邪馬台国畿内説 Part325
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邪馬台国論の鉄板、畿内説のスレです。
【骨 子】
・3世紀中葉には、古墳時代が開始していた。
・出現期古墳段階で、近畿中央部を中心に列島規模の政治連合が形成され始めていた。
・北部九州博多湾岸地域は、既にこの政治連合の傘下にあった。
ゆえに、倭女王卑弥呼の都があったのは畿内である。
邪馬台国論争ももう畿内で決着なのでロマンはありませんが
勝者の貫録を見せつつ、更なる真実を探求しましょう。
前スレ
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1518294984/
◆0【 要 旨 】 ( >>2-12に各論、それ以下にFAQを付す )
纒向遺跡の発掘状況等から、ここには西日本の広域に影響力を持った宗教的指導者が君臨しており、それは各地の首長に共立され求心的に集約された権力基盤を持つ女性であったと考えられる。
その死亡時期は3世紀中葉とみられる。畿内に中国文化が急速に浸透する時期である。
これらを倭人伝の記事と対照すると、箸中山古墳の被葬者が倭人伝に記載ある曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、纒向が邪馬台国にあった倭女王の宮殿所在地であると同定できる。
2世紀の地球規模的寒冷化は、農業生産力を強化する社会的需要から指導的地位を占める析出集団の成長を強烈に促進し、弥生的青銅器祭祀を終息せしめ、高塚化した墳丘墓を現出させる。
換言すれば、弥生墳丘墓の巨大化が顕著な地域こそが、弥生社会に古墳時代へと向かう構造変化の著しい地域であり、3世紀に爆発的に広域化する萌芽期国家の中核である。自然環境変化に起因する社会構造変化が現象として纒向に凝集し結実したと言える。
倭人伝に記載された卑弥呼の活動期間に相当する庄内併行期は、畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入している時期であり、ことに那珂比恵地域への人口流入が急拡大していく。
博多湾貿易が対外交渉の主役に躍り出るこの時期には、西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易をする段階となっている。
絶域であった日本列島が中華社会と二国間の国交を再開した時期、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の倭国の中枢である。
倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
それは桜井市纒向以外にありえない。 >>日本書紀は隋書などにすり合わせしているからですよ。
では隋書で上遣文林郎「裴C」使於俀国と書いてあるのに、日本書紀ではきちんと大唐使人「裴世C」と書いてあるのをどう説明する?
隋書の方に大和朝廷の冠位十二階の「小徳」阿輩臺、「大禮」哥多毗が書いてあるのはなぜ?
隋書の方が成立年が先だし、倭国の事情に合わせる必要がないだろ?
>隋書に阿蘇山が書いてあったり
中国には火山がないから、珍しかったかららしいよ
阿蘇山も大和朝廷の版図の中だし何が問題?
>遣隋使の時の大王が推古女帝ではなく、妃や後宮を持つ多利思比孤なる人物であることはどうするのですか?
普通は摂政の上宮法王だとされているね
朝政を実際に執っている責任者だし、妃や後宮を持つ男子最高位の皇族だから何も問題ないだろ?
多利思比孤は普通名詞扱いで、固有名詞ととる必要はないし、大和朝廷でよく使われるタラシヒコの音訳で問題ないだろ?
九州王朝の「多利思比孤という人物の記録」があるなら出してくればいいのに、
それができないなら「控えめに言って憶測、厳しく言えば妄想」
九州説は大体このレベルなのを自覚して欲しい >>704
>三角縁ご記念品であるからこそ、
あ、三角縁神獣鏡が卑弥呼ご記念品であることを認められた?
すばらしいね!
つまり卑弥呼死後の後継王朝が、卑弥呼ご記念品を大量製作して
配布した大和朝廷だと確定したね!
大和朝廷=邪馬台国で、プロの研究者のコンセンサスと一致したね!
奴国は傍線経路ってのも言えなくなったしww >>697
>ちなみに私が卑弥呼と神武が同じ年代だと考えるのは、倭国大乱前の筑紫倭国の男王らが日向三代だと思うからだけどね。
私も「日向三代は伊都国王」という邪馬台国の会主催の安本美典氏の説をこの部分は支持しているよ
ただ、邪馬台国の頃ではなく、光武帝への遣使(西暦57年)の頃だと思う
三雲南小路遺跡甕棺墓 伊都国 前一世紀中ごろ
井原鑓溝遺跡甕棺墓 伊都国 一世紀第1四半期
と年代も合うし
このあと神武の東征(征伐はしていないと思うけど)なら、卑弥呼より100年以上前だろう >>351
そもそも大和内の鏡の序列は、中国のシステムを採用した筑紫の序列を、
そのまま踏襲しているに過ぎない。
大和の発明でも発祥でも何でもない 。
それはすなわち大和が中国との交渉権を持っていなかったことを意味してる。
そして九州は、九州のシステムと全く違う独自の方式を作り出ししていない大和を、
その下位の序列に組み込んでいる。
これを見て、大和が上だ起源だ、などとを、何をもって喚いてるのか皆目見当がつかない。
大和説など、この程度の妄想でしかない。 バカは銅鐸の変遷も知らないで毎度こういうバカ話を喚いてるから笑える
どっかの能無し歯医者がそういうバカ本書いてたな
心理学者だの歯医者だのアホ九州説は毎度人材が豊富だなw >>356
>個人的には、神武から崇神までは記紀系譜の直系十代ではなく、
古系譜研究家の宝賀寿男氏のいう、
兄弟継承を含み神武>崇神まで5世代が妥当だと思っている <
宝賀氏は、祇園山=卑弥呼の墓、説だから、筑紫説なんだよ、ssnくん。 銅鐸から鏡に変わるまでの間は優に100年くらいのタイムラグがある
その上、大和はかなり早い段階にいち早く銅鐸を辞めている
そして銅鐸は近畿・東海全体で次第に使われなくなっていく流れ
銅鐸が使われなくなって大分たってから鏡が現れるようになる
アホがよく喚くような唐突な変化などしていない
バカはなにも知らないから「銅鐸がいきなりなくなって鏡が出た!だから鏡が征服したんだ!」とかいうバカ丸出しの妄想が出来上がると >>688
>各国の「居住外縁部や入り口や門の間の距離だ」 っっていう人類に常識
図が描けると分かりやすいんだけど
A,B,C3つの国があったとして
下の図でA,B,Cの文字が国の中心で[ ]が国境だとすると
経路の距離表示が
[ A ][ B ][ C ]
├─────┤ ├─────┤ 688説
├─────────┼──────────┤ 私というか普通の計り方
A−B間 BーC間
「居住外縁部や入り口や門の間の距離」にしたら隙間ができて、経路距離が分からなくなるだろ
それともこうなのか
[ A ][ B ][ C ]
├─┤ ├─┤ 688説
A−B間 BーC間
「居住外縁部や入り口や門の間の距離」を字義通りとるとこうなるんだが? 隋書には倭国は遂絶って書いてあるからね。
旧唐書では倭国と日本国の併記
新唐書からは日本国のみとなる。
大和朝廷設立とともに倭国九州王朝は
終わったと見て良いだろう。
隋書の編纂は唐の時代だから
日本国の朝貢は入っている。
それでも日本国を倭の後継としなかったんだから
倭国九州王朝と日本国は、別物と判断したんだろうよ。 また旧唐書w
この基地外は何回も同じバカ話を続けるな
古田教団の基地外のカルト教義だから死ぬまで続けるだろうな
次はどうせ筑紫城だろ >>710
>宝賀氏は、祇園山=卑弥呼の墓、説だから、筑紫説なんだよ、ssnくん。
知ってるよ
九州説は間違いというか「古い情報からの論立て」だと思っているけど、
安本美典氏の「日向三代は伊都国」とか
宝賀寿男氏の「神武から崇神は5世代」は正しいと思っているよ
お二人ともアマチュアだけどね
九州説の誰かさんみたいに、
「柳田康雄は畿内説だから公式報告書も嘘に決まってる」なんていうバカなことは言わないよww >>358
>そうなると、平原1号墓が絶対に桜井茶臼山古墳より古いとも言い切れないぞ
まあ、弥生時代終末期でよさそうだとは思うが<
前方後円墳ではない平原は、前方後円墳である桜井茶臼山古墳であるよりも古くて当たり前。
>>それを比べて、茶臼山の方がすごい とかいうのが頭悪い。<
>といっても、実際それだけ多くの鏡種・枚数を揃えているのは事実なんだから
素直にすごいと認められる<
竪穴式石室で、宗像神社があるんだから、
やはり筑紫倭国の東征将軍の墓であった、ということでしかない。
>破鏡の習慣は、その前にも後にもそれほど盛行した習慣ではなく、<
鏡片の分布は、殆ど筑紫であるんだから、筑紫で発生した筑紫の習慣。
>どちらが先にしてもそれほど離れた時期ではないのだし、大体同じ時期に
より多くの鏡を使っている桜井茶臼山古墳の方が、より大きな勢力を
背景としているのは明らかだろう?<
平原は、前方後円墳の那珂八幡よりも前であり、
ホケノや箸墓は、那珂八幡よりも後であり、
桜井茶臼山は、ホケノ箸墓よりも後だから、「大体同じ時期」にはならない。
>平原1号墓は九州説虎の子の3世紀前後の唯一の王墓候補なのに対し、<
唯一の王墓候補、なんて墓でもないよ。 何一つ出てこない
出てくるもんは全部畿内の影響にどっぷり漬かったものばかり
本来ならここで「九州説なんてあるわけねー」となるが、邪馬台国の会の基地外達は妄想を喚き散らして九州説だとかほざき続けると
もう病気だからしょうが無いね 畿内にはチクシ型羽口とかいう
筑紫から形だけ真似た欠陥品がなかったかな? 畿内説の2,3流の研究者には困ったもんだ
纏向も箸墓もまだ、ほんの少ししか調査していないのに
やれ邪馬台国だ、卑弥呼の墓だと大騒ぎする
1流の研究者は調査の全容がほぼ確定しない限り断定はしないものだけどね >>365
>>平原1号は、21枚の「尚方作」鏡があるから、<
>「尚方作」は19面だよ <
私が見たサイトは、21面。
>>明帝→卑弥呼の100枚の銅鏡を元にしたものである事が確実であり、 だから、卑弥呼の死以後。<
>これは大間違い 前漢鏡にも「尚方作」銘鏡は多くあり、というかそもそもほとんどの漢鏡の銘文は
「尚方作」で始まっていて一部「王氏作」があるくらい <
前漢鏡では根拠にならないし、
問題は、一人の民間個人では、伝世としても、「尚方作」を21枚も持てる筈がないし、副葬される筈もなく、
だから、明帝の下賜の100枚の銅鏡の中心的な鏡であった、という事になる。
>そして、方格規矩鏡の製作年代が1世紀の中頃より繰り下がらないのだから、
それを卑弥呼の銅鏡100枚にあてるのは、無理がある<
「1世紀の中頃より繰り下がらない」という事が、そもそもインチキ。
>魏皇帝が、大陸内で100年以上伝世したものを国中から集めて、そんな骨董品を
皇帝の威を示す下賜品にしたってことになるんだぞ?<
ならない。
明帝は、卑弥呼や倭人が鏡をお宝ものにしていた事を知っていたから、
造り置きの 「尚方作」鏡や、民間から集めた鏡を集めて、100枚に揃えた。
>自分の主張がいかにおかしいか、理解できたかな? 参考 「鏡の考古学」・・・<
自分の主張が、いかに人類の常識外れの、分裂幻覚の妄想である事が、理解出来たかな?。 >>726 そりゃ田舎だから。近くの先進地に
染まるだろ。 出雲バカとか九州基地外とか四国アホとか東海ボケとかこいつ等なーんにも知らないで妄想だけ喚いてるから間抜けなこと平気で叫ぶな >>366
>>「南≠東」<
>ワンパターンだなぁ
それだけでは、否定できないことは>>324で説明済み<
人類は、物心が付いた時から、「お天道様は東から出て西に沈む」ことを知っていて、
東西は間違えない。
それが人類の常識。
そしてこの大和説男らは、人類ではない・・・・ケダモノ詐欺師。 >>367
>>大和は天皇を称したのは、天智からだから、 それ以前には、「天皇」も「皇后」もいなかった。<
>だから何?<
大和説者や記紀は、天智以前から、大和王が、列島の天皇であった、かのような嘘つき騙しをしている、
という事。
>ただの表記法にけちをつけて何かを否定してつもりになっているだけだろ?<
当然お前も、思想宗教にクルった嘘つき騙しの詐欺師仲間。 >>717
>鏡についてはもっとお勉強した方が…
>>717はきちんとした受け答えができる人だからこういうことを言いたくはないけど、
何をどう勉強したらいいのか「根拠」とともにはっきり書いて欲しい
その方が話が早く進むし、話が進めば九州説が成り立たないことが
その分早くはっきりするから >>769
>纒向も鴨公も同じ邪馬台国、ヤマト国の一員。 かき集めて七万戸にすればいいんだよ。
仲良くしろ。
それとも卑弥呼の拠点の争いか?縁起悪いものになりたいんだな。<
三人とも、「南≠東」に拠って、×であり、嘘つき騙し仲間。 >>718
>前方後円墳ではない平原は、前方後円墳である桜井茶臼山古墳であるよりも古くて当たり前。
古墳時代に入っても、方墳は作られるし、田舎の方では方形周溝墓も作られているよ
平原がそうだとは言わないが、単純に前方後円墳じゃないから古いとは言えない >>718
>竪穴式石室で、宗像神社があるんだから、
>やはり筑紫倭国の東征将軍の墓であった、ということでしかない。
「筑紫倭国の東征将軍」そんなものは、どんな歴史書にも出てこないんだが?
メスリ山古墳、桜井茶臼山古墳は、孝元天皇の皇子、大彦命を始祖とする
阿倍臣の族長の墓とされているよ
大彦その人の墓という人もいる
大彦の後裔氏族には阿倍臣のほかに、膳臣(かしわでのおみ)、沙沙城山君、
「筑紫国造」などが日本書紀には書かれているね
影響力の向きが逆なんだよww
古墳の大きさ一つで分かりそうなものだがな >>371
>>(南→東などの嘘つき騙しの大和説の)「結論先にありき」の学者の「調査報告」には、
何の信頼性も価値もない。<
>柳田先生が畿内説だというだけで、内容の検討も一切せずに
「何の信頼性も価値もない」という「結論先にありき」でしか語れないのが>>306だよね?<
当たり前だ。
嘘つき騙しの異常者である事が判れば、
「ついうっかり」の自分に不利になる情報以外は、何の価値も信頼性もない。
>自己紹介乙、としかww<
お前も 自己紹介乙、だな。 >>718
>ホケノや箸墓は、那珂八幡よりも後であり、
ここがおかしい
三角縁神獣鏡が出ている時点で、そんなに古くはならないよ >>703
>してみると、平原1号墓に大量埋納されている仿世鏡が、製作年代が1世紀の中頃より繰り下がらない方格規矩鏡なのは、西暦5
これが間違い >>718
>唯一の王墓候補、なんて墓でもないよ。
日本語がおかしいのは置くとして、
より正確には
「九州の二世紀半ば以降で、卑弥呼の墓の候補にひょっとしたらなり得る
『唯一の王墓候補』」だな
これを卑弥呼に当てたとして、台与の墓はどれだい?
らしい墓はもう一つもないぞ?ww 女系勢力の有り様が重要だな。
実際、そういう部族がいるみたいだしな。
一つの男系とそれを支える女系部族。 >>372
>>その「漢鏡」という判断をしたのは誰なんだ?。原田なのか?、柳田なのか?。<
>原田大六先生だよ<
それで漢鏡根拠は何だったんだい?。また21枚もある「尚方作」鏡を、何故不審に思わなかったんだい?。
>>またその根拠は何だったんだ?。<
>だから2000年の「平原遺跡(前原市文化財報告書)」を読みなさいって<
「南→東」などの嘘つき騙しの前原市という公的機関の「文化財報告書」なんて、
何の価値もないし、誤魔化されている可能性があるから、嫌だ。
>>後漢代の朝貢で「鏡を貰った」などという記録など、ないんだろ?。<
>いつでも>>307は「ないこと」を根拠にしてしか論じないよね
古代史ってのは時間の壁の向こう側だから得られる情報が少ないし、
「見つからない」だけのもの(本当はあった)も多いことを、自分の都合しだいで
九州説に都合のいいときはあるといい、悪いときはないと、恣意的に言ってるだけなんだよな <
不可知部分が殆どである自然や歴史に関しては、観察実験計測された事は非常に確率が高く、
観察実験計測されずに推定された事は、確率はが非常に低くなる、
というだけの事だ。 >>736
久住猛雄さんの論文でも読んでおいで
>>738
候補はいろいろありそう
その頃は前方後円墳の時代に入ってるかも?だから、
那珂八幡の第一主体とか、糸島の御道具山古墳だったりかな
それぞれ初期の前方後円墳だから未発掘なのが残念
何も平原の隣にある必要は無いのだし >>723
>前漢鏡では根拠にならないし、
ちょっと待て
>>303で
「平原1号は、21枚の「尚方作」鏡があるから、
明帝→卑弥呼の100枚の銅鏡を元にしたものである事が確実であり、
だから、卑弥呼の死以後。」
と、「尚方作」の3文字だけで卑弥呼の鏡が元って言ってたのは九州説のやつだぞ
というか>>723本人だろ?
>明帝の下賜の100枚の銅鏡の中心的な鏡であった
何度も書くが、方格規矩鏡は大陸で作られていたのは1世紀頃まで
明帝が方格規矩鏡を下賜しようと思ったら、大陸内で100年以上伝世していた鏡を
かき集めて下賜したことになる
こんな簡単な「論理」も分からないからいやになる
>「1世紀の中頃より繰り下がらない」という事が、そもそもインチキ。
これを主張したいのなら、「根拠」をつけてどうぞ
九州説の人間は「インチキ」とかの言葉の勢いだけで「根拠」がない
「鏡の考古学」http://home.p07.itscom.net/strmdrf/kagami.htmは読んだのか?
ここに書かれていることのどこがおかしいのか、「根拠」をつけて論証できるのなら
その時はじめて「インチキ」って言っていいよ >>723
>明帝は、卑弥呼や倭人が鏡をお宝ものにしていた事を知っていたから、
>造り置きの 「尚方作」鏡や、民間から集めた鏡を集めて、100枚に揃えた。
この妄想加減がすごいね!!!
卑弥呼の朝貢は、その前の倭国王・帥升等の朝貢(西暦107年)から130年もあと
その間倭国からの朝貢は一切ないのに、将来朝貢に来る卑弥呼が鏡が好きだと予想して
鏡を造り置きするなんて、少し考えればというか考える前から「論理が破綻」しているのが
分かるだろうに
魏の皇帝の下賜品は、魏の皇帝の権威を示すものだからピカピカの新品を
新しく作って持たせるに決まってるじゃないか
三角縁神獣鏡に景初3年(239年)・景初4年・正始元年(240年)の紀年銘鏡があるのは
ばたばたと新しい鏡を作った様子を反映していると考えると一番整合性が取れる
>自分の主張が、いかに人類の常識外れの、分裂幻覚の妄想である事が、理解出来たかな?。
>>712にも書いたけどさ、>>723の考えって「人としておかしい」レベルだよ?
「?。」って、クエスチョンマークの後ろに句点を打つのも
日本人ならおかしいと思わなきゃいけないし >>729
>人類は、物心が付いた時から、「お天道様は東から出て西に沈む」ことを知っていて、
>東西は間違えない。
>それが人類の常識。
>そしてこの大和説男らは、人類ではない・・・・ケダモノ詐欺師。
魏志倭人伝で、九州に上陸してすぐ
末廬國から伊都国を、本当は「北東」なのに、「東南」陸行って間違ってるね
魏志倭人伝では狗奴国は「南」なのに、後漢書では「東」度海千餘里至拘奴國になってるね
どちらかは間違いだね
隋書では、対馬から壱岐が「東」に間違ってるね
旧唐書でも
「皋遂命巡官崔佐時至牟尋所都陽苴棟驕C南去太和城十餘里,
東北至成都二千四百里,東至安南如至成都,通水陸行」
とあって、内容を確認すると
陽苴棟驍ヘ現在の大理白族自治州大理市で、そこから東北に2400里で成都、
「東」に水行陸行を通して成都に至る如し(同じくらいの距離)で安南(ハノイ)に至る
となっているけれど
実際には成都から安南は「東南」
大陸の史書に、方角が間違っている例は、こんなにあるんだけどさ
どうしてだろうね?
探せばまだまだいくらでもあると思うよ
大陸の正史は、国外のことには無頓着だからね
否定したかったら「根拠」を挙げて、正しい「論理」で論証しておくれww >>379
>>(部族にとっては埋葬形態は非常に保守的であるから)何故、新しい大型墳丘墓が必要になったのか? の理由に、
大陸からの強力な渡来流民の存在の考察は不可避だな。<
>また謎の妄想を始めたな 弥生人と縄文人の間の骨格の違いは、食事の違いであって、体格が変わるほどの 外来民族の流入はないぞ<
縄文そのものが、南方系と大陸系との混合であり、混血だよ。
>そして、半島南部の狗邪韓國まで倭人の領域なんだから、どこをどう通って 流民が来るんだい?<
出雲の国引き神話では、ウラジオストック方面を直達的に国引きしているし、
沿海州方面からは、毛人蝦夷の渡来があったし、
楽浪や扶余や東沃祖の流民は、伽耶にもきているんだから、当然海峡を通った。
>>それまでの墓とは全く違うんだから、 新規の「有槨」部族の渡来、という事が不可欠だろうな。<
>本当に妄想がきついな <
問題の前方後円墳も、晋の武帝らから「天円地方」の埋葬を教えられなければ、那珂八幡付近に突然発生する事もない。
>高地性集落も廃絶されてからだぞ、ローカル王の大規模弥生墳丘墓が作られるのは<
高地性集落は、倭國の東征から逃げようとした在地の部族の集落。
>渡来部族の征服も侵入も想定できない <
渡来部族は流民が殆どであるから、征服は、想定出来ない。 在地部族との共存が精一杯。 >>730
>大和説者や記紀は、天智以前から、大和王が、列島の天皇であった、かのような嘘つき騙しをしている、
という事。
いいや? そんなことは言ってないが?
全国に覇を唱えて、大和の大王中心の王権をほぼ確立したのは雄略天皇
大泊瀬幼武尊、大長谷若建命の頃からだろう
万葉集の最初の歌が雄略天皇の御製であることからも、雄略天皇の御代が
大和王権の重要な画期だったことがうかがえる
まあ、全国に定型化した前方後円墳が作られ始めた時=纏向遺跡が
崇神天皇の都=邪馬台国の都だった時から、前方後円墳を作る範囲の
「盟主」(支配者ではない)だったのは確かだけどな
>当然お前も、思想宗教にクルった嘘つき騙しの詐欺師仲間。
「根拠」一つ付けられずに、「論理的」な論証もできず、
「詐欺師」とか汚い言葉で論敵をののしることしかできないって、惨めだよなぁww >>745
>問題の前方後円墳も、晋の武帝らから「天円地方」の埋葬を教えられなければ、那珂八幡付近に突然発生する事もない。
前方後円墳が「天円地方」の思想(≠埋葬法)をもとにしているっていうのは、
よく言われることだけれど、誤解の産物なんだよね
正しい「天円地方」の陵墓は、昭和天皇の武蔵野御陵のような、下方上円墳になる
方形の基壇の上に円墳が乗るのが正しい
古代でも、天武・持統合葬墓の頃にはこの形になる
まあ、天武・持統合葬墓の上部は八角墳とも言われているけれど >>380
>>「観念的な距離での嘘つき騙しの報告」を魏帝に書いた、とバレれば、 そりゃ、その首が危ない。<
>東西とも再遠方の大月氏と倭国が、ともに親魏大月氏王、親魏倭王とされていること、
漢土の境界である敦煌、帯方郡がともに都から五千里とされていること、
そしてそれぞれ敦煌、帯方郡から萬二千里程度とされていることから、
この距離は中華世界の大きさ(最果てまでの距離)を表す理念的な数値と考えた方がよい
そしてこの観念のネタ元が淮南子: 時則訓<
魏志倭人伝は、女王國から四千里の侏儒國まで書き、更に裸國黒齒國まで書いているんだから、
淮南子の思想に従っていない。
つまり、魏使らにとっては、淮南子など400年位も前の淮南子など、何の関係もなく、
だだ皇帝への報告として、里数を計測記録しただけだ、という事だ。
>短里などはなく、実測値でもない理念的な数値なので
「自郡至女王國萬二千餘里」だから九州というのは、ほぼ意味がない <
お前が魏使らであったんなら、ウソを書いた、という事で、
確実に首が飛ぶ、という事だな。 >>741
>その頃は前方後円墳の時代に入ってるかも?だから、
珍しい九州説だなww
前方後円墳の時代=古墳時代には、倭国の盟主が畿内にいる大和王朝なのは
誰の目にも明らかだから、「邪馬台国は弥生時代」って言い張るのが普通の
九州説なんだがww
その那珂八幡古墳の第一主体部でお宝が見つかるといいね
畿内では纏向古墳群、柳本古墳群、大和古墳群の初期古墳だけで
那珂八幡古墳より大きいのがいくつあるんだろう
大王どころか畿内の序列10位くらい(適当)でも那珂八幡古墳よりは
でかい古墳を作ってるぞ >>381
>対馬や壱岐の説明文には方とあるだけで
行とか至とかの移動途中の説明の動詞がないよ <
「途中の移動があった事を示す説明文」があった、と言う事が必要なのであり、
動詞でなくても、示してあれば、それで判るんだし、十分なんだよ。 >>742
>何度も書くが、方格規矩鏡は大陸で作られていたのは1世紀頃まで
これが間違い
方格規矩鏡は魏晋時代でもポピュラー >>743
>三角縁神獣鏡に景初3年(239年)・景初4年・正始元年(240年)の紀年銘鏡があるのは
>ばたばたと新しい鏡を作った様子を反映していると考えると一番整合性が取れる
www
景初4年w
ド素人だったか >>747
>正しい「天円地方」の陵墓は、昭和天皇の武蔵野御陵のような、下方上円墳になる
>方形の基壇の上に円墳が乗るのが正しい
ドアホ発見w
中国の天円地方は祭壇のこと、方形と円形ね >>748
当時の中国知識人らにとって、辺境までの距離が萬二千里というのは常識だったんだよ >>750
>「途中の移動があった事を示す説明文」があった、と言う事が必要なのであり、
>動詞でなくても、示してあれば、それで判るんだし、十分なんだよ。
>>688によると「各国の「居住外縁部や入り口や門の間の距離だ」 っっていう人類に常識 」
らしいから、島の二辺を旅程距離に入れるなんてありえないそうだよww
九州説同士で否定しあってくれ
というか、>>750が>>688なんだろうけど、その場その場で言うことが
くるっくる変わって本当に調子がいいことですわよねww >>705
>隋書の方に大和朝廷の冠位十二階の「小徳」阿輩臺、「大禮」哥多毗が書いてあるのはなぜ?
>隋書の方が成立年が先だし、倭国の事情に合わせる必要がないだろ?
九州倭国の官位なんだろうよ。 >>753
九州説には、ここのテンプレは難しかったかな?
>>46
◆FAQ 44
Q:三角縁は存在しない年号が書かれている!
国産に決まっている!
A:景初三年から正始元年の改元事情を鑑るに、景初四年は実在したと考えざるを得ない。
史料上で抹殺された年号は珍しくない。
このような当事者しか知りえない事実は、中国製の証拠として有力である。
中国皇帝の即位は原則として踰年改元であり、即位後最初の正月に改元と共に慶賀の大会が催されるが、魏明帝は景初三年正月元日に死去したため、即位祝賀と忌日が重なる事となった。
この問題の解決法として魏朝は、明帝の推進した三統暦思想を敢えて廃案にし、再び夏正月を採用し元日を一ヶ月のちに移動させた。(宋書志礼一)
最終的に後十二月として閏月扱いとなるが、忌日と新年の大宴会作楽を分離させる為には景初四年正月の実在が必須である。
この改暦議論は忌日直前の十二月に入って始めて議論が始まって急遽決定された事柄であるため、暦の運用に当たって混乱が生じるのは自然であり、幾つかの記事にその痕跡を留めている。
一例として「春二月乙丑、加侍中中書監劉放、侍中中書令孫資為左右光祿大夫。」の記事は、景初四年(正月壬午朔)でなければ干支が合わない。
景初中の倭女王遣使から正始元年の冊封使派遣までの間、景初三→景初四→正始元各年銘の銅鏡が慌しく制作される状況の想定は現実的であり、
従来より考古学者が推定する所の、相互に連携した複数工房で同時進行し急いで集中的に制作されたという三角縁神獣鏡第1ロットの制作環境と合致する。 >>382
>>陳寿が原則として「地域間距離は、その居住外縁部間の距離」で表記している<
>「根拠」を示してね<
何度も書いて来た事だ。
倭人伝の海峡の渡海では、国内見聞移動を書き分けているから、
それぞれの「千余里」は、それぞれの出発港から到着港の距離になっている、という事や、
「高句麗在遼東之東千里、南與朝鮮、wai貊、東與沃沮、北與夫餘接。都於丸都之下、方可二千里」は、
丸都を中心として方可二千里の正方形を描けば、
そりゃ遼東(の首都付近)に達してしまう、という矛盾が発生してしまう事になり、
だから、「遼東之東千里」は、遼東の首都付近から、高句麗の居住外縁部間の距離が千里である、という事になる事と、
これと同じ事が、高句麗と扶余の大きさと距離説明でも発生しており、
また、Yahooでの議論でも、「三国志の中の問題になった地域間距離記載」が、
ほぼ全て中心間距離とすると長里でも短里でも矛盾が発生し、
居住外縁部間距離とすると、短里で矛盾しなかった、という結果からも、確かめられた。
>国境を接しているところを距離0として、それぞれの内国移動距離を書かなかったら
総距離が分からなくなるから、他国の地理を報告する訪問記録としては意味がないのが分からないんだろうな <
国の大きさが示されず、国内移動の説明がなければ、それは、
国内移動がほぼ0里であったんだ、と言っている事になる。 >>757
>九州倭国の官位なんだろうよ。
大変に調子がいいことですわねww
日本書紀に卑弥呼が書いてないから大和朝廷ではないと、日本書紀を頼りにしている癖にww
都合の悪いことは認められない、典型的な九州説ですことww
「九州倭国の冠位」であることを、「根拠」を示して正しい「論理」で論証してくださいね!
できなければ、ただの脳内妄想ww >>759
>ほぼ全て中心間距離とすると長里でも短里でも矛盾が発生し、
つまり、里程はいい加減なんだよ
たったこれだけのことがなぜ認められないんだろうねww
いまさら>>382に答えなくていいから
>>712に答えなよ >>752
>方格規矩鏡は魏晋時代でもポピュラー
これを言いたいなら、
「根拠」をつけて正しい「論理」で論証しろと何度言えばww >>754
>中国の天円地方は祭壇のこと、方形と円形ね
分かってないな
>>747でも書いたように「天円地方」は「思想」であり、「概念」なんだよ
その形に、祭壇を整えたり、陵墓をその形の具現として作ったりする
近視眼的に、天円地方=祭壇みたいな「即物的な解釈」しかできないから
九州王朝説に基礎をおく九州説なんていうトンデモを信奉してられるんだろうけどさww >>384
>>平原が「西新式土器」を副葬しなければならない、
という決まりがある訳でも、必要がある訳でもなく、<
>いや、西新式土器の前の形式の土器と見られるものが出ているから、<
それは1号墳の中からではなく、一号墳と2号墳の両方の周濠の土砂が埋もれたところからの出土であり、
一号墳自体の年代を決定するようなものではないんだよ。
>「西新式」の直前くらいと想定されているだけだぞ?
自分が何を書いているのか理解できているんだろうか?<
なかったものからの「想定」など、1号墳の年代の直接的な根拠になるもんか。 >>722
賛同します
余りにも、結論を急ぎです。
研究者の功績に焦る気持ちも分からないでもありませんが
結論や功績は後世の研究者に委ねても良いでしょう。 ネットなどを見ていると、
成り済まし?ばかりいるような気がするんだけど
なぜだと思う >>748
できるだけこの言葉を使わないように我慢してるんだが、やっぱり使いたくなるな
>>748って、「バカ」でしょ?
>魏志倭人伝は、女王國から四千里の侏儒國まで書き、更に裸國黒齒國まで書いているんだから、
>淮南子の思想に従っていない。
引用してあるところだけ見て、原典を当たらないから見当違いのことを書くんだよ
>>676を参照して
>つまり、魏使らにとっては、淮南子など400年位も前の淮南子など、何の関係もなく、
>だだ皇帝への報告として、里数を計測記録しただけだ、という事だ。
今でも、淮南子が読めるのはどうしてだと思う?
ずっと伝書されてきたからだよ
>>755の言うとおり
そして、魏使らの報告部分と、裸國とかK齒國とかが出てくるところは、
魏志倭人伝の中でもはっきりと区別されている
魏志倭人伝の原文、きちんと読んだことないんじゃないのか? >>764
>それは1号墳の中からではなく、一号墳と2号墳の両方の周濠の土砂が埋もれたところからの出土であり、
一号墳自体の年代を決定するようなものではないんだよ。
九州説さん・・・
また、その場しのぎのデマですかぁ・・
もう信用、完全に無くなりますよぉ
例えば「海底少年」
うらしまマリン『松傾』の事でしょ >>764
>それは1号墳の中からではなく、一号墳と2号墳の両方の周濠の土砂が埋もれたところからの出土であり、
>一号墳自体の年代を決定するようなものではないんだよ。
半分正解で、半分は半可通だな
・出たのは2号墓の周溝から
・1号墓と2号墓が間の周溝を共有しているから、2号墓側から出たもので1号墓も推定している
が正しい
でもさ、平原1号墓を卑弥呼の時代に近づける編年推定値にする「根拠」が、
>>764が否定するこの土器だぞ
この土器を認めない場合の推定値は「二世紀前半」にしかならない
卑弥呼の時代から100年以上前になるけどいいのか? これは本当の話
家は 兄 弟 妹
あの謎の写真の家なんだけど、
悪く言うと寄生されていた?
松(もみ)の木の立てられている写真も家の ウラシマン(松傾)
中華・・・の末裔だと言っている人がいたり >>768
畿内説のスレなんですけど・・・
気持ちは分かるが・・・・ >>768
スレ主の意図を汲まないなら、ここに来ない方が良い
>>1
>
邪馬台国論争ももう畿内で決着なのでロマンはありませんが
勝者の貫録を見せつつ、更なる真実を探求しましょう。 < 畿内は今や他説批判に走るばかり
2013以降 何も無いから
2013も コジツケ似非研究者の戯言だったな 奈良県の一般職員の採用試験と
奈良県の教員の採用試験の
どちらが狭き門なのですか?
また、教委の研究員としての採用はありますか・ 『魔法のペルシャ』
画像をググると、わかる
河童がいたり、イルカが出て来たり
キュウリの葉の・・・写真 青木 香津江 総括研究員
青柳 泰介 調査第二係長
岩越 陽平 技師
宇野 隆志 主任研究員
卜部 行弘 資料係長
大西 貴夫 指導研究員
岡田 憲一 指導研究員
岡田 雅彦 主任研究員
岡林 孝作 調査課長 ジョジョに登場した mike o
もれ(仮)の妹:5月15日生まれ >>389
>>(出発+途中+到着の順番記載)だから、 「東南」は出発時の方向記録であり、目的地の方向ではない。<
>地図一つ見ずに、勝手な脳内妄想を書いているだけなのが丸分かり 末盧國から東南に向けて出発して短里で五百里で伊都国にいたる経路はないぞ<
唐津港付近や唐津市街から、東南方向出発路は、存在するし、
「陸行五百里」は途中の道なり移動を示しており、経路はある。
>大陸史書の地理旅程記事を確認してもらえば分かるが、 起点と終点を結ぶ直線方向が書いてあるのが基本<
三国志では「出発説明+途中説明+到着説明+付加説明」の書き方が原則。
>大雑把な地図(実際に描いたか想定だけかは確認のしようもないが)を用意して、その上での2点間の方角を記述しているようだ <
倭地までの地図なんて、存在していなかった。
>例えば旧唐書の舊唐書列傳第一百四十七南蠻西南蠻では
「皋遂命巡官崔佐時至牟尋所都陽苴棟驕C南去太和城十餘里,東北至成都二千四百里,東至安南如至成都,通水陸行」
陽苴棟驍ヘ現在の大理白族自治州大理市で、そこから東北に2400里で成都、
東に水行陸行を通して成都に至る如し(同じくらいの距離)で安南(ハノイ)に至る 2400里進むときに、出発方向だけ書いてそのあと方向転換してたら、どこに何があるかを示すための情報としては価値0だろ? <
それは、投馬國の説明と同じく途中の移動説明がないから、「四至」方向での位置説明文であり、論拠にならない。
>そして、成都から安南までは東至安南と書いてあるが実際には東南 大陸史書の地理・旅程の記述で、方角が間違っているところは結構ある<
「四至」説明は当然大体の近似であり、東南であれば「東」と近似することはいくらでもあり得る。 あのMV
記紀神話(聖書)の冒頭
それから、海底に潜ったり、鳳凰(フェニックス)が出てきたりしない?
どらごんぼーるのようなシーンとか >>707
>ただ、邪馬台国の頃ではなく、光武帝への遣使(西暦57年)の頃だと思う
>三雲南小路遺跡甕棺墓 伊都国 前一世紀中ごろ
>井原鑓溝遺跡甕棺墓 伊都国 一世紀第1四半期
>と年代も合うし
>このあと神武の東征(征伐はしていないと思うけど)なら、卑弥呼より100年以上前だろう
なるほど。 >>783
に対する返事は、案の定、行数オーバーで5chから×にされ、書き直させられたので、
残りを再掲。
>「南≠東」を絶対だと思って思考停止している人には分からないかな?
私はきちんと「根拠」となる「原文とその解釈」を、きちんと書いてるだろ?
反論したかったら、ちゃんと「論拠」を挙げて反論してごらん?
>>324に対する要求水準としては高すぎるかな?ww<
行数オーバーで、また5chから×にされて書き直すのは面倒だから、
このような・・・・ヘイトスピーチは、放置ね。 >>711
>そして銅鐸は近畿・東海全体で次第に使われなくなっていく流れ
>銅鐸が使われなくなって大分たってから鏡が現れるようになる
>アホがよく喚くような唐突な変化などしていない
はて?
3世紀に急激に変化するから畿内が邪馬台国だとぬかしていたのは、畿内説の方なのに。 >>722
和田萃先生が一流で
後は二束三文の研究者(少し勉強すれば誰でも可) >>718
>竪穴式石室で、宗像神社があるんだから、
>やはり筑紫倭国の東征将軍の墓であった、ということでしかない。
宗像w
畿内説の頼みの綱の茶臼山は、九州北部の内行花文鏡と九州北部の宗像神社を祭る九州北部から来た東征将軍の墓w 平原1号墓は
1号周溝から出てる土器片がTA期
6号土壙墓から出てるのがTB期
重複する周溝覆土から出てるのがUA期
5号墓からの混入とされたのが後期前半
1号周溝から出てる穿孔鉄鏃群などから
200年ころの築造とされている >>390
>魏志の記載例を根拠にして
魏志の記載例が短里だったと機能的推論したというのは
循環論法<
史料事実を史料批判して、それからの帰納的確率的な推論をすることは、
正当な学問的行為であり、
帰納的確率的な推論内容は、史料事実と100%完全一致でもないんだから、
循環論法になっていない。 ザラコクさんよ
大和の地は3世紀以前はどんな土地と思う >>391
国民の投票でも、国民に否定された、
「南→東」などの嘘つき騙しの大和説学者。 >>733
>古墳時代に入っても、方墳は作られるし、田舎の方では方形周溝墓も作られているよ
>平原がそうだとは言わないが、単純に前方後円墳じゃないから古いとは言えない
畿内説の主張は、平原遺跡の方形周溝墓が作られなくなるから、伊都の政権は消滅した、ではなかったのかな?
まあ、嘘だって知っていたけどね。 >>734
>大彦その人の墓という人もいる
東征将軍その人だな。
関東にまで攻め込んでいる。 >>749
>畿内では纏向古墳群、柳本古墳群、大和古墳群の初期古墳だけで
>那珂八幡古墳より大きいのがいくつあるんだろう
那珂八幡が大きいなんて誰が言ったか?
初期の前方後円墳なんだから、大きくなくて当たり前。
いきなり100メートル級の古墳が先にできたという畿内説の方が頭悪い。 ザラコク うぜーー
主とテメーで占領
畿内説の議論は皆無じゃん >>393
>大和は「附庸」地に属するとしか書かれていないのであり、
「大和までの行程」も全く書かれていない。<
>いやいや、
「達於海岸 自竹斯國以東皆附庸於俀<
「自竹斯國以東皆附庸於俀」は、「皆」と言っているんだから、
竹斯國以東には、都はない、と断定している事になる。
>俀王遣『小徳』阿輩臺従數百人設儀仗鳴皷角來迎 後十日又遣『大禮』哥多毗従二百餘騎郊勞 既至彼都」と書いてあるじゃないか<
それ、竹斯國以東を否定した上での記載。
>瀬戸内海を渡ってきて、<
書かれていない。
>海岸に着いたところで出迎えるのが『小徳』阿輩臺で<
海岸の特定地名も書かれていない。
>さらに都まで案内するのが『大禮』哥多毗 小徳も大礼も、大和朝廷の冠位十二階だろ?
大和の都まで着いてるじゃないか<
小徳も大礼も俀國の冠位であり、
記紀の記載は半分×の偽書であるから、根拠にもならない。 >>1さん=すれ主さん
水行は大和川を含むか否か? >>394
都合が悪くなると、逃げて、口先で誤魔化す大和説者。 >>1さん=すれ主さん
水行は大和川を含むか否か? ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています