邪馬台国は畿内だけど卑弥呼は九州説
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邪馬台国と卑弥呼を不可分のものだとする思い込みのデタラメ説の数々に騙されないようにしましょう
卑弥呼がいたのは邪馬台国ではなく女王国です
倭人伝の卑弥呼に関連する記述は卑弥呼が九州北部にいたと考えなければ辻褄が合いません
邪馬台国の登場する箇所は国名が列挙される一か所だけであり、卑弥呼とはなんら関わりがありません
「南至投馬国」の起点は九州の不弥国ではなく朝鮮半島の帯方郡です
邪馬台国にいた女王とは卑弥呼とは別の人物である可能性が高い なんでもありだと思うのは自分が支持してない説だからだろうがw
どんな珍説奇説でもマジメに主張してるやつにとっては失礼な言い方だぞw 一つの説を主張するのならまだしも、あれもこれもありだ、みたいなのは、説を主張していることにならない。 あほか
いろんな説がありうるって説明をしてるんであって
同一人物が複数説を主張してるって話じゃねぇよw >>168
いや待て待て、
女王国と邪馬台国は別の土地なのだし
狗奴国は西は熊本県から東は遠江・駿河まで広がる大国だったんだよ
とするとだ、女王国は鹿児島県で、邪馬台国は東国(伊豆・甲斐)になる >>173
いやいや、女王国という言葉の指す範囲にブレがあるんだよ
自女王國以北特置一大率檢察諸國畏憚之常治伊都國 と
自女王國以北其戸數道里可得略載其餘旁國遠絶不可得詳 の部分の女王国は
女王の都するところの国=邪馬台国でないと、意味が通らない
一方で世有王皆統屬女王國や、自郡至女王國萬二千餘里は、
卑弥呼を共立した範囲≒倭国と読んだ方が分かりやすい >>174
世有王皆統屬女王國
邪馬台国に属しているで何か問題があるか?
自郡至女王國萬二千餘里
対馬・壱岐・末盧・伊都・奴は倭国の一員であることは間違いないが萬二千餘里に到達していない
これも邪馬台国が正しい >>174
「自女王國以北特置一大率檢察諸國畏憚之常治伊都國」は漢文の一つの文章として見ると不自然だ
元になる史料から文章を複数つぎはいでめちゃくちゃになっているのではないか
「自女王國以北特置一大率檢察諸國」「諸國畏憚之」「之常治伊都國」という3つの文章なら漢文として自然に読めるが
続けて重複部分を一つにして読むなんてのは明らかに変だ
「自女王國以北特置一大率檢察諸國」と「常治伊都國」とは本来は別々の事を指していると解釈するべきだ >>174-175
・自女王國以北特置一大率檢察諸國畏憚之常治伊都國
・自女王國以北其戸數道里可得略載其餘旁國遠絶不可得詳
・世有王皆統屬女王國
・自郡至女王國萬二千餘里
の部分の女王国は
邪馬台国だとしてもなんの問題もないかわりに、
「邪馬台国ではない別の女王国」だとしてもやはりなんの問題もないよ
まぁこの場合の女王国ってのは奴国のことなんだけどね >>177
>「邪馬台国ではない別の女王国」だとしてもやはりなんの問題もないよ
問題ないかどうかではなく、妥当かどうかだろ。
邪馬台国が房州だとしてもなんの問題もないよ
卑弥呼が神功皇后だとしてもなんの問題もないよ
それらと大差のない、意味のない言葉だ。
詐欺師の論法。 「自女王國以北 特置一大率 檢察諸國 諸國畏憚之 常治伊都國 於國中有如刺史」
この文章の前後の文章は全て女王国か女王卑弥呼に付いての説明文であり、主語が書かれていなくとも主語は女王国か女王卑弥呼だと読み手には分かるようになっている。
それ以外の主語の場合は「諸國畏憚之」のように主語が明記されている。
「一大率常治伊都國」と主語が明記されていないので「常治伊都國」の主語も女王卑弥呼である。
なので「女王卑弥呼が伊都国で常に治めている」との意味になる。
では何を治めているのか?
女王卑弥呼が治めているのは自女王國以北の諸国である。
「常治伊都國」は「(女王卑弥呼が)伊都国で(一大率を使い自女王國以北の諸国を)常に治めていた」の意味であり 主語の女王卑弥呼と()内が省略されている。
治の類似の用法は漢書西域伝に見られる。
「大宛国 王治貴山城 去長安 万二千五百五十里…」
大宛国について、王は貴山城に治す、と王の所在を明らかにしている。
では「自女王國以北」とはどこか。
以北はその出発地を含む。出発地は「自女王國」とある。
つまり、女王国とその北にある国々を、そこに置いた一大率で支配したのである。
要するに女王国と伊都国は念を押して言い換えただけであり、一大率は伊都国にあり、伊都国が女王国、女王の都するところ、邪馬台国であるということである。
「於國中有如刺史」・・・刺史は各地の行政機関内に常駐している監察官
「女王国(を含めたそこ)から北の諸国には、(女王卑弥呼が)特別に一大率を配置して検察させており、諸国は(一大率を)畏れ憚っている。
(女王卑弥呼が)伊都国で(一大率を使い女王国から北の諸国を)常に治めていた。
これは魏で皇帝が刺史を州に派遣し検察させて洛陽で治めているのと同じようだ」の意味となる。
女王国が伊都より東にあったら、文章の意味が通らない。
畿内説では、一大率が支配していたのは奈良(女王国)およびその北である京都や丹波になってしまう。
女王国以北はおよそ里程や概要を記すことができるとされているが、里程が記載されているのは対馬海峡と福岡県内の国だけだからである。
すなわち女王国以北(女王国を含む)は伊都から北であり、女王国(邪馬台国)が伊都国であることを示している。 >>178
妥当かどうかの話はしてない。問題ないのは事実じゃん
空気嫁よ、長文うざいw >>178
>邪馬台国が房州だとしてもなんの問題もないよ
>卑弥呼が神功皇后だとしてもなんの問題もないよ
そうだよ、問題ないよ。なにを逝ってんだ?
長々と見当ちがいの駄文貼りやがってw >>176
いろいろ書いているが、
「自女王國以北特置一大率檢察諸國畏憚之常治伊都國」は
「自女王國以北特置一大率檢察諸國諸國畏憚之常治伊都國」というテキストもあって、
その方が読みやすい
諸國を補えば、普通に読めるだろ
女王国以北に一大率を置く
(一大率は)諸国を検察し、諸国はこれを畏憚す
(一大率は)常に伊都国に治す
まったく問題ないが? >>184
それだと一大率は女王国以北と伊都国に居たことになり意味不明の訳となる
「常に伊都国に治す」は一大率ではなく女王卑弥呼のことで
女王卑弥呼が伊都国で常に治すでしょ
女王卑弥呼は一大率を女王国以北に置いて諸国を治めていた。 女王国以北が女王国を含む用語であることがポイントかな。 >>186
>それだと一大率は女王国以北と伊都国に居たことになり意味不明の訳となる
一大率は「女王国以北の中にある「伊都国」」にいるんだよ?
これくらいのことは、小学生でも分かると思うんだけどな? >>188
>女王国以北が女王国を含む用語であることがポイントかな
小学校で、以上と未満を習ったときに、以上はその数を含むって習ったのを
きちんと覚えてるんだね! えらいじゃないか!
でも、中国語って、案外文法もいい加減で、そんなにきちんと厳密には書いていないよ
「自女王國以北」をきちんと読み下せば
「女王國より北を以って」だしね
女王国から見て北っ側、くらいに読んでおくのが一番正しい >>184
だが待ってくれ「治」が動詞だとはいつ誰が決めただろう?
「治」には”おさめる”や”なおす”といった動詞での意味の意外にも”行政の中心地”という名詞での意味がある
「特置一大率」が特別に置かれた臨時の大きな行政組織で、「常治」が伊都国に以前からあった行政の中心として対比になっているのではなかろうか? >>192
今も昔も王は伊都で治めていたという意味合いかもね。 >>191
>小学校で、以上と未満を習ったときに、以上はその数を含むって習ったのを
>きちんと覚えてるんだね! えらいじゃないか!
その通りだよ!
その用法を考えたはずの中国人をむやみに「いい加減」などと言うのは、ヘイトスピーチかい? >>194
>その用法を考えたはずの中国人をむやみに「いい加減」などと言うのは、ヘイトスピーチかい?
九州説はヘイトスピーチが好きだなぁ お里が知れるぞww
それはさておき、以上、未満の「数学での使い方の用法」を「中国人がいつ考えた」のか
調べてごらんww
中国で使っている近代科学用語は日本語からの逆輸入だって知ってるかい?
まあ「考えた『はず』」とか書いてるからなぁww >>192
>「治」には”おさめる”や”なおす”といった動詞での意味の意外にも”行政の中心地”という名詞での意味がある
それでいいと思うよ
一代率の治所が常に伊都国にあったという意味でいい
>「特置一大率」が特別に置かれた臨時の大きな行政組織で、「常治」が伊都国に以前からあった行政の中心として対比になっているのではなかろうか?
常治にいるのが一大率だから、そうはならんだろ
「特に置く」は、ほかの国ではなく「特に」伊都国に「置く」と読むのが一番素直な読み方 そもそも魏志倭人伝は伊都が倭の中心であることを前提に書いてあるのに、曲解されて陳寿も草葉の陰で泣いているだろう。 説明文は伊都について一番詳しいし、魏の使いも伊都まで来て滞在していたとある。
伊都以外の話はほとんど出てこない。
これで伊都が倭の都でないなら、陳寿は大馬鹿ものだ。 >>196
滅茶苦茶ですね
畿内説も落ちる所まで落ちましたね。 伊都推しの人はいつも連投だねぇww
>>199
どこがどうむちゃくちゃなのか、具体的に書いてみ
>>198
>説明文は伊都について一番詳しいし、魏の使いも伊都まで来て滞在していたとある。
詳しいと言っても、対象は伊都国ではなく伊都国に置かれた一大率のことが大部分
「郡使往來常所駐」は、一大率が入国管理をしているから、伊都国はスキップせずに
必ず通ると書いてあるだけ
たぶん、卑弥呼の頃は、末慮国には寄らずに伊都国に回ってる
>>197
>そもそも魏志倭人伝は伊都が倭の中心であることを前提に書いてある
そもそも、これが牽強付会の誤読ww
戸数千戸の首都なんてないよ 連投じゃないしww
伊都国と卑弥呼がどのように周辺国を支配していたかの政治機構を詳しく説明してあるわけだし、兵が厳かに守り、楼閣高くして、という説明も伊都国でしょう
末盧国の説明も、卑弥呼の都まで魏の使いが訪問した時の記録でしょ。
それをスキップしたなんて、ひどい言い訳ですね。
戸数千戸だと都じゃないというのも理解できません。
弥生時代なら、大きくはないが小さすぎるということもない。 環濠集落だと同時期の竪穴式住居はせいぜい数十ですな。 邪馬壹国70,000戸の内訳は下記の計算で算出されている
1,000戸(對馬国)+3,000家(一支国)+4,000戸(末盧国)+1,000戸(伊都国)20,000戸(奴国)+1,000家(不彌国)+20×2,000戸(斯馬国-烏奴国の20国分)
斯馬国〜-烏奴国の20国の戸数は記の計算で算出されている
(1,000戸+3,000家+4,000戸+1,000戸+1,000家)÷5国=2,000戸/国
奴国を除く対馬国、一支国、末盧国、伊都国、不弥国の5カ国の戸数から1国邑当たりの平均値2,000戸を求め、斯馬国-烏奴国の戸数もこれと同じ戸数として計算 >>196
滅茶苦茶だ!いい加減にしろ!
>>199
お前も滅茶苦茶だ! >>201
>兵が厳かに守り、楼閣高くして、という説明も伊都国でしょう
それ、邪馬台国だから
最初から伊都国と邪馬台国は別の国として書かれているのを、
同じ国だと言い張るのが誤読
九州説の中でも、伊都国説はトンデモ度が高い 根拠なく侮辱はするけれど、対案は出せない畿内説。
いや、もはや論としての体をなしていない。 >最初から伊都国と邪馬台国は別の国として書かれているのを、
>同じ国だと言い張るのが誤読
北部九州伊都説は、北部九州広域の邪馬台国の首都が、伊都であると言っているわけで、
同じ国と言い張ってるのはキナイコシだけだが。 ニヤニヤ笑いながら話す奴だろ。
金印は偽物と主張するのもそんな奴だったな。 >>209
>北部九州広域の邪馬台国
それが、誤読なんだよ
奴国 二万余戸
投馬国 五万余戸
邪馬台国 七万余戸
が並列で書かれていて、この3つが倭国内では飛びぬけた大国
「北部九州広域の邪馬台国」という読み方だと、どうやっても投馬国の
比定が矛盾だらけになる >>203
>20×2,000戸(斯馬国-烏奴国の20国分)
こんなのはどこにも書いてない、無理やり読みだし、全部邪馬台国に使っちゃったら
投馬国がどうしようもないだろ?
投馬国の方が、邪馬台国より大国になっちゃうぞ >>208〜>>212は、いつも九州説が畿内説側から言われていることの
ミラーイメージだねぇ
こういう批判の言葉にすらオリジナリティがないのが、九州説クオリティww >>214
>「北部九州広域の邪馬台国」という読み方だと、どうやっても投馬国の
>比定が矛盾だらけになる
九州東部の広域の投馬国(宮崎県) >>214
投馬国と邪馬台国は並列に書かれてるけど
投馬国、邪馬台国とそれ以外の国邑は明らかに別に書かれてるよ
五万余戸や七万余戸の国邑なんて大きすぎる
当時はそんな巨大な国邑は存在していない
投馬国の比定は朝鮮半島南部で問題ない 。 >>214
投馬国と邪馬台国は並列に書かれてるけど
投馬国、邪馬台国とそれ以外の国邑は明らかに別に書かれてるよ
五万余戸や七万余戸の国邑なんて大きすぎる
当時はそんな巨大な国邑は存在していない
投馬国の比定は九州東部で問題ない 。 >>219
投馬国を九州東部に比定するのは無理だよ
狗奴国の場所が無くなる
投馬国の比定は朝鮮半島南部で問題ないよ。 3世紀には在ったんだよ
それが後に任那日本府へなったんだよ。 投馬国は出雲
五万余戸というのは四隅突出型墳丘墓圏全体を合わせて見たものである 数年前の某KPOPのスレを見ていなかったの?
詳しいことは、わからないんだけど、半島の話だと言ってる人がいたよ
炭素年代が〜というコピペが貼り付けられたり、
縄文時代?
音楽スレとは関係のないような話とか ドラゴンボールのような画像だったかな、
ミニSLのようなものに乗っている画像も貼り付けられた
いまの天皇(いまの皇室、家族)の写真?
ミニSLに乗っている写真w 確かドラゴンボールだよ、
同じような画像があったはず
誰の家族だったかな、
ミニSLに乗っているシーン >>225
四隅突出型墳とかもっと後のものでしょう
倭人伝では出雲は倭種の一部でしょうね。 >>229
すぐ分かるデタラメを言うな
四隅突出型墳丘墓は紀元前100年頃に発生していて、普通に卑弥呼の時代に存在してるんじゃい >>230
>四隅突出型墳丘墓は紀元前100年頃に発生していて、
初耳だな。
どの遺跡? >>231
古い順に一覧が載ってるぞ
http://www.pref.tottori.lg.jp/secure/76301/yosumi.pdf
>四隅突出型墳丘墓は、弥生時代中期の後半(約2,100年前)に、中国地方一の大河、江の川をさかのぼった中国山地の山あいで誕生しました。 >>233
なるほど、倭人伝に出てくる東方倭種は、
中国地方一の大河、江の川をさかのぼった中国山地の山あいの出自なのだな。 とても簡単な稼ぐことができるホームページ
念のためにのせておきます
検索してみよう『立木のボボトイテテレ』
T69 こういう誰も興味を持たないような無駄スレを立てるのは止めないかね? 邪馬台国が卑弥呼の都するところなんだから、
邪馬台国が畿内だったら、卑弥呼も畿内にいないとおかしいだろ >>248
卑弥呼と女王の関係は?
所都ってどんな意味だと思ってる? >>251
陳寿が三国志を完成したのは、西晋による中国統一後の280年以降だから、
もう女王じゃなかったかもよ?
トンデモ系の論者には、248年に死んだのは卑弥呼ではなく台与の方と
考えている人もいる >>253
>陳寿はトヨの遣使は現地で見てるよね
266年の遣使を「女王」としている史料は、日本書紀の神功皇后紀「だけ」しかないんだ
それを信じるなら、それでもいいけれど >>255
>日本書紀は120年前倒しされている。
前倒しされてるとかどうとかの話じゃなくて、日本書紀は8世紀の成立だってこと
そして、その日本書紀以外に、266年の晋への遣使を「女王」としている史料はない >>257
魏志倭人伝は266年の遣使を記録していない
壹與遣倭大夫率善中郎將掖邪狗等二十人送政等還。を266年の献使に当てる説もあるが、
張政がそんなに長く倭国に留まる理由がない 邪馬台国はキングダムの主人公が信というのと同じ流れ。 宮崎の邪馬台国の神武は宇佐神宮で奈良侵略を祈念した後、親戚である北九州の
海神族と協力して15年かけて広島、岡山を征服した。その後軍勢を淡路島に
集結させ、大阪の住吉から上陸して生駒・葛城山の切れ目の河内国分から奈良に
攻め込んだが奈良の饒速日に撃退された。その後、淡路島で体制を整え、和歌山
の熊野川河口の新宮から再度奈良に攻め込んで侵略した。
壁のような生駒葛城山から奈良に攻め込むには大和川側からしかない無いし、
淡路島から一番近いのは住吉浜だった。国分で負けてすぐに和歌山まで迂回できた
のは海神族の船団と航路の知識があったからだ。
古事記では大和の始まりが淡路島で、宇佐神宮や住吉大社や新宮の熊野大社が大和
の守り神になっているのはそのためだろう。
全部古事記に書いてあることだ。 神武が倭国大乱を避けて出発したのは、筑紫の日向、魏志倭人伝における倭国の王都である伊都だった。
塩土爺から、東に行って王国を築いた饒速日という親戚の話を聞いたからだ。
北九州、広島、岡山などの親戚筋に厄介になりながらも、大阪に到着した。
ここではじめて敗走を経験したが、和歌山へ回り込み、大和にいた饒速日と和解して、居候させてもらうことになった。 >>261
>魏志倭人伝における倭国の王都である伊都
魏志倭人伝にはそんなことは書いてないw あいかわらず、過疎ってるなw
伊都国説の人間なんて、ほとんどいないってことだろ? >>261
>大和にいた饒速日と和解して
饒速日と神武は世代が違うっぽいよ
神武に仕えているのは、子供のウマシマジの方 世代が違うというのはごもっとも。
でも、そう書いてあるのだから仕方がない。 >>265
>でも、そう書いてあるのだから仕方がない。
そうは言うけれど、書いてあること自体が、かなり揺れてるからねぇ
火明が、ニニギの兄弟だったり、子供だったりするし 混乱はあるが、高天原から複数回にわたり大和への侵入があったという骨子は変わらない。 まあ、高天原はあぜがあって田んぼで稲を育てていて、機織がいる弥生社会なのは
間違いないだろうけれど
スサノオに皮を剥がれた馬もいることになっているけれどw ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています