邪馬台国畿内説 Part325
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邪馬台国論の鉄板、畿内説のスレです。
【骨 子】
・3世紀中葉には、古墳時代が開始していた。
・出現期古墳段階で、近畿中央部を中心に列島規模の政治連合が形成され始めていた。
・北部九州博多湾岸地域は、既にこの政治連合の傘下にあった。
ゆえに、倭女王卑弥呼の都があったのは畿内である。
邪馬台国論争ももう畿内で決着なのでロマンはありませんが
勝者の貫録を見せつつ、更なる真実を探求しましょう。
前スレ
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1518294984/
◆0【 要 旨 】 ( >>2-12に各論、それ以下にFAQを付す )
纒向遺跡の発掘状況等から、ここには西日本の広域に影響力を持った宗教的指導者が君臨しており、それは各地の首長に共立され求心的に集約された権力基盤を持つ女性であったと考えられる。
その死亡時期は3世紀中葉とみられる。畿内に中国文化が急速に浸透する時期である。
これらを倭人伝の記事と対照すると、箸中山古墳の被葬者が倭人伝に記載ある曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、纒向が邪馬台国にあった倭女王の宮殿所在地であると同定できる。
2世紀の地球規模的寒冷化は、農業生産力を強化する社会的需要から指導的地位を占める析出集団の成長を強烈に促進し、弥生的青銅器祭祀を終息せしめ、高塚化した墳丘墓を現出させる。
換言すれば、弥生墳丘墓の巨大化が顕著な地域こそが、弥生社会に古墳時代へと向かう構造変化の著しい地域であり、3世紀に爆発的に広域化する萌芽期国家の中核である。自然環境変化に起因する社会構造変化が現象として纒向に凝集し結実したと言える。
倭人伝に記載された卑弥呼の活動期間に相当する庄内併行期は、畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入している時期であり、ことに那珂比恵地域への人口流入が急拡大していく。
博多湾貿易が対外交渉の主役に躍り出るこの時期には、西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易をする段階となっている。
絶域であった日本列島が中華社会と二国間の国交を再開した時期、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の倭国の中枢である。
倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
それは桜井市纒向以外にありえない。 邪馬台国畿内説 Part1
1 :日本@名無史さん:2013/08/31(土) NY:AN:NY.AN
畿内説の人、他説の批判ばかりしてないでここで思う存分語りましょう >>292
>>弥生銀座の繁栄は、
久留米〜八女方面に遷宮した317年頃までは、首都として継続していた。<
>久留米の前は伊都でいいの?<
卑弥呼の都はおそらく安徳台で墓は祇園山。
壹與の都は與止姫神社付近で墓はおそらく平原。
その後那珂八幡の王や、糸島の銚子塚や、平原付近の端山が墓になったが、
317年頃に久留米付近に遷宮した。 畿内説は、方角無視、距離無視、陸行水行無視、諸国無視、
最後に巻向と箸墓が出てきて、これが邪馬台国卑弥呼だーと叫ぶのみ。
パズルも何にもない。 >>285
>畿内第X様式は中河内と大和南部で始まって
100年くらいかけて拡大斉一化する
庄内式、布留式土器は畿内第X期東阿波型土器(薄型軽量土器)の技法伝播を示唆する。
鮎喰川下流集落群では、弥生終末期には軽量薄型の土器が生み出される。
中・東部瀬戸内から大阪湾岸地域、淀川地域・山城地域に搬出された阿波を代表する土器であり、東阿波型土器と呼んでいる。
企画性が強く、器壁内面にヘラケズリと指頭圧痕を残す製作技法に特徴がある。土器製作専業集団によるものだろう。
類似技法による土器は讃岐・吉備に拡がり、薄型土器の南北軸を形成している。 >>296
>・・・ひと頃は、一つの墓から出た鏡としては、
平原1号墓が最多でだから重要って言ってた九州説の人がいるけど、
鏡種・枚数ともに桜井茶臼山古墳の方が圧倒的に多いね
九州説の人は、古い情報だけで同じことを言い続けているだけなんだよ
鉄もそう<
桜井茶臼山古墳は、大和ではないし、
頭に置かれたのは内行花文鏡であったし、
三角縁は中心ではなく場末のではなく副葬用であり、
鉄武器も多いし、ホケノの「有槨」から進化した竪穴式石室だから、
4世紀以後の、筑紫の東征将軍の墓。 >>298
>>纒向の周りには鉄があるのに、纒向には鉄がないのは、
纒向が交通の弁の悪いど田舎だったということなんだよ。<
>「大和弥生社会の展開とその特質(再論)」寺澤薫(2016)・・・とか読んでご覧<
「南→東」などの嘘吐き騙しの話は、時間がもったいないから、読むのも嫌だ。
>纒向は「それ以前に何もなかったところ」に「新たに作った王都」なんだよ
古いものが出ないのを田舎と言ってるだけだろ
何もなかったところに新たに作り始める契機として時期的に一番蓋然性が高いのが「卑弥呼の共立」
0から都市を造れるだけの実力が畿内大和に当時あったことも分かる<
「南≠東」の嘘つき騙しになるから、×。 >>299
>>文献的には「有」でしかないので、それ以上も以下も無い<
>文献的に「有」と書かれるためには、存在が知られてなければならないことくらいは分かるよね?<
不可知部分が殆どである自然や歴史においては、全てが見つけられる筈もなく、
「存在」の記録がある事でも十分。
>九州の弥生時代には、というか古墳時代を過ぎて飛鳥時代まで、九州島に丹は「ない」<
魏使らは「あった」と幾つも証言している。
>倭国は九州限定で使譯所通三十國もすべて九州説だと、
明確に「其山有丹」と矛盾するんだよ<
松浦川上流に水銀鉱山がが¥あるから、十分。
それに「魏志」には、水銀朱だけである、となんて全く書かれておらず、
「丹木」を魏に贈与しているから、
「其山有丹」は水銀鉱山だけだ、という断定にはなんらの必然性もない。
>よく鉄が出ないから邪馬台国は畿内じゃないと言う九州説の人がいるけど、
鉄鏃を使うというのは倭国のことであって邪馬台国のことではない <
魏使らは、邪馬壹國女王之所都という中心地まで行っているんだから、
そこでの見聞を書いた、という事は否定出来ない。 >>581
>仁徳の次の履中が朝貢してないんだよ
>すると大陸王朝側はずっと倭王は讃=仁徳だと思っている
親子関係に基づいて倭王を認定するので、それでは反正天皇が嘘をついて天皇になったのか? 【平原遺跡】
福岡県糸島市にある平原遺跡は大量の中国朱が外に流れ出したことで発見された。
1号墓は東西径13m、南北径9.5mの方形周溝墓。
割竹形木棺は長さ3m。棺底に厚さ4cmの青粘土。その上に朱を敷く。槨なし。
出土物は瑪瑙管玉12個、ガラス管玉30個以上、ガラス小玉約500個、ガラス連玉約886個。
ガラス勾玉とガラス丸玉約500個、方格規矩四神鏡32枚、内行花文鏡2枚、超大型内行花文八葉鏡5枚、虺龍紋鏡(きりゅうもんきょう)1枚(舶載鏡は前漢鏡1後漢鏡1だけ=籠神社の伝世鏡と同じ組み合わせ)。
耳璫(じとう)片3個。
長さ5尺(80.6cm)の素環頭大刀1本(卑弥呼が魏からもらった5尺刀か)。
隣接する2号墓と周溝を共有し、周溝の一部からは10名の土壙墓が見つかり、全体では約100名の殉葬があったと推定されている。
周囲に18本の柱穴があり、うち2本は日向峠に向かう鳥居と推定されている。
超大型内行花文鏡が後漢との交流が途絶えた後に独自進化したものであることから、平原遺跡が作られたのは倭国大乱後と考えられ、卑弥呼の治世である。
超大型内行花文鏡は直径が漢代の二尺(直径46.5cm)であり、円周はちょうど八咫(あた)であることから、王権の象徴である八咫の鏡(やたのかがみ)と考えられる。
伊都が文字通り倭国の都であったであったことがわかる。
女性用の耳璫があったので、被葬者は女王である。
つまり、平原遺跡は卑弥呼の墓であると考えられる。
・柳田康雄「九州弥生文化の研究2002」
(糸島地域p178)
「二世紀前半ともいわれている平原遺跡は、その年代に科学的な根拠は全くない。
瑪瑙や琥珀の玉類は別にしても、四二面のうち最も多い方格規矩鏡の中に、方格内の銘や小乳もなく、八像も簡略化され、玄武が釣針状の蛇だけになったものがある。
このように簡略化された方格規矩鏡は三世紀代に下がるものと思われ、鏡からでも三世紀前半まで下げて考えなければならない。
周溝から鉢形の土器が出土しているが公表されていない。」
・柳田康雄「弥生時代王権論」2013
(p317)
「拙稿のように32面の方格規矩四神鏡を含めて38面の製造技術が164年(『延喜七年』銘獣首鏡)以後、235年(「青龍三年」)銘方格規矩四神鏡)以前に見られる鋳造・研磨技術である」 >>620
>卑弥呼の都はおそらく安徳台で墓は祇園山。
>壹與の都は與止姫神社付近で墓はおそらく平原。
卑弥呼の都はおそらく香椎宮で墓は平原。
壹與の都は與止姫神社付近で墓はおそらく祇園山。 >>622
吉備から近畿への内面ヘラケズリ技法の伝播は弥生中期後半から始まる
指頭圧痕は縄文土器時代から >>300
>文献的には、ナガスネヒコなどヤマトの勢力は征伐されているからね。
考古学的にも、それに矛盾する結果は出ていない。
単純な卑弥呼の共立じゃないんじゃないかな<
「南→東」などのうそつき騙しになるから、×。 >>301
>桜井茶臼山古墳や他の多く墓の鏡もそうだが、「破鏡」とは、鏡の欠片で、丁寧に断面が磨いてある物も多い
欠片でも貴重だった事が伺える <
成程。全く「鏡片」を造ったかのようだね。 >>308
>破鏡や?製鏡は配布の鏡の不足を補う為に始まった文化<
いや、倭の女王たちが、部下に下賜する「鏡片」のために、破鏡した。
>その鏡が配布もされずにひとところにある時点で配布対象がいない周りに影響を及ぼせてない存在であるのが分かる
あとにも続かず、同時代にも周りに何も影響がない平原の現実を如実に表している<
誰かが、ホケノにも破鏡片があった、という事を紹介していたぞ。
という事は、ホケノも筑紫の女王の直接的な部下であった可能性が出て来た。
>そして茶臼山等の畿内を頂点とする鏡の配布は「九州にそれまで一切ない」
「三角縁」「古墳」の物であり、九州との連続性が無いのが明白<
茶臼山では、4世紀であり、ホケノ箸墓の後であり、やはり、筑紫倭國の東征時代。
>畿内は弥生末期から既に独自の小型?製鏡を作成配布しており、
邪馬台国以前から九州とは完全に別のシステムを構築しているのが知られている<
大和は、筑紫倭國から別れた別種の旧小国。
>平原は何かの中心や起源ではなく2世紀に九州の勢力が崩壊し、
それまで400年続いた王墓も伝統もそこで絶えたと言う終わりの証拠と言うのが分かる<
弥生銀座は、317年の久留米付近への遷都するまで、筑紫倭國の首都地域。 >>517
・東遷説は採らない、東征説ですね。
・邪馬台国の東遷なんて何処から出てくるの?神武の東征ですよ。
・邪馬台国も神武も北部九州で、直接繋がるかどうかは不明ですけど邪馬台国の神武は末裔でしょうね。
・九州王朝は701年にヤマト朝廷に取って代わられるまで九州中心に存在していた。
・逆に倭倭の五王が大和朝廷の大王だなんて妄想、根拠も何となく名前が似ているからだけでしょ、雄略天皇等が漢風の名称を名乗ったなんて記録も無い。 >>309
>鏡の配布と言う形式は同じだが、三角縁の配布など九州に一切なかった新たな方式を意図的に採用している事からも九州と畿内の鏡の配布に連続性は見いだせないのが分かる<
三角縁は、筑紫の志登や祇園山などが、4世紀の大和よりも50年以上先行しており、
大和は、呉系楽浪鏡師らに鏡作神社で子弟を教育して貰って粗悪な鏡を大量に造っただけ。
>前述したように畿内は既に弥生時代末期から独自の鏡を作成し、配布していることからも両者に直接的な繋がりはないのが分かる<
それらがあった、とすれば、当然筑紫倭國の東征や「市」を介しての伝来になるだけ。
>九州はむしろ鏡の配布の中心を畿内に奪われただけと言う力関係を表す証拠なのが見えてくる<
筑紫倭國の別種の旧小国の大和が、母国の筑紫倭國を併合吸収継承したのは、白村江の後。 こういう話も関係しているから、
少しでも良いから、ググって調べてみて
『陸奥爆沈 吉川』 弥生銀座だから邪馬台国だってwww
那の津、儺県として、奴国の地名が残っている場所を奴国じゃないと言い張るのか?ww
逆に吉武高木遺跡付近に奴国を思わせる地名があるか? ないだろ?
傍線経路なんていう、他の誰も信じない認めない妄想概念に頼って
須玖岡本遺跡は奴国じゃない、邪馬台国なんだと言い募る滑稽さ
畿内説の否定が事実上「南≠東」しかない滑稽さ
結局、倭の五王も九州王朝、白村江まで九州王朝が倭国王、とかいう
トンデモ説を信じている勤勉な○○が一人で大量書き込みをして、自己満足してるだけなんだよな >>311
>むしろ文化の伝播と言うのなら九州は弥生時代を通じて全く採用していなかった大型墳墓や三角縁などの文化の激流に押し流され独自性を失っている姿が明白となる
文化の主体は九州にはなく、常に畿内にあるのが分かる <
大和は、筑紫倭國から別れた別種の旧小国であり、
筑紫倭國の東征のお手伝いや、「市」を介した金儲けや、
新規渡来部族の助けで、
ホケノや箸墓以後に、墓祭祀を巨大化し豪華にしようと頑張っただけ。 >>313
文化財は、「私的」にせよ「公的」せよ、
思想や宗教的な「結論先にありき」での調査解釈をしちゃ、いかんからな。 戦艦でも何でも良いけど、
撃沈すれば戦争(殺し合い)は終わると言う話なんじゃないの?
自国の戦艦などを沈めて行けば良い
平和の使者? 『陸奥爆沈 菅野』
このような事を言ってる人もいる >>316
大和説のアホが妄想する「全ての中心の文化の頂点の大大和帝国」など存在しないw。
何の証拠もなく、出てくるもんは筑紫の影響だらけ。
まぁ大和説者のバカの脳内には、何か栄光の大帝国が見えてるんだろうよ。
笑わせてくれる。 出雲だよな。
出雲の話だよな〜。
と言ってる人ばかりなんだけど、
どういう事なの?
菅野神社というのは出雲の系統? 『菅野天財』
なぜか数年前のポケモンのスレ
「俺は益田、益田!」
「国宝だぞ!」
このような謎の書き込みをしている人がいたり 益田四郎〜天草四郎?
ウマヤド関係の話、本当のウマヤド 銀▢という親戚がいて、
歌舞伎や芝居が〜・・・でしょ >>322
><萬二千里の変遷>
淮南子:碣石山→東方之極
後漢書:楽浪郡→倭
魏志: 帯方郡→倭
要は中国の国境から辺境まで「満二千里」と観念距離を置いているわけ
中国の範囲が拡大していっても「満二千里」は変わらないw<
魏志は、萬二千余里の先の四千里に侏儒國を書き、
更に「又有裸國、黒齒國復在其東南、 船行一年可至」も書いている。
梁書も、倭國から先の文身国や大漢國や扶桑國や女國を書いている。
旧唐書は、「去京師一萬四千里」と書いていて、萬二千里と違う。
要するに、この男の話は、一般性がなく、否定された。 『旧広瀬座』
の話をしていたり、というか家の話だと言っている
むかーし住んでいた事があって >>326
>(行程の出発+途中+到着の順の記載)そんな「常識」が、あったって証拠は?
???<
・・・・以外の普通の人が、行程の説明をする時の、説明を書いた例。 >>332の訂正。
また、唐子鍵は、(鏡ではなく)銅鐸生産だな 。 寄生されたのかな?
金の元?
他のスレでも、
そのような事を言ってる人がいたり 銀▢と言っても、
坂田と言う名字ではない
広瀬座と言うところに保存されている家、
鬼灯などの飾られている家? 『河童バビィ』
何々を改造したり、
任命(決定)したりしていたと書いてあったり そういう職の人がいたのかな、
老婆の話によると
むかーし住んでいた家には、
本や書なんかが沢山あって
誰かに、あげちゃったのかな〜・・・ >>627
>親子関係に基づいて倭王を認定するので、それでは反正天皇が嘘をついて天皇になったのか?
親子関係じゃなくて正統な血縁者だよ
反正天皇は仁徳天皇の子で、先帝履中天皇の弟
台与も卑弥呼と親子関係じゃなくて宗女だろ
高城修三さんの紀年解読というのが面白いよ
http://takiren.sub.jp/kodaisi02htm.htm
ネットで読めるのは抜粋版だけどね
日本書紀の紀年は安康天皇以降は元嘉暦で書かれていて、
その範囲の紀年はおおむね信頼できる
それ以前の儀鳳暦の部分は春秋年として読み解くことで
もとの紀年が復元できるとしている
春秋年の根拠は魏略逸文の其俗不知正歳四節但計春耕秋収爲年紀
春秋年のもう一つの傍証は応神の妊娠期間
仲哀死後2年で生まれているが、春秋年なら十月十日で
翌年に生まれただけで特に不審はなくなる
この作業仮説に従って解読した修正紀年と大陸史書の倭の五王記事を
照らし合わせると、珍、斉の遣使は、反正、允恭の即位直後に遣使している
ことが分かるし、世子興の遣使も允恭の崩御の直後にあたる
ただ允恭後の皇位継承は前皇太子の木梨軽皇子と安康天皇の争いがあるので
どちらかは決めがたい >>662の続き
倭王讃の遣使は、修正紀年の仁徳天皇の在位期間に収まる
仁徳の遣使の動機は、神功、応神の時代の半島への進出による
国内の疲弊(仁徳天皇は即位後3年間租税を免除している)を見て
半島、大陸との関係修復を目指したと考えられる
倭王武の遣使は雄略即位16年後になるが、即位前後に市辺押磐皇子を
はじめ多くのライバル皇族を殺したためその後の国内の掌握に時間が
かかったのだろう
有名な倭王武の上表文にも、遣使が遅れた言い訳がくだくだしく
書かれている
臣亡考濟實忿寇讎壅塞天路控弦百萬義聲感激方欲大擧
奄喪父兄使垂成之功不獲一簣 居在諒闇不動兵甲 是以偃息未捷
まとめると、
仁徳は半島・大陸との関係修復のために、266年の晋への遣使以来の
朝献を行った
争いなく即位した大王は、即位直後に遣使している
即位前後に戦乱のあった雄略は遣使が即位16年後になったことを
言い訳している
ここから考えると履中は即位前後に住吉仲皇子との皇位争いがあり
遣使が遅れたと考えられ、そして早世した(書紀で在位6年、春秋年
なので3年間)ので結局遣使できなかった
その後弟の反正が「先王が薨じ弟の反正が皇位を継いだ」という上表文で
遣使すれば、それまで大陸王朝には仁徳の死も履中の即位も伝わっていないので
讃死弟珍立遣使貢献と書かれることに不審はない
系図に合わないというだけでは否定できないよ
九州王朝の系図なんてないだろ?www 調べてみると、そのような人がいたり
>菅野氏は、労働法学の世界的権威であり
「ちゃんと仕事をしろよ」
「日本は負けたんだよ」
という書き込みをしている人がいたり、親戚か何かなのかな >>635
>>635も「古田史学の会」系の九州王朝仮説とかいうトンデモを信じちゃってるんですねww
ていうか「>>635も」じゃなくて、主に一人だけみたいだけど
>・邪馬台国も神武も北部九州で、直接繋がるかどうかは不明ですけど邪馬台国の神武は末裔でしょうね。
日本語があやしいけど、翻訳すると「神武は邪馬台国に末裔」といいたいんだよね?
「邪馬台国の末裔」というのがめちゃくちゃ曖昧だけど、
卑弥呼の末裔なら時代が合わない←神武の方が100年単位で古い
神武の頃に邪馬台国が既にあった←そんな証拠、文献はない
ということで、妄想の域を超えないね
倭の五王の宋書に記された一文字名が、漢風諡号に似ているからなんてそれどこの聞きかじりだい?
系譜に合わないとかいう言いがかりには>>662,>>663で丁寧に説明してある
九州王朝の王だと主張するなら、最低限でもこれ以上に丁寧な論証をしてくれよ!
日本の文書に記された九州王朝の系譜記事と、宋書の倭の五王の記事の年次が
問題なく一致することを示してくれれば納得するよ!
私は日本の記録・日本書紀と、大陸の記録・宋書の対応関係から論じてるだろ?
>>635も「畿内説は違う○ダー」ばかり言ってないで「九州説の論立て」を
説得力のある「根拠」を示して「論証」してくれればいいんだよ
できるものなら、ね!ww >>339
>じゃあ糸島じゃ王権は続かないんだね?<
また変な男。
糸島の伊都国や奴国との境界地域では、王権が続いている、と言っている。 本当に、あの謎の震災後だよ、
詳しく話をするようになったのは
・沢山あった本や書なんかも、
どうしちゃったのかな
・誰か、近所の人に、あげたのかな〜、
うっちゃったのかな
それと、部屋に飾ってあったという謎の刀の話w >>635
>>>517
>・東遷説は採らない、東征説ですね。
>・邪馬台国の東遷なんて何処から出てくるの?神武の東征ですよ。
>・邪馬台国も神武も北部九州で、直接繋がるかどうかは不明ですけど邪馬台国の神武は末裔でしょうね。
>・九州王朝は701年にヤマト朝廷に取って代わられるまで九州中心に存在していた。
>・逆に倭倭の五王が大和朝廷の大王だなんて妄想、根拠も何となく名前が似ているからだけでしょ、雄略天皇等が漢風の名称を名乗ったなんて記録も無い。
全て同意する。 >>638
>那の津、儺県として、奴国の地名が残っている場所を奴国じゃないと言い張るのか?ww
>逆に吉武高木遺跡付近に奴国を思わせる地名があるか? ないだろ?
2万戸だから、その領域は福岡平野全域を想定するべきだね。 任命について調べてみると
・一般職の任命に関する規定:昭和二十年代〜
このように書いてあるでしょ、
老婆の話は、もっと前の? >>645
>大和説のアホが妄想する「全ての中心の文化の頂点の大大和帝国」など存在しないw。
>何の証拠もなく、出てくるもんは筑紫の影響だらけ。
>まぁ大和説者のバカの脳内には、何か栄光の大帝国が見えてるんだろうよ。
全くその通りです。
畿内説の出す証拠が筑紫の影響か、少し後世のものを年代詐称しているかしかない。 >>663
>系図に合わないというだけでは否定できないよ
朝貢のタイミングについての考察は興味深いですね。
でも、系図が合わないのはやはり深刻です。
九州王朝の系図がないのはその通りですが、逆に倭の五王の系図がそのまま九州王朝の系図だと考えることもできるのですよ。 >>665
>卑弥呼の末裔なら時代が合わない←神武の方が100年単位で古い
>神武の頃に邪馬台国が既にあった←そんな証拠、文献はない
神武の実年代は不明だよ。
卑弥呼とそれほど違わないかもしれない。
この板でも鴨は同年代だとしているし、私個人も半世紀も違わないだろうと思う。
それは、3世紀後半からの畿内の成長になんらかの影響を及ぼしていたと考えるからだ。
100年単位で古いというが、2世紀より前の大和に対応する考古学的証拠がない。 大和は木俣の国。
飛鳥坐神社。昔の祭神は興味深い。 >>665
>日本の文書に記された九州王朝の系譜記事と、宋書の倭の五王の記事の年次が
>問題なく一致することを示してくれれば納得するよ!
1,000年以上かけて、畿内中心史観の捏造に血道を上げてきたわけで、国内にはそうそう裏付けがない。
残念ながら。
それだけに、未だに皇国史観まがいの畿内説が幅を利かせているのは残念でならない。 >>652
>魏志は、萬二千余里の先の四千里に侏儒國を書き
>更に「又有裸國、黒齒國復在其東南、 船行一年可至」も書いている。
その「侏儒國、裸國、黒齒國」はどこにあるんだい?
どこを比定地に当てる?
黒齒國は山海經にも出てくる伝説上の国だし、裸國も淮南子に出てくる世界の端の国
淮南子:墬形訓
自西南至東南方,結胸民、羽民、歡頭國民、「裸國民」、三苗民、交股民、不死民、穿胸民、反舌民、豕喙民、鑿齒民、三頭民、修臂民;
自東南至東北方,有大人國、君子國、「K齒民」、玄股民、毛民、勞民;
そして、前にも挙げた淮南子:時則訓を再掲すると
東方之極,自碣石山過朝鮮,貫大人之國,東至日出之次,木之地,青土樹木之野,太r、句芒之所司者,萬二千里。
魏志倭人伝の世界観では、
淮南子:墬形訓の大人國、時則訓の大人之國を倭國に当てているように見える
だからこそ「倭」國なのかもしれない
墬形訓の自「東南」至東北方だから、倭國は倭人在帶方「東南」大海之中だし、
時則訓の世界の端だから「萬二千里」
そして東の端を南へ下っていくと「K齒民」がいて、
墬形訓の自西南至東南方の段落にある「裸國民」はさらに遠くの扱いになる
こうして見ると、魏使の報告書になかった部分は、
淮南子を参照して書いているのは明らかだな >>669
>2万戸だから、その領域は福岡平野全域を想定するべきだね。
私もそう思うんだが、
奴国は吉武高木遺跡近辺のみで、
通常奴国の中心とされる岡本遺跡群は弥生銀座だから奴国じゃなくて邪馬台国って
言い張る人がいるんだぜ
しかも吉武高木の辺が奴国だと言いながら、
傍線経路で通ってないっていう謎の主張をするし
伊都国が糸島で、邪馬台国が岡本遺跡群だとしたら、普通に移動すれば
当然に間の吉武高木付近(早良平野=彼の人の主張の奴国)を通ることに
なるから「傍線経路で通ってない」っていうのは矛盾するのにww
北部九州の地図を見てないんだと思う ダイアモンドだね〜という曲
こういうのも天財若子のテーマでしょ、
そういう事になる >>341
>私は卑弥呼やイヨの時代は九州説だけど、その後の時代に連合関係がさらに広がり畿内に中心を移したと考えているよ
いつかはまだ考証中… <
大和日本国は、九州倭国から別れた別種の旧小国であり、
九州倭国を併合継承九州出来たのは、白村江の後。 親玉の古田からして、松浦川の存在を知らないで
東唐津まで東南陸行とか言ってたからなあ
笑うしかないよ これも以前、書いた
ちびまる子ちゃん?宝物みつけたよ
という曲とか モモタロウと言う作品に登場する、
うらしまん王子?どこかの国王で・・・
・・・・・・・・・・・・・・・・・・
・・・・・・・・・・・・・・・・・・
現在? >>342
>>私は卑弥呼やイヨの時代は九州説だけど <
>それで、なんで王墓が一つしかないの?><
九州には大和よりも、はるかに沢山の墓があったのに、
何故「一つしかない」と嘘を付くの?。 >>673
>神武の実年代は不明だよ。
それは同意
でも私はアマチュアの立場で、神武も欠史八代も実在に立場を取るし、
欠史八代の即位順も認める立場でいる
ただ直系父子継承というのは、大王名だけの伝承しかなかったのを、
根拠なく直系に繋いだものだと思っている
そして、他の豪族の古系図との比較から神武−崇神間を5世代とする宝賀寿男氏の
論考を妥当なものだと考えているので、1世代20年で100年くらいと考えているよ
>卑弥呼とそれほど違わないかもしれない。
>この板でも鴨は同年代だとしているし、私個人も半世紀も違わないだろうと思う。
卑弥呼は崇神と同時期またはその前代くらいと考えている
鴨については詳しくないので論評できないな
>それは、3世紀後半からの畿内の成長になんらかの影響を及ぼしていたと考えるからだ。
単に、神武天皇は崇神および卑弥呼の父祖伝承だと思うけどな
ただ前にも書いたけれど、神武が九州倭国の傍流で、その血筋であることが
卑弥呼の共立に効いていたかもしれないとは思う
>100年単位で古いというが、2世紀より前の大和に対応する考古学的証拠がない。
2世紀より前にも普通の弥生集落の遺跡は奈良盆地内に多数あるよ
ただ、記紀に大王と書いてあっても、卑弥呼の共立以前は大和盆地のローカル王に
過ぎないから、それほど顕著な遺跡はないってことだと思う
それでも、大和の唐古鍵遺跡は畿内を中心とする大型祭祀銅鐸地域の中心で
大型銅鐸を作っていた遺跡だし、西河内の亀井遺跡とともに、
畿内第X様式甕を共通に使っているクニ(これが邪馬台国7万戸の範囲)の
中心だったことは言えると思うよ 調べてみるとわかる、
なぜか小野という名前が出て来たり
山王。
天財若子。
広瀬座、ここにも出てくる >>336
むちゃくちゃだな、「南→東」などの嘘吐き騙しの大和説。 >>347
あのね・・・、
魏志に書いてある距離が
各国の「居住外縁部や入り口や門の間の距離だ」
っっていう人類に常識を認めないで、変な説を立てると、
部分里程の合計が12000余里では あり得なくなっちゃって、
大和説が、メチャクチャになるよ。 ドラクエのテーマ
『Love Song 探して』
>交差点 横切ったよ
どういう仕組みになっているのか?なんだよ >>677
ふむふむ。
ザラコク氏は詰めが甘いな。
その通りだと思う。 >>672
>でも、系図が合わないのはやはり深刻です。
といっても、合わないのは讃のあとが弟と書かれている部分だけだし
そこは、>>662、>>663の説明で十分だと思う
そもそも大陸王朝は倭国の系譜にさしたる興味はないんだし
斉、興、武は系譜まで完全一致だし、
宋書の倭王武の複数回の遣使記事と日本書紀・雄略紀の遣呉使派遣記事の対応も確認できる
倭王武を雄略ではない他の人物とするなら、よほどの「根拠」を示さない限り
話にもならないよ
>九州王朝の系図がないのはその通りですが、逆に倭の五王の系図がそのまま九州王朝の系図だと考えることもできるのですよ。
それならそれで、九州王朝のに系譜であるというのを「根拠」挙げて論証しない限り
控えめに言って憶測、厳しく言えば妄想でしかないよ
さらに言えば遣隋使はどうする?
倭の五王以上に、さらに大陸の史書と日本書紀の記述が一致するよ
九州王朝仮説だと遣隋使も九州王家だとするみたいだけど、
トンデモ以外になにものでもない >>684
>鴨については詳しくないので論評できないな
鴨厨は葛城スレの主で、畿内説なんだが、一代20年で、卑弥呼と神武が同じ年代になるとのこと。
>ただ前にも書いたけれど、神武が九州倭国の傍流で、その血筋であることが
>卑弥呼の共立に効いていたかもしれないとは思う
多分、畿内は遠すぎて卑弥呼共立に影響はしなかっただろうね。
ちなみに私が卑弥呼と神武が同じ年代だと考えるのは、倭国大乱前の筑紫倭国の男王らが日向三代だと思うからだけどね。
神武の方が少しだけ年代が古いかもしれない。 >>676
山海経海外東経なんかにも大人国、君子国とかいろいろ出てくる >>684
>それでも、大和の唐古鍵遺跡は畿内を中心とする大型祭祀銅鐸地域の中心で
>大型銅鐸を作っていた遺跡だし、西河内の亀井遺跡とともに、
銅鐸文明の中心なら構わないが、魏からわざわざ鏡をもらうほどの鏡文化に傾倒した邪馬台国の中心にはならないよ。 >>686
>>336は、青銅器一つ副葬されていない隣の2号墓と同じサイズしかない、小さくて
王墓というのも憚られる平原1号墓を副葬品がすごいから王墓だって言って
がんばっている九州説の人なのに
まあ、>>686がここで一番頑迷なトンデモ九州説だって分かったから、あとは生暖かく相手するよww >>695
>さらに言えば遣隋使はどうする?
日本書紀は隋書などにすり合わせしているからですよ。
しかし、隋書に阿蘇山が書いてあったり、遣隋使の時の大王が推古女帝ではなく、妃や後宮を持つ多利思比孤なる人物であることはどうするのですか? >>700
自分のことを言われているのかと思いアンカー先を見てみたらどちらも自分ではなかった。
このスレは九州説で賑わっているようだ。 >>699
>銅鐸文明の中心なら構わないが、魏からわざわざ鏡をもらうほどの鏡文化に傾倒した邪馬台国の中心にはならないよ。
三角縁神獣鏡の配布共有という鏡文化に傾倒した前方後円墳祭祀は誰が
どう見ても、畿内が中心だよね?
この三角縁神獣鏡の文化が、卑弥呼の銅鏡100枚を基礎に置いているのは、景初3年(239年)・景初4年・正始元年(240年)の紀年銘鏡があることから確認できるだろ?
三角縁神獣鏡が、国産であるものがほとんどなのは認めるが、国産なのにわざわざ「大陸王朝」の「卑弥呼の遣使の年」が記されているのは、卑弥呼の遣使の記念品であることを明確に示している
してみると、平原1号墓に大量埋納されている仿世鏡が、製作年代が1世紀の中頃より繰り下がらない方格規矩鏡なのは、西暦57年の光武帝への遣使の記念なのかもね >>703
銅鐸文化なのか銅鏡文化なのかはっきりしなよ。
畿内は唐子などの銅鐸文化が九州から来た銅鏡文化に塗りつぶされているよ。
三角縁ご記念品であるからこそ、卑弥呼より後の時代のものである可能性が否定できない。
あと、平原を語るなら、超大型内行花文鏡について述べないと。
あれはいわゆる後漢鏡より新しいことは間違いなく、倭国大乱より後、少なくとも2世紀末以降だろう。
それは卑弥呼の治世において作られたということなんだよ。 >>日本書紀は隋書などにすり合わせしているからですよ。
では隋書で上遣文林郎「裴C」使於俀国と書いてあるのに、日本書紀ではきちんと大唐使人「裴世C」と書いてあるのをどう説明する?
隋書の方に大和朝廷の冠位十二階の「小徳」阿輩臺、「大禮」哥多毗が書いてあるのはなぜ?
隋書の方が成立年が先だし、倭国の事情に合わせる必要がないだろ?
>隋書に阿蘇山が書いてあったり
中国には火山がないから、珍しかったかららしいよ
阿蘇山も大和朝廷の版図の中だし何が問題?
>遣隋使の時の大王が推古女帝ではなく、妃や後宮を持つ多利思比孤なる人物であることはどうするのですか?
普通は摂政の上宮法王だとされているね
朝政を実際に執っている責任者だし、妃や後宮を持つ男子最高位の皇族だから何も問題ないだろ?
多利思比孤は普通名詞扱いで、固有名詞ととる必要はないし、大和朝廷でよく使われるタラシヒコの音訳で問題ないだろ?
九州王朝の「多利思比孤という人物の記録」があるなら出してくればいいのに、
それができないなら「控えめに言って憶測、厳しく言えば妄想」
九州説は大体このレベルなのを自覚して欲しい >>704
>三角縁ご記念品であるからこそ、
あ、三角縁神獣鏡が卑弥呼ご記念品であることを認められた?
すばらしいね!
つまり卑弥呼死後の後継王朝が、卑弥呼ご記念品を大量製作して
配布した大和朝廷だと確定したね!
大和朝廷=邪馬台国で、プロの研究者のコンセンサスと一致したね!
奴国は傍線経路ってのも言えなくなったしww >>697
>ちなみに私が卑弥呼と神武が同じ年代だと考えるのは、倭国大乱前の筑紫倭国の男王らが日向三代だと思うからだけどね。
私も「日向三代は伊都国王」という邪馬台国の会主催の安本美典氏の説をこの部分は支持しているよ
ただ、邪馬台国の頃ではなく、光武帝への遣使(西暦57年)の頃だと思う
三雲南小路遺跡甕棺墓 伊都国 前一世紀中ごろ
井原鑓溝遺跡甕棺墓 伊都国 一世紀第1四半期
と年代も合うし
このあと神武の東征(征伐はしていないと思うけど)なら、卑弥呼より100年以上前だろう >>351
そもそも大和内の鏡の序列は、中国のシステムを採用した筑紫の序列を、
そのまま踏襲しているに過ぎない。
大和の発明でも発祥でも何でもない 。
それはすなわち大和が中国との交渉権を持っていなかったことを意味してる。
そして九州は、九州のシステムと全く違う独自の方式を作り出ししていない大和を、
その下位の序列に組み込んでいる。
これを見て、大和が上だ起源だ、などとを、何をもって喚いてるのか皆目見当がつかない。
大和説など、この程度の妄想でしかない。 バカは銅鐸の変遷も知らないで毎度こういうバカ話を喚いてるから笑える
どっかの能無し歯医者がそういうバカ本書いてたな
心理学者だの歯医者だのアホ九州説は毎度人材が豊富だなw >>356
>個人的には、神武から崇神までは記紀系譜の直系十代ではなく、
古系譜研究家の宝賀寿男氏のいう、
兄弟継承を含み神武>崇神まで5世代が妥当だと思っている <
宝賀氏は、祇園山=卑弥呼の墓、説だから、筑紫説なんだよ、ssnくん。 銅鐸から鏡に変わるまでの間は優に100年くらいのタイムラグがある
その上、大和はかなり早い段階にいち早く銅鐸を辞めている
そして銅鐸は近畿・東海全体で次第に使われなくなっていく流れ
銅鐸が使われなくなって大分たってから鏡が現れるようになる
アホがよく喚くような唐突な変化などしていない
バカはなにも知らないから「銅鐸がいきなりなくなって鏡が出た!だから鏡が征服したんだ!」とかいうバカ丸出しの妄想が出来上がると >>688
>各国の「居住外縁部や入り口や門の間の距離だ」 っっていう人類に常識
図が描けると分かりやすいんだけど
A,B,C3つの国があったとして
下の図でA,B,Cの文字が国の中心で[ ]が国境だとすると
経路の距離表示が
[ A ][ B ][ C ]
├─────┤ ├─────┤ 688説
├─────────┼──────────┤ 私というか普通の計り方
A−B間 BーC間
「居住外縁部や入り口や門の間の距離」にしたら隙間ができて、経路距離が分からなくなるだろ
それともこうなのか
[ A ][ B ][ C ]
├─┤ ├─┤ 688説
A−B間 BーC間
「居住外縁部や入り口や門の間の距離」を字義通りとるとこうなるんだが? 隋書には倭国は遂絶って書いてあるからね。
旧唐書では倭国と日本国の併記
新唐書からは日本国のみとなる。
大和朝廷設立とともに倭国九州王朝は
終わったと見て良いだろう。
隋書の編纂は唐の時代だから
日本国の朝貢は入っている。
それでも日本国を倭の後継としなかったんだから
倭国九州王朝と日本国は、別物と判断したんだろうよ。 また旧唐書w
この基地外は何回も同じバカ話を続けるな
古田教団の基地外のカルト教義だから死ぬまで続けるだろうな
次はどうせ筑紫城だろ >>710
>宝賀氏は、祇園山=卑弥呼の墓、説だから、筑紫説なんだよ、ssnくん。
知ってるよ
九州説は間違いというか「古い情報からの論立て」だと思っているけど、
安本美典氏の「日向三代は伊都国」とか
宝賀寿男氏の「神武から崇神は5世代」は正しいと思っているよ
お二人ともアマチュアだけどね
九州説の誰かさんみたいに、
「柳田康雄は畿内説だから公式報告書も嘘に決まってる」なんていうバカなことは言わないよww >>358
>そうなると、平原1号墓が絶対に桜井茶臼山古墳より古いとも言い切れないぞ
まあ、弥生時代終末期でよさそうだとは思うが<
前方後円墳ではない平原は、前方後円墳である桜井茶臼山古墳であるよりも古くて当たり前。
>>それを比べて、茶臼山の方がすごい とかいうのが頭悪い。<
>といっても、実際それだけ多くの鏡種・枚数を揃えているのは事実なんだから
素直にすごいと認められる<
竪穴式石室で、宗像神社があるんだから、
やはり筑紫倭国の東征将軍の墓であった、ということでしかない。
>破鏡の習慣は、その前にも後にもそれほど盛行した習慣ではなく、<
鏡片の分布は、殆ど筑紫であるんだから、筑紫で発生した筑紫の習慣。
>どちらが先にしてもそれほど離れた時期ではないのだし、大体同じ時期に
より多くの鏡を使っている桜井茶臼山古墳の方が、より大きな勢力を
背景としているのは明らかだろう?<
平原は、前方後円墳の那珂八幡よりも前であり、
ホケノや箸墓は、那珂八幡よりも後であり、
桜井茶臼山は、ホケノ箸墓よりも後だから、「大体同じ時期」にはならない。
>平原1号墓は九州説虎の子の3世紀前後の唯一の王墓候補なのに対し、<
唯一の王墓候補、なんて墓でもないよ。 何一つ出てこない
出てくるもんは全部畿内の影響にどっぷり漬かったものばかり
本来ならここで「九州説なんてあるわけねー」となるが、邪馬台国の会の基地外達は妄想を喚き散らして九州説だとかほざき続けると
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