邪馬台国九州説(平原、筑紫、田川)
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たくさんの資料の宝庫九州
さあ語りましょう
畿内説は別のスレでお願いします >>30
>・邪馬台国の連合国政権は近畿、出雲〜九州北部の広域を版図とした
ただし、卑弥呼の時代にそれは無理。
「近畿、出雲〜九州北部の広域を版図とした 」したのは4世紀以降だろう。 @阿波 >>30
>・邪馬台国の連合国政権は近畿、出雲〜九州北部の広域を版図とした
ただし、卑弥呼の時代にそれは無理。
卑弥呼の時代は、倭国(阿波)国内の統一を図る時期。
「近畿、出雲〜九州北部の広域を版図とした 」したのは「倭の五王」以降だろう。 @阿波 >>30誰がこんなデタラメなカキコしたんだよ
阿波さんに退治してもらえ
倭の5王? >>34
>倭の5王?
要は、各地を拓殖時代から支配統治時代へと変わっていった時期のこと。 @阿波 誰か明時代(1500年頃)の
四海華夷総図
を説明出来る人いませんか
これを見ると
倭が九州で、日本は四国?本州? 俺が最大のヒントをやる
卑弥呼の墓は?
台与の墓は?
2つはどこにあるか?離れているのか、並んでいるのか 福永晋三さんって面白いな
考古学の古田って方ともめてんだなw 九州説も中々有力みたいだけど、
3世紀半ばからの古墳の分布を見たら九州では分が悪すぎる。
古墳は稲作が積極的に行われた証。 卑弥呼の死後に周辺諸国が元気になっただけ。
卑弥呼の治世は2世紀末からだから。
3世紀半ばから交流するのは卑弥呼に抑圧されていた地域。 >>39
古墳が本格的に増えるのは4世紀以降だよ
3世紀と思われる前方後円墳は畿内の箸墓より九州の那珂八幡が古いしね
まず、倭人伝の時期は3世紀前半の庄内期
そして、倭国は卑弥呼以前から存在すること
大陸との関係性
それに伴う文化の先進性
西日本という範囲で広域政権が3世紀前半に存在するのか?
以上を総合的に考えたら、畿内はちと厳しいかと
畿内が発展するのは微妙にもう少し後なんだよなぁ >>41
3世紀からだよ。
それは置いといて、
古墳時代前期から古墳は畿内が圧倒的に多い上に、
規模も大きい。稲作の地勢的には九州北部の方が圧倒的に適しているのにね。 >>43
後という程のものではないよ。
魏志倭人伝には載っているものの、
謎の多い三角縁神獣鏡の分布も畿内を中心として見つかっている事からも、やはり邪馬台国は畿内だったと考えるのが妥当か。 そもそも鏡じゃないのでは?
国産の4世紀葬具っしょ。 銅鏡ってのは「鏡」だからな。
中国でも鏡として売られていたわけで、
自分の顔も確認できない凸型のは鏡じゃないでしょ。
単なる葬具だよ。 三角縁は、設計段階から量産を念頭に置いた
4世紀の以降のイ方製鏡です キミらは女性に鏡をプレゼントするのに、何のために贈るんだ?
女王様に贈った鏡で化粧もできないなんてありえない話だ。
銅鏡百枚は、鏡として贈ったのなら、きちんとした凹面鏡。
鋳潰して銅原料として贈ったのなら、なんでもいいが、それなら漢代の中古品だろうな。 以前も誰かが計算してたけど、
青龍三年銘方格規矩四神鏡が直径17.4センチメートル
平原の超大型内行花文鏡が直径46.5センチメートル(直径二寸周径八咫)
青龍三年銘方格規矩四神鏡を鋳潰して超大型内行花文鏡を作った場合、
46.5÷17.4=2.67だから、面積は二乗、厚さは2倍前後として、
2.67×2.67×2=14.25
つまり、15枚の青龍三年銘方格規矩四神鏡で、
1枚の超大型内行花文鏡が作れることになる。
100枚÷15=6余り10
平原遺跡に5枚副葬したのだから、超大型内行花文鏡は1枚だけ伝世。
鋳潰さなかった10枚のうち3枚が見つかっている計算になる。 【八咫鏡】
平原遺跡から出土した5枚の超大型内行花文鏡の直径は46.5cmであり、史上最大の銅鏡である。
径1尺の円の円周が4咫であり、これらの鏡は直径2尺、円周が8咫であることから三種の神器の一つである八咫鏡と考えられる。
神道五部書等によれば八咫鏡は八葉という。
伊勢二所皇御大神御鎮座傳記は伊勢太神宮の宝鏡について「八頭花崎八葉形、圓外日天八座」とある。
八葉とは、鈕孔を巡る八葉座のことであるが、通常の内行花文鏡は四葉座であり、平原から出土した超大型内行花文鏡の八葉座は他に例がないことから、これが伊勢にある八咫鏡と同汎鏡と考えられる。
内行花文鏡は、前漢時代の日光鏡や清白鏡の系譜上にある太陽を象った太陽信仰の象徴である。
三雲南小路遺跡の甕棺墓から発見された内行花文鏡には「見日之光天下大明」という銘文があり、内行花文鏡が太陽光を象った鏡であることがわかる。
内行花文鏡は中国で王侯に下賜されていた形式であり、倭国は内行花文鏡を王権の象徴として漢王朝の冊封の元での祭政一致王権をとっていたことになる。
八咫鏡はニニギら日向王家の象徴であるが、それが日向峠のある高祖山周辺にあったことで、伊都国が記紀に伝えられる倭国の旧都、筑紫の日向であったことがわかる。
伊勢内宮に3回ほど火災があり神鏡が焼失し、作り直された鏡は元の大きさではなくなっているという。
宮中賢所(内侍所)の神鏡も火災に遭い灰となり、安徳天皇とともに壇ノ浦に沈み、それを源義経が八尺瓊勾玉とともに回収したものが、賢所に置かれている。
石凝姥命が八咫鏡に先立って鋳造した同等の鏡として、紀国一宮である日前宮(ひのくまみや)の日像鏡、國懸宮(くにかかすみや)の日矛鏡がある。
伊勢が大和の東の出口、日前は西の出口にあり、伊勢とほぼ同等の力を持っていたといわれている。
筑前国風土記では、沖ノ島辺津宮の神宝も八咫鏡と記録されている。
これらを含めると、八咫鏡の総数は、伊勢内宮、宮中賢所、日前宮、國懸宮、辺津宮、伊都に5枚で、最低でも10枚は存在していたことになる。
この他に日本書紀では筑紫梟帥の神夏磯姫が所有していたことが記録されているが、顛末は記録されていない。 其山丹有の丹って阿蘇黄土のことでしょ
初期の丹は顔や墓に塗る朱色の丹
製鉄に使う為の丹の意味
まだ金メッキの複合として使う為のマアルガム水銀
までは時代的にいってないでしょ
いまだに取れ続けている阿蘇黄土でしょ
阿蘇には鉄が沢山でる古墳が多いらしい
また四国もあるんだよな >>62
ところで、九州の古墳から出る丹は阿蘇黄土なのかね? 推して知るべし。 @阿波 >>63えっ違うの?
阿蘇黄土を焼いたベンガラと違うのですか? 真珠はそのまま。
21世紀の今まで続く、日本の誇る真珠生産の最初期。
青石は翡翠しかない。
縄文時代から日本の特産品。
これ以外という奴がいたら、そいつは日本人じゃない。 真珠もヒスイも「出」
実際に、日本で産出していたわけですな。
だが、丹水銀は、其山丹「有」
有るだけ。
対馬海峡を経て活発に海外交易していた北部九州倭国は、
安価で大量の中国水銀朱で足りていて、自国の水銀鉱山をわざわざ採掘する必要は無かったわけですな。
考古学的にも判明しております。 >>68
>北部九州倭国は、 安価で大量の中国水銀朱で足りていて、自国の水銀鉱山をわざわざ採掘する必要は無かったわけですな。
水銀鉱脈が無ければ、掘削しようにも出来ない訳でw
だから、北部九州倭国の古墳はベンガラ・鉛丹・丹木を使っているんだね。 @阿波 性格には
翡翠に似た石
です
古墳から出る勾玉などをよく調べたら7割以上が翡翠でないんだと
九州産翡翠に良く似た石を分析すると
出雲やいろんな場所で発掘出るらしい
本当の翡翠は新潟くらいしか日本では取れないからね 翡翠に似た石とは緑色をしたクロム白雲母のことですね
翡翠だと思われてた多くの装飾品は熊本県で採れるクロム白雲母製だったそうですね。 つまり熊本産のクロム白雲母かどうか蛍光x線
で調べていけば九州との交流がわかるかもしれない
とりあえず出雲は熊本産が出ている
畿内説の土器編年なんかより、科学的に調べていくべき
熊本は稲作が盛んで、鉄器生産が盛んで、翡翠もどきも出るなんて、大したものです。
筑紫、出雲、越に加えて、肥国(狗奴国)などが倭国の主要地域だったのでしょうね。
開発が遅れて貧困な奈良盆地との差がさらについた気がします。 【稲作の分布】
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BF%91%E4%BB%A3%E4%BB%A5%E5%89%8D%E3%81%AE%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%81%AE%E4%BA%BA%E5%8F%A3%E7%B5%B1%E8%A8%88
旧国 『延喜式』出挙稲数(束)
◆畿内 2,087,126
山城 424,070
大和 554,600
河内 400,954
和泉 227,500
摂津 480,000
◆西海道 5,990,581
筑前 790,063
筑後 623,581
豊前 609,828
豊後 743,842
肥前 692,589
肥後 1,579,117
日向 373,101
大隅 242,040
薩摩 242,500
壱岐 90,000
対馬 3,920
畿内の開墾が進んだ時代でさえ、九州の方がはるかに稲の収量が多く、より多くの人口を維持できたと考えられる。
弥生時代においては、奈良、京都、大阪などに沼地が広がっており、この差はさらに大きかったと考えられる。
九州ならば、福岡奴国2万戸を含む7万戸を福岡県だけでまかなえるし、熊本狗奴国が邪馬台国に対抗できた理由も説明できる。 >>76
>九州ならば、福岡奴国2万戸を含む7万戸を福岡県だけでまかなえるし、熊本狗奴国が邪馬台国に対抗できた理由も説明できる。
そもそもそれ以前に、九州は「其山有丹」で即、アウト!
よって、最初から邪馬台国論争に参加する資格無し。 @阿波 >>79
>阿波では青石は取れるんですか?
阿波の青石(緑色片岩)ですか? 有名ですよ。 畿内の石棺にも使われています。
「白珠青石」の青石は、その青色片岩中の藍閃石でしょう。 @阿波 『日本地質学会が「県の石」選定
徳島県は岩石が「青色片岩」 鉱物が「紅れん石」 化石が「三角貝」
「青色片岩」は濃い青色が特徴の石。眉山(徳島市)や高越山(吉野川市)でまとまった量が産出し、それらの地域で石垣に使われているほか、弥生時代には石包丁や石おのに活用された。
「紅れん石」は、濃い紅色や桃色をした長柱状の結晶で、眉山を訪れた明治時代の地質学者が世界で初めて発見したとされている。』
実は紅蓮石は、勾玉製作に必要不可欠な石なのです。
島根県立古代出雲歴史博物館によると
@出雲にも「蛇紋岩製勾玉」は出土しているが原石の産地は確認していない。
A出雲の勾玉を作る工程で、内磨き(内側へ湾曲部)の砥石に「阿波の吉野川産」の
紅蓮石を使用している。
「蛇紋岩の製作遺跡」 東みよし町稲持遺跡、徳島市矢野遺跡、上板町七条経塚遺跡
「原石産出地」 徳島県吉野川加茂谷川水系蛇紋岩 @阿波 >>76
あれ?上で時代がどうとか、後世がどうとか言ってなかったっけ。
九州人の九州マンセーは、東北と同質。
中央から離れて居ることによる、染み込んだコンプレックスで見苦しい。 後世の石高を持ち出したり、
古墳時代の熊本古墳の副葬品を持ち出したり、
久留米を邪馬台国にするために熊本を過大評価しようとするから突っ込まれる。 >>83
古墳時代や弥生時代だと関西は九州に比べて開発が遅れていたから石高の差はもっと大きかったはずだよ。 >>82
古代においては九州が中央。
奈良が中央と言い張るのは見苦しい田舎根性。 >>62
「出真珠 青玉 其山有丹」
真珠や青玉は出(採れる)
丹は有(そこにある)
辰砂だと採掘しないといけないから有とは表現できないですね
リモナイトだと地表に露出してますから正に有ですね。 >>81
>阿波の石で作られた宝飾品はあるの?
朝廷の祭祀には玉が祭料,幣帛として使われた。忌部は,大和朝廷が祭祀に必要としたその玉類の生産,調達にかかわっていたとの指摘がある。忌部の祖神である「天太玉命」に玉の文字が含まれていることも偶然ではないはずだ。
「日本書紀」(神代下第九段)に忌部に関する記述があり「…櫛明(くしあかる)玉神を作玉者とす…」とある。「古語拾遺」にも似た記述があり,忌部氏はいろいろな神を率いて幣帛・祭具の生産に従事した。櫛明玉神は出雲国の玉作の祖という。
さて,島根県で玉作といえば,出雲玉作遺跡がある玉湯町,松江市忌部だ。つまり旧意宇郡忌部郷を中心とする地域だった。「延喜式祇式」臨時祭条に「…毎年十月以前令意宇郡神戸玉作氏造備…」とある。
これを「出雲風土記」と照らすと,毎年十月に玉を調達した玉作氏の住む意宇郡神戸が,「和名抄」に出てくる「忌部神戸」であることが明らかになる。つまり出雲の玉作りは忌部が行っていたわけだ。
もちろん,忌部の祖神を祀る天太玉命神社がある奈良県橿原市の近くにも玉作遺跡である曽我遺跡がある。大和朝廷の官立の玉作工房だったようだ。
徳島の玉作遺跡は,徳島市国府町矢野の「矢野遺跡」と三好市三加茂町の「稲持遺跡」がある。両遺跡とも緑灰色の蛇紋岩を使用し,勾玉の製作をしていた。矢野では気延山や眉山から石を運んできたようだ。
時代は矢野が若干古く弥生時代後期後半とみられる。矢野遺跡周辺は,いうまでもなく古代阿波が最も栄えていた土地である。 @阿波 >>88
>辰砂だと採掘しないといけないから有とは表現できないですね
>リモナイトだと地表に露出してますから正に有ですね。
若杉山でも辰砂、露頭してますよ。 正に有ですね。 どうでもいいけど。 @阿波 >>89
3世紀の阿波の石の宝飾品の現物は何処にあるの? 熊本県南部産のクロム白雲母製装身具が盛行するのは九州の縄文後晩期、
弥生早期までに衰退する
大分、熊本、宮崎の各平野部で集中的に出土する
墓から出土するのはごく稀 >>92
クロム白雲母製装身具は最盛期の縄文時代には本州にも輸出されてたようですが
衰退したとされる弥生時代以後も九州内では古墳時代前期の遺跡からも出土してます。 >>92そんな事はない、言いきれる
翡翠勾玉だけでも楽々1000以上発掘されているだろ
それだけサンプルあればクロム白雲母の流通を調べる
価値はある
あなたが言うみたいに
もし古墳時代以前に流通しているなら、
そっちの方が歴史変わるわ 九州における縄文時代の玉類は墓から出土することが稀である一方、
弥生時代の玉類は墓から出土するため、前者は「生者の玉」後者は「死者の玉」とされる。
しかし、縄文時代の玉類が弥生時代になり墓に持ち込まれた例は管見では2例のみであり、
玉類が死者へ副葬される習俗が定着する前に、
既に縄文時代の玉類は使用されなくなっていた。 熊本大学 大坪志子 >>95申し訳ないけど文がわからないので
(菅見では2例のみであり)
菅見ってどこよ? 〔管の穴から見る意〕
@ 見識がせまいこと。
A 自分の知識・意見をへりくだっていう語。 「 −によれば」 菅見ありがとう勉強したよ
中国の玉に熊本県の輸入品があれば面白いのにね >>96
>青玉がない阿波は邪馬台国候補から脱落でOK
で、青玉のあるところはどこかね?
「白珠青石」の青石は、その青色片岩中の藍閃石でしょう。 @阿波 >>91
>3世紀の阿波の石の宝飾品の現物は何処にあるの?
稲持遺跡(徳島県三好郡東みよし町稲持)は、弥生時代後期の玉作遺跡として代表的である。
斉一性の強い小型勾玉の一群が阿波地域を中心に
讃岐地域・吉備地域と西縁・伊予地域・豊前、筑前、肥前地域 に点在しており、石材・色調・形状から特定の場所で作られたと考えられる。 @阿波
蛇紋岩の製作遺跡 東みよし町稲持遺跡。徳島市矢野遺跡、上板町七条経塚遺跡
原石産出地 徳島県吉野川加茂谷川水系蛇紋岩 >>104その蛇紋岩がいろんな国々で見つかってたら
価値も高まるねぇ
出雲は少しづつ色々なものがでるから
大きな集会場だったんだろうか?
やっぱり
出雲>>>>>>>桃の種の県だわ >>105
>その蛇紋岩がいろんな国々で見つかってたら
>価値も高まるねぇ
だから、讃岐地域・吉備地域と西縁・伊予地域・豊前、筑前、肥前地域の国々で見つかってるでしょ。
>出雲は少しづつ色々なものがでるから
>大きな集会場だったんだろうか?
当然、出雲でも出雲忌部がもたらした蛇紋岩製勾玉がありますよ。 @阿波 >>96
>青玉がない阿波は邪馬台国候補から脱落でOK
で、青玉のあるところはどこかね?
いつも、黙り込むんだよね。でOK @阿波 その蛇紋岩が四国産だという科学的証拠はあるか
誰が検証したのかね
残念ながら蛇紋岩は日本全国で取れるんだよ
四国産の検証がみたい
四国を応援するきっかけが欲しいね >>108
>残念ながら蛇紋岩は日本全国で取れるんだよ
四国産の検証がみたい
それは、検証済みかもしれないし、まだ検証出来ていないかもしれない。
一方、蛇紋岩製の勾玉を造っていた遺跡は現在、阿波にしかないのも事実である。
このことから、おのずと蛇紋岩製勾玉が阿波製であると推察されるおでは? @阿波 >>104
吉野川で採取される蛇紋岩は茶色ぽくて青くないのだが? >>96
>青玉がない阿波は邪馬台国候補から脱落でOK
で、青玉のあるところはどこかね?
いつも、黙り込むんだよね。でOK @阿波 >>110
>吉野川で採取される蛇紋岩は茶色ぽくて青くないのだが?
なんで青くなくてはいけないのかな? @阿波 >>112九州の古墳内部の染色に青石色素が使われているから
>>109鉱物の含有率が同じ証拠ないと
これを認める訳にはイカン
九州説だろうと阿波や畿内説だろうと
後付けの編年史を検証したいのさ
本当の事実を知りたいだけ
どこかに秘密の闇があるような気もしている 青玉は翡翠だろ
金銀製品が登場するまでは日本の特産品だ >>114上からスレ読んでこい
本物の硬玉翡翠が日本のどこで出るのか >>115
少量なら各地で出るけど、
考古学的に一言で答えるなら新潟。 議論の前提条件が意味不明なんだが、
魏志「倭人」伝だからな。
北部九州倭国
東に渡海して、日本海沿岸に倭種
考古学的にも日本海沿岸には鉄器その他、
北部九州の文物が弥生早期から伝播している。
倭地の産物には、新潟の翡翠も入る。 新潟は翡翠と奴奈川比売
ここにも大国主が出てくる
大国主は本当に存在したのかなあ? 魏志倭人伝も日本書記もあまり信用してないんだよな(ポツリ)
私が一番信用しているのは万葉集 >>118
>新潟は翡翠と奴奈川比売
>ここにも大国主が出てくる
>大国主は本当に存在したのかなあ?
いたよ。倭国(阿波)にね。 新潟にも忌部の海人が進出している。
新潟の翡翠も持ち帰っている。 @阿波 >>118
人物だったか勢力だったかは別として、
八千矛神だし、最後も矛を譲るんだから、
考古学的には中広型銅矛の指導者だろう。 >>118
存在しなかったと考える理由もないなあ。
当時は朝鮮半島から筑紫に渡り、日本海に沿って出雲から越までの海運が流通の基本で、出雲はその中核に位置していたのでしょう。 >>119
解釈が難しいですが万葉集は改竄とかなさそうなので一番信用できそうですね
2番目は魏志倭人伝で改竄は無いようですが誤記とかありますね
3番目は日本書記で政治的な目的から大規模な改竄があるようですね。
>>124
王統を語る証明書には信用が必要です。
何かを割愛しているのなら、それ以外の部分は逆に正確に書かれているでしょう。
大国主などもそうです。 陳寿は、草書体で下書きを書いたまま
死んじゃってるんじゃね?
三国志に誤記が多いのは、そんなところだと思うの >>126
701年に行政単位が評から郡に変わってますけど日本書紀では評とか無かったことにされてましたからね
この年に大和王権が隠さなければならないような重大な政治変革があったみたいですね
特に600年代の記事とか改竄しまくりみたいですね。 >>126
>大国主などもそうです。
その大国主も唯一、阿波で大事にお祀りしていますから、ご安心ください。
【大国主神を祀る、全国唯一の式内社「八鉾神社」】
徳島県阿南市長生町に鎮座する「八鉾神社」。祭神は大己貴命。延喜式内社である。
この「八鉾神社」には四つの重要文化財が神宝として保管されている。
また「八鉾神社」自体も重要文化財に指定されているので、合計五つの重要文化財を持ち合わせている神社となる。
一つは「大己貴命 木造彫刻立像」
二つ目は「少彦名命 木造彫刻立像」
三つ目が「二品家政所 下文 」
四つ目が「附紺紙金泥法華経」である。
この八鉾神社、阿波では出雲の「杵築大社(出雲大社)」の元社であると伝えられている。
八鉾とは八千矛神(やちほこのかみ)。
出雲の主であり、長(おさ)である大国主神のこと。
大国主神の別名、大己貴神は、長国の偉大な主を意味している。
大国主神は、スサノオ命の子孫で、稲羽の素兎の物語で有名である。
オオクニヌシは、兄さん達から大きな袋を持たされる等、色々のいじめを受けたが、それらの試練を乗り越え、出雲国を治める立派な人となった。
オオクニヌシの子供にコトシロヌシ(えべっさん)と建御名方神(たけみなかたのかみ)がいる。
コトシロヌシは、式内社の事代主神社として、勝浦町沼江と阿波市市場町伊月に祀られ、タケミナカタは、式内社の多祁御奈刀祢神社として石井町浦庄字諏訪に祀られている。
平安時代に記録される3132座の式内社の中に、これら八鉾神社や事代主神社・多祁御奈刀祢神社等の国譲りに遣わされた神達を祀る神社は、阿波にしかない。 @阿波 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています