♪邪馬台国ドンと来い!♪137
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九州も畿内も四国も朝鮮もエジプトもコテハンもドンと来い!
出来るだけソースを出して後はお好きに!
*良識ある言動をしましょう。煽り、粘着禁止。荒しはスルー。
前スレ
♪邪馬台国ドンと来い!♪136[転載禁止]©2ch.net・ https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1522673515/l50 >>384
Fランの書き込みが増えると価値ある書き込みをしてくれる学者レヴェルのSランや
Aランが居なくなっちゃうんだよ。
アホは相手にするだけ時間のムダだから。
そうすると、もらえる情報はFランの書いた でむぱっぱ のみになり、
同じクラスの知能しかないおまえも でむぱっぱに なるんだよ。
だから、俺が書いた情報がどれくらい素晴らしい事を言ってるのか、その価値さえも
分からない下等な人間に成り下がってしまう訳だ。 >>349-350
で、三足土器が面倒くさいとどうして分かったの?
で、三足土器が必要でないとどうして分かったの?
で、三足土器が合理的な調理器具でないとどうして分かったの?
さっさと言えよおまえ! >>384
例えば386の追求のどこがどう素晴らしいのか、おまえには分かるか?
三足土器が面倒くさいとか、必要でないとか、合理的な調理器具でないとか、
そんな事は実際に伝えて、一世紀くらい使ってみなければ分からない事だろ?
それらが分かるためにはまず伝わる事が大前提なんだよ。
九州のどこからその伝わった三足土器が出土してるんだよ?
炉にその都度、石で足場を造らなければならない弥生の甕と比べて、
三足土器は足が付いているゆえ、むしろ安定してるし、そのまま下に火種を
持ってくるだけで可動で蒸したり、煮炊きできる非常に便利なものだし、
当然、非常に便利なんだから必要なはずなんだよ。 >>387
数は少ないがダイアモンドをくれる人とただの石ころを何万、何十万個もくれる人、
どちらがありがたい?
おまえは前者をぶっ飛ばす訳だw >>388
ありがとう。仏壇に飾っておく
>>390
ダイヤモンドなんて人それぞれ。
もう少し相手に合わせてくれたらありがたい。 >>390
邪馬台国論争のスレだろw
論争の場なのだから、相手に合わせるのではなく、相手よりも優れた論説を唱えた者が
勝ち上がる場のはずだろ。
石ころをダイアモンドだと思うノータリンも居るだろうなw
石ころをくれるだけならまだマシで、>>349-350のようにウランやプルトニウムを
くれる有害人物もいる。
こういう有害人物を有害人物と判断でき、潰せる知能を有している者こそが
真のダイアモンドをくれる人物である。 >>388
問いは素晴らしい
しかし、三足土器が日本にはない
定説はあるのかな? >>394
三足土器は青森に鬲型土器というものが数十基ほどあるがな。
中国鬲とは製法が違うため、鬲ではなく鬲型土器の名が付けられている。
中国鬲が粘土の段階で内側から押し出して袋足を造るのに対して、
青森の鬲型土器は足が後付けで付けられている。
製法から見て、中国からではなく、対岸の沿海州あたりから宝器として搬入したものを
元にコピーしていたと考えられている。
宝器としての飾りものなだけで、実際に蒸し器としての利用はなかった可能性が高い。
ここで一番重要な事は、渡来人や弥生文化伝来に関係のない青森に三足土器があって、
渡来人や弥生文化伝来に直接関係のある九州北部・山陰になぜ三足土器が一切ないのか
という事である。
渡来人や弥生文化伝来が中国とは一切関係がないからである。 >>392
はああああああ?
勝ち負けなんてねーよw
ここは己の知識と想像力を養うスレだは!!!!!
女王国は熊本北部だけどな! >>398
三足土器の発生は約7000年前の長江下流域。
カ(禾の下に皿)という耳と蓋の無い鼎のような器種が最初で、それから鼎が生まれ、
華北で鬲が生まれた。
三足土器の故郷、長江下流域にあった呉は鼎のメッカなんだよ。
呉から渡来定着しといて鼎が伝わらない訳がない。 >>399
7000年とな!
長江なら楚あたりもそうなのね。
鼎の軽重を問うた楚の壮公ww >>400
三足土器は5000年前にはすでに台湾を含めた中国じゅうの遺跡で出土し、
4000年前には東南アジアの遺跡からも出土してくる。 >>401
なるほど。
気になったんだが
華北の鬲は朝鮮には入らなかったの? >>402
その質問は偏差値80超の最難関の質問だわw
俺の知識の及ぶ範囲で答える。
古代朝鮮文化は朝鮮無文土器時代まではほとんど全て遼東あたりの文化の影響で
成立している。
そこに三足土器はないし、中国土器文化の影響はほとんど見られない。
武帝の朝鮮侵攻で漢四郡が置かれ、楽浪瓦質土器に始まる楽浪土器時代が始まるが、
そこにも三足土器はない。
BC2C末は中原ではまだバリバリに三足土器や青銅鼎が使われていたのにだ。
楽浪郡遺跡からは中原から搬入したと思しき青銅鼎の出土は数点あるが、楽浪郡で
生産まではしていない。
これらの事実を俺が判断するに、武帝の朝鮮侵攻で実際に朝鮮入りしたのは、
楽浪土器から判断するに、中原の部隊ではなく、遼東あたりの中原の文化が希薄な、
名のみの漢人というか、俄か漢人ともいうべき集団だったのではないかと見ている。
鬲は紅山文化圏内の遼西までは見られるが、遼東まで及ぶ事はなかった。
その後、鬲は遼西から北上して紀元前1000年代に満州あたりまで広がった。
その一部が宝器として沿海州まで運ばれ、その一部がさらに海を越え、青森の
鬲型土器となるのである。 >>403
うおおおおお!なんと深い考察なんだw
箕子朝鮮や衛氏朝鮮はもっと北のほうにあり、朝鮮半島は貊族が住んでいたのではないか。
王莽以降に悪政に逃れた漢族や扶余が南下して、押し出されるように貊族は日本列島に来たような気がします。
倭は貊から出たのではないか。 すまん。訂正
王莽以降じゃなくてキッドと同じく武帝以降な!
後漢の人口減少がずっと気になっててつい、、(テヘペロ >>404
武帝以降に貊が渡来したなら、BC2C以降の朝鮮無文土器をメインとする痕跡遺構が
九州北部・山陰あたりから出てこないとおかしいだろ。
日本で最初の渡来人の足跡はBC10頃の弥生早期の新町遺跡だよ。
出土した縄文系弥生人骨の中に北方モンゴロイド形質を帯びた混血人骨が
混ざっていたのである。
しかも彼らは朝鮮南部から取り入れた支石墓に眠っておきながら、
朝鮮無文土器をさっぱり作らず、その1世紀くらい前の縄文晩期に山陰あたりに
伝わった刻目突帯文土器という弥生開始土器を専ら作っていただけなのであった。
渡来人を知りたいのなら、このBC11C頃に山陰あたりに伝わった刻目突帯文土器を
追っかける事です。 >>406
さすが土器キッドだはwww
そういえば刻目突帯文土器は板付でも出てたな。
朝鮮無文土器も少しあるみたいだ。サンクス!(o^^o)ノ >>407
ちょっと心残りだからプレイバック。
武帝の朝鮮侵攻で置かれた楽浪郡に伝わった楽浪瓦質土器に始まる楽浪土器なんだが、
三足器種がないどころか、中国土器・陶磁器に顕著な特徴である直耳、単耳、双耳などの
耳もないし、同期する中原の中国陶磁器(中原はBC12Cから早くも磁器の時代)は
すでに原始青磁という釉陶が大半を占めているのに対し、楽浪土器には5500年前に
始まる灰陶の技術はあっても原始青磁の技術がない。
つまり、器種、器形、原始青磁の技術と、どの角度から楽浪土器を考えても、
同期する中原の中国陶磁器とはさっぱり違ったものが楽浪郡には伝わっているのである。
これが遼西以西から入ったものであれば、鬲の一つくらい伝わっているはずである。
これらの疑問点を総合的に考えた上で、武帝の朝鮮侵攻で実際に朝鮮入りして、
楽浪郡に楽浪土器をもたらした集団とは一体どこの地域の集団であったかを
考えた場合、俺の中で出された答えは遼東しかなかったのである。 >>408
楽浪郡に楽浪土器をもたらした集団のルーツが遼東だったのか。
そしてその集団がのちに九州北部に楽浪土器を持ち込んだね。
そうか。だから鬲はないんだw その遼東の集団は、どの程度漢の律令を守っていたと考えられるだろうか? >>409
九州北部に楽浪土器を持ち込んだのはほとんどが九州北部の弥生人自身だよ。
楽浪文物は弥生人にとっては総てが宝器であり、奢侈品であった。
楽浪郡は弥生人にとって、今の我々でいうニューヨークであり、パリであり、
先進文化と先進文物と先進技術にあふれた憧れの地であった。
楽浪郡人が持ち込んだ楽浪土器は楽浪郡使がステイした滞在遺構の
三雲遺跡ぐらいじゃないだろうか。
外来系土器というのはただあるだけでは渡来人の証拠にはならんのだよ。
ほとんどの場合が搬入土器、あるいは搬入土器を元に土着人がコピー土器を
作っているケースが多いんだよ。
もちろん本当に渡来人があった場合はその渡来人の故郷の土器は確実に伝わるけれども。
これを見抜くには、出土土器に占める外来系土器の割合やオリジナルとの違いから見抜くしかないの。
弥生中期に朝鮮系土器がメインで出土する遺構があるんだが、オリジナルの朝鮮無文土器と
比べると造りが雑で、ちょっと違った要素が入っていたりと、オリジナルとはどこか違った土器になっている。
やはりこれらも造り手は弥生人自身だと考えざるを得ないだろう。
弥生期に半島人が確実に定着した遺構だと言い切れる遺構はない。
ただ、縄文晩期に山陰方面に渡来した集団は土器文化自体を
塗り替えているし、北方モンゴロイド形質を帯びた人骨が
見られだすタイミングと合っているので、確実に定着したと言えるだろう。
ただし、朝鮮土器文化の集団ではないがw 土器だけではなく、プラスアルファの要素はないのですか?
土器は確かに重要ですが、所詮は土をこねて焼いたらできる庶民の道具です。 >>412
渡来人に使える材料でか?
それならないね。
この世で最も精度が出せる材料が土器なのだから。
あとは渡来人骨の形質や青銅器や鉄器や金銀細工などの金属器、住居、農具、
ファッション、信仰、占い、食文化などがあるが、土器以上の精度は出せない。
土器との合わせ技で見ていくしかないね。 楽浪郡使がステイした滞在遺構の三雲遺跡には、
硯はあれども鼎はないわけですね。
金銀メッキの金属器もない。 うーむ。。。
楽浪郡の文化と、
中原の漢文化の間に、明らかに断絶というか、
文化レベルの相違があるわけだな。
だが、楽浪郡の文化の根源たる燕=現在の北京はそれなりの
高度な文明を持っており、
古代から文学史にも登場するし、
実際に諸子百家の時代に広く人材を公募していた。
うーむ。。。 そろそろアタマのビョーインに行け、
どこまでテイノーなんだ? >>415
燕の土器文化は中原の土器文化と何ら変わらんだろ。
三足や耳が付いた器種器形で、大半が原始青磁。
ところが、楽浪郡の土器文化は三足も耳も原始青磁もない訳。
楽浪郡人のルーツが燕だと思える? だからといって、楽浪独自の文化が強く発信されているわけでもなかろう。 強く発信してるじゃないの。
中原では当たり前にあるものが楽浪郡には無いんだぜ。 じゃあ楽浪郡から密接に文化を取り入れていた倭人は辺境のさらに辺境の蛮族かいな 都会慣れしていたら、誰も辺境になんか住もうと思わない。
軍人もそう。
派遣命令があれば行かざるを得ないが、そこに永住しようとするものはまずいない。
工人もそう。
辺境で売れば高く売れると分かっていても、都会で作っても十分な稼ぎになるし、
そもそも工具やら材料やらが辺境には無くそれらを結局都会から高値で買い揃える羽目になる。
商人だって。
辺境で売れば大儲けできるけども、仕入れ先の都会に拠点を持っていた方が財産やら何やらを奪われることがない。
なにせ辺境は治安が悪い。軍人がしっかり守ってくれるならいざ知らず、周辺民族は高値の物をただ我々を脅して掠め取る最低の金儲けをする。
辺境におけるパクス・シニカは、こうしたもん。 その意味では公孫氏は辺境に根を張って生きることを選んだ珍しい華夏系の一族。
まあ華夏系と言うべきか、阿系の阿残と言うべきか、混血なのは間違いないんだろうが(笑) 蛮族だろうなあ。
蛮族だろうねえ。
世界史に日本が登場してくるのって、元寇あたりくらいからだろ。
あと、豊臣秀吉の朝鮮侵攻くらいだろ。
あとは明治以降の話ばーっかり。 武帝が拡大路線のために漢人的要素の極めて薄い遼東の名のみの漢人集団に
侵攻させた植民都市。 地政学的に中原と接しているにも関わらず
中原の文化の受け売りでなく独自性を保つだけのものが遼東にあったの?
公孫氏なんぞにあっさりと支配された属州みたいだけど。 遼寧が漢人の属州になったのは戦国時代頃ではないかな?
それまでは漢人とは違った民族集団のエリアだったんじゃないか?
遼西は燕と接しているから中原の文化的影響があったが、遼東までは及ばなかった。
そして、戦国時代頃に燕に併合されたんじゃないかな?
しかし、併合後も中原の文化は遼東にはあまり及ばなかったと。
そして、そのまま漢の武帝の時代になり、武帝から朝鮮侵攻をさせられ、
楽浪郡を設置したと。
こんな流れだったのではないか? 鉄鏃の分布なんか見ると絶望的だよね
奈良なんて東京や千葉の10分の1だもんね
発掘なんて東京に比べりゃはるかに恵まれた環境なのに
九州に比べれば2桁違う
農具は木製や石器なんて西日本の盟主だの王都だのってどんな妄想だよ
吉備や尾張の方が全然上
ちなみに湖沼、沼地の干拓ってのは水を抜くのに苦労をする
治水のために水路を掘ると結構な残土が出るんだな
奈良盆地に3世紀以降古墳が出来たっつのはまあそういう事だ
摂津河内も無理当時は河内湖が汽水から淡水に移行する頃で農地に出来るのはまだまだ後
http://www.infokkkna.com/ironroad/2011htm/iron7/1103iron09.jpg >>429
なるほど、残土処理の為の古墳なのかw
しかし日本書紀には豊葦原千五百秋瑞穂國とあるし、大国主と少彦名命が作ったのは葦原中国だ。
豊かに葦の生い茂っている湿原で瑞々しい稲穂が実るのを想像してしまうw
湖沼や沼地で稲作した方が簡単ではないのかしら。 >>430
だまされるなよ
古墳の盛土はそんな土じゃない いわゆる古墳時代の、各地の王たちや豪族たちの名はあまり記録されてないみたいだけど
これはやはり日本が当時は漢字をあまり使ってなかったということなの?
それとも記録は有ったけど抹消されたとか?
素人の素朴な疑問なんだけど。 >>435
記紀は、皇統の歴史を語る目的で書かれているから、各地の豪族の話は
地名説話や反乱伝承その他ぐらいしか載っていない
一方で、各豪族の始祖については、できるだけ多く記載しようとしているようだよ
>それとも記録は有ったけど抹消されたとか?
記紀以外の記録として、各地の豪族の話は風土記の形で8世紀段階での伝承が
まとめられたけれど、その多くが散逸してしまっている
わざわざ抹消しようとしたのではなく、単に失伝しただけだと思うよ 明治初年に大規模な焚書があった。
あとは、戦国の乱世でかなりの文化財が失われており、古伝も散逸した。 >>437
>明治初年に大規模な焚書があった。
明治の頃には、識字率が相当に高かったから、痕跡もなくなるような根絶は無理
>戦国の乱世でかなりの文化財が失われており、古伝も散逸した
それでも、多くの貴族の日記レベルのものまで残っているから、
数は減ったとしても、九州王朝その他の史書があれば、残っているものだよ
それが一切ないんだから「九州王朝なんてなかった」が正解 しかも平安時代まであったと言い張るのだから
まさにお笑い 大和朝廷で制定していない
九州王朝年号と思われる年号が
各地の古文書二千箇所で発見されている。
あまりに多すぎて消しきれなかったようで
記紀にも数か所残っているそうである。
歴史の教科書に出てくる白鳳時代の
白鳳年号も大和朝廷が制定していない
年号である。
九州王朝年号と思われる年号の最後は
大化で695年から700年。
その次の大宝から大和朝廷の年号に
切り替わる。
大和朝廷年号にも大化、645年から650年
があるが、大和朝廷年号では、その後の
年号が途切れたりなかったりするので
大和朝廷の大宝以前の年号は
実際にはまともに運用されていなかった可能性が高い。
九州王朝年号は517年継体から
700年の大化まで途切れず続いている。
これらを見ても、政権は九州王朝から
701年に大和朝廷に移行したと思われる。 >>441
持統天皇が遷都したのか。
まるで神功皇后のようにかな?面白いw
難波宮はどうみる? >>14
で、中国江南地方から肥の国に渡来定着した事を証明する証拠遺跡と、
その生活痕たる三足や耳の付いた中国系生活土器と土壁の中国系住居と
石刃の中国系耕作用農具と中粒種のイネと漢字の金石文と龍信仰と亀卜は?
で、中国江南地方から肥の国に渡来定着したとウソブいているサギサギ考古学者の
氏名と所属団体は?
早く言えサギジジイ! >>326
で、徐福集団が渡来定着した事を証明する証拠遺跡と、
その生活痕たる三足や耳の付いた中国系生活土器と瓦屋根に土壁の中国系住居と
石刃の中国系耕作用農具と中粒種のイネと漢服と木沓と漢字の金石文と龍信仰と
亀卜と日常食の蒸し餃子とワンタンは?
で、徐福集団が渡来定着したとウソブいているサギサギ考古学者の氏名と所属団体は?
早く言えサギジジイ! >>439
あほかw
明治に焚書があったとかオマエは江戸しぐさの関係者かよw >>446
廃仏毀釈と同時に、多くの歴史遺産が失われた。
クーデターを成功させた明治政府にとって都合の悪い記録はすべて焼かれた。 >>451
>都合の悪い記録はすべて焼かれた
大変に都合の良い考え方ですことww
日本の当時の識字率、紙の消費量から考えて、すべてを焼くのは無理だって >>14
で、中国江南地方から肥の国に渡来定着した事を証明する証拠遺跡と、
その生活痕たる三足や耳の付いた中国系生活土器と土壁の中国系住居と
石刃の中国系耕作用農具と中粒種のイネと漢字の金石文と龍信仰と亀卜は?
で、中国江南地方から肥の国に渡来定着したとウソブいているサギサギ考古学者の
氏名と所属団体は?
さっさと言えテメエ! >>326
で、徐福集団が渡来定着した事を証明する証拠遺跡と、
その生活痕たる三足や耳の付いた中国系生活土器と瓦屋根に土壁の中国系住居と
石刃の中国系耕作用農具と中粒種のイネと漢服と木沓と漢字の金石文と龍信仰と
亀卜と日常食の蒸し餃子とワンタンは?
で、徐福集団が渡来定着したとウソブいているサギサギ考古学者の氏名と所属団体は?
さっさと言えテメエ! >>409
楽浪郡が遼東の勢力圏なのは、東夷伝の序文が明言する常識では?
帯方郡以南で韓と倭がその遼東公孫氏の勢力圏と言う論は、
卑弥呼時代に公孫氏を追い出した魏の太守が韓との交戦で戦死してんだから
倭人伝を見る限り、九州説なら当然、畿内説でも概ねで誇張でしょ。
日漢の交流は57年の金印から107年の帥升まで楽浪交易は有ったとして
この後に公孫氏による空白が有って、邪馬台国と魏の交流は238年から247年。
中国人は三足土器を後漢でも使ってたの?
古代韓が中原の三足土器時代と関係ないのは公孫氏が黄巾の乱以降の豪族だからだよ。
それ以前の韓は流民の忌避遺民だけの未開地。
広鼻アラシ君と違うと思うけど考古学者って東夷伝読めないんだね。
むしろ一万五千年の歴史の初期縄文土器が中原に遅れた韓や沿海州に
日本海海神の黒曜石や翡翠と一緒に広がったんでしょ。
弥生土器化は里帰りの退化であって、人種交換なんて眉唾なんじゃないの?
で、焚書ならまず記紀焼けよ、めんどくせぇ〜、んだからwww >>457
文章力というか、伝達能力低いな、おまえ。
半分くらい何言ってんだかサッパリ分からんわ。
まず東夷伝の時代と武帝の朝鮮侵攻の時代では時代が全然違うだろうがボンクラ!
東夷伝の時代に楽浪郡が遼東の勢力下にあったからといって、その350年くらい前の
武帝の朝鮮侵攻で実際に朝鮮に侵攻して楽浪郡をうち建てた集団が遼東の集団である
とは限らんのだぞ。
実は遼東とは全く関係のない中原の集団で、ずっと後世になってから遼東の勢力下に
置かれただけだという可能性だってある訳だぞ。
三足土器は後漢頃まで使われていたというのが定説だが、地域によっては
数百年くらい前まで使われていた可能性が高い。
なぜなら、中国の内陸部の雲南の奥地では今も金属製の鼎が使われているからだ。
三足器は今なお健在なのである。
韓が中国からの流民や忌避移民だけの未開地なら、その出発先の生活文化たる
三足や耳の付いた中国系陶磁器文化や瓦屋根に土壁の中国系住居や中粒種のイネや
漢字の金石文や日常食の蒸し餃子やワンタンなどの文物や遺物などがガンガンに
痕跡遺構から出土しまくりの証拠出まくりで、もうウハウハじゃないか(爆
で、その中国からの流民、忌避移民の証拠遺跡とその生活痕たるそれら文物や遺物は?
. >>457
はああああ???
陳寿先生に聞いてくるから首洗って待ってろ!!!1 >>457
>弥生土器化は里帰りの退化であって、人種交換なんて眉唾なんじゃないの?
入れ替えではなく支配層の流入だと思っているけど、弥生土器の話はよくわからないから教えてくれる?
縄文土器の方が質がいいの? あった、ちゃんと書いてあった (ToT)
公孫淵仍父祖三世有遼ってwww
土井ヶ浜人とかいるじゃん?
ほとんど弥生人だし >>460
>縄文土器の方が質がいいの?
それは有名な話じゃないのか
「縄文土器は厚手でもろい、弥生土器は薄手で硬い」
ってのが70年代の迷信で実は縄文土器の方が硬くて丈夫だったという… それは単に厚いからでは?
もしそうなら、技術がなぜ後退したのか、説明が欲しいな。 縄文土器も弥生土器も焼成温度が大して変わらないから、硬さは大して変わらんよ。
須恵器は登り窯焼成だから焼成温度が高いため、硬い。 昔習ったことは大ウソだらけだった。
弥生式土器は高温で焼くから薄いが固くて熱効率がいいとか習ったんだが。
聖徳太子の肖像画も足利尊氏の肖像画も嘘だった。
日本列島は畿内のヤマト王権が支配していました、というのが最大級の嘘なんだろうけど。 ウランちゃんおる?
山海経に「蓋国在鉅燕南倭北倭属燕」とあるけど「蓋国は鉅燕にあり、南倭と北倭は燕に属する」と読むのか「蓋国は鉅燕の南、倭の北にあり、倭は燕に属する」なのかどっちなん? 刻目突帯文土器を調べたんだが、韓半島中南部には刻目突帯文土器文化があったんだね。
遼東山地部では、遼東半島とは区分される独自の領域が形成されてたらしい。
それが母体となって韓半島中南部に広がっていくとかなんとかw >>468
韓国人の論文を読んだみたいだなw
その論文は日本人学者からは支持されていないよ。
なぜなら、朝鮮半島全体で出土した刻目突帯文土器は全部で10基もないのだから。
明らかに朝鮮半島においては搬入土器、あるいはそのコピー土器で、朝鮮半島の
土器文化ではない。
しかも半島の最古級のものでも壺と甕のセットで出土しているのに対して、
日本の刻目突帯文土器は伝わった当初は壺という器種を持たなかった。
壺という器種は稲作を半島南部からパクった少し後に同じく半島南部から
高坏とともにパクった器種なんだよ。
日本の刻目突帯文土器が朝鮮半島から入ったものなら、最初から壺という器種が
あるはずで、後から壺という器種を半島南部からパクる必要などないはず。
そういう大事な部分を隠蔽して書かれた韓国人学者による我田引水論文です。
まんまと引っかかってしまう素人がいるので非常に迷惑な論文です。
日本の刻目突帯文土器のルーツは朝鮮半島以外を当たった方が良さそうです。
それは当時まだ壺という器種がない未開な場所だったようですが。 >>469
>壺という器種は稲作を半島南部からパクった少し後に
日本での稲作開始時期の気候を考えると、半島から稲作を導入するのは
難しいってことに今はなってるんじゃなかったっけ? >>470
ほう、それは初耳ですなあ在日インドシナ中華ブタの方。
で、そうウソブいている考古学者の氏名と所属団体は?
で、中国から稲作を導入した事を証明する証拠の中粒種のイネと
石刃の中国系耕作用農具は?
. >>467
「蓋国在鉅燕南倭北倭属燕」は文字が誤脱しておる
「蓋国在鉅燕南南倭北北倭属燕」が本来の原形
蓋国は鉅燕の南、南倭の北にあり。北倭は燕に属す 東倭もあるで
晋書
「正始元年春正月,東倭重譯納貢,焉耆、危須諸國,弱水以南,鮮卑名王,皆遣使來獻.天子歸美宰輔,又搨髟風W.」 >>470
>それはガセ
根拠は?
イネは南方系の植物で、朝鮮半島に北回りの陸路で栽培体系が伝わるのは不可能だし、
半島の主食は近世まで(日本統治下で日本から寒冷対応品種が導入されるまで)
コーリャン等の雑穀だった
北回りの稲作伝播が困難なので、南からの伝播を考えるしかないが、
その場合、半島を経由する必然性はなく、せいぜい同時期の稲作開始が想定できるだけ >>475
日本の青森だって弥生時代に稲作が波及するけど一度廃れている
後世どうだったかなんて根拠にはならない
重要なのは稲作伝来当時にどうであったかだよ でも過去にも朝鮮半島で稲作が盛んだった証拠はないのでは? >>478
盛んじゃなければ伝来しないとは限らない
稲作の伝来は種籾を手に入れただけではない
水稲耕作という技術体系とそれに付随する生活様式の一部が伝わってるんだ だから、それに相当する文化様式や政治体制の痕跡が紀元前の半島にあるの? >>475
だから、そうサギブいている考古学者の氏名と所属団体は?
で、中国から稲作を導入した事を証明する証拠遺跡と、
その証拠文物たる石刃の中国系耕作用農具と中粒種のイネは?
早く言えよ台湾ブタチックトムヤムクンのおまえ。 朝鮮半島最古の稲作の証拠は漢江下流域から出土した4000年くらい前のイネの現物。
しかし、そこには中国系土器が全く見られないため、このイネの仕入れ先は
遼東半島だと考えられる。
遼東半島では5000年前から稲作が行われており、櫛目文土器時代の古代朝鮮文化が
ほとんど全て遼東半島からの影響で成立している事実とも合致している。 >>480
水稲耕作という生産技術体系の伝来に
なんで政治体制の痕跡がなきゃならんのか
文化様式の方は双方の石器の同一性を見れば一目瞭然だぞ ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています