邪馬台国九州説(平原、筑紫、田川)
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たくさんの資料の宝庫九州
さあ語りましょう
畿内説は別のスレでお願いします >>384
>体にはベンガラ朱、古墳は丹
「其山有丹」の丹が「ありふれた庶民のベンガラ」として、魏志倭人伝にわざわざ「ありふれた庶民のベンガラ」を記載した理由はなんでなんだろう?
ありふれた庶民の物は他にもいくらでもあっただろに。 @阿波 >>385
>まあ見てください
カラフルですね。
古墳に使えばいいのにw なんで使わないの? @阿波 阿蘇の山の一部はベンガラで真っ赤な山になってます
だから遠目で見て簡単に丹有で終わらせたのでは?と推理します
ミョウガや野菜の方が書き込み長い位ですからね
阿波国の水銀丹を体に塗りたくって、健康を害するとは思いませんか?
たぶん、こまめに風呂にも入らず、塗ったままでしょう
口や目、肺にも沢山入ったはずです
そのへんは、どう思われますか? >>388
>阿波国の水銀丹を体に塗りたくって、健康を害するとは思いませんか?
水銀朱を体に塗りたくると有害なのか無害なのか知りませんんが、
貴重な丹を惜しげもなく体に塗りたくる光景を見て、
魏使は肝をつぶしたんでしょうね。 @阿波 たぶん阿波国の水銀朱が使われるようになったのは
金メッキ技術が知れ渡ってからでは?
金メッキ施工する際にアマルガムとして使った
仏教伝来以降の金メッキか砂金取りに水銀として使った
阿波国の丹は、水銀需要で使われた
と推理しました。 邪馬台国の九州説が一気に加速したのは、
吉野ヶ里遺跡の発見からだが、
面白い事に吉野ヶ里遺跡が邪馬台国だと言う人が此処には殆ど居ない。 武器としての鉄器についての言及が有るが、
当時は国内では鉄器は作れなかったので、根拠とするのにはそれほど意味を成さない。輸入品だし。
春秋戦国時代は統一した秦以外は鉄器が主流だった訳だし。青銅に比べると加工が難しいんだよね。 武器に青銅が使われ続けたのは、鋳鉄だからだろ
現に農具は、鉄器が普及している >>392岡本遺跡郡を見てこい
矢じりの型も出ているぞ
剣や鏡の型もな 大和鉱床群 伊勢から紀ノ川河口の間 伊勢神宮と日前国縣神宮が東西の端に鎮座している。
阿波鉱床群 阿波吉野川沿い 若杉山遺跡は古墳時代の辰砂採掘遺跡で石臼石杵が多数出土している。
九州鉱床群 大分市坂ノ市から姶良郡溝辺町丹生附
九州西部鉱床群 佐賀県多良岳から嬉野町、松浦市
現代的な水銀鉱床の調査結果は以上。
九州にも鉱脈はあるが、採掘遺跡が報告されていないのではなかったか? >>395
>阿波鉱床群 阿波吉野川沿い 若杉山遺跡は古墳時代の辰砂採掘遺跡で石臼石杵が多数出土している。
卑弥呼の時代、弥生時代ですよ。
「若杉山遺跡(阿南)坑道発見」
「辰砂採掘 弥生後期 日本最古か」
阿南市と徳島県教委は31日、弥生時代後期から古墳時代初頭にかけ、赤色顔料「水銀朱」の原料となる辰砂が採掘されていた若杉山遺跡(同市水井町)で、
辰砂を採掘していた坑道が見つかったと発表した。これまでは露天掘りなどの手法が取られていたとみられており、
より高い技術が必要な坑道で採掘されていたことは分かっていなかった。日本最古の坑道の可能性があり、今後、詳しく調べる。
遺跡は、太龍寺山(標高618m)の標高約140〜250mの地点の斜面にあり、坑道は約250mの地点で見つかった。
奥行きは約14m、高さは約70〜90cmある。
市が国史跡指定に向けて昨年8月から行った調査では、入り口付近から辰砂の原石が22点、石杵が10点、内部から石杵が12点見つかった。
このため、辰砂の鉱脈を含む岩を横穴式に掘り進んだ坑道だと断定した。
入り口から約50m離れた斜面では、掘削する際に出たがれきなどが捨てられた「ズリ場」も確認された。
その付近で弥生土器の破片が発見されており、坑道も弥生時代に使われていた可能性があると判断した。
市などは来年度以降、坑道内部の調査を本格化させ、時代の特定につながる土器などを探す。付近で他の坑道の有無も調べる。
現在、日本最古の坑道は奈良時代に銅を採掘していた長登銅山(山口県美祢市)とされている。
若杉山遺跡調査検討委員会の大久保徹也・徳島文理大学教授(考古学)は「この時期は、
むき出しの岩を石杵で砕くなどして辰砂を採掘していたと考えられていたため、
これまでの考え方を覆すかもしれない」と指摘している。 徳島新聞 平成30年2月1日 @阿波 >>396高さ90長さ14m
少し物足りない、もっと国内の需要はあったはず
でも次の発見につながる可能性を秘めてますね >>394
それだと青銅と大差無いので、
鉄器が大乱の証拠にはなり得ない。 >>398
誰が大乱の証拠だと言った?
捏造するなよ。
魏志倭人伝に倭人は鉄鏃を使うとあるが、九州には製造工程を含めてザクザクあるのに、纒向にはない。
国内で鉄器が作れないとか、何を根拠に嘘をついているんだ? >>399
あなたが言ったとは言ってない。
鉄器が有ったから大乱が有った証拠とはここで散々出ていたからね。
鋳造では鉄器も青銅器も大して差がないと言うのは前に出た通り。
鉄器が大量にある事が邪馬台国の存在の根拠にはならないという事だけ。 纒向は魏志倭人伝に書かれた邪馬台国と似ても似つかない。 >>402
魏志倭人伝を根拠にするなら、
九州説だと思う方がおかしい。 魏志の邪馬台国は、奄美大島かなんかだろ
あれは土人の国だよ うん、やっぱり水銀朱を体に塗るのはダメだわ
当時は裸足で生活していたので、擦り傷、切り傷が絶え間なくあったはず
そこに水銀朱塗れば、神経障害や身体奇形になったはず
阿蘇黄土ベンガラを塗れば、障害までは起こさなかったと思う
福岡大分県佐賀県熊本県の阿蘇より上部迄は
阿蘇黄土ベンガラ交流あったと推理します >>405
今の知識から見たらヤバイけど当時その知識があったかどうか。
ヒロポンとかも今ではヤバイけど昔は栄養ドリンク感覚だしな。
ベンガラだろうけど >>406
知ってるわけないだろ
中国では仙薬とかいって飲んでたぞ 弥生時代どころか、九州説の爺さま中高の文化祭で赤チン顔に塗って仮装してた世代だろ 秦の始皇帝なんか仙薬と言って水銀飲んで死んだんだよなあ 卑弥呼は天皇の一族だった
↓
天皇凄い日本凄い
↓
俺凄い
ネトウヨが畿内説を支持する心理的構造 >>409
卑弥呼が急に死んだのも魏から貰った水銀朱のせいだろうな。 >>408
そんなのあるのか。
伝統はまだあるんだなあ。 >>405
>そこに水銀朱塗れば、神経障害や身体奇形になったはず
水銀朱を体に塗りたくると有害なのか無害なのか知りませんんが、
貴重な丹を惜しげもなく体に塗りたくる光景を見て、
魏使は肝をつぶしたんでしょうね。 @阿波 しかし倭人が体に朱を塗っても阿波産の朱とは何の関係ないけどな
古墳内部の朱は中華 >>415
>古墳内部の朱は中華
だから、九州は「其山有丹」に該当しないので、邪馬台国論争の資格なし。 @阿波 >>401
>でも鉄器がないなら、そこは邪馬台国ではない。
鉄鏃とかは倭国の話であって、邪馬台国の話じゃないだろ?
倭国の話と、邪馬台国の話は分けて考えないと
例えば、「日本には野生のニホンカモシカがいる」と書いた書物があったとして、
大阪市内にニホンカモシカがいないから、大阪市は日本ではない、ということにはならないだろ? >>417
>倭国の話と、邪馬台国の話は分けて考えないと
王宮を守る兵士のことが書かれているのに、その兵士が持っていたとされる武器の痕跡が全く纒向にないんだよ。 >>418
>王宮を守る兵士のことが書かれているのに、その兵士が持っていたとされる武器の痕跡が全く纒向にないんだよ。
倭国(阿波)にあるんだから、どうでもいいんじゃないの? @阿波 例えば、「日本の山には金がある」と書いた書物があったとして、
大阪市内に金鉱山がないから、大阪市は日本ではない、ということにはならないだろ? >>420
>例えば、「日本の山には金がある」と書いた書物があったとして、
>大阪市内に金鉱山がないから、大阪市は日本ではない、ということにはならないだろ?
倭国(阿波)に「丹山」あるんだから、どうでもいいんじゃないの? @阿波 >>416は>>395を嫁
徳島は諸外国との交流を示せ 其山丹有
丹山有
なんぞに言い換えてる時点で@阿波は説明責任を果たしていないクズ >>422
>徳島は諸外国との交流を示せ
諸外国とは? @阿波 >>423
>丹山有
>なんぞに言い換えてる時点で@阿波は説明責任を果たしていないクズ
「其山丹有」は「丹山有」だから
水銀朱を体に塗りたくると有害なのか無害なのか知りませんんが、
貴重な丹を惜しげもなく体に塗りたくる光景を見て、
魏使は肝をつぶしたんでしょうね。 @阿波 なんか阿波さん飛ばしてますねぇ
阿波さんをそこまで掻き立てる原動力は何?探求心?
四国には中国由来の品物あるんですか >>427
>四国には中国由来の品物あるんですか
倭国(阿波)では、大陸から鍛冶素材を入手して鉄鍛冶を大々的に実施し、中国鏡・中国産朱も渡来している現実がある。
また、朝鮮半島で作られたと思われる青銅鏡や鉄斧も出土している。
「大陸と倭国(阿波)までの流通ルート」が確立されているのは紛れもない事実である。 @阿波 丹山から阿波丹を採掘しているのに
なんで中国産朱が渡来しているの?
きちんと品質管理してた? >>429
>なんで中国産朱が渡来しているの?
景初二年(238) その年の十二月の詔書
「直又特賜汝紺地句文錦三匹細班華ケイ五張白絹五十匹金八兩五尺刀二口銅鏡百枚真珠鉛 丹各五十斤」
により、魏王より下賜された真珠五十斤でしょうね。 @阿波 >>429
>きちんと品質管理してた?
「朱の産地を探る科学のメス」
http://syoki-kaimei.blog.so-net.ne.jp/2011-07-03
「4 萩原2号墓出土の赤色顔料一朱ーのイオウ同位体比分析」
https://docs.com/hiroshi-takahashi/1887
徳島県の萩原2号墓発掘調査記録より
「萩原2号墓出土の赤色顔料―朱―のイオウ同位体比分析」
概要
鳴門市大麻町萩原にある萩原2号墓より出土した朱のイオウ同位体比分析を行い、測定が終った辰砂鉱山鉱石や他の遺跡出土朱と比較した。
イオウ同位体比分析は、朱を構成するイオウの質量数32と質量数34の同位体比を測定し、標準物質であるキャニオン・ディアブロ隕石に含まれる硫化鉄のイオウ同位体比と比較する方法である。
朱は2号墓の粘土床上から見つかった石材に付着していた。イオウ同位体比分析を行ったところ、+8.66%であった。
古代日本の主な朱鉱石産地である三重県丹生鉱山産辰砂鉱石は-8.82±2.27%(平均±標準偏差)、奈良県大和水銀鉱山鉱石は-2.24%±5.75%、徳島県水井鉱山産鉱石は-4.56±3.86%を示しており、
古代中国の朱鉱石産地と考えられる陝西省旬陽にある鉱山鉱石は+6〜10.5%、貴州省万山特区の鉱山鉱石は+23.9±4.49%であった。
また、徳島の弥生時代週末から古墳時代にかけて朱を採掘した遺跡と考えられている若杉山遺跡出土朱は-6.03±2.88%であった。
従ってこの測定結果から考察すると、萩原2号墓から出土した朱は国内産ではなく中国陝西省産朱が用いられた可能性が示唆された。 @阿波 自領で国産朱の採掘遺跡が見つかったのに
中国朱を敷き詰めた北部九州系墳墓を自慢げに並べる
阿呆 徳島でも賄えないほど
生産量が少なかったんだろうね。 卑弥呼は阿蘇の麓
柿原神社の付近にいたという言い伝えがあるらしい
調べてみたけど田舎だし少しもデータがない
阿蘇の朱や青玉を売って生活費にしてたのかな
卑弥呼には家来が沢山いたらしいから いや畿内説は信用してない
もしかしたら阿蘇はあるなあって聞いて思った 考古学的に倭国女王を示すものが出ないとな。
地元の産物を切り売りするビンボー卑弥呼なんて想像したくない。 >>436
阿蘇は九重にも英彦山にも繋がってるような山だからありえるな。 奈良は百済からの移民が住んでいただけ
これマジです >>439
>奈良は百済からの移民が住んでいただけ
そこへ8世紀に倭国(阿波)から倭人が大挙なだれ込んできた訳ですよね。 @阿波 法隆寺は筑紫から移筑しただけ
奈良は百済の溜まり場
これだけは自信あるで >>441
>法隆寺は筑紫から移筑しただけ
何のために? @阿波 熊本が狗奴国というのは外せないな。
そうすると、邪馬台国はその北だ。 >>441
筑紫法隆寺はどこに建っていたの?
大和の法隆寺と同規模の礎石が残ってるはずだけど >>441
あと法隆寺は何年に誰が大和へ移築したの?
推古朝にはすでに大和に若草伽藍が建てられているから
推古朝より前の時代ってことになるけど 若草伽藍が火災にあった痕跡があるから
それを立て直すときに、
建築中だった観世音寺の一部を
移築したという説が多いね。
法隆寺の五重の塔の建材で
雨風にさらされない場所なのに
長い間雨風にさらされて
風化したものがあったそうだ。
移築元の建物は観世音寺に限らないが
なんらかの建築物から
移築したのは確定している。 古事記に九州の四面として、筑紫国=白日別、豊国=豊日別、肥国=建日向日豊久士比泥別、熊曾国=建日別とある。
肥国は名前が異様に長いのと、名前の中に日向があることから、肥前・肥後・日向にまたがる大きな勢力だった可能性がある。
さらに、魏志倭人伝の中で大きな国として奴国、投馬国、邪馬台国、狗奴国の四国が挙げられている。この四国が上記の四面と重なるかもしれない。(投馬国は行程からも方角からもかなり苦しいけど)。 時代的には弥生前期は川原を利用した
水田だができるところが限られるのと
洪水などで壊滅する危険がある。
弥生中期には扇状地と水路を利用した
丘陵地帯の水田になる。
おそらくは段々畑などもこの時代に開発されている。
弥生後期には低湿地の平野に農耕が進む。
泥濘地に水路を掘り、土砂を田畑に挙げて、
耕作域と水路域を分離するのである。
弥生中期までは丘陵地で比較的標高の高い
熊本平野や大宰府周辺が利用され
弥生後期になると福岡平野や
筑紫平野のような泥濘地に進出する。 >>448
>弥生後期になると福岡平野や
>筑紫平野のような泥濘地に進出する。
で、「筑紫平野のような泥濘地に進出」した民衆の弥生後期の集落遺跡はどこ? @阿波 >>446
観世音寺が移築された可能性があるのは
天武・持統天皇によって再建された現在の法隆寺だろ
厩戸皇子によって建造された法隆寺=若草伽藍は最初から大和にあった
礎石の位置や大きさから検証した論文があるが
観世音寺と法隆寺で一致していないばかりか
法隆寺で使われている瓦に九州産のものが一枚もないことから
現在では否定されてたはず 若草伽藍が消失して
現在の法隆寺が再建されたんでしょうね。
その時、あちこちの余った建材などが
取り寄せられたのでしょう。 >>452
>狗奴国は鹿児島県や宮崎県だろ。
※南の狗奴国(卑弥弓呼勢力)
【勝浦川流域勢力 弥生時代集落】
勢合銅鐸出土地・田浦遺跡・新居見遺跡
【那賀川流域勢力 弥生時代集落】
若杉山遺跡・加茂宮ノ前遺跡・福寺山遺跡・宮ノ本遺跡
【海部川流域勢力 弥生時代集落】
芝遺跡・大里遺跡 ※北の邪馬台国(卑弥呼側勢力)
【旧吉野川流域北岸勢力 弥生時代集落】
東州津遺跡・大柿遺跡・土取遺跡・昼間遺跡(正力地区)・昼間遺跡(天神前地区)・昼間遺跡(西貝川地区)・足代東原遺跡・薬師遺跡・吉水遺跡・田上I遺跡・拝原東遺跡・椎ヶ丸〜芝生遺跡
・西長峰遺跡・北原〜大法寺遺跡・天神山遺跡・金泉寺遺跡・黒谷川宮ノ前遺跡・黒谷川郡頭遺跡・桧はちまき山遺跡・光勝院寺内遺跡・カネガ谷遺跡・桧銅鐸出土地
【旧吉野川流域南岸勢力 弥生時代集落】
ウエノ遺跡・マチ遺跡・須賀遺跡・相知遺跡・井出上遺跡・稲持遺跡・貞光前田遺跡・石井遺跡
【鮎喰川下流域勢力 弥生時代集落】
樋口遺跡・延命遺跡・矢野遺跡・名東遺跡・鮎喰遺跡・庄遺跡・庄蔵本遺跡 クナ国が熊襲国なら、宮崎から鹿児島。
熊襲国でないなら、どっかの豪族だろうけど
証明するのは難しそう。 >>455
>証明するのは難しそう。
クナ国に相応しい弥生後期集落遺跡群がないからね。 @阿波 法隆寺だけでなく般若寺やその他にたくさんの寺院が
奈良や京都に移築されたと思っている
話は逸れるが讃岐山城は九州からの避難場所
九州からの避難した人が四国に流れ住んだと思っている >>457
>九州からの避難した人が四国に流れ住んだと思っている
なんの理由で九州から避難したの? @阿波 邪馬台国は北部九州地域で福岡、佐賀、長崎、大分、熊本だな。 >>459
>邪馬台国は北部九州地域で福岡、佐賀、長崎、大分、熊本だな。
なんか「畿内説」と同じく大風呂敷だね。 @阿波 邪馬台国は筑紫平野東部内陸で、筑後川中流平野と筑後平野内陸部だな。
投馬国は筑後平野沿岸部だな。
奴国は佐賀平野中部西部だな。
不彌国は吉野ヶ里周辺だな。 吉野ヶ里遺跡近辺
伊都国は嘉瀬川扇状地だな。 肥前国庁跡惣座遺跡近辺 >>461
>邪馬台国は筑紫平野東部内陸で、筑後川中流平野と筑後平野内陸部だな。
だから、その弥生後期集落遺跡群はどれ? @阿波 >>447
肥国と熊襲は名前が被っている。
実は肥国の王家が熊襲なんだ。 >>450
瓦は重くて輸送コストがかかるが、そのほかの建材は輸送が可能。 >>463
肥国には豊の字も入っているし、久士も筑紫のクシと見なせば
他の全ての国名を含んでいると見ることができる
これはどういうことだろうか 筑紫の紫は中華の紫禁城からきてんだよ
中華では紫は高い身分の人の記し
日本にも滅多にない紫の地名
中華の影響を受けてたんだね
縁起では、黄泉から帰った伊弉諾尊が禊祓を行った「筑紫の日向の橘の小戸の阿波伎原」がこの地であるとし、宮地は住吉三神が生まれた浜であるという。この宮の神官は、古く、「佐伯氏」であった。
阿波伎原って筑紫にあったんだね 筑紫の日向の阿波伎原って宮崎県じゃないからね
福岡県の日向峠あたり
筑紫の阿波岐原@ | 知っとうや2
アメーバブログの中にあります(うまくコピー出来ませんでした) ついでに上記のブログの写真に三重県伊勢神宮の
元となった福岡県の二見が浦があります
これが元々の伊勢神宮です そうなんやで 福岡は阿波も出雲も大阪も京都も熊野もあるんやで
お隣の大分には吉野もあるやで >>465
なるほど。
クシも入っているのか。
気がつかなかったな。 【筑紫の日向】
そもそも筑紫とは、博多湾を望む高千穂の日向峠周辺のことを指す言葉であったらしい。
それが拡大して博多湾沿岸から有明海沿岸や遠賀川沿岸まで含めるようになった。
こうして成立した倭国は、筑紫と豊国、肥国の連合国家、いわゆる邪馬台国連合であった。
福岡県の高祖山の最高峰は高地山、別名をクシフル山とも言う。
クシフルとは、チクシのフル(村落、国邑)の意味だそうだ。
古事記では天孫降臨の地は「筑紫の日向の高千穂の峰のクジフル岳」とあり、福岡県のクシフル山とするべきだろう。
考古学的にも、三種の神器を伴う弥生墳墓は高祖山の東の福岡平野と西の糸島平野にのみ発見されている。
クシフル山から自分の国土を眺めたニニギの国見の詔に「此地は韓国に向ひ、笠沙の御前を真来通りて、朝日の直刺す国、夕日の日照る国なり」とある。
宮崎県の日向高千穂では意味が通らないが、福岡県の筑紫日向なら朝鮮半島に向かう博多湾に面している。
最初の王墓として福岡平野に吉武高木遺跡(紀元前2世紀)、須玖岡本遺跡(紀元前1〜1世紀)があり、
高祖山をはさんだ西側の糸島平野に三雲南小路遺跡(1世紀頃の王・王妃墓)、井原鑓溝遺跡(紀元1〜2世紀の王墓)、平原遺跡(紀元2〜3世紀の女王墓)がある。
これらの遺跡からは、皇位の象徴とされる三種の神器と同じ剣、鏡、玉があわせて出土する。
倭国王権の起源は稲作伝来と弥生文化発祥の地である博多湾・玄界灘周辺にあったことになる。
漢により冊封された王権の象徴としては他にガラス璧があり、福岡県の須玖岡本遺跡、三雲遺跡、峯遺跡、宮崎県の玉の山遺跡からのみ出土している。
伊都国の三雲南小路遺跡には王と王妃があわせて葬られており、ニニギと木花開耶姫といわれる。
その拝殿である細石神社は江戸時代まで「漢倭奴国王」の金印を保管していたと伝えられている。
伊都国の平原遺跡からは円周が八咫(あた)となる超大型内行花文鏡が出土していて、ニニギがアマテラスから受け取った倭国の王権の象徴である八咫の鏡と考えられる。
高祖山には後世に山頂から山麓までを囲む中国式山城である怡土城があり、その中に高祖宮がある。これが記紀にある高千穂宮だろう。
筑紫の伊都が倭国の王都であり、天孫降臨の舞台、神武東征の出発地、そして倭国女王卑弥呼の都である。 【肥国】
倭国は筑紫を中心に、肥国、豊国、海を渡り出雲、越などから構成される連合国家である。
古くは出雲がその盟主であったが、国譲り以降は博多湾玄界灘勢力である天津神が支配する筑紫(天津国) が盟主となり、対馬海峡の交易と中国との外交は一貫して筑紫(天津国)が独占していた。
筑紫の王族は天津神として九州や本州の王族である国津神と区別された。
国津神には豊国王家、肥国王家、出雲王家などが想定される。
免田式土器に代表される阿蘇の東西にまたがる倭人の勢力が、狗奴国や熊襲、肥国であり、年代や立場により呼称が変化する。
筑紫が博多湾沿岸国家なら、肥国は有明海沿岸国家である。
もともとは有明海沿岸はすべて肥国だったが、筑紫が筑後川流域を吸収して有明海に進出すると、肥国は肥前(佐賀県)と肥後(熊本県)に分割される。
おそらくその過程には、本来は肥国の中心の一つであったであろう筑後山門の出身の卑弥呼が筑紫も含めた倭国女王になったことが関係しているだろう。
卑弥呼は倭国王を継承するために都である伊都に行き、倭国全体を統治した。
特に敵対的だった伊都より北の天津国は一大卒を任命して監視した。
卑弥呼は死後に倭国の都である伊都の平原遺跡に葬られた。
肥国王家の別称が熊襲であり、本貫地は熊本が想定される。
ただし肥前も肥後も筑紫とはやや縁が遠く、その王家は記紀にあまり名前を残していない。
ヤマトタケルに殺された熊襲梟師(くまそたける)の墓は肥前河上にあるという。
ここにある肥前国一宮の河上神社の祭神は、壹與に比定できる淀姫である。
卑弥呼、壹與、熊襲梟師、田油津姫らはいずれも肥国王家であり、倭国王となる資格を持っていたが、最終的に天皇家につながる筑紫日向の天孫族である伊都国王家との関係は必ずしも良好ではなかったため、記紀には卑弥呼の名が記載されていないのかもしれない。
熊襲征伐、田油津姫征伐は、筑紫倭国の内乱を天孫族から見た呼称であったと考えることができる。 >>473>>474なんて纏まった文なんだ。素晴らしい
>>434にも書いたけど、卑弥呼が阿蘇の麓の柿原神社の
近くにいて若宮神社から船で諸国に行っていたって
伝説は当たってるような気がしたわ
海沿いの若宮神社にもそんな言い伝えが書いてありました
しかし、あんな田舎だったとは
もう少し調べてみます >>472
熊本にも氷川町の吉野や熊本市の城南町に吉野山があるね。 >>468
二見ヶ浦も九州には福岡以外にも豊後二見ヶ浦、八代の二見ヶ浦などがありますね
九州と伊勢神宮の繋がりをうかがわせるよね。 >>475
若宮神社ですか。
調べてみます。
伊勢の起源は明らかに九州ですよね。 >>483
>残念ながら津軽は関係ないですね。
それが関係あるのです。
古田武彦氏は偽書であることが明白な東日流外三郡誌を真書と主張しておられました。
古田の電波を信じる人を啓発するためには、彼が東日流外三郡誌wを真書とした黒歴史を周知するべきですね。 古田武彦氏は正しいことも言ってるけど
間違ったことも言ってたな
年寄りだったから一度言ったことはなかなか訂正しない人だった。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています