邪馬台国畿内説 Part325
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邪馬台国論の鉄板、畿内説のスレです。
【骨 子】
・3世紀中葉には、古墳時代が開始していた。
・出現期古墳段階で、近畿中央部を中心に列島規模の政治連合が形成され始めていた。
・北部九州博多湾岸地域は、既にこの政治連合の傘下にあった。
ゆえに、倭女王卑弥呼の都があったのは畿内である。
邪馬台国論争ももう畿内で決着なのでロマンはありませんが
勝者の貫録を見せつつ、更なる真実を探求しましょう。
前スレ
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1518294984/
◆0【 要 旨 】 ( >>2-12に各論、それ以下にFAQを付す )
纒向遺跡の発掘状況等から、ここには西日本の広域に影響力を持った宗教的指導者が君臨しており、それは各地の首長に共立され求心的に集約された権力基盤を持つ女性であったと考えられる。
その死亡時期は3世紀中葉とみられる。畿内に中国文化が急速に浸透する時期である。
これらを倭人伝の記事と対照すると、箸中山古墳の被葬者が倭人伝に記載ある曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、纒向が邪馬台国にあった倭女王の宮殿所在地であると同定できる。
2世紀の地球規模的寒冷化は、農業生産力を強化する社会的需要から指導的地位を占める析出集団の成長を強烈に促進し、弥生的青銅器祭祀を終息せしめ、高塚化した墳丘墓を現出させる。
換言すれば、弥生墳丘墓の巨大化が顕著な地域こそが、弥生社会に古墳時代へと向かう構造変化の著しい地域であり、3世紀に爆発的に広域化する萌芽期国家の中核である。自然環境変化に起因する社会構造変化が現象として纒向に凝集し結実したと言える。
倭人伝に記載された卑弥呼の活動期間に相当する庄内併行期は、畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入している時期であり、ことに那珂比恵地域への人口流入が急拡大していく。
博多湾貿易が対外交渉の主役に躍り出るこの時期には、西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易をする段階となっている。
絶域であった日本列島が中華社会と二国間の国交を再開した時期、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の倭国の中枢である。
倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
それは桜井市纒向以外にありえない。 >>812
>陳寿は短里で書かれた報告書を手にしていたが、それが短里であることには気がつかなかったんだろう。 ただ、疑問を感じたので日程を併記したのかもね。
なんだか変だなぁと。 そうしたら後世でつなげてしまった。<
これ✖ね。
陳寿は、
「計其道里、當在會稽東治之東」というほぼぴったりの推定位置を書いている、
という事は、
魏使らの里の記録が、短里であって、しかもほぼ正しい、
という事を知っていて認めていた、
という事になる。 >>820
>魏志倭人伝が短里だからだと循環論法<
魏志の記載例を根拠にして、それからの帰納的確率的な推論をしたのだから、
「結論先にありき」ではなく、
循環論法にもならない。 >>820
>なんで、魏志倭人伝に短里が使われていた証拠は
魏志倭人伝がそう書かれているからというのは
循環論法だから指摘してるだけなんだ<
魏志の記載例を根拠にして、それからの帰納的確率的な推論をしたのだから、
「結論先にありき」ではなく、
循環論法にもならない。
>違うと言うなら1短里=300短里とか書かれてる文献を<
何だいこりゃ。とうとう気がクルったか?。
>普通の里はそれがあって証明されてるんだし<
その文献が、文帝の度量衡統一の指示の事も知らないようだし、
魏志などに書かれた陳寿の「計其道里、當在會稽東治之東」が、
結局は魏使らの記録が正しかった事を証明していた、
という事も判らなかったアホ本であった。 >>822
>短里があったと証明したいなら
1短里=300短歩で基準尺は3cmのこういう物が見つかってて…と
それでしか証明する方法はない<
変な男。
「基準尺3cm」なんて、誰も言っていないことを要求する・・・・アホ。
また、その「もの」とやらが、
史料批判の結果、全てを網羅して調べたものでない、という事が判ったから、
証明根拠にならない。
>何々という書の距離を計算したら1里が短里になったから
短里は存在したじゃ証明にはならんからな <
一個のデータでも、存在根拠に十分なるのであり、
それが複数以上沢山見つかれば、更にぐんぐん100%近くの確率になってしまう。 >>825
>魏志倭人伝に短里が使われていた証拠は 現代の地理に突き合わせて
魏志倭人伝の1里は75mの短里になったから短里で書かれている
全然違わないじゃないか <
一個のデータであっても、それの史料批判をする事に拠って、
十分「1里が75m」位である事の推論根拠になり得、
複数以上のデータがあれば、同然推論確率はぐんぐん上がるもの。
>短里があると証明したいなら 短里で距離が書かれているという以外のもので証明しないと
いつまで経っても堂々めぐり<
「短里で距離が書かれているという以外のもの」というものも、
根拠にするんなら、十分な史料批判が必要。 >>827
>大体今現在わざわざ長里、短里とか言って区別しなきゃ
ごっちゃになってわけがわからなくなる所から見ても
当時普通の里と短里が一緒に存在したわけがない事が見て取れる<
魏使らの記録と陳寿の「計其道里、當在會稽東治之東」という推定がほぼ一致した事からも、
魏志では、殆どが「短里」記載である事からも、
魏朝と西晋朝では「短里」が使われた、という事が見て取れるし、
魏志以外の三国志の、蜀や呉の記載や、漢代の記録の引用では、
「短里」と「長里」の混合記載であるから、魏朝の「短里」使用の意図は、
蜀地や呉地には余り伝わらなかった、という事が見てとれる。 >>830
>1魏里約400m <
史料事実根拠がない。 >>831
>それに何の意味もない事も理解しような <
史料事実や史料批判された史料実態を口先で否定したって、
何の意味もない、という事を理解しような。 >>833
>魏志倭人伝が書かれた魏では 1里=300歩=1800尺 1尺が24cm
1里400mだった事ははっきりしてるけどな <
魏使らの記録や、陳寿の記載との一致からは、
「1里≒75m〜90m」で、「1歩≒1尺」である事がはっきりしているから、×。 >>838
>東夷だから、魏里である必要はないね<
魏使らや郡役人や陳寿や魏略や如惇注までもが、魏里=短里を使っているんだから、
東夷の記録も原則として魏里で書かれる事になる。 >>73,>>74
いいえ、現実と合わない数値が記されていることが分かる「だけ」です
九州に上陸後の比定地でほぼ異論がないのは
末慮国(松浦)
伊都国(糸島)
奴国(福岡平野)
くらいですが、それぞれを代表的な王墓遺跡の位置を基準に直線距離で計ると
末慮(宇木汲田遺跡)−伊都(三雲南小路遺跡)間 26キロ
伊都(三雲南小路遺跡)ー奴国(須玖岡本遺跡)間 20キロ
になります
これが、それぞれ魏志倭人伝では五百里と百里なので
末慮−伊都間 26キロ/五百里 一里=52メートル
伊都ー奴国間 20キロ/百里 一里=200メートル
となって、4倍程度違ってしまいます
「短里」という魏晋里を一定の割合で縮めた「きちんとした尺度」があると考えるのは無理で、
里程はあてにならないとするしかありません 最近の九州説のトレンド(笑)は、「伊都国が邪馬台国だ」なんだねww
魏志倭人伝の記述から邪馬台国の位置を求めようという努力は放棄したらしいww >>839
>1魏里=400mとそれ以外の物証が見つかってないから
1里=80mは計測ミスったんだろって可能性を原理的に排除できない <
1魏里≒76.5mの例が沢山見つかり、
400mの物証は殆ど見つかっていないんだから、
1里≒76.5mが、魏朝や西晋朝の使用里であったんだろって可能性を、
原理的に排除できない。
それを絶対的に排除しようとするこの男は、おそらく・・・・。 それよりも
コーエーというのは、どういう企業なの?
あのゲーム会社 >>841
>違う違う 1魏里=435mは証明できるけど 1東夷里=70〜90mは証明できない<
違う違う。
1魏里≒70〜90っも、1東夷里≒70〜90mも、
どちらも証明出来る。 数年前の信長の野望onlineという掲示板
「こんなブラック企業 〜なんだよ!」と言ってる人がいたり
『コーエー 落書き事件』 当時、風雲録の雑賀(所属)というところで
遊んでいたんだけど
「おまえら何を言ったんや」
「死にます!」
このような事を言ってる人がいたり、
2chではないところの掲示板の話
「あかべえが」(赤べえ。赤べこ。)何やら
と言ってる人がいたり >>844
>ほんなら1東夷里の体系が書かれた書と基準尺プリーズ<
魏志東夷伝の里記載事実や史料実態が、十分な根拠。
>存在しないものを証拠にしてはいけない <
この男のように、
存在するものの証拠性を否定して、
世間の人々を騙そう、としてはいけない。 >>845の訂正
キョクウの人種差別的国粋皇国史観戦争狂の大和説男らは、
こんなふうに、根拠を言えないし、言えば国民にウソがばれてしまうから、
全く根拠を言わない。
ただ、口先でヘイトスピーチ街宣を、言い張るだけ。
だから大和説が亡んだ。 『天台宗 山口組』
このようなスレッドも読んでみて 山王、祇園が何やらと言っていたり、
税金(無税?)。
山の上のほうの話とか
老婆談と同じじゃない?
コンクリ(セメント)が何やら〜というのも 松(もみ)の木、コンクリートのブロック、
オジギソウ・・・・、シダ類の葉・・・などの写っている写真。
あれは家の写真なんだけど、
赤べこを持っていた写真もあったはず。
キュウリの葉、葱の華・・・。
むかし、伊達郡と言うところの山の上のほうに >>848
大和説が循環論法に陥るのは、 そもそも、
魏志の行程記載で、「南→東」や、「里の実態距離の史料実態の否定抹殺」や、
史料事実の否認をして、邪馬壹國女王之所都は大和にあったはずだ、
って前提に立つからだ。
なもんで全てが全て後付けの言い訳になる。
>畿内説は前方後円墳がたくさんあるな<
列島の最初は那珂八幡で、大和は3世紀末以後だ。
>三角縁神獣鏡が一杯い出るな <
これも、筑紫が列島の初元で、大和は4世紀以後だ。
>大和国と邪馬台国って似てるな<
邪馬壹國は邪馬台国ではない。
>だから邪馬台国は畿内にあったのかもなと確かな物証から入る そこが最大の違い <
だから、「南→東」などの嘘つき騙しをして、邪馬壹國は大和にあったかもな?、
というインチキをする。
それが、九州説との最大の違い。 そのスレッド、
カブキが何やらという話も、しているでしょ? 追い詰められた九州説が
夢中で荒らしをしたり
ウソを言い張ったりで
大変だな
これは、どのスレッドだったかな
誰々って、川崎(川崎区)に住んでいるんじゃないの?
という書き込み >>849
>>1里=80mは計測ミスったんだろって可能性を原理的に排除できない <
>では、短里は無理に認める必要はないから、
1里=80mで計測をミスした前提で議論を進めようか <
そりゃ、いけないねえ。
史料事実の史料批判をした内容を、否定しては、
その時点で、嘘つき騙しになってしまって、×になってしまう。 >>88
>列島の最初は那珂八幡で、大和は3世紀末以後だ。
ではなぜ、その最初の那珂八幡古墳が、正確に箸中山古墳の三分の一の相似形なんでしょうね?
そして、その那珂八幡古墳の母集落である恵・那珂遺跡群では畿内様式土器の九州での生産拠点になっていた様子が伺えるのはなぜなんでしょうね?
古墳時代の前から、畿内様式甕を作っていた遺跡が畿内から独立した存在というのは「すごく不思議」ですよね? 当時の事は、わからないけど、
香野という家(浄土真宗?)があって
むかーし結婚した家だと言っていたり、
蚕を飼い、機織りをしていた家・・・寺院に通っていた。
家は▢▢力夫氏のような名前の家 >>71
>>1魏里約400m <
>史料事実根拠がない。
史料事実の根拠なら山ほどあるよ
今までさんざん見てきたろ
テンプレにも書いてあるし 泥棒のようなモノに入られたという話とか、
他の宗派の人間の仕業なのかな
家に飾ってあった伝説の刀(不明)?
なんかも無くなっていたと言う話 そんなに必死で荒らしてると
九州説は畿内説に負けました
ぜんぜんはがたtいません
って、自分で宣伝してるようなもんだよ
オウンゴール >>855
>計測ミスの証拠は山ほどあるからな<
計測ミスではなく、有効数1桁程度の概数近似値計測である。
>まず1里400mと全く合致しない<
魏志においては、「1里400m」に合致する記録は殆ど皆無である。
>魏志倭人伝の里数は百里、五百里とキリが良すぎ<
魏使らは、始めから有効数字1桁程度の近似値としての計測である。
>インド方面も2倍の距離で書かれている<
勿論、計測者の計測技量の差の問題である。
>洛陽近くはそんなにズレがない <
洛陽付近なら、記里車も使え、かなりの精度が期待出来るだけ。
>短里じゃなくて計測が正しくないと断言すらできる <
長里になるような計測ではなかった、と断言すら出来る。 文部科学省が何やらとも言ってない?
『何者にもなれない お前たち』? 『トヨトミミ』画像
小野、平の某、信長、ドリフターズ・・・? ザラコクの妄言と、呟き荒らしの共演か
九州説も
末期症状だね
醜態 『みんな どこへ行った』
という曲を聴いてみたほうが良い 「自女王國以北 特置一大率 檢察諸國 諸國畏憚之 常治伊都國 於國中有如刺史」
この文章の前後の文章は全て女王国か女王卑弥呼に付いての説明文であり、主語が書かれていなくとも主語は女王国か女王卑弥呼だと読み手には分かるようになっている。
それ以外の主語の場合は「諸國畏憚之」のように主語が明記されている。
「一大率常治伊都國」と主語が明記されていないので「常治伊都國」の主語も女王卑弥呼である。
なので「女王卑弥呼が伊都国で常に治めている」との意味になる。
では何を治めているのか?
女王卑弥呼が治めているのは自女王國以北の諸国である。
「常治伊都國」は「(女王卑弥呼が)伊都国で(一大率を使い自女王國以北の諸国を)常に治めていた」の意味であり 主語の女王卑弥呼と()内が省略されている。
治の類似の用法は漢書西域伝に見られる。
「大宛国 王治貴山城 去長安 万二千五百五十里…」
大宛国について、王は貴山城に治す、と王の所在を明らかにしている。
では「自女王國以北」とはどこか。
以北はその出発地を含む。出発地は「自女王國」とある。
つまり、女王国とその北にある国々を、そこに置いた一大率で支配したのである。
要するに女王国と伊都国は念を押して言い換えただけであり、一大率は伊都国にあり、伊都国が女王国、女王の都するところ、邪馬台国であるということである。
「於國中有如刺史」・・・刺史は各地の行政機関内に常駐している監察官
「女王国(を含めたそこ)から北の諸国には、(女王卑弥呼が)特別に一大率を配置して検察させており、諸国は(一大率を)畏れ憚っている。
(女王卑弥呼が)伊都国で(一大率を使い女王国から北の諸国を)常に治めていた。
これは魏で皇帝が刺史を州に派遣し検察させて洛陽で治めているのと同じようだ」の意味となる。
女王国が伊都より東にあったら、文章の意味が通らない。
畿内説では、一大率が支配していたのは奈良(女王国)およびその北である京都や丹波になってしまう。
女王国以北はおよそ里程や概要を記すことができるとされているが、里程が記載されているのは対馬海峡と福岡県内の国だけだからである。
すなわち女王国以北(女王国を含む)は伊都から北であり、女王国(邪馬台国)が伊都国であることを示している。 絹
有田遺跡は弥生時代前期末でしたが、弥生時代中期の遺跡で絹が出土した遺跡は、
中期初頭の吉野ヶ里遺跡(佐賀県神埼郡神埼町)、中期前半の栗山(福岡県甘木市)、
吉野ヶ里、比恵(福岡市博多区)、吉武高木(福岡市西区)の各遺跡、中期中葉では朝日北(佐賀県神埼郡神埼町)
中期後半では須玖岡本(福岡県春日市)、吉野ヶ里、門田(もんでん:福岡県春日市)、樋渡(福岡市西区)、
立岩(福岡県飯塚市)、三会村(長崎県島原市)、吉ヶ浦(福岡県太宰府市)、
弥生時代後期では吉野ヶ里、栗山、宮の前(福岡市西区)唐原(福岡市東区)の各遺跡から人骨に付着、
あるいは副葬品に付着した形で絹が見つかっています。
何れも福岡県を中心にした北部九州にある遺跡です。
弥生時代に続く古墳時代になると島根県、兵庫県、京都府、大阪府、奈良県、滋賀県、熊本県、静岡県、
福井県、栃木県、茨城県、鳥取県、岡山県など広い範囲で絹の遺物が出土します。
これらの結果から、日本における養蚕の起源は北九州と考えてよいでしょう
畿内は無理がありすぎ 強弁ばかり 『何者にもなれない お前たち』wiki参照
>平成23年度(第15回)文化庁メディア芸術祭アニメーション部門では、
>審査委員会推薦作品/長編(劇場公開・テレビアニメ・OVA)に選ばれている
文化庁〜文部科学省 >>106
それ・・・
九州が衰退して
畿内が栄えた
った話にしか見えないぞ 邪馬台国論争に敗れた九州説には
荒らししか余生を生きる途がない
憐れなことだ 何度、説明すればわかるんだろう
『埼玉苗字辞典 浄誓寺 香野』
確か寺院に通っていたと言っているし? >>108
伊都にいた卑弥呼が亡くなり、全国に技術が拡散した。 >>112
九州で弥生中期が盛んで後期は衰えてんだから
>>108が正解に決まってんだろ >>115
>会稽東治之東だけでも畿内確定だろ
どこをどうしたらそうなるんだ。
畿内説の強引さには呆れたな。 >>114
後期も栄えているけど?
畿内説は嘘つきの集まりだな。 弥生中期までは北部九州の絹の出土が多く、その後激減するわけだね
弥生中期までの鉄器は中国東北部の鋳造鉄斧の破片を
磨製石器の製法で再利用している
中期までの絹も半島経由の持込品だろうね 九州北部は遠賀川流域の歴史が鍵だな。
飯塚、直方、etc。
飯塚はなぜ塚なのか?
いいとは何なのか?猪と関係あるのか?
九州説は、筑豊の歴史を語れよ。 住吉三神どうなったんだろう。
倭国大乱で殺されたのかな。 石筒之男、カグツチの血が岩に落ちて生まれる。
物部と関係あるのか? >>117
>後期も栄えているけど?
>畿内説は嘘つきの集まりだな。
伊都國では三雲南小路遺跡 中期後半〜中期末(前一世紀後半?)
井原鑓溝遺跡 後期中ごろ(一世紀終わりごろ)
奴国では 須玖岡本遺跡 中期後葉〜末(一世紀初めごろ)
この辺までは、王墓があるから栄えていると言えるが、奴国も伊都国も、このあと
「王墓が続かない」
井原井原鑓溝遺跡をもって、弥生時代「後期」というならそれでもいいが、卑弥呼の3世紀中ごろから見て1世紀半ほども昔だ
卑弥呼の頃には、王墓らしい王墓が作れない、繁栄の盛りを過ぎた地域なんだよ、北部九州は 三雲南小路遺跡、1世紀半ばに方形周溝墓が出現した意味は何なんだろう。 伊都国、畿内の勢力が博多湾に拠点を作ったのかな。
天孫降臨神話と関係あるのか。 本州では下戸遺伝子と短頭の分布はほぼ一致する。
九州南部鹿児島は、不思議なんだよね。
かなりの短頭地域なのに、下戸遺伝子は殆ど分布しない。縄文系の長頭でもないし。
隼人は本州とルーツの違う渡来人なのかもしれない。 >>116
短里みたいなモノは無く、南水行は東の間違いだとわかるから
九州説死亡でしょ? >>122
一番大事な女王墓である平原遺跡に触れない不思議 >>857
>倭で魏の里を使っていたという証拠は?<
隋書に拠れば、夷人は「里」を知らない筈だったが、
実際には、神功の筑紫での話と、不知火海の島の話に短里が使われていた、
というような話があった記憶がある。 久留米にも、牛鬼伝説があるんだな。
牛鬼を退治し、その耳を耳納山に埋めたとある。
牛鬼とミミ、どういう関係なんだろう。 奈良の耳成山。
久留米の牛鬼伝説と似たような謂れがあるのかな。。。 >>860
同じ事の繰り返しになるから、面倒だから張り付けておこう。
>畿内説は前方後円墳がたくさんあるな<
列島の最初は那珂八幡で、大和は3世紀末以後だ。
>三角縁神獣鏡が一杯い出るな <
これも、筑紫が列島の初元で、大和は4世紀以後だ。
>大和国と邪馬台国って似てるな<
邪馬壹國は邪馬台国ではない。
>だから邪馬台国は畿内にあったのかもなと確かな物証から入る そこが最大の違い <
だから、「南→東」などの嘘つき騙しをして、邪馬壹國は大和にあったかもな?、
というインチキをする。
それが、九州説との最大の違い。 >>135
ンなニセ情報いくら流しても
畿内説勝勢は覆せないって
w 中大兄皇子の歌
「香具山は 畝傍ををしと 耳梨と 相争ひき 神代より かくにあるらし 古(いにしへ)も 然(しか)にあれこそ うつせみも 妻をあらそふらしき」
原文「高山波雲根火雄男志等耳梨與相諍競伎神代従如此尓有良之古昔母然尓有許曽虚蝉毛嬬乎相挌良思吉」
ミミとは何なんだろう。
耳成山口神社。
天神社と呼ばれていたのに、祀られているのは高皇産霊と大山祇。
どういうことなんだろう。 >>862
>そうよ僻地だから正確に距離が測れなかったんだよ
なもんで魏志倭人伝に出てくる距離は
邪馬台国を指すものとしては扱えない <
魏使らは、有効数字1桁位の概数で記載しているから、
別に100%完璧なものでなくて、大体の距離として扱えばよい。 >>870
>大体な 1里80mとしてもだな 帯方より1万2千里は北九州にならんのだぞ?<
なる。
>むしろ畿内を指すぐらいだ<
大和は「南≠東」に拠って、始めから×。 >>874
はいはい、
大和説の勝手な勝利宣言な。
言い負かされたら、いつもそれが始まる。 邪馬台国はヤマト国、葛城山系以東の奈良盆地一帯です。邪馬台は単なる地名です。ヤマトの地が卑弥呼を共立した勢力に征伐され、都が置かれました。
纒向の外来系土器、円形周溝墓などがその証です。殉葬などそれ以前になかった風習が持ち込まれたことも、新しい別の勢力がヤマトの地を支配した傍証になります。
女王国、大和朝廷を作ったのは、出雲など山陰の勢力、尾張、阿波、宮崎や遠賀川の石神など縄文系の勢力。
大阪や奈良など畿内の勢力はこれらの勢力に征伐されました。
倭国大乱の元凶。
火神、カグツチ、ホアカリ、火産霊、国常立神(天香久山の山頂に祀られている神、尾張一宮の本来の主祭神、天岩戸の向こう側、鬼門に封じられた神)、オオナムチ、飛騨の顔が二つ胴が一つの怪物、牛鬼、
阿波咋、
宮崎の石神、イワレ、岩割、
遠賀川の石神、石筒之男、
彼らが畿内や九州北部を征伐して、出来たのが女王国、それに連なる大和朝廷。
四道将軍で関東東北を征伐したのも彼らです。 >>130
どう違う?
弥生後期の九州北部の繁栄の象徴だよ。 >>877
>倭人伝の行程が魏の里であることを主張するなら
倭人伝の中の里が魏の里である場所を 示すとかすればいいのに。<
おやおや?、もう何度も何度も書かれた方がおられたのに、
読んでいなかったの?。 >>141
どこかで畿内説が言い負かされた事実がありませーん
創作はダメよ >>148
卑弥呼が死んだのは三世紀半ば
平原1号は二世紀末の墓 邪馬台国の官も大和朝廷の官と一致するし、邪馬台国はヤマト国の可能性が高い。
官は伊支馬有り。次は弥馬升と曰う。次は弥馬獲支と曰う。次は奴佳鞮。
伊支馬は生駒。生馬。火の神。
弥馬升は三見宿禰、出雲醜大臣の子。
弥馬獲支はミミ鷲、日鷲。
奴佳鞮は中臣。
出雲地方には生馬神が祀られているんだな。
生馬神社境内には「牛荒神の大木」と呼ばれる木があり木に藁が巻き付けられている。
出雲風土記かな、生馬神の子は、もう荒ぶらないと言ったとか。
ヤマトの地名と出雲の集落名、共通点が多い。 鳥取県の上石見に伝わる伝承。
牛鬼伝説の中でも、一番古いものじゃないかな。
孝霊天皇が牛鬼を討つ話。
上の岩を見よと言って牛鬼を倒す。
ここでは、牛鬼は石に倒されるんだな。
次に神功皇后。
瀬戸内海で神功皇后が住吉明神と、頭が八つで牛の姿をした塵輪鬼を討つ話。敗れた牛鬼に似た塵輪鬼はバラバラになり、島々になるとある。八雷神と似ている。
その後は西日本各地で様々な時代の牛鬼伝説。
共通しているのは、
◎牛鬼は海や水辺に現れる。
◎牛鬼は磯女と一緒に現れる。
◎牛鬼の子供は石である。
同じようなこととして、牛鬼に「石は流れる、葉は沈む」などあべこべなことを言うと助かる。
◎また火に関するものもある。
◎牛鬼は老いた椿という言い伝え。古い海神ということか。
見えてくるストーリー。
牛鬼(古い海神)は孝霊天皇の時代に石にやられた。
海神の姫達は、石の子を産むようになった。
神功皇后の時代に、瀬戸内海の牛鬼に似た塵輪鬼が倒され海賊になった。
古い海神と言えば、BC1000年頃に渡来し稲作を広めた勢力、ヤマツミとワダツミ系かな。
古事記では、
事代主〜オオタタネコの子がタケミカヅチ。
石がかつては仲間だった牛鬼、古い海神を乗っ取るのに関係しているのかもしれない。 >>880
>1里80mとすると1万2千里は960km
帯方(ソウル)〜福岡540km <
「邪馬壹國女王之所都」までの行程は、直線ではなく、折れ線的道のり距離記載であり、
直線距離よりも2〜3割多くなる。
また、帯方は、ソウルよりも50km〜100km位北の筈。
また、行程記載では、不彌國で萬二千里がほぼ使い切っているので、
邪馬壹國女王之所都は不彌國のすぐ南にある事になる。
>帯方(ソウル)〜福岡〜奈良1180km ほらな <
帯方(ソウル)〜福岡が960kmであれば、福岡〜奈良は220kmになる事になるが、
山陽本線部分だけでも500km以上あるんだから
帯方(ソウル)〜福岡〜奈良1180kmは、全く合わない。
という事は、この男も、ウソをついている事になる。 >>128
>一番大事な女王墓である平原遺跡に触れない不思議
平原1号墓は、漢鏡40面出土の王墓とかいうフレコミwだけど、
実際には舶載鏡は、漢鏡5期の「雲雷文長宜子孫銘内行花文鏡」と漢鏡3期の「四螭二朱雀龍虎鏡」の2面のみ
大量(32面)の方格規矩鏡も含め残りは仿製鏡
舶載鏡1,2面程度を埋納した墳墓はたくさんあるし、舶載鏡はその鏡種からして後漢代の朝貢時にもたらされたものだろう
卑弥呼の墓にあてるのはムリだよ
また、弥生末期は各地でただ一人の首長のための大型墳丘墓が各地で作られる時代に入っている
吉備の楯築墳丘墓は二つの方形突出部を入れて墳丘長72メートル、
出雲の西谷9号墓は四隅突出墓でその突出部まで入れるとおよそ60×50メートル、
丹波の赤坂今井墳丘墓は東西36m、南北39m、高さ3.5mの墳丘部に加え四方に5〜9mの平坦部がつく
畿内の纒向石塚古墳で全長96メートル、東田大塚古墳で墳丘長120メートルある
平原1号墓の墳丘サイズ14×12メートルというのは王墓だとしても、有力国の王墓としては、どうしても見劣りする
ということで、九州説(伊都国が卑弥呼の都説)が大事に大事に思う平原1号墓は、それほど大した遺跡ではない >>154
報告書にはその様な詳細年代は書かれてないはずだが? 萬二千里は、淮南子以来の大陸世界での概念的な「地の果てまでの距離」を記しただけだから、それを典拠にするのもむなしいだけだぞ
淮南子: 時則訓
東方之極,自碣石山過朝鮮,貫大人之國,東至日出之次,木之地,青土樹木之野,太r、句芒之所司者,萬二千里。
まあ、九州説はこの数値+短里という捏造だけが頼りだから、認められないんだろうけどww 短里で記されているところがいくらでもあると、九州説の人はよく言いますが現実と合わない数値が記されていることが分かる「だけ」です
九州に上陸後の比定地でほぼ異論がないのは
末慮国(松浦)
伊都国(糸島)
奴国(福岡平野)
くらいですが、それぞれを代表的な王墓遺跡の位置を基準に直線距離で計ると
末慮(宇木汲田遺跡)−伊都(三雲南小路遺跡)間 26キロ
伊都(三雲南小路遺跡)ー奴国(須玖岡本遺跡)間 20キロ
になります
これが、それぞれ魏志倭人伝では五百里と百里なので
末慮−伊都間 26キロ/五百里 一里=52メートル
伊都ー奴国間 20キロ/百里 一里=200メートル
となって、4倍程度違ってしまいます
「短里」という魏晋里を一定の割合で縮めた「きちんとした尺度」があると考えるのは無理で、
里程はあてにならないとするしかありません >>157
弥生終末(西新式直前)とあるから、あとは通説の実年代を当てるだけ ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています