倭奴国はあっても倭の奴国なんてなかった説
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でも”奴”という字はヌヒという意味でしょ?
結局、中国人は他の地域を自分らに隷属する人間としか考えてなかったんだろうね。
その考え方はいまだに続いているよね。
欧米人でさえ下に見ている。 >>75
倭奴国という名称にそのようなニュアンスがあることは認める。
で、倭奴国は倭の代表でいいよね? 奴の字で表されたnaという倭語自体は「〜の」という意味かもしれんけどな
(倭奴(わな)国で「我が国」という意味)
https://kobun.weblio.jp/content/%E3%81%AA
な
格助詞
《接続》体言に付く。〔連体修飾語を作る〕…の。
出典
万葉集 八〇二
「いづくより来(きた)りしものそまなかひにもとなかかりて安眠(やすい)し寝(な)さぬ」[訳] ⇒うりはめば…。
参考
同義の「つ」よりも固定化しており、「港(水(み)な門(と))」「眼(目(ま)な子)」「源(水(み)な元)」「掌(手(た)な心(ごころ))」など、現在でも複合語中にわずかに残っている。上代語。 倭奴=ウェノム
今でもジャップというニュアンスで使いますよ 現代でもアイヌを含め北海道から沖縄までY染色体はD系統が多い。
魏志倭人伝には倭人はアイヌと同じように入れ墨をしていたと書かれている。
このように弥生以降でも風俗風習はよく似ていた。
日本全体がアイヌと言っていたのが、他の勢力が入ってきて少しずつ
アイヌと言わない地域が増え、最終的に北海道東北の一部だけになったと
考えることはできる。 >>87
弥生人は支配階層だろうね。
でも、倭奴国はその支配階層だから、やはりアイヌと呼ぶのは適切ではない。 倭奴 = 委奴 = ヰド(ト) = イト = 伊都 >>89
ウェノムは実際には日本人じゃなくて全羅道あたりの田舎者への蔑称なんだよね アイヌという呼称がいつからあるのかはわからないからね 今だ!100ゲットォォォォ!!
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄∨ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ (´´
∧∧ ) (´⌒(´
⊂(゚Д゚⊂⌒`つ≡≡≡(´⌒;;;≡≡≡
 ̄ ̄ (´⌒(´⌒;;
ズザーーーーーッ >>93
アイヌとイヌイットは4万年前に同じ祖先から分かれた。
アイヌはアイヌ語で人という意味でイヌイットとはイヌイット語で人々という意味。
二つの言葉は同じ意味で発音も似ているところから民族が分かれた4万年前から
あったと考えられる。当然2千年前にアイヌという名辞はあったことになる。 >>101
特定民族の自称になったのが17世紀で
それ以前は単語はあっても単に人間って意味だろ
そもそも四万年も前の単語を「こうだ」と断定するようなアホは電波説でトンデモ説
まともな学説じゃない >>92
いいえ日本人に対して使います。倭奴です。
そして中国人には垢奴と言います。 >>102
だから、アイヌもイヌイットも特定民族を表す言葉だろうがw
二つの言葉は4万年前から人という意味と自国民族を表す言葉として使っていたと
考えるのが自然だろう。
言い忘れたが、イヌイットはイヌが人でイットが複数の意味を持つ。
とすれば二千年前はアイヌではなくイヌと言っていたとも考えられるから
委奴はアイヌという説の可能性が高くなる。 >>104
ぷ、逆ギレしてやんのw
同じことを繰り返すのは反論とはいわないよ〜ん 卑弥呼登場までの王墓は筑前にのみ存在する。
筑後は祇園山古墳がギリギリ3世紀後半から4世紀前半。
肥後は5世紀になってから。
肥前豊前などは筑前に近すぎるがために早期から衛星国となり、
支配者は筑前に在住していたのだろう。
考古学的には、各地に王が乱立して、次第に統合されたのではなく、
筑前に王が出現し、筑前から各地を併合して支配官を配していったことが明らかである。
九州説者がよく指摘する
「其國本亦以男子為王 住七八十年」
は非常に重要な情報である。
邪馬台国の比定地は、卑弥呼登場に伴って突然王墓など栄える場所ではなく、
卑弥呼以前から男王が存在した王家の地なのである。
その条件を満たす場所は、
三雲南小路→井原鑓溝の男王墓から、
平原女王墓へと連続する伊都のみである。
邪馬台国とは、伊都を首都とする北部九州〜対馬海峡国家であったことは
考古学的にも文献学的にも疑う余地が全く無い。 だから伊都に書き換えたんだろ。
倭国の王都にふさわしい表記に。 とても簡単な稼ぐことができるホームページ
念のためにのせておきます
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LEY >>110
>だから伊都に書き換えたんだろ。
>倭国の王都にふさわしい表記に。
その書き換えを大陸王朝がする理由がない
大陸王朝からすればあくまで東夷なんだから、卑字を使うのがある意味当然 倭人は字を読めない(文字を知らない)と書かれているくらいだから
倭人に見せるつもりは端からないし 日本人が昔は正式にウェノム国だったのはお笑い
倭奴ですよウェノムwwww >>112
倭奴はよろしくない、伊都に書き換えようだから
魏志倭人伝の時代には倭には漢字の読める者が居たってことだな
お雇い漢人かもしれないけど
上奏文とかも書いてたんだな。 日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土するイネは、
中粒種と単粒種が約半々の割合で混交したもの。
ところが、日本の最古水田から出土した日本最古のイネの現物は単粒種のみ。
そして、日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土する耕作用農具は、
石耜という石刃のスキと、石鋤という日本には存在しない石刃の除草用農具と、
石犂という石刃の牛耕用の農具、この3つだけ。
ところが、日本の最古水田から出土した日本最古の耕作用農具は、
木製のエブリという地をならす農具と、木製のクワだけ。
石刃が伝わっていない上に、同期する中国と同じ耕作用農具が一つも
伝わっていないのだ。
それどころか、同期する中国には存在しない耕作用農具が日本最古の
耕作用農具として日本の最古水田には伝わってしまっている。
オール木製で。
しかも、鬲や鼎といった、三足や耳の付いた同期する中国系炊飯器も
日本の最古水田には一切伝わっていない。
日本稲作が中国から伝わったというような話は、太陽が西から昇って東に沈むと
言っているのと同じレヴェルの話である。
ちなみに、スキという耕作用農具が伝わったのは、最古水田から200年以上も
経ってからの事で、やはり木製であった。
石犂は5C頃に鉄刃のものが朝鮮経由で伝わるが、石鋤に至っては、木製でさえ、
永遠に日本に伝わる事はなかったのである。 >>116
「卑」彌呼、「邪」馬臺國という卑字を、王名、王都名に使っている史書に、それは通らない
繰り返すが、史書を書く側に、倭人に気を使う動機が一切ない
中華から見た東夷は、文字通り夷人の国だよ 中華が気を使ったのではなく、倭人が国邑の名を聞かれた時に、伊都と漢字表記付きで回答したのだろう。 気になる材料を羅列してみると、
渡来系弥生人骨は朝鮮人骨とは一致せず、オロチ、ギリヤークなどの沿海州の
北方民族にかなり近寄った数値を示す人骨。
弥生土器が始まったのは最古水田・菜畑遺跡より50年以上前の山陰あたりで、
その土器は同期する沿海州南部の土器と特徴が一致している。
最古水田はイネの粒種、耕作用農具、炊飯器から考えて、明らかに朝鮮南部の影響で
始まっているのに、その人々はなぜか朝鮮土器を一つも作っていない。
複合的に考えて、まず沿海州あたりから渡来人の渡来があり、渡来後に朝鮮南部から
稲作をパクってきただけのように考えざるを得ない。 >>121、>>122
本気で言ってるの?
中華思想を甘く見てるとしか思えない 日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土するイネは、
中粒種と単粒種が約半々の割合で混交したもの。
ところが、日本の最古水田から出土した日本最古のイネの現物は単粒種のみ。
そして、日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土する耕作用農具は、
石耜という石刃のスキと、石鋤という日本には存在しない石刃の除草用農具と、
石犂という石刃の牛耕用の農具、この3つだけ。
ところが、日本の最古水田から出土した日本最古の耕作用農具は、
木製のエブリという地をならす農具と、木製のクワだけ。
石刃が伝わっていない上に、同期する中国と同じ耕作用農具が一つも
伝わっていないのだ。
それどころか、同期する中国には存在しない耕作用農具が日本最古の
耕作用農具として日本の最古水田には伝わってしまっている。
オール木製で。
しかも、鬲や鼎といった、三足や耳の付いた同期する中国系炊飯器も
日本の最古水田には一切伝わっていない。
日本稲作が中国から伝わったというような話は、太陽が西から昇って東に沈むと
言っているのと同じレヴェルの話である。
ちなみに、スキという耕作用農具が伝わったのは、最古水田から200年以上も
経ってからの事で、やはり木製であった。
石犂は5C頃に鉄刃のものが朝鮮経由で伝わるが、石鋤に至っては、木製でさえ、
永遠に日本に伝わる事はなかったのである。 なんで「倭国の極南界」などと誤読するんだろうな
倭国これ極南界なり
だろw 邪馬台とか言ってる時点でそんな馬鹿のいうことを信じるわけがない 後漢書東夷列伝
建武中元二年,倭奴國奉貢朝賀,使人自稱大夫,倭國之極南界也。光武賜以印綬
倭奴国が朝貢した、・・・・・・・・・・、 倭国の南端なり。光武帝印綬を賜うた なんで「倭国の極南界」などと誤読するんだろうな
倭国これ極南界なり
だろw >>124
日本列島人にとって、必要不可欠なものは伝わるが、不必要なものは伝わらない。
必要不可欠なもの
*短粒種米と水田・中粒種米と畑作はBC4500年までに日本列島に伝わっている。
*多量の穀物保存用の高床式倉庫・湿気防止とネズミ対策
収穫量の少ない初期水田耕作では高床式倉庫は不用
不必要なもの
*炊飯器・縄文土器で代用できる
*石刃製農具・大規模畑作用農具は不用(狭い水田の泥土は柔らかいから)
*高床式住居・冬は寒く夏は暑い 竪穴式住居は冬暖かく夏涼しい
竪穴式住居の穴の深さについて
満州東部(挹婁)>朝鮮半島南部(韓地 土牢状)>壱岐>玄界灘沿岸>播州平野>大阪湾岸平野≒筑紫平野
冬季の寒冷程度に対応している。 日本が1600年前の古墳期にようやく竪穴式住居から抜け出したのに対し、
中国では8000年前にはすでに高床式住居が登場し、早くも竪穴式住居から抜け出していた。
その時代差、約6500年。
その後、中国では6000年前に木骨泥墻が登場し、早くも土壁の住居の時代に入り、
4000年前にはすでに戸建ての時代である。
商周より前の3500年前の王朝では宮殿建築なるものが花開き、2800年前には
瓦が登場し、早くも瓦屋根の戸建ての時代に入るのである。
縄文弥生を通して、日本にはこれら中国の住居が一切伝わっていない。
中国から渡来人があったなんてあり得ないのである。 日本が金印を貰ってる頃、半島は小さな国が分立してただけだから 日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土するイネは、
中粒種と短粒種が約半々の割合で混交したもの。
ところが、日本の最古水田から出土した日本最古のイネの現物は短粒種のみ。
そして、日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土する耕作用農具は、
石耜という石刃のスキと、石鋤という日本には存在しない石刃の除草用農具と、
石犂という石刃の牛耕用の農具、この3つだけ。
ところが、日本の最古水田から出土した日本最古の耕作用農具は、
木製のエブリという地をならす農具と、木製のクワだけ。
石刃が伝わっていない上に、同期する中国と同じ耕作用農具が一つも
伝わっていないのだ。
それどころか、同期する中国には存在しない耕作用農具が日本最古の
耕作用農具として日本の最古水田には伝わってしまっている。
オール木製で。
しかも、鬲や鼎といった、三足や耳の付いた同期する中国系炊飯器も
日本の最古水田には一切伝わっていない。
日本稲作が中国から伝わったというような話は、太陽が西から昇って東に沈むと
言っているのと同じレヴェルの話である。
ちなみに、スキという耕作用農具が伝わったのは、最古水田から200年以上も
経ってからの事で、やはり木製であった。
石犂は5C頃に鉄刃のものが朝鮮経由で伝わるが、石鋤に至っては、木製でさえ、
永遠に日本に伝わる事はなかったのである。 >>138
印綬されたときに日本なんて国は存在してません
歴史をもっと勉強しましょうね(笑) 両立なんてしてないよ
どこのトンデモだ?
日本を名乗ったのは、天武持統朝の大和朝廷
日本と名乗る前は何百年もその政権が倭国の代表 旧唐書
倭国はいにしえの倭奴国のことである。
四方の小島五十余国は皆、倭国に属していた。倭国の王の姓は阿毎(あま・あめ)氏で、一大率を諸国において検察させている。小島の諸国はこれを畏怖している。
日本国は倭国の別種である。
その国は日の昇る方にあるので、「日本」という名前をつけている。
あるいは「倭国がみずからその名前が優雅でないのを嫌がって、改めて日本とつけた」ともいう。
またあるいは「日本は古くは小国だったが、倭国の地を併合した」とも。
新唐書
王姓は阿毎氏、自ら言うには、初めの主は天御中主と号し、彦瀲に至り、およそ三十二世、皆が「尊」を号として、筑紫城に居住する。
彦瀲の子の神武が立ち、あらためて「天皇」と呼ぶようになり、都を大和州に遷した。 気になる材料を羅列してみると、
渡来系弥生人骨はコンピュータ形質解析で朝鮮人骨とは一致せず、オロチ、
ギリヤークなどの沿海州の北方民族にかなり近寄った数値を示す人骨。
弥生土器が始まったのは最古水田・菜畑遺跡より50年以上前の山陰あたりで、
その土器は同期する沿海州南部の土器と特徴が一致している。
最古水田はイネの粒種、耕作用農具、炊飯器から考えて、明らかに朝鮮南部の影響で
始まっているのに、その人々はなぜか朝鮮土器を一つも作っていない。
複合的に考えて、まず沿海州あたりから渡来人の渡来があり、渡来後に朝鮮南部から
稲作をパクってきただけのように考えざるを得ない。 日本ってのは7世紀後半になってから出てきた言葉
日本って言葉ができたときにそのまま日本列島を指してるとは限らんしね
倭も同様に日本列島だけを指してる言葉じゃないからな
祢軍墓誌
日本餘?據扶桑以逋誅
訳 日本の残党は扶桑(日本列島)に閉じこもり罰を逃れる 後漢書→桓帝霊帝期の倭国大乱
魏志→邪馬台国女王卑弥呼と壹与が倭をまとめる
北史と晋書〜梁書→晋に朝貢した倭の女王の後に男王が立つ、倭の五王が朝鮮半島に進出
好太王碑文→倭が渡海して新羅、百済を侵略
隋書→新羅、百済が倭に朝貢
全部繋がってるじゃん 白村江で負けるまでの倭国は全て筑紫のこと。
一貫している。 なるほど日本猿は昔は正式名称でウェノムだったんだな
倭奴♪ウェノム♪ 委奴國(ヰト) → 倭奴國(ヰト) → 倭都國(ヰト) → 伊都國(イト) 扶桑國=播磨國 by梁書倭伝
根拠
@扶桑在大漢國東二萬餘里(1600q) 地在中國之東
大漢國:建康(南京)
A名國王爲乙祁
乙祁:億計天皇(仁賢天皇) 播磨系天皇
B其地無鐵有銅 不貴金銀
熱水鉱床系の金銀銅の産地、最古の石製銅鐸鋳型出土地
鉄鉱床と砂鉄は無し
C扶桑木(青桐)、D養鹿、E仏法伝来、等については未だ検証不十分 日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土するイネは、
中粒種と短粒種が約半々の割合で混交したもの。
ところが、日本の最古水田から出土した日本最古のイネの現物は短粒種のみ。
そして、日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土する耕作用農具は、
石耜という石刃のスキと、石鋤という日本には存在しない石刃の除草用農具と、
石犂という石刃の牛耕用の農具、この3つだけ。
ところが、日本の最古水田から出土した日本最古の耕作用農具は、
木製のエブリという地をならす農具と、木製のクワだけ。
石刃が伝わっていない上に、同期する中国と同じ耕作用農具が一つも
伝わっていないのだ。
それどころか、同期する中国には存在しない耕作用農具が日本最古の
耕作用農具として日本の最古水田には伝わってしまっている。
オール木製で。
しかも、鬲や鼎といった、三足や耳の付いた同期する中国系炊飯器も
日本の最古水田には一切伝わっていない。
日本稲作が中国から伝わったというような話は、太陽が西から昇って東に沈むと
言っているのと同じレヴェルの話である。
ちなみに、スキという耕作用農具が伝わったのは、最古水田から200年以上も
経ってからの事で、やはり木製であった。
石犂は5C頃に鉄刃のものが朝鮮経由で伝わるが、石鋤に至っては、木製でさえ、
永遠に日本に伝わる事はなかったのである。 長江下流域に龍が伝わったのは約5000年前。
「遼河文明」から伝播したと思われる、約5000年前の長江下流域・良渚(りょうしょ)遺跡の玉龍も、
角と耳がありイノシシの顔だ。
http://www.seibutsushi.net/blog/2012/01/1238.html
. >>158
>長江下流域に龍が伝わったのは約5000年前。
最初の頃の龍は、伝説の神獣じゃなくて実在の動物だったんだがな
揚子江鰐だよ
長江下流域の実在の生物
それが、揚子江(長江)から離れた、鰐のいない地域に伝わる過程で伝説化していった
話の向きが逆 ◆ペテン師・佐藤洋一郎がなぜダメなのか
経年変化や環境変化で短期間のうちに著しく頻度を変えてしまう遺伝子の調査において、
佐藤洋一郎が調査に使ったイネの調査サンプルは、
日本のイネの調査サンプルが稲作が伝わってから800年以上も経ってしまった鍵・唐古遺跡の炭化米、
朝鮮半島のイネの調査サンプルにおいてはいつの時代のイネを使ったのかさえ全く公表していない。
このように調査サンプルから疑わしい、欠陥ありありの、お遊び程度でやったペテン調査での捏造である。
この場合、BC10Cの稲作開始時の最古水田である菜畑遺跡の炭化米とそれ以前の朝鮮の炭化米で
比較調査しない限り、まともな調査結果など得られるはずがない。
ちなみに佐藤洋一郎はこの件で京大考古学陣に全面否定されている。
日本稲作が長江・江南から伝わったなんて言ってる頭のおかしな考古学者など一人もおりません。 ◆中国の釜
中国では新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈がみられた[1]。
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた[1]。
釜が再び使用されるようになるのは春秋時代晩期になってからである[1]。
http://ja.wikipedia.org/wiki/釜
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
. アー タノシーデスネー 長江の鬲!wwww
https://search.yahoo.co.jp/image/search?p=長江+++鬲&ei=UTF-8&fr=top_ga1_sa
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>個人の感想です。
>荒らしの理由にはなりません。
誰も荒らしてないだろ?
それこそ>>171の個人の感想だよww 日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土するイネは、
中粒種と短粒種が約半々の割合で混交したもの。
ところが、日本の最古水田から出土した日本最古のイネの現物は短粒種のみ。
そして、日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土する耕作用農具は、
石耜という石刃のスキと、石鋤という日本には存在しない石刃の除草用農具と、
石犂という石刃の牛耕用の農具、この3つだけ。
ところが、日本の最古水田から出土した日本最古の耕作用農具は、
木製のエブリという地をならす農具と、木製のクワだけ。
石刃が伝わっていない上に、同期する中国と同じ耕作用農具が一つも
伝わっていないのだ。
それどころか、同期する中国には存在しない耕作用農具が日本最古の
耕作用農具として日本の最古水田には伝わってしまっている。
オール木製で。
しかも、鬲や鼎といった、三足や耳の付いた同期する中国系炊飯器も
日本の最古水田には一切伝わっていない。
日本稲作が中国から伝わったというような話は、太陽が西から昇って東に沈むと
言っているのと同じレヴェルの話である。
ちなみに、スキという耕作用農具が伝わったのは、最古水田から200年以上も
経ってからの事で、やはり木製であった。
石犂は5C頃に鉄刃のものが朝鮮経由で伝わるが、石鋤に至っては、木製でさえ
永遠に日本に伝わる事はなかったのである。 アー タノシーデスネー 長江の鬲!wwww
https://search.yahoo.co.jp/image/search?p=長江+++鬲&ei=UTF-8&fr=top_ga1_sa
アー タノシーデスネー 江南の越式鼎!wwww
https://search.yahoo.co.jp/image/search;_ylt=A2RimVRd.tRb9nMAQCuU3uV7?p=越式鼎&aq=-1&oq=&ei=UTF-8 最初の頃の龍は、伝説の神獣じゃなくて実在の動物だったんだがな
揚子江鰐だよ
長江下流域の実在の生物
それが、揚子江(長江)から離れた、鰐のいない地域に伝わる過程で伝説化していった
話の向きが逆 匈奴に対して倭奴国というのは可能性としてあるのかもしれないが、
倭国はあっても匈国っていうのはない 倭奴♪ウェノム♪Jap♪
倭奴♪ウェノム♪Jap♪ このスレも変なのが湧かないように、少しずつ埋めるかね 倭奴♪ウェノム♪Jap♪モンキー♪
倭奴♪ウェノム♪Jap♪モンキー♪ 気になる材料を羅列してみると、
渡来系弥生人骨はコンピュータ形質解析で朝鮮人骨とは一致せず、オロチ、
ギリヤークなどの沿海州の北方民族にかなり近寄った数値を示す人骨。
弥生土器が始まったのは最古水田・菜畑遺跡より50年以上前の山陰あたりで、
その土器は同期する沿海州南部の土器と特徴が一致している。
最古水田はイネの粒種、耕作用農具、炊飯器から考えて、明らかに朝鮮南部の影響で
始まっているのに、その人々はなぜか朝鮮土器を一つも作っていない。
複合的に考えて、まず沿海州あたりから渡来人の渡来があり、渡来後に朝鮮南部から
稲作をパクってきただけのように考えざるを得ない。 >>1
57年 倭の奴国
107年 倭の面土国=彌奴國
で 良いみたいだぞ。 それぞれ大夫だから 倭の王 だ。
そんなことより、呉の太伯の後 って詐欺ったのは107年の 帥升かな?
史記はBC90にはあるし、57年でも107年でも どっちも、
中原官僚と接してるから 呉の話は聞ける かもしれない。
初朝貢後の57年以降に渡来者有って、面土王家の軍師に収まったって方が普通か?
倭人伝は刺青の話が尾を引くから、刺青が派手そうな面土王だなw
帥升の 帥、と 面土の 面、が表意文字っぽいのも気になる。
倭奴♪ウェノム 奴の升米=難升米 ノムショウメ とか?
まあ、朝鮮語はともかく、現ちょん語は古代史と縁が無さそうだねw
梅 日本が1600年前の古墳期にようやく竪穴式住居から抜け出したのに対し、
中国では8000年前にはすでに高床式住居が登場し、早くも竪穴式住居から抜け出していた。
その時代差、約6500年。
その後、中国では6000年前に木骨泥墻が登場し、早くも土壁の住居の時代に入り、
4000年前にはすでに戸建ての時代である。
商周より前の3500年前の王朝では宮殿建築なるものが花開き、2800年前には
瓦が登場し、早くも瓦屋根の戸建ての時代に入るのである。
縄文弥生を通して、日本にはこれら中国の住居が一切伝わっていない。
中国から渡来人があったなんてあり得ないのである。 >>196
>107年 倭の面土国=彌奴國
面土国⇒米多国の方がありそうだけどな
旧事本紀の国造本紀に米多国造があり、
吉野ヶ里遺跡の近くに米多郷の地名が残っている
案外、吉野ヶ里の首長が帥升でもいい気がす
吉野ヶ里遺跡の最盛期と時代も合うし 「わーのくに」を音訳して「倭奴国」だろうな。西郷どんなんか見てても自称で「わー」「わー」ゆってるし。
あと、金印の文字が「漢委奴國王」である理由は、
倭人なんぞ人類扱いしてやるかよってな蔑視思想から人偏を外したんだと思うな(´・ω・`) ◆ペテン師・佐藤洋一郎がなぜダメなのか
経年変化や環境変化で短期間のうちに著しく頻度を変えてしまう遺伝子の調査において、
佐藤洋一郎が調査に使ったイネの調査サンプルは、
日本のイネの調査サンプルが稲作が伝わってから800年以上も経ってしまった鍵・唐古遺跡の炭化米、
朝鮮半島のイネの調査サンプルにおいてはいつの時代のイネを使ったのかさえ全く公表していない。
このように調査サンプルから疑わしい、欠陥ありありの、お遊び程度でやったペテン調査での捏造である。
この場合、BC10Cの稲作開始時の最古水田である菜畑遺跡の炭化米とそれ以前の朝鮮の炭化米で
比較調査しない限り、まともな調査結果など得られるはずがない。
ちなみに佐藤洋一郎はこの件で京大考古学陣に全面否定されている。
日本稲作が長江・江南から伝わったなんて言ってる頭のおかしな考古学者など一人もおりません。 倭奴は歴史に反省がない屑
ケチで賠償金もまともに払ってこない屑
ウェノム♪ウェノム♪ こじらせてるのが涌くからなぁww
反万年属国なんてなかなかないしw 倭奴が戦争被害者だってさ
どう見ても加害者だよ
植民地支配で隣国を収奪した
ウェノム♪は太平洋戦争の歴史も教えられていない ◆中国の釜
中国では新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈がみられた[1]。
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた[1]。
釜が再び使用されるようになるのは春秋時代晩期になってからである[1]。
http://ja.wikipedia.org/wiki/釜
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
. >>207
>どう見ても加害者だよ
ゴメンなぁ
半島の朝鮮人には本当に悪いことをしたと思ってるよ
人口を倍にして、平均寿命を倍にして、女子にも教育を与え
白丁を開放して、帝国大学を作り学校の数を20倍以上にし、
コメの生産を3倍以上にして、鉄道を引き道路を整備し、
近代社会を作り上げてしまって本当に申し訳ない
大韓帝国からの併合申し込みを認めて、大韓帝国の借金や負債を
肩代わりして生産するなんて本当にひどいことをしたと思う
でも安心して欲しい
韓国最高裁の、日韓基本条約を反故にする判決が出たことで、
これ以上日本は韓国に対して、通貨スワップを結んでウォンの通貨保証をするなどという
これ以上の悪行を積み重ねることはもうないと決まったから × 肩代わりして生産するなんて
○ 肩代わりして清算するなんて 日本人はウェノムです
敗戦したのに反省がない
ヒロヒトを首吊りさせなかったマッカーサーが悪い 気になる材料を羅列してみると、
渡来系弥生人骨はコンピュータ形質解析で朝鮮人骨とは一致せず、オロチ、
ギリヤークなどの沿海州の北方民族にかなり近寄った数値を示す人骨。
弥生土器が始まったのは最古水田・菜畑遺跡より50年以上前の山陰あたりで、
その土器は同期する沿海州南部の土器と特徴が一致している。
最古水田はイネの粒種、耕作用農具、炊飯器から考えて、明らかに朝鮮南部の影響で
始まっているのに、その人々はなぜか朝鮮土器を一つも作っていない。
複合的に考えて、まず沿海州あたりから渡来人の渡来があり、渡来後に朝鮮南部から
稲作をパクってきただけのように考えざるを得ない。 気になる材料を羅列してみると、
渡来系弥生人骨はコンピュータ形質解析で朝鮮人骨とは一致せず、オロチ、
ギリヤークなどの沿海州の北方民族にかなり近寄った数値を示す人骨。
弥生土器が始まったのは最古水田・菜畑遺跡より50年以上前の山陰あたりで、
その土器は同期する沿海州南部の土器と特徴が一致している。
最古水田はイネの粒種、耕作用農具、炊飯器から考えて、明らかに朝鮮南部の影響で
始まっているのに、その人々はなぜか朝鮮土器を一つも作っていない。
複合的に考えて、まず沿海州あたりから渡来人の渡来があり、渡来後に朝鮮南部から
稲作をパクってきただけのように考えざるを得ない。 ウェノムの猿どもへの怒りがアジアを覆っている
倭奴国時代に底辺階級の倭人を皆殺しにしておけば良かったんだ 日本が1600年前の古墳期にようやく竪穴式住居から抜け出したのに対し、
中国では8000年前にはすでに高床式住居が登場し、早くも竪穴式住居から抜け出していた。
その時代差、約6500年。
その後、中国では6000年前に木骨泥墻が登場し、早くも土壁の住居の時代に入り、
4000年前にはすでに戸建ての時代である。
商周より前の3500年前の王朝では宮殿建築なるものが花開き、2800年前には
瓦が登場し、早くも瓦屋根の戸建ての時代に入るのである。
縄文弥生を通して、日本にはこれら中国の住居が一切伝わっていない。
中国から渡来人があったなんてあり得ないのである。 倭奴♪ウェノム♪ウェノム♪
倭奴♪ウェノム♪ウェノム♪
倭奴♪ウェノム♪ウェノム♪ 長江下流域に龍が伝わったのは約5000年前。
「遼河文明」から伝播したと思われる、約5000年前の長江下流域・良渚(りょうしょ)遺跡の玉龍も、
角と耳がありイノシシの顔だ。
http://www.seibutsushi.net/blog/2012/01/1238.html
. こういう基本的なことをきちんと共有していかないと議論が進まない ◆ペテン師・佐藤洋一郎がなぜダメなのか
経年変化や環境変化で短期間のうちに著しく頻度を変えてしまう遺伝子の調査において、
佐藤洋一郎が調査に使ったイネの調査サンプルは、
日本のイネの調査サンプルが稲作が伝わってから800年以上も経ってしまった鍵・唐古遺跡の炭化米、
朝鮮半島のイネの調査サンプルにおいてはいつの時代のイネを使ったのかさえ全く公表していない。
このように調査サンプルから疑わしい、欠陥ありありの、お遊び程度でやったペテン調査での捏造である。
この場合、BC10Cの稲作開始時の最古水田である菜畑遺跡の炭化米とそれ以前の朝鮮の炭化米で
比較調査しない限り、まともな調査結果など得られるはずがない。
ちなみに佐藤洋一郎はこの件で京大考古学陣に全面否定されている。
日本稲作が長江・江南から伝わったなんて言ってる頭のおかしな考古学者など一人もおりません。 >>234
少なくとも一定の方向に進むことではない。 >>234
一周以上すること何回回ってもいいけど
最後は必ず元に戻る必要はない、行きっぱなしでもいい。 >>234
倭人伝の周旋五千里は奴国から奴国まで倭地一周のことでしょうね。 >>242
奴國から不彌國、不彌國から斯馬國、已百支國〜・・・〜烏奴國、奴國
これが周旋五千里。 >>243
「參問 倭地 絶在 海中 洲㠀 之上 或絶 或連 周旋 可 五千餘里」のくだりは船で回るイメージとばかり思っていたから。
陸地を歩いて「其餘旁國遠絶不可得詳」とした国々を巡る行程を言っていたなんて全く思えなかったよ。 >>245
參問倭地とは倭地について情報を集めるって意味で
実際に国々を巡ったんじゃない
「其餘旁國遠絶不可得詳」に付いてどんな土地か聴いたんだ。 ◆ペテン師・佐藤洋一郎がなぜダメなのか
経年変化や環境変化で短期間のうちに著しく頻度を変えてしまう遺伝子の調査において、
佐藤洋一郎が調査に使ったイネの調査サンプルは、
日本のイネの調査サンプルが稲作が伝わってから800年以上も経ってしまった鍵・唐古遺跡の炭化米、
朝鮮半島のイネの調査サンプルにおいてはいつの時代のイネを使ったのかさえ全く公表していない。
このように調査サンプルから疑わしい、欠陥ありありの、お遊び程度でやったペテン調査での捏造である。
この場合、BC10Cの稲作開始時の最古水田である菜畑遺跡の炭化米とそれ以前の朝鮮の炭化米で
比較調査しない限り、まともな調査結果など得られるはずがない。
ちなみに佐藤洋一郎はこの件で京大考古学陣に全面否定されている。
日本稲作が長江・江南から伝わったなんて言ってる頭のおかしな考古学者など一人もおりません。 >>246
「絶在 海中 洲㠀 之上 或絶 或連に続く「周旋 可 五千餘里」は、やはり船で回ればって意味じゃないか? ウェノム國は残虐でブラック
徴用工問題や性奴隷問題は今も行われている
倭奴!ウェノム! >>248
參・・・集める、集まる
参拝、神の前に集まる
参上、偉い人の前に集まる
参考、考えを集める
參に行くって意味はないんだよ。
聴いた話によれば倭地は1周が5000里
船なんてでてこないけど、陸地と海があるから途中は船が必要だろうね。 ウェノムは倭奴と書きます
奴隷のようなみすぼらしいジャップという意味
汚らしい中国人は垢奴といいます
衛星観念のない汚らしい中国人という意味になります ◆中国の釜
中国では新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈がみられた[1]。
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた[1]。
釜が再び使用されるようになるのは春秋時代晩期になってからである[1]。
http://ja.wikipedia.org/wiki/釜
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
. >>248
>「周旋 可 五千餘里」は、やはり船で回ればって意味じゃないか?
いや、単に萬二千里から半島沿岸の七千里を引いて五千里と言っているだけだから
舟で回ったりしない
半島南岸から対馬へ渡るところも含めて倭人の住む洲島が5千里の長さで、
あるいは絶え(海峡が挟まったり)あるいは連なり(本州のような大きな島もあり)続いている
という表現
戻る余裕はないよ >>252を見ても分かるように半島の人は頭おかしい >>256は、周旋の字面に引きずられてるだけ
三国志での周旋の用法に、一周するとか元の場所に戻るという用例はない
あと、現代でいう「周旋屋」の周旋の(斡旋に近い)意味で使われているところはある >>257
その解釈読んだけど内容は出鱈目だよ
確かに周旋には元の場所に戻るという意味はない
周旋の意味はグルグル回るだよ
一周だけなら元の所に戻るだけ
三国志での周旋の用法もグルグル回で解釈できる。 >>257
読むってのは字面を無視しちゃダメだろう? >>261
>周旋の意味はグルグル回るだよ
ぐるぐる回る五千里では意味が通らないじゃないか
直線距離ではなく、いろいろ寄りながら進むのが周旋だよ >>262
現代の日本語の意味(=字面)に引きずられちゃダメだってこと >>264
周旋は、他の意味もあるようだけど、ここは巡り回ることで、少なくとも一定の方向に進むことではないと思う。 倭国=女王国=狗邪韓國+ 對海(馬)國+一大國+ 末廬國+ 伊都國+ 奴國(1)+ 不彌國+ 投馬國+ 邪馬壹(臺)國+ 斯馬國+已百支國+伊邪國+都支國+彌奴國+好古都國+不呼國+姐奴國+對蘇國+蘇奴國+呼邑國+華奴蘇奴國+鬼國+爲吾國+鬼奴國+邪馬國+躬臣國+巴利國+支惟國+烏奴國+奴國(2)
で首都は邪馬壹(臺)國、奴国(1)と奴国(2)が同一国かそうでないかは不明(たぶん別)。
伊都国は地元の王がいる(ウェールズとイングランドのようなもの? ウェールズが伊都国、イングランドが邪馬台国)。 ◆中国の釜
中国では新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈がみられた[1]。
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた[1]。
釜が再び使用されるようになるのは春秋時代晩期になってからである[1]。
http://ja.wikipedia.org/wiki/釜
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
. >>264
周旋は寄ってもいいし寄らなくてもいい
とにかくグルグル回こと
一周以上しないと周旋にならない。 >>267
倭国=女王国=邪馬壹(臺)國=對海(馬)國+一大國+ 末廬國+ 伊都國+ 奴國+ 不彌國+ 斯馬國+已百支國+伊邪國+都支國+彌奴國+好古都國+不呼國+姐奴國+對蘇國+蘇奴國+呼邑國+華奴蘇奴國+鬼國+爲吾國+鬼奴國+邪馬國+躬臣國+巴利國+支惟國+烏奴國
で首都は 伊都國、2度出てくる奴国は同一の国。
伊都国は都で王がいる、奴国は女王国の中心国邑。
投馬國は邪馬壹(臺)國の北にあり、中心国邑は狗邪韓國。 >>270
×
邪馬台国と他の国は同じ書き方だから同格であるべき
首都は邪馬台国。
伊都国と邪馬台国への行程は異なる。
投馬国は邪馬台国より南に位置する。 >>269
>一周以上しないと周旋にならない。
そんな縛りはないんだって
三国志にも周旋は複数出てくるけれど、一周以上している例なんてないよ
あったら出してみて >>266
>少なくとも一定の方向に進むことではないと思う。
一定の決まった方向ではなく、あちこち寄りながら、
南東に行ったり東に行ったり南に行ったりして進んでいくんだよ >>274
曹仁傳
後豪杰并起 仁亦陰結少年 得千餘人 周旋淮 泗之間 遂從太祖為別部司馬 行事N校尉
淮水、泗水付近を周旋したけど、進んでないよ
グルグル回っただけ。 于是周旋青 徐 兗 豫之郊 東下壽春 南望江 湖
青州、徐州、兗州、豫州を何回か回つて東の壽春に下がる・・・。 >>275
>淮水、泗水付近を周旋したけど、進んでないよ
>グルグル回っただけ。
いや、先入観で読んでるだろ
淮水、泗水付近を周旋(いろいろ寄りながら進んで)するうちに
だよ
ぐるぐる回ったり行ったり来たりする必要がどこにもない >>276
>青州、徐州、兗州、豫州を何回か回つて東の壽春に下がる・・・。
青州、徐州、兗州、豫州の各所にいろいろ寄りながら進み、東の壽春に下がる・・・。 >>277
>>278
それは貴方のこじ付けでしょ。 >>275
淮水と泗水の間をぐるぐる回ったんだよ
何処に進むんだよw >>281
>>275
淮水、泗水の間を制圧してまわる。
>>276
食料を確保してまわる。 日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土するイネは、
中粒種と短粒種が約半々の割合で混交したもの。
ところが、日本の最古水田から出土した日本最古のイネの現物は短粒種のみ。
そして、日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土する耕作用農具は、
石耜という石刃のスキと、石鋤という日本には存在しない石刃の除草用農具と、
石犂という石刃の牛耕用の農具、この3つだけ。
ところが、日本の最古水田から出土した日本最古の耕作用農具は、
木製のエブリという地をならす農具と、木製のクワだけ。
石刃が伝わっていない上に、同期する中国と同じ耕作用農具が一つも
伝わっていないのだ。
それどころか、同期する中国には存在しない耕作用農具が日本最古の
耕作用農具として日本の最古水田には伝わってしまっている。
オール木製で。
しかも、鬲や鼎といった、三足や耳の付いた同期する中国系炊飯器も
日本の最古水田には一切伝わっていない。
日本稲作が中国から伝わったというような話は、太陽が西から昇って東に沈むと
言っているのと同じレヴェルの話である。
ちなみに、スキという耕作用農具が伝わったのは、最古水田から200年以上も
経ってからの事で、やはり木製であった。
石犂は5C頃に鉄刃のものが朝鮮経由で伝わるが、石鋤に至っては、木製でさえ
永遠に日本に伝わる事はなかったのである。 >>282
一度制圧して回ればワンウエイで済むことだろ
何度も制圧に戻るっていうのはその度に反乱が起きるのかい?
食糧の徴発も1回徴収した場所に何度も戻ってもしょうがないだろうに
周旋は回るっていう思い込みから速く開放されるといいね >>284
曹仁傳の場合は一度制圧しても反乱が起きる可能性があるから何回も回って完全に制圧し
太祖に認められるまで淮水、泗水間を徹底的に制圧したんだよ。
食料の場合は1回かもしれないがとにかく1周はしてるね
1周した後に東の壽春に下がる・・・。
思い込みじゃなくて周旋は回るっていう意味なんですよ。 気になる材料を羅列してみると、
渡来系弥生人骨はコンピュータ形質解析で朝鮮人骨とは一致せず、オロチ、
ギリヤークなどの沿海州の北方民族にかなり近寄った数値を示す人骨。
弥生土器が始まったのは最古水田・菜畑遺跡より50年以上前の山陰あたりで、
その土器は同期する沿海州南部の土器と特徴が一致している。
最古水田はイネの粒種、耕作用農具、炊飯器から考えて、明らかに朝鮮南部の影響で
始まっているのに、その人々はなぜか朝鮮土器を一つも作っていない。
複合的に考えて、まず沿海州あたりから渡来人の渡来があり、渡来後に朝鮮南部から
稲作をパクってきただけのように考えざるを得ない。 一周してないだろ?
于是周旋青 徐 兗 豫之郊 東下壽春
北に青州があってその東南が徐州、青州から見て南西に兗州、一番南に豫州がある
青 徐 兗 豫の順に進んだと書いてあるわけでもないけれど 魏志倭人伝は奴国から書き始めて奴国に終わっているから、回っているように読める。 最初の奴国と、最後の奴国は同名異国かあるいは欠字があると考える人も多い
彌奴國、姐奴國、蘇奴國、華奴蘇奴國、鬼奴國、烏奴國、と「○奴国」という国名も多いし
個人的には、次有「有奴國」だったんじゃないかと妄想している 勝手に都合よく原典を改変するなよ。
どう読んでも奴国から一回りして奴国に戻っている。 いやいや、最後の奴国は「此女王境界所盡」なんだぞ
伊都国と不彌國の間の奴国だったら女王国の境界が尽きるところになりようがないだろ?
それに、周旋は三国志では一周するとか元の場所に戻るとかいう意味で使われているところはない
伊都国の隣の奴国と、余傍国の最後の奴国(おそらくは○奴国の欠字)は確実に別の国 >>290は奴国が女王国より北にあると思ってるのかい?
それとも南にあると思っているのかい? >>288
行きは対馬海流に乗って日本海ルート
帰りは瀬戸内海ルートだから、当然廻ってるよ >>288
行きは対馬海流に乗って日本海ルート
帰りは瀬戸内海ルートだから、当然廻ってるよ >>288
行きは対馬海流に乗って日本海ルート
帰りは瀬戸内海ルートだから、当然廻ってるよ >>289
平地=ナ、だからね。
大きな国は平地(ナ)にできるので奴(ナ)の字がつく国が多い。
ちなみに奈良の語源もナらす(平地にする)
韓国でも国のことをナラという。 日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土するイネは、
中粒種と短粒種が約半々の割合で混交したもの。
ところが、日本の最古水田から出土した日本最古のイネの現物は短粒種のみ。
そして、日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土する耕作用農具は、
石耜という石刃のスキと、石鋤という日本には存在しない石刃の除草用農具と、
石犂という石刃の牛耕用の農具、この3つだけ。
ところが、日本の最古水田から出土した日本最古の耕作用農具は、
木製のエブリという地をならす農具と、木製のクワだけ。
石刃が伝わっていない上に、同期する中国と同じ耕作用農具が一つも
伝わっていないのだ。
それどころか、同期する中国には存在しない耕作用農具が日本最古の
耕作用農具として日本の最古水田には伝わってしまっている。
オール木製で。
しかも、鬲や鼎といった、三足や耳の付いた同期する中国系炊飯器も
日本の最古水田には一切伝わっていない。
日本稲作が中国から伝わったというような話は、太陽が西から昇って東に沈むと
言っているのと同じレヴェルの話である。
ちなみに、スキという耕作用農具が伝わったのは、最古水田から200年以上も
経ってからの事で、やはり木製であった。
石犂は5C頃に鉄刃のものが朝鮮経由で伝わるが、石鋤に至っては、木製でさえ
永遠に日本に伝わる事はなかったのである。 気になる材料を羅列してみると、
渡来系弥生人骨はコンピュータ形質解析で朝鮮人骨とは一致せず、オロチ、
ギリヤークなどの沿海州の北方民族にかなり近寄った数値を示す人骨。
弥生土器が始まったのは最古水田・菜畑遺跡より50年以上前の山陰あたりで、
その土器は同期する沿海州南部の土器と特徴が一致している。
最古水田はイネの粒種、耕作用農具、炊飯器から考えて、明らかに朝鮮南部の影響で
始まっているのに、その人々はなぜか朝鮮土器を一つも作っていない。
複合的に考えて、まず沿海州あたりから渡来人の渡来があり、渡来後に朝鮮南部から
稲作をパクってきただけのように考えざるを得ない。 日本が1600年前の古墳期にようやく竪穴式住居から抜け出したのに対し、
中国では8000年前にはすでに高床式住居が登場し、早くも竪穴式住居から抜け出していた。
その時代差、約6500年。
その後、中国では6000年前に木骨泥墻が登場し、早くも土壁の住居の時代に入り、
4000年前にはすでに戸建ての時代である。
商周より前の3500年前の王朝では宮殿建築なるものが花開き、2800年前には
瓦が登場し、早くも瓦屋根の戸建ての時代に入るのである。
縄文弥生を通して、日本にはこれら中国の住居が一切伝わっていない。
中国から渡来人があったなんてあり得ないのである。 >>304
いいえ同じです
万葉集の言葉は新羅や百済の言葉でした 長江下流域に龍が伝わったのは約5000年前。
「遼河文明」から伝播したと思われる、約5000年前の長江下流域・良渚(りょうしょ)遺跡の玉龍も、
角と耳がありイノシシの顔だ。
http://www.seibutsushi.net/blog/2012/01/1238.html
. >>305>>308
お前に最適な言葉を贈ろう
根 拠 の な い 推 論 は 妄 想 以 外 の 何 物 で も な い
古朝鮮語は扶余語族に属し、近世朝鮮語はモンゴル語群のコリョマルの発展だと韓国国内でも認知されている 扶余族つまり百済の言葉と、兄弟国家である倭の言葉が似ていたのは当然。
ただし、現代韓国語とは関係ない。 >>307
>百済語ってほとんど不明の言語なのに
百済語で、現在確認できるのは、日本書紀の中の百済の人名と地名くらいしかないよな
日本書紀の倭人の人名は、日本語で理解可能なのに、百済人の名前は意味が分からないから
やはり百済語と日本語は別という理解でよいと思う 畿内説スレでフルボッコだからといって、こんなところで憂さ晴らしかい? >>314
九州説は妄想なんだから、畿内説スレに限らずフルボッコだろ?w 倭の奴国のことを、倭奴国って書いてるだけなんだからどうしようもないだろ
大陸の言語に助詞は基本的にないんだから 日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土するイネは、
中粒種と短粒種が約半々の割合で混交したもの。
ところが、日本の最古水田から出土した日本最古のイネの現物は短粒種のみ。
そして、日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土する耕作用農具は、
石耜という石刃のスキと、石鋤という日本には存在しない石刃の除草用農具と、
石犂という石刃の牛耕用の農具、この3つだけ。
ところが、日本の最古水田から出土した日本最古の耕作用農具は、
木製のエブリという地をならす農具と、木製のクワだけ。
石刃が伝わっていない上に、同期する中国と同じ耕作用農具が一つも
伝わっていないのだ。
それどころか、同期する中国には存在しない耕作用農具が日本最古の
耕作用農具として日本の最古水田には伝わってしまっている。
オール木製で。
しかも、鬲や鼎といった、三足や耳の付いた同期する中国系炊飯器も
日本の最古水田には一切伝わっていない。
日本稲作が中国から伝わったというような話は、太陽が西から昇って東に沈むと
言っているのと同じレヴェルの話である。
ちなみに、スキという耕作用農具が伝わったのは、最古水田から200年以上も
経ってからの事で、やはり木製であった。
石犂は5C頃に鉄刃のものが朝鮮経由で伝わるが、石鋤に至っては、木製でさえ
永遠に日本に伝わる事はなかったのである。 >>318
>考古学的には伊都国の時代。
それ、いつだよ?w >>320
三雲南小路遺跡や井原鑓溝遺跡、平原遺跡など、いわゆる弥生王墓が糸島平野に作られた時代だよ。
年代推定には幅があるけれど、概ね後漢の時代と考えられている。
その頃の倭の王都は福岡平野ではなく糸島平野だったということ。 日本が1600年前の古墳期にようやく竪穴式住居から抜け出したのに対し、
中国では8000年前にはすでに高床式住居が登場し、早くも竪穴式住居から抜け出していた。
その時代差、約6500年。
その後、中国では6000年前に木骨泥墻が登場し、早くも土壁の住居の時代に入り、
4000年前にはすでに戸建ての時代である。
商周より前の3500年前の王朝では宮殿建築なるものが花開き、2800年前には
瓦が登場し、早くも瓦屋根の戸建ての時代に入るのである。
縄文弥生を通して、日本にはこれら中国の住居が一切伝わっていない。
中国から渡来人があったなんてあり得ないのである。 倭奴国=ウェノム国ですね♪
ジャップにお似合いです
なぜなら隣国を侵略して反省の思いが全くないからです 倭人=日本人 倭国=日本
そんなわけ無いだろ
その時代に大和王朝何て無いんだから 大和王朝に皇帝はいない。でも日本国が倭国を先祖の功績として皇帝にしたんだよ。 大和朝廷は倭奴(ウェノム)を征服した百済の将軍が建国したんだろうね 倭と大和と日本をヤマトと読む和製国号
日本はシナチョンと文明違うんだよな 長江下流域に龍が伝わったのは約5000年前。
「遼河文明」から伝播したと思われる、約5000年前の長江下流域・良渚(りょうしょ)遺跡の玉龍も、
角と耳がありイノシシの顔だ。
http://www.seibutsushi.net/blog/2012/01/1238.html
. >>328
いや
今に伝わる天皇家は
白村江の戦いで勝利した唐と新羅だろ
武則天が天皇と初めて称した皇帝何だから
それまでオオキミだったのに天皇になり
壬神の乱以降 儀式も様式も中国化
律令制度に中央集権 中国と全く同じ
その時 アマテラスが突然露る
アマテラスは武則天の事だろ
まさに天孫降臨
中国からやってきたのだから 白村江以降は傀儡政権なんだろうけど、血統は倭国の王族の一部なんだろう。
宗家ではなく分家筋の。
だから旧唐書では日本は倭の一部だったが、逆に倭を併合したと書いてあるわけだ。 >>334
日本の王族かも知れないが新羅筋かも知れないと思う
ただ藤原氏は非常に怪しく日本の部族では無いと思う 商人>おまえら、どこから来た
倭人>山とっと
商人>ヤマトか。耶馬台と書いとこ
漢人>おまえら、耶馬台から来たのか。
倭人>山とっと
漢人>ヤマタイ?
倭人>山たい! 唐が滅亡して一緒に崩壊した属国新羅ごときと一緒にしないで。日本では新羅と高麗はゴミ扱いだから。 ◆ペテン師・佐藤洋一郎がなぜダメなのか
経年変化や環境変化で短期間のうちに著しく頻度を変えてしまう遺伝子の調査において、
佐藤洋一郎が調査に使ったイネの調査サンプルは、
日本のイネの調査サンプルが稲作が伝わってから800年以上も経ってしまった鍵・唐古遺跡の炭化米、
朝鮮半島のイネの調査サンプルにおいてはいつの時代のイネを使ったのかさえ全く公表していない。
このように調査サンプルから疑わしい、欠陥ありありの、お遊び程度でやったペテン調査での捏造である。
この場合、BC10Cの稲作開始時の最古水田である菜畑遺跡の炭化米とそれ以前の朝鮮の炭化米で
比較調査しない限り、まともな調査結果など得られるはずがない。
ちなみに佐藤洋一郎はこの件で京大考古学陣に全面否定されている。
日本稲作が長江・江南から伝わったなんて言ってる頭のおかしな考古学者など一人もおりません。 どちらにしても倭奴(ウェノム)を征服して支配階級になったのは韓人でした 韓人を征服して支配階級になったのは夏華人(両班)だぞ 倭は新羅より先に唐に負けて属国となってます。
朝貢土下座外交を始めてます(遣唐使)。 やっぱり渡来系弥生人の支配階級(韓人)が、劣った縄文原人(ウェノムw)を支配していた恥ずかしい真実が明るみに出てしまうな
アジアではこれを長年隠しているのが日本の右翼的歴史教育と知れ渡っている ◆中国の釜
中国では新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈がみられた[1]。
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた[1]。
釜が再び使用されるようになるのは春秋時代晩期になってからである[1]。
http://ja.wikipedia.org/wiki/釜
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
. 気になる材料を羅列してみると、
渡来系弥生人骨はコンピュータ形質解析で朝鮮人骨とは一致せず、オロチ、
ギリヤークなどの沿海州の北方民族にかなり近寄った数値を示す人骨。
弥生土器が始まったのは最古水田・菜畑遺跡より50年以上前の山陰あたりで、
その土器は同期する沿海州南部の土器と特徴が一致している。
最古水田はイネの粒種、耕作用農具、炊飯器から考えて、明らかに朝鮮南部の影響で
始まっているのに、その人々はなぜか朝鮮土器を一つも作っていない。
複合的に考えて、まず沿海州あたりから渡来人の渡来があり、渡来後に朝鮮南部から
稲作をパクってきただけのように考えざるを得ない。 日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土するイネは、
中粒種と短粒種が約半々の割合で混交したもの。
ところが、日本の最古水田から出土した日本最古のイネの現物は短粒種のみ。
そして、日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土する耕作用農具は、
石耜という石刃のスキと、石鋤という日本には存在しない石刃の除草用農具と、
石犂という石刃の牛耕用の農具、この3つだけ。
ところが、日本の最古水田から出土した日本最古の耕作用農具は、
木製のエブリという地をならす農具と、木製のクワだけ。
石刃が伝わっていない上に、同期する中国と同じ耕作用農具が一つも
伝わっていないのだ。
それどころか、同期する中国には存在しない耕作用農具が日本最古の
耕作用農具として日本の最古水田には伝わってしまっている。
オール木製で。
しかも、鬲や鼎といった、三足や耳の付いた同期する中国系炊飯器も
日本の最古水田には一切伝わっていない。
日本稲作が中国から伝わったというような話は、太陽が西から昇って東に沈むと
言っているのと同じレヴェルの話である。
ちなみに、スキという耕作用農具が伝わったのは、最古水田から200年以上も
経ってからの事で、やはり木製であった。
石犂は5C頃に鉄刃のものが朝鮮経由で伝わるが、石鋤に至っては、木製でさえ
永遠に日本に伝わる事はなかったのである。 このスレは、すぐ質の悪いのが湧くし、置いといてもしょうがない 日本が1600年前の古墳期にようやく竪穴式住居から抜け出したのに対し、
中国では8000年前にはすでに高床式住居が登場し、早くも竪穴式住居から抜け出していた。
その時代差、約6500年。
その後、中国では6000年前に木骨泥墻が登場し、早くも土壁の住居の時代に入り、
4000年前にはすでに戸建ての時代である。
商周より前の3500年前の王朝では宮殿建築なるものが花開き、2800年前には
瓦が登場し、早くも瓦屋根の戸建ての時代に入るのである。
縄文弥生を通して、日本にはこれら中国の住居が一切伝わっていない。
中国から渡来人があったなんてあり得ないのである。 【日本の起源】韓国古墳から埴輪が出土。古代日本は韓国による征服王朝だったことが明らかに
https://www.recordchina.co.jp/b674700-s0-c30-d0144.html
2018年12月26日、韓国の東亜日報は、朝鮮半島の遺跡で初めて、日本の古墳時代(3世紀中頃〜7世紀頃)を代表する遺物、
人物埴輪(はにわ)が出土したと報じた。
人物埴輪の形は鳥取県で出土したものに類似しているといい、
発掘調査を行っている全羅南道文化観光財団の全羅南道文化財研究所は「古代日韓関係史の
研究における新たな契機になる」と評している。 日本、中国、モンゴル、満州が韓国の征服王朝な。朝鮮王族から人質取られるの慣れてるもん。 それを言うなら、漢に朝貢していた頃や唐に朝貢していた頃の日本も属国だったのか? 韓国人は時代によって中国人、モンゴル人、満州人、日本人になったりしたから起源を勘違いするんだろうw ◆中国の釜
中国では新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈がみられた[1]。
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた[1]。
釜が再び使用されるようになるのは春秋時代晩期になってからである[1]。
http://ja.wikipedia.org/wiki/釜
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
. >>363
>それを言うなら、漢に朝貢していた頃や唐に朝貢していた頃の日本も属国だったのか?
悔しいの?ww 長江下流域に龍が伝わったのは約5000年前。
「遼河文明」から伝播したと思われる、約5000年前の長江下流域・良渚(りょうしょ)遺跡の玉龍も、
角と耳がありイノシシの顔だ。
http://www.seibutsushi.net/blog/2012/01/1238.html
. 全て韓国起源って答えるだけで韓国の歴史は100点満点ニダ ◆ペテン師・佐藤洋一郎がなぜダメなのか
経年変化や環境変化で短期間のうちに著しく頻度を変えてしまう遺伝子の調査において、
佐藤洋一郎が調査に使ったイネの調査サンプルは、
日本のイネの調査サンプルが稲作が伝わってから800年以上も経ってしまった鍵・唐古遺跡の炭化米、
朝鮮半島のイネの調査サンプルにおいてはいつの時代のイネを使ったのかさえ全く公表していない。
このように調査サンプルから疑わしい、欠陥ありありの、お遊び程度でやったペテン調査での捏造である。
この場合、BC10Cの稲作開始時の最古水田である菜畑遺跡の炭化米とそれ以前の朝鮮の炭化米で
比較調査しない限り、まともな調査結果など得られるはずがない。
ちなみに佐藤洋一郎はこの件で京大考古学陣に全面否定されている。
日本稲作が長江・江南から伝わったなんて言ってる頭のおかしな考古学者など一人もおりません。 現在の韓国で使われている約束は日本語の「約束」を韓国的な発音にしたもの つまり、日本と併合するまで半島には約束を意味する単語はなかったということ 約束という単語、概念なしに半万年属国だったとか、ちょっと日本人には理解しがたい 事実しか書いてないのに、ヘイトスピーチだと言いたがる国と民族があるよね?
>>386 ww 百済スレに現生ヒトモドキの解説があったから転載しておくよ〜 哺乳類サル目ヒト科ヒトモドキ属が何でも朝鮮半島由来にしたがる理由を知ろう♪
一時期より減少したとは言え、ヒトモドキ属は何でも朝鮮半島由来にしたがる性質を持っています。
幼児教育から刷り込まれる「日本の文化は全て自分達が教えてやったものニダ」という華夷秩序を土台としたミンジョク洗脳。
「元祖・本家以外に価値を見出さない」という独自の価値観が、その過程や経緯を意図的に軽視し関連性を感じると即座に朝鮮半島由来と思い込みます。
さらに「他者との比較が自己確立の唯一の手段」とするヒトモドキ属特有の性質があり、これは火病の原因として有名な基質です。
以上3つの性質によりヒトモドキ属は何でも朝鮮半島由来にしたがるわけですが、インターネットの普及や英語話者の増加に伴い、ミンジョク洗脳は高等教育を受けた者から順に徐々に開放されつあります。
また国際社会に進出した者達は起源主張が文化的に低俗であることを自覚し、常に日本を意識し続けることがみっともない行為だと認識し始めています(発言すればリンチに遭うので公言しません)。
残念なことに、高等教育を受けた者や国際感覚を持つ者は韓民で11%、朝鮮民で6%、在日民に於いては2%と言われており、言い換えればヒトモドキ属全体では10%に当たる725万人ほどしか自覚や認識が進んでいないのです。
またインディアンを駆逐したアメリカ人同様、三韓ヒトモドキ属は高麗ヒトモドキ属(現生ヒトモドキ属のルーツ)によって絶滅させられ、生物的連続性がないという事実を意図的に見ないようにしています。
しかし、一番の問題は「他者との比較が自己確立の唯一の手段」とする現生ヒトモドキ属の価値観にあります。
この価値観はホモ・サピエンスへの迷惑行為もさることながら、ヒトモドキ属社会にも大きな影を落としています。
韓国経済新聞/中央日報日本語版のコラムを読んでみましょう。
http://japanese.joins.com/article/029/204029.html
>特に韓国の人々は他人を意識して生きる傾向があり、虚礼虚飾もこうした傾向から出たものだ。
>これは奴隷のような人生だ。
>奴隷は主人を意識して生きなければならない。
ここからもヒトモドキ属には奴隷DNAが根深く刻み込まれていることがよく分かります。 朝鮮半島発祥の哺乳類サル目ヒト科ヒトモドキ属だけが持つ独特の「正義」の概念を理解しよう♪
ヒトモドキ属の考える「正義」の概念は非常に独特であり、まず根拠を必要としないという特徴があります。
なぜ根拠を必要としないかと言うと「この世には『正義』は一つしか存在しない」と考え、自分はその「正義」の側だと信じ込んでいるからに他なりません。
通常、それぞれが正義と信じる者同士が争った場合、ホモ・サピエンスは「相手の正義」の存在を認識しながらも「自分の正義」のために戦います。
「相手の正義」を認識しているからこそ、勝ったときには相手を称え、負けたとしても自分が「悪」だとは考えません。
一方、ヒトモドキ属はとにかく「相手の正義」の存在をいっさい認めず、相手の劣等性を指摘(曲解でも、捏造でも、その件と全く関係なくても、何でも良い)する事で「自分の正義」の担保とします。
ですから勝った時には殊更に負けた相手を「悪」と罵り、負けた時には難癖をつけて負けを認めないことで「自分の正義」を守ります。
つまり負けは「悪」なので受け入れられないのです。
また、自分自身に向けられた問題提議や指摘を模倣し、オウム返しのように相手にぶつけます。
こういったヒトモドキ属独特の「正義『観』」は独特と言えるもので、予備知識を持たずに対峙すると「錯乱している」「気が狂っている」としか映らず対話を諦めてしまう結果となってしまいます。
しかし、ヒトモドキ属独自の「正義観」を知っておくことで対話は可能となるのです。
では、この特殊な「正義観」にはどう対処すべきなのでしょうか?
その手法は非常に簡単です。
論点をすり替えさせる隙を与えないこと。
多くの問題をいっぺんに片付けようとせず、一つずつ解決していくことです。
彼らヒトモドキ属にとって負けは「悪」ですから受け入れることは出来ません。
ですから負けを予感した瞬間に別の戦いを仕掛けて負けかけたことをなかった事にしようとします。
ヒトモドキ属以外の人が見れば「逃げた」「論点をすり替えた」「卑怯」と映るでしょうが、そうではありません。
ヒトモドキ属独自の「正義観」では負けなければ「正義」であり、「(その歪んだ)正義を貫くこと」が何よりも優先されているだけなのです。 哺乳類サル目ヒト科ヒトモドキ属の「とりあえず何でも良いから嘘をついてみるスタイル」を知ろう♪
ホモ・サピエンスがヒトモドキ族と遭遇した時に最初に驚くのは彼らの「ウソ」の多さでしょう。
小学校でヒトモドキ族と遭遇した者は「実は霊能力があるニダ」「実は王族の末裔ニダ」などというホラを真顔で語る姿にドン引きした記憶があるはずです。
中高でヒトモドキ族と遭遇した者は高級売春婦や高給労働者、密入国者をまるで戦争被害者であるかのように語る「被害者ビジネス」の一端を垣間見た記憶があるはずです。
その他にもヒトモドキ族特有のウリナラファンタジーや朝鮮起源説というウソを本気で主張するヒトモドキ族をたびたび目にしますね。
どうして彼らはホラやウソばかりを平然と語るのでしょうか?
まず、思い出さなければならないのは、彼らは私達ホモ・サピエンスとは姿形はよく似ていますが、ヒトモドキ族という別種の生物であるという点です。
多くの哺乳類がそうであるように、ヒトモドキ族にも独特の鳴き声があります。
それに該当するのがウソなのです。
彼らのウソはホモ・サピエンスのウソとよく似ていますが、一つ大きな違いがあります。
この違いを認識しておくと、彼らのウソに惑わされると言った被害を最小限に抑えることがあります。
ホモ・サピエンスはウソに対して罪悪感を持っていますから、バレるのを恐れ、なるべくバレないように真実味を加えてからウソを付くものですが
ヒトモドキ属は一般的には無能として知られ、知能的には三歩歩くと忘れてしまうニワトリに近いとされています。
ですから彼らのウソには真実味が加えられていない、または自身で加えた真実味自体を忘れてしまうという特徴があるのです。
よってヒトモドキ属の吐いた言葉がホラっぽいなと感じたら、「それって証明できる?」と聞いてみましょう。
この質問に即答できない場合はほぼホラを吹いたと認識して間違いありません。 この解説で自分の意見への支持が増えるとでも思っている?
恥ずかしいと思えよ。 >>392
その「ウェノム」の「ム」は何処から出てきたのだ。
古代の日本を表わす「倭」は支那でwoと発音し、waiとは意味上区別する。
オマエの旧宗主国だった支那人の考え方はここに書いてある。
↓
日本为(=為)什么叫“倭奴”求解答
//zhidao.baidu.com/question/1817554043231838708.html
かいつまんで書くと
倭奴を「倭」の「奴」と2語に分けて解釈したのは
三宅米吉など江戸時代の国学〜幕末の攘夷思想の影響を受けた連中。
(「世界に冠たる大日本帝国が支那に朝貢するわけがない」というのが根底にあった。)
金印を下賜するのは光武帝が倭に対して最高礼遇をしたことを意味する。
異民族の国に対しては銀印、銅印待遇。オリンピックの金銀銅メダルと同じランク付け。
では「委奴」の語源は何か?
先秦時代の発音がol-na(オイナ)
漢代の発音がoi-na(オイナ)
(先秦音と漢代音はイという母音の音色が若干違う。)
(「倭」も「委」も同じ発音、意味で通用することは「説文解字」に書いてある)
「女」を表わす古語の『をみな』又は『おみな』『おうな』を古代の支那人が聴き取って記録したものだ。
「委奴國」は「イト国」ではない。「奴」をド、トと読むのは
说(=説)“倭”读(=読)wa,“奴”读(=読)do
所据都是唐代音,而非汉(=漢)代音。“奴”日文汉音读do,虽(=雖)与to相似,但此等读法实际来自唐代中期的长安音
前漢、後漢の音読みではなく唐代中期の長安音(長安方言)である。 >>356
中国8000年前の高床式住居の画像を載せた記事のurlを貼ってくれ
なるべくなら中国語、漢文がいい。 >>399
>「女」を表わす古語の『をみな』又は『おみな』『おうな』を古代の支那人が聴き取って記録したものだ。
飛躍しすぎ。
国の名を問われて女と答える意味がわからない。 女王国を「をみなのくに」と訓じていたのかもしれないよ WIKIはインチキ 書きっぱなし
唐子鍵遺跡は多重環濠集落
//imgur.com/a/jE2jYOp そういえば韓国は南を倭に接するとあるし、
九州の北部は韓国だったのかも知れないな
伊都国に王がいたのに、
奴国規模の地域に王がいなかったが
奴国は韓国の領土だったのかも知れん
(弁辰には12人も王がいたらしいし、
半島の方に奴国の王がいたのかも知れない)
奴国の「な」は、任那の「な」だったのかも >>408
オイ!チョンコ
あちこちで完全論破されて居場所がなくなったからってマルチでホルホルしようとすんな無能!
【捏造中】 トンスルファンタジー会議 【創作中】
/ ../)こうであって欲しいニダ♪ / ../)
三三)/) ∧_,,∧ ∧_,,∧ 三三)/)無茶苦茶でも良いニダ!
三三)/ < `∀´> <`∀´ ;> 三三)/ 感情的に受け入れられないニダ!
∧_,,∧ と φ) (つ φ) ∧_,,∧ __
< #i!`Д>/⌒/⌒/ ̄/⌒/⌒/ ̄<田´#> / ../)
/ _∧_,,∧口 ∧_,,∧ ⌒ φと_ ヽ 三三)/)
(/< `>口 < #>φ/⌒//(__ム 三三)/)
 ̄(l ノ  ̄( ノ ̄ ̄ ̄|| 三三)/
`ー‐' `ー‐' もっとホルホルしたいニダ!
歴史は捏造するものニダ! 少なくとも、後漢書も魏志倭人伝も帯方郡から七千里の狗邪韓国から女王卑弥呼の倭国としているのに、それを頑なに拒んでいるよね。
誰の利益のために動いているのかわからない。 チョン猿、偉大なる倭人の朝鮮領を韓国領に改竄必死
負け犬の歴史って可哀想 他スレからの転載
紀元前から半島南部は菜畑や板付、金隈と同族の農耕縄文人が征服し、大陸からは辰国と認識された。
根拠として挙げられるのが、半島最古の住居遺構である松菊里住居跡が日本の竪穴式住居の劣化コピーであること、と半島最古の水田遺構である麻田里の温帯ジャポニカ米。
寒さに弱い農耕縄文人を尻目に、半島の北緯36度線以北に流入した様々な民族が弥生人(元縄文人)国家である辰国と融和しながら形成されたのが馬韓・辰韓・弁韓・狗邪韓国。
倭人(元弥生人)の影響を受けなかったツングース系・穢族・プヨ族を併合して高句麗に、馬韓は百済に、辰韓と弁韓が併合して倭種の国として新羅に、狗邪韓国が倭人の国として伽耶を含む任那に移行。
原韓人とも言うべき百済は倭国本土に媚を売り続けたため反感を買い、唐と組み、中国化した新羅に絶滅させられ、高句麗も滅亡し、任那は本土に撤退、統一新羅に。
その新羅も高麗に滅ぼされ、民族としての倭種の国は半島から消滅。
高麗はモンゴル帝国の侵略を受けツングース系とモングル系のハイブリッド国家へと変貌を遂げ、現在に至る。 縄文末期には半島に渡ってた痕跡も消えてほとんど絶滅しかかってた
国家を形成するほどの人口なんておそらくいなかっただろう
あったとしてせいぜい集落程度
紀元前の古書に毛人として出てきたところをみると文明人に迫害を受けてた可能性は否めない >>414これだな
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1555328315/438
〜チョンコ(通称:朝鮮ヒトモドキ)ショック死?! 半島はもともと農耕民族化した縄文人に支配統治された地域だった♪〜
朝鮮半島南部は紀元前から菜畑・板付・金隈と同族の農耕縄文人が征服し、大陸からは辰国と認識されていました。
根拠として挙げられるのが、
@半島最古の住居遺構である松菊里住居跡が日本の竪穴式住居の劣化コピーであること、
A半島最古の水田遺構である麻田里の温帯ジャポニカ米が九州島由来であることです。
なお、北部は遼河文明領域であり、ウラル系やツングース系が住んでいたことも判明しています。
寒さに弱い農耕縄文人を尻目に、半島の北緯36度線以北にウラル系や後には漢族系などが流入し、
弥生人(元縄文人)国家である辰国の技術指導を受け入れながら形成されたのが馬韓・辰韓・弁韓・狗邪韓国です。
北緯36度線の壁によって倭人(元弥生人)の影響を直接受けなかった
ツングース系・穢族・プヨ族を併合して高句麗に、
漢族系であった馬韓は百済に、
辰韓と弁韓が併合して倭種の国新羅に、
狗邪韓国が倭人の国として伽耶を含む任那に移行しました。
https://i.imgur.com/cL5IUF5.jpg
百済は元漢民族であったにもかかわらず、倭国本土に媚を売り続けたため、中華化した新羅から大いに反感を買い、唐と組んで逐滅(現代語 絶滅)させられました。
高句麗も滅亡し、任那は本土に撤退、統一新羅になったのですが、白村江の戦いは朝鮮半島から倭人や倭種の引き揚げが目的だったのだろうと推察できます。
その新羅も高麗に滅ぼされ、民族としての倭種の国は半島から消滅してしまいました。
高麗はモンゴル帝国の侵略を受けツングース系とモンゴル系のハイブリッド国家へと変貌を遂げ、現在に至っているのです。 >中国の古代の印章のなかに「民族名+国名」の構造をもつ印章実例を
>一つも見いだしえないことは、通説「委」の「奴国」説の
>克服すべき難点であるとされている。 (Wiki)より
上記の点を考慮すると、漢の委奴国王と読むのが正しいのかも _人人人人人人人人人人人人人人人_
> チョンコロがいるぞ殺せ!! <
 ̄Y^Y^Y^Y^Y^Y^Y^Y^Y^Y^Y^Y^Y^Y ̄
倭人
三 ( ´・ω)
三 ー(‐∪─→
三 / ̄ ̄ ̄ 》  ̄\
三三 | ナウマン象U ・ | 死にたくないニダ!!!
三 と| ι| | 三┏<;`Д´ >┛
三 /_∧∨ ̄ ̄/_∧U 三 ┛ ┓ | []_]∧∧
| | |/ 支\
| ( `ハ´) < 餌の時間アル
| ヽ( つと)
|ブリ || (ヽ ) ) ( ̄◎
| ブリッ )し'し' |~~~|
| ⊆=⊇  ̄゛
 ̄ ̄ ̄| | ̄ ̄ ̄ ̄
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|; : |
|●|
ホルホルホル ♪ ̄ ̄ ̄; :  ̄ ̄|
|. ∧_,,∧ .人. |
| <ヽ`∀´> (__) .....|
|:::(つ= ) \ /:::::::|
__∧___ ̄
待ちわびたニダ♪ 何の根拠もなく「存在が証明できないのだ。」とうめき
妄想フルスロットルで「〜だろう。」と断定したがる
識者らに追い詰められると「〜が妥当。」などとホラを吹いて逃げまどう
しばらくすると記憶喪失で再び同じ思い込みを延々とコピペする
それが キ ナ イ コ シ (主に邪馬台国・神代関連スレでの呼び名)
蔑称も多くあり、半島関連スレでは無能ヒトモドキと呼ばれ
高天原スレではカマチョン、海人族スレでは摂津チョンコ
最近では奥山と呼ばれることもしばしば
特徴としては思い込みが強く、他説を聞き入れる耳がなく
また聞き止める度量もない
そして追い詰められるとテキトーなホラを吹き、様々なスレを逃げ回る
そして突如として別キャラでネチネチと書き殴ることも少なくない
しばらくすると記憶喪失を発動させて懲りずに妄想を書きなぐるが、読解力に乏しく、
また思考に一貫性がないのでアルツハイマーの可能性が高い .
(8)蒸して食べる
7000年前 中国に起源
最近、タジン鍋やシリコンスチーマーといった、油を使わずに調理できる蒸し調理器具が話題になっています。
モノを蒸す調理法は、形を崩さずに素材の持つ美味しさをそのまま生かせるだけではなく、お酒やお茶を
作る際にも欠かせない調理法です。
この「蒸し調理」、実は東アジアで発達した調理方法なのです。
蒸し調理の起源は、今から6000〜7000年前の中国新石器時代にまで遡り、黄河流域の遺跡から、
粘土で作った蒸し器がわずかながら発見されています。それ以前は、ゆでる、煮る、焼くといった調理法が
基本だったと考えられています。
日本へは中国東北地方、朝鮮半島を経由してこの調理法が伝わりました。最初に蒸し調理が行われたのは
3世紀頃の北部九州。福岡市の西新町遺跡から土製蒸し器が出土しています。実に4000年余りの時を経て、
ようやく日本にまで到達したことになります。
しかし、この後、日本では蒸し調理は廃れ、全国的な普及はそれから数百年後のことでした。
今では日本料理とは切っても切れない蒸し料理。普段、何気なく接している蒸し料理にも、
数千年にわたる人々の営みが隠されているのです。 http://www.nabunken.go.jp/nabunkenblog/2014/04/tanken08.html
◆7000年前の江南の河姆渡遺跡の竈(=火へんに土)と釜と甑
http://inoues.net/museum/mikata_museum_kaboso.html
. .
7000年前から中国では炊飯するのに、釜と竈(=火へんに土)のセットで炊く、
鼎で炊く、さらに甑を釜にセットして蒸し上げる、という3種類の炊飯方法があった。
ところが縄文末に渡来した、いわゆる弥生人は渡来時に釜も竈も鼎も甑も何一つ伝えなかった。
弥生人は弥生末の3Cに甑が半島から伝わるまで甑で蒸し上げて炊飯する事を知らなかったのだ。
中国には7000年前からある甑で蒸し上げて炊飯する方法を弥生末の3Cまで知らなかったのだ。
同じく中国には7000年前からある竈も釜もそれまで知らなかった。
弥生人が中国からなんて2兆%あり得ないね。
. ∩_
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| |r┬-| | / < 反日教育に侵された
\ ` ー'´ // 在沖ヒトモドキ丸出しw
/ __ /
(___) / >>429
∩_
〈〈〈 ヽ
____ 〈⊃ }
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/( ●) (●)\ ! !
/ :::::⌒(__人__)⌒:::::\| l
| |r┬-| | / < 反日教育に侵された
\ ` ー'´ // 哀れな在沖ヒトモドキw
/ __ /
(___) / .
今から約3500年前の紀元前15世紀には、朝鮮半島でも数ヘクタールという大きな畑を
作って、そこでコメや麦を栽培する生活が始まります。朝鮮半島では日本よりも
500年も前に、本格的な農耕生活に入ったのです。
紀元前11世紀になると、朝鮮半島南部で水田稲作が始まります。本格的な穀物栽培が
始まって約400年後のことになります。
こちらにある写真は韓国で最も古い水田の一つの写真です。釜山の少し北側に
位置する蔚山(ウルサン)市で見つかったオクキョン遺跡の水田跡です。
http://10mtv.jp/pc/content/detail.php?movie_id=2975
※炭素年代測定と他国からの共同研究を拒否して埋め戻す隠蔽工作をしたという
ウソのレッテルをしている中国人詐欺師にその証拠提出を無数に求めましたが、
その証拠が出てきた事はありません
遺跡のメイン部分が今も空き地である事などグーグル地図の航空写真で確認すれば
容易に分かる事であるし、それ以前にこれは国の研究機関の公表であるので悪しからず
. >>431の在日ヒトモドキは執拗に玉峴(オクヒョンorオクキョン)遺跡のウソを流布して回っていますが、同遺跡は意図的に炭素年代測定を行わないまま埋め戻された程度の価値しかありません。
1999年に学術論文「ウルサンムゴドン オクヒョン遺跡」(イ・サンギル、イ・ヒョンソク、ガク・ジョンチョル共著)が発表されて以来20年以上も研究対象になっていない遺跡です。
同論文に在日ヒトモドキが言うような紀元前15世紀や紀元前11世紀などという記述は皆無な上、玉峴(オクヒョンorオクキョン)遺跡の地は大韓住宅公社に売却され既に「文殊中学校」になっていると明記されています。
加えてウルサン市の公式サイトには、玉峴(オクヒョンorオクキョン)遺跡の地は大韓住宅公社運営の「オクヒョン第二住公アパート」になっていると明記されています。
本国ですら正確な位置を把握していないという無価値さを証明するように玉峴(オクヒョンorオクキョン)遺跡を示す記念碑はこの地球上に存在すらしていません。
そもそも玉峴(オクヒョンorオクキョン)遺跡のウソを始めたのは元国立歴史民俗博物館の藤尾慎一郎氏ただ一人であり、そう主張した2019年に同氏は副館長から一般研究員に降格しました。
よって突如として玉峴(オクヒョンorオクキョン)遺跡の水田遺構が日本最古の水田遺構より古いという主張は、中国における玉蟾岩土器を模倣した悪質な反日愛国行為としてすでに韓国歴史学の恥部となっています。
にも関わらず、在日ヒトモドキは学術論文や行政の発表という現実から逃げ回り、グーグル地図うんぬんやら国の研究機関の公表だとホラを吹き、中国共産党への被害妄想に嵌まり込むという醜態を繰り返すしか能のない卑しくも憐れな無能生物なのです。
グ ー グ ル 地 図 う ん ぬ ん や ら
国 の 研 究 機 関 の 公 表 だ と
ホ ラ を 吹 き 、
中 国 共 産 党 へ の 被 害 妄 想 に
嵌 まり 込 む と い う 醜 態 を
繰 り 返 す し か 能 の な い
卑 し く も 憐 れ な 無 能 生 物な の で す。
グ ー グ ル 地 図 う ん ぬ ん や ら
国 の 研 究 機 関 の 公 表 だ と
ホ ラ を 吹 く こ と で 精 神 勝 利 を 画 策 す る
惨 め な 無 能 生 物 が >>431 で す。 倭奴(アイヌ)ー倭族の冊封国(朝貢国)
匈奴(フンヌ)ー匈族の冊封国(朝貢国) ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています