倭奴国はあっても倭の奴国なんてなかった説
■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています
◆ペテン師・佐藤洋一郎がなぜダメなのか
経年変化や環境変化で短期間のうちに著しく頻度を変えてしまう遺伝子の調査において、
佐藤洋一郎が調査に使ったイネの調査サンプルは、
日本のイネの調査サンプルが稲作が伝わってから800年以上も経ってしまった鍵・唐古遺跡の炭化米、
朝鮮半島のイネの調査サンプルにおいてはいつの時代のイネを使ったのかさえ全く公表していない。
このように調査サンプルから疑わしい、欠陥ありありの、お遊び程度でやったペテン調査での捏造である。
この場合、BC10Cの稲作開始時の最古水田である菜畑遺跡の炭化米とそれ以前の朝鮮の炭化米で
比較調査しない限り、まともな調査結果など得られるはずがない。
ちなみに佐藤洋一郎はこの件で京大考古学陣に全面否定されている。
日本稲作が長江・江南から伝わったなんて言ってる頭のおかしな考古学者など一人もおりません。 >>234
少なくとも一定の方向に進むことではない。 >>234
一周以上すること何回回ってもいいけど
最後は必ず元に戻る必要はない、行きっぱなしでもいい。 >>234
倭人伝の周旋五千里は奴国から奴国まで倭地一周のことでしょうね。 >>242
奴國から不彌國、不彌國から斯馬國、已百支國〜・・・〜烏奴國、奴國
これが周旋五千里。 >>243
「參問 倭地 絶在 海中 洲㠀 之上 或絶 或連 周旋 可 五千餘里」のくだりは船で回るイメージとばかり思っていたから。
陸地を歩いて「其餘旁國遠絶不可得詳」とした国々を巡る行程を言っていたなんて全く思えなかったよ。 >>245
參問倭地とは倭地について情報を集めるって意味で
実際に国々を巡ったんじゃない
「其餘旁國遠絶不可得詳」に付いてどんな土地か聴いたんだ。 ◆ペテン師・佐藤洋一郎がなぜダメなのか
経年変化や環境変化で短期間のうちに著しく頻度を変えてしまう遺伝子の調査において、
佐藤洋一郎が調査に使ったイネの調査サンプルは、
日本のイネの調査サンプルが稲作が伝わってから800年以上も経ってしまった鍵・唐古遺跡の炭化米、
朝鮮半島のイネの調査サンプルにおいてはいつの時代のイネを使ったのかさえ全く公表していない。
このように調査サンプルから疑わしい、欠陥ありありの、お遊び程度でやったペテン調査での捏造である。
この場合、BC10Cの稲作開始時の最古水田である菜畑遺跡の炭化米とそれ以前の朝鮮の炭化米で
比較調査しない限り、まともな調査結果など得られるはずがない。
ちなみに佐藤洋一郎はこの件で京大考古学陣に全面否定されている。
日本稲作が長江・江南から伝わったなんて言ってる頭のおかしな考古学者など一人もおりません。 >>246
「絶在 海中 洲㠀 之上 或絶 或連に続く「周旋 可 五千餘里」は、やはり船で回ればって意味じゃないか? ウェノム國は残虐でブラック
徴用工問題や性奴隷問題は今も行われている
倭奴!ウェノム! >>248
參・・・集める、集まる
参拝、神の前に集まる
参上、偉い人の前に集まる
参考、考えを集める
參に行くって意味はないんだよ。
聴いた話によれば倭地は1周が5000里
船なんてでてこないけど、陸地と海があるから途中は船が必要だろうね。 ウェノムは倭奴と書きます
奴隷のようなみすぼらしいジャップという意味
汚らしい中国人は垢奴といいます
衛星観念のない汚らしい中国人という意味になります ◆中国の釜
中国では新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈がみられた[1]。
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた[1]。
釜が再び使用されるようになるのは春秋時代晩期になってからである[1]。
http://ja.wikipedia.org/wiki/釜
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
. >>248
>「周旋 可 五千餘里」は、やはり船で回ればって意味じゃないか?
いや、単に萬二千里から半島沿岸の七千里を引いて五千里と言っているだけだから
舟で回ったりしない
半島南岸から対馬へ渡るところも含めて倭人の住む洲島が5千里の長さで、
あるいは絶え(海峡が挟まったり)あるいは連なり(本州のような大きな島もあり)続いている
という表現
戻る余裕はないよ >>252を見ても分かるように半島の人は頭おかしい >>256は、周旋の字面に引きずられてるだけ
三国志での周旋の用法に、一周するとか元の場所に戻るという用例はない
あと、現代でいう「周旋屋」の周旋の(斡旋に近い)意味で使われているところはある >>257
その解釈読んだけど内容は出鱈目だよ
確かに周旋には元の場所に戻るという意味はない
周旋の意味はグルグル回るだよ
一周だけなら元の所に戻るだけ
三国志での周旋の用法もグルグル回で解釈できる。 >>257
読むってのは字面を無視しちゃダメだろう? >>261
>周旋の意味はグルグル回るだよ
ぐるぐる回る五千里では意味が通らないじゃないか
直線距離ではなく、いろいろ寄りながら進むのが周旋だよ >>262
現代の日本語の意味(=字面)に引きずられちゃダメだってこと >>264
周旋は、他の意味もあるようだけど、ここは巡り回ることで、少なくとも一定の方向に進むことではないと思う。 倭国=女王国=狗邪韓國+ 對海(馬)國+一大國+ 末廬國+ 伊都國+ 奴國(1)+ 不彌國+ 投馬國+ 邪馬壹(臺)國+ 斯馬國+已百支國+伊邪國+都支國+彌奴國+好古都國+不呼國+姐奴國+對蘇國+蘇奴國+呼邑國+華奴蘇奴國+鬼國+爲吾國+鬼奴國+邪馬國+躬臣國+巴利國+支惟國+烏奴國+奴國(2)
で首都は邪馬壹(臺)國、奴国(1)と奴国(2)が同一国かそうでないかは不明(たぶん別)。
伊都国は地元の王がいる(ウェールズとイングランドのようなもの? ウェールズが伊都国、イングランドが邪馬台国)。 ◆中国の釜
中国では新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈がみられた[1]。
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた[1]。
釜が再び使用されるようになるのは春秋時代晩期になってからである[1]。
http://ja.wikipedia.org/wiki/釜
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
. >>264
周旋は寄ってもいいし寄らなくてもいい
とにかくグルグル回こと
一周以上しないと周旋にならない。 >>267
倭国=女王国=邪馬壹(臺)國=對海(馬)國+一大國+ 末廬國+ 伊都國+ 奴國+ 不彌國+ 斯馬國+已百支國+伊邪國+都支國+彌奴國+好古都國+不呼國+姐奴國+對蘇國+蘇奴國+呼邑國+華奴蘇奴國+鬼國+爲吾國+鬼奴國+邪馬國+躬臣國+巴利國+支惟國+烏奴國
で首都は 伊都國、2度出てくる奴国は同一の国。
伊都国は都で王がいる、奴国は女王国の中心国邑。
投馬國は邪馬壹(臺)國の北にあり、中心国邑は狗邪韓國。 >>270
×
邪馬台国と他の国は同じ書き方だから同格であるべき
首都は邪馬台国。
伊都国と邪馬台国への行程は異なる。
投馬国は邪馬台国より南に位置する。 >>269
>一周以上しないと周旋にならない。
そんな縛りはないんだって
三国志にも周旋は複数出てくるけれど、一周以上している例なんてないよ
あったら出してみて >>266
>少なくとも一定の方向に進むことではないと思う。
一定の決まった方向ではなく、あちこち寄りながら、
南東に行ったり東に行ったり南に行ったりして進んでいくんだよ >>274
曹仁傳
後豪杰并起 仁亦陰結少年 得千餘人 周旋淮 泗之間 遂從太祖為別部司馬 行事N校尉
淮水、泗水付近を周旋したけど、進んでないよ
グルグル回っただけ。 于是周旋青 徐 兗 豫之郊 東下壽春 南望江 湖
青州、徐州、兗州、豫州を何回か回つて東の壽春に下がる・・・。 >>275
>淮水、泗水付近を周旋したけど、進んでないよ
>グルグル回っただけ。
いや、先入観で読んでるだろ
淮水、泗水付近を周旋(いろいろ寄りながら進んで)するうちに
だよ
ぐるぐる回ったり行ったり来たりする必要がどこにもない >>276
>青州、徐州、兗州、豫州を何回か回つて東の壽春に下がる・・・。
青州、徐州、兗州、豫州の各所にいろいろ寄りながら進み、東の壽春に下がる・・・。 >>277
>>278
それは貴方のこじ付けでしょ。 >>275
淮水と泗水の間をぐるぐる回ったんだよ
何処に進むんだよw >>281
>>275
淮水、泗水の間を制圧してまわる。
>>276
食料を確保してまわる。 日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土するイネは、
中粒種と短粒種が約半々の割合で混交したもの。
ところが、日本の最古水田から出土した日本最古のイネの現物は短粒種のみ。
そして、日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土する耕作用農具は、
石耜という石刃のスキと、石鋤という日本には存在しない石刃の除草用農具と、
石犂という石刃の牛耕用の農具、この3つだけ。
ところが、日本の最古水田から出土した日本最古の耕作用農具は、
木製のエブリという地をならす農具と、木製のクワだけ。
石刃が伝わっていない上に、同期する中国と同じ耕作用農具が一つも
伝わっていないのだ。
それどころか、同期する中国には存在しない耕作用農具が日本最古の
耕作用農具として日本の最古水田には伝わってしまっている。
オール木製で。
しかも、鬲や鼎といった、三足や耳の付いた同期する中国系炊飯器も
日本の最古水田には一切伝わっていない。
日本稲作が中国から伝わったというような話は、太陽が西から昇って東に沈むと
言っているのと同じレヴェルの話である。
ちなみに、スキという耕作用農具が伝わったのは、最古水田から200年以上も
経ってからの事で、やはり木製であった。
石犂は5C頃に鉄刃のものが朝鮮経由で伝わるが、石鋤に至っては、木製でさえ
永遠に日本に伝わる事はなかったのである。 >>282
一度制圧して回ればワンウエイで済むことだろ
何度も制圧に戻るっていうのはその度に反乱が起きるのかい?
食糧の徴発も1回徴収した場所に何度も戻ってもしょうがないだろうに
周旋は回るっていう思い込みから速く開放されるといいね >>284
曹仁傳の場合は一度制圧しても反乱が起きる可能性があるから何回も回って完全に制圧し
太祖に認められるまで淮水、泗水間を徹底的に制圧したんだよ。
食料の場合は1回かもしれないがとにかく1周はしてるね
1周した後に東の壽春に下がる・・・。
思い込みじゃなくて周旋は回るっていう意味なんですよ。 気になる材料を羅列してみると、
渡来系弥生人骨はコンピュータ形質解析で朝鮮人骨とは一致せず、オロチ、
ギリヤークなどの沿海州の北方民族にかなり近寄った数値を示す人骨。
弥生土器が始まったのは最古水田・菜畑遺跡より50年以上前の山陰あたりで、
その土器は同期する沿海州南部の土器と特徴が一致している。
最古水田はイネの粒種、耕作用農具、炊飯器から考えて、明らかに朝鮮南部の影響で
始まっているのに、その人々はなぜか朝鮮土器を一つも作っていない。
複合的に考えて、まず沿海州あたりから渡来人の渡来があり、渡来後に朝鮮南部から
稲作をパクってきただけのように考えざるを得ない。 一周してないだろ?
于是周旋青 徐 兗 豫之郊 東下壽春
北に青州があってその東南が徐州、青州から見て南西に兗州、一番南に豫州がある
青 徐 兗 豫の順に進んだと書いてあるわけでもないけれど 魏志倭人伝は奴国から書き始めて奴国に終わっているから、回っているように読める。 最初の奴国と、最後の奴国は同名異国かあるいは欠字があると考える人も多い
彌奴國、姐奴國、蘇奴國、華奴蘇奴國、鬼奴國、烏奴國、と「○奴国」という国名も多いし
個人的には、次有「有奴國」だったんじゃないかと妄想している 勝手に都合よく原典を改変するなよ。
どう読んでも奴国から一回りして奴国に戻っている。 いやいや、最後の奴国は「此女王境界所盡」なんだぞ
伊都国と不彌國の間の奴国だったら女王国の境界が尽きるところになりようがないだろ?
それに、周旋は三国志では一周するとか元の場所に戻るとかいう意味で使われているところはない
伊都国の隣の奴国と、余傍国の最後の奴国(おそらくは○奴国の欠字)は確実に別の国 >>290は奴国が女王国より北にあると思ってるのかい?
それとも南にあると思っているのかい? >>288
行きは対馬海流に乗って日本海ルート
帰りは瀬戸内海ルートだから、当然廻ってるよ >>288
行きは対馬海流に乗って日本海ルート
帰りは瀬戸内海ルートだから、当然廻ってるよ >>288
行きは対馬海流に乗って日本海ルート
帰りは瀬戸内海ルートだから、当然廻ってるよ >>289
平地=ナ、だからね。
大きな国は平地(ナ)にできるので奴(ナ)の字がつく国が多い。
ちなみに奈良の語源もナらす(平地にする)
韓国でも国のことをナラという。 日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土するイネは、
中粒種と短粒種が約半々の割合で混交したもの。
ところが、日本の最古水田から出土した日本最古のイネの現物は短粒種のみ。
そして、日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土する耕作用農具は、
石耜という石刃のスキと、石鋤という日本には存在しない石刃の除草用農具と、
石犂という石刃の牛耕用の農具、この3つだけ。
ところが、日本の最古水田から出土した日本最古の耕作用農具は、
木製のエブリという地をならす農具と、木製のクワだけ。
石刃が伝わっていない上に、同期する中国と同じ耕作用農具が一つも
伝わっていないのだ。
それどころか、同期する中国には存在しない耕作用農具が日本最古の
耕作用農具として日本の最古水田には伝わってしまっている。
オール木製で。
しかも、鬲や鼎といった、三足や耳の付いた同期する中国系炊飯器も
日本の最古水田には一切伝わっていない。
日本稲作が中国から伝わったというような話は、太陽が西から昇って東に沈むと
言っているのと同じレヴェルの話である。
ちなみに、スキという耕作用農具が伝わったのは、最古水田から200年以上も
経ってからの事で、やはり木製であった。
石犂は5C頃に鉄刃のものが朝鮮経由で伝わるが、石鋤に至っては、木製でさえ
永遠に日本に伝わる事はなかったのである。 気になる材料を羅列してみると、
渡来系弥生人骨はコンピュータ形質解析で朝鮮人骨とは一致せず、オロチ、
ギリヤークなどの沿海州の北方民族にかなり近寄った数値を示す人骨。
弥生土器が始まったのは最古水田・菜畑遺跡より50年以上前の山陰あたりで、
その土器は同期する沿海州南部の土器と特徴が一致している。
最古水田はイネの粒種、耕作用農具、炊飯器から考えて、明らかに朝鮮南部の影響で
始まっているのに、その人々はなぜか朝鮮土器を一つも作っていない。
複合的に考えて、まず沿海州あたりから渡来人の渡来があり、渡来後に朝鮮南部から
稲作をパクってきただけのように考えざるを得ない。 日本が1600年前の古墳期にようやく竪穴式住居から抜け出したのに対し、
中国では8000年前にはすでに高床式住居が登場し、早くも竪穴式住居から抜け出していた。
その時代差、約6500年。
その後、中国では6000年前に木骨泥墻が登場し、早くも土壁の住居の時代に入り、
4000年前にはすでに戸建ての時代である。
商周より前の3500年前の王朝では宮殿建築なるものが花開き、2800年前には
瓦が登場し、早くも瓦屋根の戸建ての時代に入るのである。
縄文弥生を通して、日本にはこれら中国の住居が一切伝わっていない。
中国から渡来人があったなんてあり得ないのである。 >>304
いいえ同じです
万葉集の言葉は新羅や百済の言葉でした 長江下流域に龍が伝わったのは約5000年前。
「遼河文明」から伝播したと思われる、約5000年前の長江下流域・良渚(りょうしょ)遺跡の玉龍も、
角と耳がありイノシシの顔だ。
http://www.seibutsushi.net/blog/2012/01/1238.html
. >>305>>308
お前に最適な言葉を贈ろう
根 拠 の な い 推 論 は 妄 想 以 外 の 何 物 で も な い
古朝鮮語は扶余語族に属し、近世朝鮮語はモンゴル語群のコリョマルの発展だと韓国国内でも認知されている 扶余族つまり百済の言葉と、兄弟国家である倭の言葉が似ていたのは当然。
ただし、現代韓国語とは関係ない。 >>307
>百済語ってほとんど不明の言語なのに
百済語で、現在確認できるのは、日本書紀の中の百済の人名と地名くらいしかないよな
日本書紀の倭人の人名は、日本語で理解可能なのに、百済人の名前は意味が分からないから
やはり百済語と日本語は別という理解でよいと思う 畿内説スレでフルボッコだからといって、こんなところで憂さ晴らしかい? >>314
九州説は妄想なんだから、畿内説スレに限らずフルボッコだろ?w 倭の奴国のことを、倭奴国って書いてるだけなんだからどうしようもないだろ
大陸の言語に助詞は基本的にないんだから 日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土するイネは、
中粒種と短粒種が約半々の割合で混交したもの。
ところが、日本の最古水田から出土した日本最古のイネの現物は短粒種のみ。
そして、日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土する耕作用農具は、
石耜という石刃のスキと、石鋤という日本には存在しない石刃の除草用農具と、
石犂という石刃の牛耕用の農具、この3つだけ。
ところが、日本の最古水田から出土した日本最古の耕作用農具は、
木製のエブリという地をならす農具と、木製のクワだけ。
石刃が伝わっていない上に、同期する中国と同じ耕作用農具が一つも
伝わっていないのだ。
それどころか、同期する中国には存在しない耕作用農具が日本最古の
耕作用農具として日本の最古水田には伝わってしまっている。
オール木製で。
しかも、鬲や鼎といった、三足や耳の付いた同期する中国系炊飯器も
日本の最古水田には一切伝わっていない。
日本稲作が中国から伝わったというような話は、太陽が西から昇って東に沈むと
言っているのと同じレヴェルの話である。
ちなみに、スキという耕作用農具が伝わったのは、最古水田から200年以上も
経ってからの事で、やはり木製であった。
石犂は5C頃に鉄刃のものが朝鮮経由で伝わるが、石鋤に至っては、木製でさえ
永遠に日本に伝わる事はなかったのである。 >>318
>考古学的には伊都国の時代。
それ、いつだよ?w >>320
三雲南小路遺跡や井原鑓溝遺跡、平原遺跡など、いわゆる弥生王墓が糸島平野に作られた時代だよ。
年代推定には幅があるけれど、概ね後漢の時代と考えられている。
その頃の倭の王都は福岡平野ではなく糸島平野だったということ。 日本が1600年前の古墳期にようやく竪穴式住居から抜け出したのに対し、
中国では8000年前にはすでに高床式住居が登場し、早くも竪穴式住居から抜け出していた。
その時代差、約6500年。
その後、中国では6000年前に木骨泥墻が登場し、早くも土壁の住居の時代に入り、
4000年前にはすでに戸建ての時代である。
商周より前の3500年前の王朝では宮殿建築なるものが花開き、2800年前には
瓦が登場し、早くも瓦屋根の戸建ての時代に入るのである。
縄文弥生を通して、日本にはこれら中国の住居が一切伝わっていない。
中国から渡来人があったなんてあり得ないのである。 倭奴国=ウェノム国ですね♪
ジャップにお似合いです
なぜなら隣国を侵略して反省の思いが全くないからです 倭人=日本人 倭国=日本
そんなわけ無いだろ
その時代に大和王朝何て無いんだから 大和王朝に皇帝はいない。でも日本国が倭国を先祖の功績として皇帝にしたんだよ。 大和朝廷は倭奴(ウェノム)を征服した百済の将軍が建国したんだろうね 倭と大和と日本をヤマトと読む和製国号
日本はシナチョンと文明違うんだよな 長江下流域に龍が伝わったのは約5000年前。
「遼河文明」から伝播したと思われる、約5000年前の長江下流域・良渚(りょうしょ)遺跡の玉龍も、
角と耳がありイノシシの顔だ。
http://www.seibutsushi.net/blog/2012/01/1238.html
. >>328
いや
今に伝わる天皇家は
白村江の戦いで勝利した唐と新羅だろ
武則天が天皇と初めて称した皇帝何だから
それまでオオキミだったのに天皇になり
壬神の乱以降 儀式も様式も中国化
律令制度に中央集権 中国と全く同じ
その時 アマテラスが突然露る
アマテラスは武則天の事だろ
まさに天孫降臨
中国からやってきたのだから 白村江以降は傀儡政権なんだろうけど、血統は倭国の王族の一部なんだろう。
宗家ではなく分家筋の。
だから旧唐書では日本は倭の一部だったが、逆に倭を併合したと書いてあるわけだ。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています