邪馬台国九州説(平原、筑紫、田川)
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たくさんの資料の宝庫九州
さあ語りましょう
畿内説は別のスレでお願いします 本文書き忘れた
この>>3の東し国ってのが
調べてもほとんど出ない
丹波で銅がとれて銅鐸でも作ってたんだろうか? >>2
まぁ、いっぺん騙されたと思うて阿波へきてみない。 本家のすごさがわかるけん。 @阿波 阿波って四国の阿波?
ちょっと街のホームページでも見てくる
四国だけは行ってないんだよなあ@東京 阿波のいくつかのHPと神社の写真見てきた
石積の遺跡はたまらんね
なんか感じるけど
神社はあんまり感じなかったなあ。新しい写真だからかな
でも阿波も魅力的だね
阿波も福岡や奈良と似た地名があるんだね不思議 >>9
>神社はあんまり感じなかったなあ。新しい写真だからかな
そうでしょうね。 実際、小さくて村の鎮守様って感じが多いから。
ところが、神名神社とかご祭神がレアなんだよね。
兎に角、阿波にしかない式内社が非常に多い不思議。 @阿波 奈良と福岡と四国の倭三山を見比べた結果は
福岡田川に軍配だなあ
奈良は山と言えないよ、丘と言うのもおこがましい
四国は山だけど持統天皇の歌と合う感じがしない
田川の香春岳だな、白い衣=石灰や大理石が露呈していた
持統天皇のこればかりはナカナカ偽装出来ない表現力
福岡田川香春岳=1の岳、2の岳、3の岳=
天香山、耳成山、畝尾山 >>11
>四国は山だけど持統天皇の歌と合う感じがしない
>田川の香春岳だな、白い衣=石灰や大理石が露呈していた
辰砂採掘若杉山遺跡の在る徳島県阿南市
ここの石灰や大理石も有名だよ。
国会議事堂の大理石、阿南市産ってこと知ってる? @阿波 >>10いやいや神社が大きいとかは興味ないよ雰囲気が大事だよね
茶色の小さな神社にはムムッと思ったんだが基礎の石が〜
まあ実際行って実物見ないとダメだね
見に行きたい。
もっと調べてみる >>12国会議事堂の大理石
よく知ってるよ、よくそこの交差点を曲がっているからね
でもあの大理石はあまり白くないよ灰色グレーって感じ
裁判所なのにグレーなのかよ白黒にしろよなと仲間内は言っている
香春岳の石灰石は白、純白しかも山に木が少ない山 >>14
>でもあの大理石はあまり白くないよ灰色グレーって感じ
>裁判所なのにグレーなのかよ白黒にしろよなと仲間内は言っている
裁判所? @阿波 うわあ裁判所と国会議事堂間違いました
ごめんなさい
国会議事堂の壁のことかしらん?
あそこは近寄れないからよくみたことないです
多分上質な大理石なんだろうなあ
阿波さんはズバリ卑弥呼は誰と思ってます?お墓はどこと思っていますか?
言いたくないなら秘密でもいいですけど >>14
>でもあの大理石はあまり白くないよ灰色グレーって感じ
大理石は内装材だよ? それ、外装の花崗岩じゃないの?
>裁判所なのにグレーなのかよ白黒にしろよなと仲間内は言っている
裁判所? @阿波 >>16
>阿波さんはズバリ卑弥呼は誰と思ってます?お墓はどこと思っていますか?
卑弥呼は天照大神=大宜都比売=御食津神=豊受大神で表しているのでしょう。
お墓は「天石門別八倉比賣神社」裏手に在る円墳です。
天照大神伝説の地は徳島市国府町「天石門別八倉比賣神社(あまのいわとわけやくらひめじんじゃ)」です。
御祭神は大日孁女命(おおひるめむちのみこと)こと天照大神です。
また、大宜都比売命(おおげつひめのみこと)が祀られているのが徳島の神山町にある上一宮大粟神社(かみいちのみやおおあわじんじゃ)です。
大宜都比売命の別名を天石門別八倉比売命(あまのいわとわけやくらひめのみこと)と言われています。
※「大宜都比売命」=「天石門別八倉比売命」=「大日孁女命」=「天照大神」 @阿波
「八倉比賣神社」
http://kamnavi.jp/en/awa/yakura.htm
「矢野神山 天石門別八倉比賣神社記 寫」
http://awa-otoko.hatenablog.com/entry/2016/09/27/213429 阿波さん松熊神社って本物やん
この辺の古墳の石棺ってあるの?中は朱?
銅鐸は時代が違う気も少ししますけど、銅なんでしょうか >>19
>この辺の古墳の石棺ってあるの?中は朱?
矢野古墳に関しては石棺は無いみたいですね。石室は阿波の結晶片岩(青石)のようです。
石棺のある古墳もあると思いますが、あれば朱が施されているでしょう。
「天石門別八倉比賣神社」がある杉尾山自体がご神体なもんだから、掘り起し調査が出来ません。
>銅鐸は時代が違う気も少ししますけど、銅なんでしょうか
青銅製でしょ。 @阿波 こんな仮説立てたら笑われるかもしれないけど
福岡県みやこ郡→今の京都
福岡県田川郡奈良→今の奈良県
福岡県から引っ越して出来たって閃いたんだけどw
@東京 >>21
阿波國半田町の地名「天皇」 同じ半田町には「京都」「蘇我」「葛城」も。
その対岸の美馬町には「倭大國魂神社」「倭大國敷神社」
この地域だけでもこんな状況。 実に不思議ですね、阿波は。 @阿波 阿波関係のブログなどみてたら寝てしまった
あの小さな祠は本物だね
福岡田川の神社も小さなのたくさんあるみたいだ
それよりユダヤのアーク説にぐぐっときたよ本当かな?
しかし全国にあるアマテラス系の神社とか、どれが最古なのか?
どこに遺体安置とかあるのかねえ?
いやアマテラスだけに限らず全国的全部の神様に言えるんだけど 万葉集を読めば読むほど昔は田川に都があったんだと思う
手持女王の歌は間違いなく田川の河内王の墓
この宮内庁管轄の河内王の墓だって思ったより小さな円墳
田川には他にも伝記のある円墳がたくさんある
阿波にある神社のご本尊や祀られてる神様と同じ神社なら
田川にも同様な神社がほとんどあるね
息永(秋永)ってつく苗字も福岡が発祥みたい
まあ韓国からの外国人なんだけどねぇ.... >>26それは金印の
漢委奴国王の奴国でいいんでないの
漢に委ねられた奴国の王の印
糸島よりスッキリするわ
なんで田川にこんなに古い神社あるのか逆に教えて欲しいです 〇これまで判明している邪馬台国のまとめ
・卑弥呼・台与の一族が後の王権に繋がり、太陽の女神への伝説を生みだした
・女王のシャーマニズム(後漢書:鬼神道能以妖惑衆) の名残が後の天皇家の宮中祭祀
・邪馬台は”ヤマト”と読み中国人の当て字
・邪馬台国はヤマト王権の前身、アメリカも13州からスタートした
・邪馬台国の連合国政権は近畿、出雲〜九州北部の広域を版図とした
https://i.imgur.com/kSa35lq.jpg
・当時の大陸側から見た倭国は南北に長いとされていた
https://i.imgur.com/ACKMZhw.jpg
・邪馬台国連合は次第にヤマト王権へ変貌し、卑弥呼の出身部族のヤマトの名称が引き継がれた
https://www.youtube.com/watch?v=lCefJ4319b8 >>30
>・邪馬台国の連合国政権は近畿、出雲〜九州北部の広域を版図とした
ただし、卑弥呼の時代にそれは無理。
「近畿、出雲〜九州北部の広域を版図とした 」したのは4世紀以降だろう。 @阿波 >>30
>・邪馬台国の連合国政権は近畿、出雲〜九州北部の広域を版図とした
ただし、卑弥呼の時代にそれは無理。
卑弥呼の時代は、倭国(阿波)国内の統一を図る時期。
「近畿、出雲〜九州北部の広域を版図とした 」したのは「倭の五王」以降だろう。 @阿波 >>30誰がこんなデタラメなカキコしたんだよ
阿波さんに退治してもらえ
倭の5王? >>34
>倭の5王?
要は、各地を拓殖時代から支配統治時代へと変わっていった時期のこと。 @阿波 誰か明時代(1500年頃)の
四海華夷総図
を説明出来る人いませんか
これを見ると
倭が九州で、日本は四国?本州? 俺が最大のヒントをやる
卑弥呼の墓は?
台与の墓は?
2つはどこにあるか?離れているのか、並んでいるのか 福永晋三さんって面白いな
考古学の古田って方ともめてんだなw 九州説も中々有力みたいだけど、
3世紀半ばからの古墳の分布を見たら九州では分が悪すぎる。
古墳は稲作が積極的に行われた証。 卑弥呼の死後に周辺諸国が元気になっただけ。
卑弥呼の治世は2世紀末からだから。
3世紀半ばから交流するのは卑弥呼に抑圧されていた地域。 >>39
古墳が本格的に増えるのは4世紀以降だよ
3世紀と思われる前方後円墳は畿内の箸墓より九州の那珂八幡が古いしね
まず、倭人伝の時期は3世紀前半の庄内期
そして、倭国は卑弥呼以前から存在すること
大陸との関係性
それに伴う文化の先進性
西日本という範囲で広域政権が3世紀前半に存在するのか?
以上を総合的に考えたら、畿内はちと厳しいかと
畿内が発展するのは微妙にもう少し後なんだよなぁ >>41
3世紀からだよ。
それは置いといて、
古墳時代前期から古墳は畿内が圧倒的に多い上に、
規模も大きい。稲作の地勢的には九州北部の方が圧倒的に適しているのにね。 >>43
後という程のものではないよ。
魏志倭人伝には載っているものの、
謎の多い三角縁神獣鏡の分布も畿内を中心として見つかっている事からも、やはり邪馬台国は畿内だったと考えるのが妥当か。 そもそも鏡じゃないのでは?
国産の4世紀葬具っしょ。 銅鏡ってのは「鏡」だからな。
中国でも鏡として売られていたわけで、
自分の顔も確認できない凸型のは鏡じゃないでしょ。
単なる葬具だよ。 三角縁は、設計段階から量産を念頭に置いた
4世紀の以降のイ方製鏡です キミらは女性に鏡をプレゼントするのに、何のために贈るんだ?
女王様に贈った鏡で化粧もできないなんてありえない話だ。
銅鏡百枚は、鏡として贈ったのなら、きちんとした凹面鏡。
鋳潰して銅原料として贈ったのなら、なんでもいいが、それなら漢代の中古品だろうな。 以前も誰かが計算してたけど、
青龍三年銘方格規矩四神鏡が直径17.4センチメートル
平原の超大型内行花文鏡が直径46.5センチメートル(直径二寸周径八咫)
青龍三年銘方格規矩四神鏡を鋳潰して超大型内行花文鏡を作った場合、
46.5÷17.4=2.67だから、面積は二乗、厚さは2倍前後として、
2.67×2.67×2=14.25
つまり、15枚の青龍三年銘方格規矩四神鏡で、
1枚の超大型内行花文鏡が作れることになる。
100枚÷15=6余り10
平原遺跡に5枚副葬したのだから、超大型内行花文鏡は1枚だけ伝世。
鋳潰さなかった10枚のうち3枚が見つかっている計算になる。 【八咫鏡】
平原遺跡から出土した5枚の超大型内行花文鏡の直径は46.5cmであり、史上最大の銅鏡である。
径1尺の円の円周が4咫であり、これらの鏡は直径2尺、円周が8咫であることから三種の神器の一つである八咫鏡と考えられる。
神道五部書等によれば八咫鏡は八葉という。
伊勢二所皇御大神御鎮座傳記は伊勢太神宮の宝鏡について「八頭花崎八葉形、圓外日天八座」とある。
八葉とは、鈕孔を巡る八葉座のことであるが、通常の内行花文鏡は四葉座であり、平原から出土した超大型内行花文鏡の八葉座は他に例がないことから、これが伊勢にある八咫鏡と同汎鏡と考えられる。
内行花文鏡は、前漢時代の日光鏡や清白鏡の系譜上にある太陽を象った太陽信仰の象徴である。
三雲南小路遺跡の甕棺墓から発見された内行花文鏡には「見日之光天下大明」という銘文があり、内行花文鏡が太陽光を象った鏡であることがわかる。
内行花文鏡は中国で王侯に下賜されていた形式であり、倭国は内行花文鏡を王権の象徴として漢王朝の冊封の元での祭政一致王権をとっていたことになる。
八咫鏡はニニギら日向王家の象徴であるが、それが日向峠のある高祖山周辺にあったことで、伊都国が記紀に伝えられる倭国の旧都、筑紫の日向であったことがわかる。
伊勢内宮に3回ほど火災があり神鏡が焼失し、作り直された鏡は元の大きさではなくなっているという。
宮中賢所(内侍所)の神鏡も火災に遭い灰となり、安徳天皇とともに壇ノ浦に沈み、それを源義経が八尺瓊勾玉とともに回収したものが、賢所に置かれている。
石凝姥命が八咫鏡に先立って鋳造した同等の鏡として、紀国一宮である日前宮(ひのくまみや)の日像鏡、國懸宮(くにかかすみや)の日矛鏡がある。
伊勢が大和の東の出口、日前は西の出口にあり、伊勢とほぼ同等の力を持っていたといわれている。
筑前国風土記では、沖ノ島辺津宮の神宝も八咫鏡と記録されている。
これらを含めると、八咫鏡の総数は、伊勢内宮、宮中賢所、日前宮、國懸宮、辺津宮、伊都に5枚で、最低でも10枚は存在していたことになる。
この他に日本書紀では筑紫梟帥の神夏磯姫が所有していたことが記録されているが、顛末は記録されていない。 其山丹有の丹って阿蘇黄土のことでしょ
初期の丹は顔や墓に塗る朱色の丹
製鉄に使う為の丹の意味
まだ金メッキの複合として使う為のマアルガム水銀
までは時代的にいってないでしょ
いまだに取れ続けている阿蘇黄土でしょ
阿蘇には鉄が沢山でる古墳が多いらしい
また四国もあるんだよな >>62
ところで、九州の古墳から出る丹は阿蘇黄土なのかね? 推して知るべし。 @阿波 >>63えっ違うの?
阿蘇黄土を焼いたベンガラと違うのですか? 真珠はそのまま。
21世紀の今まで続く、日本の誇る真珠生産の最初期。
青石は翡翠しかない。
縄文時代から日本の特産品。
これ以外という奴がいたら、そいつは日本人じゃない。 真珠もヒスイも「出」
実際に、日本で産出していたわけですな。
だが、丹水銀は、其山丹「有」
有るだけ。
対馬海峡を経て活発に海外交易していた北部九州倭国は、
安価で大量の中国水銀朱で足りていて、自国の水銀鉱山をわざわざ採掘する必要は無かったわけですな。
考古学的にも判明しております。 >>68
>北部九州倭国は、 安価で大量の中国水銀朱で足りていて、自国の水銀鉱山をわざわざ採掘する必要は無かったわけですな。
水銀鉱脈が無ければ、掘削しようにも出来ない訳でw
だから、北部九州倭国の古墳はベンガラ・鉛丹・丹木を使っているんだね。 @阿波 性格には
翡翠に似た石
です
古墳から出る勾玉などをよく調べたら7割以上が翡翠でないんだと
九州産翡翠に良く似た石を分析すると
出雲やいろんな場所で発掘出るらしい
本当の翡翠は新潟くらいしか日本では取れないからね 翡翠に似た石とは緑色をしたクロム白雲母のことですね
翡翠だと思われてた多くの装飾品は熊本県で採れるクロム白雲母製だったそうですね。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています