♪邪馬台国ドンと来い!♪137
■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています
,..-─‐-..、
/.: : : : : : : .ヽ
R: : : :. : pq: :i}
|:.i} : : : :_{: :.レ′
ノr┴-<」: :j| <ソースを書きなさい!
/:r仁ニ= ノ:.ノ|! _
/:/ = /: :/ }! |〕) コツン
{;ハ__,イ: :f | /´
/ }rヘ ├--r─y/
/ r'‐-| ├-┴〆 _, 、_ '⌒ ☆
仁二ニ_‐-イ | | ∩`Д´)
| l i 厂  ̄ニニ¬ ノ ⊂ノ < ヤダヤダー!!
,ゝ、 \ \ __厂`ヽ (__ ̄) )
/ /\_i⌒ト、_ ノrr- } し'し′
└-' ̄. | |_二二._」」__ノ
九州も畿内も四国も朝鮮もエジプトもコテハンもドンと来い!
出来るだけソースを出して後はお好きに!
*良識ある言動をしましょう。煽り、粘着禁止。荒しはスルー。
前スレ
♪邪馬台国ドンと来い!♪136[転載禁止]©2ch.net・ https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1522673515/l50 鉄鏃の分布なんか見ると絶望的だよね
奈良なんて東京や千葉の10分の1だもんね
発掘なんて東京に比べりゃはるかに恵まれた環境なのに
九州に比べれば2桁違う
農具は木製や石器なんて西日本の盟主だの王都だのってどんな妄想だよ
吉備や尾張の方が全然上
ちなみに湖沼、沼地の干拓ってのは水を抜くのに苦労をする
治水のために水路を掘ると結構な残土が出るんだな
奈良盆地に3世紀以降古墳が出来たっつのはまあそういう事だ
摂津河内も無理当時は河内湖が汽水から淡水に移行する頃で農地に出来るのはまだまだ後
http://www.infokkkna.com/ironroad/2011htm/iron7/1103iron09.jpg >>429
なるほど、残土処理の為の古墳なのかw
しかし日本書紀には豊葦原千五百秋瑞穂國とあるし、大国主と少彦名命が作ったのは葦原中国だ。
豊かに葦の生い茂っている湿原で瑞々しい稲穂が実るのを想像してしまうw
湖沼や沼地で稲作した方が簡単ではないのかしら。 >>430
だまされるなよ
古墳の盛土はそんな土じゃない いわゆる古墳時代の、各地の王たちや豪族たちの名はあまり記録されてないみたいだけど
これはやはり日本が当時は漢字をあまり使ってなかったということなの?
それとも記録は有ったけど抹消されたとか?
素人の素朴な疑問なんだけど。 >>435
記紀は、皇統の歴史を語る目的で書かれているから、各地の豪族の話は
地名説話や反乱伝承その他ぐらいしか載っていない
一方で、各豪族の始祖については、できるだけ多く記載しようとしているようだよ
>それとも記録は有ったけど抹消されたとか?
記紀以外の記録として、各地の豪族の話は風土記の形で8世紀段階での伝承が
まとめられたけれど、その多くが散逸してしまっている
わざわざ抹消しようとしたのではなく、単に失伝しただけだと思うよ 明治初年に大規模な焚書があった。
あとは、戦国の乱世でかなりの文化財が失われており、古伝も散逸した。 >>437
>明治初年に大規模な焚書があった。
明治の頃には、識字率が相当に高かったから、痕跡もなくなるような根絶は無理
>戦国の乱世でかなりの文化財が失われており、古伝も散逸した
それでも、多くの貴族の日記レベルのものまで残っているから、
数は減ったとしても、九州王朝その他の史書があれば、残っているものだよ
それが一切ないんだから「九州王朝なんてなかった」が正解 しかも平安時代まであったと言い張るのだから
まさにお笑い 大和朝廷で制定していない
九州王朝年号と思われる年号が
各地の古文書二千箇所で発見されている。
あまりに多すぎて消しきれなかったようで
記紀にも数か所残っているそうである。
歴史の教科書に出てくる白鳳時代の
白鳳年号も大和朝廷が制定していない
年号である。
九州王朝年号と思われる年号の最後は
大化で695年から700年。
その次の大宝から大和朝廷の年号に
切り替わる。
大和朝廷年号にも大化、645年から650年
があるが、大和朝廷年号では、その後の
年号が途切れたりなかったりするので
大和朝廷の大宝以前の年号は
実際にはまともに運用されていなかった可能性が高い。
九州王朝年号は517年継体から
700年の大化まで途切れず続いている。
これらを見ても、政権は九州王朝から
701年に大和朝廷に移行したと思われる。 >>441
持統天皇が遷都したのか。
まるで神功皇后のようにかな?面白いw
難波宮はどうみる? >>14
で、中国江南地方から肥の国に渡来定着した事を証明する証拠遺跡と、
その生活痕たる三足や耳の付いた中国系生活土器と土壁の中国系住居と
石刃の中国系耕作用農具と中粒種のイネと漢字の金石文と龍信仰と亀卜は?
で、中国江南地方から肥の国に渡来定着したとウソブいているサギサギ考古学者の
氏名と所属団体は?
早く言えサギジジイ! >>326
で、徐福集団が渡来定着した事を証明する証拠遺跡と、
その生活痕たる三足や耳の付いた中国系生活土器と瓦屋根に土壁の中国系住居と
石刃の中国系耕作用農具と中粒種のイネと漢服と木沓と漢字の金石文と龍信仰と
亀卜と日常食の蒸し餃子とワンタンは?
で、徐福集団が渡来定着したとウソブいているサギサギ考古学者の氏名と所属団体は?
早く言えサギジジイ! >>439
あほかw
明治に焚書があったとかオマエは江戸しぐさの関係者かよw >>446
廃仏毀釈と同時に、多くの歴史遺産が失われた。
クーデターを成功させた明治政府にとって都合の悪い記録はすべて焼かれた。 >>451
>都合の悪い記録はすべて焼かれた
大変に都合の良い考え方ですことww
日本の当時の識字率、紙の消費量から考えて、すべてを焼くのは無理だって >>14
で、中国江南地方から肥の国に渡来定着した事を証明する証拠遺跡と、
その生活痕たる三足や耳の付いた中国系生活土器と土壁の中国系住居と
石刃の中国系耕作用農具と中粒種のイネと漢字の金石文と龍信仰と亀卜は?
で、中国江南地方から肥の国に渡来定着したとウソブいているサギサギ考古学者の
氏名と所属団体は?
さっさと言えテメエ! >>326
で、徐福集団が渡来定着した事を証明する証拠遺跡と、
その生活痕たる三足や耳の付いた中国系生活土器と瓦屋根に土壁の中国系住居と
石刃の中国系耕作用農具と中粒種のイネと漢服と木沓と漢字の金石文と龍信仰と
亀卜と日常食の蒸し餃子とワンタンは?
で、徐福集団が渡来定着したとウソブいているサギサギ考古学者の氏名と所属団体は?
さっさと言えテメエ! >>409
楽浪郡が遼東の勢力圏なのは、東夷伝の序文が明言する常識では?
帯方郡以南で韓と倭がその遼東公孫氏の勢力圏と言う論は、
卑弥呼時代に公孫氏を追い出した魏の太守が韓との交戦で戦死してんだから
倭人伝を見る限り、九州説なら当然、畿内説でも概ねで誇張でしょ。
日漢の交流は57年の金印から107年の帥升まで楽浪交易は有ったとして
この後に公孫氏による空白が有って、邪馬台国と魏の交流は238年から247年。
中国人は三足土器を後漢でも使ってたの?
古代韓が中原の三足土器時代と関係ないのは公孫氏が黄巾の乱以降の豪族だからだよ。
それ以前の韓は流民の忌避遺民だけの未開地。
広鼻アラシ君と違うと思うけど考古学者って東夷伝読めないんだね。
むしろ一万五千年の歴史の初期縄文土器が中原に遅れた韓や沿海州に
日本海海神の黒曜石や翡翠と一緒に広がったんでしょ。
弥生土器化は里帰りの退化であって、人種交換なんて眉唾なんじゃないの?
で、焚書ならまず記紀焼けよ、めんどくせぇ〜、んだからwww >>457
文章力というか、伝達能力低いな、おまえ。
半分くらい何言ってんだかサッパリ分からんわ。
まず東夷伝の時代と武帝の朝鮮侵攻の時代では時代が全然違うだろうがボンクラ!
東夷伝の時代に楽浪郡が遼東の勢力下にあったからといって、その350年くらい前の
武帝の朝鮮侵攻で実際に朝鮮に侵攻して楽浪郡をうち建てた集団が遼東の集団である
とは限らんのだぞ。
実は遼東とは全く関係のない中原の集団で、ずっと後世になってから遼東の勢力下に
置かれただけだという可能性だってある訳だぞ。
三足土器は後漢頃まで使われていたというのが定説だが、地域によっては
数百年くらい前まで使われていた可能性が高い。
なぜなら、中国の内陸部の雲南の奥地では今も金属製の鼎が使われているからだ。
三足器は今なお健在なのである。
韓が中国からの流民や忌避移民だけの未開地なら、その出発先の生活文化たる
三足や耳の付いた中国系陶磁器文化や瓦屋根に土壁の中国系住居や中粒種のイネや
漢字の金石文や日常食の蒸し餃子やワンタンなどの文物や遺物などがガンガンに
痕跡遺構から出土しまくりの証拠出まくりで、もうウハウハじゃないか(爆
で、その中国からの流民、忌避移民の証拠遺跡とその生活痕たるそれら文物や遺物は?
. >>457
はああああ???
陳寿先生に聞いてくるから首洗って待ってろ!!!1 >>457
>弥生土器化は里帰りの退化であって、人種交換なんて眉唾なんじゃないの?
入れ替えではなく支配層の流入だと思っているけど、弥生土器の話はよくわからないから教えてくれる?
縄文土器の方が質がいいの? あった、ちゃんと書いてあった (ToT)
公孫淵仍父祖三世有遼ってwww
土井ヶ浜人とかいるじゃん?
ほとんど弥生人だし >>460
>縄文土器の方が質がいいの?
それは有名な話じゃないのか
「縄文土器は厚手でもろい、弥生土器は薄手で硬い」
ってのが70年代の迷信で実は縄文土器の方が硬くて丈夫だったという… それは単に厚いからでは?
もしそうなら、技術がなぜ後退したのか、説明が欲しいな。 縄文土器も弥生土器も焼成温度が大して変わらないから、硬さは大して変わらんよ。
須恵器は登り窯焼成だから焼成温度が高いため、硬い。 昔習ったことは大ウソだらけだった。
弥生式土器は高温で焼くから薄いが固くて熱効率がいいとか習ったんだが。
聖徳太子の肖像画も足利尊氏の肖像画も嘘だった。
日本列島は畿内のヤマト王権が支配していました、というのが最大級の嘘なんだろうけど。 ウランちゃんおる?
山海経に「蓋国在鉅燕南倭北倭属燕」とあるけど「蓋国は鉅燕にあり、南倭と北倭は燕に属する」と読むのか「蓋国は鉅燕の南、倭の北にあり、倭は燕に属する」なのかどっちなん? 刻目突帯文土器を調べたんだが、韓半島中南部には刻目突帯文土器文化があったんだね。
遼東山地部では、遼東半島とは区分される独自の領域が形成されてたらしい。
それが母体となって韓半島中南部に広がっていくとかなんとかw >>468
韓国人の論文を読んだみたいだなw
その論文は日本人学者からは支持されていないよ。
なぜなら、朝鮮半島全体で出土した刻目突帯文土器は全部で10基もないのだから。
明らかに朝鮮半島においては搬入土器、あるいはそのコピー土器で、朝鮮半島の
土器文化ではない。
しかも半島の最古級のものでも壺と甕のセットで出土しているのに対して、
日本の刻目突帯文土器は伝わった当初は壺という器種を持たなかった。
壺という器種は稲作を半島南部からパクった少し後に同じく半島南部から
高坏とともにパクった器種なんだよ。
日本の刻目突帯文土器が朝鮮半島から入ったものなら、最初から壺という器種が
あるはずで、後から壺という器種を半島南部からパクる必要などないはず。
そういう大事な部分を隠蔽して書かれた韓国人学者による我田引水論文です。
まんまと引っかかってしまう素人がいるので非常に迷惑な論文です。
日本の刻目突帯文土器のルーツは朝鮮半島以外を当たった方が良さそうです。
それは当時まだ壺という器種がない未開な場所だったようですが。 >>469
>壺という器種は稲作を半島南部からパクった少し後に
日本での稲作開始時期の気候を考えると、半島から稲作を導入するのは
難しいってことに今はなってるんじゃなかったっけ? >>470
ほう、それは初耳ですなあ在日インドシナ中華ブタの方。
で、そうウソブいている考古学者の氏名と所属団体は?
で、中国から稲作を導入した事を証明する証拠の中粒種のイネと
石刃の中国系耕作用農具は?
. >>467
「蓋国在鉅燕南倭北倭属燕」は文字が誤脱しておる
「蓋国在鉅燕南南倭北北倭属燕」が本来の原形
蓋国は鉅燕の南、南倭の北にあり。北倭は燕に属す 東倭もあるで
晋書
「正始元年春正月,東倭重譯納貢,焉耆、危須諸國,弱水以南,鮮卑名王,皆遣使來獻.天子歸美宰輔,又搨髟風W.」 >>470
>それはガセ
根拠は?
イネは南方系の植物で、朝鮮半島に北回りの陸路で栽培体系が伝わるのは不可能だし、
半島の主食は近世まで(日本統治下で日本から寒冷対応品種が導入されるまで)
コーリャン等の雑穀だった
北回りの稲作伝播が困難なので、南からの伝播を考えるしかないが、
その場合、半島を経由する必然性はなく、せいぜい同時期の稲作開始が想定できるだけ >>475
日本の青森だって弥生時代に稲作が波及するけど一度廃れている
後世どうだったかなんて根拠にはならない
重要なのは稲作伝来当時にどうであったかだよ でも過去にも朝鮮半島で稲作が盛んだった証拠はないのでは? >>478
盛んじゃなければ伝来しないとは限らない
稲作の伝来は種籾を手に入れただけではない
水稲耕作という技術体系とそれに付随する生活様式の一部が伝わってるんだ だから、それに相当する文化様式や政治体制の痕跡が紀元前の半島にあるの? >>475
だから、そうサギブいている考古学者の氏名と所属団体は?
で、中国から稲作を導入した事を証明する証拠遺跡と、
その証拠文物たる石刃の中国系耕作用農具と中粒種のイネは?
早く言えよ台湾ブタチックトムヤムクンのおまえ。 朝鮮半島最古の稲作の証拠は漢江下流域から出土した4000年くらい前のイネの現物。
しかし、そこには中国系土器が全く見られないため、このイネの仕入れ先は
遼東半島だと考えられる。
遼東半島では5000年前から稲作が行われており、櫛目文土器時代の古代朝鮮文化が
ほとんど全て遼東半島からの影響で成立している事実とも合致している。 >>480
水稲耕作という生産技術体系の伝来に
なんで政治体制の痕跡がなきゃならんのか
文化様式の方は双方の石器の同一性を見れば一目瞭然だぞ 水稲には土木工事とそれなりの暦が必要で、どちらも王の役割だから。
弥生時代というものが、そもそも倭国王権が確立された時代のことだと思う。 日本稲作がどこから伝わったかなんて、最初に伝わったイネの粒種と
人用の耕作用農具を見れば一目瞭然なんだわ。
みんなこれを知らないから、何一つマトモな反駁もできず、台湾ハノイブタの
詐欺に引っかかるんだよ。
まず、日本の最古水田、菜畑遺跡から出土した日本最古のイネは短粒種だけ。
ところが、同期する長江下流域の遺跡から出土するイネは中粒種と短粒種が
約半々の割合で混交したもの。
それに日本の最古水田で出土した日本最古の人用の耕作用農具は
木製のエブリとクワだけ。
ところが、同期する長江下流域から出土する人用の耕作用農具は
石刃の石耜と石鋤で、エブリもクワも存在しない。
石耜は石刃のスキ、石鋤は除草用農具で、ともに日本の最古水田に
伝わった日本最古の人用の耕作用農具にはない。
スキは最古水田から200年くらい経った後に日本にも伝わったが、やはり木製であり、
石鋤に関しては石刃であれ、木製であれ、今日まで日本に伝わってはいない。 つまり、こういう事ね。
日本の最古水田で出土した日本最古のイネ=短粒種だけ。
同期する中国の遺跡から出土したイネ=中粒種と短粒種が約半々の割合で混交
日本の最古水田で出土した日本最古の人用の耕作用農具=エブリとクワ(スキはまだない)
同期する中国の遺跡から出土した人用の耕作用農具=石耜と石鋤(エブリもクワも存在しない)
. 農機具のことばかり書いているが、
イネ自体に残された遺伝子から系統解析を行う研究が、
続けられており、その系統研究からは中国の長江下流域から
直接に稲作が日本に伝播されたとする説が支持されている
平野 智之、飛奈 宏幸、佐藤 洋一郎、『日中韓の水稲品種のマイクロサテライト多型』 育種学研究 Breeding research 2(2), 233, 2000-09-25
大越昌子、胡景杰、石川隆二、藤村達人、「マイクロサテライトマーカーを用いた日本の在来イネの分類」育種学研究 Vol.6 (2004) No.3 P.125-133
Ayahiko Shomura, Takeshi Izawa, Kaworu Ebana, Takeshi Ebitani, Hiromi Kanegae, Saeko Konishi & Masahiro Yano,
Deletion in a gene associated with grain size increased yields during rice domestication. Nature Genetics 40, 1023 - 1028 (2008) >>474はいまいちだな
他に>>473へのツッコミは無いのかよ〜 >>469
なるほど。わかりやすいw
長崎県埋蔵文化財センターの古澤義久さんが書いてたよ。
韓国と共同研究でもしてるのかしらね。サンクス! >>467
蓋国 在鉅燕南倭北 倭属燕
朝鮮 在列陽東 海北山南 列陽属燕
でしょう。
地名としては燕だけは概ねの場所が特定できる。
倭が日本列島含むなら蓋国は朝鮮半島、
朝鮮は衛氏の朝鮮=遼東
列陽は遼東半島かな?
倭属燕 なら
倭人伝読む限り九州や日本の話じゃない別国。
でも、山海経は倭人伝の侏儒國みたいな辺境奇譚が趣旨で
地理認識も方角も時系列も適当なのではないかな? 衛氏挑戦は遼東じゃなか今の北朝鮮
列陽は列水の北、列水は今の大同江だというのが定説 >>494
今日はウランちゃんじゃねえのかよw
朝鮮が遼東で蓋国が朝鮮半島なんかwww
なるほどそういうわけか
蓋国って何からきたんやろ? 486-487で「人用の」耕作用農具と俺がわざわざ書いたのは、
中国には牛耕があったからなんだわ。
それに使われた「牛用の」耕作用農具は「石犂」という農具です。
もちろん伝わってはいませんw
>>488
何で粒種について一切触れねえんだテメエは?
都合の悪い情報は一切隠蔽して、都合のイイ情報だけをバカに何万回も唱え浴びせて
詐欺を成功させるのが、おまえら中華ブタのやり方なw
日本ではそういうのを詐欺と言うんだぞ。 >>492
ああ、そいつか。
困った輩だな。
朝鮮半島全体で10基も出土例がないものが朝鮮半島の土器文化であるはずがないんだわ。
そういう一番最初にまず訴えるべき一番重要な情報を一切隠蔽して、欺罔情報ばかりを
カモに唱え浴びせて詐欺を成功させるというやり方、手口が詐欺師の常套手段。
488をご覧なさい。
イネの粒種について一切隠蔽してますね。
まさにその典型的欺罔手口。 >>496
>蓋国
その具体的な位置については諸説がある。
後の玄菟郡の「蓋馬」(西蓋馬県、蓋馬大山など)とする説、
遼東半島の「蓋平」(現在の遼寧省営口市)とする説、
鉅燕を『史記』の「全燕」と同じとみて、山東半島の「蓋」(現在の山東省淄博市沂源県)とする説、
朝鮮半島江原道の「濊(わい)」とする説、
馬韓の「乾馬」(現在の全羅南道益山)とする説
など。それらの諸説の違いによって、推測される倭の位置も大きく違ってくる。 今だ!500ゲットォォォォ!!
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄∨ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ (´´
∧∧ ) (´⌒(´
⊂(゚Д゚⊂⌒`つ≡≡≡(´⌒;;;≡≡≡
 ̄ ̄ (´⌒(´⌒;;
ズザーーーーーッ >>499
サンキュー!サンキュー!(`・ω´・) σ
濊説もあるのかw
狗邪説とかもありそう 狗邪説はないでしょ
>鉅燕を『史記』の「全燕」と同じとみて、
>山東半島の「蓋」(現在の山東省淄博市沂源県)とする説
これが本命
この場合、倭は淮河流域の「淮夷」のことかな
西周期の「東夷」「九夷」、殷代の「人方」 >>503
大穴に賭けてるんだが!!!!
蓋国は朝鮮半島って言ってたじゃんw(;ω;) >>504
燕と倭の間は? という、設定なら半島
山東半島は辺境かな?
全文読めてないけどw
時代設定もないのかな? >>505-506
燕は山東半島を支配してるよ
山海経は「鉅燕」と書いていて
現代語訳では「巨大なる燕」とか「強大なる燕」と訳されてる
『史記』朝鮮伝では「全燕の時、真番朝鮮を略属す」とあり
「全盛期の燕は真番と朝鮮を支配していた」と訳される
戦国時代末期(紀元前280年頃)に燕の名将として有名な楽毅が率いる五国連合軍
50万が東半島の「斉」の軍20万を撃破し、斉の首都臨淄を陥落させ、莒と即墨の2城
を除く斉の領土を尽く占領した。この頃、燕は「朝鮮」を更に討って朝鮮半島北部も
領有した。また、朝鮮半島南部の「真番」を略属させ、所々に要塞を築き官吏を派遣し
て治めた。以後約5年間、燕は現在の河北省・遼寧省のみならず山東半島と朝鮮半島の
ほとんどを併合していた。
山東半島は辺境ではない。
諸子百家の本場で中華文明の中心といってもよいほど、
戦国時代ではいちばん文明開けていたところだよ。
朝鮮半島のみならずこの山東半島までをも支配した時の燕を
「全燕」(全盛期の燕)とか「鉅燕」(巨大なる燕)とかいうわけだろ
山東半島を支配していない普段の燕を「全燕」とも「鉅燕」とも言わない
だから「鉅燕」の南ってのは山東半島の南の付け根のあたりなんだよ
そこにちょうど「蓋」という都市があったことがわかっている。
それを山海経が「蓋国」といってるけどあの時代に零細な独立国は厳しいだろうから
燕の有力な卿大夫の中に蓋公とか蓋君とか称される領主がいてその所領だったんだろう >>14
で、中国江南地方から肥の国に渡来定着した事を証明する証拠遺跡と、
その生活痕たる三足や耳の付いた中国系生活土器と土壁の中国系住居と
石刃の中国系耕作用農具と中粒種のイネと漢字の金石文と龍信仰と亀卜は?
で、中国江南地方から肥の国に渡来定着したとウソブいている
サギサギ考古学者の氏名と所属団体は?
早く言えサギジジイ! >>326
で、徐福集団が渡来定着した事を証明する証拠遺跡と、
その生活痕たる三足や耳の付いた中国系生活土器と瓦屋根に土壁の中国系住居と
石刃の中国系耕作用農具と中粒種のイネと漢服と木沓と漢字の金石文と龍信仰と
亀卜と日常食の蒸し餃子とワンタンは?
で、徐福集団が渡来定着したとウソブいているサギサギ考古学者の氏名と所属団体は?
早く言えサギジジイ! >>507
ご教示、感謝です。
燕の出自が中原で遼西〜遼東以東の朝鮮に安住した過程ですね。
時系列としては、山海経は秦の統一以前の話で良いのかどうか?
師匠、山海経スレ、全文テンプレでスレ終わるのどうかなwww
いずれにせよ、遺民流入は言われる半島南部と日本列島に中原勢力や北方族は及んでいない。
漢時に楽浪郡を置いた時点では、その燕を出自とする公孫氏が半島北部まで支配する。
南部に進出しなかったのは、倭が煩わしかったんじゃないのかな?
で、 っていうとw
山東半島から、遼東に進出した鉅燕が、三足土器を持ち込まなかった。
これと、日本列島に三足土器が必要なかったのは同じ過程ではないのかな?
という、推測が、土器厨の考古学者には理解できないのかな、
ってことを アタシは言ってるんだけどね。
質問に質問に答えるだけで、板汚し ドンと来い! に甘んじてるだけの
傲慢、土器厨のレイシスト、広鼻先生に聞いているのはこれ。
まあ、答えないんで、
で、っていう(aa略 だけのw
アラシは無視、なんですが・・・
また、かまっちゃったよw よゐこの、みんなには、
またなんだ、すまない このバーボンは( ^ω^)・・・(aa略
回復 乙 蓋国については、後ろに続く文から察するに
>>507の説が概ね正しいように思う。
山海經、海內北經23、24
蓋國在鉅燕南,倭北。倭屬燕。
朝鮮在列陽東,海北山南。列陽屬燕。
上の文は南北に伸びた燕と倭の位置関係(燕〜蓋國〜倭)を示し、
下の文は東西に伸びた燕と朝鮮の位置関係(燕〜列陽〜朝鮮)を示す。
そして、この後に続く文は更に東に進んでいくようだから、
蓋國の位置は、燕から見て南に位置し、朝鮮より西に在ると結論する。 お
新解釈。
もともと倭の字の用法は江南にあって華北に現れないようだから、辻褄は会うね。
鳥越説が補強された格好だけど。 縄文土器はアイヌ人のもので
弥生土器は別民族が渡来して作り始めた説。 >>511
燕が真番朝鮮を略属す。が実際、燕軍の実力行使というか、武力制圧だったか
どうかも怪しいじゃないの。
倭は燕に属する。訳だが、いつ燕の部隊が倭に来て、倭のヒナモリと一戦を
交えたんだ?
単に交渉によって平和的に服属させたケースだったんと違うか?
その場合、人の定着はほとんどないから、燕からの文化移入もないわな。
むしろ、そっちの方が燕にとってもラクだろうし。
で、日本列島に三足土器が必要ないと、どうして分かったの?何で分かったの?
. 縄文時代はこれまでの常識と違って、採集狩猟経済の移動生活ではなく、
農耕を伴う定住生活の側面が強いようだ
そこに、食料として持って来られた稲籾があれば、特に文化を伝える定住民がいなくても、
稲作は始められるだろう
特に陸稲なら普通の畑作で作れる
とはいえ、水田稲作は初期からきちんと畔で仕切って水田を作っているから、水田耕作が
体系として伝わっている様子が窺えるのではあるが 縄文時代にも陸稲はあった。
弥生時代が画期かのは、水田耕作に生活の主軸を移し、それを支える季節の概念やある程度の規模の灌漑技術も同時に伝えられたことにある。
それは指導者層の出現を意味する。 >>518
それでは、その縄文時代の陸稲の証拠現物(稲籾、籾殻、炭化米)をお見せください!
どうぞ! >>516
燕が武力で朝鮮を制圧したわけじゃなくて、
燕からの移民が勝手にたむろしてるところが人口増えたんで
自然にできた自治体が独立国家に成長する前に
役人を派遣して統治下に置いたってことだろう
真番は燕からの移民より原住民の方が多かったから
適当に酋長を任命しといて形式的に臣従させてた程度だろう
倭も同じ、この場合の倭は日本列島じゃなくて
淮河流域の淮夷のこと、真番と同じく
適当に酋長を任命しといて形式的に臣従させてた程度だろう >>521
で、朝鮮・真番に燕からの移民があった事を証明する証拠遺跡と、
その生活痕たる三足や耳の付いた中国系生活土器・青銅器と土壁の中国系住居と
漢服と木沓と漢字の金石文と日常食の蒸し餃子とワンタンは?
. >漢服と日常食の蒸し餃子とワンタン
↑そんなものが支那の戦国時代にあったのかw >>522
考古学的には当時の朝鮮は人口が希薄だったんじゃないの、先住民にしろ移民にしろ。
戦国策の蘇秦の演説内容の記述から岡田英弘は
前4世紀頃には燕は朝鮮を領有していたと判断してる。
これのなにが不都合なのか理解できないんだが。
まさか当時から朝鮮は独立国だったニダ!とかいう話ですか? >>522
俺は>>521だが、>>511じゃないから三足土器の話されても困る
>>511氏は
>山東半島から、遼東に進出した鉅燕が、三足土器を持ち込まなかった。
>これと、日本列島に三足土器が必要なかったのは同じ過程ではないのかな?
と言ってるけど、正直なんのために唐突にそんなことを言ってるのか理解できない。
三足土器なんか興味ないしどうでもよくね? >>511氏の発言はこう↓
>遺民流入は言われる半島南部と日本列島に中原勢力や北方族は及んでいない。
>漢時に楽浪郡を置いた時点では、その燕を出自とする公孫氏が半島北部まで支配する。
>南部に進出しなかったのは、倭が煩わしかったん
>遼東に進出した鉅燕が、三足土器を持ち込まなかった。
>日本列島に三足土器が必要なかった
それに対しての>>516からのレス
>燕軍の実力行使というか、武力制圧だったかどうかも怪しい
>いつ燕の部隊が倭に来て、倭のヒナモリと一戦を交えたんだ?
>単に交渉によって平和的に服属させたケースだったんと違うか?
>その場合、人の定着はほとんどないから、燕からの文化移入もない
ここまでは同意(?)のレス。少なくとも大きく意見が相違してるようにはみえないね
>日本列島に三足土器が必要ないと、どうして分かったの?何で分かったの?
これは>>516氏から>>511氏への質問
>>521(俺)の発言は>>511にも>>516にも大きく相違する内容ではないのだが
三足土器の話はお二人で解決してどうぞ >>523
漢服はBC25C、餃子とワンタンは春秋時代にはすでにあった事が分かっている。
>>524-526
で、朝鮮・真番に燕からの移民があった事を証明する証拠遺跡と、
その生活痕たる三足や耳の付いた中国系生活土器・青銅器と土壁の中国系住居と
漢服と木沓と漢字の金石文と日常食の蒸し餃子とワンタンは?
早く立証しろよおまえ! >漢服はBC25C、餃子とワンタンは春秋時代にはすでにあった事が分かっている。
なんだ既知外か。マジメに相手して損したは ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています