倭奴国はあっても倭の奴国なんてなかった説
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倭奴国が発展したもの大和政権そして日本という事でよろしいかな?
韓国でも中国では今でも日本人を倭奴と呼んでいるけど、それは倭奴国から日本までの政体の連続性を認識していたからなんだよなな。
アジアの人達の認識は正しかったわけだ。 >>50
金印を送られる程だから倭奴国は九州北部=福岡平野+筑紫平野くらいの規模はあったんじゃないか
その後南から勢力を伸ばしてきた邪馬台国に従属して、九州北部の監察と大陸との交易の要所として
福岡平野を伊都国として独立させられたのではないかと
さらにその南の狗奴国と争っていたが、狗奴国から一勢力が畿内へ東遷してやがて四方へ勢力を広げ、
ついに九州全土を併合したが中国との関係を考慮して倭や邪馬台の名を受け継いだ(というか中国側
に対して偽称した)
のではないかと推測 伊都が独立って、なんだよ。
意味わからん。
狗奴国が大きくなりすぎた倭国から独立したならわかるけど。
伊都は倭国の中枢だろ。 >>55
元は(倭)奴国の一部(おそらく中心地)だったのが
国として独立したってこと
規模の小さい伊都国が重要視されていることと
その隣に巨大な奴国があることについての説明でもある >>57
じゃあ周りの国はどうなったんだ?
ワケワカメ >>59
元々倭国に従属していたのもあれば
元々邪馬台国に従属していたものをあるだろう
いずれにせよ「其余傍国」扱いで名前を列挙しているだけで
重要と見なされていないので特に言及することはないな >>62
そういえば記紀で隼人に犬の遠吠えをさせてたな
記紀は狗奴国を意識してそう書いた可能性もあるかな >>63
>>61のことを言っているのならば
そこの「倭国」は「倭奴国」の間違いだ、すまん でも”奴”という字はヌヒという意味でしょ?
結局、中国人は他の地域を自分らに隷属する人間としか考えてなかったんだろうね。
その考え方はいまだに続いているよね。
欧米人でさえ下に見ている。 >>75
倭奴国という名称にそのようなニュアンスがあることは認める。
で、倭奴国は倭の代表でいいよね? 奴の字で表されたnaという倭語自体は「〜の」という意味かもしれんけどな
(倭奴(わな)国で「我が国」という意味)
https://kobun.weblio.jp/content/%E3%81%AA
な
格助詞
《接続》体言に付く。〔連体修飾語を作る〕…の。
出典
万葉集 八〇二
「いづくより来(きた)りしものそまなかひにもとなかかりて安眠(やすい)し寝(な)さぬ」[訳] ⇒うりはめば…。
参考
同義の「つ」よりも固定化しており、「港(水(み)な門(と))」「眼(目(ま)な子)」「源(水(み)な元)」「掌(手(た)な心(ごころ))」など、現在でも複合語中にわずかに残っている。上代語。 倭奴=ウェノム
今でもジャップというニュアンスで使いますよ 現代でもアイヌを含め北海道から沖縄までY染色体はD系統が多い。
魏志倭人伝には倭人はアイヌと同じように入れ墨をしていたと書かれている。
このように弥生以降でも風俗風習はよく似ていた。
日本全体がアイヌと言っていたのが、他の勢力が入ってきて少しずつ
アイヌと言わない地域が増え、最終的に北海道東北の一部だけになったと
考えることはできる。 >>87
弥生人は支配階層だろうね。
でも、倭奴国はその支配階層だから、やはりアイヌと呼ぶのは適切ではない。 倭奴 = 委奴 = ヰド(ト) = イト = 伊都 >>89
ウェノムは実際には日本人じゃなくて全羅道あたりの田舎者への蔑称なんだよね アイヌという呼称がいつからあるのかはわからないからね 今だ!100ゲットォォォォ!!
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄∨ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ (´´
∧∧ ) (´⌒(´
⊂(゚Д゚⊂⌒`つ≡≡≡(´⌒;;;≡≡≡
 ̄ ̄ (´⌒(´⌒;;
ズザーーーーーッ >>93
アイヌとイヌイットは4万年前に同じ祖先から分かれた。
アイヌはアイヌ語で人という意味でイヌイットとはイヌイット語で人々という意味。
二つの言葉は同じ意味で発音も似ているところから民族が分かれた4万年前から
あったと考えられる。当然2千年前にアイヌという名辞はあったことになる。 >>101
特定民族の自称になったのが17世紀で
それ以前は単語はあっても単に人間って意味だろ
そもそも四万年も前の単語を「こうだ」と断定するようなアホは電波説でトンデモ説
まともな学説じゃない >>92
いいえ日本人に対して使います。倭奴です。
そして中国人には垢奴と言います。 >>102
だから、アイヌもイヌイットも特定民族を表す言葉だろうがw
二つの言葉は4万年前から人という意味と自国民族を表す言葉として使っていたと
考えるのが自然だろう。
言い忘れたが、イヌイットはイヌが人でイットが複数の意味を持つ。
とすれば二千年前はアイヌではなくイヌと言っていたとも考えられるから
委奴はアイヌという説の可能性が高くなる。 >>104
ぷ、逆ギレしてやんのw
同じことを繰り返すのは反論とはいわないよ〜ん 卑弥呼登場までの王墓は筑前にのみ存在する。
筑後は祇園山古墳がギリギリ3世紀後半から4世紀前半。
肥後は5世紀になってから。
肥前豊前などは筑前に近すぎるがために早期から衛星国となり、
支配者は筑前に在住していたのだろう。
考古学的には、各地に王が乱立して、次第に統合されたのではなく、
筑前に王が出現し、筑前から各地を併合して支配官を配していったことが明らかである。
九州説者がよく指摘する
「其國本亦以男子為王 住七八十年」
は非常に重要な情報である。
邪馬台国の比定地は、卑弥呼登場に伴って突然王墓など栄える場所ではなく、
卑弥呼以前から男王が存在した王家の地なのである。
その条件を満たす場所は、
三雲南小路→井原鑓溝の男王墓から、
平原女王墓へと連続する伊都のみである。
邪馬台国とは、伊都を首都とする北部九州〜対馬海峡国家であったことは
考古学的にも文献学的にも疑う余地が全く無い。 だから伊都に書き換えたんだろ。
倭国の王都にふさわしい表記に。 とても簡単な稼ぐことができるホームページ
念のためにのせておきます
検索してみよう『立木のボボトイテテレ』
LEY >>110
>だから伊都に書き換えたんだろ。
>倭国の王都にふさわしい表記に。
その書き換えを大陸王朝がする理由がない
大陸王朝からすればあくまで東夷なんだから、卑字を使うのがある意味当然 倭人は字を読めない(文字を知らない)と書かれているくらいだから
倭人に見せるつもりは端からないし 日本人が昔は正式にウェノム国だったのはお笑い
倭奴ですよウェノムwwww >>112
倭奴はよろしくない、伊都に書き換えようだから
魏志倭人伝の時代には倭には漢字の読める者が居たってことだな
お雇い漢人かもしれないけど
上奏文とかも書いてたんだな。 日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土するイネは、
中粒種と単粒種が約半々の割合で混交したもの。
ところが、日本の最古水田から出土した日本最古のイネの現物は単粒種のみ。
そして、日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土する耕作用農具は、
石耜という石刃のスキと、石鋤という日本には存在しない石刃の除草用農具と、
石犂という石刃の牛耕用の農具、この3つだけ。
ところが、日本の最古水田から出土した日本最古の耕作用農具は、
木製のエブリという地をならす農具と、木製のクワだけ。
石刃が伝わっていない上に、同期する中国と同じ耕作用農具が一つも
伝わっていないのだ。
それどころか、同期する中国には存在しない耕作用農具が日本最古の
耕作用農具として日本の最古水田には伝わってしまっている。
オール木製で。
しかも、鬲や鼎といった、三足や耳の付いた同期する中国系炊飯器も
日本の最古水田には一切伝わっていない。
日本稲作が中国から伝わったというような話は、太陽が西から昇って東に沈むと
言っているのと同じレヴェルの話である。
ちなみに、スキという耕作用農具が伝わったのは、最古水田から200年以上も
経ってからの事で、やはり木製であった。
石犂は5C頃に鉄刃のものが朝鮮経由で伝わるが、石鋤に至っては、木製でさえ、
永遠に日本に伝わる事はなかったのである。 >>116
「卑」彌呼、「邪」馬臺國という卑字を、王名、王都名に使っている史書に、それは通らない
繰り返すが、史書を書く側に、倭人に気を使う動機が一切ない
中華から見た東夷は、文字通り夷人の国だよ 中華が気を使ったのではなく、倭人が国邑の名を聞かれた時に、伊都と漢字表記付きで回答したのだろう。 気になる材料を羅列してみると、
渡来系弥生人骨は朝鮮人骨とは一致せず、オロチ、ギリヤークなどの沿海州の
北方民族にかなり近寄った数値を示す人骨。
弥生土器が始まったのは最古水田・菜畑遺跡より50年以上前の山陰あたりで、
その土器は同期する沿海州南部の土器と特徴が一致している。
最古水田はイネの粒種、耕作用農具、炊飯器から考えて、明らかに朝鮮南部の影響で
始まっているのに、その人々はなぜか朝鮮土器を一つも作っていない。
複合的に考えて、まず沿海州あたりから渡来人の渡来があり、渡来後に朝鮮南部から
稲作をパクってきただけのように考えざるを得ない。 >>121、>>122
本気で言ってるの?
中華思想を甘く見てるとしか思えない 日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土するイネは、
中粒種と単粒種が約半々の割合で混交したもの。
ところが、日本の最古水田から出土した日本最古のイネの現物は単粒種のみ。
そして、日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土する耕作用農具は、
石耜という石刃のスキと、石鋤という日本には存在しない石刃の除草用農具と、
石犂という石刃の牛耕用の農具、この3つだけ。
ところが、日本の最古水田から出土した日本最古の耕作用農具は、
木製のエブリという地をならす農具と、木製のクワだけ。
石刃が伝わっていない上に、同期する中国と同じ耕作用農具が一つも
伝わっていないのだ。
それどころか、同期する中国には存在しない耕作用農具が日本最古の
耕作用農具として日本の最古水田には伝わってしまっている。
オール木製で。
しかも、鬲や鼎といった、三足や耳の付いた同期する中国系炊飯器も
日本の最古水田には一切伝わっていない。
日本稲作が中国から伝わったというような話は、太陽が西から昇って東に沈むと
言っているのと同じレヴェルの話である。
ちなみに、スキという耕作用農具が伝わったのは、最古水田から200年以上も
経ってからの事で、やはり木製であった。
石犂は5C頃に鉄刃のものが朝鮮経由で伝わるが、石鋤に至っては、木製でさえ、
永遠に日本に伝わる事はなかったのである。 なんで「倭国の極南界」などと誤読するんだろうな
倭国これ極南界なり
だろw 邪馬台とか言ってる時点でそんな馬鹿のいうことを信じるわけがない 後漢書東夷列伝
建武中元二年,倭奴國奉貢朝賀,使人自稱大夫,倭國之極南界也。光武賜以印綬
倭奴国が朝貢した、・・・・・・・・・・、 倭国の南端なり。光武帝印綬を賜うた なんで「倭国の極南界」などと誤読するんだろうな
倭国これ極南界なり
だろw >>124
日本列島人にとって、必要不可欠なものは伝わるが、不必要なものは伝わらない。
必要不可欠なもの
*短粒種米と水田・中粒種米と畑作はBC4500年までに日本列島に伝わっている。
*多量の穀物保存用の高床式倉庫・湿気防止とネズミ対策
収穫量の少ない初期水田耕作では高床式倉庫は不用
不必要なもの
*炊飯器・縄文土器で代用できる
*石刃製農具・大規模畑作用農具は不用(狭い水田の泥土は柔らかいから)
*高床式住居・冬は寒く夏は暑い 竪穴式住居は冬暖かく夏涼しい
竪穴式住居の穴の深さについて
満州東部(挹婁)>朝鮮半島南部(韓地 土牢状)>壱岐>玄界灘沿岸>播州平野>大阪湾岸平野≒筑紫平野
冬季の寒冷程度に対応している。 日本が1600年前の古墳期にようやく竪穴式住居から抜け出したのに対し、
中国では8000年前にはすでに高床式住居が登場し、早くも竪穴式住居から抜け出していた。
その時代差、約6500年。
その後、中国では6000年前に木骨泥墻が登場し、早くも土壁の住居の時代に入り、
4000年前にはすでに戸建ての時代である。
商周より前の3500年前の王朝では宮殿建築なるものが花開き、2800年前には
瓦が登場し、早くも瓦屋根の戸建ての時代に入るのである。
縄文弥生を通して、日本にはこれら中国の住居が一切伝わっていない。
中国から渡来人があったなんてあり得ないのである。 日本が金印を貰ってる頃、半島は小さな国が分立してただけだから 日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土するイネは、
中粒種と短粒種が約半々の割合で混交したもの。
ところが、日本の最古水田から出土した日本最古のイネの現物は短粒種のみ。
そして、日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土する耕作用農具は、
石耜という石刃のスキと、石鋤という日本には存在しない石刃の除草用農具と、
石犂という石刃の牛耕用の農具、この3つだけ。
ところが、日本の最古水田から出土した日本最古の耕作用農具は、
木製のエブリという地をならす農具と、木製のクワだけ。
石刃が伝わっていない上に、同期する中国と同じ耕作用農具が一つも
伝わっていないのだ。
それどころか、同期する中国には存在しない耕作用農具が日本最古の
耕作用農具として日本の最古水田には伝わってしまっている。
オール木製で。
しかも、鬲や鼎といった、三足や耳の付いた同期する中国系炊飯器も
日本の最古水田には一切伝わっていない。
日本稲作が中国から伝わったというような話は、太陽が西から昇って東に沈むと
言っているのと同じレヴェルの話である。
ちなみに、スキという耕作用農具が伝わったのは、最古水田から200年以上も
経ってからの事で、やはり木製であった。
石犂は5C頃に鉄刃のものが朝鮮経由で伝わるが、石鋤に至っては、木製でさえ、
永遠に日本に伝わる事はなかったのである。 >>138
印綬されたときに日本なんて国は存在してません
歴史をもっと勉強しましょうね(笑) 両立なんてしてないよ
どこのトンデモだ?
日本を名乗ったのは、天武持統朝の大和朝廷
日本と名乗る前は何百年もその政権が倭国の代表 旧唐書
倭国はいにしえの倭奴国のことである。
四方の小島五十余国は皆、倭国に属していた。倭国の王の姓は阿毎(あま・あめ)氏で、一大率を諸国において検察させている。小島の諸国はこれを畏怖している。
日本国は倭国の別種である。
その国は日の昇る方にあるので、「日本」という名前をつけている。
あるいは「倭国がみずからその名前が優雅でないのを嫌がって、改めて日本とつけた」ともいう。
またあるいは「日本は古くは小国だったが、倭国の地を併合した」とも。
新唐書
王姓は阿毎氏、自ら言うには、初めの主は天御中主と号し、彦瀲に至り、およそ三十二世、皆が「尊」を号として、筑紫城に居住する。
彦瀲の子の神武が立ち、あらためて「天皇」と呼ぶようになり、都を大和州に遷した。 気になる材料を羅列してみると、
渡来系弥生人骨はコンピュータ形質解析で朝鮮人骨とは一致せず、オロチ、
ギリヤークなどの沿海州の北方民族にかなり近寄った数値を示す人骨。
弥生土器が始まったのは最古水田・菜畑遺跡より50年以上前の山陰あたりで、
その土器は同期する沿海州南部の土器と特徴が一致している。
最古水田はイネの粒種、耕作用農具、炊飯器から考えて、明らかに朝鮮南部の影響で
始まっているのに、その人々はなぜか朝鮮土器を一つも作っていない。
複合的に考えて、まず沿海州あたりから渡来人の渡来があり、渡来後に朝鮮南部から
稲作をパクってきただけのように考えざるを得ない。 日本ってのは7世紀後半になってから出てきた言葉
日本って言葉ができたときにそのまま日本列島を指してるとは限らんしね
倭も同様に日本列島だけを指してる言葉じゃないからな
祢軍墓誌
日本餘?據扶桑以逋誅
訳 日本の残党は扶桑(日本列島)に閉じこもり罰を逃れる 後漢書→桓帝霊帝期の倭国大乱
魏志→邪馬台国女王卑弥呼と壹与が倭をまとめる
北史と晋書〜梁書→晋に朝貢した倭の女王の後に男王が立つ、倭の五王が朝鮮半島に進出
好太王碑文→倭が渡海して新羅、百済を侵略
隋書→新羅、百済が倭に朝貢
全部繋がってるじゃん 白村江で負けるまでの倭国は全て筑紫のこと。
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