邪馬台国畿内説 Part325
■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています
邪馬台国論の鉄板、畿内説のスレです。
【骨 子】
・3世紀中葉には、古墳時代が開始していた。
・出現期古墳段階で、近畿中央部を中心に列島規模の政治連合が形成され始めていた。
・北部九州博多湾岸地域は、既にこの政治連合の傘下にあった。
ゆえに、倭女王卑弥呼の都があったのは畿内である。
邪馬台国論争ももう畿内で決着なのでロマンはありませんが
勝者の貫録を見せつつ、更なる真実を探求しましょう。
前スレ
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1518294984/
◆0【 要 旨 】 ( >>2-12に各論、それ以下にFAQを付す )
纒向遺跡の発掘状況等から、ここには西日本の広域に影響力を持った宗教的指導者が君臨しており、それは各地の首長に共立され求心的に集約された権力基盤を持つ女性であったと考えられる。
その死亡時期は3世紀中葉とみられる。畿内に中国文化が急速に浸透する時期である。
これらを倭人伝の記事と対照すると、箸中山古墳の被葬者が倭人伝に記載ある曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、纒向が邪馬台国にあった倭女王の宮殿所在地であると同定できる。
2世紀の地球規模的寒冷化は、農業生産力を強化する社会的需要から指導的地位を占める析出集団の成長を強烈に促進し、弥生的青銅器祭祀を終息せしめ、高塚化した墳丘墓を現出させる。
換言すれば、弥生墳丘墓の巨大化が顕著な地域こそが、弥生社会に古墳時代へと向かう構造変化の著しい地域であり、3世紀に爆発的に広域化する萌芽期国家の中核である。自然環境変化に起因する社会構造変化が現象として纒向に凝集し結実したと言える。
倭人伝に記載された卑弥呼の活動期間に相当する庄内併行期は、畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入している時期であり、ことに那珂比恵地域への人口流入が急拡大していく。
博多湾貿易が対外交渉の主役に躍り出るこの時期には、西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易をする段階となっている。
絶域であった日本列島が中華社会と二国間の国交を再開した時期、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の倭国の中枢である。
倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
それは桜井市纒向以外にありえない。 ◆FAQ 48
Q:そもそも纒向遺跡とはどの範囲を指すのだ?
考古学的に確認されているのか?
A:纒向遺跡は、考古学的な範囲確認調査により、旧烏田川河道から旧纒向川河道の間の扇状地に所在する複数の微高地上に展開する遺跡とされている。
遺跡建設の早い時期に大型の運河が開削され、また照葉樹系の花粉に代わり乾燥した人為地を好む草本の花粉が検出されるようになっており、計画的な開発行為が大規模に行われていた状況が窺知される。
桜井市教育委員会は旧烏田川河道北岸にも同遺跡が広がる可能性を指摘し、天理市にまたがる考古学的想定に基づいた遺跡全体図をも公表している(桜井市同遺跡保存活用計画書2016)が、柳本町及び渋谷町側で連続する遺跡は現状では確認されていない。
広大な遺跡であり、宮内庁を含めて地権者が膨大な数にのぼるため、調査には文化財保護法第四条3項はじめ種々の制約がある。
このため調査が及んでいる範囲は現状は未だ全体中の僅かな部分に過ぎないが、我が国における王権誕生への道筋を辿れる遺跡群として極めて重要視されている。 ◆FAQ 49
Q:光武が印綬を賜うた委奴国はイト国と読むべきではないのか?
A:古代音韻史が未発達であった時代の謬説であり、過去の遺物である。
今日の定説では「奴」をdoと濁るのは隋唐長安音であり1世紀の発音としてあり得ない。上古音nagが順当であろう。
また、范曄後漢書に先行する袁宏(東晋)後漢紀光武帝紀にも「倭奴国」として現れており、「委」が「倭」と同義であることに疑問の余地が無い。
魯宣公倭が委とも表記されることからも通用が明らかである。
「宣公 名倭。一名接。又作委。文公子。」(杜預左氏伝註)
さらに「委」、「倭」の子音はwであり、伊都国はyであるので全く発音が異なる。
固より光武時には已に「倭人」という民族名が知られており、此の文字を同じ倭人の国名表記に、民族名としての倭という語義を含意させずに固有名詞「倭奴」として用いることも、就中発音の異なる表音文字として使用することも、凡そ正常な用字とは考え難い。
また、正式の国名が複合語であるケースも「婼羌」「車師後部」など珍しくない。
◆FAQ 50
Q:纒向の大型建物群はそれほど画期的で空前絶後なものなのか?
どこにでもありそうだ。
A:建物群が大小とも中心軸を共有する規格性を有することは画期的であるが、計画的配置という点では伊勢遺跡という先行例がある。
画期的と言う意味では、建物及び囲繞柵列が作る空間が「庭院と回廊からなる朝庭」的空間を想起させる点は、接面する幹線道路の質と相俟って、柵列を伴う倉庫群と一線を画す。
纒向全体の規模と計画性を鑑みれば、必然的に比較対象は飛鳥等の宮処となろう。
勿論、箸中山・渋谷向山・行灯山の規模を考えれば誉田山・大仙に対応する未発見の宮処がより上位であることは予察されるものの、現状では飛鳥時代の宮処以前に纒向の大型建物群に比肩するような知見はない。
単に床面積のみ着目すれば時代的に後続する七尾の万行遺跡SB02(布留0併行)は大規模であるが、立地ならびに構造から見て用途が宮処ではないので、比較対象外である。 ◆FAQ 51
Q:卜骨は九州にとって不利な条件ではないのだ!
壱岐や有明海沿岸で発見事例があるではないか!
A:九州説が倭人伝に照らして不自然である、という結論しか出ない。
灼骨卜占は倭人全般の習俗として記載され、考古学的知見と合致している。
郡使往来常所駐と云われる伊都国でその習俗が見当たらないのであれば、より重要な倭人の拠点ーー例えば女王所都のようなーーで目撃されたと推察するのが自然であろう。
壱岐で目撃され、奇異ゆえ印象的で記録に残ったとするならば、一支国の条に特記されるのが順当である。
弥生時代の卜骨の発見例は20都府県50余遺跡に及ぶ。
日本海ルートで能登・佐渡に、太平洋ルートで東海・南関東に波及し、弥生社会全般に広く流布した習俗と考えられるが、東山道・南海道及び九州本島で希薄である。
卜占を系譜的に辿れば半島よりの伝播であるが、博多湾岸地域に遺存例が無く、壱岐島から飛んで因幡の青谷上寺地と大和の唐古鍵の二遺跡に集中があることは、海上交通ルートの歴史を考察する上でも興味深く、この習俗と海上交通に従事する職能集団との関係が窺知される。
年代的に推移を見ると、弥生前・中期に壱岐ー山陰ー畿内と点在し、後期に瀬戸内ー畿内が浮上するからである。
ことに、唐古鍵で弥生後期初頭に成立したと考えられる卜占の技術体系タイプが、後期末頃までに九州を含む全国に波及していることも、興味深い。
五畿での出土例は以下の摂河和各遺跡
新方・森之宮(摂津)
雁屋・鬼虎川・亀井(河内)
唐古鍵・纒向・四分・坪井大福(大和)
ことに唐古鍵では弥生前期から後期まで連続して複数存在する。 ◆FAQ 52
Q:纒向衰退後に邪馬台国はどうなったのだ?
A:双系制社会では平穏な地位継承でも盟主地盤が地理的に移動することが有り得るので、考古学的に見た中心地の域内移動は必ずしも政権交代とは断じられない。纒向の衰退は、◆8で述べた経済基盤の変化のほか、祭祀型盟主からの質的変化を含意している可能性がある。
奈良盆地内でも有意な地域集団は、式のほか葛城と添がある。大王級古墳の消長から見て、纒向(式)につぐ次期宮都は添の平城宮下層が有力候補地となろう。南山城・近江との関係が興味深い。(参考:塚口2012)
巨大集落遺構の確認されている葛城地域は対応する大王級古墳を欠いており、河泉との関係において更なる探求を要す。
甲冑保有形態から筑紫の老司・鋤崎両古墳が畿内の前期政権に近しい旧来の地方首長で、畿内の中期政権からは寧ろ牽制対象であったとする分析(藤田2015)には、式・添と河泉・葛城の間で盟主系譜の不連続が示唆されている。
◆FAQ 53
Q:一大率は女王の膝許で、その威光の元に権勢を揮ったのだろう?
A:諸国を畏憚せしむるような勢力者が特置され、その治所が伊都国に在ることは、博多湾岸が女王の都からは直接統治の容易でない遠隔地にあることを示す。当時は最も注意すべき検察対象に治所を定めたと理解するのが自然であろう。
此の「大率」の用字や発音が「襲津彦ー沙至比跪」や「筑紫率」と通底することは興味深い。
刺史は中央が派遣して地方に駐在する勅任官であり、任地の州に治所を置き地方官人事を三公府を経ず皇帝に劾奏する刺挙の吏である。
定期上奏は東漢初に在地出身の上計掾史の職務(続漢書所引東観漢紀、続漢書百官志州郡)へと合理化(「州牧自ら還りて奏事するを断つ」光武帝紀)改革されている。
秩禄の軽重や地方行政への関与度は年代により異なるが、監察官・軍監の職能と皇帝の使者としての性格は変わりない。
この刺史に類比されることで、大率が遠隔地に赴任して来た流官であることは明瞭であろう。但し、此の様な地方転出者が容易に土着して在地首長化することは、後世の少弐氏など枚挙の例に事欠かない。 ◆FAQ 54
Q:一大率は女王国以北に置かれているんだ!
以北ってことは女王国も含むんだぞ!
A:実際の用例ではそうならない。
「從右北平以東至遼…為東部、從右北平以西至上谷為中部…從上谷以西至燉煌…為西部」
(三国志所引魏書鮮卑)
「自單單大山領以西属楽浪、自領以東七県都尉主之」
(三国志東夷伝濊)
「建安中、公孫康分屯有縣以南荒地爲帶方郡」
(同韓伝) ※屯有県は楽浪に属す。
◆FAQ 55
Q:韓は倭と「接」している。地続きだ。
狗邪韓国は倭人の国の一つだぞ!
A:「接壌」とあれば地続きであるが、「接」だけでは根拠にならない。
外接遼東、得戎馬之利(続漢書孔融)
山東省の刺史が遼東と「接」
訶陵國、在南方海中洲上居、東與婆利、西與墮婆登、北與真臘接(旧唐書南蛮)
海中の島国がカンボジアと「接」
狗邪(伽耶)は金官国、安邪(安羅)は咸安郡と、3世紀に主要な遺跡のある半島南岸は弁辰の諸韓国で占められ、3世紀前半は弁辰韓V期の文化圏である。(高久1999,久住2006,朴2007)
倭人の国ではあり得ない。 ◆FAQ 56
Q:「世有」は「代々」という意味ではない。「魏の治世に」という意味だ!
A:「世有」には「代々…」という意味と、「世間には…」「この広い世界に…」などと訳すべき用例がある。「魏の治世に」という意味はない。
「世間に…」in the world の用例
・「世有人愛假子如孤者乎?」(魏氏春秋秦朗)
・「世有仁人、吾未之見。」(先賢行状王烈)
・「世有思婦病母者、豈此謂乎!」遂不與假。吏父明日死,思無恨意。(魏略王思)
・「世有亂人而無亂法」若使法可專任、則唐虞可不須稷契之佐、
殷周無貴伊呂之輔矣(杜畿子恕)
※範囲は全世界、時代は魏朝に限らず、いつの時代にも不易
※これらは不特定者someoneの存在を示唆する例である。
「代々…」の用例:
・魏因漢法、母后之號、皆如舊制、自夫人以下、世有搗ケ。
太祖建國、始命王后、其下五等…(后妃傳第五)
※漢朝下の魏王の頃から魏朝まで代々変更を重ねている。
・世有名節、九世而生寧。(傅子管寧)
※田斉を去った管仲の子孫が、漢代に北海で家を再興してから9代目が管寧
・袁氏子孫世有名位、貴達至今。(裴註袁渙)
※袁渙の父は漢朝の司徒、渙は魏武に重んじられ、子孫も顕官に達し晋朝に至る。
・今汝先人世有冠冕(王昶)
※のち魏の司空となる王昶が子と甥に語る訓戒
昶の伯父柔は漢護匈奴中郎将、父澤は代郡太守、兄で甥の父機は魏東郡太守
当然ながら先人は王昶一人のことではなく、父祖代々を指す。
・臣没之後、而奮乎百世、雖世有知者、懷謙莫或奏正(翻別傳)
※百世に亘って代々を想定 ◆FAQ 57
Q:弥生時代に前史を持たない纒向がなぜ宮都の地に選ばれるのか?
必然性がない!
A:奈良盆地は古奈良湖の消失過程にあり、河道周辺の未乾燥地を稲作向きの農地へと、木製農具でさえ容易に開墾可能であった。
この特性により、奈良盆地は高い人口吸収力を有し、移民を誘致しやすく、首長権力の伸長(◆6参照)を可能とする立地条件を具備していた。
法隆寺付近や島の山古墳の東西に弥生遺跡が分布していることで、当時既に古奈良湖の痕跡は極めて狭隘な残存部分しか存在していなかったことは明らかである.
が、河合町の川合浜等の地名からも判明するとおり、奈良盆地各地を縦横に結ぶ大和川水系の水運は近世まで盛んであった。
居住に適した微高地を水稲耕作に適した低地が囲む単位集落が無数に発生し、それらが水運で結ばれることで、自然国境に局限されない国家形成を支えるインフラが予め準備されていたと言える。
加えて、三輪山麓は交通の要衝(◆4参照)である。東海S字甕の拡散ルートである東山道に依存せずに交易ルートを東に伸ばすには、初瀬街道から中勢に抜けて海路を確保するのが要諦であった。
大和川水系に属し、且つ、上つ道で淀川水系を経て摂津山背・東国・北陸・但丹狭へ通じる交通網の多重結節点である当地には、塞の神が祀られる必然性がある。
畿内及びその隣接地各地の首長が会盟し、調整の裁定を大巫女に仰ぐ場所としては、近隣首長の色が付いていない纒向の地が適切であろう。 ◆FAQ 58
Q:行程論で検証すると、畿内説は無理ではないのか!
A:行程記事には、方位・距離ともに誤情報が含まれていることが明らかなので、所在地比定には採用しないが、検証には用いる(関連:◆FAQ1)
「自郡至女王國萬二千餘里」のうち、九州本島到着までに萬餘里相当を費消済みであるので、行程解釈で伝統的な連続説或いは放射説の孰れに依拠しても、残余は1,300〜2,000里となる。
これは魏尺24cm×1,800尺=1魏里432m換算で概ね562〜864kmに相当する。
参考値として博多港より奈良県桜井市の三輪参道入口(大鳥居前)までフェリー航路と現代の道路上の通算距離を得ると、直行航路の場合概ね620km、寄港地11設定の場合概ね793kmとなり、妥当な範囲に収まり適合する。
「南至投馬國水行二十日」「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」
より、連続説に依拠し所用日程を通算した場合
「大宰府海路卅日」(延喜式卷第廿四主計寮上)と照合して水行日程が妥当である。
また、推古紀所載裴世清の旅程より
「六月壬寅朔丙辰、客等泊于難波津。是日以餝船卅艘迎客等于江口安置新舘」
「秋八月辛丑朔癸卯、唐客入京。是日遺餝騎七十五疋而迎唐客於海石榴市衢」
以上48日経過である。外交使節旅程の類例に照らし、陸行日程が妥当である。
さらに、里程1,300〜2,000里を日程合計60日で除すると約22〜33里@日で「師行三十里」(漢書律歴下)、「師日行三十里」(同王吉伝)等と整合性がある。
また、既知の日程から距離を逆算したと推定される類例がカローシュティ文書(楼蘭〜精絶)等に見出せる。上記通算日程60日に30里@日を乗じて1,800里が、25里@日の場合1,500里が得られる。
以上、結論として検証に耐える。但し、この試算は邪馬台国の位置比定に使用しない。
◆FAQ 59
Q:「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」
の起点は帯方郡である! 畿内に到着し得ない!
A:不合理である。
「南至」が「倭人在帶方東南大海之中」と矛盾する。
また
1「南至投馬國水行二十日」
2「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」
は構文が同じであり、「南至邪馬壹國」の起点を帯方郡とするなら「南至投馬國」の起点も帯方郡にせざるを得ないが、投馬国には水行のみで到着し得る。
よって韓地陸行説が蹉跌し、陸行日程が韓地で費消し得ないため帯方郡起点説は成立し得ない。 ◆FAQ 60
Q:「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」のような日数表記が
「東行至不彌國百里」のような里程表記と混在するのはおかしいではないか!
所用日数を別に記したのだ。日数の起点は帯方郡である!
A:混在は珍しくない。単に情報の精度差と解するのが妥当であろう。
(且末國)去長安六千八百二十里。…西北至都護治所二千二百五十八里、
北接尉犂、南至小宛可三日行、…西通精絕二千里。
(精絕國)去長安八千八百二十里。…北至都護治所二千七百二十三里、
南至戎盧國四日行、…西通扜彌四百六十里。
(罽賓國)去長安萬二千二百里。不屬都護。
…東北至都護治所六千八百四十里、東至烏秅國二千二百五十里、
東北至難兜國九日行、西北與大月氏、西南與烏弋山離接。
(烏弋山離國)王去長安萬二千二百里。不屬都護。
…東北至都護治所六十日行、東與罽賓、北與撲挑、西與犂靬・條支接。
行可百餘日、乃至條支。…自條支乘水西行、可百餘日、近日所入云。
(大月氏國)去長安萬一千六百里。不屬都護。
…東至都護治所四千七百四十里、西至安息四十九日行、南與罽賓接。
(姑墨國)去長安八千一百五十里。
…東至都護治所二千二十一里、南至于闐馬行十五日、北與烏孫接。
(以上、漢書西域上) ◆FAQ 61
Q:「到其北岸狗邪韓國、七千餘里」
これは実測したとしか考えられない!
誤りというなら誤りが発生した理由を明らかにせよ!
A:未知の単位系が存在すると帰納的に証明されていない以上、魏尺実寸に照らして誤りとするほかない。錯誤発生の原因特定は再発防止以外の意義を認め難い。
戦果報告は十倍にして公表する習慣がある。「二郡遂滅韓」の戦果報告が誇張されていて不思議はない。 「破賊文書、舊以一為十」(国淵伝)
或いは「方四◯◯里」が「四方◯◯里」と同義に使用されることがあり、混用による錯誤も有り得る。
また、倭奴国王の朝貢が万里の遠国と顕彰された形跡が有之、これが規定値として固定され、渡海3回と按分された可能性を考慮する必要がある。FAQ58に述べた約2,000里と合算すると万二千里が得られる。
「建武之初…時遼東太守祭肜威讋北方聲行海表、於是濊貊・倭韓萬里朝獻」
(後漢書東夷)
「如墨委面、在帶方東南萬里」(如淳)
さらには、大同江河口の鎮南浦より仁川・木浦・麗水を経由して釜山に至る航路は1,296km(距離表S22)である。
ここで交州〜交趾の約5,000里が現代の航路で900kmであるから(「靖尋循渚岸五千餘里」許靖伝 )往時航路の紆曲と心理的負担感及び苦難の誇張を加味した倍率として認識しつつ、この比率を上記に乗ずると、7,200里が得られる。
このように、倭人伝所載の非現実的な里程の発生には幾らでも原因の想定が可能である。公文書に現れる両漢魏晋の度量衡に照らして其れらが間違いであると判定する以上の詮索は不要であろう。
◆FAQ 62
Q:帯方郡や狗邪韓国をどこに比定しているのだ! 明確にせよ!
A:定説に従う。
金石文等により、楽浪郡治が平壌市楽浪区土城里、黏蟬県が温泉郡城峴里土城。南浦市江西区台城里は県名未詳。
帯方郡治が鳳山郡智塔里土城、郡の外港と考えられる列口県城が殷栗郡雲城里土城(南浦の対岸付近)、旧南部都尉治の昭明県城が信川郡北部面青山土城、長岑県城が信川郡信川邑、含資県城が安岳郡柳城里に比定される。
二郡は孰れも大同江水系に展開し、遺跡分布より、帯方郡は支流の瑞興江・載寧江及び西江流域流域、北を慈悲山、南を滅悪山脈の長寿山まで沙里院・鳳山郡・銀波郡・麟山郡、西を載寧郡・新院郡・銀泉郡・安岳郡・信川郡・殷栗郡・三泉郡・松禾郡の区域と考えられる。
近代的道路が整備されるまで滅悪山脈は迂回せねばならず、同山脈以南で墓制の異なる碧城郡・海州市は郡域外であろう。
以下、漢系遺物を多数出土する韓系遺跡が、伯済国とされるソウル風納洞・夢村から、月支国と目される天安清堂洞、そして泗川勒島、義昌茶戸里、馬山を経て金海まで海路で結ばれている。金海良洞里及び大成洞が弁辰狗邪(狗邪韓)国に相当する。
楽浪と濃密な交渉実績のある交易拠点遺跡が沿岸部や島嶼部に点在することから、沿海航路が重要な通交ルートであったことが明らかである。
◆FAQ 63
Q:旧唐書に「倭国者古倭奴国也」とある! 倭国は九州にあった倭奴国の後身なのだ!
A:「古○○也」は政治的連続を表さない。
同じ旧唐書に「猗氏 漢縣、古郇国也」等とあるのと同じである。
唐の河東道猗氏県は、周代の姫姓侯国であった郇国が戦国時代に滅び、変転を経て漢代に郡県に編入された地であり、姫姓郇国からの政治史的・系譜論的な関連は無い。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜 以上テンプレ
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
注意*前スレが終了してから書き込んでください。
なお、書き込みは
邪馬台国畿内説に関係が有って
根拠のある内容をお願いします。
畿内説以外の独自説を単独で開陳することはご遠慮ください。
前スレ終了以前の書き込みは荒らし行為と看做させて頂きます。
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
【追加・変更点】◆なし 短里とか、ごく少数の現代日本人だけが抱く妄想でしょ >>812
>陳寿は短里で書かれた報告書を手にしていたが、それが短里であることには気がつかなかったんだろう。 ただ、疑問を感じたので日程を併記したのかもね。
なんだか変だなぁと。 そうしたら後世でつなげてしまった。<
これ✖ね。
陳寿は、
「計其道里、當在會稽東治之東」というほぼぴったりの推定位置を書いている、
という事は、
魏使らの里の記録が、短里であって、しかもほぼ正しい、
という事を知っていて認めていた、
という事になる。 >>820
>魏志倭人伝が短里だからだと循環論法<
魏志の記載例を根拠にして、それからの帰納的確率的な推論をしたのだから、
「結論先にありき」ではなく、
循環論法にもならない。 >>820
>なんで、魏志倭人伝に短里が使われていた証拠は
魏志倭人伝がそう書かれているからというのは
循環論法だから指摘してるだけなんだ<
魏志の記載例を根拠にして、それからの帰納的確率的な推論をしたのだから、
「結論先にありき」ではなく、
循環論法にもならない。
>違うと言うなら1短里=300短里とか書かれてる文献を<
何だいこりゃ。とうとう気がクルったか?。
>普通の里はそれがあって証明されてるんだし<
その文献が、文帝の度量衡統一の指示の事も知らないようだし、
魏志などに書かれた陳寿の「計其道里、當在會稽東治之東」が、
結局は魏使らの記録が正しかった事を証明していた、
という事も判らなかったアホ本であった。 >>822
>短里があったと証明したいなら
1短里=300短歩で基準尺は3cmのこういう物が見つかってて…と
それでしか証明する方法はない<
変な男。
「基準尺3cm」なんて、誰も言っていないことを要求する・・・・アホ。
また、その「もの」とやらが、
史料批判の結果、全てを網羅して調べたものでない、という事が判ったから、
証明根拠にならない。
>何々という書の距離を計算したら1里が短里になったから
短里は存在したじゃ証明にはならんからな <
一個のデータでも、存在根拠に十分なるのであり、
それが複数以上沢山見つかれば、更にぐんぐん100%近くの確率になってしまう。 >>825
>魏志倭人伝に短里が使われていた証拠は 現代の地理に突き合わせて
魏志倭人伝の1里は75mの短里になったから短里で書かれている
全然違わないじゃないか <
一個のデータであっても、それの史料批判をする事に拠って、
十分「1里が75m」位である事の推論根拠になり得、
複数以上のデータがあれば、同然推論確率はぐんぐん上がるもの。
>短里があると証明したいなら 短里で距離が書かれているという以外のもので証明しないと
いつまで経っても堂々めぐり<
「短里で距離が書かれているという以外のもの」というものも、
根拠にするんなら、十分な史料批判が必要。 >>827
>大体今現在わざわざ長里、短里とか言って区別しなきゃ
ごっちゃになってわけがわからなくなる所から見ても
当時普通の里と短里が一緒に存在したわけがない事が見て取れる<
魏使らの記録と陳寿の「計其道里、當在會稽東治之東」という推定がほぼ一致した事からも、
魏志では、殆どが「短里」記載である事からも、
魏朝と西晋朝では「短里」が使われた、という事が見て取れるし、
魏志以外の三国志の、蜀や呉の記載や、漢代の記録の引用では、
「短里」と「長里」の混合記載であるから、魏朝の「短里」使用の意図は、
蜀地や呉地には余り伝わらなかった、という事が見てとれる。 >>830
>1魏里約400m <
史料事実根拠がない。 >>831
>それに何の意味もない事も理解しような <
史料事実や史料批判された史料実態を口先で否定したって、
何の意味もない、という事を理解しような。 >>833
>魏志倭人伝が書かれた魏では 1里=300歩=1800尺 1尺が24cm
1里400mだった事ははっきりしてるけどな <
魏使らの記録や、陳寿の記載との一致からは、
「1里≒75m〜90m」で、「1歩≒1尺」である事がはっきりしているから、×。 >>838
>東夷だから、魏里である必要はないね<
魏使らや郡役人や陳寿や魏略や如惇注までもが、魏里=短里を使っているんだから、
東夷の記録も原則として魏里で書かれる事になる。 >>73,>>74
いいえ、現実と合わない数値が記されていることが分かる「だけ」です
九州に上陸後の比定地でほぼ異論がないのは
末慮国(松浦)
伊都国(糸島)
奴国(福岡平野)
くらいですが、それぞれを代表的な王墓遺跡の位置を基準に直線距離で計ると
末慮(宇木汲田遺跡)−伊都(三雲南小路遺跡)間 26キロ
伊都(三雲南小路遺跡)ー奴国(須玖岡本遺跡)間 20キロ
になります
これが、それぞれ魏志倭人伝では五百里と百里なので
末慮−伊都間 26キロ/五百里 一里=52メートル
伊都ー奴国間 20キロ/百里 一里=200メートル
となって、4倍程度違ってしまいます
「短里」という魏晋里を一定の割合で縮めた「きちんとした尺度」があると考えるのは無理で、
里程はあてにならないとするしかありません 最近の九州説のトレンド(笑)は、「伊都国が邪馬台国だ」なんだねww
魏志倭人伝の記述から邪馬台国の位置を求めようという努力は放棄したらしいww >>839
>1魏里=400mとそれ以外の物証が見つかってないから
1里=80mは計測ミスったんだろって可能性を原理的に排除できない <
1魏里≒76.5mの例が沢山見つかり、
400mの物証は殆ど見つかっていないんだから、
1里≒76.5mが、魏朝や西晋朝の使用里であったんだろって可能性を、
原理的に排除できない。
それを絶対的に排除しようとするこの男は、おそらく・・・・。 それよりも
コーエーというのは、どういう企業なの?
あのゲーム会社 >>841
>違う違う 1魏里=435mは証明できるけど 1東夷里=70〜90mは証明できない<
違う違う。
1魏里≒70〜90っも、1東夷里≒70〜90mも、
どちらも証明出来る。 数年前の信長の野望onlineという掲示板
「こんなブラック企業 〜なんだよ!」と言ってる人がいたり
『コーエー 落書き事件』 当時、風雲録の雑賀(所属)というところで
遊んでいたんだけど
「おまえら何を言ったんや」
「死にます!」
このような事を言ってる人がいたり、
2chではないところの掲示板の話
「あかべえが」(赤べえ。赤べこ。)何やら
と言ってる人がいたり >>844
>ほんなら1東夷里の体系が書かれた書と基準尺プリーズ<
魏志東夷伝の里記載事実や史料実態が、十分な根拠。
>存在しないものを証拠にしてはいけない <
この男のように、
存在するものの証拠性を否定して、
世間の人々を騙そう、としてはいけない。 >>845の訂正
キョクウの人種差別的国粋皇国史観戦争狂の大和説男らは、
こんなふうに、根拠を言えないし、言えば国民にウソがばれてしまうから、
全く根拠を言わない。
ただ、口先でヘイトスピーチ街宣を、言い張るだけ。
だから大和説が亡んだ。 『天台宗 山口組』
このようなスレッドも読んでみて 山王、祇園が何やらと言っていたり、
税金(無税?)。
山の上のほうの話とか
老婆談と同じじゃない?
コンクリ(セメント)が何やら〜というのも 松(もみ)の木、コンクリートのブロック、
オジギソウ・・・・、シダ類の葉・・・などの写っている写真。
あれは家の写真なんだけど、
赤べこを持っていた写真もあったはず。
キュウリの葉、葱の華・・・。
むかし、伊達郡と言うところの山の上のほうに >>848
大和説が循環論法に陥るのは、 そもそも、
魏志の行程記載で、「南→東」や、「里の実態距離の史料実態の否定抹殺」や、
史料事実の否認をして、邪馬壹國女王之所都は大和にあったはずだ、
って前提に立つからだ。
なもんで全てが全て後付けの言い訳になる。
>畿内説は前方後円墳がたくさんあるな<
列島の最初は那珂八幡で、大和は3世紀末以後だ。
>三角縁神獣鏡が一杯い出るな <
これも、筑紫が列島の初元で、大和は4世紀以後だ。
>大和国と邪馬台国って似てるな<
邪馬壹國は邪馬台国ではない。
>だから邪馬台国は畿内にあったのかもなと確かな物証から入る そこが最大の違い <
だから、「南→東」などの嘘つき騙しをして、邪馬壹國は大和にあったかもな?、
というインチキをする。
それが、九州説との最大の違い。 そのスレッド、
カブキが何やらという話も、しているでしょ? 追い詰められた九州説が
夢中で荒らしをしたり
ウソを言い張ったりで
大変だな
これは、どのスレッドだったかな
誰々って、川崎(川崎区)に住んでいるんじゃないの?
という書き込み >>849
>>1里=80mは計測ミスったんだろって可能性を原理的に排除できない <
>では、短里は無理に認める必要はないから、
1里=80mで計測をミスした前提で議論を進めようか <
そりゃ、いけないねえ。
史料事実の史料批判をした内容を、否定しては、
その時点で、嘘つき騙しになってしまって、×になってしまう。 >>88
>列島の最初は那珂八幡で、大和は3世紀末以後だ。
ではなぜ、その最初の那珂八幡古墳が、正確に箸中山古墳の三分の一の相似形なんでしょうね?
そして、その那珂八幡古墳の母集落である恵・那珂遺跡群では畿内様式土器の九州での生産拠点になっていた様子が伺えるのはなぜなんでしょうね?
古墳時代の前から、畿内様式甕を作っていた遺跡が畿内から独立した存在というのは「すごく不思議」ですよね? 当時の事は、わからないけど、
香野という家(浄土真宗?)があって
むかーし結婚した家だと言っていたり、
蚕を飼い、機織りをしていた家・・・寺院に通っていた。
家は▢▢力夫氏のような名前の家 >>71
>>1魏里約400m <
>史料事実根拠がない。
史料事実の根拠なら山ほどあるよ
今までさんざん見てきたろ
テンプレにも書いてあるし 泥棒のようなモノに入られたという話とか、
他の宗派の人間の仕業なのかな
家に飾ってあった伝説の刀(不明)?
なんかも無くなっていたと言う話 そんなに必死で荒らしてると
九州説は畿内説に負けました
ぜんぜんはがたtいません
って、自分で宣伝してるようなもんだよ
オウンゴール >>855
>計測ミスの証拠は山ほどあるからな<
計測ミスではなく、有効数1桁程度の概数近似値計測である。
>まず1里400mと全く合致しない<
魏志においては、「1里400m」に合致する記録は殆ど皆無である。
>魏志倭人伝の里数は百里、五百里とキリが良すぎ<
魏使らは、始めから有効数字1桁程度の近似値としての計測である。
>インド方面も2倍の距離で書かれている<
勿論、計測者の計測技量の差の問題である。
>洛陽近くはそんなにズレがない <
洛陽付近なら、記里車も使え、かなりの精度が期待出来るだけ。
>短里じゃなくて計測が正しくないと断言すらできる <
長里になるような計測ではなかった、と断言すら出来る。 文部科学省が何やらとも言ってない?
『何者にもなれない お前たち』? 『トヨトミミ』画像
小野、平の某、信長、ドリフターズ・・・? ザラコクの妄言と、呟き荒らしの共演か
九州説も
末期症状だね
醜態 『みんな どこへ行った』
という曲を聴いてみたほうが良い 「自女王國以北 特置一大率 檢察諸國 諸國畏憚之 常治伊都國 於國中有如刺史」
この文章の前後の文章は全て女王国か女王卑弥呼に付いての説明文であり、主語が書かれていなくとも主語は女王国か女王卑弥呼だと読み手には分かるようになっている。
それ以外の主語の場合は「諸國畏憚之」のように主語が明記されている。
「一大率常治伊都國」と主語が明記されていないので「常治伊都國」の主語も女王卑弥呼である。
なので「女王卑弥呼が伊都国で常に治めている」との意味になる。
では何を治めているのか?
女王卑弥呼が治めているのは自女王國以北の諸国である。
「常治伊都國」は「(女王卑弥呼が)伊都国で(一大率を使い自女王國以北の諸国を)常に治めていた」の意味であり 主語の女王卑弥呼と()内が省略されている。
治の類似の用法は漢書西域伝に見られる。
「大宛国 王治貴山城 去長安 万二千五百五十里…」
大宛国について、王は貴山城に治す、と王の所在を明らかにしている。
では「自女王國以北」とはどこか。
以北はその出発地を含む。出発地は「自女王國」とある。
つまり、女王国とその北にある国々を、そこに置いた一大率で支配したのである。
要するに女王国と伊都国は念を押して言い換えただけであり、一大率は伊都国にあり、伊都国が女王国、女王の都するところ、邪馬台国であるということである。
「於國中有如刺史」・・・刺史は各地の行政機関内に常駐している監察官
「女王国(を含めたそこ)から北の諸国には、(女王卑弥呼が)特別に一大率を配置して検察させており、諸国は(一大率を)畏れ憚っている。
(女王卑弥呼が)伊都国で(一大率を使い女王国から北の諸国を)常に治めていた。
これは魏で皇帝が刺史を州に派遣し検察させて洛陽で治めているのと同じようだ」の意味となる。
女王国が伊都より東にあったら、文章の意味が通らない。
畿内説では、一大率が支配していたのは奈良(女王国)およびその北である京都や丹波になってしまう。
女王国以北はおよそ里程や概要を記すことができるとされているが、里程が記載されているのは対馬海峡と福岡県内の国だけだからである。
すなわち女王国以北(女王国を含む)は伊都から北であり、女王国(邪馬台国)が伊都国であることを示している。 絹
有田遺跡は弥生時代前期末でしたが、弥生時代中期の遺跡で絹が出土した遺跡は、
中期初頭の吉野ヶ里遺跡(佐賀県神埼郡神埼町)、中期前半の栗山(福岡県甘木市)、
吉野ヶ里、比恵(福岡市博多区)、吉武高木(福岡市西区)の各遺跡、中期中葉では朝日北(佐賀県神埼郡神埼町)
中期後半では須玖岡本(福岡県春日市)、吉野ヶ里、門田(もんでん:福岡県春日市)、樋渡(福岡市西区)、
立岩(福岡県飯塚市)、三会村(長崎県島原市)、吉ヶ浦(福岡県太宰府市)、
弥生時代後期では吉野ヶ里、栗山、宮の前(福岡市西区)唐原(福岡市東区)の各遺跡から人骨に付着、
あるいは副葬品に付着した形で絹が見つかっています。
何れも福岡県を中心にした北部九州にある遺跡です。
弥生時代に続く古墳時代になると島根県、兵庫県、京都府、大阪府、奈良県、滋賀県、熊本県、静岡県、
福井県、栃木県、茨城県、鳥取県、岡山県など広い範囲で絹の遺物が出土します。
これらの結果から、日本における養蚕の起源は北九州と考えてよいでしょう
畿内は無理がありすぎ 強弁ばかり 『何者にもなれない お前たち』wiki参照
>平成23年度(第15回)文化庁メディア芸術祭アニメーション部門では、
>審査委員会推薦作品/長編(劇場公開・テレビアニメ・OVA)に選ばれている
文化庁〜文部科学省 >>106
それ・・・
九州が衰退して
畿内が栄えた
った話にしか見えないぞ 邪馬台国論争に敗れた九州説には
荒らししか余生を生きる途がない
憐れなことだ 何度、説明すればわかるんだろう
『埼玉苗字辞典 浄誓寺 香野』
確か寺院に通っていたと言っているし? >>108
伊都にいた卑弥呼が亡くなり、全国に技術が拡散した。 >>112
九州で弥生中期が盛んで後期は衰えてんだから
>>108が正解に決まってんだろ >>115
>会稽東治之東だけでも畿内確定だろ
どこをどうしたらそうなるんだ。
畿内説の強引さには呆れたな。 >>114
後期も栄えているけど?
畿内説は嘘つきの集まりだな。 弥生中期までは北部九州の絹の出土が多く、その後激減するわけだね
弥生中期までの鉄器は中国東北部の鋳造鉄斧の破片を
磨製石器の製法で再利用している
中期までの絹も半島経由の持込品だろうね 九州北部は遠賀川流域の歴史が鍵だな。
飯塚、直方、etc。
飯塚はなぜ塚なのか?
いいとは何なのか?猪と関係あるのか?
九州説は、筑豊の歴史を語れよ。 住吉三神どうなったんだろう。
倭国大乱で殺されたのかな。 石筒之男、カグツチの血が岩に落ちて生まれる。
物部と関係あるのか? >>117
>後期も栄えているけど?
>畿内説は嘘つきの集まりだな。
伊都國では三雲南小路遺跡 中期後半〜中期末(前一世紀後半?)
井原鑓溝遺跡 後期中ごろ(一世紀終わりごろ)
奴国では 須玖岡本遺跡 中期後葉〜末(一世紀初めごろ)
この辺までは、王墓があるから栄えていると言えるが、奴国も伊都国も、このあと
「王墓が続かない」
井原井原鑓溝遺跡をもって、弥生時代「後期」というならそれでもいいが、卑弥呼の3世紀中ごろから見て1世紀半ほども昔だ
卑弥呼の頃には、王墓らしい王墓が作れない、繁栄の盛りを過ぎた地域なんだよ、北部九州は 三雲南小路遺跡、1世紀半ばに方形周溝墓が出現した意味は何なんだろう。 伊都国、畿内の勢力が博多湾に拠点を作ったのかな。
天孫降臨神話と関係あるのか。 本州では下戸遺伝子と短頭の分布はほぼ一致する。
九州南部鹿児島は、不思議なんだよね。
かなりの短頭地域なのに、下戸遺伝子は殆ど分布しない。縄文系の長頭でもないし。
隼人は本州とルーツの違う渡来人なのかもしれない。 >>116
短里みたいなモノは無く、南水行は東の間違いだとわかるから
九州説死亡でしょ? >>122
一番大事な女王墓である平原遺跡に触れない不思議 >>857
>倭で魏の里を使っていたという証拠は?<
隋書に拠れば、夷人は「里」を知らない筈だったが、
実際には、神功の筑紫での話と、不知火海の島の話に短里が使われていた、
というような話があった記憶がある。 久留米にも、牛鬼伝説があるんだな。
牛鬼を退治し、その耳を耳納山に埋めたとある。
牛鬼とミミ、どういう関係なんだろう。 奈良の耳成山。
久留米の牛鬼伝説と似たような謂れがあるのかな。。。 >>860
同じ事の繰り返しになるから、面倒だから張り付けておこう。
>畿内説は前方後円墳がたくさんあるな<
列島の最初は那珂八幡で、大和は3世紀末以後だ。
>三角縁神獣鏡が一杯い出るな <
これも、筑紫が列島の初元で、大和は4世紀以後だ。
>大和国と邪馬台国って似てるな<
邪馬壹國は邪馬台国ではない。
>だから邪馬台国は畿内にあったのかもなと確かな物証から入る そこが最大の違い <
だから、「南→東」などの嘘つき騙しをして、邪馬壹國は大和にあったかもな?、
というインチキをする。
それが、九州説との最大の違い。 >>135
ンなニセ情報いくら流しても
畿内説勝勢は覆せないって
w 中大兄皇子の歌
「香具山は 畝傍ををしと 耳梨と 相争ひき 神代より かくにあるらし 古(いにしへ)も 然(しか)にあれこそ うつせみも 妻をあらそふらしき」
原文「高山波雲根火雄男志等耳梨與相諍競伎神代従如此尓有良之古昔母然尓有許曽虚蝉毛嬬乎相挌良思吉」
ミミとは何なんだろう。
耳成山口神社。
天神社と呼ばれていたのに、祀られているのは高皇産霊と大山祇。
どういうことなんだろう。 >>862
>そうよ僻地だから正確に距離が測れなかったんだよ
なもんで魏志倭人伝に出てくる距離は
邪馬台国を指すものとしては扱えない <
魏使らは、有効数字1桁位の概数で記載しているから、
別に100%完璧なものでなくて、大体の距離として扱えばよい。 >>870
>大体な 1里80mとしてもだな 帯方より1万2千里は北九州にならんのだぞ?<
なる。
>むしろ畿内を指すぐらいだ<
大和は「南≠東」に拠って、始めから×。 >>874
はいはい、
大和説の勝手な勝利宣言な。
言い負かされたら、いつもそれが始まる。 邪馬台国はヤマト国、葛城山系以東の奈良盆地一帯です。邪馬台は単なる地名です。ヤマトの地が卑弥呼を共立した勢力に征伐され、都が置かれました。
纒向の外来系土器、円形周溝墓などがその証です。殉葬などそれ以前になかった風習が持ち込まれたことも、新しい別の勢力がヤマトの地を支配した傍証になります。
女王国、大和朝廷を作ったのは、出雲など山陰の勢力、尾張、阿波、宮崎や遠賀川の石神など縄文系の勢力。
大阪や奈良など畿内の勢力はこれらの勢力に征伐されました。
倭国大乱の元凶。
火神、カグツチ、ホアカリ、火産霊、国常立神(天香久山の山頂に祀られている神、尾張一宮の本来の主祭神、天岩戸の向こう側、鬼門に封じられた神)、オオナムチ、飛騨の顔が二つ胴が一つの怪物、牛鬼、
阿波咋、
宮崎の石神、イワレ、岩割、
遠賀川の石神、石筒之男、
彼らが畿内や九州北部を征伐して、出来たのが女王国、それに連なる大和朝廷。
四道将軍で関東東北を征伐したのも彼らです。 >>130
どう違う?
弥生後期の九州北部の繁栄の象徴だよ。 >>877
>倭人伝の行程が魏の里であることを主張するなら
倭人伝の中の里が魏の里である場所を 示すとかすればいいのに。<
おやおや?、もう何度も何度も書かれた方がおられたのに、
読んでいなかったの?。 >>141
どこかで畿内説が言い負かされた事実がありませーん
創作はダメよ >>148
卑弥呼が死んだのは三世紀半ば
平原1号は二世紀末の墓 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています