♪邪馬台国ドンと来い!♪137
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前スレ
♪邪馬台国ドンと来い!♪136[転載禁止]©2ch.net・ https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1522673515/l50 >>94
>渡海千里で渡っていく対馬も壱岐も倭種の国という記述になる
誤読だね、九州島にたどり着いた後の表現だろうな 自衛隊の歩数での距離の測定って、つま先と踵をつけて歩いているのでは?
同じことを魏の使いもやったんだろう。 >>72 後漢書引用 乙
後漢書は400年以降成立なんだよ。
倭の五王時代が始まっている。
邪馬台国は300年台早々には滅びているとみるべき。 ←これはひどい
魏が持っていた情報は、卑弥呼は南の狗奴国と不和。
後漢書の情報には、記紀に示される通り、400年までに
仲哀、ヤマトタケル、神功皇后が九州を平定してる、があるんだよ。
卑弥呼が死んだ247〜8年で、倭人船便乗で査察に来た
張政がおそらく援軍を呼んで来るとでも言って騙して帰国便を出させた
壹與遣倭大夫率善中郎將掖邪拘等二十人 送政等還因詣臺 の帰国報告はない。
つまり、中国には、この間の倭国情報は、ほぼ無い。
想定されるのは、中国が313年、漢四郡放棄、
百済新羅建国支援の倭国の半島進出を見なかったふりなんだな。
倭の五王が邪馬台国の東国の王であれば、
卑弥呼と戦争していた狗奴国が400年に後漢書で東国と改められた理由は読めるだろ。
倭人伝を先入観無しで、ただ読むという行為に、
東遷説も畿内説も、ご都合主義のチェリーピッカーwww なんで
文の作為や背景を指摘すると、見えないものが見えるのか?
というが、行間を読むとはそういうことだ。
ご都合主義の翻訳じゃダメ。
ドン来いスレなんだからテンプレ毎日10回読んでから おいでよwww 東国と改めた理由は簡単で、奴国が極南界ってことにしちゃったから
その南に倭種の国があったら困るだろ
後漢書なりに論旨を一貫させてるんだよ
なんでこんなことがわからんのよ? 【邪馬台国の終焉】
八咫の鏡を持つ卑弥呼の後継者の一人であり、筑紫の梟帥の称号を持つ神橿日姫(神夏磯姫)の時、外部勢力である景行天皇とともに耳垂などかつての邪馬台国の官を粛清している。
景行天皇の孫の仲哀天皇が息長帯姫(神功皇后)とともに神橿日姫ゆかりの筑紫橿日宮(香椎宮)に入るとき、
伊都高祖宮と筑紫岡田宮の王(五十迹手、熊鰐)が出迎えたが、仲哀天皇は筑紫橿日宮で急死してしまう。
景行は神橿日姫と共闘していたが、仲哀の妃の息長帯姫は筑紫を支配していた羽白熊鷲や、神橿日姫の末裔とされる田油津姫を殺し、武内宿禰とともに筑紫の全権を掌握し、朝鮮半島に出兵する。
倒された側の耳垂や田油津姫はいずれも正史では土蜘蛛と称されており、勝てば官軍、負ければ賊軍のような状態であったと考えられる。
田油津姫の宮は銅を産出する香春岳の麓の香春宮であったが、決戦の地に筑後山門を選んだのは、そこが本貫地であり、自身が邪馬台国の女王であるという意識があったかもしれない。
羽白熊鷲の名は息長帯姫側の熊鰐と同類の名前であり、筑紫の王家の一員であったろう。
田油津姫も八咫の鏡を保有していた神橿日姫の末裔と伝えられており、筑後〜筑豊の女王であったと考えられる。
つまり息長帯姫の土蜘蛛征伐は筑紫倭国すなわち邪馬台国の末裔による内紛に他ならない。
その中でも、筑後・筑豊・肥前に拠点を持つ肥国邪馬台国の女王の系譜は、卑弥呼、壹與に続く神橿日姫、田油津姫までで終わりとなる。
仲哀の急死は息長帯姫と武内宿禰による暗殺であり、その夜に息長帯姫と住吉の神(武内宿禰)の間に密事があったと伝えられている。
息長帯姫は、仲哀の本来の皇后(大中津姫、仲哀と同じく景行の孫で息長帯姫より高貴な身分)の皇子二人も殺害し、仲哀の血筋を根絶やしにして、武内宿禰との間の子である応神を天皇にした。
天皇の諡号の中に神の文字が入っているのは各王朝の祖先神を表しているという説がある。神武、崇神、応神がそれであり、応神天皇が現在の天皇家の始祖となる。
その宗廟である宇佐神宮は八幡信仰と結びつき、後世の天皇家から伊勢神宮以上の崇敬を集め、政治的権威も強かった(宇佐神託事件など)。 >>107
またそんな屁理屈をw
「倭在帯方東南大海中 依山島爲國 度海千里復有國 皆倭種」
「また国あり、みな倭種」ってんだからその「国」が倭種だろうが。
倭種であるその国が「倭国でない」って自分が何言ってるのかわかってんのかよw >>110
誤読で済むなら俺もいうよ「おまえが誤読だね」 >>109
>「また国あり、みな倭種」ってんだからその「国」が倭種だろうが。
>倭種であるその国が「倭国でない」って自分が何言ってるのかわかってんのかよw
それはおかしい。
ここでいう倭種の国は、国邑くらいの意味の方だろう。
中国が国体としての倭国と認識していたのは、あくまでも九州北部だよ。 >>111
韓国にも関係しているけど、本貫地は北陸じゃなかったかな?
むしろ韓国に攻め込んでいるし。 >>113
認識と公認はちがうだろ
卑弥呼に所属してる範囲(女王国)だけが魏が公認する倭国。
卑弥弓呼に所属する狗奴国とかその他の国々(男王国)は
それらも倭国の一種、倭国の一部だと認識はしていても公認できない。
だから倭種と書いてる。
蜀の自称は漢だけど魏は漢だとは認めてないから蜀と呼んでるのと同じこと。 >>102
>自衛隊の歩数での距離の測定って、つま先と踵をつけて歩いているのでは?
>同じことを魏の使いもやったんだろう。
誤差は積み上がるものだから、計測単位を小さくして、「歩数」が膨らむ測り方は
あり得ない
歩測は複歩で数えるのが基本だし、「つま先と踵を」というような測り方では時間もかかりすぎる
あまりいい加減な憶測を書くなや
一歩36センチでポクポク歩くのはあきらめたのかい?w >>101
>誤読だね、九州島にたどり着いた後の表現だろうな
魏略だけを読む限り、対馬も壱岐も渡海千里の倭種の国という方が自然な読み方
まあ、九州にたどり着いたあとでも構わないがね
本土3島から、渡海千里=一日で漕ぎ渡れる範囲の島にも、倭種の国があるという表現だ >>105
>つまり、中国には、この間の倭国情報は、ほぼ無い。
晋書は東夷伝が充実していないけれど、複数回の東夷の各国からの朝貢を
国名は記さずに記録している
倭国情報はほぼないという状況でもない
>文の作為や背景を指摘すると、見えないものが見えるのか?
>というが、行間を読むとはそういうことだ。
九州説の人はよく、大陸史書を「解読」しているけれど、魏志倭人伝を含め
大陸史書は暗号書でもパズルでもないんだから、読めば分かるように書いてあるんだよ
それを「解読」する上で勝手な「前提」を置くから、九州説はトンデモ説になる
その「前提」、>>105の表現では「行間」が、憶測や捏造のもとなんだよ >>116
>誤差は積み上がるものだから、計測単位を小さくして、「歩数」が膨らむ測り方は
ポクポク歩いたら誤差が出る。
つま先と踵をつけると誤差は小さくなる。 大陸史書は暗号書でもパズルでもないんだから、読めば分かるように書いてあるんだよ
普通に読めば、伊都まで来てそこに滞在し、内政官である大率も伊都にいて、里程も伊都で尽きるのだから、伊都が女王国の王都だよ。 >>120
>ポクポク歩いたら誤差が出る。
>つま先と踵をつけると誤差は小さくなる。
一歩72センチ複歩で144センチ
つま先踵歩きで靴裏25センチだと約6倍の回数計ることになる
一歩あたりの誤差が6分の1以下にならないと、結局測定誤差は大きくなるんだよ 百歩程度だからね。
誤差はつま先と踵を合わせた方が小さくなるよ。 >>119
ま、普通に読んだら九州なんだけどな
大和の要素なんかこれっぽっちも書いてないのが魏志倭人伝
本土三島あるなんかどこにも書いてるように見えないしな >>124
大陸史書の歩、だったら、問答無用で複歩だよ
長さとしての歩は、古代中国の周代に制定された。
右足を踏み出し、次に左足を踏み出した時の、起点から踏み出した左足までの長さ
(現代日本語でいう「2歩」)を「1歩」とする身体尺
周歩=約 1.35 m
秦漢歩=約 1.38 m(始皇帝の度量衡の統一)
魏晋歩=約 1.45 m
隋歩=約 1.77 m
唐歩=約 1.56 m(1歩=6尺から1歩=5尺に変更) 普通じゃない頭だと普通に読んだつもりでも普通には読めない 伊能忠敬の歩測では、複歩で約138センチで秦漢代の一歩とほぼ等しい
単歩で69センチだな
現代では、歩測は複歩で150センチになるように調節する訓練をするそうだ
この場合は単歩で75センチ
ソースも付けておこうか
http://www5a.biglobe.ne.jp/kaempfer/kodomo/taiken/hosoku/hosoku.htm
さらに、年齢別の単歩の集計結果も見つけたので、貼っておく
男性は、15歳から49歳の範囲で、70センチを超えてるよ
https://pt-matsu.com/wp/wp-content/uploads/2017/11/a94943a9de0a8cbd0c25e72e0ba1dd7b-1.png 「歩」は文字の成り立ちからいっても複歩
https://f.jigen.net/img/fn/k/1/70/27497o1.png
#1歩(あゆ)む。足をふみ出してゆく。
#2歩(ある)く。歩行する。
#3止は左足の足あと、𣥂は右足のあしあと。左右の足あとを連ねて歩行の意とする。武は半歩、歩は六尺、合わせて「歩武堂々」のようにいう。足を地に接して歩くことは、その地の地霊に接する方法で、重要な儀礼に赴くときには歩するのが常法であった。(字通)
#4右の足+左の足。左と右の足をふみ出すことを示す。(漢字源)
https://jigen.net/kanji/27497
説文解字
步,行也。从止少相背。凡步之屬皆从步。
行くなり、止と少の相背に従ふ、凡そ步の屬は皆な步に従ふ。 >>116
>誤差は積み上がるものだから、計測単位を小さくして、「歩数」が膨らむ測り方は
適当に歩く方が誤差が出るよ。
それに100歩歩くのに大した時間はかかるまい。 >>129
何キロもの長さを測るのと、墓の大きさを測るのと一緒にするなよ。
それに、歩の字解の図ではつま先と踵が揃っているよ。 >>131
>適当に歩く方が誤差が出るよ。
>それに100歩歩くのに大した時間はかかるまい。
適当に歩いても、誤差はプラスマイナスで打ち消しあうから、きちんとした歩測は
かなり正確
目測の10倍程度の精度がある
その前に>>127を無視しなさんな
大陸史書の歩は、問答無用で複歩だよ
建忠校尉の梯儁さんも、塞曹掾史の張政さんも、魏朝のお役人さんなんだから
魏朝の公定尺である魏尺の歩以外で報告書を書く訳がないじゃないでしょ!
魏晋歩=約 1.45 m ! >>132
>何キロもの長さを測るのと、墓の大きさを測るのと一緒にするなよ。
墓の大きさって言っても、
卑彌呼以死大作冢徑百餘歩
と書かれた大塚だぞ
つま先・踵歩きだと600歩以上かかる
>それに、歩の字解の図ではつま先と踵が揃っているよ。
あのさ「文字」なんだよ? 抽象化したものだし、間にすぺーす取ってたら
文章が書けないだろうが
そんなことしか言い返すポイントがないのかよ 大作冢ですね、作るに大が掛かってますから「大いに冢を作る」の意味でしょうね
冢が大きな墓の意味ですから大冢だと大がダブりますね
「卑彌呼以死 大作冢 徑百餘歩 狥葬者奴碑百餘人」ですから墓の周囲径百歩内に奴婢100人が殉葬されているんでしょうね。 大作冢 徑百餘歩で、「冢の径が百餘歩」じゃなかったらびっくりだよ
>>125で「ま、普通に読んだら」って書いてるのに、
どうしてそんな普通ではない読み方をするんだよw >>139
普通に読んだら、九州の話ばかりだよ。
畿内なんて地名の一つも出ない。 >>141
>畿内なんて地名の一つも出ない。
邪馬台国⇒ヤマト国
目的地がばっちり畿内の地名ですやん! ヤマトはニギハヤヒが3世紀後半に付けた名前だからな 大阪の交野(かたの)に森古墳群という前期古墳群があります。
この古墳群、前期古墳にしては珍しく被葬者が特定できます。
交野の語源になった肩野物部です。
当地にある天田神社の祭神は、今は住吉大神ですが、
その由緒書きに、それ以前の祭神がニギハヤヒであること、
そして開拓民としてはっきりと肩野物部の名前が記されています。
この森古墳群の最古にして最大の墓が雷塚古墳(3世紀末)です。
この古墳は箸墓古墳を小さくした形で、被葬者が崇神の叔父である伊賀色雄命ではないかとも言われています。
そして今も枚方市伊香賀町という地名が残っています。
ただもう一人候補がいます。
先代旧事本紀で伊賀色雄命の1代後、ニギハヤヒから数えて7世後の多弁宿禰命(たべのすくね)です。
この人物は先代旧事本紀に交野連と書かれてます。
いずれにしても崇神以前から物部氏が前方後円墳を墓制に採用してた傍証になると思われます。
やはり纏向古墳群は物部氏の墓群でしょう。 >145
>いずれにしても崇神以前から物部氏が前方後円墳を墓制に採用してた傍証になると思われます。
やはり纏向古墳群は物部氏の墓群でしょう。
「物部氏」の祖神とされている伊加賀志許賣命・伊加賀色許雄命が日本で唯一、阿波國麻殖郡 伊加々志(いかがし)神社で祀られていることから、物部氏は旧麻植郡が本拠だろう。
伊加賀志許賣命・伊加賀色許雄命の子孫が畿内の拓殖に入ったということ。 @阿波 250年以前の日本にそもそも漢字の地名が存在する
と、考えることが普通じゃないんだけどね。
和語名詞を中国語化したのは、倭人伝記録が最古で
奉詔書印綬詣倭国 で、来日した帯方郡の使譯梯儁または、郡の役人。
台は表意文字のようだが、邪馬台国が何を意味するか理解できる倭人が居たかな?
それ以前で、倭人に通用した可能性のある名詞で
漢字化されたのは(漢の)倭奴国、人名で帥升。
倭がやまとの源字として日本を意味する漢字だと、誰が知っていたかな?
200年の奈良=ヤマトの根拠って何?
こういうのは、漢字伝来以降に、ある時の天皇が定めてないか? >>145
>いずれにしても崇神以前から物部氏が前方後円墳を墓制に採用してた傍証になると思われます。
方墳墓は蘇我氏一族専用の墓型か?
蘇我氏の本拠地:徳島県石井町の曽我氏神社古墳群
先日のNHKでは、方墳は飛鳥時代蘇我稲目の都塚古墳から突然始まると放送されていたが
蘇我氏の本拠地とされる徳島県石井町の曽我氏神社古墳群にはそれに先立ち、古墳時代前期に既に10m×12mの方墳(2号墳)が確認されている。
このことから、方墳墓は蘇我氏一族専用の墓型であった可能性が高い。
また、同じ石井町には奈良の大和朝廷に先行すると思われる白鳳寺院跡および白鳳瓦窯跡が確認されている。
他にも吉野川中流域の美馬町・川島町にも白鳳寺院跡が存在する。
これらも阿波国内で頭角を現した有力豪族、蘇我氏に由来するものであろう。 @阿波
[石井町/曽我氏神社古墳群]
http://awakouko.info/modules/xpwiki/?%C0%D0%B0%E6%C4%AE%2F%C1%BE%B2%E6%BB%E1%BF%C0%BC%D2%B8%C5%CA%AF%B7%B2
[石井町/前山古墳群]
http://awakouko.info/modules/xpwiki/?%C0%D0%B0%E6%C4%AE%2F%C1%B0%BB%B3%B8%C5%CA%AF%B7%B2
[石井町/清成古墳]
http://awakouko.info/modules/xpwiki/?%C0%D0%B0%E6%C4%AE%2F%C0%B6%C0%AE%B8%C5%CA%AF 「阿波国南部海岸地域の一様相」
ー芝遺跡を中心としてー 林田真典
芝遺跡の発掘成果へ戻る
1、はじめに
芝遺跡は四国、徳島県南部海岸沿いの海部郡海陽町(旧海部町)芝・野江に所在する。
阿南室戸国定公園内の海岸沿いに位置し、高知県との県境に近い。
芝遺跡は、現在の海岸線より約2キロメートル程内陸に入り、海部川の右岸、
母川とに挟まれた沖積平野の微高地および尾根の先端付近に位置する。
海部川の河口では砂堆が発達し、ラグーンを形成していたと考えられ、郡内一の沖積平野を形成している。(海部町史1971、寺戸1995)
徳島県南部地域ではあまり発掘調査は進んでいないが、当地域では県内2番目の大きさの横穴式石室を備えた
古墳時代後期の大里2号墳(東1997)をはじめ、
中世には材木の生産地(1)、高知県境の防備(2)など、海上交通ルートを中心に注目されてきた地域である。 2、調査成果
芝遺跡では3面の遺構面を確認した(3)。
第1遺構面は中世にあたり、13世紀後半〜14世紀中頃にかけての屋敷境溝を持つと考えられる
掘立柱建物跡や土壙墓などを検出した。
このうち、土壙墓は屋敷墓と考えられ、海部刀短刀・土師器杯・皿が出土し、13世紀後半頃と推定できる。
第二遺構面では弥生時代後期〜古墳時代前期前半頃にかけての竪穴住居や溝、旧河道等を検出した。
旧河道からは外来系土器が多数出土している。
第3遺構面では弥生時代前期後半以降頃以降の遺構と遺物を検出した。
中期中頃〜後半にかけての円形周溝墓を4基検出し、
時期が確定できる円形周溝墓としては、県内初出となった。
この内、円形周溝墓1は直径約11メートル、溝幅が最大約2メートルを測り、陸橋を持つ。出土遺物は陸橋周辺に集中して出土しており、
結晶片岩を含む吉野川下流域産と考えられる土器がほとんどを占め、若干の在地土器が混じる。
この他、周溝墓の可能性のある溝も検出しており、この時期の集落内墓地であった可能性が考えられる。
また、弥生時代後期中頃と推定される竪穴住居33200では、炉跡内から鉄切片・小破片が出土し、炉跡底面に焼土面が広がっていた。
そのため、本炉跡は鍛冶炉跡と推定され、U類(村上1998)にあたると考えられる。
この他、サヌカイト片や特殊なものとして朱付着石杵も出土しており、この朱は水銀朱であることが確認されている(4)。
したがって、竪穴住居33200では石器・鉄器・朱を扱う工房跡であった可能性が指摘でき、
阿波南部地域に鉄・朱が伝わっていたことを実証できる好資料である。 3、旧河道出土資料について
旧河道からは弥生時代終末頃〜古墳時代前期前半頃にかけての外来系土器が多く出土した。
報告書では旧河道をそれぞれ溝12164、溝33239〜溝33241、溝33244とし、主に上層と下層に分けて、
遺物の取り上げを行った。
特に溝12164は幅5m以上、深さ1.1mを測り、大きく上層・中層・下層の3層に分層できた。
下層から布留甕1個体が出土し、上層からは東阿波型土器や布留式土器がまとまって出土しており、時期差の可能性が
考えられる出土状況が確認できた。
図3は旧河道出土土器の内、実測し、報告書に掲載している個体総数の内訳を表したものである。
この割合が遺跡全体の割合を表しているわけではないが、参考として提示した。
実測総数196個体に対して、
阿波97個体で48%、畿内39個体で20%、在地36個体で18%、讃岐7個体で4%、土佐3個体で2%、
吉備3個体で2%、産地不明が12個体で6パーセントである。
約半数が阿波(東阿波型土器を含む吉野川下流域)の土器で占めており、次いで畿内系土器、在地時の出土数が多い。
讃岐や土佐、吉備の出土数は数%に留まる状況を示している。 芝遺跡では弥生時代前期後半頃には吉野川下流域や紀伊からの搬入品が認められるが、
特に吉野川下流域土器は弥生時代を通じて恒常的に出土すると考えられる。
弥生時代終末頃になると吉野川下流域時の他に、畿内・讃岐・土佐・吉備からの搬入品が認められるようになるものの、
普遍化した出土状況は見られない。
古墳時代前期前半頃になると吉野川下流域時が主体であることに変わりはないが、一定量の畿内系土器の搬入が認められる
ようになる。
以上のような搬入土器の出土状況や共伴関係の検討から、
吉野川下流域の搬入時を主体とし、複数地域からの搬入土器が混在する第一段階(弥生時代終末頃〜古墳時代初め頃)。
吉野川下流域地域の土器・畿内系土器が主体となる第二段階(古墳時代前期前半頃)に分類することができると考えられる。
第一段階は伝統的な交流からの脱却の揺籃期、第二段階は交易ルートの確立を意味し、この現象は吉野川下流域、
なかでも鮎喰川下流域集団の影響が大きく、朱を媒介として交流が盛んに行われていたものと考えられる。
朱の搬出や食料供給に阿波南部地域集団が関係(菅原1992、岡山 2002)していたことを示す資料である。
吉野川下流域地域で、あまり搬入土器が見られない現段階では、吉野川下流域地域を主体とし、
間接的に阿波南部地域が関わっていた場合と阿波南部地域が直接的に交流・交易を行っていた場合が考えられる。
そして、土佐のタタキ甕や布留式土器などが本遺跡で出土したことは、吉野川下流域地域を主体とした間接的な
交流・交易を行いながら、他地域との直接的な交流・交易も行っていた可能性を示していると推定される。 4、周辺の遺跡の様相
本地域は発掘調査がほとんど行われていないため、資料数が少ないが、海部川河口砂堆に所在する大里松原神社遺跡において
若干の土器が採集されている。
東阿波型土器や下川津B類時が出土しており、在地産土器と外来系土器が混在する状況を示している。
時期は大きく弥生時代後期後半と古墳時代前期初頭の2時期に分かれ、
この在地土器と外来系土器の混在する状況が、本地域の特徴であると意義付け、海人の存在が想定されている。(菅原1992)
この他、吉野川下流域地域で畿内系土器が出土しているのは黒谷川郡頭遺跡(菅原1989)や石井城ノ内遺跡(日下1999)などに
限られ、出土点数も数点しかない現状では、阿波南部地域の特異性が窺える。 5、まとめ
芝遺跡は阿波南部地域で数少ない発掘調査を行った遺跡である。
県内では珍しい円形周溝墓をはじめ、竪穴住居等の遺構や弥生時代前期後半以降の土器・石器も出土し、
本地域の集落形態の一様相が確認できた遺跡である。
また、弥生時代終末頃〜古墳時代前期前半頃にかけての搬入土器がまとまって出土したことから、
出土状況・共伴関係の検討を行い、各搬入土器の搬入時期のピークを探った。
土器の搬入には鮎喰川下流域集団の関与が想定され、一連の動きに若杉山遺跡(岡山1997)の朱が関わっていると考えられる。
本地域の発掘調査事例が芝遺跡に限られる現状では、搬入土器が普遍的に出土するのか、芝遺跡の特異性なのか、判断しがたいが、
大里松原神社遺跡においても搬入土器が認められることは、
本地域に一定量の土器が搬入される状況があったことの傍証になるものと考えられる。
芝遺跡は土佐ー阿波ー畿内を結ぶ四国東岸海岸沿い太平洋ルートを想定できる遺跡であり、
海上交通に際しての人・物が集中する拠点集落であったと考えられる。 古墳時代初期(約1800年前)の遺構から、出土した土器は概ね、弥生時代終わり頃〜古墳時代初め頃に製作されたと考えられ、徳島(東阿波型土器)、香川(下川津B型土器)、高知(ヒビノキ式土器)、岡山、関西地域(布留式土器)と、他地域で製作された土器が多く出土。
特に、「布留式土器」と呼ばれている関西地域で製作された土器となると、他地域での出土点数は限られてくる。
ところが、芝遺跡では、頻繁な交流が行われた結果として、各地の多くの土器が出土している。
おそらく港的な役割を果たしていたと考えられ、寄港地、宿場地として盛況していたと思われる。
芝遺跡では弥生時代前期後半頃には吉野川下流域や紀伊からの搬入品が認められ、
弥生時代終末頃になると吉野川下流域の他に、畿内・讃岐・土佐・吉備からの搬入品が認められるようになる。
古墳時代前期前半頃になると吉野川下流域時が主体であることに変わりはないが、一定量の畿内系土器の搬入が認められるようになる。
この在地土器と外来系土器の混在する状況が、本地域の特徴であると意義付け、「海人」の存在が想定されている。
この他、吉野川下流域地域で畿内系土器が出土しているのは黒谷川郡頭遺跡(菅原1989)や石井城ノ内遺跡(日下1999)などに限られ、出土点数も数点しかない現状では、阿波南部地域の特異性が窺える。
これは往古徳島県の海岸沿いにあった長國の範囲内とも一致する。 邪馬台国論争という、些末な王朝に拘泥するスタンスが
日本王朝本流の阿波の歴史の真実を見せる事から遠ざけてるのは解る。
なぜ、同時代に並立してたに決まっている
奈良や邪馬台国と競合することで
歴史上の事実を粉飾する道を選ぶ? 7世紀以前の倭国は言葉も違う。
いわゆる上古文であり、奈良平安以降の古文とは区別される。
日本語の大きな変化は、奈良遷都の頃と江戸幕府成立の頃に起こる。
それは政治中心地の移動と対応しているかもしれない。 邪馬台国比定地について、宮崎康平著「まぼろしの邪馬台国」では自分の
故郷に比定している。
高木彬光著「邪馬台国の秘密」では、九州のある地域を比定していた。
松本清張氏の著書でもこの問題を扱っていたようだが、彼の著書は読んでいな
い。
他にもこの問題を扱っている作家はいるだろう。 >>158
>やまとことばの成立は平安時代だな
それは和歌とかに使う雅語のことでしょ
そうじゃなくて、例えば「やま」という言葉は、漢字の「山・サン」からは出て来ない、
日本語固有の言葉
そういう意味で、「やまと」は「倭」の置き換えとかではない、日本固有の地名だってこと
「おおはつせわかたけるのみこと」なども大和言葉 山の民と海の民との交流―水運
三木 信夫
道が整備されていない古代迄の交通路は,水運が徐々に発達し,
すでに縄文時代には鳴門市からこの阿南市・海陽町にかけて海運交通のあったことが遺跡からみられます。
阿南市の若杉山遺跡は,弥生時代に赤い顔料の水銀朱をつくるため,全国唯一の辰砂(しんしゃ)の原産地遺跡でした。
辰砂=水銀と硫黄化合物の鉱石,辰砂を粉砕して水銀朱を取り出す。
弥生時代から古墳時代を中心に,遺骸や棺に朱色を塗る風習が盛んに行われて,水銀朱は朱・丹等と呼ばれ使用流通したのです。
この遺跡をみますと,板野郡板野町の黒谷川郡頭(こうず)遺跡や名東遺跡などから朱の精製用具等が発見されており,
弥生時代終末期(西暦200年頃)の若杉山辰砂が,海や河川を利用して運ばれております。
若杉山遺跡にある土器類も,吉野川流域土器や鮎喰川上流の結晶片岩の混在した土器,また畿内的土器など各地の土器が混在しており,
河川や海を通じて運び込まれています。すでに若杉山遺跡には,辰砂を運び出す人や食料等を運び入れる人等の組織化された海上交通に関わる集団がいたとも考えられています。
古代に下りますと,都を起点に諸方に陸上交通である宿駅が整備され,駅路すなわち国道がつくられていきます。
阿波でも鳴門の撫養から讃岐・伊予・土佐に抜ける南海道と呼ばれる国道があり,それ以外に阿波国から土佐国へ通じる駅路の国道が,
おおよそ現在の国道55号線沿いに阿南市から海陽町までの海岸沿いを,奈良時代初期の養老2年(718)設置され,
平安時代初期の延暦15年(796)廃止されるまで,水上交通路と並行して多くの港や津を経て延びていたのです。
「津」とは陸上交通路と水上交通路が交わる人の集まる交通の要衝に,物資の集積拠点として形成されたものです。 平安時代972年の延喜式大嘗祭式には,阿波国より麻植郡の忌部氏と那賀郡が由加物すなわちお供え物を調進する事になっていました。
この事は古代より忌部の山の世界と那賀郡の海の世界との「人・物の交流」があり,拠点が水運を利用した吉野川中流域山崎の津であったと考えられます。
大分すたれてきましたが,吉野川中流域の人達は,南西の方角,剣山(つるぎさん)を中心とした四国山地の方向を指して「ソラ」または「ソラの人」と呼んでいました。
この場合の「ソラ」とは「山」の事です。旧麻植郡山地部の大半を占める旧種野山内にある三木山の頂上近くにある三木家周辺は,古くより「空地(そらのち)」と呼ばれ,
地名も「大字三ツ木字空地」となっていましたが,近年の国の地名編成で大字が削除され「字」が「貢」に変更された為,地名から「空地」が消えたのです。
この「ソラノチ」への入り口が,吉野川中流域の旧忌部神社がある山崎の地で,山への入り口でもあり,古代より中世まではこのソラ(山)への交通路の起点となっていました。
その為古くからこの山崎は忌部神社の門前市(いち)を通じて吉野川を経由した海の民・平野の民とソラ(山)の民との物産の交易の場として津が形成され,ソラの世界の発展と共に成長してきております。
船を自由に操り水運にたけた海の民が,交易の場に情報や文化を共に運んで麻植の忌部やソラの民を支えてきたのかもわかりません。 大嘗祭は、即位に伴う最重要神事とされ、政府は「公的な皇室行事」と位置付けた。
新天皇の即位後、最初に行う皇室の重要儀式「大嘗祭」では、阿波の氏族「阿波忌部」が麻で織った反物「麁布(あらたえ)」を調進してきた歴史がある。
阿波忌部の子孫として大嘗祭に関わった旧家の古文書や貴族の日記から、阿波と朝廷祭事のつながりを紹介する。
阿波忌部の子孫と伝わる旧家は、美馬市木屋平の三木家住宅(国指定重要文化財)当主の三木信夫さんだ。大嘗祭の祭祀具である麁布との関りを示す古文書(県指定文化財)を所有している。
古文書からは、三木さんの先祖が13〜14世紀の亀山・後伏見・花園・後醍醐・光厳・光明の各天皇に、麁布を調進(朝廷から頼まれて作り納める意味)したとされる。
どの文書にも、天皇の命を受けた都の役所が、阿波忌部に麁布の制作を頼むため、阿波国司に天皇の使者、勅使を送るという内容が記されているそうだ。
「大嘗祭の儀式は、平安時代の法令集『延喜式』でわかる。しかし、麁布を調進する際の手順は古文書でしかわからない」と三木さん。
大嘗祭は、南北朝〜江戸時代の政情不安時は中断したほか、行われた時も阿波の麁布が調進されないことがあっという。「そうした時は、朝廷の役人が阿波忌部の代行を務めたことを示すため、麻布に『忌部所作代』と表示した」
また、南北朝時代の光明天皇以来、577年ぶりに阿波忌部の麁布調進を復活させたのが大正天皇の大嘗祭だった。信夫さんの祖父宗治郎さんが携わり、昭和天皇にも調進。信夫さんも1990年11月、地域住民の協力を得て今上天皇の大嘗祭で奉仕した。
阿波忌部と麁布を巡る文献では、大和朝廷の初期から51代平城天皇まで麁布を調進したと記している平安時代の「古語拾遺」(807年)もある。
「これら2点が出た後、しばらくは資料が見つからない。そして11世紀になると、貴族の日記から分かるようになる」と言うのは、中世史研究者で県埋蔵文化財センターの福家清司理事長。
後鳥羽天皇に関する「山槐紀」(1184年)には「阿波の荒妙神服(あらたえかむみそ)の事だが、平家が四国に居て交通が途絶。期限のあることについてどうするのか」などと書かれているという。 >>161
>そういう意味で、「やまと」は「倭」の置き換えとかではない、日本固有の地名だってこと
だからなんなんだ? 論破されると長文ハリコ荒らしw いつものパターンだね ヤマトは、倭の言い換えだとかいう、意味のないケチをつけるやつがいるから、
それに対する返事だよ
ヤマトという地名は大和言葉だってこと
倭とは語源が違う 倭とヤマトはそりゃ和語と漢語なんだから語源がちがうの当たり前じゃん
つか語源が違ってようが同じだろうが翻訳語として
「倭=ヤマト」と設定され「倭⇔ヤマト」と互換されてる。
むろん通訳のための便宜的な措置だが大雑把にいえば「倭=ヤマト」。
語源が同じか違うかによって、誰のどんな説が困るんだ? どうでもよくね? >>167
倭の訓読みがヤマトで問題ない
日本の訓読みもヤマトで問題ない
従って
任那日本府はミマナヤマトフと読むべきで
当然古代朝鮮半島にあった日本の出先機関である >>94
「度海千里」で対馬や壱岐?
それって魏略の段階ですでに里程が誇張されてるって説なの?
魏略の段階では「島々は千里先まで倭種だ」って程度の軽い意味じゃないの? 米国とアメリカは違う言葉だが、意味するものはほぼ同じ。
倭とヤマトも同様。
ただし畿内の大和を意味するわけではない。 >>14
で、中国江南地方から肥の国に渡来定着した事を証明する証拠遺跡と、
その生活痕たる三足や耳の付いた中国系生活土器と土壁の中国系住居と
石刃の中国系耕作用農具と中粒種のイネと漢字の金石文と龍信仰と亀卜は?
で、中国江南地方から肥の国に渡来定着したとウソブているサギサギ考古学者の
氏名と所属団体は?
今すぐ言えよおまえ! >>46
で、徐福集団が渡来定着した事を証明する証拠遺跡と、
その生活痕たる三足や耳の付いた中国系生活土器と瓦屋根に土壁の中国系住居と
石刃の中国系耕作用農具と中粒種のイネと漢服と木沓と漢字の金石文と龍信仰と
亀卜と日常食の蒸し餃子とワンタンは?
で、徐福集団が渡来定着したとウソブているサギサギ考古学者の氏名と所属団体は?
今すぐ言えよおまえ! 難民同様の徐福集団は何も日本にもたらさなかった。
もたらしても何も定着できなかった。 遺物は残らなかった。
BC10世紀縄文晩期以降の難民集団が日本にもたらしたものは、
「短粒種水稲栽培」と「海鵜による鵜飼漁」の技術。 二つのノウハウは残った。
中粒種陸稲栽培技術は、徐福集団以前に日本に定着している。 >>180
徐福はそれだと考古学的に全く立証できていないから破綻終了。
で、BC10Cの殷の難民が短粒種稲作をもたらした事を証明する
石刃の中国系耕作用農具と炊飯器の鬲と鼎は?
で、その徐福以前に中粒種稲作が定着した事を証明する中粒種のイネの証拠現物と
石刃の中国系耕作用農具と炊飯器の鬲と鼎は?
. 徐福は来てないよ
日本側の伝説は後世にこじつけた創作ばかり
徐福村が中国に残ってるだろ、あれは出身地じゃなくて土着地だ >>181
BC10Cの浙江の難民が短粒種水稲米をもたらした事の証明は、
菜畑遺跡に見ることができる。
中粒種陸稲米は縄文中期に東日本に既に伝わっている。
中粒種陸稲米を煮炊きするのは縄文土器(ドングリや雑穀を煮炊きした土器)である。 三足土器って東北のどこかの遺跡で出土してると読んだ記憶がある。 >>182
徐福伝説はもともと中国人の妄想だったものが江戸時代に日本にも入ってきたもので、
考古学的にこれを裏付ける証拠は何もない。 >>183
で、BC10Cに浙江の難民が菜畑遺跡に短粒種稲作をもたらした事を証明する
石刃の中国系耕作用農具と炊飯器の鬲と鼎は?
で、BC10Cに浙江の難民が菜畑遺跡に短粒種稲作をもたらしたとウソブている
サギサギ考古学者の氏名と所属団体は?
で、縄文中期の東日本に中粒種稲作が伝わっていた事を証明する証拠遺跡と、
その中粒種のイネの証拠現物と石刃の中国系耕作用農具と炊飯器の鬲と鼎は?
で、縄文中期の東日本に中粒種稲作が伝わっていたとウソブている
サギサギ考古学者の氏名と所属団体は?
. 徐福の子孫がどっちゃり住んでる徐福村って中国にあるじゃん
日本にきてたら子孫は日本にいるはずだろ
日本だかなんだかしらんが東の海に乗り出して失敗したんだろ >>184
青森の鬲型土器な。
中国鬲のように粘土の段階で内側から叩き出して袋足を作る製法ではなく、
足が後付けのため、沿海州方面から宝器として搬入されたものをコピーしたものと
見られている。
だから、鬲ではなく、鬲型土器の名称が付けられている。
弥生文化の始点である九州北部からは三足土器は一点も出土していない。 >>188
道教がどこに伝わってるの?
で、道教の亀卜は? >>10
>弟子タソ〜サボタソ〜阿波タソ〜日本海論者タソ〜肥国王家タソ〜葛城タソ〜岡上タソ
↑こいつらが最近のコテ連中なの?
九州派と畿内派にわけた上でどういう連中なのかちょいと解説お願いできませんか
阿波と岡上は認識したが他がわからない
あと、キウス、キナイコシ、ザコラク、サイキバも。
このうちサイキバは俺が2ch離れる前からいたな、他は新しくてわからない
お鏡、伊都屑、阿波厨=忌部厨は認識した まあ、匿名掲示板ではいつでも違うって言えるよなww >>177
訓読みが新しすぎる用語だからといって意味するところが同じなら使ってもいいだろ
それともこう言い直せば良いのか?
倭の倭語読みが邪馬台だ >>194
だから、その読み方が弥生時代からあったことを立証しろよ 例えば、伊都国は後の日本の史書では、怡土と書かれる
末慮国は末羅と書かれ、イト、マツラという音は後代まで維持され、
逆に以前からそのような音で呼ばれていたことが推知される
「伊都」国、「末慮」国というのは、日本語(これを>>157他で「大和言葉」と
している)の音を、漢字で音訳したものだ
その意味で「邪馬台」国が、大和言葉のヤマトの音を、漢字で音訳したものであり、
「倭」国は、語源が異なるのが明らか
「倭」国を、我々の国という意味で「ワの国」(現代でもわが国という)と
名乗ったのを音訳したと考える人もいるが、論衡の
巻一九恢国篇第五八
成王時 越裳獻雉 倭人貢鬯
「成王の時、越裳雉を献じ、倭人鬯草を貢ず。」 (恢国篇第58)
巻八儒増篇第二六
周時天下太平 越裳獻白雉 倭人貢鬯草 食白雉服鬯草 不能除凶
「周の時は天下太平、越裳は白雉を献じ、倭人鬯草を貢す。白雉を食し鬯草を服用するも、凶を除くあたわず。」
の「倭人」と、日本列島にいる人を、同一視(同祖の集団)と認識していたためではないかと
いう説を、個人的には支持している ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています