邪馬台国は畿内だけど卑弥呼は九州説
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邪馬台国と卑弥呼を不可分のものだとする思い込みのデタラメ説の数々に騙されないようにしましょう
卑弥呼がいたのは邪馬台国ではなく女王国です
倭人伝の卑弥呼に関連する記述は卑弥呼が九州北部にいたと考えなければ辻褄が合いません
邪馬台国の登場する箇所は国名が列挙される一か所だけであり、卑弥呼とはなんら関わりがありません
「南至投馬国」の起点は九州の不弥国ではなく朝鮮半島の帯方郡です
邪馬台国にいた女王とは卑弥呼とは別の人物である可能性が高い 連投じゃないしww
伊都国と卑弥呼がどのように周辺国を支配していたかの政治機構を詳しく説明してあるわけだし、兵が厳かに守り、楼閣高くして、という説明も伊都国でしょう
末盧国の説明も、卑弥呼の都まで魏の使いが訪問した時の記録でしょ。
それをスキップしたなんて、ひどい言い訳ですね。
戸数千戸だと都じゃないというのも理解できません。
弥生時代なら、大きくはないが小さすぎるということもない。 環濠集落だと同時期の竪穴式住居はせいぜい数十ですな。 邪馬壹国70,000戸の内訳は下記の計算で算出されている
1,000戸(對馬国)+3,000家(一支国)+4,000戸(末盧国)+1,000戸(伊都国)20,000戸(奴国)+1,000家(不彌国)+20×2,000戸(斯馬国-烏奴国の20国分)
斯馬国〜-烏奴国の20国の戸数は記の計算で算出されている
(1,000戸+3,000家+4,000戸+1,000戸+1,000家)÷5国=2,000戸/国
奴国を除く対馬国、一支国、末盧国、伊都国、不弥国の5カ国の戸数から1国邑当たりの平均値2,000戸を求め、斯馬国-烏奴国の戸数もこれと同じ戸数として計算 >>196
滅茶苦茶だ!いい加減にしろ!
>>199
お前も滅茶苦茶だ! >>201
>兵が厳かに守り、楼閣高くして、という説明も伊都国でしょう
それ、邪馬台国だから
最初から伊都国と邪馬台国は別の国として書かれているのを、
同じ国だと言い張るのが誤読
九州説の中でも、伊都国説はトンデモ度が高い 根拠なく侮辱はするけれど、対案は出せない畿内説。
いや、もはや論としての体をなしていない。 >最初から伊都国と邪馬台国は別の国として書かれているのを、
>同じ国だと言い張るのが誤読
北部九州伊都説は、北部九州広域の邪馬台国の首都が、伊都であると言っているわけで、
同じ国と言い張ってるのはキナイコシだけだが。 ニヤニヤ笑いながら話す奴だろ。
金印は偽物と主張するのもそんな奴だったな。 >>209
>北部九州広域の邪馬台国
それが、誤読なんだよ
奴国 二万余戸
投馬国 五万余戸
邪馬台国 七万余戸
が並列で書かれていて、この3つが倭国内では飛びぬけた大国
「北部九州広域の邪馬台国」という読み方だと、どうやっても投馬国の
比定が矛盾だらけになる >>203
>20×2,000戸(斯馬国-烏奴国の20国分)
こんなのはどこにも書いてない、無理やり読みだし、全部邪馬台国に使っちゃったら
投馬国がどうしようもないだろ?
投馬国の方が、邪馬台国より大国になっちゃうぞ >>208〜>>212は、いつも九州説が畿内説側から言われていることの
ミラーイメージだねぇ
こういう批判の言葉にすらオリジナリティがないのが、九州説クオリティww >>214
>「北部九州広域の邪馬台国」という読み方だと、どうやっても投馬国の
>比定が矛盾だらけになる
九州東部の広域の投馬国(宮崎県) >>214
投馬国と邪馬台国は並列に書かれてるけど
投馬国、邪馬台国とそれ以外の国邑は明らかに別に書かれてるよ
五万余戸や七万余戸の国邑なんて大きすぎる
当時はそんな巨大な国邑は存在していない
投馬国の比定は朝鮮半島南部で問題ない 。 >>214
投馬国と邪馬台国は並列に書かれてるけど
投馬国、邪馬台国とそれ以外の国邑は明らかに別に書かれてるよ
五万余戸や七万余戸の国邑なんて大きすぎる
当時はそんな巨大な国邑は存在していない
投馬国の比定は九州東部で問題ない 。 >>219
投馬国を九州東部に比定するのは無理だよ
狗奴国の場所が無くなる
投馬国の比定は朝鮮半島南部で問題ないよ。 3世紀には在ったんだよ
それが後に任那日本府へなったんだよ。 投馬国は出雲
五万余戸というのは四隅突出型墳丘墓圏全体を合わせて見たものである 数年前の某KPOPのスレを見ていなかったの?
詳しいことは、わからないんだけど、半島の話だと言ってる人がいたよ
炭素年代が〜というコピペが貼り付けられたり、
縄文時代?
音楽スレとは関係のないような話とか ドラゴンボールのような画像だったかな、
ミニSLのようなものに乗っている画像も貼り付けられた
いまの天皇(いまの皇室、家族)の写真?
ミニSLに乗っている写真w 確かドラゴンボールだよ、
同じような画像があったはず
誰の家族だったかな、
ミニSLに乗っているシーン >>225
四隅突出型墳とかもっと後のものでしょう
倭人伝では出雲は倭種の一部でしょうね。 >>229
すぐ分かるデタラメを言うな
四隅突出型墳丘墓は紀元前100年頃に発生していて、普通に卑弥呼の時代に存在してるんじゃい >>230
>四隅突出型墳丘墓は紀元前100年頃に発生していて、
初耳だな。
どの遺跡? >>231
古い順に一覧が載ってるぞ
http://www.pref.tottori.lg.jp/secure/76301/yosumi.pdf
>四隅突出型墳丘墓は、弥生時代中期の後半(約2,100年前)に、中国地方一の大河、江の川をさかのぼった中国山地の山あいで誕生しました。 >>233
なるほど、倭人伝に出てくる東方倭種は、
中国地方一の大河、江の川をさかのぼった中国山地の山あいの出自なのだな。 とても簡単な稼ぐことができるホームページ
念のためにのせておきます
検索してみよう『立木のボボトイテテレ』
T69 こういう誰も興味を持たないような無駄スレを立てるのは止めないかね? 邪馬台国が卑弥呼の都するところなんだから、
邪馬台国が畿内だったら、卑弥呼も畿内にいないとおかしいだろ >>248
卑弥呼と女王の関係は?
所都ってどんな意味だと思ってる? >>251
陳寿が三国志を完成したのは、西晋による中国統一後の280年以降だから、
もう女王じゃなかったかもよ?
トンデモ系の論者には、248年に死んだのは卑弥呼ではなく台与の方と
考えている人もいる >>253
>陳寿はトヨの遣使は現地で見てるよね
266年の遣使を「女王」としている史料は、日本書紀の神功皇后紀「だけ」しかないんだ
それを信じるなら、それでもいいけれど >>255
>日本書紀は120年前倒しされている。
前倒しされてるとかどうとかの話じゃなくて、日本書紀は8世紀の成立だってこと
そして、その日本書紀以外に、266年の晋への遣使を「女王」としている史料はない >>257
魏志倭人伝は266年の遣使を記録していない
壹與遣倭大夫率善中郎將掖邪狗等二十人送政等還。を266年の献使に当てる説もあるが、
張政がそんなに長く倭国に留まる理由がない 邪馬台国はキングダムの主人公が信というのと同じ流れ。 宮崎の邪馬台国の神武は宇佐神宮で奈良侵略を祈念した後、親戚である北九州の
海神族と協力して15年かけて広島、岡山を征服した。その後軍勢を淡路島に
集結させ、大阪の住吉から上陸して生駒・葛城山の切れ目の河内国分から奈良に
攻め込んだが奈良の饒速日に撃退された。その後、淡路島で体制を整え、和歌山
の熊野川河口の新宮から再度奈良に攻め込んで侵略した。
壁のような生駒葛城山から奈良に攻め込むには大和川側からしかない無いし、
淡路島から一番近いのは住吉浜だった。国分で負けてすぐに和歌山まで迂回できた
のは海神族の船団と航路の知識があったからだ。
古事記では大和の始まりが淡路島で、宇佐神宮や住吉大社や新宮の熊野大社が大和
の守り神になっているのはそのためだろう。
全部古事記に書いてあることだ。 神武が倭国大乱を避けて出発したのは、筑紫の日向、魏志倭人伝における倭国の王都である伊都だった。
塩土爺から、東に行って王国を築いた饒速日という親戚の話を聞いたからだ。
北九州、広島、岡山などの親戚筋に厄介になりながらも、大阪に到着した。
ここではじめて敗走を経験したが、和歌山へ回り込み、大和にいた饒速日と和解して、居候させてもらうことになった。 >>261
>魏志倭人伝における倭国の王都である伊都
魏志倭人伝にはそんなことは書いてないw あいかわらず、過疎ってるなw
伊都国説の人間なんて、ほとんどいないってことだろ? >>261
>大和にいた饒速日と和解して
饒速日と神武は世代が違うっぽいよ
神武に仕えているのは、子供のウマシマジの方 世代が違うというのはごもっとも。
でも、そう書いてあるのだから仕方がない。 >>265
>でも、そう書いてあるのだから仕方がない。
そうは言うけれど、書いてあること自体が、かなり揺れてるからねぇ
火明が、ニニギの兄弟だったり、子供だったりするし 混乱はあるが、高天原から複数回にわたり大和への侵入があったという骨子は変わらない。 まあ、高天原はあぜがあって田んぼで稲を育てていて、機織がいる弥生社会なのは
間違いないだろうけれど
スサノオに皮を剥がれた馬もいることになっているけれどw >>268
高天原は筑紫よりもより大陸に近いところかもしれないね。
対馬とか壱岐とか。 古事記で壱岐がアメノヒトツバシラと呼ばれているのはちょっと気になるよね
生伊伎嶋、亦名謂天比登都柱
イザナミ、イザナギが、国産みのときに回った柱っぽい
でも、国産み神話そのものは、淡路島周辺の神話って言われてるけどね 記紀の国生みは博多湾から始まる。伊奘諾が最初に手に入れた領土である淤能碁呂島は博多湾の小島である能古島のことである。
それに続きイザナギとイザナミの生んだ国(領土)のうち、天の冠詞がつく島である隠伎之三子島(天之忍許呂別)、伊伎島(天比登都柱)、津島(天之狭手依比売)、
女島(天一根、姫島)、知訶島(天之忍男、五島列島)、両児島(天両屋、男女群島)が天つ国の本来の領域である。
国産みにおける島々は九州北部沿岸の島を意味していたが、後に西日本全体の地名に拡大され再配置される。
博多湾岸を起点として対馬海峡から朝鮮半島南岸へ、日本海から山陰や北陸に広がる国が古代の倭国の姿である。
連合国家である倭国の盟主は筑紫であり、他に九州北部の倭国連合を構成する豊国、肥国がある。倭地とされた本州には出雲、越などがあった。
また、中国との交易は一貫して筑紫が独占していた。
筑紫の特に玄界灘周辺の勢力は、対馬海峡の権益を独占して力をつけ、海人の国、天津国と呼ばれ、その王族は天津神として九州や本州の王族である国津神と区別された。 >>271
国生みは倭国(阿波)が一番最初。 @阿波 >>272
>国生みは倭国(阿波)が一番最初。 @阿波
日本書紀には
及至産時、先以淡路洲爲胞、意所不快、故名之曰淡路洲。
意味するところ、不快、故にこれを名づけて曰く淡路洲
と書いてあるね
不快だから、吾の恥で、あはじしま >>274
>意味するところ、不快、故にこれを名づけて曰く淡路洲
「不快」の意味するところ、不明ながら、
つまるところ、日本書紀も古事記も倭国(阿波)の物語ということ。 @阿波 いやあ、一群の一書も含めて、淡路島の嫌われっぷりはすごいぞ
一応、粟は、淡路島(吾恥島)のアワではなく、
伊豫二名洲の粟國謂大宜都比賣のつもりなんだろうけれど >>1 !
おしい!
もう少し考えれ
畿内は狗奴国や! >>271
淤能碁呂島→おのころ島→御のころ島→御能古ろ島→御能古の島→能古島
「お」は敬称の御
古代「ろ」は現代の「の」
なんですとな。
>>275
8世紀に書き換えたんでしょうね。 和をもって尊しとすは卑弥呼擁立に端を発していると思う 九州説は、支配とか征服とか侵略とかの用語がお好きw 気になる材料を羅列してみると、
渡来系弥生人骨はコンピュータ形質解析で朝鮮人骨とは一致せず、オロチ、
ギリヤークなどの沿海州の北方民族にかなり近寄った数値を示す人骨。
弥生土器が始まったのは最古水田・菜畑遺跡より50年以上前の山陰あたりで、
その土器は同期する沿海州南部の土器と特徴が一致している。
最古水田はイネの粒種、耕作用農具、炊飯器から考えて、明らかに朝鮮南部の影響で
始まっているのに、その人々はなぜか朝鮮土器を一つも作っていない。
複合的に考えて、まず沿海州あたりから渡来人の渡来があり、渡来後に朝鮮南部から
稲作をパクってきただけのように考えざるを得ない。 ◆ペテン師・佐藤洋一郎がなぜダメなのか
経年変化や環境変化で短期間のうちに著しく頻度を変えてしまう遺伝子の調査において、
佐藤洋一郎が調査に使ったイネの調査サンプルは、
日本のイネの調査サンプルが稲作が伝わってから800年以上も経ってしまった鍵・唐古遺跡の炭化米、
朝鮮半島のイネの調査サンプルにおいてはいつの時代のイネを使ったのかさえ全く公表していない。
このように調査サンプルから疑わしい、欠陥ありありの、お遊び程度でやったペテン調査での捏造である。
この場合、BC10Cの稲作開始時の最古水田である菜畑遺跡の炭化米とそれ以前の朝鮮の炭化米で
比較調査しない限り、まともな調査結果など得られるはずがない。
ちなみに佐藤洋一郎はこの件で京大考古学陣に全面否定されている。
日本稲作が長江・江南から伝わったなんて言ってる頭のおかしな考古学者など一人もおりません。 日本が1600年前の古墳期にようやく竪穴式住居から抜け出したのに対し、
中国では8000年前にはすでに高床式住居が登場し、早くも竪穴式住居から抜け出していた。
その時代差、約6500年。
その後、中国では6000年前に木骨泥墻が登場し、早くも土壁の住居の時代に入り、
4000年前にはすでに戸建ての時代である。
商周より前の3500年前の王朝では宮殿建築なるものが花開き、2800年前には
瓦が登場し、早くも瓦屋根の戸建ての時代に入るのである。
縄文弥生を通して、日本にはこれら中国の住居が一切伝わっていない。
中国から渡来人があったなんてあり得ないのである。 長江下流域に龍が伝わったのは約5000年前。
「遼河文明」から伝播したと思われる、約5000年前の長江下流域・良渚(りょうしょ)遺跡の玉龍も、
角と耳がありイノシシの顔だ。
http://www.seibutsushi.net/blog/2012/01/1238.html
. >>1
正解やな
ただしスレタイは不正解かも?正解は
邪馬壹国は場所不明で狗奴国は畿内だけど卑弥呼は伊都 >>276
>伊豫二名洲の粟國謂大宜都比賣のつもりなんだろうけれど
「阿波の神様 大宜都比売」
大宜都比売(大気都比売神、大宜津比売神、大気津比売神)は、日本神話に登場する女神。
名前の「オオ」は「多」の意味、「ゲ」は「ケ」の食物の意味で、穀物・食物・蚕の女神である。
『古事記』においては、「大宜都比売」は国産みにおいて伊予之二名島(四国)の中の「阿波国の名前」として初めて表れる。
阿波忌部は、海部(あまべ)とともに日本各地に進出して、麻、穀を植え、農業、養蚕、織物、製紙、建築、芸能などを伝えた祭祀族、海民族、産業技術集団。
阿波国一宮の「天石門別八倉比売神社」の論社の1つ[「上一ノ宮大粟神社」の御祀神は「オオゲツヒメ」という神様だが、
オオゲツヒメ=御食津神=豊受大神
豊受大神というと伊勢神宮の外宮の神様だが、じつは外宮の神官「度会氏」は「忌部氏」の末裔。 元々は内宮、外宮とも、神官は忌部氏だった。 @阿波 ◆中国の釜
中国では新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈がみられた[1]。
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた[1]。
釜が再び使用されるようになるのは春秋時代晩期になってからである[1]。
http://ja.wikipedia.org/wiki/釜
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
. アー タノシーデスネー 長江の鬲!wwww
http://search.yahoo.co.jp/image/search?p=長江+++鬲&ei=UTF-8&fr=top_ga1_sa
アー タノシーデスネー 江南の越式鼎!wwww
http://search.yahoo.co.jp/image/search;_ylt=A2RimFEhQrlbtGwAJkGU3uV7?p=越式鼎&aq=-1&oq=&ei=UTF-8 >>287
>長江下流域に龍が伝わったのは約5000年前。
最初の頃の龍は、伝説の神獣じゃなくて実在の動物だったんだがな
揚子江鰐だよ
長江下流域の実在の生物
それが、揚子江(長江)から離れた、鰐のいない地域に伝わる過程で伝説化していった
話の向きが逆 卑弥呼の都が邪馬台国なんだから、
邪馬台国が畿内なら、卑弥呼も都にいないとおかしいだろう まあ、こんなスレタイに興味を持つ人もそうそうはいないかw 日本が1600年前の古墳期にようやく竪穴式住居から抜け出したのに対し、
中国では8000年前にはすでに高床式住居が登場し、早くも竪穴式住居から抜け出していた。
その時代差、約6500年。
その後、中国では6000年前に木骨泥墻が登場し、早くも土壁の住居の時代に入り、
4000年前にはすでに戸建ての時代である。
商周より前の3500年前の王朝では宮殿建築なるものが花開き、2800年前には
瓦が登場し、早くも瓦屋根の戸建ての時代に入るのである。
縄文弥生を通して、日本にはこれら中国の住居が一切伝わっていない。
中国から渡来人があったなんてあり得ないのである。 >>296
>首都が戦争中なら田舎に避難はあり得る
だが、卑弥呼は以婢千人自侍の引きこもり
疎開していた形跡はない ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています