>>662の続き
倭王讃の遣使は、修正紀年の仁徳天皇の在位期間に収まる
仁徳の遣使の動機は、神功、応神の時代の半島への進出による
国内の疲弊(仁徳天皇は即位後3年間租税を免除している)を見て
半島、大陸との関係修復を目指したと考えられる

倭王武の遣使は雄略即位16年後になるが、即位前後に市辺押磐皇子を
はじめ多くのライバル皇族を殺したためその後の国内の掌握に時間が
かかったのだろう
有名な倭王武の上表文にも、遣使が遅れた言い訳がくだくだしく
書かれている
臣亡考濟實忿寇讎壅塞天路控弦百萬義聲感激方欲大擧
奄喪父兄使垂成之功不獲一簣 居在諒闇不動兵甲 是以偃息未捷

まとめると、
仁徳は半島・大陸との関係修復のために、266年の晋への遣使以来の
朝献を行った
争いなく即位した大王は、即位直後に遣使している
即位前後に戦乱のあった雄略は遣使が即位16年後になったことを
言い訳している

ここから考えると履中は即位前後に住吉仲皇子との皇位争いがあり
遣使が遅れたと考えられ、そして早世した(書紀で在位6年、春秋年
なので3年間)ので結局遣使できなかった

その後弟の反正が「先王が薨じ弟の反正が皇位を継いだ」という上表文で
遣使すれば、それまで大陸王朝には仁徳の死も履中の即位も伝わっていないので
讃死弟珍立遣使貢献と書かれることに不審はない

系図に合わないというだけでは否定できないよ

九州王朝の系図なんてないだろ?www