を与え、朝貢の品の何倍もの下賜品を与えることで、王朝の権威を示すというシステム
ここで、トップの王なり侯なりへの除正を間違うことが、王朝ひいては皇帝の権威に一番傷を付けることになる
だから、文句が出そうであれば除正の範囲を値切るし、答礼使を派遣して確認することになる
実際倭の五王の遣使の時には、上表文で求めた半島についての称号を外されているだろ?
畿内の人間が奴国や伊都国に来ていることを認めるなら、大都市纒向の情報は魏使の耳に入るし、それより小さな首長墓しか作れない伊都国王は「倭王」にはなれないよ >>257
>「田舎者」というのは>>253の単なる主観ですね
伊都国が10メートルそこそこの墓しか作れない時代に
100メートル級の巨大墳丘墓を作っている大勢力ですよ?<
大和日本国は、筑紫城の倭奴國の阿毎氏から別れた別種の旧小国であり、
「大勢力」なんてものではない。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています